第六章
その夜、忠太は誰とも口をきかず、風呂から出るとさっさと部屋に入り布団にくるまって寝てしまう。
厳密には布団の中で震えているのだが。
「お、俺、な、なんてことを、中一の後輩の、服脱がす、なんて… 死ぬしかねえ、死んで詫びるしかねえ、地獄だ、地獄に落ちるんだ、あああ… ああ… あ……」
仏下で育っただけに、罪と罰そして因果応報の意識は相当に強い。
だが、なんだかんだで丸一日の激闘を戦い制したのだ、しかも昨夜は一睡も出来ず。
布団に包まれ頬を涙で濡らしつつ、忠太は大きなイビキをかきながら爆睡するのだった。
そんな忠太に耳を塞ぎながら、紅葉は屏風越しにじっと布団虫を見下ろす。
あれは見まごうことのない、忠太郎どのであった。
初戦のラスト三分。フィールド上には忠助でなく、忠太郎がいた。忠太郎は周りを叱咤激励し、己を奮い立たせ、そして不可能を可能にした。
あの日と何ら変わらない、若き武のオーラを纏っていた。咄嗟に味方の背を乗り越え、得意の蜻蛉返りからの恐るべき斬撃。
甲賀の里での修行の時に、幾度も目の当たりにした、忠太郎の得意技『車落とし』。
間違いない。あの場にいたのは伴忠太郎信定その人だったのだ。
紅葉は思わずフィールドに駆け降りようとする。
だが、劇的な勝利に感極まった照天や八田に抱きつかれ、あの場に降りることが出来なかった、しばらくして忠太を眺めるとー
そこに忠太郎は、いなかった…
紅葉は布団に入り、目を瞑る。
だが瞼の裏に、あの時の情景が焼き付いておりー
忠太郎どのが吠える 忠太郎どのが駆ける 忠太郎どのが跳ぶ 忠太郎どのが…
全く入眠出来ない。
何故、突如忠助の奴は忠太郎どのと成ったのか。そしてどうして自分を待たずして消えてしまったのだろうか。
地頭の良い紅葉はハッと気づく、
もしや忠助は忠太郎どのの生まれ変わりではないだろうか
余りに似ている。
姿形、声音、走り方、照れると頭の後方を掻く癖。流石にイビキまでは知らないが。
だがこれがもし紅葉の推測が当たっているならば、全ての辻褄が合うのだ。そしてあの瞬間、忠助の中に眠る忠太郎が目を覚まし、一仕事の後また眠りにつく…
紅葉は一人納得し、そして目に涙を浮かべる。
どうして自分を探し求めなかったのか、と。
探して欲しかった。求めて欲しかった、そして抱きしめて欲しかった。
その身が実は忠助であったとしても、である。
ふと思い直し、寂しく笑う。
四百年以上経っているのだ、何度生まれ変わったであろう、きっと自分のことなぞどこかで忘れてしまったに違いない。
余りに、遠くに来てしまった…
涙は止まらず、いつまでも枕を濡らし続けていく…
不思議な夢を見た。
「お主はおなごのくせになまいきじゃ、わしに石つぶてなぞぶつけてくるとは、ふとどきせんばんであるぞ」
「ふん。そなたは男のくせにちょっとでこに石当たっただけでピーピーなきおって。それでもこうがぶしか、しれものが」
「ふんぬ… おぼえておれ、ずうたいばかりでかくてにぶい、このだいだらめ」
「ふんだ、だれがお主となぞめおとになってやるもんか! あにじゃに言われたけど、こんな泣き虫毛虫はまっぴらごめんじゃ」
「そなたの兄上からなんどもたのまれておるが。だあれがおまえなんて、よめにもらってやるものか。やぁーい、だいだらぼっちのだいだらひめー、やぁーい」
「ふん。五つにもなってそのおさなさ、ばんのいえも先が思いやられるのお、けんのんけんのん。お主、いまだねしょうべんをしてるときいたが、まことか?」
「だ、だれがねしょうべんなぞ… だ、だれが申したのじゃ、ゆるさん、ぜったいにゆるさんぞ、いえ、だれが申した?」
「ぷっ なんじゃほんまにねしょうべんたれたのか、このとしになって、ぶしの子としてはずかしゅうないのか、きゃはははは ちゅーたのしょんべんたれー、きゃははは」
「お、お主たばかったな、うらめしや… そこでだ、たのむ、たのむからみなには告げんでもらえないだろうか… のお、わしとそなたのなかじゃろうが…」
「きゃははは、やぁーい、ねしょうべんたれ、ねしょうべんたれ、やぁーい、きゃははは」
「たのむ、このとおりじゃ、ぶしのなさけじゃ、たのむーー」
「はなさんかい、しょうべんくさくなるやろ、きゃはははは」
「たのむ、もみじ、このとおりじゃぁーーーーーー」
パッと目を開く。泣きながら寝落ちしていた紅葉はたった今見た夢を思い出し、ちょっと吹く。
外は昨日と同様、真夏のような晴天だ。だが空気がちょっと湿っている、夜半から雨になるかも知れ……
くっさーー
部屋中が生臭い、それも魚類系の…
「おい忠助、起きよ、何ぞ臭うぞ、何じゃこの臭いは!」
忠太がムクっと起き上がり、紅葉を見上げる。しばらくボーっとした後、自身の身体的状況を把握し顔を赤く染め身体を丸める。
その様子に紅葉はつい今し方見た夢を重ね合わせ、
「まさかお主。この歳で、寝小便か。こら忠助、ぷっ いい歳をして、阿呆か、きゃははは」
最近、寺での自宅学習をサボりまくっている紅葉は知らない、思春期男子特有の生理現象を。
「やぁいねしょうべん小僧が、やーいお漏らし小僧が、きゃははは」
爆笑しながら忠太の掛け布団を剥ぎ取り、股間を必死で隠す忠太に
「それにしても、お主の小便は臭いのお、まるで腐った烏賊のような臭いじゃ。安心せい、皆には黙っておいてやろう」
忠太は昨夜といい今朝といい、一体自分がどれだけ前世で酷いことをしたのか考える、きっと性欲に塗れた爛れた生活を送っていたに違いない…
「その代わり。今日一日、うちの僕となれ、よいな」
まだ寝起きで頭の回らない忠太は、意味の分からぬままカクカク頷くのである。
「それにしても忠太、昨日の初戦のラスト、あんな技よう出したな」
昨夜忠太が誰にも会わずに寝てしまったので、朝食の席の話題は昨日の試合の話で持ちきりだ。
「まあな」
忠太が気まずそうに沢庵を齧る。
「連盟のホームページにでとったで、あの新技の名前、『忠太斬り』に決まったらしいの」
行円が物知り顔で問うと、
「試合の後で、連盟の人にどーするって聞かれたから、テキトーに」
まるで興味なさげに忠太が味噌汁を啜る。
「それより忠太はん、昨日えらい遅かったなあ、打ち上げの後、どっか行っとったん?」
「どこだっていいだろ」
行円がニヤついた顔で、
「昨日すれ違った時、なんや女の匂いがしたけど。遥ちゃんの部屋にでも上がり込んでたんちゃうか?」
忠太は飲みかけていた味噌汁を盛大に吹き出し、
「ば、バカ、そんな訳、ねーだろ」
昔から嘘が下手な忠太であり、そんな忠太を熟知している小僧どもは、
「う、嘘やろ… 遥ちゃんと忠太が…」
「ま、まあこいつはビビりやから、な、何も、できんかった、やろけど…」
「そやな、なんかあったら、今頃ドヤ顔やろうし。あれや、襲いかかって返り討ちされたんとちゃう、忠太はん?」
まるで昨夜の光景を覗いていたかの如く的確なツッコミに、全身真っ赤になって答えてしまう忠太である。
紅葉はフンと鼻を鳴らし、
「チビハルに夜這いをかけ、断られた、と。情けない、どこまでも情けない男やなお前は。」
小僧共が激しく同意しつつ、遥の貞操が保たれたことに大いにホッとする。
「元服した男子が夜這いも出来ず、寝小便を垂れる… 令和のおt―」
わあーーーーーーーーーー
突如忠太が絶叫し、紅葉の口を手で塞ぐ。
が、長年の山寺での生活で、五感を常に研ぎ澄ましている彼らが、紅葉の一言を聞き逃す筈もなく。
「ね、ねしょんべん… ぷっぷっぷ」
「いや、あっちの方やろ、クックック」
「なんと哀れな… 俺なら自殺モンや、こないな可愛い子の横で… ギャハハハハハ」
三人は腹を抱えて笑い転げる。
蕭衍は大人気なく忠太にザマアミロの視線を送り、満面の笑みだ、昨日の決勝戦の恨みをまだ根に持っている、大人気ない住職なのである。
滋賀県大会翌日の日曜日は、昨日同様に雲一つないスカっ晴れ、所謂行楽日和である。
新緑はすっかり濃い緑に変わりつつあり、水墨画の風景のようだった甲賀の郷も淡い水彩画の如く感ぜられる。
山の麓に広がる田圃は田植えの準備がなされ、一斉に水が張られている。その水が蒸化し辺りの風景を淡いものにしている。
山や郷に羽根虫が飛び交い、それを餌にする鳥が舞い踊る。そんな新たなる生の活発な循環と連鎖に満ち満ちている甲賀の郷である。
忠太はそんな活発な春の精春の残滓を外に干しつつ、空を見上げボーッとしている。
あっという間に、五月となった。正に怒涛のひと月であった。
三年生に進級、部活の大将に就任。名門校の大将になる、それだけで大変な責任と緊張に押し潰されてもおかしくない。
それに加え、全くの想定外―紅葉の出現。
紅葉との出会いに伴う様々な出来事、色々な人との出会い。彼女が現れてから、一日たりとてボーッとしている時間はなく、常に何かを考え悩み苦闘していた気がする。
忠太は洗剤のいい匂いがする敷パッドを干し終え、僧坊の縁側に腰掛ける。この天気なら夕方までには楽勝で乾くであろう。
背後に紅葉の気配を感じ、我に帰り振り向く。
「何を呆けておるのじゃ。おい忠助、らいんの設定が分からぬ、何とかせい」
「やだね、自分でやれ」
「ハア? お主は今日一日うちの僕なのじゃぞ、御託を並べずにとっととやらぬか」
「アイツらにバラしたじゃねーか。だから無効。以上。」
紅葉も忠太の隣にちょこんと腰掛け、真っ青な空を見上げる。
「良い天気じゃ。それにしても令和の気候は暑い、どうなっとるのじゃ…」
そう言いながらTシャツを指ではためかす。忠太の鼻に女子のいい匂いが入ってくる、横目で彼女を見ると… 何と!
