熱帯夜ドリームヒルズの
「すみません……」
「は、はい!」
暗闇の奥から先程の女性の声がして、俺は上擦った声で答える。
「突然空が暗くなったもので、まだ明かりをつけていなくて……今つけますね」
その声と共に、ぶわりと部屋中に明かりが灯った。シャンデリアや壁掛けの燭台に一気に火がつき、部屋の全容が明らかになる。そこには洋館の内装と言われて誰もが思い浮かべるような、ごく普通の内装があった。
玄関からまっすぐ伸びるレッドカーペットの先には二階へと続く階段がある。踊り場の突き当たりの壁には芸術的な木彫りのレリーフが飾られていて、逆U字の廊下が壁沿いに続いている。そしてその廊下の分だけ一階の部屋部屋は張り出していて、廊下はその天井を兼ねていた。まさにパブリックイメージ通りの洋館だった。天井から床まで石のレンガ造りである点が恐らく相違点だが、十分普通の範疇と言えた。
そんな内装を目の当たりにして、俺は自分のビビリな性格が恥ずかしくなった。『中には一面の暗闇が広がっていた』? そりゃそうだ。なんせ、ほんの数分前まで空には燦然と夕日が輝いていたのだ。それが一瞬にして曇天に覆われ、かつ俺達という来訪者まで現れたのだから、明かりをつけるのが追いつかなくて当然だ。全く、恥ずかしい。
「ようこそ、私達の館へ」
女性はエントランスの中ほどに立ち、軽く頭を下げた。そして再び顔を上げると、その顔はセピア色の明かりの中でいくらか健康的に見えた。
「何ももてなせるものはありませんが、どうぞ雨が止むまで寛いでいってください。お部屋は二階に客室がございますので、ご案内します」
「お、お待ちください。その前にこの館のご主人にお目通りしたいのですが」
「……せっかくのお申し出ですが、あいにくご主人様は病に伏せっておられまして。あなた方がいらっしゃることは、私が代わりにお伝えしておきますので、どうぞお気遣いなく」
そう言うと女性は階段を登り、踊り場で振り返った。
「ご案内します」
俺達は無言で彼女の後に続いた。
案内された部屋の扉に手をかけ、振り向く。踊り場にある二つの窓には、カーテンがかかっていた。
俺達はそれぞれ一つずつ部屋をあてがわれた。客室の正面の窓、そのカーテンは開いていて、ぼんやりとした光が入ってきていた。
窓辺にはローテーブルと二脚の椅子があり、俺はその片方に腰掛けた。窓から外を眺める。先程までのドリームライクな光景はどこへやら、濃灰色の空に強風が吹き荒び、ヤシの木が今にも折れんばかりにしなって震えて暴れている。窓にバタバタと雨が吹きつけ、恐怖を感じるほどだ。しかし俺はそれを恥じず、しっかりと恐怖を感じるべきなのだろう。
——ここはノースゴッズの南西の果て、ドリームヒルズ。アルーヴ村にそこそこ近く、緯度はノースゴッズとローレアの中間、やや寒冷寄りの場所の筈だった。
このドリームヒルズは「異界」と呼ばれている。なんでも、この場所は本来寒冷である筈なのに、年間を通して異常に気温が高いのだとか。また、不安定に気温が上下し、季節問わず謎の嵐が頻発するらしい。
それら全ての原因は不明だ。アルーヴ村は異界の外に位置しており、本来あるべき気候を享受しているが、村に至るまでの道が異界にある為に来訪者は少なく、周辺の村や街から孤立しているらしい。
俺は椅子から立ち上がり、ベッドへと向かった。白く薄い夏用布団は心地良く、埃っぽさを感じさせない。滅多に使うことのない客室でも、あの女性はきちんと掃除をしているのだろう。そういえば名前を聞きそびれたな。ありがたいことに夕食を振る舞ってくれるらしいから、そのときにでも聞くとしよう……
そう思いながら、俺は浅い眠りについた。
夕日が地平を焼き尽くしている。紫と橙の奇妙な空。じんわりとした熱と浮遊感、顎や瞼に籠った力、寝苦しさ……
俺はハッと目を覚ました。全身が汗でじっとりと濡れていて、その不快さに放心した。あまりの暑さに悪夢を見ていたのだ。悪夢のような場所でまさにその場所の悪夢を見るとは、なんとも不思議な体験をした。
外を見ると、すっかり夜になっていた。今は何時頃だろう? とっくに夕食の時間は過ぎているだろうが、どれぐらい過ぎているのか。俺は慌てて布団を捲り、部屋を出て階段を駆け降りた。




