地獄行きの喪失と再生
これは、彼女と出会ったばかりの頃の話だ。
「レイ……出ていきたいなら、早く出ていくと良いよ」
俺はそう言って頭を抱えた。テーブルに両肘をついて俯く俺の顔を、「どうしたの?」と彼女が覗き込む。
「そろそろ減点も嵩んだ頃だと思ってね。……君の前では、俺は満点から始まれたのかな。そうだよね、君を保護したのは俺なんだから……」
わざと遠回しな言葉で薄氷一枚の壁を作る。俺は、彼女との共同生活で遂に限界を迎えていた。
——これまでの日々は、さながらジリ貧の鍔競り合いのようだった。
俺はクズだった。少なくとも俺は自分のことをそう思っていて、自信なんてものはとっくの昔に喪失していた。
なのに一丁前に、行き場をなくしたアンドロイドなんてものを保護してしまった。記憶もなく、何もかもまっさらで、この上なく都合の良い存在。そんな彼女にどうしようもない期待を抱いていたのは事実で、薄く脆い「善人」の仮面を自分の面に被せてしまった。
彼女に出会って、数年ぶりに部屋の掃除をした。何もなかった部屋にテーブルや椅子を置いてみた。彼女の為になけなしの金でリュートを買って、贈ってみた。
しかし、ずっと嘘をついていると疑心暗鬼に陥るのが人間というもの。彼女はいつだって変わらない微笑みを俺に向けた。それでも、彼女の隣に本当の彼女が居て、本当の彼女は俺の醜悪さを見透かしているんじゃないかと、根拠のない不安に苛まれた。
だから先ほどの言葉は、彼女のことを案じた風の俺のリタイア宣言だった。
「君の世界はここじゃない。君にとって外の世界は厳しいものかもしれない。それでも、俺なんかとずっと一緒に居る必要はないんだ……だから」
「出て行ってくれ」
その言葉を発してから、長く息苦しい間があった。
「……わかった」
そう言って彼女は目の前を去った。さっさっという足音の後に革の擦れる音がして、扉が開く音がした。
自分の言い渡したことなのに、酷い焦りと祈りを抱いた。どうか出ていかないでくれ。しかしそんな祈りは虚しく、ガチャンと音がして、それきり世界は静まり返った。
俺は部屋の天井を見上げて、しばらく呆然とした。視界がぐにゃぐにゃとして天井の木目が変に見えた。
俺は、長い長い人生でたった一度の、巨大なチャンスを逃してしまったと感じた。
いや、チャンスなんて言い方はおかしい。そんなものじゃない。
たった一人の、心から愛しあえるかもしれなかった存在を失った。
「あああああああ……」
再び頭を抱え、椅子から崩れ落ちて床に丸まる。胎児のようになって、自分の人生の全てを後悔した。
今ならまだ、追いかければ間に合うかもしれない。いや、駄目だ。俺がこんなだから。レイは俺なんかに振り向いてくれない。
(だけど、それでも……)
俺は生気のない足取りで、玄関へと向かった。のろのろと靴を履き、扉の外に出る。
見渡す限り、何の人影もなかった。それでも俺は冬の夜の空の下、頼りない足でレイを求めて歩き出した。
俺は西から東まで歩き回った。夜も明け始めていた。それでもレイは見つからなくて、本当に彼女を喪失したのだという絶望に身をやつして長屋に帰ってきた。
俯いたまま自分の部屋の前まで来て、はぁ、と深いため息をついた。
そのとき。
「クラブ」
聞き間違えようのない声がした。鈴の鳴るような声。俺の視界に見慣れた革のブーツが映って、俺ははやる気持ちで顔を上げた。
——扉の隣に、レイが座り込んでいた。
「レイッッ!!」
俺は駆け寄ってレイを抱きしめた。情けなく涙と鼻水を垂らして、目の前の柔らかく温かな身体にしがみついた。
どうしてアンドロイドがこんなに温かいのだろう。彼女の服は所々ほつれ、汚れ、土や煤を纏っていた。
「クラブ。私、あなたが居ないとダメみたい。ごめんね」
「いい。いいんだよ。レイ、君は、俺が居ないと駄目なんだね……」
俺は人生で一番温かい、いつぶりかもわからない安心に満たされていた。遠い昔からずっと張りつめていた糸が切れた。身体から力が抜けていく。レイに体重を預けていく。俺の意識の糸が、ゆっくりと細くなり千切れていった。
穏やかな日差しの中で死ぬように。そうして俺は、深い深い眠りに落ちた。