ひんやりとした靄
思わず俺は後ずさった。それと同時に、握りこんだ杖の先がかつん、とカプセルの蓋に触れた。
——その瞬間。矢継ぎ早な音を立てて俺の目の前に数十の光の板が現れた。
赤色の縞模様や三角のマークが板を埋め尽くし、カプセルの隙間から白くひんやりとした靄が噴出される。ハッとする頃には俺の視界は急速に白みだしており、極寒の雲海の中に立たされていた。
反響のような音がして、靄の中からうっすらと人影が現れる。喉にまで絶望が込み上げてくる。——そして一閃、衝撃と熱が頬を焼いた。
「博士!! 襲撃者を発見、撃砕します!!」
狂乱した声を上げたのは相手の方だった。絶叫し、重々しい影がしなやかに振り抜かれる。それは丸太のように太い脚だった。
「う、うわーーーーーー!!」
間一髪で避けた俺は、なりふり構わず駆け出した。勢いよく砕けた壁の欠片を屈んで避け、階段を五段飛ばしで追ってくる相手を突き落とし、視界を我武者羅に揺らしながら、ともかく俺は逃げまくった。
逃げて、逃げて、逃げて——そして遺跡の外に飛び出した瞬間、その追手は鈴の鳴るような声を上げて立ち止まった。
「ここは……?」
俺は牛が潰れるような声を上げて倒れこんだ。
「ねえあなた、ここはどこ? 何か、何か違うの。私が元居た場所と。だけど何が違うのか、思い出せないの」
「場所というより、時代が違うんじゃないかな。君は今、遺跡の中から目覚めたんだよ……」
うつぶせで顔も上げられないまま、胸に渦巻く様々な感情を乗せられない平坦な声で答える。そいつは遺跡を振り返ったのだろう。「そんな……」と声がした。
そうして古代文明の遺物、行き場をなくしたアンドロイドを俺は保護した。
「ふぅ……そろそろ行くか」
そうだ、思い出に浸っている場合じゃなかった。
俺はベッドに放り投げていたザックを拾い上げると、台所から水筒を回収してその中に投げ入れた。最悪な仕事の始まりの合図だ。今日は彼女と遊べる余力を残して帰ってこれると良いのだが。
ガチャリとドアノブを回し、部屋の外に出る。
「——あ、クラブ」
「うおおおおおっ!? レイ、まだそこに居たの!?」
盛大なビビり声を上げてビビり散らした。扉を開けたすぐ右隣には、隣人のお婆さんと立ち話をしていたらしい彼女ことレイが居た。艶めく絹糸を垂らしたようなショートヘア、オニキスの瞳、現代とはやや噛み合わないタイトな装い。肌は透き通るように白く、長いまつ毛はまさしく美少女と呼ぶに相応しかった。
大声に若干引いた様子のお婆さんを見て俺はやっと我に帰った。
「あ、ああ、そうか。今日はベラちゃんの散歩をするんだったね。そうだった。でもベラちゃんは?」
「それが、昨日の夜に脱走しちゃったらしいの。だからまずは探しに行かないと」
ベラちゃんとはこのお隣さんの飼い犬だ。
遺跡でレイを保護した俺は、戸籍も職歴もない、それでいて「アンドロイドとは思えない大食らい」……と自称した彼女に、近所のお年寄りの飼い犬の散歩代行をさせて金銭を稼がせることにしたのだ。
そう、なんと彼女は人間と同じ食事を摂る。摂らなくても生きて(?)はいけるらしいのだが、食事を抜きにすると彼女はしょんぼりしてしまう。
というかそもそも「アンドロイド」とは何なのか。それは彼女の自称である。少なくともこの時代では聞き馴染みのないワードだ。
具体的な説明を彼女に求めると、「半有機半機械生命体」との言葉が返ってきた。更に謎である。だから「アンドロイドとは思えない」と言われたところで、頭にハテナを浮かべるしかないのだ。
まあ、それはさておき……
「それじゃあ、その分代金を頂かないとね。探偵みたいな仕事だから、料金は——」
「……」
……お婆さんにじろりと睨まれてしまった。
「……なんでもないです」
「ん。散歩のお代は貰って帰ってくるから」
果たして昨日の夜から外をエンジョイしているベラちゃんが今日の散歩に付き合ってくれるだろうか。俺ははぁ、と息を吐き、とぼとぼと長屋を後にした。