期待の奉仕(3)
陽平は言った通り、颯真に何も強要しなかった。
彼の妻も、颯真を温かく迎えた。
彼らの娘、舞香だけは、時折、颯真に挑むような視線を送っていたが、両親にある程度事情を聞かされているらしく、遠巻きに様子を伺っていた。
颯真は、陽平たちの協力もあって岬家の生活には慣れていったが、食事だけは食べられなかった。
元後見人に対して、颯真が子どもだったとはいえ、従順すぎた点から、元後見人の妻特製の薬が食事に入れられ、日常的に接種させられていた可能性があったらしい。そのことを聞いてしまったためか、どうにも食事という行為だけは抵抗感が強く、食欲も湧かず、食べることができなくなってしまった。
そんな颯真に、陽平は無理強いはしなかった。
代わりに栄養補給にとサプリメントを用意してくれた。注文は颯真に一緒にやらせて、受け取って保存まで颯真に任せ、万が一にも妙な薬を飲まされているのではないかと颯真が疑わなくて済むように配慮するという徹底ぶりだった。
「パパ、甘やかしすぎよ!」
ついに、ずっと大人しくしていた舞香が物申した。
彼女はもともとはっきり物を言うタイプで、今まで相当抑えていたが、とうとう我慢ならなくなったらしい。
「今、颯真くんはお休み期間なんだ。お休みが終わるまで、これはそれまでの、あくまでつなぎ。いつか食べようと思える日がきっとくるよ」
陽平はそう言って聞かせたが、その時から、舞香はもう黙って見ているのはやめることにしたらしい。
次の日、舞香は相馬の部屋に突然現れた。
「あなた、義務教育過程の課題ちゃんと出してるの⁈」
颯真は黙って首を振った。
「まったく、しっかりしなさいよ!いつまで不貞腐れてるつもり?」
舞香は勝手にまくしたて、どかりとカーペットの上に座り、そのままなぜか一緒に課題をやることになった。
「あれ?なんで答え合わないの…?もう…」
隣でうなっている彼女に見かねて、ついに颯真は口を開いた。
「そこ、計算違ってる」
「え?、あ…、ほんとだ!ていうか、あなた喋れるんじゃないの!」
「……。」
「返事くらいしなさいよね!」
それからというもの、舞香は毎日颯真の部屋に押しかけてきた。
「今日こそ私も全問正解してやる!負けないんだから」
そう意気込む彼女に、颯真は戸惑い、
「なんでここでやるの」
と聞く。すると、舞香は眉尻を吊り上げ、
「あなた放っておいたらサボるでしょ!いくらパパにやりたいようにしていいって言われてるからって、調子に乗らないでよね!」
などと言う。
「別に乗ってない」
「あっそ。でもね、ここはあなたの家だだけじゃない、私の家でもあるのよ!どこでやろうと私の自由よ」
颯真はなんて傍若無人ないいようだと思った。
でも、それと同時に、彼女は彼女なりに自分に向き合おうとしてくれていることも感じた。周りがみんな遠巻きに見るような自分を、彼女とその両親だけは諦めないでくれている。
そのことに気づき、少しずつだが、颯真は彼らに心を開いていった。
岬家に来てから半年以上が過ぎた頃、義務教育過程の成績を加味して、颯真と舞香は、ネモフィラ学園のSクラスへの入学が決まった。
「2人とも、ネモフィラ学園入学が決まったね。本当におめでとう」
「大変なこともあるでしょうけど、頑張ってね。応援してるわ。でも、どうしても辛くなったらいつでも帰っていらっしゃい」
陽平とその妻は大変嬉しそうに言った。
実際には、ネモフィラ学園は完全寮制であり、長期休暇以外で家に帰るのは難しい。だが、帰れる場所があるというのはそれだけで心の拠り所になる。
颯真も舞香もそれは分かっており、2人の言葉を素直に受け取った。
学園の入学式の前々日、入寮を明日に控えた日、舞香はまた颯真の部屋にやって来た。
「天才だか何だか知らないけど、学園では絶対、あなたに勝ってみせるんだから、覚悟しなさい!」
「君はいつもそれだね…」
「悪い?」
「いや、別に」
半年以上前から繰り返されてきた、いつも通りの会話だった。
だが、普段は言いたいことだけ言って帰っていく舞香だったが、この日はいつもと違っていた。
「舞香…」
舞香はぽつりと呟く。
「え?」
聞こえてはいたが、意図がわからず颯真は聞き返した。
すると、
「私には、舞香っていう名前があるんだからね!いつまで覚えないつもり?学園に言ったら一対一じゃないんだから、だから、その、こ、これからは名前くらい呼んだらどうなのよ…」
そう言う舞香には、いつもの威勢はなく、どことなく不安そうに颯真を見る。
「…、そっちだって」
颯真は、舞香の珍しい態度に驚いて、思わずそう返した。
「え?あぁ、そういえばそうね。じゃあ、これからもよろしくね、、“颯真”」
舞香は少し恥ずかしそうに言い、そっぽを向きながら右手を差し出した。
「うん、よろしく、“舞香”」
颯真は一瞬迷ったが、おずおずと自分の手を伸ばし、その手に添えた。
すると、舞香はぎゅっと握り返してきた。
「痛っ」
「なによ、これくらいで、軟弱ね!」
「相変わらず、酷い言いようだ」
いつもの調子に戻った舞香に、颯真は意図せず頬をわずかに緩めていた。
「あなた……、今、笑った?」
「え、僕が?」
「ええ、笑ったわよ!笑った!ちょっと、ねぇ、ママ!パパ!颯真が笑ったわ!」
舞香は大騒ぎして陽平たちのところへ走って行った。
颯真は自分の頬に手を当てた。笑っていた?本当に?颯真は、自分がまた笑う日が来るなんて、少し前まで思ってもみなかった。
岬家の生活は、少しずつ、彼の凍てついた心を溶かしたのだ。
颯真は、初めて会った日の陽平の言葉を思い出す。
そして、諦めていた自分の未来を、もう一度、思い描いてもいいのではないかと思い始めた。