帰星光陰
そうして俺達は再び歩き出した。また何かしらの店に入っても良いのだが、とりあえず街の様子を観察がてら歩き続けた。すると、突然に辺りの匂いが濃くなった。ずっと街中に漂っていた、ドブの泥をジャムになるまで煮詰めたような臭いが更にきつくなった。
嫌な予感を感じながら角を曲がると、そこは大通りだった。その先で、何やら悍ましい巨大な塊が蠢いていた。
「……人、なのか……?」
「……」
俺達は言葉を失った。大通りの先を埋め尽くしているのは、黒い泥に塗れた人々だった。彼らは大きな円柱状の建物に群がっていた。人々からはそれなりに離れているのに、凄まじい悪臭が鼻をついた。俺は彼らの方に一歩踏み出そうとして躊躇い、やめた。
「生憎、フレデリックが戻るのは一週間後だよ」
ふと俺達の背後から声がかかった。俺達が振り向くと、そこには元は桃色だっただろうブリオーに身を包んだ少年が居た。長い髪や長い睫毛は中性的というより女性的で、少々不健康な美を感じさせた。例に漏れず、全身が黒く汚れている。
レイが一歩踏み出し、少年の前に立った。俺は二人をしっかりと見つめた。
「フレデリックって誰のこと?」
「君達、知らないの? もしかして不法入国者?」
「違うよ。私達はブランブル帝国への入国を認可された商会の、新しい従業員なの。だから帝国に来るのは初めてなの」
「……そうなんだ」
少年は斜めに俯き、右腕で自分の身体を守るように抱いた。流し目でこちらを見る姿は、本格的に女性のようだ。影のある熟しきった女性。
「フレデリックっていうのは、ブランブル劇場のトップスターのことだよ。僕からトップスターの座を奪った、忌々しい男」
「どんな人なの?」
「流れるような緑の髪の少年だよ。この国の劇では、女性の役は僕みたいな少年俳優が演じることになってるんだけど、彼は男なのに女性のように美しいんだ。演技力も素晴らしくて、彼が劇場に現れてから、この国の誰もが彼に夢中になってしまった」
「そして、あなたは人気を奪われてしまった?」
「そう。今から大体五年前かな……うちの劇団の座長が彼を拾ってきたんだ。彼の顔を初めて見た瞬間、僕は自分の華々しい人生の終わりを悟ったよ。それだけ彼は美しかったんだ。
案の定、彼が劇に参加するようになってから、僕はあっという間に人気を奪われてしまった。誰もが彼に夢中になった。この国のトップスターは彼になった。
その後彼が居なくなって、僕は少し人気を取り戻したけど……また彼が戻ってきて、この有様だよ! 彼が劇に出るのは一週間後だっていうのに、ずっとみんな劇場に張り付いてるんだ! ああ、僕も早く聖女様に会わないと……」
「……僕『も』? 聖女様に?」
「……だっておかしいだろ? 一週間も前から劇場に張り付くなんておかしい。本当にみんな、狂っているんだ」
彼のその口ぶりはまるで、「聖女様」が真に齎すものが何かを知っているかのようだった。叡智と言う名の妄想や幻覚、混乱、そして狂気。
しかしそれでも彼は、「聖女様に会わないと」と言った。つまり彼は、狂ってしまうことよりも……
「——聖女様なら」
少年はやにわに声を張った。ハッと現実に戻された俺に、彼は冷たく微笑んだ。
「頭にリンゴを落とす以上の、素晴らしい解決策を教えてくれるよ」
……それは、どういう意味だろう。呆気に取られる俺達に背を向け、少年は去っていった。
俺はふと足元を見た。何かを踏んでいる。ここは丁度建物の庇の下で、比較的綺麗な地面があった。その地面の上に一枚の紙が落ちていて、俺はそれを踏みつけていた。
俺が足を上げると、レイがそれを拾い上げた。何の変哲もない、無地のポスター大の紙。しかしそれを裏返した瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
「フレデリック……フローラ」
俺とダレンはレイの持つ紙を覗き込んだ。無地の紙の裏側——いや、表側は、あの劇場の広告だった。
『ブロッサム一座が演じる喜劇 主演:フレデリック』
黒のインクで描かれた主役の人相は、間違いなくフローラだった。




