第七章
甲賀学苑名物 『田圃巡り』
畦道は足場が緩く、雑に走れば破損しかねないので、腰を落とし無駄な体重をかけぬよう走る、忍術の『忍び足』がその原点なのである。
従って、普通に走るよりも疲労度は甚だしく、三十分も駆けたら忠太以外の全員が畦道にへたり込んでしまう。
息は乱れ太腿はパンパンに張り、中一の部員の中には畦道の脇に吐瀉物を垂れ流す者まで出る始末。
忠太は息一つ乱さず彼らを見下ろし、以前紅葉に教わった甲賀忍法『二重息吹の術』を伝える時だと思う。流石に現役武士直伝とは言えずに、
「よーし、みんな聞け。お前らの呼吸法、それじゃすぐに息切れしちまう。志徳寺の和尚から習った甲賀古来の呼吸法を教えてやる、よく聞け!」
(志徳寺の和尚? よう知らんけど、なんや効きそうや!)
と誰もが思い、素直に忠太の話に耳を傾ける。
「スー ハー ハー スー ハー スー スー ハー。分かったか!」
一同は唖然とし、やがて
「なんじゃそりゃ! 分かるかボケェ」
「何その不自然かつ不順列な呼吸… 意味不明…」
「怪しい。怪しすぎるやん」
一時騒然となるも、
「やってみねえと分からんだろが。騙されたと思ってやってみろ、行くぞっ」
忠太が駆け出すので皆渋々仕方なく後に続く、遥一人を除き。
物事。器用な奴はすぐ出来る、手本を見ただけ聞いただけで「あ。出来た」という凡人からしたら腹立たしい人種がどんな集団にも一握り居る訳で。
そんな『一握の人』が、三年生、皆無。二年生、三名。一年生、二名。
「あ、ほんとこれ楽やわー」
「もっと早く知りたかったなー」
「すっげ、これスッゲー」
諸事。頭でキッチリと理解し反復を繰り返せば、即ち脳が理解し神経が反応し動作が出来るようになるまで演練を積めば出来るようになる、それが大半の人であろう。約一時間の反復練習の末、僅かな者を除き大半の部員が呼吸法を習得する。
「出来た… あー、楽やわぁー ほんま」
「まだ時々間違えるわ、毎日繰り返さんとな」
「考えずに出来るようになるまで、繰り返さんとね」
万事。どう教えても出来ない者がいる、その多くが己の感覚的な部分で物事を習得してきた者達であろう。
忠太は呆れ顔で、
「まぁ、浄蓮、美咲。お前らは仕方ねえ。弓って感覚的だもんな」
三年生の弓役、美咲と小泉浄蓮はどうしてもこの呼吸が会得できず、何度やっても途中で呼吸困難になり倒れていた。
「澪、みさと。お前らは気合いが足りねえ。気迫が足らん」
二年生の刀役の澪と弓役の葛城みさとも、舌を口から出し今にも窒息死しそうな感じだ。
「…まさか、お前が、か…」
上級生、同期が、まさかの表情で白目を向いて仰向けに倒れている遥を眺めている…
甲賀学苑の道士達にとって辛く厳しい修行は昼過ぎに終わり、これが近畿大会まで続くかと思うだけで胃液が込み上げてくる。
特に一年生達は全員仰向けに倒れ込み、古武士道がこんなにキツい部活動とは思わなかった、果たして先輩達についていけるだろうか、誰もが疑心暗鬼に陥った。
着替えを終えた忠太は、スマホで土山健斗の番号を呼び出した。だが、出ない。
今の甲賀学苑の刀役事情において、健斗の力は間違いなく必要なのであり、大将として責任を持って彼を部活に復帰させねばならない。
仕方なく忠太はLINEのメッセージで自分に連絡するよう伝える。
「このまま辞めてしまうかもしれんな。もしそうなったらどうする?」
副将の真央が心配そうに呟く。
「正直、今のままのアイツなら、チームに必要ねえ。だけど、アイツの芯の強さはこの部には絶対必要だ。それにこの時期にこんな辞め方されたら、士気にも関わる。まあ、一度じっくり話さねえと。そん時は一緒に頼むぞ真央」
「当然じゃ。なるべく早うがええんじゃの」
「おう。そんじゃな、また明日」
忠太は真央に軽く手を挙げ、学校を後にする。
ゴールデンウィークの真っ只中。普通の中学生なら仲間や恋人と楽しく遊んでいるんだろうな、ちょっと羨ましい気持ちを否めない忠太は、晴れ上がった空を見上げながらすっかり濃い緑に覆われた樹々を横目に志徳寺への山道をスタスタ歩いている。
そう言えば紅葉の勉強はどうなっているのか気になり、やや歩速は速くなる。
「ちょ… 待って、くださいよ」
後ろからか細い声がかかる、瀕死の遥が今にも倒れそうな表情で登ってきている。
忠太はやれやれという顔で遥を見下ろし、
「お前、大丈夫か。これからスタミナ付けてかねえと…」
「分かって、ますよ…」
ふと、畦道で白目を剥いて倒れている姿を思い出し、忠太はプッと吹き出す。
「何が、おかしいんですか」
「いやー、意外にお前が不器用でドジっ子なのがウケるわ」
「ほっといてください。すぐに、マスターしてみせますので」
「おお、期待している」
遥はムッとした顔で忠太に並ぶ。
「今日からスタミナがつく食事、よろしくねお兄ちゃん」
忠太は目を剥き遥を眺め、
「お、おぅ…」
と声を震わせ返事をする、妹、妹、いもうと…
山門に辿り着くまでに、三回足を滑らせる。
「お帰りお二人さん。朝からご苦労さん」
八田がニコニコと笑いながら二人を出迎える。
「おぅハッちゃん。紅葉の方はどう?」
ハッちゃん… 八田は苦笑いしながら、
「ガッツリやっとるよ。それにしてもほんま頭ええなあの子。このままちゃんと勉強したら、京大も夢やあらへんで」
そんなか? と思いつつ、
「そう言えば、アイツ編入試験とやらを受けるんだっけ。大丈夫そうかな?」
「それは忠太くん次第や。。しっかりサポート頼んだで」
「あははは… おい遥、お前勉強見てやれ」
この子も賢そうや、期待してもええちゃうか、と八田は遥を眺める。
「あ。私、この間の中受(中学受験)で勉強辞めましたので無理です」
「「へ?」」
「これからは古武士道一筋に生きていくつもりですから、勉強は辞めました」
忠太は目が点になり、
「おいおいおい… ウチの部活、勉強ちゃんとやらねえとダメなんだぞ、再来週の中間テストで赤点取ったら、部活禁止なんだぞ…」
「…はぁ?」
「はぁじゃねえよ、勉強ちゃんとやれよ、頼むよ…」
遥は妖艶な目つきで、
「じゃあ、勉強教えてよ、お兄ちゃん」
忠太は即座に密室でかわゆい妹に勉強を教えるシチュエーションを妄想し、顔が真っ赤になる。
八田は呆然と遥を見下ろし、女の恐ろしさに全身鳥肌が立ったものだった。
食堂のテーブルで田所と紅葉が向き合って真剣に議論している。
「だから、今から勉強しても、分からんもんは分からんて。おい田所、編入試験から英語をなんとか省くよう工作せい!」
「そんなの無理だって… 今から少しずつやっていけばさ、なんとかなるって…」
「無理じゃ。そんな異国語を今から取得せい言われても、出来ぬ」
忠太はハッとする。
しまった。受験には当然英語はなかったのだが、編入試験となると英語が科目に入るのは当然なのだ…
現役戦国武士に英語… それは、無理だ。絶対に不可能だ…
「田所さん、なんとかなりませんかね英語…」
田所は忠太に振り返り、
「ああ、忠太くんお帰り。それは無理だよ。試験自体はそんなに難しくないさ、なんとか協力して英語を教えてあげてくれないか?」
…確かに、ある程度の英語力を持っていないと、入学してからが大変だ。せめてアルファベットが書け、ローマ字の概念くらいは知っておかないと…
「私、協力します。お姉ちゃん、一緒に英語頑張ろ!」
遥が紅葉に投げかける。
お姉ちゃん…
兄妹は兄しかいなかった紅葉は、実は妹が欲しかったのだった、前から遥を妹分として認めてはいたが、それが『妹』になるのであれば…
紅葉は暫し塾考したのち、
「おう、やる」
遥の妹属性が良くも悪くも志徳寺を変えて行くことになるのであった。
* * * * * *
忠太が急ぎこさえたスタミナ丼の昼食を皆で終えた後、早速英語の勉強会が始まった。
何しろ、現役戦国武士。これまでにオランダ語やスペイン語に触れたことはあれど、英語に触れたことは皆無。
まずは二十六文字からなるアルファベットを覚えることから始まるのである。
令和に生きる我々現代日本人にとって、英語は思ったよりも身近なものであり。赤ん坊が初めて口にするのが「ママ」「パパ」、幼児が大好きなお菓子は「アイスクリーム」「ケーキ」、子供が好きな遊びは「ゲーム」「サッカー」。
街を歩けば至る所に横文字が並び、人気の漫画にアニメは「One Peace」「Pocket Monster」。
寧ろ英語を見ずに話さない生活なぞ不可能な状況、それが令和の日本なのである。
十五の歳まで一切アルファベットや英語に触れてこなかった紅葉の状況は、例えるならば我々がタイ語やロシア語を一週間で読み書きせよ、に近い絶望感と言えよう。因みにタイ語に子音は四十二文字あり、ロシア語のアルファベットは三十三文字存在する。
より分かりやすい例えで言えば、お爺ちゃんにモンハンをさせたりお婆ちゃんにボカロを歌わせることだろうか。
編入試験は五月十六日に決定している、奇しくもその日は甲賀学苑中等部の一学期中間テストの初日に当たる。
今日が五月三日、あと二週間弱で一体どこまで英語を習得出来るだろうか…
忠太は絶望的な気持ちとなる。
だが、しかし。
紅葉は地頭が大層良かった。それに加え、人並み以上に好奇心が強かった。それより何より。紅葉はこの戦さのない平和な令和の世が大好きなのであった。
人間、好きなものを覚えることに苦痛はない、苦労もない。
昼食後の勉強会開始から一時間で彼女はアルファベット二十六文字を完璧に覚えてみせたのだ。
「ゆー、えぬ、あい、きゅー、える、おー。ゆにくろじゃな、平易平易」
忠太、遥たちよりも田所、八田の驚きは尋常でなく。
「える、あい、えぬ、いー。らいんじゃろ、平明平明」
そこに実は学業優秀な珍龍が参戦し、紅葉にローマ字の概念を懇切丁寧に説明するとー