「おいお前。下着ちゃんとつけろ!」
紅葉は眉を顰め、
「暑いから、要らぬ。蒸れるわ」
「いかん、断じていかん! てか、頼む、ちゃんと着けてくれ、な…」
「何故顔を赤くしておる? む? ほぉ、この乳のぽっちが気になるのじゃな、そうであろう? ええ?」
「まあ、そうだ、だから、頼む、下着を…」
「まあ、着けてやらんでもない。その代わり今週いっぱいうちの僕に…」
忠太は首を激しく縦に振りながら、だが視線はポッチに吸い込まれつつ
「分かった、なるなる、その代わり下着は必ず!」
紅葉はスマホをポイと放り、
「らいんの設定じゃ、ぶらじゃあを着けてくるまでに終わらせておけ、よいな」
よいしょと立ち上がるや、忠太の顔に尻を向け、
ぷぅーーー
「ふふふ、ざまを見よ、きゃははは」
精通をバラされるは、顔面に屁をこかれるは… 一体俺は前世で何をしたんだよ! 目に涙を浮かべながら頭を抱える忠太なのである。
* * * * * *
「何だこれ、『忠太斬り』って… あの子、こんな凄い道士だったのかよ… あんな澄ました顔してよぉ…」
警察庁生活安全局特殊旅行課の窓の無いオフィスに田所の呻き声が響く。
この課には土日もゴールデンウィークも無い。盆暮正月も無縁である。交代で休みは取るが、常に二名は常駐しているのだ。
五月最初の日曜日、しかもゴールデンウィークにも関わらず、そんな理由でこの部屋には田所、部下の鈴木次郎、田中華子が詰めている。
元幕末の旗本の御曹司である次郎が、
「見てくださいこの斬り下ろし… まるで忍びのようじゃ、真っ当な剣術にこのような技はござらぬ」
元昭和初期の女子学生である華子も
「そうね、何という身のこなし… まるで鞍馬天狗みんたわ。うんにゃ、むすろ牛若丸がもおべぃねじゃ」
二人とも興奮すると、かつての話し方に戻ってしまう、それが可笑しくて田所はクックと笑いながら、
「それにしても派手にやってくれたな忠太くん。まあ流石名門甲賀学苑の大将ってとこかな」
華子は額に皺を寄せ、
「しかしこれで、彼はあのスポンサーに注目されてしまいました。即ちー」
次郎も苦い顔で、
「公安関係も彼に対して何らかの動きを見せるかも知れませんね」
田所は大きく息を吐き出し、
「それなんだよなぁ、なあ華ちゃん、十九歳以上の道士であの会社にリクルートされた奴って洗い出せたかい?」
華子はムッとした顔で、
「それが意外にあの会社のセキュリティ固ぐで社員の情報中々集まらねの、涼ぢゃん」
彼女は非常に自尊心が高く、『ちゃん』扱いされるのが不愉快な様子。昭和初期の数少ない法科の女子学士としてのプライドを未だに保っているのだ。
「そ、そうかい。引き続きモニターしてくれよ、華子さん」
「承知しました田所さん」
やれやれと言う顔で一口コーヒーを啜り、
「紅葉ちゃん、スマホ上手に扱ってるみたいだな?」
「そうですね。初期設定から追加されたのがLINEとPASMOですね。LINEのIDは『もみじっち』。まあ無難かつ目立たなくて良いかと。今の所、寺の小僧らと忠太くんとの他愛もないトークだけです」
「そうか。忠太くんが色々設定してあげたのだろうな。検索の方は?」
「はい、古武士道関連のもの、主にルール関係、ばかりですね、あと近江古武士道研究会、鈴鹿寺、ああ昨日の相手ですね、それとー 水口の焼肉屋? 百地遥? ぐらいですかね。誰です、百地遥って? えーと。ああ、昨日の決勝戦で大活躍した子です」
「そっか。ま、問題ねえな。引き続きモニター頼むぞ」
「承知しました」
「それと。明日から俺甲賀に出張だからな。二人で留守番よろしく頼むぞ、二人で、な」
次郎と華子は軽く頷くと共に顔を赤くしている。
やっとお前らにも春が来たな、心から嬉しく感じる田所なのである。
その夜。即ち五月一日、日曜の夜。
食後、境内で忠太が紅葉と軽く打ち合いをしていると、田所から電話がかかって来る。
「はい、はい。分かりました、紅葉に伝えておきますんで。はーい、そんじゃ」
忠太は電話を切り、
「と言うわけだ。分かったか紅葉」
紅葉はちょっと眉を顰め、
「即ち。明日より田所どのと八田どのが一週間かけてうちに講義をする、と。してその内訳がー令和の女子学生として立派に性活できるように、と。」
「…生活、だ」
「お、おう」
「このひと月、お前がどれだけちゃんと令和を学んだかも試すってよ。大丈夫かお前、社会とか勉強したか?」
「バッチシじゃ」
「じゃ、日本の首都」
「東京」
「アメリカの首都」
「わしんとんでーしー」
「今年、西暦何年」
「ぐれごりお暦二千とんで二十二年」
「…? じゃあ、日本一大きな湖」
「おうみうみ… ではなく琵琶湖、じゃ」
「天下統一を果たした武将」
「うつけ三郎」
「朝鮮出兵した関白」
「猿」
「お前、途中からふざけてんな、明日からはちゃんとやれよ」
「ふん、言わずもがなじゃ、それより。誰か来るぞ」
と紅葉は山門に目を遣る。
「た、頼もーう」
か細い女子の声が夜の志徳寺の庭に響く。
夜目が効く二人はその姿に驚愕するー身体の半分程にもなる大きなリュックサックを背負い、更に片手にサムソナイトを携えた小さな少女がゆっくりとこちらに歩いてくる。
「あれは… チビハルではないか」
忠太はギョッとして遥を眺める、まさか昨夜の抗議に来たのでは…
遥は二人に気付き、砂利道を音も立てずにスタスタ歩いてくる。
「今晩は。支度をしていたら、こんな時間になってしまいました」
支度? この大荷物のことか? これではまるで夜逃げではないか…
「おうチビハル。どないしたんや、そないな大荷物で」
額に汗を滲ませた遥が何度か深呼吸をし、忠太を睨みつけながら、
「今夜から、ここに住まわせていただこうと思います」
忠太の手から木刀が落ちた。
とりあえず食堂に通された遥は、青ざめた小さな顔で口をへの字に結び、俯いたまま立ち尽くしている。
歓喜の思いを隠そうともしない小僧達と丸顔にいっぱいの笑みを浮かべた蕭衍と対照に、眉を顰めたままの紅葉と目を釣り上げて遥を睨み付けている忠太。
そんな彼らを目の前に、遥は意を決したように顔を上げ、滔々と語り出す。
「私、昨日の初戦でいかに己が未熟であるかを思い知らされました。私は敵の妄言に惑わされ心が掻き乱され、あのような無様な姿を晒してしまいました」
え? そうだったん? 小僧達はざわめき囁く。
「仮にも私は甲賀学苑の切込隊長、そんな私が心の乱れによって開始数分で脱落し、危うく甲賀学苑を敗退させてしまうところでした」
(切込隊長、なんか? この一年生が?)
