悪魔的な威風の騎士
そんな俺の想いはつゆ知らず、レイは歩を進めていく。ふと、雑踏の音に混ざって誰かの泣き声が聞こえてきた。高く少ししわがれた声。俺はその声が自分達の向かう先から聞こえてくることに気がついた。
俺達は広場に辿り着いた。行き交う人々の中、噴水のへりにしがみつき、さめざめと泣いている老婆が居る。噴水の中心には悠然と手を広げて立つ男と、彼に縋りつく人々の像が立っている。
俺達が老婆に近づくと、老婆は突然に顔を上げて叫んだ。
「ああっ、テオドア様、私達をお救いください……!」
悲痛な声だった。老婆は叫び終えると、再び噴水のへりに顔を埋めた。
「あの……」
その背にレイが手を伸ばそうとした。——止める隙もなかった。レイは大きな手に押しのけられた。俺はふらついた彼女を受け止め、横暴な人間の顔を見上げた。厭らしく口角を吊り上げた鷲鼻の男だ。彼は俺達に見向きもせず、なんと老婆を蹴飛ばした。
「ブランブル帝国が俺達を助けに来る」
その声は上擦っていて、狂気が滲んでいた。彼の焦点の定まらない目と老婆の目がばちりと合う。
「あなた、ま、まさか……いやあああああ!! スノウダムの人間が、ノースゴッズの領土内にいいいい!!」
「俺達から奪った領土で何が『ノースゴッズの領土』だ! ふざけるんじゃねえ!! お前達はいずれ皆殺しにされる! 全員だ!!」
鷲鼻の男——鷲男が血走った目で周囲を見回すと、広場に居た人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。俺はレイの手を引こうとしたがびくともしなかった。レイは一歩前に出て鷲男の顔をきっと見上げた。
「どんな理由があろうと、泣いている人を蹴飛ばすなんていけないこと。このお婆さんに謝って」
「あァ!? 寝言は寝て言え!! こいつらは俺達の家族を殺し、領土を奪い、全てを奪った侵略者だぞ!? どんな理由があろうと蹴飛ばしたらいけないって? 俺達は蹴飛ばすどころか殺されたってのにか!?」
「レイ、この人の言う通りだよ」
俺はレイの肩に手を添えて揺さぶった。「逃げよう」の合図だ。だって、俺達は彼を止めるべきではない。
この老婆は誰も殺してないかもしれない。しかし、ゴッズランドの軍隊がスノウダムの人々を殺して奪った土地に住んでいることに変わりはない。殺しによって得た利益を享受している時点で、この老婆は殺しをした人間と同罪なのだ。だから老婆は、この狂気に身をやつす程に苦しんでいる男に蹴飛ばされたところで文句は言えないのだ。
「じゃあ、今まさに蹴飛ばされているお婆さんを見過ごせっていうの。殺されるかもしれないんだよ」
そう言うレイの声と瞳は揺らいでいる。彼女の信念が揺らいでいるのだ。俺は彼女の瞳をじっと見つめ、肩を握る手に力を込めた。
俺は弱い人間だ。沢山の人間に貶められ、奪われながら生きてきた。しかし、不老不死として長く生きてきた中で、誰にどう貶められ、奪われてきたのかはよく覚えていない。ごく最近、冒険者ギルドのパーティーの仲間に笑われた記憶がぽつんとあるだけだ。嫌だったことは忘れてしまって当然なのだ。しかし決して癒えない古傷だけが俺の心に刻まれ、弱者としての自認が生まれた。
だから俺は鷲男に共感してしまう。貶められ、奪われる人間に共感してしまう。俺は今、鷲男の深い憎しみと怒りを自分のことのように感じ、無秩序で無謀な復讐を許したいと思っている。鷲男の復讐はいずれ彼自身に返ってくるだろう。しかし鷲男は、そうわかっていても復讐がしたくて仕方がないのだ。俺はその気持ちが痛いほどにわかるのだ。
不思議なことに、俺は鷲男に共感するうちに彼がかけがえのない仲間のように思えていた。だから彼を傷つける者は……何者であっても、許せなかった。
「クラブ……?」
レイが戸惑って俺を見る。肩に爪が食い込んで、彼女は小さな呻き声を上げた。俺は怒りに飲まれていた。だから、鷲男の動きに気づかなかった。
「——てめえらもこのババアの肩持つってんなら、ぶちのめしてやる!!」
鷲男は拳を振りかぶっていた。俺はハッとしてレイを横に突き飛ばしたが、拳は真っ直ぐに俺へと向かってくる。
避けられない。そう思って身構えた瞬間、俺の目の前に美しい灰色がはためいた。
「ここはノースゴッズの領土です。お互い、国境を越えての侵入は禁じられている筈ですよ」
それは艶やかでよくしなるポニーテールだった。鋼のような灰色。ただ一本の髪の束からはあぶれた浮き毛も枝毛もなく、摩擦の代わりに弾力を得たようなその髪は、ヘアゴムで留めるのにさぞかし苦労したことだろう。ポニーテールの結い目を見ると、小さな椿のガラス細工が日に透けて赤く輝いていた。
「なんだあ、てめえ!」
「聖テオドア騎士団の者です。あなたがここに居るということは、我々もまた、スノウダムの国境を踏み越えても良いということで……よろしいですね?」
俺は驚いた。ポニテの衝撃でそいつの首から下の認識が遅れていた。体躯を二回りは大きく見せるであろう黒い鎧。それは「聖」と冠するにはあまりにも悪魔的な威風を放っていた。そんな奴に凄まれ、さしもの鷲男も狼狽えた。
鷲男の手首は騎士に強く掴まれていた。鷲男はその手を振り払おうとした。しかし騎士は離さない。決して離さない。鷲男が一歩後ずさる。騎士が一歩前に出る。
……ダークな灰色ポニテ騎士。もうなんというか、他人の空似かもしれなかったが、俺達はその名前を口にするしかなかった。
「ダレン……?」
俺達の声に振り向いた彼は、驚いたように黄色の瞳を見開いた。