「あ、い、う、え、おの母音がえー、あい、ゆー、いー、おー。成る成る。これにけーを足すと、かきくけこ。えすを足せばさしすせそ… なんだ、簡単ではないか」
遥が急ぎ揚げしドーナツを突く頃にはローマ字をマスターしてしまったのだ。
だが。
英語はここからが、難しい。
LINEは『リネ』ではなく『ライン』だ。GAMEは『ガメ』でなく『ゲーム』なのだ。
「ふうむ… 要は、ろおま字と英語は読み方が全く異なる、と。ろおま字は子音と母音を重ねて法則通りに読めば良いが、英語はそうでない、と」
珍龍は深く頷きながら、
「その通りや。そやから一々単語ごとに読み方を覚えなあかん。英語は大変やろ?」
紅葉は首を傾げ、
「日本語にもあるではないか。『近江』は『ちかえ』か『きんこう』としか読めぬじゃろう?」
珍龍、忠太、遥は思わず目を瞠り、田所、八田は唸る。
志徳寺での夕食の誘いをお断りし、田所と八田は寺を後にし近江八幡市に向かう。
ホテル近くの焼き鳥屋に入り、二人はビールジョッキをぶつけ合う。
「ぷっはー、うまい! いやぁ、それにしてもあの子、ほんまに驚きですわ。僕あんな『旅人』見たことありませんよ」
八田がハイテンションで吠える。田所もそれに同意し、
「一体、彼女の何がそこまでさせるんだろうか。その動機がよく分からないんだが」
八田は呆れ顔で、
「そんなん、想い人のために決まっとるやないですか!」
「それって、彼?」
「そうですよ、彼、ですよ」
彼らは酒席でも固有名詞を出すことなく会話を続ける。
「そうかなぁ、俺にはそこまで彼女が彼を思っているようには思えんけど…」
八田は首を振り、
「何言うてるんですか、一目瞭然じゃないですか、彼女が彼を見る眼差し。間違いなく恋してますよ、彼に」
田所はハッキリと首を振り、
「違うな。あれは恋する乙女の眼差しではないよ。青少年ってさ、恋する相手が近くにいると、体温上昇、つまり血の巡りが速くなるんだよ、耳とか見ればすぐに分かる。あと息遣いな。他にも色々あるけどさ、彼女は彼に恋はしていない。これは断言できるぜ」
警察庁の元公安課の腕利きの言葉に八田は唸る。
「…だとしたら、彼女は彼に対し?」
「そうだな、どちらかと言えば、守護対象、保護対象。そんな感じだと思う」
「それって母性本能なのでは?」
「違うな。どちらかと言えば、正に武士や兵士に近い。国を故郷を守る、大切な人を守る、その延長線上にいるのが彼なんだと思う」
八田は珍しく食い下がり、
「その大切な人々、って家族や恋人なんじゃないですか?」
「友人も、だよ」
「古今東西、単なる友人のために命をかけられますかね?」
田所はジョッキを飲み干してから、
「だから分からないんだ。家族でも恋人でもない単なる友人に、どうして彼女はここまで入れ込めるのだろうか…」
八田もジョッキを一気に飲み干し、
「僕は絶対に、彼に恋してると思うんですけど。田所さんの観察眼は僕がよう知ってますよ、でもね、彼女は令和―今の子じゃない、昔の子なんですよ、恋愛に関する価値観が違うと思うんですわ、ですから今の子に通ずるプロファイリングも彼女には当てはまらないんちゃいますか?」
確かに。自分のプロファイリングはあくまで平成、令和人に通用するものであり、安土桃山時代の人間に通じる保証はどこにもない。それこそ社会の価値観、人の価値観が全く異なる人物に現代の観察法が当てはまるだろうか?
「逆にさ、どうして君はそう思うんだい?」
「二人をね、結構間近で見てきましたんで。恋愛音痴な僕ですけど、一緒にいれば分かりますわ。どんだけ彼女が彼に依存してるかを」
依存、か。
田所は店員にビールのお代わりを二杯注文する。
「依存と恋愛は、違うと思うぞ」
八田は軽く礼を言いつつ、
「それこそ、あの時代の恋愛の形が『依存』だったのかもしれませんよ」
うぅーーん。田所は頭を抱え込み、
「あと五日か、じっくりと見定めさせてもらうよ」
「ええ。じっくりと。」
二人は運ばれてきたジョッキを軽く合わせた。
* * * * * *
「ほう。チビハルがどうしても呼吸法を身につけられぬ、と。」
「イエス(正確な文法的にはノーか)」
「どれほど教授しても白目を剥いてぶっ倒れてしまった、と」
「イエス」
「どれチビハル、うちの目の前で呼吸してみい」
「オーケー、アイルトライイット。スー ハー スー ハー ハー スー ハー スー スー ハー」
紅葉は首を振りながら、
「初めのスー ハー が余計じゃ。やり直し」
「スー ハー ハー スー ハー ハー スー ハー …… うげぇ… く、る、し…」
遥の頭を叩きながら、
「阿呆か。それでは吐く息が吸う息より多いではないか! 倒れるも必然や、ボケ」
「オーノー プリーズティーチミー」
「?」
「私に教えてください」
「ふむ。よぉし、うちの真似をするのじゃぞ、いくぞ、スー ハー ハー」
「スー ハー ハー」
「スー ハー」
「スー ハー」
「スー スー ハー」
「スー スー ハー」
紅葉はコクリと頷き、
「それじゃ。やってみせい」
「オーケー。スー ハー ハー スー ハー スー ハー ハー…… く、く、る、し…」
忠太、珍龍、行円、照天らの我慢の限界は突破され、大爆笑となる。
「オーマイガッ」
「ジーザスクライストオ」
「アンビリーバブル」
「ドンマイ ドンマイ」
「ノット エレガント!」
遥は目を怒らせ、少しだけ涙を浮かべつつ
「シャラップ! ファックユー!」
そう言うと右手中指を突き立てる。
「ふぁっくゆー、ふむふむ。馬鹿野郎お主、という意味じゃな」
行円がドヤ顔で、
「あなたを犯します、っていう意味やで」
珍龍が血相を変え、
「アホか! 余計なこと教えんでええ! このアホンダラ!」
と言いつつ行円の脇腹に手刀を入れる。
夜の修行を終え、紅葉と遥が入浴中。
「なあ珍龍、ほんまにこれでええんか? 俺らの拙い英語でええんか?」
珍龍は深く頷きながら、
「別にネイティブで正確な発音の英語なんていらん。ともかく紅葉ちゃんに英語に慣れてもらうんが目的やからな」
「なるほどな、それにしても誰も喋れんなぁ、お前ら学校で何習うとるん?」
行円がしたり顔で言うのを皆で叩きのめしながら、
「私立中学の編入試験とは言え、所詮は義務教育の範囲内や、俺らの英語でかまへん」
ま、やらないよりはずっとマシだが、一体これがいつまで続くことやら、忠太はウンザリ顔で大きく一つ溜め息を吐いた。
「おい紅葉。これ役に立ちそうか?」
「すぴぃく いんぐりっしゅ」
「…… イズイット オーケー フォー ユー?」
「そーそー やな」
それきり忠太も遥も話すことが出来なくなる、やがて紅葉の寝息が聞こえ始め、程なく遥の寝音が響き出す。
それにしても、だ。
滋賀県予選が終わったばかりだと言うのに、問題が山積みだ。
まずは部員全員のスタミナ値を今の倍から三倍程度に上げねばならぬ。
土山健斗の件を拗らせぬようにせねばならぬ。
遥に甲賀流呼吸術を伝授せねばならぬ。
そして。
紅葉の英語をなんとかせねばならぬ。
三年生になり、そして大将となり、更に紅葉と邂逅し、かつてない程忠太は忙しさを感じている、そして常に何かに追われているような感覚に陥っている。
やはり最上級生の重圧なのだろうか。名門校の大将としての重責なのだろうか。そして、一番問題なのが、紅葉の今後をどうするか、である。
運よく編入試験に合格し、晴れて同級生となり。そして同じ部活動に勤しみ。
それから、俺たちはどうすれば、どう振る舞って行けば良いのだろうか。
近畿大会で華々しく活躍したとして。田所が言うところの、謎の軍隊組織(傭兵会社)に目をつけられれば、俺たちは今後どうなってしまうのだろうか?
コイツは断じて手抜きなぞしない、必ずや利き腕でない刀を自在に振り回すようになるだろう、その時にその悪の集団(?)に目をつけられやしないだろうか?
紅葉が傭兵に連れて行かれないだろうか?
若しくは、紅葉の素性がバレて、過去からの旅人であることが露見し、世間の注目を浴びるとともに、悪の組織(!)に消されることにならないだろうか?
まだ十四歳、人生経験も知識も乏しい忠太は、予見できない近い将来への不安に苛まされ、今夜も眠れぬ夜を一人過ごさねばならない……
* * * * * *
翌日、甲賀学苑古武士道部の面々は、県道の山道をひたすらに駆けている。
数年前に軽トラックとの接触事故に遭遇して以来、校外の道路での修行は学校から禁止されていたのだがー
顧問の柴田教諭に掛け合い、このままでは近畿大会でスタミナ負けしてしまう、名門校の栄誉が地に落ちると説得し、柴田が校長と掛け合い、自分が自転車で部員を見守ることを前提に校外での修行を認めさせたのだ。
この決定に殆どの部員が不満タラタラであり、自然駆ける足取りも重く、折角昨日マスターした呼吸法もイマイチ効果が見られない状況だ。
滝汗を流しながら自転車を漕ぐ柴田は、
(忠太は目的意識を持ち良くやっているが、周りがそれについてきていない。意識の共有が出来ていないのだ)
と気付いてはいたが、それを自分が指摘するのは彼らの成長を妨げるのでは、と危惧し敢えて何も口を挟まずにひたすらに走行の安全を見守っている。
忠太は忠太で皆の士気の低さ、すなわちやる気の無さに苛立ちを感じ始めており、
(あれだけ言ったのにどうして皆はついてきてくれないのか、近畿大会で勝ちたくないのだろうか)
と部員への不信感さえ芽生え始める事態である。
部員達も忠太の強引な修行に反発を持ち始めており、
(どうしてスタミナをここまでして上げねばいけないのか。もっと技を磨くべきではないか)
(これは古武士道部ではない、陸上部ではないか。修行ではない、練習ではないか!)