(いや… そこまで求めてねえし、そんなこと頼んだ覚えもねえ)
(それに別に遥ちゃんのせいで負けそうになった訳では…)
(断じてねえ、そんなことは)
「私は今朝起きてからずっと考えました。どうして私ほどの技とキレがありながら、あんな醜態を晒してしまったのかを。そして分かったのです、私は余りに心が未熟であるとー」
そうか? 全然… めっちゃしっかりしとるで とても十二歳とは思えへん
「更に私は気付きました。このままではいつまで経っても未熟であり、伴せんぱ… チームに迷惑をかけてしまうであろう、と」
忠太の尻に三箇所から蹴りや手刀が入れられる。
「故に! 私は今の環境を変えねばなりません、より厳しい環境で身体と心を鍛えねばならないのです」
唖然とする小僧達を一瞬キッと睨み、そして徐に遥は彼らの前に土下座をし、
「どうかっ どうか私をこの寺に置いていただけないでしょうか!」
小僧達は数秒ほど呼吸をするのを忘れた、遥の言葉が脳細胞の隅々にまで染み渡った瞬間、
「それは、素晴らしい考えや!」
「なんたる決意、なんたる勇気!」
「絶対にそうするべきや、いやそうせねばあかん!」
蕭衍もジッと遥を眺めながら、
「大した決意や、その若さで」
と言いながら何度も頷いている。
忠太はオロオロしながら、
「なあ和尚、それはまずくねえか、第一住む部屋ねえだろ、何処にこいつー」
忠太が必死に蕭衍に訴えるも、
「俺の部屋、ええよ」
「いや、俺の部屋の方がええ匂いやで」
「僕の部屋は心の修行には最適かとー」
既に寺側の受け入れ姿勢は固まりつつある中。
はしゃぎまくる小僧達を横目で睨みながら、紅葉は遥を見つめ続ける。
違う。コイツ、そんな理由やない。
紅葉は土下座する遥から僅かに若いメスの匂いを嗅ぎとる。
忠助のそばに、ずっといたいからや!
紅葉は呆れると共に十二歳の少女のいたいけな決意と無謀な行動力に苦笑いする。そしてうら若き女子の熱い情熱に微笑ましい思いとなる。
此奴、誠に忠助に惚れておるのじゃ、ふむ、こうしてみるとちびすけ同士、中々似合いじゃ。なんや、令和の世も中々じゃの……
紅葉は突如、胸の奥に小さな鋭い痛みを感じる。
忠太が困った顔でオロオロしつつも満更でなさそうな態度を示しているのを察知し、その痛みが徐々に広がっていく気がする。
ふん、勝手にするがよい。勝手に夫婦にでもなんでもなれば良い。うちの知ったことではない。
「やいチビハル。一緒に風呂に入るで、それとチビハルはうちの部屋でええな?」
顔を真っ赤にして抗議する忠太と小僧達をひと睨みし、
「文句あるんか?」
紅葉と遥が風呂に向かった後、小僧達よりかつてない程の暴行を受けた忠太なのであった。
* * * * * *
三重県伊賀市。
古くから交通の要所として栄え、京都、奈良、伊勢を結ぶ各街道が通っている。市の北東部に鈴鹿山脈、南東部に布引山地に囲まれた盆地であり、冬は底冷えが激しく夏は蒸し暑い内陸性気候と太平洋側気候が混在している。
言わずと知れた、伊賀忍者の故郷であり、古来隣接する甲賀忍者との関係は深い。
亀山市と奈良県天理市を結ぶ名阪国道の上野I Cのほど近くに、伊賀中等教育学校三年生の百地翔琉の家がある。国道三六八号線にかかる大内橋を渡りながら、朝修行を終えた翔琉は近畿大会に向けた戦略を考えている。
先日行われた三重県大会では、伊賀中等学校は初戦、準決勝、決勝戦を圧倒的な大差で勝ち上がり、楽々近畿大会の切符を手に入れている。
大会の翌日なのに朝五時半から八時までみっちりと修行したので、空腹感が半端ない。国道から少し入った所にある古いながらも大きな敷地を持つ百地邸に近づくと、母の準備した朝ご飯の匂いが更に空腹感を増長させる。
「そう言えば、さっき遥から連絡があったんやけど」
二杯目のご飯をよそいながら母が呟くように、
「遥な、下宿引き払ったんやて」
翔琉はお代わりを受け取りながら怪訝な顔をする。
「そんでな、学校近くの志徳寺とか言うお寺に下宿することになったらしいで」
志徳寺? 聞いたことがない。翔琉は眉を顰めながら肩をすくめる。
「なんでや言うたらな、私は未熟やから修行し直したい言うとったさかい。全くあの子は何考えてんのかよう分からんわー」
穏やかな母の口調に少し可笑しくなる。
「昨日はあんな大活躍しよってからに。なんで未熟なんやろ、ほんま不思議な子や」
翔琉は持っていた箸を折らんばかりに握りしめた。
三年前に交通事故で亡くなった父の仏壇の前に正座しながら、翔琉は昨日の妹の活躍のシーンを思い浮かべている。
今朝の早朝修行でも多くの部員の間で遥の活躍が話題になっていた。
曰く、とても一年生とは思えない
曰く、どうしてウチに来なかったんや
曰く、さすが、翔琉の妹や
翔琉はカッと目を見開き、そして激しく首を振る。
違う! アイツは俺の妹やから凄いのではない
アイツは、化け物や
俺とは比較にならんほどの才能を持った、古武士道のバケモノや
翔琉は再びきつく目を閉じる。
幼い頃より、コツコツ努力型の翔琉に対し、遥は兄の見よう見まねで何でも出来てしまう子であった。翔琉が必死の思いで取得した技術を遥は兄の所作を一目見てすぐに使いこなせてしまうのだ。
世間は自分を『十年に一人の天才』だの『伊賀史上最強の道士』だの言うが。
それは翔琉が他人に真似出来ぬほどの修行をこなした結果であり、別に天才でも何者でもない。
だがー遥は。
遥は、本物の天才だ。
僅か三歳で投げ刀を自在にこなし、五歳の時には打ち合いで初めて負けた。俊敏性と跳躍力は未だに敵わず、あと二年もしたらどんな怪物に育つのか想像することも出来ぬ。
そんな遥が、去年の秋頃、自分は甲賀学苑へ進学したいと言い出した時。正直、心の底からホッとしたものだった。もし兄の背を追って伊賀中等に進学してきたら、自分の立場は脆くも崩れ去っていただろうー 道士としても、兄としても。
昨日、滋賀県予選の動画をスマホで眺めながら、背筋が汗でびっしょりとなった。
やはり、だ。
もしアイツがウチに来とったら、俺は二番手になり、ダメな兄貴の烙印を押され…
俺がこの二年間で培ってきた、伊賀中等の百地翔琉、は消えてなくなっていただろう…
目を開き、目前の父の遺影に問いかける。
親父、俺、怖いんや。これまでの努力がアイツの才能によって全部否定されちまうのが怖いんや。伊賀に百地あり、と言われてる俺がアイツによって潰されちまうんや。
今月末、近畿大会でアイツらと当たるかも知れへん、いや絶対当たる。親父、頼むで、俺に力を貸してくれ、俺の今までの血を吐くほどの努力を否定せんといてくれ…
「翔琉ぅ、そろそろ行くで、はよ支度しぃ」
母は新しい下宿先の志徳寺とやらに挨拶に行くといい、自分もそれに付き合うよう言う。
遥に、会いに…
翔琉はゴクリと唾を飲み込み、赤面する。
古武士道に関してはその才能に嫉妬し拒絶する翔琉であるが。
人として、兄として、翔琉は遥を深く愛している。
遥の性格も小柄な身体も好みであるが、それ以上にこんなに可愛い女子を他に見かけたことがない、そう断言できるほど実の妹の容姿に惚れ込んでいるのだ。
幼き頃より『あにぃ、あにぃ』と常に翔琉の後ろに付き纏い、その愛くるしい顔でニッコリと笑いかけてくる妹に、翔琉は何度神を恨んだことだろう。何故こいつは妹なのだ、何故血が繋がっているのか、と。
一縷の望みを賭け、この三月に役所に戸籍謄本を取りに行った、遥の引越しの手続きに付き合うついでに。
だが。その望みはあっさりと打ち消された。普通に遥は翔琉の実の妹と記載されており、自分もしくは遥が養子であるとの記述は全く無かった。
なので、遥が甲賀学苑を選び家を出た時も、道士としての嫉妬心からくるホッとした気持ちと、愛しい妹との惜別の気持ちに挟まれて気が狂いそうになったのだった。
そんな遥に母が会いに行くと言う、二つ返事で翔琉は同行すると返事したのである。
「なあ、なんで遥は寺なんかに下宿する言うてんのやろ」
助手席で翔琉は名阪国道の景色を眺めながら母に呟く。車のカーナビによると、志徳寺は名阪国道の上柘植I Cから十五分くらい。すなわち、家から車で4〜50分の場所らしい。
