【挿絵あり】潮風の語らい
——風が……吹いている。
夜風である。潮風である。魚屋のイワシの下に敷かれた氷から放たれたような、冷涼でいて生臭い風が、ダレンの前髪をさらりと梳いた。
額にかいた汗が冷える。ダレンは自身のポニーテールが風の強弱を受けて、軽いシルクのスカーフのように靡いたり、肌触りの悪い綿のようにべったりとうなじに張りついたりするのを感じ、不快に思った。
どうか風よ、ずっと吹いていてくれ。ダレンは懐から瓶を取り出した。中には淡雪を溶かし固めたような、小さな薄荷の飴が数粒入っている。ダレンはそれを一粒取り出して口に放り込んだ。人肌とさほど変わらない温度。ダレンは氷を生み出す魔法を覚えようと決めた。
アルーヴ村から出る船に乗せてもらってから十数時間。船員達とレイとクラブ、そしてダレンは、船の上での最初の夜を迎えていた。ダレンは自身の身体に満ちている熱が、ほんの僅かにぬるくなったのを感じた。
「はあ……」
——ダレンは今から三日前、熱竜の館を出てアルーヴ村へと向かう道中、自身の身体がどんどん熱くなっていくのを感じた。やがて目眩や吐き気がしてきて、コーヒーを飲み過ぎた時のように脳がぎらついて、あらゆる熱を敏感に感じた。その感じ方は地獄と呼ぶに相応しく、人間が興味のあるものを見たときに行う「どんなものか」「なぜそこにあるのか」「どのようにして成り立っているものか」等の思考——つまりは深い思考を、感じる熱全てに毎ミリ秒絶え間なく無理矢理やらされている感じがした。制御不能の思考が高速で巡り続ける感覚は、ものの数時間でダレンを憔悴させた。
しかし、ここで折れないのがダレンという男。彼は騎士達を統べる長として、野戦から心理戦、一癖も二癖もある部下達の管理から山で拾った野生児の教育まで、数々の戦いを乗り越えてきたのだ。これしきの苦悩は日常茶飯事でこそなかったが、そこそこの頻度で味わってきた。なのでいくらでも耐えようがあった。
(今は、大分良くなってきたし……)
良くなってきたというべきか、乗りこなし方がわかってきたというべきか。症状の自覚からもう三日経つ。ダレンは掛け算を習いたての子供が一瞬で暗算ができる数学者になるように、絶え間なく流れ込んでくる冗長で深遠な情報を、ごく微かな直感の連続として処理できるようになっていた。身体の熱も今となっては微熱程度。とはいえ、蒸し暑い船室では大量の寝汗をかいてしまったが。ダレンは長い深呼吸をした。
「ダレン?」
胸がドキリと高鳴った。ぎゅっと眉間に力を込めて動揺を堪える。そして平常心を取り戻すと、ダレンはなんてことなかったかのように振り向いた。軽やかな声の持ち主は、水の深浅が生み出したような見事な色に、オオルリの鳴き声を梳かしたような艶を持つ髪を靡かせた少女だった。ダレンのものとは違う、超えられない性差を見せつけるような美しい髪。彼女のそれはいつ見ても惚れ惚れしてしまう。ダレンは彼女に微笑みかけた。
「やあ、レイ。君も夜風に当たりにきたのかな」
「うん、そんな感じ」
レイはダレンの隣に立った。穏やかでありながら底が知れない濃紺の海を、二人は隣り合って眺めた。
思えば、ノースゴッズで再会してからレイと二人きりで会話をするのは初めてな気がする。いつだって彼女の隣にはクラブが居た。三人で居てもなんだか気まずい感じがして、ダレンから彼女に話しかけることは少なかった。彼女が自分のことをどう思っているのか、それさえもダレンはわからなかった。
「ねえ」
レイの右手がダレンの左手に触れた。甲板の手すりに置かれた手の上に、それよりもはるかに小さく柔らかい手が重なった。
「クラブを落とす方法を教えて」
……予想外の言葉だった。
「クラブのことが好きなの?」
「そう」
「落とすも何も、もう落ちてると思うけど」
「今以上に。もっと彼を落とさなきゃいけないの」
これは、失恋ということでいいのだろうか。それにしては淡白で、なんだか釈然としないのだが。
「私には可愛い以外の取り柄がない」
「……ん?」
「本気で言ってる」
ダレンは左手を強く引かれた。そして、何が何だかわからないうちにたたらを踏み、つんのめった姿勢のまま息を呑んだ。——顔が近い。
「——彼は何か隠し事をしている。それは千年前に起きた事件に関係していること。そして、私に知られるととても都合の悪いこと」
レイは唇に人差し指を当てた。
「彼の好きな私にね」
ダレンはじっとレイを見つめている。レイは少し目を細めた後、目を逸らして頬を染めた。