(もうヤダヤダヤダ無理無理無理、土山先輩みたくブッチしたろかな)
そんな不満が今にも爆発しそうな状況となっている。
修行終了後。副将の真央が珍しく疲れた表情で座り込んでいる。忠太がそっと近づき隣に座る。
真央は忠太をチラリと見、
「ちゅーたも正しい。スタミナは必要や。だけど、皆の不満も分かる。やらされ感がパねえ。あーーー、あたしゃどーしたらええんじゃ、副将としてどーすりゃええんじゃー」
そう言うと地面に仰向けに倒れ込む。
忠太も頭を抱え、
「どーして分かってくんねーんだよ… 今のままじゃ絶対ヤツには勝てねえ…」
そんな二人を眺め、やがて柴田はゆっくりと歩み寄り、
「ちゅーた、真央、お疲れさん」
敢えて気の抜けた口調で語りかける。
「なんや、なんか問題でもあるんか?」
忠太は膨れっ面で、
「見てりゃわかんだろ。どーしてやる気ねえんだか、アイツら。問題意識が低すぎなんだって、自分たちの立ち位置が分かってねーんだって。なーシバセン、どーしたらアイツら自覚してくれるんかなぁ…」
柴田は驚いたフリをしながら、
「お前… 教室とのギャップが凄えな、よく見えとるし分かっとるなぁ、さすが大将や」
忠太は少し溜飲を下げ、フンとそっぽを向く。
「昨日、お前はチームの問題点とその改善法を認識し、それをアイツらにちゃんと伝え理解させた。さすが大将や」
「そーゆーのいいから。で?」
「だけどなお前、アイツらの話や意見、ちょっとでも聞いたか?」
忠太は柴田に向き直り、
「へ?」
「お前が一方的に話すだけ話して、その後アイツらの考えや意見を聞いたか、言うてんのや。」
「そ、それは…」
柴田はニッコリと笑いながら、
「要するにや、一方通行のコミュニケーションだった訳や。お前の意見を一方的に伝えただけで、そのフィードバックを得なかった。違うか?」
「まあ、そうかも…」
忠太の汗まみれの頭に手を置き、
「それでは人はついてこんよ。一方的な指示命令を受けそれを実行するんはロボットや機械や。相手は人や、機械やあらへん。人と意思疎通するには、双方向の意見交換が必要なんや」
「双方向の、意見交換……」
「そや。お前の的を得た強化策も、ただ伝えるだけでは相手に刺さらん」
忠太はハッとなり、身体を起こし、柴田に向き合う。
「俺はこう思うからこうしたいと考えとる、お前はどう思う? じゃあお前は? そうやって皆の思いを拾い集め、皆の思いの方向性を一方向に定める。それが上に立つモンの役割やないか? どうやろ、真央はどう考える?」
真央も既に身を起こし、柴田に向き直っており。
「そうじゃね、うちももっとみんなの意見を聞いた方がええと思う。走りとうない奴にゃあなんで走りとうないか聞くべきじゃと思う。」
柴田は微笑みながら頷き、
「どやちゅーた。明日にでもちょっと意見集めてみたら?」
忠太はコクリと頷く。
「ちょーどいいや、シバセン、土山のことどう思う?」
かつてない真剣な眼差しに柴田は身が引き締まる思いで背筋を伸ばした。
「あいつ、熱が下がらねえとか言って修行サボってんじゃん。それって、絶対県大会で途中交代させられた腹いせじゃん。そんでさ、昨日真央と喋ってさ、アイツとじっくり話そうってなって。だけどさ、連絡しても既読スルーな訳よ。話になんねえ訳さ。なあ、俺、どうしたらいい?」
言葉は拙いが、忠太の大将としての責任感が随所に感じられ、またそれによる苦悩も窺い知れた。名門校の部活のトップに立つ者故の悩み。これは上手く対処せねば……
「その問題はな、俺のような未経験者では上手く言えん。高等部の前田先生に相談してみいひんか? きっとこれまでにも似た経験を多く持ってはるさかい、ええ解決策をお持ちやと思うで」
忠太は真央に振り向き、二人は頷き合う。
柴田と二人はよっこらしょと立ち上がり、高等部の修行場へ歩き出す。
高等部も丁度午前の修行を終えた所らしい、道士たちが三々五々修行場から立ち去っていく中、前田教諭が数名の道士と立ち話をしている。
三人がその様子を伺っていると、前田はこちらに視線を送り、
「何か用ですか?」
柴田は会釈しながら、
「ちょっとコイツらが先生に相談ある言うてます」
相談? 前田が代名詞である冷徹な視線を忠太と真央に送る、二人は一瞬で凍り付く。
話を終えた前田がこちらにやって来る、心なしか気温が三度ほど下がった気がした。
「伴大将。和田副将。相談とは?」
忠太はゴクリと唾を飲み込み、土山の件について吃りながらもなんとか伝える。県大会での出来事、この数日の彼の態度、ひいてはこれまでの彼の性格と修行態度、などなど。
前田は冷たい視線のまま、
「それがこの高等部での出来事であるなら、即刻退部届を出させます。」
退部… 真央が思わず呟く。
「ええそうです。古武士道は団体種目であり一致団結の精神なしでは成立しない武道です。一人でも利己的な態度を取るものがいれば、そのチームは古武士道たり得ないのです。もし貴方方が中等部を古武士道部として存続させたいのであるなら、その彼は不要ではないですか?」
でも、まだ話をしてなくて……
「話し合いの場を設けようとしたのに拒絶したのでしょう? それ程までに幼い精神に古武士道士としての魂が宿り成長していくとは到底思えません」
忠太は初めて前田の目を見ながら、
「でも、もし強制的に退部させたら、他の部員が反発してチームはバラバラになるのでは?」
前田も忠太の瞳の奥まで探る視線で、
「そんなことで反発するようなチームが近畿の頂点を取れると、貴方は思うのですか? そんな甘っちょろいチームがあの伊賀中等教育学校に勝てると、本気で思っているのですか?」
これは…ちょっと二人には荷が重いかな、柴田はそう思い、
「前田先生。貴重なご意見ありがとうございました。持ち帰って検討させていただきます」
前田はフンと頷き、
「柴田せんせ。後ほど高等部教員室へ」
柴田は苦笑いしながらペコペコ頭を下げ、二人を連れて修行場を去った。
中等部修行場には誰もおらず、ただ強い日差しが照り付けている。熱気がムンムンと立ち昇り、立っているだけで額から汗が湧き出てしまう。
「どうするお前ら」
柴田がさりげなく切り出す。忠太は首を何度か傾げ、俯いてしまう。
「真央、どうする?」
真央は両手を後頭部で組み、背を逸らしながら空に浮かぶ雲を睨みつけている。
柴田は根気強く答えを待っている。ここでこちらから提案をすれば、この子達の成長の邪魔になるーそう信じて。
やがて、忠太が鼻を啜りながら、
「話がしたい、健斗と。これから健斗をここに呼び出そうと思う。話そうと思う。それでもアイツが断るならー」
深く息を吸い、
「退部勧告―しようと思う。だから、せんせ、真央、」
大きく息を吐きながら、
「一緒にいてくんね?」
真央はニッコリと頷き、柴田は優しく忠太の肩を叩いた。
忠太の送ったメッセージは即既読が付いたが、いつまで経っても返信は無い。
三人は木陰に座り、健斗の返信を待っている。
気温は更に上昇し、日向には立っていられないほどだが、木陰は大分涼しく、昼過ぎから吹き始めた風が逆に心地よい。
メッセージには、健斗の今後についてきちんと話し合いをしたい、三時までに修行場に来られたし、もし三時までに来ない若しくは返信なき場合には、相応の沙汰を下す所存である、と記している。
柴田が安物の腕時計を見ると、二時半を回った所だ。未だに返信は無い。
忠太と真央は入学以来の仲間である健斗との思い出に耽っている。
静岡県出身の健斗は『海道一の土山』と呼ばれ鳴物入りで入学した。忠太には僅かに及ばなかったのだが、上級生相手にも全く怯まず立ち向かっていく強い精神の持ち主で、将来を嘱望されていた。
だが、コロナ禍で修行は減り大会は無くなり、徐々に古武士道への直向きな心が削られていく、二年生の半ばには後輩に体罰を加え一週間の部活停止処分を下された。
元々直情型のタイプだったが更にキレやすくなり、三年生になると新入生への罵詈雑言は絶えることはなく、同期から幾度も注意を受けていた。
そんな健斗だが、一年生の頃は古武士道への情熱も相当であり、修行場を最後に去るのは忠太と健斗であった程だった。
正義感も強く、上級生に虐められた同期がいるとその先輩に食ってかかり、弓役の美咲や大久保からは絶大な信頼を受けていたものだった。
忠太はそんな健斗が嫌いではなく、むしろその強気な部分がチームに必要であると思っている。
「せんせ、今何時?」
柴田は時計を見て、
「四十五分や」
真央は大きく背伸びをし、そのまま仰向けに寝転がる。
忠太は自慢の視力を修行場の出入り口に集中させる。
来た!
人影が忠太の視野に入る、だがそれは忘れ物を取りに来た一年生であった。
忠太の腹がグウと鳴る。そう言えば三人は昼食を取っていない。
時計は五十五分を指している。
忠太の視線はスマホの画面と出入り口を彷徨う。
「このままバックれること、ないじゃろな?」
真央が寂しげな口調で呟く。忠太はそれに答えずに首を振る。
健斗… このままじゃ俺、お前を辞めさせなきゃならねえ。お前それでいいのかよ? まだやりきってねえだろ、近畿のトップ取ってねえだろ?
一年の時、自主練の後に言ったの覚えてんだろ、二人で近畿きっての刀役と呼ばれるようになるぜって……
忘れてんなら思いだせ、今ならまだ遅くねえ、お前が後輩引っ張って行って、伊賀中等とぶつかりゃあーーー
ブルブル ブルブル
三人の目は忠太のスマホの画面に吸い寄せられる。
健斗からのメッセージが、来た!