名阪国道は自動車専用の国道で、見た目は普通の自動車道としか思えない。信号も無く、ゴールデンウィークの渋滞もそれほどでは無い様子だ。
「何でやろね、そのお寺に好きな子でもおるんとちゃう?」
翔琉の脇に汗が吹き出す。この母は、なんという… そんな訳がある訳がない、だって遥はまだ十二歳なのだから。
そう言えば翔琉はふと思う。遥とひと月も顔を合わせなかったのは生まれて初めてだ、よくぞ我慢できたものだ。
遥が生まれた時のことは未だによく覚えている。二歳の時の記憶なのだが、あまりに小さく儚げな顔に驚き、俺が一生守っていくと決意したものだった、二歳児が。
スマホに入れてある遥のお宮参りの写真をそっとタップする。そして七五三、お祭り、家族旅行の写真をスワイプしながら眺め、自分がニヤけた顔をしていることに気付き、母に気づかれぬよう景色に顔を向ける。
やがて、車はウインカーと共に減速し、上柘植I Cを降りる。
カーナビに従って車は進む、景色は伊賀と大差なく田畑が道の両側に広がり、牧歌的な風景が春から夏に向けて変わりつつある。
山道に入り景色は一変する。ナビゲーションによると志徳寺にはあと五分で到着するらしい。
こんな山奥で遥は一体何を? と愛しの妹の考えに頭を悩ませているうちに、志徳寺の麓に到着する。県道沿いに『志徳寺専用駐車場』と書かれた看板があり、五台ほどの駐車スペースがある。母は何の躊躇いもなく車を駐車し、
「こっから歩きなんやね、どんだけ山奥なんだか」
とちょっと嬉しそうに歩き出す。翔琉はハーと息を吐き出し、母の背を追い始める。
一メートル程の幅の古い石段が積まれた山道を十分ほど登って行くと、不意に大きな山門が現れる。造りは立派だが相当古い代物だ、一体いつの造作なのだろう。
境内に入り、本殿を正面に見て左側の建物に向かう。母が志徳寺の住職に事前に連絡していたのだ。まるで何度も参拝したことのある檀家の如く母は真っ直ぐに住居棟に歩いて行く。
玄関の扉をガラガラと開け、
「お邪魔さんですぅ」
と大声をあげる母にちょっと恥ずかしい気分になる。
「おうおう、よういらした、よういらした」
まん丸の顔の住職らしき老人が満面の笑みで現れる。その後ろに……
「あれぇ、翔琉にぃも来たん?」
驚いた顔の何と可愛きこと…
翔琉の表情はぐちゃぐちゃに崩れ。だが、その瞬間。
翔琉は本能的に一歩身を引いた、かつて経験したことのない殺気を感じたからだ。
懐かしの愛しの妹の背後から、鋭い視線が自分に向けられている、それも一人だけではなく。
一人は、女子だ。それもかなりの手練だ。自分を見つめる視線が不躾なほどに鋭くそして凄まじい。知らずのうちに翔琉の脇汗が滲み出る。
そして、もう一人。
男だ、それも自分と同年代の……
!
気がつくと翔琉はその男目掛けて跳躍していた!
* * * * * *
「もうすぐ遥ちゃんのご母堂が来られるから、玄関先を清めておきや」
蕭衍が澄まし顔で忠太に言うと、
「ったく気の早い母ちゃんだな、ってか、こんなボロ寺に住むの反対しねえのかよ」
自分の部屋に紅葉と遥が泊まっていた事実を未だによく受け止められない忠太がブツブツ言いながら玄関を掃き清め出す。
「私、父が三年前に交通事故で亡くなっているのです、それ以来私の言うことに母は全然反対しないのです、どちらかと言うと兄の方が……」
百地翔琉。甲賀学苑中等部の古武士道道士の誰もがその存在に怯える、いや近畿中の道士が恐れ憧れる、百地翔琉。
忠太の玄関掃除を手伝っている遥が更に
「あれはするな、これもするな、ってうるさいんですよ。まあ人間的には悪くない根の真っ直ぐな人なのです。正直ちょっとウザいですけどね」
そう言いながらプッと吹き出す遥に、
「そっか。まあ、いい兄貴なんだな。てか、そんなのどーでもいいわ、お前本当にここに住むのか? ずっと住むのか? 俺の部屋で紅葉とずっと寝るのか?」
遥は忠太にしか聞こえぬ声で、即ち送話術を使い、
(せんぱい全然返事くれないし。)
忠太はギョッとして一歩引く。
(それに、無理やり襲おうとするし。この話、青木先輩や和田先輩に……)
膝の力が抜けその場にしゃがみ込み、
「そう、しろ。ここに、いろ。ここで、磨け、己を…」
遥が満面の笑みを返した時。
「おお、いらっしゃったようや、ほれ、箒なぞ片付けんか、ほれほれ早よせい」
蕭衍が忠太のケツを引っ叩く。
「お邪魔さんですぅ」
扉を開きながら、中年女性が玄関に入ってくる。
遥の母親。あまり似てないな、でもその所作に全く隙がなく、相当の達人ではないかと忠太は愚考した瞬間。
母親の背後に、途轍もない殺気を感じ……
奴、だ。
間違いない、百地翔琉、だ。
背は一七〇センチ前後、体重は六十キロほどか。薄茶色の長い髪を後ろに流し、母親そっくりの顔付きー
目にも止まらぬ速さで、翔琉が忠太目掛けてジャンプし、忠太の頬に掌底を叩き込む。
それをスレスレでかわしながら忠太は身体を横にスライドさせ、手刀を翔琉の脇腹に突き立てる。
翔琉はそれをギリギリでかわすと身を反転させ忠太に向き合う。
両者の目から火花が飛び散り、次の一瞬で息の根を止めるべく相手の隙を探るー
「やめてぇーーーーーー」
遥の絶叫が寺にこだまする。
蕭衍と母親は目を丸くし翔琉と忠太を凝視している。
「や、やめんか、忠太…」
「やめなさい翔琉、あんた一体どうしたの!」
全身を怒りで震わせている遥の背後で紅葉がポツリと
「ノロマ」
と呟く。
忠太と翔琉から殺気が消え、二人は大きく息を吐いた。
これが甲賀と伊賀、今後数年間、宿命のライバルと呼ばれ続ける二人の出会いであった。
* * * * * *
「それにしても、辺鄙なボロ寺やったなあ、遥ホンマにあんなとこでええんか?」
母親が首を傾げながら翔琉に呟く。
あの後なんとか場を納め、住職の蕭衍和尚に改めて挨拶し、心ばかりの土産物を渡した。
遥の意志は固く、結局彼女の思う通りに志徳寺に世話になることとなった。家賃と食費として毎月幾らか支払おうと言うも、
「全然気にせんでええです、その代わりに遥ちゃんにはようけ寺のこと手伝ってもらいますさかいに」
と言って受け付けてくれなかった。
まあ、掃除洗濯炊事に至る家事一般は、母親である自分よりも遥かに上手にこなす遥なので、それならそういう事で、となって寺を後にしたのだった。
「そう言えばあんた、ったく、なんであんなことするんや、遥の大事な先輩に対して。信じられへんわ」
母親が乱暴にハンドルを切りながらぶつぶつと文句を言う。
翔琉は脇腹を押さえながら仏頂面で甲賀の景色を眺めている。
確かにかわした、筈なのに。
遥の先輩、即ち、甲賀学苑古武士道部大将、伴忠太の一撃。
伊賀中等の部員たちの間でも昨日の滋賀県大会初戦の衝撃は途轍もないものだった。動画に上げられた大将伴忠太の宙返りからの打ち込みに、誰もが無言となり、戦慄した。
「こんな奴、甲賀におったんか…」
「川崎の応禅寺出身… 知らんかったわ」
「おい翔琉、大丈夫やろな、お前に任せたで」
「遥ちゃんだけでなく、こんなとんでもない化け物が甲賀におったとは…」
バケモノ…
翔琉は景色から目を脇腹に移す。ポロシャツを捲り上げると、赤いミミズ腫れが目に入る。
「まあ、あんたにはええ薬や。世の中にはあんたが会ったことも無いとんでもない実力者がぎょうさんおるんや、そや、ええ薬や」
かつて、伊賀に女傑あり、と噂されていた母親、百地梢が憎らしい笑みを浮かべながら翔琉の肩をポンポンと叩く。
現在の中高一貫校の伊賀中等教育学校が県立伊賀高等学校だった頃、梢は全国制覇を成し遂げた古武士道部の副将であった。因みにその時の大将が他界した夫なのだが。
古武士道道士としての大先輩である母の小言に、翔琉は珍しく素直に頷いた。
伴忠太。奴は本物だった。本物のバケモノだった。
脇腹のミミズ腫れをさすりながら、翔琉は背筋に冷や汗を感じている。
あんなバケモノと遥が甲賀学苑にいる。近畿大会でもし当たったら、自分たちは太刀打ちできるであろうか?
