甘美で、芍薬
ひとしきり笑い合った後、レイは立ち上がった。そしてダレンに手を差し伸べた。「頑張ったね」と言う彼女の表情はやはり慈母だか姉だかのようで——ふわりと涼やかな風が吹いて、死にきっていたダレンの目が見開かれた。瞳孔に小さな光が宿る。
「レイ、あの——」
ダレンがゆっくりと手を伸ばしながら、何かを言おうとした。手と手が触れ合いかけたその瞬間。太陽がぎらりと輝きを増して、世界が白に包まれた。
俺達は思わず目を閉じた。そして次に目を開いたとき——俺とレイは、蒸し暑い森の中に立っていた。
「……帰ってきたね」
「うん」
俺はパン!と両膝を叩いた。角笛、ナイスタイミングだ。あばよダレン。お前にラブコメは百年早い! ……本当に帰ってこれて良かった。
もうあの時代に行くこともないだろう。もしかしたら奴はあの瞬間俺のビューティープリティーレイたそに惚れたのかもしれないが、物理的に会えなければ恋敵も恋敵たりえなあああ恋敵!? 俺は今恋敵と言ったのか!? 違う。俺がレイに抱いているのはもっと複雑で崇高な愛情! ともかく、奴はもう俺にとっての害にはならない。さらばだ! アデュ!
「——ラボが生きていた時代には行けなかったけど、手がかりは得られたね」
え? なんだって? 脳内でダレンを成敗していた俺は、レイの貴重なボイスを聞き逃してしまっていた。断片的に聞こえた言葉を繋ぎ合わせる。えーと、ああ……ラボか。そうだな。俺の渾身の血文字が何の手がかりになったのかはわからないが。
「これで手詰まりかな? 他に何かあてはある?」
「……宗教」
穏やかじゃないな。
「騎士……修道会。ねぐらでの戦いに現れたあの人、シスターみたいな服装をしていた。ゴッズランドに行けば、何かわかるかもしれない」
「……」
……そこに気がついてしまったか。
白く名状し難いものに頭部を覆われたシスター。黒山羊の頭をフローラから奪い、最後の最後に殲滅魔法を発動させた存在。彼女とアンドロイド達にどこまで深い関係があるかは分からないが、追っていけば何かしらの情報には行き着くかもしれない。そしてシスターはシスターなのだから、宗教に関係する場所に行けば彼女について何かがわかる筈、というのがレイの見立てだろう。
いや、ぶっちゃけゴッズランドの道端に俺の過去に関するヒントは落ちていない筈だ。あのシスターは何者なのか、といったことはわかるかもしれないが、それは俺の過去に繋がる直接的な情報ではない。というかそれに関しては俺もわからん。
だから俺達がゴッズランドに行くことによる俺の過去バレに関しては、絶対安心とはいかないが、ほとんど心配しなくて良いだろう。だが、ダレンやジョージの居た時代……スノウダムの征服が行われた時代は……
「……オッケー、ゴッズランドだね。じゃあこのまま森を西に抜けてみようか。そうすればゴッズランドの本国に辿り着ける筈——」
「ううん」
あっさりと提案は切り捨てられた。やはりか。レイが望む場所はゴッズランドの本国ではない。俺はこれからの苦労を察し、やれやれと辟易した。
レイは凜とした声で、薄いピンク色の唇で、俺の望むところでない言葉を紡いだ。
「ゴッズランドの征服地に行こう」
……俺は頷くしかなかった。
——このとき、無理を言ってでも止めておけば良かった。今になって後悔している。
俺達は予想だにしていなかった。あの日あの出来事を経たダレンが、時が経ち、あんな変貌を遂げていただなんて。
それからというもの、レイはずっと何かを考え込んでいた。
俺達は森を東に抜け、北上した。ローレアのはるか北にあるのがスノウダムと、その領土をゴッズランドが部分的に征服して生まれたノースゴッズである。
そこへ向かうまでの間、レイはずっと何かを考え込んでいた。歩くときも、魔物と戦うときも。太陽が天頂に昇る頃、木の陰に腰掛けた俺がせっせと昼食をこしらえ、野原に座り込むレイを呼んでも、彼女は石像のように微動だにしなかった。
「レイ? おーい、レイー?」
彼女の目の前で手を振るが、反応がない。なんだよもう。ガン見しちゃうぞ。
だが、俺の渾身のガン見作戦にもレイは動じず、黒い目の焦点を俺ではない何かに合わせていた。
俺は悩んだ。どうすれば彼女を思考の世界から引き摺り出せる? 今までにも何度かこういうことはあって、何かしらの方法で解決してきた筈だ。考えた俺は、一つの答えに辿り着いた。
「レイ」
俺は努めて楽しげに呼びかけた。
「ご飯を食べたら、『ご褒美をあげる』!」
……ん?
レイの耳がぴくりと動く。彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。一方で俺は、ちょっぴり忘れかけていたことを思い出し、納得していた。
ご褒美をあげるって、俺の口癖か。
レイは俺を見つめたまま、何かを呟いた。
「果たさないと」
その言葉はよく聞き取れなかった。しかし俺が聞き返す前に、彼女は出し抜けに立ち上がった。
……しかし再びしゃがみ込んだ。そして彼女は、俺の耳元でこう囁いた。
「ノースゴッズに着いたら、ご褒美をあげる」
その言葉のあまりの甘美さに、俺の心に色とりどりの芍薬が咲いた。




