【改稿】自由を君に
ライアンは未来ある少年だった。
幼い頃、彼は友人達とかけっこをして遊んでいた。いつも彼のスタートラインは友人達のはるか後方に引かれた。
かけっこが始まると、いわゆるガキ大将が二人、いつも一番を競り合った。実力は五分五分。リフルシャッフルのように互いに雪辱を果たしあったが、いつだって彼らの心の隅にはライアンのことがあった。
ある日、友人の一人の気が緩んだ。スタートラインを引いていた彼は、ライアンのそれをいい加減な位置に引いてしまった。
「スタート」の声を受け、一斉に走り出す少年達。ガキ大将二人が先頭を競り合う。いつもと変わらぬ光景に後方の数人がやれやれと手を抜いた——次の瞬間。
彼らの側を颯が吹き抜けた。ラインを引いた少年は「しまった」と思ったことだろう。
強い秋風を彼は纏った。しなやかな身体が残像を残した。夜空に輝くフォーマルハウト。ライアンは次々に友人達を追い抜いて、馬でいうところの二馬身三馬身、大差をつけてゴールを駆け抜けた。
友人達はしばし呆けた。しかしやがて、顔を見合わせて笑い合った。これはよくあることだった。だからこそいつもライアンのスタートラインを遠くに引いていたのだし、ライアン自身もまた、それを承知していた。
時が経ち、ライアンが背の高い青年になると、更に「センス」が乱れ咲いた。
狭い村のミドルスクールでテストの順位は常に学年一位。ことに魔法学と体育は他の追随を許さず、芸術分野でさえも妙な筋の良さが光った。
徐々に友人達の中心はライアンに変わっていった。気取ったところはなかったが、早熟かつ立派に育った体躯、群を抜いた優秀さ、そして擦れていない真っ直ぐさがあるだけで十分だった。その為、学校が終わるとライアンは必ず遊びに誘われた。しかし……
「すまない。今日も私はねぐらに行くよ」
大抵はそう言って断った。残された友人達は親ガモを失った子ガモのように、そぞろに村の遊び場を目指した。
そうしてライアンは、いつも一人夕暮れの道を歩き、森竜の元を訪れた。
幼い頃からずっとライアンは、森竜のねぐらに足繁く通い、森竜に笑顔を向け続けてきた。森竜は彼のふやけたりんごのような頬が、日に焼けたハリのあるものに育つまでを見守ってきた。こんな物好きは歴代の守り人の中にさえ居なかった。
あらゆる才能を持つ彼は、生まれる場所が違っていれば、素晴らしい学者か何かになれたのだろう。森竜は人類の発展には毛ほども興味がなかったが、いたいけな赤いりんごの彼が、持ち得た能力を伸び伸びと活かし、名声と環境に恵まれた人生を送る……そんなことを想像すると、暖かい気持ちになった。しかしそんな彼の未来は、彼が守り人の家系に生まれたことにより失われていた。森竜はそれを切なく思っていた。
だから、ライアンが十六歳になり、守り人の役目を継承する儀式を行ったとき。
森竜は眼下に跪く彼の額に触れた。すると弾けるようにその背から翼が生え、立ち上る微光の中でばさりとはためいた。
その翼を見て、森竜は行為と裏腹にこう願った。
どうかその翼でどこまでも自由に、広い空を羽ばたいていけるようにと。
とても長い間目が眩んでいた。いや、眩んでいるにしてはやけに眩しくなかった。目を焼くような感じがなかった。ただただ白かった。そして全身の皮膚が象の皮膚のように硬くて、どこか遠くで悍ましい破壊の音がした。
やがてうっすらと白が去り始めた。そして眼下に現れた世界は……
見渡す限りの平地だった。
この草原を中心に、放射状に森の木々や村の家屋が薙ぎ倒されていた。樹木、家屋の木材のどれもが土砂に塗れ、へし折れて、惨たらしい棘を天に向けていた。焼けた臭いも煙の一つも立ち昇っていない。
辺り一面、土と棘のひしめく大地が広がっていた。
「……ゥ」
ハッとライアンは振り返った。神竜樹の椀の中で森竜が倒れ伏している。