あの俊敏な身のこなしからの攻撃を自分は防げるだろうか?
あの素早くかつ重厚な攻撃を自分はかわせるであろうか?
翔琉はゴクリと唾を飲み込む。明日から、修行の質を変えねばならない。三重県大会では楽々優勝できたが、今のままでは奴に到底及ばない。
自分のみならず、部員全員の意識改革を成さねばならない…
「あの子かねえ、遥の想い人は。なかなかの男前や、遥もゾッコンやないか? ヒッヒッヒ」
翔琉は大きく歯軋りをする。
許さぬ。あの男だけは断じて許さない!
叩きのめす、徹底的にぶっ潰してやる!
その為には。
今のままでは絶対にダメだ、絶対に。
明日からでは遅い。今日からだ。
今日から俺は…
自宅に着くと翔琉は二人の副将に連絡を取り、午後からの修行の約束をした。
* * * * * *
「せんぱい、本当に申し訳ありませんでした… まさか翔琉にぃが来るなんて、それにあんな事をするなんて…」
遥は涙目で忠太に頭を下げる。
忠太は気にしなくて良い、と言いながら左の頬を摩る。
何という、一撃……
紅葉のそれとは異なる、殺意の籠った必殺の一撃。もし少しでも避け損ねていたら、左の頬骨は砕け散っていたであろう。
あれが、伊賀中等の百地翔琉…
あの気力、迫力、技のキレ、重厚な打撃力。何一つ敵う相手ではない。自分だけではない、ヤツ一人で甲賀学苑の刀、槍は全滅させられるかも知れない。
一人全身を震わせていると後ろから紅葉が、
「あんなノロマな打撃を受け損なうとは、相変わらず盆暗じゃの、忠助は」
呆れ顔で首を振っている。
「バカな… あんな攻撃、受けたことねえよ、半端じゃねえよ…」
「アホか。うちなら三撃は入れておったわい。遅滞遅滞。」
流石に一年生の後輩の門前、ムッとした忠太は紅葉と向かい合い、先ほどの間合いに下がり、
「じゃあやってみろ、三発入れt―」
遥はあまりの速さに目を疑った。紅葉は宣言通りに忠太に三発攻撃したらしいが、目に見えたのは最初の一撃だけであった…
だが、確かに打撃音は三つ聞こえた、それもほぼほぼ同時にであったが。
床に崩れ去り仰向けに気絶している忠太を見下ろし、遥はゴクリと唾を飲み込む、兄を越せる、この人について行けば!
この寺に入ってよかった、自分の覚悟と決断が間違っていなかったことに自笑する遥は、忠太の意識を戻すべく彼に跨り、活を入れた。
「本気、出すなや、後輩の前で… あー、ダッセー」
遥によって息を吹き返した忠太は、ドヤ顔で自分を見下ろしている紅葉を恨めしげな表情で見上げながら愚痴をこぼす。
「ま、良いではないか良いではないか。かっかっか。ああそれより、ハチ公とドコロが来訪するは夕方じゃったか?」
忠太はハッとして我に帰る、ああそうだった、今夜から彼らの紅葉への勉強会(?)が開始されるのだった!
そして。
もしも彼らが納得のいく結果であるならば、ゴールデンウィーク明けから学校に入れるかも知れないのだ!
そう、紅葉が甲賀学苑中等部三年生に編入されるかも知れないのだ、それ即ち。
紅葉が、甲賀学苑古武士道部に、入部するのだ!
「それは、本当なのですか! 紅葉さんが、ウチの中学に… ウチの部に…」
遥は忠太を後ろから抱えながら呆然としている。
あの兄の攻撃を容易に躱し惜しくも一撃を入れ損なったとは言え、実力はほぼ対等に思えた忠太を文字通り秒殺したこの紅葉が、味方として道士になる!
忠太が大将として後ろに構え、紅葉のサポートを受け自分が思いのままに敵を切り崩す様子を夢想し、遥は胸が熱くなる。
「す、素晴らしい… ああ、本当に私、甲賀に来て良かった。本当に…」
思わず抱えている忠太を激しく抱きしめてしまう。
「おいチビハル。いい加減に其奴を離さぬか。阿呆が移るぞ」
チッと舌打ちをしながら、遥は忠太を離し立ち上がり、
「紅葉さん、頑張って! そして必ず一緒に学校に登校しましょう!」
紅葉は不機嫌そうな顔をしつつも、
「ふん。任せておかんかい」
と胸を張ったものだった。
昼食は遥が慣れた手つきで作った親子丼であった。
「親子とは、この鶏卵と鶏肉のことか。ふむ、どれどれ。うぅーーーむ、これは、なんと!」
初めて親子丼を口にした紅葉はその後物も言わずにあっという間に掻き込んでから、
「お代わり。」
とシレッと言ったものだった。
小僧たちも一口口にした瞬間。
「う、うまっ! 何じゃこれ!」
「これな、ミシュランの星つくで!」
「今まで忠太に食わされていたものは、何だったんや。これぞ食事や!」
蕭衍までもが一口咀嚼し、
「やはり儂の目に狂いはなかった」
と呟いたものだった。
この時以降、食事の当番は遥が一手に引き受けることとなり、忠太の家事の負担は一気に楽になった。その忠太自身、
「マジで美味いわ… 栄養バランサーもいいし。今後は遥に任せた方がいいな」
と喜んで厨房長を明け渡したものだった。
炊事以外でも、境内の清掃や本堂の清掃、僧房(忠太や蕭衍、小僧たちの住居区域)の清掃なども遥は実に手際良く行うので、小僧たちの喜びはこの上ないものであり。
「紅葉ちゃんに匹敵するほどの可愛さ…」
「忠太を遥かに凌ぐ料理の腕前…」
「チリ一つない掃除の手際の良さ…」
三人は目に涙を浮かべながら、両手を合わせ、
「これも俺が地道に徳を重ねてきた賜物や」
「毎日毎日真剣に仏の道に邁進してきた俺の功徳や」
「下っ端の仕事を文句一つ言わずにこなしてきた俺への仏様のご加護や」
などと真面目に宣うている阿呆どもである。
小僧どもをひと睨みし、流石に働きすぎと思った忠太が遥に
「おいおい。やりすぎだって。少しは奴らに仕事させなきゃアイツらの修行にならないって」
だが遥はキッとなり、
「これは私が強くなるための修行なのです。あの阿呆どもに修行させるなんて勿体ないじゃないですか。まあ黙っててください、せんぱい」
忠太は唖然とし、この子は一体全体、何者なんだ、と背筋が寒くなる。
紅葉は紅葉で、自分に出来が良く働き者の真面目な妹が出来た思いで、それはそれは舞い上がっている様子だ。
別に手伝うわけでもなく遥の後ろを追いかけ、満面の笑みで遥の仕事を窺っている。
遥も遥で、兄以上に尊敬できる姉が出来たことが嬉しくてたまらず、紅葉の我儘をなんでも叶えてしまう始末であり。
三時のおやつにと揚げドーナツをこさえてやったり、肌の手入れにと化粧水を顔に塗ってやったり。
これらの様子を眺めていた蕭衍は、ここにきて初めて
(しくじったかも、知れぬ)
とほんの少し後悔しながら、遥の母親のお土産の煎餅を齧るのである。
* * * * * *
その日の夕刻、四時。
日は傾きかけ雲の多い空をオレンジ色に染め始めている。山のかしこから山ガラスの鳴き声が響き渡り、その遥か上空からトンビのいななきもそれに呼応して郷全体に響き渡る。
天気予報では明日から天気が崩れ、気温も急激に下がると言う、もう少し厚手の服を持ってくるべきだったかと田所は少し反省する。
「それにしても。この坂道は結構応えますね…」
八田がハアハア言いながら田所に話しかける。
「そうだな、でも、この空気の旨さは、本当に羨ましい」
いつも地下の閉所で仕事をしている田所は、額に汗をかきつつも初夏の夕暮れ時の山道を案外楽しんでいる様子だ。
そんな二人が志徳寺の山門を潜ると、心なしか寺の雰囲気が軽々しくなっている気がした。僧房からは若い笑い声が漏れるほどだ。
「なんか、楽しそうですね。紅葉ちゃん、上手くやっていってるようやな」
