【改稿】想い、ひそやかに、緑の光
二人は街の外にある高い砂丘の上へと向かった。レイが空に飛び出すと、ライアンもまた翼を生やして羽ばたいた。だが、今となってはライアンの出番はほとんどなかった。レイは自由自在に宙を蹴って飛び回り、やがてくるりと一回転して着地した。
「うむ、もう教えられることはない。ここまで極めた感想はどうだ?」
「稽古って楽しいね」
「そっちかあ」
レイの屈託のない感想に、ライアンはくしゃりと破顔した。時刻は夜。すっかり寒くなった砂漠の中心で、ライアンは「こっちだ」と手招きした。飛び立っていく彼に、レイも再び跳躍をしてついていく。
やがて二人は幽玄な世界へと辿り着いた。小高い砂丘の上から見下ろす、とっぷりと暮れた夜の砂漠——その見渡す限りに無数の緑の光が散らばっている。それらの光は鮮やかだが、周囲の暗闇を照らすことはなく、まるで焚き火から溢れた火花のようにほのかに輝いている。その幻想的な光の色は、いつか彼の吐いた炎の色に似ていた。
「綺麗だろう? あれは蟻塚に集る砂光虫の光だ。かつてこの砂漠の人々はあの光を見て、先祖達が里帰りをしているのだと思ったらしい」
「つまり、幽霊だと思ったってこと?」
「そうらしい」
ライアンは砂の上に腰掛けた。レイもその隣に腰掛けた。絶景を一望する砂丘の上で、二人は肩を並べあった。
「……なあ。私達は、共に沢山の景色を見てきただろう」
ライアンはそっと壊れ物に触れるように言葉を切り出した。レイが彼の方を見ると、優しい目と目が合った。
「一緒じゃなければ見られなかった景色を沢山見てきた。この景色もその一つだ」
「そうだね。景色じゃないけど、生の魚を食べたことは一生忘れないよ」
その言葉にライアンは笑った。そしてレイを見つめ、愛おしげに目を細めると、再び光の海へと向いた。
「こうしていると、まるで……兄妹みたいだな」
「兄妹?」
レイは「兄妹」が何かわからなかった。その概念こそ知っているが、兄の居る暮らしなど想像がつかない。が、目の前の彼にはその思い出があるようだ。彼はしみじみと語り出した。
「私には沢山の兄妹が居る。その中に君ぐらいの……君の外見年齢ぐらいの歳の妹が居るんだ。
ねぐらの近くの村に私の実家があるんだが、週末になると私はそこに帰っているんだ。ある日、私がいつも通り実家に帰ると、彼女は冒険者になると言って荷造りをしているところだった。しかし冒険者なんて危険だし、子供向けの物語にあるような心踊ることなんてない。俺は彼女と大喧嘩をした。
しかしそれでも彼女は出ていった。そしてそれから数年が経ち……彼女は村に帰ってきた」
ライアンは声を弱らせて、思いを馳せるように景色を眺めた。
「それって、今?」
「そう、今だ。今まさに彼女はねぐらの近くの村——フェレトの実家に居て、きっと祖母と兄弟の歓迎を受けていることだろう。しかし私は、彼女に合わせる顔がないんだ。私は彼女の夢を否定した。だから正直、君が旅に出ると聞いてほっとしたんだ。君の旅についていけば、実家に帰らずに済む。彼女のことは愛しているが……私は弱い人間なんだ」
弱い人間。レイはライアンのその言葉を意外に思った。これまでの旅の中で、レイは彼を誰よりも強い人間だと確信していた。天才的な魔法を放ち、空すらも容易く飛び回る味方であり師匠。大きな身体と陽光が弾けるような笑顔は、かえって孤高に見えるほどだった。
そんな彼が妹に対し、弱々しい思いを抱いている。レイはぼんやりと考えた。
(もしも私が、ライアンの妹だったら)
一緒に空を飛び回る。森竜の鱗を逆撫でて遊ぶ。色んな想像が浮かんでは消えたが、どれもしっくりこなかった。そんなレイを憐れむように、砂丘の先で儚げな緑が躍っている。
……幽霊と呼ばれた光達。レイは段々と、あの光の粒の一つ一つが遂げられなかった想いの残滓に見えてきた。そう思うと、ひっそりとした寂しさが寒夜の風に乗って染み渡るようだが、実際はただの虫の光だ。そんな虚しさに感傷が失われてしまったのはレイだけではなく、ライアンも同じだったようで、彼は眉を顰めてこう言い放った。
「なあ、どうしてあんなやつと一緒に居るんだ」
それはレイへの非難ではない。抑えていた焦ったさが思わず顔を出してしまったような言葉だった。
「彼は虫のような男だ。見るからに弱々しく、君の息で吹いて飛ばせるような存在だ。だが、その心の奥底に……邪心の種のようなものがある。それがどのぐらい君の道に障るかはわからないが……悪いことは言わない。君は彼を、傍に置かない方がいい」
「……」
レイは彼の瞳をじっと見つめた。黒い瞳。自分と同じ血を分けたような瓜二つの瞳だ。だが……
「私、万引きしたことあるんだよね」
「……えっ」
彼の瞳が困惑に染まる。
「まだこの世界のことを何もわかっていなかった頃、一人で街を歩いていたんだ。大通りの脇の方を歩いていて、ふと、切り花が山積みのワゴンを見つけたの。……綺麗だったから一束持っていった。そうしたら、ワゴンの側に居た男の人に追いかけられて……」
レイはそのときのことをよく覚えている。激しく揺れる花の香り。怒声とざわめきが響く中、レイは慌てて路地裏へと飛び込んだ。
「振り切るのは簡単にできた。でも、物陰で息を潜めているうちに、表が騒がしくなってきて。町中が泥棒を探していた。
私は何をしたんだろうって、怖くて仕方がなかった。……だけどそのとき、声が聞こえた。クラブだった」
今でも鮮明に思い出せる。目隠しで歩いて道を踏み外してしまったような恐怖。動けなくなり、膝を抱えた自分にかかった、優しい声。
『ここに居た! もう大丈夫だよ、レイ……!』
そのときレイの目の前には、一筋の光が差した。瞼の裏にも眩く映る道標。柔らかい笑みを湛えた青年。レイは彼の手を取って、暗闇の世界を歩き出した。一つ一つ、篝火に火を灯していくように。
「あなたは私の旅についてきてくれる?」
「……」
……ライアンの瞳に同じ景色は映っていない。レイはそっと目を逸らした。しばしの静寂。レイの横顔の透き通るような美しさに、ライアンもまた目を逸らし、片膝の上に置いた拳を握り込んだ。
「……私は守り人だ」
それ以上二人は何も話さなかった。ぽつりと雨の一雫が肩に触れた。ぽつり、ぽつりと。
二人はまっすぐ前を見据えて立ち上がった。幻想的な光の海に砂嵐が起き、光がくすんでいく。昼であれば空は濃い灰に染まっていただろう。しかし夜の乱層雲は、恐ろしくより深い暗黒をもたらし、地面より湧き上がる靄の巨人の姿を曖昧たらしめていた。
「……行こう」
互いに緩慢な構えを取る。二人の心は強敵を前に、最悪なほどにちぐはぐだった。




