分岐点
それから自分がどのように振る舞ったのかは分からない。
頭の中が真っ白になって、気づけば自室にいたのだ。
一つだけはっきりと覚えているのは、誰も何も言わなかったことだ。当事者である私も舞香さんも、傍観者である宙良さんも八雲さんも、そして、颯真さんも。
その後も変わらず4人は死に物狂いで準備をした。その甲斐あって、何とか学会での発表に間に合うようだ。
私は、迷ったけど、ここでやめるのもどうかと思い、相変わらずドリンクを作っては運んでいた。
今までとの違いとしては、決して研究室には足を踏み入れなくなったということだ。部屋の自動ドアの横に低めの棚を設置して、その上に置いておくだけ。誰かが気付けばその誰かの胃に収まり、空になったグラスは元の場所に戻される。ある程度の時間が経ったら私がすべて回収に行く。その繰り返しだ。
ただ、4つのグラスすべてが空になることは一度もなかった。
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遂に、学会当日。颯真さんを除く3人は身支度を完璧に整えるために一度家に帰ったらしく、我が家には久しぶりに私と颯真さんの2人きりだった。
スーツをピシッと着た颯真さんは、ちょっと前まで辛うじて人の形を保っている程度だったことを微塵も感じさせないくらい整っていた。キラキラと輝くオーラが見える気さえしてくる。
「帰りは遅くなると思うから、僕のことは気にしないで休んでくださいね」
「わかりました。それにしても、スーツ姿初めて見ました!なんか新鮮ですね」
「確かに、あまり着る機会はないですからね。変じゃないですか?」
見送りに玄関まで出てきた私にそう言って、颯真さんは自身の全体像をチェックしようと首を回し、最終的に体ごと一周してしまっている。
何だろう、このかわいい生き物は。かっこよさとかわいさって同時に存在できるんだ。
その尊さに合掌したくなる衝動を必死に抑えながら、
「あ、ちょっとネクタイ曲がってますね、失礼します、よし、できた!」
私は颯真さんに一歩近づき、手を伸ばしてネクタイを整えた。颯真さんからは、ほんのり整髪剤の匂いと、香水らしき香りがしていた。
やってみてから気づいたのだが、これ、かなり夫婦っぽいのでは。大胆なことをしてしまったかもしれない。
己の行動をどう思われたのか不安になり、颯真さんをちらりと見てみると、ちょっと照れたようにお礼を言っている。
「ええと、じゃあ、いってきます」
まだ照れ臭さが残る表情のまま、颯真さんが私の目を見て言う。
「はい、いってらっしゃい」
私もその目を真っ直ぐに見返しながら言った。応援の気持ちを込めて。そして、その顔を、颯真さんの姿すべてを、しっかりと目に焼き付けるように。
そうして颯真さんを見送った私は、自室で身支度を整え、荷物をまとめてあったキャリーケースを手にして、玄関に向かった。
ドアの前で立ち止まり、室内に向かって気持ちを込めて深々とお辞儀をする。
ネモフィラにおいては、玄関ドアは施錠時がオートロックで、開錠時には生体認証&暗証番号が用いられているのが主流だ。おかげで鍵の持ち運びも戸締りも気にしなくて済む。地上の祖母の家に慣れていた私は、いまだにその便利さに感心してしまう。
きちんとドアが閉まった音が背後から聞こえる。これでよし、と。
それからは一度も振り返ることなく、私は結婚してから今までお世話になった家を後にした。