八田が笑顔を綻ばすと、
「それが何よりだな。本人が今を受け入れ楽しんでいるならー 想定通りに上手くいくかも知れないな」
事前の二人の打ち合わせではー
恐らく今年の秋くらいには紅葉の希望通りに学校へ編入させられるだろう、と。
逆に言えば、それ以前の編入は時期尚早であろう、と。
これは田所の部署の総意でもあり、八田もその意見に賛成である。
焦る必要はない、まだ若いのだし、じっくりと慣れていけば良い。皆の思いはそれに尽きるのだ。
それ以外にもー八田には打ち明けていないのだが。
例のオグネル社傘下の日本防犯警備保障、ボーケー社の動向も気掛かりなのだ。今東京で田中華子が必死に検索しているのだが、古武士道道士の就職先にボーケー社関連企業がないか、もしあるならばどのようなアプローチをしてくるのか、そして就職後の道士たちの扱われ方はどうなっているのか、鈴木次郎も休む暇なく調査していることだろう。
このことも踏まえ、事は性急に動かしては彼女とその周辺の安全に関わる、ひいてはこの国に存在する『旅人』たちにも大きな影響を与えてしまう。
田所は身の引き締まる思いで僧房の玄関扉を開くのであった。
食堂の食卓で向かい合う田所、八田、そして紅葉。
二人の目の前にいる少女がとても過去からの『旅人』とは思えない、それが田所の感想である。
「久々やね田所さん。うちも一度東京に行ってみたいわぁ」
田中華子が選んだ東京土産のブルーアイカットの伊達メガネを嬉しそうに弄りながら紅葉は笑顔で言う。
こんな旅人は初めてだ、まだこっちに来て一月も経っていないと言うのに…
「それで… 紅葉ちゃん、勉強の方は進んでいるのかい?」
「まあ、ぼちぼちやね。最近は忠助が部活で忙しかったから、ようけ勉強見てもらえんかったさかい」
「でも、八田くんによると、僕らが渡した教材はほとんど終わらせたそうじゃないか」
「まあ、あれくらいはチャチャッと、ね」
ウインクをしてみせる紅葉に、田所は圧倒される。
中世の女性は貴族属性で無い限り、読み書きもおぼつかないのが殆どである、だが彼女は上級武士である兄より、相当なレベルの学問を教えられていた様子だ。
八田の報告によれば、国語、算数に関しては同世代のレベルを軽々と凌駕しており、理科、社会の知識もこの一月で彼らと遜色ないレベルに到達しているらしい。
試しに、と、
「滋賀県の県庁所在地って何処だったっけ?」
「大津やね、まだ連れていってもらったことあらへんけど」
「近畿地方って、何県があるかい?」
「大阪、京都、奈良、和歌山、三重、それに滋賀県ちゃうかった? ああ、三重県は東海地方だって言う説もあるんやったっけ?」
隣の席の忠太は口をパクパクさせている、そうなんだ、知らんかった、と。
「遺伝って何だっけ?」
「親の持っとる形質が子に伝わることや。この忠助の阿呆さが忠太郎どのの遺伝子かと思うとゾッとするけどな」
後ろに控えている小僧たちが爆笑する。
「太陽系の惑星、全部言えるかい?」
「ああ、水金地火木土っ天かい! これマジウケるわー」
ん? 冥王星が抜けとるわ、と蕭衍が抜けたことを思っている。
田所は感嘆の溜め息を大きく吐き出した。
「いや、想像以上だよ。全くの想定外だ。まさかこれほどまでに勉強が進んでおり、それを着実に身につけているとは…」
八田は頷きながら、
「生活面でも、百地遥さんが昨夜からこの寺に同居することとなったそうで、彼女から色々教えてもらえる環境となったんやね。」
紅葉は何故かドヤ顔で、
「そや。早速このチビハルからな、お化粧を教わったんや。どや、似合ってる?」
……
二人は遥を一瞥する。この子自身がそれ程化粧に造詣が深い訳ではなさそうで。
「ま、まあ、中学生やから、化粧なんてあんま気にせんでええと思うよ。ね、田所さん」
「あ、ああ。それよりも、その洋服。中々おしゃれじゃないか。自分で選んだのかい?」
更なるドヤ顔で、
「あったりまえや。こんな忠助にオシャレがわかるかい! ……そう言えばチビハル。お主、実は相当、ダサくないか? 何じゃそのしけたじゃーじは。まともな私服はあらへんのか?」
一瞬、武家言葉に戻るもすぐに今風に帰ってくる。
「え… 私、あまりファッションに興味がなく…」
「それは、あかん。そないなことやと、彼氏出来へんよ。今度ゆにくろに連れていったるさかい、うちが服選んだる」
遥は忠太をチラ見し、忠太は即座に視線を外す。
「なんだか… どっちが令和人なんやか…」
八田がプッと吹き出す。
田所の想定を遥かに超えた状況、状態であった。
本人の成長曲線は著しく、令和に属したいとの思いも強い。そして何よりこの周囲の環境。これならば本人も周囲も、無理なく順応していけるのではないか。
それならば、だ。
必ずこの先に通らねばならない問題を、今提起しても良いのでは?
田所は暫し目を瞑り、やがて目を開く。
* * * * * *
「正直に言って、紅葉ちゃんはすぐにでも中学校に編入して良い、俺はそう思う。」
田所がゆっくり噛み締めるように言うと、紅葉、忠太、遥、そして小僧たちは歓喜の声を上げる。
「だが、君は。入学したら、古武士道部に入る。そうだね?」
紅葉が力強く頷き、
「そや。そんでチビハルの兄貴なんか秒で片したる!」
うおおおーーーー
皆が歓声を上げる。ただ一人、忠太だけは浮かない顔をしつつ。
その忠太に向かい、田所が訥々と語りだす。
「本当にここだけの話にしてもらいたい。忠太くん、アメリカのC I Aという組織を知っているかい?」
忠太は首を傾げ、
「なんかアメリカのスパイの組織じゃね?」
田所は頷き、
「Central Intelligence Agency、中央情報局、だ。アメリカの安全に関する情報を集める組織だ、言うなればアメリカ版忍者組織と言えるかもしれない」
紅葉がおおお、と唸り、
「令和にもそんな隊があるとは…」
田所は紅葉に目を移し、
「ねえ紅葉ちゃん。元いた世界で、君たち甲賀忍者の役割ってどんなことだったんだい?」
ふむ、と目を閉じ、そして、
「まずは情報の収集じゃな。敵国や周辺国の情報を集め分析し、その弱点を曝け出す。それが第一じゃな。次に扇動と陽動。偽の情報やあらぬ噂話を敵国に流し、民を動揺せしめ国力を削ぐ。そして消去と破壊。敵国の主要人物を消し、重要施設を破壊せしめる。その一連の流れを我々甲賀忍者が担っておったわ」
「正に。その通り。そしてこの令和の世において、CI Aは今の第一の部分、すなわち敵国の情報や周辺国の情報を収集し分析しているんだ。第二、第三の部分は現代ではその多くを『外交』が担っているんだけれどね」
三馬鹿小僧どもが途中から話について来れなくなる。
「そして、そのC I Aから我が国に重大な情報が寄せられた」
八田も含め、皆はゴクリと唾を飲み込み田所の言葉を待つ。
「紅葉ちゃん。現代社会の問題だ。現在、アメリカの仮想敵国は大きくあげて、どことどこかな?」
「ろしあと中国じゃろう」
即答する紅葉に三馬鹿が驚愕の視線を送る。
「その通り。C I A曰くーそのロシアのさる企業が、こともあろうに世界中の古武士道士を戦争のための傭兵にスカウトしている、という情報を知らせてきたんだ」
「戦さのための、傭兵じゃと?」
「そうなんだ。そしてそれは、日本の古武士道士にも手が伸び始めているそうなのだ」
一同はポカンとして田所の話を聞いている。
(ようへいって、なんや?)