ライアンは椀に降り立つと、「森竜様!」と悲痛に叫んで駆け寄った。そしてライアンが森竜の頭にしがみつくと、森竜はうっすらと目を開いた。
「ライアン……すまぬ。お主らを守るので精一杯じゃった……」
その瞬間、三人を覆っていた光の膜が砕けた。三人は辺りがこうなる直前、森竜が防護魔法をかけてくれたのだと悟った。
そしてふと思い至る。クラブが空を見上げると、そこには白く名状し難いものに頭部を覆われたシスターが浮遊していた。
日焼けした修道服は裾が破れ、死人のような色の肌は土と乾いた錆の色に汚れている。そしてその手には黒山羊の頭があった。
一拍遅れてレイもその存在に気がついた。やにわにレイは飛び上がろうとしたが、その背を強い力に引かれた。クラブが掴みかかったのだ。クラブは自分ごと彼女を引き倒して尻もちをつくと、しっかりと彼女を抱き込んだままシスターを注視した。
……シスターはふらりと背を向けて、夜の空を飛び去っていった。
一方で森竜に縋りつくライアンは、彼の溢す声を少しも聞き漏らさないよう耳を寄せた。森竜は顎を震わせて語った。
「わしは……幼い頃からわしを慕ってくれていたお主を、大切に思っていた。竜として、子も孫も持たなかったわしじゃが……お主の成長しゆく様を見て、孫とはこのようなものかと思っていた」
痙攣する瞼から覗く森竜の瞳が徐々に濁っていく。閉じゆく瞼を手で留めようとするライアンに、彼は「よい」と笑った。
「ライアンよ……これからのお主は全くの自由じゃ。お主に授けた加護は消えぬ。その翼で、どこへなりとも、お主の行きたいところへ行くが良い」
その瞳はたった一人の人間への慈愛に満ちていた。しかしふと彼が何かに気がつくと、その瞳は青い悲しみに染まった。
「……ああ、しかし。帰る家さえも消してしまっては……わしにそんなことを言う資格はない……か」
森竜の呼吸が小さくなっていく。その意味を理解したライアンの手のひらから力が抜け、留めるもののない瞼がゆっくりと閉じていく。ライアンはたまらず心から叫んだ。
「いいえ! 私の家は消えていません。この翼がある限り私の家はあり続けます。あなた様は私のかけがえのない家族です。いや……それ以上……そうだ私は、家族や村のみんなよりも……!!」
「ライアン……?」
ライアンは突然に青ざめた。そして唇を震わせて瞼を伏せた。自分の言った言葉が信じられないという風に。
「嘘だ……私は……あんなことをしておいて。あんなことをしておいて私は、家族や村のみんな以上にあなたのことが大切だったのだと……今理解しました。相手にならない人々よりも……私は私の世界でただ一人だけの、絶対に勝てないあなたが一番大切でした。私はこんなにも……グロテスクな人間でした」
ライアンは深く傷ついたように泣き笑った。その涙を見た森竜は目を見開き、僅かに指先を震わせたが、それ以上動かすことは叶わなかった。森竜は口惜しげに眉を下げ、その後穏やかな笑みを浮かべた。
「……そうか。そこまで慕ってくれるか。ならば……長い眠りも、寂しくは…………ない」
森竜は遂に瞼を閉じた。閉じゆく瞼の際で、瞳の輝きが日没のように、最後に眩く光を放ち……儚く暗幕の向こうへと消えた。
ライアンはその場を動かない。しんとした悲劇の幕引きの後、ただじっと夢の名残を眺める観客のように。
そして、そんな彼らを前にしたクラブ。実のところ、彼にはKYの烙印を押されてでも言うべきことがあった。
「あのー、悲しんでるところ悪いけど……」
「大丈夫」
それを制したのはレイだった。読み取れない表情がクラブに向く。
「アンドロイドは呼吸しなくても大丈夫」
「えぇ……」
アンドロイドとは何なのか。クラブはいよいよわからなくなってきたが、今はとりあえず黙ることにした。




