はじめの一歩
ある日、颯真さんは、いつまで経っても部屋から出てこなかった。
まさか、2徹でもする気なのか。それとも…ついに私に嫌気がさして顔も見たくないとか⁈
大丈夫かな、何かあったのかな。気になってしまって、気づけば颯真さんの部屋の前まで来ていた。
うーん、でも、研究中だったら邪魔しちゃうし、やっぱり戻ろうかな。
来た道を引き返そうとした、その時、
ドタドタッ
と、大きな音がした。
…?今、結構すごい音しなかった?何かが床に倒れたような…、まさか、ね。
私は、颯真さんの部屋の扉を勢いよく叩いた。
「颯真さん!どうかしましたか?返事してください。颯真さん!」
しばらく呼びかけたが、返事がない。
一瞬迷ったが、ここで諦めて後悔したくはない。
「入りますよ。颯真さん、入っちゃいますよ」
ダメ押しで呼びかけながら、私は意を決して扉横のボタンを押し、自動ドアが開くのを待った。
初めて見た颯真さんの部屋は、私の部屋とほぼ同じ広さだが、物が少なく整っているためか広く感じる。
そっと中に入って見渡すと、入って右の壁側にデスクがあり、座り心地の良さそうな背もたれのついた大きめの椅子が、こちらに背もたれを向けた状態であった。
何となく違和感を覚えて回り込んで見ると、
「っ!!颯真さん!」
颯真さんが、横向きに倒れていた。
「え、うそ、どうしよう」
とりあえず顔を覗き込むと、少し長めの横の髪の隙間から覗く透き通った肌は紅潮していた。
恐る恐る手を額に伸ばして触ってみると、
「熱っ!」
どうやら熱があるらしい。
いつまでも床に転がして置くわけにもいかず、呼びかけたが、小さくうめくのみで、とてもではないが自力でベッドまでは行ってからなさそうだ。
仕方がない。
失礼します、そう断って、私は颯真さんの片腕を自分の首にかけ、担ぐようにして立ち上がる。
軽い……。成人男性とは思えない軽さだった。
そのおかげで、なんとかベッドまでたどり着き、寝かせることに成功した。
寝る時に眼鏡をかけたままだと邪魔そうだし、うっかり横を向いたら歪みそうだから、取った方がよさそう…。そう判断した私は、颯真さんの眼鏡をゆっくり引き抜いた。
思わずどきりとするほど整った顔だ。いつも眼鏡で若干抑えられていたオーラが解放された感じ。伏せた目にはきれいにセパレートした長いまつ毛、熱で紅潮しているからこそ白さが際立つきめ細やかな肌。スッと通った鼻筋。苦しそうにひそめられた眉まで非常に整った理想的な形だ。
何だか無防備な感じがどことなく色気を醸し出している気がして無駄に動揺してしまう。
次は……、えっと、ええと、そう!こうああ時はアレの出番だ。
私は、納戸から、メディカル・ボックス、通称・メディを取ってきた。
このメディカル・ボックス、メディちゃんはたいへん優れもので、スイッチを入れると体温計測、脈拍計測、聴診、目・鼻・喉の状態確認を自動でやってくれる。
そして、登録してある医師に計測したデータを送り、その場で通信が繋がった医師と会話をして、詳しい検査が必要な場合には病院に来るように指示を、様子見や薬の処方のみで済む場合には、ボックス内部から必要な物を出してくれる。
颯真さんは、おそらく疲労からくる発熱とのことで、とりあえず薬を飲んで様子見になった。
「まったく、不規則な生活してるから」
思わず独り言をもらすと、
「普段、この暮らしをしていても、問題は、なかったんですよ……。あなたが、来てから、です。いつもより寝つきが、悪かったり、眠りが、浅かったり、して」
熱のせいか若干息切れ気味の声が返ってきた。
「颯真さん!意識戻ったんですね」
「ご迷惑、おかけした、みたいで」
「いえ、そんなことは。こちらこそ、緊急事態とはいえ、勝手に押しかけてしまって」
聞いているのかいないのか、颯真さんはどこかぼんやりとした顔つきをしている。
「颯真さん、とりあえず、服着替えられますか?汗かいてるみたいなので」
颯真さんが、今着ているのは普段着の長袖のシンプルなブルーのシャツにスラックスだ。
これよりパジャマの方が寝心地もいいはずだ。
申し訳ないとは思ったが背に腹は代えられない。タンスを物色させてもらって見つけたパジャマに着替えてもらうとしよう。
パジャマを手渡すと、颯真さんは気怠そうに自力で着替えていたが、ボタンを留めるのに手間取っていたので、私が留めることにした。生地の隙間からちらっと見えてしまったが、肋骨が浮いて見えそうなほど痩せている。
