さまざまな感情
「はぁ〜、極楽極楽」
誰もいないのをいいことに、露天風呂の中で手足を伸ばしてくつろぐ。
この旅館の露天風呂は建物のへりまで続いており、まっすぐ前を見ると何も遮るものもなく海を見渡すことができる。
外気に接しているせいか洗い場などがある屋内の湯船のお湯よりぬるく、風も適度に涼しいため、いくらでも入っていられそうな気がしてくる。
先ほどまで船に揺られていた海を見ながら、酷使した足をほぐす。お湯は透明だが、美肌効果や他にもいろんな効能があるとかで、肌がすべすべになって健康になっている気がする。プラセボ効果とかではない、はず。
どれくらい時間が経っただろうか、何人かの人がいつの間にか屋内の大浴場にいるのが窓越しに見えた。そして、4、5歳くらいだろうか、女の子が母親らしき女性に手を引かれて外に出てきた。
湯船に入っていくらもしないうちに、女の子は顔が赤くなっていた。ぬるめのお湯とはいえ、小さい子には熱いのかもしれない。母親は心配そうに、もう出る?、と問うていたが、女の子は、まだ、もう少し入れる!、と主張していた。それを受けて母親は、じゃあ、もう少ししたら出ようか、と言っていた。子の意見を尊重しつつも体調管理が自分では難しい年頃の子どもの面倒を見るというのは大変そうだ。子育てに正解はないというし。もちろん子どもはかわいいのだろうが、それだけで済まないのが子育てだろう。親子というのが一般的にどういうものなのか、どうあるべきなのか私には全くわからない。でも、彼女は、少なくとも子どもを大切にしている、優しそうでいいお母さんに見えた。なんだか少し羨ましかった。
十分に湯を堪能できたし、そろそろ上がることにした。
颯真さんとの待ち合わせ場所に行くと、まだ颯真さんは来ていなかった。まさか、湯当たりとかしてないよね…?温泉に対する気合いが空回りしてないといいけど…。心配だ。これではまるで夫婦というよりお母さんなのでは?と思ってしまう。
親子がいかなるものかについて考えるより、先に夫婦について知った方がいいかもしれない。
でも、私たちは親の紹介で結婚しただけで、同居人としての情のようなものはあるけど、それ以上の感情はない。たぶん。少なくとも颯真さんはそうだと思う。
私は…?私はどうなのだろう。まだ、自分の気持ちがよくわからない。いや、もしかしたら気づきたくないだけなのかも。
温泉でさっぱりしたはずなのに、何となくもやもやとした気持ちを抱えながら、置いてあったレモン水をちびちび飲み、ベンチに座って颯真さんを待つ。
颯真さんが出てくるのではないかと男湯の入り口につい注意がいってしまう。
いつか読んだ典型的な探偵ものの小説の主人公を思い出す。新聞紙はあいにく持ち合わせていないので、前を見てくつろいでいるふりをしながら入り口を視界の端に入れる。
一挙一動を意識しすぎて瞬きすら意図しないとできなくなっている。
ふいに気づいた。もしかして、私、怪しい人に見えているのでは…?心配になってきょろきょろとあたりを見回していると、ガラッと引き戸が開く音がして、颯真さんが出てきた。
一番おかしなところを見られてしまった気がする…。
「すみません、お待たせしてしまいましたよね」
申し訳なさそうに眉根を下げる颯真さん。
「い、いえ!大丈夫です。あ、お水飲みます?そこに置いてあって自由に飲んでいいみたいなので」
見てない、よね?颯真さんの分の水をくんで、隣り合ってベンチに座り、水の入った紙コップを手渡す。
「ありがとうございます。ところで、何か気になることでもありました?周りを気にしていたようですが」
「んっ、ごほごほっ!」
私は飲みかけの水を吹き出しかけた。やっぱり見られてた…。
「いやー、人があまりいなくて快適だなー、なんて、あはは」
「確かに、おかげで温泉というものをいろいろ観察及び体験することができ、とても興味深かったです」
……。この人も大概怪しい人だった。何だか目がきらきらとして、生き生きして見える。
研究者は探究心が強く、好奇心旺盛な人が多いが、颯真さんもまるで好奇心の権化ともいうべき子どものように純粋な反応をする。完璧に管理され、刺激の少ないネモフィラで興味を持てるのが数学だっただけで、この人は本来ならもっといろいろなものに興味を持つ、感情豊かな人だったのではないだろうか。誰だ、颯真さんをロボット扱いしてたのは。最近の颯真さんは表情の変化は薄いものの感情はちゃんと表に出ている。
今からでも遅くない。もっといろんな世界を知ってほしい。私が閉鎖されたあの世界から連れ出したい。そしてもっといろんな颯真さんが見てみたい。なぜだかそんな思いが込み上げてきた。
「どうかしましたか?亜実さん」
謎の感情のせいで黙りかかってしまった私の顔を覗き込む颯真さんに、
「そろそろお部屋に戻りましょうか!そろそろ夕ごはんですよね、何が出るんだろう、楽しみですね!」
私はそう言って笑いかけた。今はまだ、この感情の理由はわからなくていい。この旅行を純粋に楽しみたい。
勢いのまま、立ち上がって2人分の紙コップを捨て、颯真さんを急かす。
またひとつ、新しい世界を知ってもらうために。