(あれや、雇われ兵隊のことやろ)
(なんで俺ら古武士道士に? 意味が分からん)
「そこんなんだよ。」
照天がヒッと声を上げる、ヒソヒソ話が聴かれていたようだ…
「ねえ君。世界最強の近接体術は何だろう?」
「はぁ? それは文句なく古武士道の刀役やろ」
忠太、遥、蕭衍、珍龍がハッとした顔となる。
「その通り。世界最強の対人接近戦の武術とは、古武士道の刀役なんだよ」
行円が間抜け顔で、
「で、それが何の関係があるんすか?」
「古武士道の刀役を高額の報酬で傭兵としてスカウトし、銃剣を持たせて戦場に送り出す。もしくは特殊部隊に編入し、要人暗殺や敵主要施設破壊に従事させる」
さすがの行円と照天も話の要点を把握し、青ざめた顔となる。
「そういった兵士は従来は長い年月をかけて教育、訓練して育てるものなんだ。だが古武士道の刀役はどうだ。そんな訓練を受ける必要なく、即戦力として戦場に出せてしまう。違うかな?」
珍龍が細く深く唸りながら、
「刀役もそうやけど… 高校生より上のカテゴリーの筒(鉄砲)役は、そのままスナイパーになれるやんか!」
「その通りだ。だからそのロシアの傭兵派遣会社は、古武士道の刀役と筒役をメインに、高額報酬をエサに大勢の道士にスカウトをかけているようなのだ」
遥が恐る恐る、
「それって… お金をもらって、人を殺すってことじゃないですか」
一同は言葉を失う。
紅葉でさえ、固く目を瞑り、野洲河原の惨劇を脳裏に思い返している。
「報酬に目が眩まない場合。彼らは脅しをかけてスカウトするらしい、例えば傭兵にならないのなら、家族や友人の安全を保障しない、とか」
一同は口をポカンと開け、息をするのも忘れ、愕然とするのである。
「話はまだ終わりじゃないんだ。ここからが肝心なんだ。紅葉ちゃんが古武士道部に入り活躍してしまう問題点が、二点あるんだ」
八田も愕然としながら、寺衆と共に田所の話に聞き入る。
「まず一点目。恐らく彼女は大活躍をしてしまい、世間の注目を集めてしまうだろう。すなわち、件の傭兵派遣会社に目をつけられてしまうだろう、と。」
忠太は深く固く目を瞑る。
そうなのだ。彼女は間違いなく、世間に注目され過ぎてしまう。このスマホ時代において、彼女の活躍は瞬時に日本中、世界中に広まり、彼女の人となりもあっという間に晒されてしまうであろう…
そうすれば彼女はどうなるであろう…
「そして二点目。そうだな。忠太くんが今考えている事態になり得ることなんだ。最悪、紅葉ちゃんが過去からタイムスリップして現代に来たことが、周知されてしまうだろう」
そんな… 馬鹿な… もし、そうなったら…
小僧たちは必死に頭を働かせる。
「世間に『過去から来た人間』の存在がバレてしまうならまだいい。それも日本国内だけならば何とか共生の道も探せよう。だが、これが諸外国にバレてしまったら? 世界中に露見してしまったら? 世界中は大騒ぎになり、これまでにギリギリで保たれていた秩序が崩壊するかも知れない。紅葉ちゃんら『旅人』達の知識を営利目的に利用する輩が出てくるかも知れない。更にその中には混沌の問題の火種を消してしまおうと考える連中が出てくる可能性も否定出来ない。」
田所はすっかり冷えた渋茶を啜り、一息ついてから、
「要は。紅葉ちゃんが部活の試合で無双してしまうと、紅葉ちゃん自身はもとより、ここにいる俺達、そして日本中の『旅人』及びその係累にまで、最悪の事態が待っているかも知れない、ってことなんだ」
一同の大きな溜め息が食堂に響き渡る。
田所が食堂の掛け時計を見ると、既に六時を過ぎている。
「俺たちはそろそろホテルに帰るから。明日は朝十時にここに来ます。それまでにみんなでこの問題をよく話し合って欲しい。そして、ここにいる皆が納得できる話がまとまったなら、」
田所は席を立ちながら、
「このゴールデンウィーク明けに、彼女の編入を認めようと思う。」
八田が思わず田所を仰ぎ見て、
「それは… 大分話が違うんやないですか? こんな若い子らに、こんな重い話まとめろって、それは無理ですよ、大人の俺でも混乱しているのに… ねえ、和尚」
蕭衍は深く目を瞑りながらしばらく考えを巡らし、やがて
「これからはこの子達の時代や。そやから、この子達が考えんとあかん。違うか?」
八田と小僧たち、忠太、そして遥は下を向きつつ軽く頷く。
「そうだ。考えるんだ。考えて考えて、考え抜くんだ。その結果出た答えを、俺たち大人が全面的に支えてやる。これからの時代は、お前らが作るんだ」
田所と八田は静かに食堂を去って行く。蕭衍がそれを送っていく。
食堂に残された子供達は、何も言わず必死に考えるしかなかった…
* * * * * *
それから約一時間。呆然とする遥、唇を噛み締め俯くだけの忠太を横目に、三人の小僧たちは討議を重ねた。これがあのボンクラ阿呆三人組かと目を疑わんばかりに、真剣な表情で激論を交わした。
『部活動はわざと手を抜いて参加すべきだ』
『弓役ならばさほど目立たぬのでは』
『いっその事、全てを明かして正々堂々とやった方がいい』
彼らにとって、生まれて初めてと言って良い程、真剣な話し合いであった。
だが、紅葉はと言うと、まるで他人事のように彼らの議論を眺めては大欠伸をしている。
堪りかねた珍龍が忠太に向かい、
「さっきから黙ってばかりで。おい忠太、お前はどないしたらええと思っとんや?」
忠太は目を閉じ吐息を吐き出してから、
「それは… 紅葉次第だろうが」
「紅葉ちゃん次第って、どう言うことや?」
行円がいつになく鋭い目つきで忠太を睨み付ける。
「こいつが、それでも学校行って古武士道してえかどうか、だよ」
一同がゴクリと唾を飲む中。
「終いじゃ、終い。うちはもう学校なんてええわ。古武士道? アホくさ。こないなガキの遊びに付き合ってられるか。あー腹減った、おいチビハル、飯の支度をせい。その間にひとっ風呂浴びてくるさかい」
そう吐き捨てて遥の腕をとり食堂を出て行った。
おもむろに照天が椅子を倒しながら立ち上がり、忠太の胸ぐらを掴み、
「忠太、てめー」
珍龍と行円は、照天がキレたのを初めて見た。
「冷たいんやお前。なんで紅葉ちゃんに責任負わせようとするんや! あの子が何をしたって言うんや! 好きでこの世界に来たんちゃうやろ! 四百年やぞ、そんな長い旅をして来たんや、知り合いもおらん、親兄弟もおらん、それやのにあんなに頑張って令和に馴染もうとしとったんや、と言うよりも」
更に忠太を締め上げながら、
「お前に、逢いに来たんやろうが!」
照天の目から大粒の涙がポタポタ落ちる。
「お前に、逢いに来たんや!」
忠太は照天の痛いほどの視線を逸らし、薄汚い天井を見上げながら、
「そんなの……」
鼻を啜り、目に涙を浮かべ、
「知らねえよ…」
「この、あほんだら!」
照天が忠太の頬を殴りつける。忠太は力無く床に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
珍龍と行円がしゃがみ込み、
「紅葉ちゃん、あんなこと言うて… なあ忠太、あれでええんか?」
「自分のせいで俺らに迷惑かけるから全て諦めるって言うたんやで、あの子は。お前、ホンマにええんか?」
忠太は二人を睨みながら、
「うるせえよ。語ってんじゃねえよ」
そう言いながら、両頬に涙が伝う。
