黒獄
さて、それから俺達は三日間、ウッド商会の建物の中で過ごした。そしてそれから樽に詰められ、サンズウェイを出て、一ヶ月程窮屈な思いを続けたのだが、それは思っていたよりも悪い生活ではなかった。夜になれば解放されるし、商会のメンバー達も気さくだった。客人ということで、ちょっと良い食事を頂けたりもした。
そしてブランブル帝国の城壁が見えてきた頃、遂に俺達は仮死魔法をかけられることになった。
「じゃあ、かけますよ。体勢は大丈夫そうですか?」
「はい、大丈夫です! 一思いにやっちゃって下さい!」
ノーマンが苦笑いして、樽の中の俺に手を翳した。魔法陣が鈍く輝く。
(お、これが仮死魔法か……なんだかんだでちょっとわくわくするな。俺死なないし。意識に靄みたいなのが入ってきた。すごっ、これが死ぬ感覚? わー、なんかおもしr)
「起きて下さい」
「へあっ」
意識が途切れたと思った次の瞬間、俺はノーマンの声で目を覚ました。慌てて見上げると樽の蓋が開いていて、見知らぬ暗い部屋の天井が見えた。本当に突然、思考の途中でコンマ一秒の断絶が入って次の瞬間にはノーマンに起こされていた。
「おお、一瞬で起きましたね。ここまで寝起きが良いのは珍しいですよ。慎重に出てきて下さい」
俺は混乱しつつも、ノーマンの言葉に従って樽を出ようとした。しかし、身体を動かした瞬間に全身に激痛が走った。滞っていた血がどんどん巡りだして、心臓が早鐘を打って、訳がわからなくなる。俺は中途半端な姿勢のまま樽ごと前に倒れた。
(マジで五日間死んでたのか……)
俺は身体に気を遣いながら、ゆっくり、もぞもぞと樽を這い出た。立ち上がり、蓋の開いた二つの樽の中を見下ろす。そこには眠っているのとはまた違う、完全に呼吸をしていない、生気のないレイとダレンが入っていた。
俺は二人の死体を見下ろした。もちろん、不愉快な感じがした。さっさと二人にも起きてもらおう。ノーマンは俺に気付け薬を渡してきた。
仮死魔法の仕組みは俺も初めて知ったのだが、どうやらこれは維持魔法ではなく単発魔法らしい。「仮死状態を維持する魔法」ではなく、「仮死状態にする魔法」らしいのだ。だから仮死魔法をかけられた人間は、単純な魔法の解除によって起きる訳ではない。
ではどうするのか。この魔法による仮死状態は時が止まっている状態に近いらしく、外部から強い刺激を与えれば起こすことができるらしい。地道に揺さぶったり、ビンタしたり、気付け薬を嗅がせたりというのが正規の起こし方らしいのだ。(もちろん本当に時が止まっている訳ではないので、五日間も同じ姿勢で居れば全身は痛くなる)
なので俺はノーマンと一緒に、二人に呼びかけたり気付け薬を嗅がせたりした。しかし、先程のノーマンの言葉は本当だったらしい。俺達があれやこれやと試しても、二人は全く起きる気配がなかった。それでもなんとか二十分後、俺達はレイを起こすことに成功した。
「……夢を見たの……博士とフローラの夢……」
「えっ、フローラの? どんな感じだった?」
「……」
レイはぼんやりとした様子で、何も答えなかった。まだ血が巡りきっていないのだろう。俺はひとまず夢のことは置いておき、ダレンを起こすことにした。
そうして、最終的に四十分はかかっただろうか。意外にも一番のねぼすけだったダレンがゾンビのように呻きながら樽から這い出して、ようやく全員が起床となった。
「さて、僕の役目はここまでです。この度はお取引頂き誠にありがとうございました。みなさんの後ろの玄関を抜ければ、そこはもうブランブル帝国の領内ですよ。どうかご無事に」
「ありがとうございました。ノーマンさんも、お気をつけて」
眉を下げて苦笑するノーマンは、いかにも平凡な善人に見えた。もちろん俺から彼への悪印象など一つもない。俺達は彼に頭を下げ、玄関の扉に手をかけた——そのとき。
「ッ、お待ちください!」
ノーマンが叫んだ。俺達が一斉に振り返ると、ノーマンは何やら慌てていた。
「危ないところでした。僕としたことが……申し訳ありません。ダレン様の見込み通り、外には『酷い雨』が降っています。どうか雨避けのローブと手袋、長靴を身につけていって下さい」
「『酷い雨』……そうですか。わかりました。ご厚意に感謝します」
ダレンは虚を突かれた顔をして、深く頭を下げた。そして顔を上げると、神妙な様子でザックを降ろし、中から青いローブと手袋と長靴を一式ずつ取り出して俺とレイに手渡してきた。
「な、なんだよこれ……」
「しっかりローブを着て、フードを被るんだ。下の服も前を閉められるなら閉めて。手袋をして、長靴を履くんだ」
俺とレイは戸惑いながら、ダレンの言う通りにした。ローブを羽織り、肘まである手袋と、膝まである長靴を身につけた。
「ちゃんと着た? 扉を開けるよ。絶対に雨に触れないように」
「待てよ、その前に説明してくれよ! 酷い雨ってどういう意味!?」
「今にわかるよ」
ダレンは有無を言わさず、それでいて慎重に扉を開いた。そして、外の景色がちらりと見えた瞬間——弾幕のような音が俺の鼓膜を打った。
「な、なんだよこれ……」
——一寸先も見えない程の土砂降りの雨。色を抜き取ったような灰色の街に、黒く粘っこい泥のような、酷い悪臭を放つ雨が、肥溜めをひっくり返したように降りしきっている。
異界の豪雨の何倍も激しく、見渡す限りに隙間なく汚泥が降り注いでいる。耳を塞ぎたくなるような騒音を立てて、道路に石油をぶちまけたような川が流れている。明らかに異常な光景がそこにはあった。
「歩きながら説明しようか」
そう言ってダレンはもう一度ノーマンに頭を下げ、一歩外に出た。蛮勇なんてもんじゃない。俺は怯えきってダレンの様子を伺った。一歩、二歩とダレンが進んでいく。……ええい、ままよ! 俺もまた一歩踏み出した。ジャリ、と靴の裏で泥が擦れた。
弾幕のように降りしきる雨に肌で触れないことなど不可能なように思われたが、しっかり着こんだお陰で割となんとかなりそうだ。だが、ローブや服に水分が染み込んでくるのも時間の問題だろう。俺は振り返り、玄関の内側に立つレイに「転ばないように気をつけて」と言った。レイもまた、一歩外に踏み出した。