『既読スルーばっかで悪い。思う所あって、今日で部活辞めるわ。俺もお前とじっくり話したかったが、今の俺には出来ねえ。だから、今思うところをこれで伝える。入学する前、俺は一番だと思ってた。だけど入ったらお前がいた。俺は一番でなきゃダメなんだ。今の部活にはお前だけでなく百地もいる。俺は一番どころか、三番以下になっちまった。正直、お前が憎かった。お前さえいなければと何度も思ったし今も思ってる。でもお前がいなければ甲学は近畿で勝てねえ。俺がトップではぜってえ勝てねえ。県大会でそれが分かり、俺は俺に絶望した。だからお前に託す。甲学を近畿一にしろ。お前がするんだ。お前が甲学を引っ張っていけ。俺は古武士道を辞め、勉強に集中する。そして京大に現役合格する。勉強でこの学校のトップになってみせる。最後に貴様にこの詩を送り退部するものとする。
君去春山誰共遊
鳥啼花落水空流
如今送別臨渓水
他日相思来水頭
土山健斗』
忠太は言葉を失い、そして何度もメッセージを読み返す。
スマホに設定した三時のアラームが虚しく修行場に響き渡る。
しばらくして、このメッセージは全部員に送付された。
甲賀学苑は傲慢なほどの勝ち気を、失った。
* * * * * *
福島県 会津若松市
甲賀学苑中等部古武士道部三年生の小川蓮兎と二年生の三雲三次は、手に入れることのできた日本刀に喜色満面の笑顔を見せていた。
四月末に行われた滋賀県大会にて二人は愛刀を折ってしまい、三次の親戚筋の刀工の元に新たな刀を求めて、遥々甲賀よりこの地に来ていたのだ。
「全くおめは未熟者だがら家宝の兼定折りやがって。まあ仕方ねえ、これがらはこの刀三雲家の家宝にするがいい」
会津十七代孫吉兼定であり叔父の三雲正吉から手渡された逸品。刃長七十一センチ、反り十四ミリ。地鉄は小板目基調に全体に柾目がかかっており、刃文は物打ちで大きく乱れており、一見名刀和泉守兼定かと見まごうばかりの出来である。
孫吉は三雲本家の跡取り息子の為、数年前から製作に没頭しており、偶然にも先月末に仕上がった自慢の一刀なのである。
三次が世話になっている先輩道士には、一番弟子の作を惜しげもなく渡し、蓮兎を狂喜乱舞させたものだった。
一刻も早く甲賀に戻り、修行に入りたいと思っていた蓮兎だったが、
「折角遠ぐからおいでなさったのだがら、見でいぎらんしょ」
と孫吉に言われ、三次と共に日本刀の作刀工程を見学することとなる。
日本刀の作り方は複雑で流れ作業でサッと出来上がる代物ではない。
素材である玉鋼をたたら製鉄で精錬することから始まり、鋼の炭素量を見極める『水減らし』、鋼を積み重ねる『積み重ね』、それを加熱する『積み沸かし』と『本沸かし』、熱した鋼を折り曲げ鍛える『鍛錬』、刀身の構造を作る『造り込み』、刀身の形に打ち伸べていく『素延べ』、『火造り』『焼き入れ』などの幾重にも渡る工程を経ることにより出来上がるのである。
三次は幼少より叔父の作刀場に出入りし、各工程を眺めていたものだったが、蓮兎にとっては初めての経験である。
どの工程も初めて見るものであり、その迫力に圧倒されたものだった。
その中でも、『鍛錬』の工程作業を見て、絶句する。数名の刀工が完璧なチームワークの元、真っ赤な鋼の塊を打ち伸ばしては折り畳んでいく。説明によると、何度も叩き折りたたむことにより鋼の炭素量を均一化させるための作業とのことだったが、実に息の合った刀工たちのリズミカルな叩きに人智を越える何かを感じたものだった。
そして。
数週間前の己の所業を思い出し、その場にしゃがみ込んでしまう。
三次の愛刀に小さなヒビを入れたことは誰も知らぬし、この話は墓場まで持って行こうと思っていた。
だが。
今目前で見た刀の製作過程、特に『鍛錬』の過程において、刀工たちの刀製作にかける情熱と魂を目の当たりにし、自分のしてしまったことが三次だけでなく、刀工達に対しても如何に許すまじき行為であったかを思い知らされたのだ。
「ど、どうしたんです蓮兎さん、気分でも悪くなった?」
県大会までは同じ刀役であったがそれ程親しくなかった。だが今ではすっかり打ち解けて、先輩と言うよりも尊敬する仲間、と思っている三次が心配そうに蓮兎に近寄る。
「ゆ、ゆ、許してくれ、三次…… 俺は、俺は、あああ…」
「許すって、一体どうしたんすか、蓮兎さん?」
三次は土下座をして頭を抱える蓮兎に驚き、しゃがみ込む。
「俺は、俺はあの前の日に、決して許されないことをしてしまった、ああああ…」
「な、なんすか、頭あげてくださいよ」
涙まみれの顔を上げ、蓮兎は絞る出すように懺悔するー
「俺は、試合に出たいがために、前の日に保管庫に入り、お前の兼定にヒビを入れてしまった……」
三次は愕然とする。と同時に、何故に家宝の兼定があんなに簡単に折れたのか、それも自分の未熟な腕のせいではなかったことが判明し、逆にホッとした。
同時に、家宝を傷付けた蓮兎に激昂し、蓮兎の胸ぐらを掴んだ。
「なんでごどしてけだんだ貴様! あれがどれほどの刀が、知らねぁーはずねぁーべに!」
だが三次はこれまでの彼の周囲に対する優しさ誠実さを思い返し、手を離す。どうしてこの人はこんなことを…
そして。理解する。そう、こんな仏様のような優しい人間でも、一時の気の迷いがあるのだと言うことを。そしてそうなった原因が、自分が彼よりも強い刀役だったからと言うことを。
俺は今まで、己の技を誇示してきた。謙虚さも無く、先輩を差し置いて本選入りをしても当然の実力だとばかりに胸を張ってきた。
もし逆の立場だったら、どうだったのか? 俺が本選を外され、後輩が試合に出ていたら?
唐突に己の弱さ、蓮兎の弱さが胸に染み渡っていく。この人のせいではない、俺が人として劣っていたから、あの兼定は折れたのだ!
「蓮兎さん、顔を上げてくれよ。俺が、俺が生意気だったんだよ、謙虚さのかけらもなかったんだ、だからアンタを追い詰めちまったんだ、ああ、許してくれ蓮兎さん、こんな未熟でガキな俺を許してくれよぉ」
蓮兎は驚いた表情で三次を見つめる。
三次は大粒の涙を流しながら蓮兎を見つめる。
しばし二人の思いが交錯しやがて一つになり。
二人の顔は歪み、そしてきつく固く抱き合った。
目を腫らしながらも晴れ晴れとした表情の二人が会津ラーメンを啜っていると、部の全体連絡ルームに健斗からメッセージが送られてきた。
「マジ、かよ…」
三次が絶句し、蓮兎を見つめる。
「どうしてこないなことに… えらいこっちゃ、部は大騒ぎやで」
「どうする蓮兎さん、明日じゃなくて、今夜中に戻ろうか、そんで朝の修行に出る?」
蓮兎は一瞬考え、深く頷き、
「そやな、明日はチュータが心配や。あいつ思い詰めてしまうかも知れへん、みんなで支えてやらんと」
三次はニッコリと頷き、
「それでこそ蓮兎さん。これ啜ったら新幹線乗ろ。銃刀登録はあっちでやろう」
「そやな、それでええ。よし、ここは俺の奢りや、これで兼定の件はチャラやで」
「やっすーー 七百円かよ、あの兼定、やっすー」
二人は顔を見合わせ爆笑する。
新しい刀と新しい絆を手に入れた二人は、甲賀学苑の近畿大会制覇のためにその力を惜しみも無く使うことを心に誓ったのだった。
* * * * * *
翌朝。
忠太はほぼ一睡も出来ず、ふらふらの身体で甲賀学苑の古武士道修行場に現れる。
メンバーはほぼ全員揃っており、蓮兎と三次は銃刀登録を済ませた後に来るので少し遅れるらしい。
真央がゲッソリとやつれ果てた忠太を心配し、
「大丈夫? お前、今日は休んだ方がええじゃろ?」
忠太は平気、と首を振ったものの。
実は今朝、人生で初めて便秘となってしまったのだった。どんなに睡眠不足だろうと疲労困憊だろうと、食欲と朝の便通だけは揺るぎない彼の生活習慣だったのだが、この数日の精神的ストレスが遂に彼の身体を蝕み始めたのだ。
いつもならば三杯はお代わりをする朝粥も今朝は二杯しか喉を通らなく、どれほど踏ん張っても便通の兆しすら訪れなかったのだ。
目は深く落ち窪み、目の下にはドス黒いクマができている忠太に、遥が
「大将なんか辞めちゃってお兄ちゃん、このままじゃお兄ちゃん……」
忠太の胸に縋りながら、
「私より弱い雑魚になっちゃうよぉ」
何も反応できない忠太の代わりに、小僧どもが爆笑しつつ、
「そよそや。お前なんか、大将に向いとらん」
「辞めちゃえ辞めちゃえ」
そんな忠太を醒めた視線で見ながら紅葉が一言、
「ゆー あー ぞんび。げっ らうと(お主は生ける屍じゃ、出て行けっ)」
皆はおおお、と呻き、それから大爆笑した。
部員達の前で昨日の土山健斗の件を説明している忠太を、柴田は真剣な表情で見つめている。
あの後、職員室の前田りえ高等部監督の元に行くと、そのまま水口の居酒屋に連行され、そこで
「中等部だけれど、上手くいってないみたいね。タスクの分散が必要じゃなくて?」
「伴に全てを任せるのではなく?」
「伴は実戦での大将を。それ以外は和田とあと誰かが修行内容の精査や部運営の実務を担わせる。あの子程、直感的な子はいない。頭や心よりも身体が反射的に動くタイプ。それも、我々凡人の想定を遥かに越える反応。ある意味、真の天才。そんな子に部全体を背負わせてはダメ。すぐに潰れてしまうわよ」
りえは柴田の手をしっかりと握りながら滔々と語る。さすが、この若さでも全国有数の指導者として知られた人だ。
柴田はりえの意見をもっともだと感じ、ミーティングの話し合いの流れ次第で自分が介入しなければ、と思っている。
忠太は額に脂汗を浮かせながら、必死に皆に説明している。柴田は拳を強く握りながら、
(がんばれ、チュータ。俺がついとる。俺が支えたる)
知らずのうちに、拳から手汗が滴り落ちる。
「…と言うわけで、土山は退部することになった。何か意見あるやつ?」
皆、俯いたまま無言を通す。
「じゃ、土山の件は以上で。あと、一つお前らに聞きたいことが、ある。」
皆が顔をあげ、忠太を見上げる。
「昨日までの修行に関して、意見ある奴の話を聞きたい。美咲、お前から」
ええええー 無茶振りされた美咲はあうあう言いつつも、
「あんなぁ、ウチら弓役ぅー、スタミナいらんとちゃうかぁー それよりもぉー研ぎ澄まされたぁー集中力鍛えた方がぁーええかもぉー なんちってぇー」
最後にテヘペロする美咲に、同じ弓役の大久保充が同意する。
「それなっ まさにそれなっ 俺ら弓役? 木の上におる訳やんか、スタミナは正直カンケーないわー」
一年や二年の弓役達もなんとなく同意の相槌をする。
槍役からも声が上がる。三年の佐治が、
「槍もスタミナよか、重い槍振り回す筋力つける筋トレの方が効果的じゃと思うんやが」
