期待の奉仕(5)
静かに目から水を溢れさせている私に気づいた颯真さんは、おもしろいくらいにおろおろする。
「そんな慌てることあります?」
ティッシュを探してバタバタと部屋の中を歩き回りながら、颯真さんは言う。
「仕方ないじゃないですか!女性が目の前で泣いているのなんて初めてなんですから」
私は、すぐ横にあるティッシュ箱からティッシュを取り出して涙を拭う。
「男性ならあるんですか…?」
「……。ないですね」
ようやく、私の隣にティッシュがあることにも、自分が理屈の通らない意味不明なことを口走っていることにも気づいた颯真さんは、取り繕うように咳払いをして、元の場所に戻った。
「すみません、驚かせてしまいましたよね。私も泣くつもりなんてなかったんですけど、自分が不甲斐なくて」
「なぜです?どちらかというと、僕が不甲斐ない話だったような気がするのですが」
不思議そうに颯真さんは私の様子をうかがう。
「いいえ!颯真さんはすごいです。辛い経験をしても、まっすぐなままで、ちゃんと自分を貫いていて。それなのに、私は颯真さんがまるで何も苦労なんてしてないようなことを言ってしまった。今の成功は、颯真さんがいろんなことを経て、築き上げてきた証なのに。私ばかり辛いみたいな言い方をしてしまって。自分が恥ずかしいです」
ティッシュを握りしめ、私は知らず知らずのうちに自分の膝頭に視線を落とす。
颯真さんは、立ち上がり、私のすぐ目の前に座った。膝がくっつきそうなほどの距離に驚き、思わず目線を上げる。颯真さんと目線がかち合う。
「それなら、お互い様ですよ。僕も、あなたが悩んでいるなんて思いもよらなかった。僕の目には、あなたはいつも明るくて、ほんの些細なことでも一喜一憂したりと感情豊かで、とても生き生きとして見えていたから。暗い感情なんてあなたにはないと勝手に思い込んでいたんです」
瞬きをすると、溢れずにいた雫が流れ、頬を再び濡らした。すると、颯真さんはティッシュを手に、私の目元を拭った。とても優しい手つきに、私は恥ずかしさが込み上げてきてどうしたらいいのかわからず固まった。
そんな私を見て、颯真さんは頬を緩める。
「僕は感情表現が苦手な方なので、亜実さんが羨ましいなと思っていました。でも、見えているものだけではやはりわかりませんね」
私は、たしかにロボット並でしたね、と言いたくなるのを堪えた。
「そうみたいですね。やっぱり、言葉にしなくちゃわかりませんね。颯真さんも、私も。颯真さんのこと、聞けてよかったです。話してくれて、ありがとうございます」
自分で言いながら、本当にそうだと思う。
伝えてもいないのにわかってほしいなんて傲慢だ。人には言葉がある。もちろん、言葉を駆使しても、相手に意図が伝わらないことだってある。だから、どうせ私の気持ちなんてわからない、で終わらせることは簡単だ。でも、本当に向き合いたい誰かがいるなら、自分からわかってもらえる努力をしなければ何も始まらない。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとうございました。亜実さんも、言いたいことは遠慮なく言ってくださいね。僕たちは夫婦なのですから」
まさか颯真さんの口からそんな言葉が聞けるとは、結婚初日には思ってもみなかった。
颯真さんが私の劣等感には気づかなかったように、私も颯真さんの心には気づかなかった。むしろ、結婚を半ば押し付けられ、不本意に思っているのではないかと誤解までしていた。
でも、この結婚は、颯真さんは颯真さんなりによく考えて、間違えなく颯真さん自身で決めたものなのだ。
他人と暮らすというのはとても難しい。
それでも、私たちは夫婦という形でそれを選んだ。今まで違う世界で生きて生きて、考え方も、好きなものもまるっきり異なる。けれども、何らかの形で歩み寄りたいという思いはきっと同じだ。私が料理をしたように。颯真さんが自分の話をしたように。
私たちは、私たちなりのやり方で、少しずつ、私たちの思う夫婦のかたちを作っていけたらいい。
目の前でごく控えめな笑みを浮かべる颯真さんを見つめながら、私はそう思った。