ばぁーか!
赤い塗装の禿げた扉を開き、中に入る。まっすぐ進んでカウンターに辿り着くと、受付嬢に「個人的な旅をするんだけど」と話した。なんてことはない。俺は羽ペンと紙を受け取って、さらさらと拠点変更の申請書を書き始めた。
これもまた、冒険者にはよくあることだ。冒険者というものは危険な仕事で、職にありつけないならず者、戸籍のないスラム出身者などの受け皿となっている。
しかし中には、まだ見ぬ世界で名を上げることを夢見てその門を叩いた、真の「冒険者」が居たりする。そいつらはやたらと世界を流浪したがり、どの拠点にも専属しないというこんな申請書を書いたりする。
大抵は温室育ちで世界を知らない酔狂な貴族、故郷の友人を連れたド田舎育ちの坊っちゃんなどだ。いずれにせよその瞳には、川の下流の石のような角のない「希望」が宿っている。
その中には本当に何かしらの功績を上げる者も居るようだが、少なくとも俺達はそちら側ではない。
俺は簡単に申請書を書き上げると、レイに「終わったよ」と声をかけた。
「お待たせ。行こうか!」
「うん」
——これで何もこの街に思い残すことはない。ついに正真正銘、千年前の全てを知る旅が始まる。
俺は内心憂鬱で仕方ないが、隣に立つレイの顔は晴れやかだ。そうだよね。君にとっては目覚めて以来初めての、ゆるやかに囲われた柵の外だ。
その場に立ち尽くす俺に首をかしげて歩き出すレイ。俺ははぁ、とため息をつき、その後ろを俯き気味についていく。
「……行くのか」
そんな俺を呼び止めたのは、俺のパーティーのリーダーだった。いや、今となっては「かつての」か。
「はい。また帰ってこれたら」
なんて、本心な訳ないだろ。
ばぁーか。内心でそんな悪態をつきながら、俺は清々しくなった気持ちでギルドを出た。
ローレアの南の門をくぐって街道に出ると、少し春めいたそよ風が俺達の頬を撫でた。見渡す限りに広がる草原と、それを少し切り拓いただけの舗装されていない土の道。北から街を出ても同じ景色が広がる。つまり俺にとっては見慣れた変わり映えしない景色なのだが、この景色を夢見て、希望ある冒険者は旅に出るのだ。
それが感慨深いのはどうやらレイも同じなようで。
「ッ……!」
息を飲む音が聞こえてきた。そうだよな、遺跡で保護されて以来初めての街の外だもんな。俺がレイの方を見ると、彼女はハッとして真剣な面持ちを取り戻した。そして重々しく足を持ち上げ、まずは一歩踏みしめた。そうだよな、愛する博士の名誉をかけた大事な旅だもんな。
滅茶苦茶になってしまえばいいのに。
「行こう、クラブ。これをまっすぐ行けば、森竜のねぐらに着くんだよね」
俺は頷き、歩き出した。
ザァ、という風を受けて草原が煌くさざ波を起こす。太陽の光に照らされて艶めくそれは、夏になると冒険者達の汗と熱気に勝るとも劣らない、濃い生命の匂いを放ち始めるだろう。
しかし今は早春の頃。大自然は穏やかな顔で微笑み、遠くからは羊飼いの笛の音がのどかに鳴り響いてくる。
旅の始まりには丁度良かった。
……筈だった。
粛々と歩き続けていると、遠くに見えていた雪被りの山脈が近づいてきた。そこから果てしない距離を流れてきたであろう川のせせらぎを聞き、小さな木の下で一休みし、いよいよ山脈の間近に立つと、俺達はその表面を這う蟻のようになった。
この荘厳な山を越えれば、その先にはまた草原が広がっている。そしてずっと歩いていけば、目当ての場所に着く筈だ。だが。
「はぁ……はぁ……」
「……クラブ、大丈夫? 息が上がってるの?」
「う、うん! でも大丈夫だよ! 全然大丈夫!」
三分の二は事実だ。息が上がってるのは事実。でもそれだけじゃない。でも大丈夫では、ある。
(苦しい……体が熱っぽい……痛い……)
ぜぇはぁと息を吐く。——俺は、遅効性の毒ガスの効果に苦しめられていた。
「絶対大丈夫じゃないでしょ。どうしてそんな嘘つくの」
俺の誤魔化しに彼女はムッとした。なぜだ、予想外に突っかかられてちょっと面倒臭い。まあ、ちょっと面倒臭いぐらいが可愛いのだが……そう思っている間に彼女は俺の目の前まで近づいてきて、額と額を合わせてきた。
「うひゃあっ」
「……やっぱり熱がある。でもどうしよう、こんな山道じゃ……」
「だっだだだ大丈夫だよ、それよりもいつまでくっつけてるのかな!? か、顔が近っっ……はぅ」
間近に迫った美しい顔に、急激にのぼせゆく俺の頭。あ、これはあれに似てる。緊張しすぎたときのゆでだこ状態——と思った次の瞬間。俺の視界はぐるりと回り、意識を失った。