身長183センチ、体重100キロの巨漢の二年生槍役である服部光輝も
「そっすね、筋トレの方が効果的だと思うっす。スタミナよりも筋力っす、そうだろ杉谷」
一年生ながら身長180センチある杉谷美晴に振ると、
「わ、わたす、走るの苦手だど、槍振り回すの得意ですので…」
その内に刀役からも否定的な意見が出始める。
「登録メンバーの人達だけでやるべきかと。正直一年生の僕らはキツくてついて行けへんですわ」
長野琴美の弟、鍵が当然の如く主張する、その夜、姉から折檻されることも知らず。
同じ一年の刀役の黒川と相場が激しく頷く。
一年生には、キツすぎたのか…
忠太は話に頷きながら、もはや俺の手には負えねえ、正直そう思い始めた。
そろそろ、出番かな。
柴田がそう思い、声を上げようとした時。
「おっ 久しぶりみんな。遅れてすまんすまん」
小川蓮兎が笑顔で現れる。下級生達は仏の小川さんの来光に歓声を上げ、
「聞いてくださいよ蓮兎さん、ちゅーた先輩のムチャ修行…」
「蓮兎さんなら、どーします?」
「うち、走るのリームー、なんとかしてよ兎ちゃん!」
ハッハッハ、と下級生達のボヤキを聞き、
「そかそか、それは難儀やったな、うん、うん」
と笑顔で頷く。
おお、さすが仏の蓮兎様、話が分かるぜ、蓮兎さん大将にどうや、などと飛び交う中。
「ちゅーた。その走り、俺にも教えてくれへん? 俺、本選に入りたいし、この腹なんとかせなあかんし」
と言いながらはみ出た腹をタプタプする。数名の後輩はプッと吹き出すも、一同、えっ? となる。
あの穏やかで優しい蓮兎先輩が、目をギラギラさせて本選入りたいと宣言…
蓮兎はギラリとした目で後輩達を見回し、
「古武士道にスタミナなんていらん、て? まさか本気で言うてる奴、おらんよな?」
…どうした蓮兎パイセン 皆、まじまじと蓮兎を見つめる。
「ま、刀役は十走るとしたら、槍は七、弓は三。そんくらい走らにゃ近畿大会で一勝もできへんよ」
三年生までも、ゴクリと唾を飲み込んだ。
重い澱んだ空気を切り裂くように、三雲三次がひょっこり現れ、
「遅くなりました、刀の登録に行ってました。あれ、走りまだですか? さ、行きましょう、ちゅーたさんの甲賀忍法、めっちゃ楽しみにしとったんですよ。コラァ、一年坊、何座ってんじゃあ、とっとと立って、道具持ってこんかぁ、ほら二年もとっとと動けい!」
呆然としている一、二年生の中から二年生のエース望月一宇がサッと立ち上がり、
「いつまでグダグダ言ってんのや! 文句あるヤツは今すぐ家に帰れ! 蓮兎さん、弓も十走りますから。行くで!」
あの、クールな一宇が……
腰を抜かしている三年生達をひと睨みし、
「本選メンバー、一、二年で全部貰いますから」
同じ弓役の大久保充、小泉浄蓮がパッと立ち上がり、
「冗談やない、さ、行くで」
「コイツら… 行くぞわれら! 下級生に言わしぇとえてええのかよ、ちくしょう!」
三年生がパラパラ立ち上がり、道具を取りに部室へ向かう。
蓮兎が忠太に近寄り、耳元で囁く。
「お前は試合に専念せい。他のことは俺に任せろ。俺が全部引き受ける。アイツらの文句、不平、不満、全部俺が引き受ける。そやから、」
肩をポンポンと叩き、
「近畿の頂点の景色、俺らに見せてくれや」
ニヤリと笑い、蓮兎は一年生のケツを蹴っ飛ばしに向かう。
三次が忠太に近づいてくる。
「見てくださいよ、この刀。ヤバいっしょ?」
忠太が新品の刀を眺め、首をカクカク振ると、
「下級生は俺に任せてください。文句言うヤツはこれでぶった斬りますから」
そう言うと、本当にその刀でモタモタしている一年生のケツを斬りつける。
なにが、どうして… 忠太が唖然としていると背後に人気を感じ、振り返る。
「アンタに付いていく。そんでアンタを超えてみせる」
一宇が凄まじい殺気を忠太に送り、部室に去って行く。
忠太はよたよたとその後を追っていく。
そんな彼らを眺めながら、柴田の全身は鳥肌が立っている。余計なこと言わんでよかった… ホンマにコイツらは凄い、俺の中坊の頃より遥かに凄い…
古武士道、ホンマに、凄い……
もっと勉強せなあかん、顧問の俺がもっと知らねばあかん。
柴田はスマホを取り出し、前田りえに今晩も色々教えて欲しい旨を認め、自転車置き場に走って行く。
* * * * * *
「使い方はすまほとほぼ同じやね、おおお、なんと美しい画面、快哉快哉」
紅葉は渡されたiPadをタップしながら大喜びである。
八田はさすがにまだ早過ぎると主張したのだが、田所は
「彼女なら大丈夫だろう、それに語学取得には好きな映画やアニメをその国の言語で観るのが一番手っ取り早いからな」
そう言って、さっさとタブレットを用意し先ほど紅葉に与えたのである。
「紅葉ちゃん、好きな映画とかってある?」
紅葉は首を振りながら、
「てれびすら観せてくれへんし。今まで見たことないわ。ああ、すまほでゆうちゅうぶはたまぁに見るで、皆阿呆なことばかりしとって笑止千万、見る価値も無きくだらなさやけどな」
嘘である。牛乳を鼻から飲む動画やラー油でうがいをする動画を見ては、腹を抱えて笑っているのである。
「そうか。では、そのiPadの『旅のお供』ってアプリ開けてみてくれるか」
紅葉がササっとタップする。
「そう、その中に『映画』ってあるだろ、それタップして」
「ほう、ほう。色々おもろそうな芝居があるの」
「そこに、『ラストサムライ』って映画があるんだ、みつけてごらん」
紅葉がスクロールを繰り返し、
「ほう。これかの? ふん。らすとな侍、とな。どれどれ…」
映画が始まり、紅葉は無言になる。が、即座に、
「おおお、街が揺れとる、おおおお、なんじゃこのだぶりゅう、びー、とは、おおお、動く動く、これは愉快な」
オープニングでこれかよ… 八田はプッと吹き出し紅葉に微笑みかける。
「おおお、この景色、どこの山じゃ、爽快なー おお、外国人が話し始めたぞ、えええ? 日本語ではないか、字が浮かびあがっとる、おいハチ公、なんじゃこれは!」
八田は腹を抱えつつ、
「これは字幕や。英語を日本語に翻訳して表示させているんや」
「なんと器用な… だが英語よりも先に日本語が浮かび上がるぞ、素早い仕事じゃ」
「あーー、これは映画だから… 全部、撮影した後に編集してからー」
「撮影? へんしゅう?」
「そのスマホに動画撮影モードあるやろ?」
「お、おお。あるともあるとも」
「それと似たやつでさ、景色や演技を録画するんや、それを後からみんなで繋げたりカットしたりして、後からセリフを入れたり音楽を入れ、それからセリフに合わせて字幕を入れて行くんや」
紅葉は愕然とし、
「なんという… ふむふむ、日本列島、な。なるほどそのように生成された… 筈ないであろう、地殻変動、ぷれえとてくとにくすにより出来たのじゃ、嘘つきめが。ん? 名誉。そやな、ある意味名誉に命かけるのは正しいの。おお、虎を追い詰めし槍隊、どこの軍勢じゃろ、おおおお……」
この二時間三十四分の間。英語の勉強どころではなかった、初めて観る映画に大興奮の紅葉を見ながら、田所はやり方を間違えたと反省する。だがこの時間で、戦国武士と令和人のギャップを多々見出し、実は大変有意義な時間となる。
「分かるぞ分かるぞ、おーるぐれんの気持ち。戦なぞないに限るのじゃ、平安が何よりじゃ。いや、それにしてもあの連射式種子島は面白い、うちなら全て弾き返してくれようぞ、かっかっか」
あああ、すっかり武士に戻ってしまった… 田所と八田は苦笑いしつつも、
「どうだった紅葉ちゃん、少しは英語の勉強になったかい?」
紅葉はキョトンとし、
「じゃぱん、は分かったぞ。だが他は珍紛漢紛じゃ。それよりもあの勝元、面影がどことなく勝家に似ておるの、まさかあの役者、勝家が旅したのではあるまいの? まさかな、きゃはははは」
二人は顔を合わせ苦笑いするも、しばらくは令和のエンターテイメントに紅葉を慣れさせる方が良いと思い、紅葉に『もののけ姫』を勧めるのであった。
忠太と遥がげっそりしながら志徳寺に戻ると、紅葉が食堂で大興奮している。
「そこじゃアシタカ! 飛べ! かわせ! ええい、遅い、何をしている、この痴れ者が!」
タブレットの画面を見ながら自分も飛んだり跳ねたりしている… まるで五歳児のように…
「せんぱい、お姉ちゃんは何をしているのでしょう…」
「分からぬ… いいか、目を合わせるなよ、馬鹿が憑るぞ…」
「承知… 昼食の準備にかかります」
「ああ、頼む…」
遥がササっとこさえたチャーハンが食卓に並ぶ頃、コダマが若木の横でカラカラ頭を動かしエンディングとなり、紅葉も器用に首をカラカラ動かしていた…
「いやぁ、あにめはおもろいのぉ、また初めから観とうなるわ、どうじゃ忠助、チビハル、食後にもののけを共に観ぬか?」
忠太は大きく息を吐きながら、
「ねえ田所さん。すっかりコイツ武士に戻ってません?」
田所は頭を掻きながら、
「最初は英語の勉強のつもりだったんだけど。ま、いいんじゃないか。アニメも令和日本の大切な文化なのだからね」
「そうかなぁ、俺アニメとか漫画、全然知らねえし。遥、お前詳しいんじゃないか?」
「私もそれ程造詣深くないですよ」
忠太は照天をジロリと睨み、
「…おい。紅葉の為になるアニメ。何がある?」
待っていました、とばかりに照天が語り出す。
「そうやね、是非お勧めしたいのは『クロムクロ』やな、何せ戦国武士の現代タイムスリップの設定が紅葉ちゃんにピッタリや。それと『刀剣乱舞』は外せないのとちゃうか、紅葉ちゃんに 馴染みの武将や刀がぎょうさん出てくるで、あとはー」
「もっと、令和の中学生っぽいヤツ。英語の勉強にもなるやつ。これから中学生になるんだから、それの参考になるっぽいの!」
田所と八田はハッとする。成る程、令和の中学生の実態を知るにはそれが一番手っ取り早いのかもしれない。
突如、蕭衍が顔をあげ、ドヤ顔で、
「金八先生や」
小僧や忠太たちはキョトンとし、田所は顔を顰め、
「それ、昭和ですから。体罰やタバコ、不良、全然令和っぽくありません」
蕭衍はしょぼんとし、チャーハンを大口に放り込む。
照天は腕を組み熟考しながら、
「なかなかピンポイントでこれ、言うのは難しいですわ。高校生が舞台ならぎょうさんあるんやけどなぁ」
自分のスマホをいじりながら、
「そやな、『月はきれい』が無難やろな。主人公は中三、作家志望の男の子と陸上部の女の子の淡い恋を描いた名作やで」
最近のアニメにさっぱりな田所と八田、それに小僧達は首を傾げ、
「ま、無難なのから観てけばええんちゃう?」
遥は、
「ちょっと面白そう、お姉ちゃん一緒に観よ」
紅葉は姉さん属性を刺激され、
