虎穴に入り、飲み尽くせ
暗い階段を上がっていく。真っ黒なダレンの姿が暗闇の中で蠢いて、何かを脱いだ。何かを取り外した。そうして月明かりの届く地上まで戻ってきたとき、振り返った彼はキャスケットも眼鏡も身につけていなかった。
「これも取り外さなきゃ」
ダレンはそう言って左の手首に手をかけようとして、一瞬だけ固まった。しかしすぐに指をヘアゴムに滑らせ、取り外したそれをポケットに仕舞った。
「ダレン——」
「ごめんね、俺が不甲斐ないばかりに。イメチェンして、らしくもなく舞い上がっちゃって、隙だらけで……何かと失格だ」
その何かというのは、何なのだろうか。
「気にすんなよ。誰だって舞い上がることぐらいあるし、ミスだってする! っていうか、なんであいつ、ヘアゴムまで見てるんだよ。もしかして変態なんじゃねえの? キモッ!」
俺はダレンの背中をバシバシ叩きながら、わざとふざけた調子で慰めた。「……観察は諜報の基本だよ」とダレンは力無く苦笑し、答えた。
「はぁ、手のひらの上で転がされちまったな。無理矢理交渉の舞台に引き込まれてしまった」
「そうだね。ブレッドに対して、今の俺達はかなり不利な状態だ。俺達はブレッドのことを何も知らないし、おいそれと得体の知れない話に乗る訳にはいかない。明日はブレッドについての情報を集めよう。彼もきっと、それを承知の上だろうし」
ダレンは悔しげに拳を握り込んだ。俺達がブレッドのことを嗅ぎ回れば、彼はどこからともなくそれを知り、なりふり構わない俺達を嘲笑うだろう。なんとなく、彼はそういう男のような気がする。
しかし、恥を恐れてはならない。恥を捨て、虎穴に飛び込み、必死に泥臭いものを積み重ねた人間こそが大成するのだ。
「まだまだ若輩者なお前もきっと、今回の失態を糧に立派な騎士団長になるだろうな」
「……失態の先に未来があれば、ね」
「——ダレン」
沈痛に俯くダレンの手を、レイが両手で包み込んだ。
「例えこの先ブレッドに私達が騙されることがあっても、私はダレンを信じてるから」
ダレンは顔を上げ、レイを見つめた。目を見開き、ぱちりと瞬きをした。
そして、柔らかく頬を染めて笑った。
「ありがとう」
……その晩、俺は目を覚ました。
燭台の火が宿の室内を照らしている。俺の右隣、窓際のベッドで眠るダレンの顔が目に入った。しっかり目を閉じて眠っているが、眉間に皺が寄っている。
俺は彼の眉間に指を当て、何度か押し込んだ。しかし皺の様子は変わらない。
俺は彼の顔にかかる、短くなった髪を撫でた。染めたことにより、少しだけ荒れてしまった髪。
「前の方が似合ってたぞ」
俺はあくびをしながらトイレへと向かった。
翌日、俺達は街で調査を始めた。
まずは例のサロンについての噂を聞いた。ブレッドの関係者から調べていく作戦だ。その結果、かのサロンは上流階級の人々が訪れる高級娼婦・ヴェネッサの邸宅だということがわかった。下流・中流階級の人々は稀にサロンの噂こそ耳にすれど、どのような人物が訪れているのかまでは知らないようだった。
であれば、上流階級の人間に接触するのみだ。俺達は下流階級の人々が住む地域の酒場に現れるという、物好きな貴族の噂を聞いた。一か八かその酒場に向かうと、まさにその貴族が食事をしているところだった。
「俺はな、物好き貴族の噂を聞きつけてやってきた物盗りだか殺し屋だかを捩じ伏せてやるのが好きなんだよ! キデンらもその口か、ええ!?」
およそ貴族とは思えない口ぶりの毛むくじゃらマッチョ男にそう言われ、俺達は耳を疑った。豊かな髭の下から白い唾を飛ばして、乱暴に机に足まで上げるのだからもうたまらない。ダレンが「飲み比べをしましょう」と言い、俺を男の前に突き出した。俺は擬態するコノハズクのように縮み上がった。
しかし、そんな俺をレイが押し退けた。
「レイ……?」
レイは男の対面に腰掛け、こちらに向かってピースをした。あれ、レイってお酒……飲んだことあるっけ?
「大丈夫。私はアン……んんっ、アレだから」
ウェイターが大きな樽のジョッキを運んできた。周囲の客達から歓声が上がる。
「いざ、勝負!」
ダレンの掛け声で勝負が始まった。俺は両手を組み、レイの無事を祈りながら勝負を見守った。




