【追加!】首輪付きの天才
『お兄ちゃん、どうして村を出て行かないの?』
ある日、トレイシーはライアンにそう問いかけた。窓から月光が差し込む廊下で、彼女は明と暗の境目に立ってライアンを見つめていた。背後から小さな笑い声が聞こえてくる。先程ライアンが後にした部屋の中で、弟二人が遊んでいるのだ。しかし彼らの声はどこか遠く、トレイシーは苦しげに目を細めた。
『守り人はあの人のお役目だったのに』
「あの人」とは自分達五人兄弟の長兄のことだ。三番目に生まれたトレイシーは長兄を兄と呼ばない。ただライアンのことだけを「お兄ちゃん」と呼んでいた。
フォレスト家が代々受け継いできた守り人の役目は、長兄が継ぐのが習わしだった。しかし長兄は、次に生まれたライアンが物心つかないうちからその役目を放棄していた。彼は普段は家の離れに籠っていて、たまに外に出ては放蕩し、しばらく帰らないことが多かった。あまりにも姿を見せないので、幼い弟二人はたまに彼の姿を見るとオバケでも見たかのように怖がる程だ。そんな長兄に代わり、守り人の役目を継いだのが次男であるライアンだった。
『あの人、村の外にも行ってるんでしょ。そんなのズルいよ。だってお兄ちゃんは守り人のお役目を継いだせいで、村の外に出ることができない』
『そんなことはないぞ。休みの日はよく村の外に出かけているし……』
『そういうことじゃないの!』
トレイシーは声を荒げた。彼女はかぶりを振ってオレンジに染めた髪を乱し、悔しさに潤んだ瞳でライアンを見上げた。
『お兄ちゃん、滅茶苦茶凄い魔法が使えるじゃん』
『そうでもないぞ。多分、村の外に出れば私ぐらいの魔法の使い手はいくらでも居る』
『違う。絶対そんな訳ない。あんなの伝説に出てくるような魔法だよ。それだけじゃない。お兄ちゃんはなんでもできるし、なんでも凄かった。そんなお兄ちゃんがこんな小さな田舎で飼い殺しにされているのはどうして!? あんなお役目、弟かあたしに押し付ければ良かったじゃん! たかだかこの家に生まれたぐらいで……!』
『トレイシー』
ライアンはトレイシーの両肩を掴んだ。びくりとその肩が跳ね、トレイシーは怯えたようにライアンを見上げた。それが自分に対する怯えではないと察したライアンは、彼女を許し、安心させる為の笑みを浮かべた。
『滅多なことを言うな。森竜様に仕えることはとても名誉なことなんだ。それに私はこの村のみんなのことが好きだ。だから出ていく理由がないんだよ、トレイシー』
ライアンは赤子を諭すように語りかけると、トレイシーの肩から手を離した。しかし彼女はライアンの予想に反して俯き、震え始めた。もしや悲しませてしまったか、とライアンが不安に思っていると、やがてトレイシーはふつふつと煮立つように静かな怒りを口にした。
『……信じられない……お兄ちゃん、お兄ちゃんはどこまで勿体無いの。このクソ田舎にお兄ちゃんは勿体無い。つまらなくて浅ましい人間しか居ないの。大学も冒険者ギルドもない。みんな自分へのコンプレックスを抱えてる。何もかもしょうもなくて、時代遅れで、心躍ることが何一つない』
『……トレイシー?』
『……うん、そうだね。やっぱりお兄ちゃんは凄い。どんな場所も人間も好きになれて、ちっぽけな幸せでも満足できるんだから』
『どういう意味だ、トレイシー——』
『触らないで!』
ライアンは伸ばした手を跳ね除けられた。まるで触れれば何かが移ってしまうかのように。誰かにここまでの拒絶をされたのは初めてだった。ライアンは呆然とした。
『あたしは絶対にこんな場所じゃ満足できない。だから、さようなら』
そう言い残してトレイシーは村を去った。そんな記憶がライアンのざらついた意識の中で蘇っていた。だからライアンは気がつかなかった——視界いっぱいにワームの口腔が映っていることに。
「ライアン!!」
叱咤するような声がして、ライアンは尻尾を凄まじい力で後方に引かれた。そしてその勢いのまま放り投げられ、みるみるワームが遠くなっていく。ライアンの目に、ワームの直前に森竜が躍り出ているのが見えた。
喉が枯れる程に叫んで手を伸ばすが、風圧を受けて翼が開けない。ライアンは隕石のように墜落し、投げられてから一秒も経たぬうちに硬い地面の寸前に迫った。しかしぶつかるよりも早く、まさしく一秒未満のうちに地上から風が巻き上がった。
「受け止めろーーっっ!!」
何が起こったかわからなかった。ライアンの身体は投げ上げのように再び空へ舞い上がり、比較的低空の最高点に達すると、緩やかな速度で落下を始めていた。地上からわあわあと声が上がり、目を下に向けると、働き蟻のような小さな群れがライアンの直下に押し寄せてきていた。ライアンは群れの中に落ちた。
「大丈夫か!?」
稲妻のような記憶がばちりと走る。
『——つまらなくて浅ましい人間しか居ないの』
「……ッ」
ライアンは顔を顰めてしまった。そしてそんな顔を見せたくない一心で俯いたが、ライアンを抱き止めた彼ら——友人達は更に慌てた。
「本当に大丈夫か!? どこかやられたのか!?」
そんな声が苦しかった。