「お、おお。一緒に観るか」
そして食後、埼玉を舞台にした名作アニメを夕方まで堪能するのであった。
* * * * * *
初夏の陽気に恵まれたゴールデンウィークはゆったりと過ぎて行き、気がつくと最終日の日曜日となっている。
田所はこのゴールデンウィークの成果に満足しており、午後の新幹線で東京に帰る手筈を取る。
紅葉は日に日に令和の中学生らしく成っていく、所作も知識も習慣も。
懸念された英語だが、小僧達の協力が実りつつあり、日本語として話されている英単語はほぼマスターし、基本的な英文法も会得している。
「漢文と同じやな。主語の後に動詞がきて、目的語が続く。覚えてしまえば楽勝や」
忠太は成る程と思いながら、このままではすぐに紅葉に英語を抜かれてしまうかも知れぬ、と少し動揺する。
試しに編入試験の過去問題を解いてみると、国語と数学は十分に合格点、英語は半分は取れていた。
「十六日の試験まであと一週間ちょっとか。大丈夫、絶対出来る」
田所は何度も頷きながら紅葉の答案を眺める。そして初日の頃を思いだし、フッと微笑む、
鉛筆やシャーペンを初めて握った紅葉は、まともに文字が書けなかったものだ、試しに蕭衍の筆を持たせると、とんでもない達筆で皆驚いたものだった。
「これからは御朱印帳は紅葉ちゃんに書いてもらお。かっかっか」
蕭衍は大喜びしたものだった。
それも三日も経つと、上手にペンを操りだし、今持っている答案なぞ誰がどう見ても令和女子の文体のそれである。
ただ、国語の文章題の解答に丸文字で
『イーハトーブの冷害による飢饉を危惧するがゆゑ、』
と書いたり、志望動機を
『皇国の衰退を見過ごすは大和撫子の矜持―』
などと書き出したりするのは何とかしなければ、などと思いながら再度吹き出す。
少し気掛かりなのが。
昨夜、東京からの定時連絡にて。
『今年の秋に行われる国体古武士道の部にて、少なからずのオグネル社幹部の来日が予定されている。また各県大会のHPにロシアから多数の検索がかけられていたことが判明。早ければ夏までに道士への接触が予見されよう。なお既に東欧及びアフリカ、中南米の道士多数が同社と契約を結んだ形跡あり』
と言う衝撃的な報告が上がる。
忠太にその旨を正直に告げ、
「部活に力を入れるのは仕方ないが、くれぐれも目立たないように」
と示唆する。忠太も苦笑いしながら、
「それ、めっちゃ難しいんだけど。でも、仕方ねえよな、うん、何とかするわ」
と応じたものだった。
忠太は一人風呂に入りながら、この数日の修行について思い返す。
蓮兎達が戻って以来、部の雰囲気がガラッと変わった。蓮兎、三次、そして一宇が率先して厳しい修行に勤しむのに呼応し、他の部員達もそれを厭わなくなってきている。
特に一、二年生は目の色が変わり、絶対的だと言われていた本選に食い込めるかも知れない、とばかりに凄まじい気合で修行に挑んでいる。
それに押され、絶対的だと思われていた三年生達、特に弓と槍役達も、このままでは追いつき追い抜かれてしまう、と言う危機感を持ち始め、これもまた凄い熱量で修行に挑んでいる。
だが。
忠太は大きく伸びをしながら、風呂場の窓の外を眺める。
どうしても、刀が足りない。
土山健斗の抜けた穴は、途轍もなくデカい。
この穴を塞ぐには今のままでは絶対無理だ、更に厳しい修行をしても、あの伊賀の百地に対抗できるだろうか…
あの日の一瞬の激突を思い出す。信じ難いスピード、キレ、パワー。高等部の池田駿に匹敵せざるを得ない、といったところだ。この中等部に百地と互角にやりあえる奴は、いない。
「こら忠助。早よ出んか。いつまでチンタラ入っておるのじゃ、ノロマの阿呆めが」
と言いながら、紅葉がガラガラと扉を開け!
忠太は絶句しながら、慌てて窓に視線を送る。
「考え事でもしてたのか。いつもは雀の行水程度であるに」
紅葉が身体を洗いながら話しかける、この女、羞恥心と言うものは備わっていないのか…
「だから! これが令和風なのじゃろ? 『お風呂でえと』じゃろうが」
デートの意味がまだ分かっていない! デートは彼氏と彼女がするものなのだ!
「主人と下僕がしてもよかろう、これが令和の新すたいると言うものじゃ、かっかっか」
それはそうと。
いた。
あの百地に唯一対抗できる道士が。そこで男子の前で堂々と全裸で身体を洗っている現役戦国武士が!
「ふん。何じゃ、こないだの小僧のことで悩んでおったのか、何でもチビハルの兄者の。あれもチビハル同様、遅くて緩い、令和の世は平和で良いのう、かっかっか」
忠太は思わず紅葉に振り向き、
「馬鹿野郎、アイツに対抗できる奴が一人も居ねえのが問題なの! 俺でさえ、引き分けがやっとじゃねえかな… クッソ」
「ふっふっふ。それ故、うちの腕が早よ欲しいと。仕方ないの、本気は出さぬが助太刀するは吝かでないぞ、かっかっか」
「冗談じゃなくて。マジでお前、編入試験気合い入れてやってくれよ、これで試験落ちたりしたら、洒落になんねえからな」
紅葉は立ち上がり、胸を張って
「任せておけ。必ず試験を突破してやろうぞ。武士に二言はないっ」
忠太は力強く頷き、そして視線が本能的に下に降りてしまい……
「なんじゃ忠助、またちんぽが硬うなったか、未熟者めが、かっかっか」
俺、何か間違ってる? 自己不信感に苛まれてしまう忠太なのである。
* * * * * *
ゴールデンウィークが終わり、日常は平常に戻る。だが、古武士道部の修行は日々強度を増していき、紅葉の試験勉強も過酷さを増してくる。
毎日ヘトヘトになりながら寺に戻り、夜はみっちりと紅葉の試験勉強を面倒見る。
ゴールデンウイーク中に不眠症に襲われていた忠太だったが、それが嘘のようにピタリと治り、毎晩布団に入るや否やイビキを立て始める有様だ。
逆に、人生で初めての『試験』が近づき、紅葉は精神的に不安になっていく。睡眠時間は減り、食欲も落ち、ちょっとしたことで爆発することが増えてくる。
だがその度に妹分の遥が紅葉を支え、下僕分の忠太が叱咤激励するので、なんとかギリギリの線で紅葉の心は崩壊せずに日々は過ぎていく。
「あと三日や、残りは全て英語に集中するんや」
もはや別人の如く名家庭教師と化した珍龍が、採点をしながら宣言する。紅葉は
「おーけー、ぼす。あいうぃるすたでぃいいんぐりっしゅおんりい」
「Good. Next question is it. Do it within Ten minutes」
「かもんべいべー ふぁっくふぁっくふぁっく!」
…やはり英語の映画を観せたのは間違いだったのでは? 珍龍は頭を抱えつつ次の問題を紅葉に手渡す。
その同日から三日間、中間試験が行われる。忠太と遥は紅葉の勉強を見つつも己の勉強にも勤しまねばならない。
忠太はこの二年間、サボりにサボりまくったせいで毎回テストは赤点ギリギリだった。だが今年は部の大将、赤点なんて取ったら部活停止となり、近畿大会のエントリーから外れねばならない。
珍龍は忠太のテスト勉強も見てやり、その基礎がガタガタなのを知り唖然とする。
「お前、相当ヤバいで、同級生の誰かにしっかり教わらんとあかんよ」
試験一週間前から部活は中止。忠太は同級生の高野長英と長野琴美に土下座し、毎日放課後に勉強を見てもらっている。
遥は自分では『勉強するのやめたので』なぞ言っていたが、基礎はしっかりしており、それにまだ一年生の試験内容。三日程集中したら勉強の仕方を思い出したのか、あっという間に学力は向上し、
「これなら、上位楽勝で狙えるんとちゃうかな。」
と珍龍が唸るほどである。
「能ある鷹は爪を隠す、ってか? チビハルのくせに生意気や」
と紅葉が遥をこずくと、遥はちょっと嬉しそうに照れる。そして忠太に、
「お兄ちゃん。赤点取るようなバカだったのなら、妹やめちゃうからね」
と流し目をする。が、そこまで兄属性に満悦していた訳でない忠太は、
「おお、やめろやめろ、ついでに寺も出て行け」
などと冷たい言葉を発し、
「ひどいっ お兄ちゃんのバカ、うぇーーん」
と遥にウソ泣きされ、それを信じた行円と照天にコブができるほど殴られた。
珍龍が見るに。
紅葉は問題なかろう、だが生まれて初めての試験に緊張しなければ良いのだが。
遥はひょっとしたら学年トップをとってしまうかも知れない。
忠太はマジでヤバい、最悪カンニングでもなんでもさせねば赤点は確実だ。
である。
「おい忠太。洒落にならんぞ。あと三日間、寝ずに勉強しいや、でないと近畿大会、出れへんぞ」
忠太も忠太で、危機感が日に日に募り。と言うのも、同級生の高野と琴美に教わっているのだが、
「伴君、よく三年生に上がれた、ね……」
「伴君、ウチらにはどうしようもないよ、あとは自分で頑張らんと…」
と匙を投げられているのだから。
担任の柴田も大いに心配し、
「とにかく一点でも多く取るんや、あとは俺が土下座でも何でもして、謝るから、ええな!」
ここまで担任に言わせる中学生も少なかろう、忠太は一日ごとに心が削られていく思いなのである。
そんなある日。試験が明後日となり、放課後の高野たちとの自習を終え、トボトボと寺に戻る途中。
「おい伴。元気ないやないか、大丈夫か?」
と声をかけられる。
ふと振り向くと、高等部の大エース、十年に一人の逸材と呼ばれている池田駿がニコニコして立っているではないか。
「あれー、お久っす、お元気すかー」
駿は忠太に近寄りながら、
「県大会、大活躍だったらしいな。それに最近の中等部、メチャ気合い入っとるとみんな言うとるよ。大将、お前にして良かったよ」
忠太は大エースに言われ、ただただ照れる。
「なのにその浮かない顔、どうしたんや。相談に乗るよ」
この人は昔からこうだった。一緒に修行したのは一年間だけだったが、かつて見たことのない技のキレ、スピード、戦術の多彩さ、戦略の深さ、何を取っても忠太がかつて見たことのないレベルであり、初めてこの人の技を見た時は応禅寺に帰りたくなったものだった、だが修行が終わると大変気さくで、よく水口の定食屋に桃と一緒に連れて行ってくれたものだ、更に使わなくなった武具を気前よくくれたり、お古の服やジャージをポンとくれたり。
忠太は久しぶりに晴々しい顔となり、
「いやぁー、明後日からの中間テストが超ヤバいんっす。同級生にも見捨てられるほどに…」
そう言えば成績も学年トップクラスの駿に、一年生の頃方程式を教わった記憶が。
「なんだ、そんなことか。またてっきり桃にフラれて落ち込んどるのかと思うたわ、はっはっは」
…いや桃にフラれても全く問題ないのですが。
「よし、お前ちょっと明日の朝、早目に学校来れるか?」
おおお、まさかあの頃みたいに勉強教えてくれる?