サプリメントだけだと身体に肉もつかなさそうだし、体力ないのかな…。
それにしても、今まで平気で私が来てから体調を崩したとか、私のせい?私がストレスを与えてしまっていたのかな。
反省と後悔でぐるぐる思考を巡らせながら、颯真さんを見る。
颯真さんは苦しそうなそうな顔をしていて、呼吸も荒い。
こういう時、いつも以上に実感する。私は無力だ。
薬や医療の知識があれば、もっと何かできることがあるのかもしれないが、私には、何もできない。
とにかく薬を飲んでもらわないと。
私は、白湯を持ってこようと一度部屋を出て、リビングに向かう。
電気ポットでお湯を沸かしている間、何気なくキッチンを見渡す。
薬だけ飲むのではだめだ。やっぱり栄養も取らないと。弱っている時は体力勝負。
よし。私は土鍋を取り出し、お米を研ぎ始めた。
梅干しを入れたシンプルなお粥とカップに注いだ白湯をお盆に乗せ、颯真さんの部屋へと向かう。
お節介なのは重々承知している。でも、これしかできない。唯一私にもできること。
部屋に戻って、颯真さんに声をかける。
「お粥作ってみました。体力回復のために、やっぱりサプリメントより食事の方がいいかな、と。私もよく祖母に作ってもらってて。これ食べると元気が出る気がするというか。薬飲む前にちょっとでも何か食べた方がいいかな、なんて」
言い訳のように言い募るも、颯真さんは何も応えない。
……。何やっているんだろう。病人相手に無理を強いるようなまねまでして。
「ごめんなさい。いつも食べないものを、こんな時にまで。ほんとごめんなさい。でも、栄養は取った方がいいですよ、今、サプリメント持ってきますね!」
慌てて捲し立てて再びリビングに向かうつもりで立ち上がると、
「亜実さん」
掠れた声で颯真さんが呼び止める。
「それ、ください」
「え?」
弱々しく指さしているのは、私がデスクに置いたお盆。
「食べます」
「でも…」
「食べます」
……。これ以上押し問答するのも気が引けてお盆を持ってきて、颯真さんが起き上がるのを待って布団越しに膝の上においた。
ゆっくりと慎重な手つきでれんげを持ち上げて、ひと口。
食べた。ついに、あの颯真さんが……。
颯真さんは、ゆっくりと時間をかけながら黙々と食べ、土鍋の中身はいつの間にか空になっていた。
少なめに作ったとはいえ、完食だ。
そのまま、薬もしっかり飲み、
「寝ます」
と言った。私は急いでお盆を引き取り、横になるのを手伝った。
「ゆっくり休んでくださいね」
「はい、おやすみなさい」
颯真さんは、どこかホッとしたような表情を一瞬浮べ、目を閉じた。
メディちゃんは優秀で、定期的に体温を測ったり、冷却シートを替える時間を知らせたりと必要な指示をしてくれる。
私は、気になってしまい、ずっと部屋に居座って、タブレットでマンガや小説を読んでは颯真さんの様子を見ていた。
しばらくすると、少し熱が下がって安定したようで、表情も少し和らいでいる気がした。
「よかった」
思わず呟くと、颯真さんが目を覚ました。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「いえ、あの、」
颯真さんは何か言おうと口を開くも、颯真さんが続きを口に出す前に、
「そろそろ水分補給の時間です」
と、メディちゃんの指示が入る。
「あぁ、なるほど、さすがメディちゃん」
私は心底感心しながら、水をマグカップに入れて手渡した。
「だいぶ良くなった気がします」
「そうみたいですね、顔色もさっきより良さそうですよ。よかったです」
すると、またもやメディちゃんから、
「栄養補給と薬の時間です」
と指示が入る。
「たしかに、そろそろ何か補給したいですね」
「えっと、サプリメントお持ちしましょうか…?」
「まあ、あなたが何も作ってこないようならそれで」
「それって….、作ってきたら食べてくれるんですか⁈颯真さん、まだ熱あるみたいですね…」
「どういう意味です?一度食べたじゃないですか。で、作ってくれるんですか?作らないなら作らないで構いませんが」
「っ!作ってきます!!今すぐに!」
私は、勢いあまって前のめりになりながら宣言して、リビングに足早に向かった。今度は鍋焼きうどんでも作ろうかななどと考えながら、自然に笑みがこぼれた。