「七時に、高等部の二年C組に来てくれ、ええな。ほな」
去り行く駿の後ろ姿に深々と礼をする忠太だった。
翌朝、七時ちょうどに教室に入ると、駿がニコニコと手招きをしている。そして駿の机の上に、数十枚のコピー用紙が乗っている。
「これな、三年の先輩に頼んで、中三の一学期の中間と期末試験の過去問のコピー、もらってきたで」
忠太は唖然とし、立ち尽くす。
「これ、今日からしっかりやるんやで。そうすれば赤点は絶対ないよ。それと、これは絶対に他人に見せたらあかん。試験終わったら、寺で焼くんやで。ええな?」
「…なんで、駿先輩、ここまでしてくれんすか… いや、死ぬほど助かるんすけど…」
駿は真剣な眼差しで、
「三年ぶりの近畿大会。絶対に優勝しろ。ええな!」
そう言えば駿先輩が三年生の時は、コロナ禍で大会が中止になりー
「そうや。俺は最上級生の時に、てっぺん取れんかったんよ。一年、二年の時は取ったけどな」
もし三年生の時に優勝していれば、前代未聞の近畿大会三連覇だったのだ。
「その通りや。だから、今年優勝すれば、事実上の三連覇や。史上初や。その大将がー」
駿は忠太を指差しながら、
「お前、や。そんなお前が赤点でメンバー外? 絶対にありえへん。甲賀学苑中等部の誇りと名誉にかけ、そんなことは絶対に許されんのや!」
忠太はこの二年間の学業を疎かにしてきた自分に正拳突きを入れたい気分だ。何なら後ろ蹴りもかましたくなる。
超一流の道士は学問も疎かにしない、むしろ成績上位を取る程に勉強も励んでいるのだ。そう言えば高等部顧問の前田先生も大阪大学に現役合格、伊賀の遥の母親も神戸大学だったらしい。
俺は今まで何してケツ噛んどったんや! 思わず関西弁で己を罵り、そして恥じる。
「絶対、赤点は回避します、いや、これから俺、めっちゃ勉強頑張ります、見ててください」
駿は暖かく優しい笑顔でゆっくりと頷く。
忠太はコピーを受け取り鞄奥ふかくに忍ばせ、何度も礼をしながら教室を出ていった。
* * * * * *
編入試験当日、すなわち中間テスト初日。
緊張で朝粥が喉に通らない程の忠太と紅葉、そして余裕綽々の遥が寺を出る。
「ちょっと、お兄ちゃん、お姉ちゃん。しっかり頑張ってよ。特にお姉ちゃん、緊張し過ぎ! 大丈夫だって、あんだけ過去問やったんだから、ね?」
紅葉はカクカク頷くも、県道への山道を三回も躓く有様。
対する忠太も、もう丸一日寝ておらず、目は深く落窪み頬はこけ足取りはフラフラであり。
「お兄ちゃんも。あんだけ頑張ったでしょ、大丈夫よ。ね、自信を持って!」
まだ十二歳の少女にここまで心配され慰められ勇気付けられ。
二人は妹の偉大さに目が眩む思いだ、よし、何とか試験を乗り越えてみせる、そう決意しヨロヨロと県道を学校へ向かう。
編入試験は国語、数学、英語の順に行われ、最後に学苑校長や理事と面談があった。
「蕭衍さんから話は聞いとったけど、山中さんは大変な人生送っていたんやね。そしてこれが初めての学校なんやね、どうや、学校楽しみかい?」
紅葉はコクリと頷き、
「志徳寺のみんなが楽しそうに学校いっとるさかい、うちもはよう行きたいです」
理事の一人が微笑みながら、
「学校行ったら、何がしたいですか?」
「うちは古武士道がしたいです」
おおおお! 校長、理事たちが歓声をあげる。
「そうかそうか。蕭衍さんのとこやから、さぞや鍛えられていることやろな。あの伴君もおるさかい」
「そう言えば、伊賀の百地翔琉の妹さんも志徳寺におるんやっけ? いや、まさに志徳寺は甲賀の梁山泊やね、今度の近畿大会ほんま楽しみや」
数日前に紅葉と面談した理事長も頷きながら、
「蕭衍さんのお墨付きやで、伴君や百地さんに匹敵する戦力やって。近畿大会の即戦力やで、これで三連覇は間違いなしや、ガッハッハ」
紅葉は当たり前やないか、と言う顔で澄ましている。
「ほなこれ位で。結果は夕方までに蕭衍さんに知らせます。お疲れさま」
紅葉は立ち上がり、ペコリと頭を下げて部屋を出ていく。
「あの、答案持ってきました」
教師の一人が採点したての答案用紙を理事会室に持ってくる。
「どや? 入れそうか?」
教師は難しい顔で首を傾げ、
「英語は問題ありません、ほぼ満点です。が……」
理事達は答案用紙を回し読みしながら、言葉を失う。
確かに英語は採点欄に98点とある。簡単なスペルミスで満点を逃したようだ。
「凄いやないか、帰国子女なんか?」
だが。数学の答案用紙を見た理事は息を止め、
「何じゃ、これ…」
答えが全て漢数字で記入されている!
176が百七拾陸、に始まり、 √伍 (a+参)弍
「答えは… 合っとるのか? なら、まあ、ええんちゃうか?」
理事長が苦し紛れに呟き、他の理事も仕方なしに同意する。
更に、国語。
漢字の書き取り問題、
滝が瀧、債権が債權、帝国が帝國、と丸文字で書かれており。
漢文に至っては、
『尽人事待天命』の書き下したのが、『人事遠尽久之天天命遠待川』
「答え、合っとるんか? どうなんや?」
急遽、国語の教師が呼び出され、表現としては旧仮名遣いや万葉仮名を用いているので間違いだが、内容としては正解、と相成る。
「子供の頃に頭打って記憶喪失やったな… 変な所を打ったんやろな…」
「蕭衍さんが変な教育したんやろ。古い経典使って文字覚えさせたとか…」
「あの寺、コレが出るさかい、大昔の幽霊に教わったんちゃうか?」
編入委員会は議論沸騰する。
答えは間違っていない、だが表現が令和として間違っている。このままでは他の生徒にも悪影響が、いやこれから正していけば良い、では誰が正していくのか、そんな人員を割くわけにはいかない、そこは周囲の協力を持ってすれば……
侃侃諤諤の議論は夕方まで続く…
* * * * * *
「そうか! 過去問がドンピシャか! 忠太、その先輩に感謝するんやで、ええな」
「おうよ! 早速さっきLINEしといたぜ」
「明日、明後日もその調子でやるんやで、今夜も徹夜や!」
「任せんかい、それより…」
肩をガックリと落とし、今にも死にそうな表情の紅葉に視線を向け、
「だ、大丈夫だって。問題は全部分かったんだろ、部分点くらいくれるって…」
珍龍も紅葉の肩を叩きながら、
「そやそや。入試やないんやし。ただの学力検査の試験や。表現の自由くらいあるで。きっと……」
紅葉は涙目で、
「もしあかん言われたら? 令和文字でなければあかん言われたらどないすんのや! 珍龍貴様、責任取れるんか! 腹切れるんか!」
と逆ギレする始末。
「それにしても… 昨日までちゃんと書けてたやんか、数字も仮名遣いも。どうしてそうなっちゃったのさ」
照天が心配そうに尋ねると、
「問題読むやん、これ出来る思うやん、いざ書くやん、気合い入るやん、そこで本性出てもうた…… あああ、愚鈍愚鈍…」
「採点した先生、腰抜かしたやろな… まぁ、理事長があれだけ気に入ってくれてたから大丈夫と思うんやけど…」
蕭衍が弱気な発言をすると、皆が一斉に
「絶対大丈夫言うてたやんか! このクソ坊主!」
「儂の教え子やさかい、間違いなく合格言うたよな、タコ坊主!」
「もし不合格なら、介錯しますわ。不浄和尚」
泣きそうな蕭衍の携帯電話が鳴る。皆が固唾を飲む。
「はい、はい。ええ、えええ? ホンマですか、ありがとうございます、おおきに、おおきに!」
一同、歓声を上げ紅葉に抱きつく。紅葉は呆然としたままである。
「はい、はい? ええ、ええ。さいですか、なるほどなるほど。ほな、儂が責任を持って、ええ、ええ。分かりました、はい、それでは…… ふぅー」
蕭衍はニヤリと笑いながら、
「これで紅葉ちゃんは甲賀学苑生や。中間テスト明けから登校やで」
うおおおおぉー
かつてない歓喜の声が志徳寺に響き渡り、山全体に伝播していく。
山中紅葉の青春時代が始まろうとしている。
その後、中間試験は滞りなく行われ、最終日の水曜日の昼に全科目が終了する。
仲間内での答え合わせが進み、部員の本選メンバーで赤点を取りそうな者はどうやらいないようだ。
「あの、忠太が。お前、どないなインチキしたんや?」
「スマホ使ったカンニングやろ? どうやったんや、教えんか」
「スマートウオッチを使ったって聞いたで、やるやんか忠太」
「あれー、V R使ったってぇー、聞いたよぉー」
「で。実際、どんなインチキじゃわれ?」
真央がニヤニヤしながら突っ込むと、
「ふっ 甲賀忍法に決まってんだろうが。よし、部活だ部活! 今日から走るぞっ!」
今日からまた地獄の修行…
だが。
運命の近畿大会は十日後に迫っている…
部員達の目は鋭く光り、無言で部室に向かって行く。
柴田は肩で息をしながら、自転車を降りる。久しぶりにあれだけ漕いだので、足がパンパンに張っている。
コイツら本当に化け物だ…
試験明けだというのに、山道のロードワークを二時間もこなしたのだ、それも誰も脱落することなく。
梅雨入りし、しとしと雨が降っている中、誰も足を滑らせたり足を攣らせることもなく、一心に走り続ける姿を必死に自転車で追いながら、誰も赤点が出ませんようにと油日の神様に祈るのであった。
ロードワーク後、役別に打ち込みなどをこなし、部活が終了したのは午後五時であった。
「おいちょっと聞いてくれ。実は俺の住んでいる志徳寺に、昔から保護されてた女子がいてさ、」
女子、と聞いて疲労困憊の三年男子は少し息を吹き返す、特に弓役の面々が。
「その子が先日ここの編入試験を受けて、合格したんだ。そんで明日から登校することになったんだ」
へー パチパチ そーなん ふぅーん
そんな塩対応に忠太は一呼吸入れて、
「実はその子。ずっと和尚に古武士道仕込まれててな、」
全員が顔を上げ、忠太の話に食いつく。
「その実力は。おい遥、どうよ?」
皆が遥に注目する。
「はい。普通に私なんて秒殺ですね」
……
声を失う。遥が、あの百地遥が秒殺される、だと……
「そいつが、明日からこの古武士道部に入部する。みんなよろしくな」
主に三年が怪訝な顔をするのを蓮兎がすかさず察知し、
「忠太と遥のお墨付きや、即戦力間違いなしやな、よぉし俺も明日から気合い入れんと」
真央が呼応するように、
「刀役か?」
「ああ」
「明日、楽しみじゃの、皆でぶちのめしちゃろうぜ!」
それなー 甲賀学苑舐めんなよぉー 締める、マジ殺す
若干私怨のこもった声も上がるも、みな少し楽しみな表情となる。
「蓮兎、なんかサンキュ。最近お前に助けられてばっか。まじ感謝」
忠太が蓮兎の肩に手を置き頭を下げる。
「いやいや。ほんまに俺の本選危ういから、気合い入れるっ言うただけやし」
更に新品の刀を眺めながら、
「俺はこの刀にかけて、このチームを近畿一にする。ただそれだけよ」
忠太は微笑み、
「その刀、めっちゃいいじゃん、見せて見せて」
「アホ、そないな汚い手で、ああ、触るな、汚れる、あああ… 舐めるな、あああ…」
その様子を三次が嬉しそうに眺めている。
女子部室裏。
二年生刀役の上野澪と大野雫が遥を呼び出し、囲んでいる。
「あんさー、ちょっとお前、最近調子こいてね? 何ちゅーたの寺にまだ下宿してんの?」
「マジ信じらんない。こないだ言ったよね、とっとと失せろって。うちらの言うこと、馬鹿にしてんの?」
遥は大きく溜め息を吐き、顔を上げる。
「だから何でしょうか? 人がどこに住むか、憲法で保障されてますよね?」
てめえ… このガキ…
二人が掴みかかろうとすると、遥はサッと身構え、鋭い目で
「やるのですか? 手加減しませんよ」
凄まじいオーラを醸し出す。二人は舌打ちし、
「ま。うちらもこんなゲスイことしたくなかったんだけどー」
「うちらの言うことシカトこくやつには、お仕置き必要だしぃー」
澪がスマホを取り出しスワイプする。
「この画像、お前のファンクラブのTwitterにぶっ込んでやろうか?」
「あと、学校中に広めてやろうか、ええ?」
スマホには、遥の下着姿で着替える様子が写しだされている…
遥は一瞬目を瞠るも、
「そんなことすれば、即特定されますよ。そうすれば部活停止処分、いや退部処分ですかね。ああ、ここは私立学校ですから退学処分もアリかと。それにー」
思わぬ冷静かつ冷徹な反撃に澪と雫はタジタジだ。
「そんな卑劣なことをする人間を伴先輩はどう思いますかね?」
澪と雫はハッとし、
「まあ、今日のところは、このくらいで許してやるよ…」
「これ以上、調子こいてんじゃねーぞ。行け」
なんて情けない姿を一瞥し、遥はその場を立ち去る。
だが。
何と言ってもまだ十二歳。
あんな破廉恥な画像が先輩の目に入ってしまったら、と考えると冷たいものが腹をよぎり、全身から汗が滲み出てくる。
そして寺に着く頃には全身汗まみれとなり、皆を心配させてしまうのであった。
* * * * * *
五月十九日 木曜日。
記念すべき紅葉の初登校は、あいにくの梅雨空の下、傘を差してのものであった。
「傘なぞ使ったこともないわ。じゃが武器にはなるのぉ、これは良い」
などと色々振り回すものだから、忠太はすっかりと濡れてしまう。
理事長の計らいで、紅葉は忠太と同じ三年B組となり、つまりは担任の柴田はこんな時期の編入生への準備で昨日はてんてこ舞いであった。
職員室で紅葉を初めて見た柴田は、その経歴を見てビックリする。
「え? 志徳寺って… 忠太と同居してたの? 知らんかった。そうかそうか、それで確か初めて学校に入学したんやね、そうかそうか。慣れるまでは大変やろうけど、しっかり頑張ってな、忠太もおるし、みんなクラスの奴らはええやつばかりやで」
物珍しげに職員室を見回す紅葉は空な返事で柴田を苦笑いさせる、
柴田は時計を見て、
「そろそろ行こか。ホームルーム始まるさかい」
「ほうむるうむ? 何の授業すんねん?」
ははは… 敬語のけの字もあらへん… 大丈夫かこの子、と心配しつつ、
「出席取ったり、連絡事項を言うたりするんや」
「ほう。出陣前の点呼と一緒やね」
? ちょっと変わっている子だとは教務課から聞いており、柴田へは特別に言葉の書き方遣い方を良く指導するよう引き継がれている。
「志徳寺にいた言うことは、ひょっとして古武士道も?」
紅葉はパッと表情を明るくし、
「そや。うちは古武士道の達人なんや。なーんちって、てへぺろ」
思わず出席簿を落っことしてしまった。
「おはよーさん。今日は編入生を紹介するで」
私立学校なので、転校生や編入生は珍しい。
「山中さん、入っておいでー」
教室に静々と紅葉が入ってくると、教室全体がうぉーーーと唸り声が響く。
田所の入れ知恵で、あまり目立たない生活を。スッピンでも飛び抜けて可愛い紅葉なので、少し容姿をダウングレードを、と言うことで腰までの長い髪は数日前に(自ら)カットし、肩までのボブを後ろでぞんざいに纏め。太い眉はそのまま、リップもスキンケアも一切なし。
なのだが…
「うぉーー、めっちゃ可愛い!」
「顔ちっさ! 目でかっ! 少女マンガやんか!」
「何これ、マジすか、女神降臨すか」
と男子が大興奮に陥る。
紅葉はちょっと緊張していたのだが、この光景が村の若人の集会を思い出させ、思わずそのノリで、
「おうわれら! 山中紅葉やでぇ、よろしゅう頼むでぇー、かっかっか」
とやったものだから、教室はかつてない大興奮状態に湧きかえってしまう。
男子からは現実にこんな子いるとは信じられぬ程の超絶美少女降臨、女子からは可愛いのにそれをひけらかさずまさかのオッサンノリと言うギャップ萌え。
休み時間のたびに紅葉の机は好奇心旺盛な男女に囲まれ、また久しぶりの大勢の同世代に囲まれて山中紅葉は幸せの絶頂にいた。
「噂にはきいとったけど、これが給食… おおおおお」
クラスメイトは紅葉の一挙手一投足に注目し、嬉しそうに一口ほうばる紅葉に、
「どや、給食の味は?」
紅葉は笑顔で、
「まっずー」
クラスは大爆笑だ。
柴田はこの様子を眺めながら、どうやら掴みは大丈夫そうやな、と一安心する。ちょっと変わった子なので、クラスで浮いてしまわないかが一番の心配だったが、それは杞憂で済んだようだ。
牛乳を腰に手を当てながら一気飲みし、
「代わりはないかぁー」
と言うとすかさず女子が一本捧げ、
「挨拶代わりじゃ、よう見とかんかい!」
と叫ぶや否や、鼻から啜り始め……
アイドル顔負けの可愛い子の鼻から牛乳、世界中でもここでしか見れぬであろう光景に、飲んでいた牛乳を鼻から吹き出す柴田先生であった。
放課後。
古武士道修行場。
遂にこの時が、来た。
紅葉がジャージ姿で忠太と修行場に現れると、目をギラギラさせた部員たちが整列して待っている。
「なんや、えらい殺気やな、忠助はそないに恨まれとるんか」
軽くズッコケつつ、忠太は緊張している。
もし、圧倒的な腕前を披露してしまったら? 秒でコイツらを叩きのめしてしまったら?
コイツのこの先は、かなり難しいものになってしまうだろう。
もし、サウスポーがコイツらに通用せず、皆に笑われたら? 刀を簡単に取り落としたら?
本選どころか、近畿大会のメンバー入りも諦めねばならぬ。
どちらに転んでも、大将として、保護者として厳しい立場に立たされるのだ。
忠太の口はカラカラに乾き、小雨降る梅雨空を恨めしげに仰ぐのであった。
「昨日話した、山中紅葉。三年生、刀役。紅葉、自己紹介」
紅葉はギラギラ睨み付ける部員達を見回し、フンと鼻で笑いながら、
「山中紅葉、三年生、刀役。自己紹介終わり」
とやったものだから堪らない。
真っ先に三年刀役の宇田かなが前に出て、
「実力見せてよ」
すると澪と雫が列を押し分け、
「うちも」
「うちも」
三次も興味深げに、
「じゃ、俺も手合わせ願おかな」
忠太は焦り、
「ちょ… そんな急に… 後ででいいだろ…」
部員達は忠太を無視し、その場に対戦用のスペースを空ける。
「木刀でいいよね、落としたら負け。誰か、あの子に木刀貸したって」
一年生の長野鍵が部室から木刀を一本持ってくる。それを紅葉に渡すと、
「ふんっ めんどいから、お前らみんな相手にしたるよ」
かな、澪、雫はキレる。と同時に紅葉に襲いかかる。
三次も眉を吊り上げ、木刀を頭上に構えるー
柴田は、それを止めようと口を開け……