「ああ、確かに俺はその忠太郎とやらの生まれ変わりかもしれねえよ、でもあいつにとって俺は忠太郎じゃねえ、単なる忠助なんだよ! あいつにとって俺なんてどうでもいい存在なんだよ! そんなあいつの我儘のせいで、お前ら殺されるかも知れねえんだぞ、学校行きてえ、部活やりてえ、そのせいで日本中、世界中から目を付けられんのはお前らなんだぞ! アメリカだかロシヤだか知んねえけど、そんな物騒な奴らにぶっ殺されちまうかも知れねえんだぞ! ダメだろ絶対に。あいつが我慢すりゃいいだけなんだよ。そうすりゃ今まで通りこのボロ寺でまずいメシ食ってボロい服着ながら生きていけるんだよ、あいつさえ我慢すりゃこれまで通りの生活ができんだよ、そうだろ? クソ和尚がよく言ってんだろ、『身を殺して仁を成す』ってよお、我慢すんのが人間として大事なんだろ?」
珍龍が忠太の肩を優しく撫でながら、
「子曰く、志士仁人は生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り、なんや。つまりな、志や仁のある人は命惜しさに仁徳を害することはしない、そして時には自分の命を捨ててでも仁徳を成し遂げる、そういう意味なんよ」
忠太は顔を涙でくしゃくしゃにしながら、珍龍を見つめる。
「自分さえ我慢すれば皆が幸せになる、そう意味やないんや。紅葉ちゃんは人として立派やから、自分と周りの人を幸せにする為ならばその身を犠牲にする、そう言う意味や」
「同じ意味じゃねえのかよ」
「ちょっと違うで。紅葉ちゃんがやりたいことを我慢することで周りを幸せにするんやない、」
こんな真剣で理路整然とした珍龍を初めて見た、忠太は鼻を啜りながら珍龍の目を見る。
「紅葉ちゃんがやりたいことを成すことが周りの幸せになるなら、その為ならあの子は喜んでなんでもする、そう言うことや」
忠太は視線を外し、天井を見上げる。
紅葉が令和に馴染み、立派な令和人になる。この寺の奴らは皆嬉しいだろう。
紅葉が学校に行く。甲賀学苑に入ってくる。ああ、確かに俺は嬉しい。
紅葉が古武士道に邁進する。俺も遙も、部員も皆嬉しい。
そしてそうなる為ならば、紅葉は何事も厭わずに精進するだろう。
珍龍に視線を戻す。その通りや忠太、珍龍の目は優しく頷いている。
厨房からいい匂いが漂ってくる、夕食の準備は進んでいるようだ。
忠太はゆっくりと立ち上がり、
「ちょっと。紅葉と二人きりで話してくるわ」
顔中の涙を両手で拭い、風呂場に向かう。
「それでええ。それでこそ、俺の忠太はんや」
照天も涙を腕で拭いながら忠太の後ろ姿に何度も頷いた。
「いやぁ、それにしてもお前、思い切ったことしたなぁ、忠太をぶっ飛ばすなんて」
行円がニヤリと笑いながら更に、
「忘れてくれとるとええけどなぁ、もし覚えとったら後で『忠太斬り』喰らうで、イッヒッヒ」
照天はハッとした顔でみるみるうちに青ざめ、
「え、ええんよ。『身を殺して以て仁を成すこと有り』や。俺が忠太はんにボコられることで紅葉ちゃんが生き生きするなら、それでええ。」
珍龍が意地悪な顔で、
「『忠太斬り』やで。ホンマに仏さんになるで、ナムナム…」
「いやいや… まだ死ねん… 俺、童貞のまま、死にとうないわ、さっきの無し。嘘ピョーンや、リセマラやリセマラ… 俺、実家帰ろかな…」
何がリセマラや、行円と珍龍に交互にどつかれる照天である。
「おい紅葉、風呂から上がったら、話がある」
忠太が脱衣所から浴室の紅葉に声をかける。
返事はない。
「部屋で待ってるぞ」
忠太が踵を返した瞬間。
「話ならここでせい。」
風呂場に振り返り、
「そか。あのな、おm―」
「ここで、じゃ。入って来い」
「そこ… えっ、風呂場、にか?」
「そうや。『胸襟を開く』のじゃ。服を着ている場合ではなかろう」
「……そう言う、意味か?」
「いいから脱衣して入ってこんか。男のくせにウジウジと女々しい奴よのお」
女々しいとは失敬な。ちょっと頭にきた忠太は
「分かった。待ってろ」
着ていたジャージを脱ぎ捨て、胸襟も股襟も全開にし、浴室のドアを開ける。
湯気の中、紅葉は窓を眺めている。
欅製の風呂桶は案外に広く、人二人なら十分に身を温められる大きさだ。
シャワーで全身を洗い流しながら、
「なあ、忠太郎ともこうして一緒に風呂入ってたのか?」
紅葉は窓を見ながら、
「阿呆か。そんなこと夫婦でもせんわ。この痴れ者が」
は? 意味が分からん、なら何故今…?
「これが令和風なんじゃろう? ネットに書いてあったわ」
おい。なんの記事を読んでいるのだ… 全然違えよ… 令和でもこんなのねえよ…
「それはお主が田舎者じゃからや。都会ではこれが流行っとるのじゃ」
あかん… これから毎日こいつのスマホちゃんとチェックせねば…
「話とは。何か?」
シャワーを止め、さりげなく股間を隠しつつ、
「お前。俺と一緒に学校行くぞ」
紅葉の身体がビクリと動く。だが返事は無い。
「そんで。一緒に部活、やるぞ」
忠太の一言に紅葉が初めて振り返る。その目が真っ赤に染まっていた。
「うちはな、あの時死んだんよ」
泣き出すのを必死で堪えながら、紅葉は絞り出すように呟く。
「忠どのの命と引き換えに、うちは火甕と心中したんよ。死ぬことなんて怖くなかった、だってそれで忠どのが助かるのなら… ほんまや。うちはあれで死んだんや。なのに……」
紅葉は堪えきれずに大粒の涙をこぼす。
「どうして、お主がここにおるのじゃ! うちの目の前に、どうしてお主がおるんじゃ! ここは極楽浄土か? 地獄か? 何故に死を覚悟し受け入れしうちが、この令和におるのじゃ、そして何故にお主がおるのじゃ! 姿形が忠どのに瓜二つで、その仕草所作まで全く同じ、お主は誰じゃ、誰なんじゃ! どうして、うちを、こうまでも、苦しめるのじゃ、お主の、せいで…」
風呂の湯を忠太に浴びせかけ、
「忘れたくとも、忘れられんのじゃ!」
血を吐くが如く紅葉が絞り出す。
「令和人となり、令和に生きんと思うても、」
忠太を般若の表情で睨め付け、
「側にそなたがおると、忠どのを忘れられぬのじゃ! ううう……」
紅葉の呻き声が浴室に響き渡る。忠太は深く目を瞑り、そのこだまする呻きを全身で受け止める。
紅葉の啜り泣きが治るのを見計らい、
「俺は、忠太郎じゃねえ。ただ、色々考えると忠太郎の生まれ変わりなんだと思う」
紅葉がハッとした顔で忠太を見つめる。
「忠太郎の形質が俺に伝わっているんだと思う。そう、遺伝って奴だ。」
「そなた……」
「それだけじゃない。俺の中にな、間違いなくいるんだよ、忠太郎の魂そのものが」
「まさか…」
「でなきゃ、あんな蜻蛉返りからの斬撃なんて出来るわけねえだろ。」
「確かにあれは、忠どのの得意技…」
「お前に会った頃、ずっと夢を見てたんだよ、俺が忠太郎である夢を。戦場を駆け回ったり、お前と色々やらかしたり。最近は見なくなったんだけどな」
紅葉は信じられないという表情で忠太を縋るように見つめる。
「そもそも。初めてお前に会って、お前に触れた時。不思議な感覚に見舞われた。まるでずっとお前に会いたかった、お前をずっと探し続けていた、という…」
「そんなん… 聞いてない…」
狼狽える紅葉に、
「最初は戸惑ったよ、めっちゃ悩んだわ。だって、俺じゃない誰かがここにいる感覚だからな」
そう言って胸に手を置く。
「でも、ハチ公が言ったんだよ、」
野洲川の辺りで八田が穏やかな口調で呟いた言葉。
『ゆっくりと。ゆっくりとこの子と向かい合っていけばええ。別に無理して忠太郎氏になろうとせんで、ええ。無理にこの子と一緒になろうとせんで、ええ。普通に、ゆっくりとやっていけば、きっとなるようになる、間違いない。』
あの言葉がなければ、忠太はとっくに押し潰され自我を失っていたことだろう。
「そか。ハチ公が、そないなこと… ハチ公のくせに生意気な」
紅葉がプッと吹き出す。つられて忠太も吹き出す。
「だから、お前は思うままに生きればいいんだ。令和の女子になればいいし、学校に行って部活やって。友達作って、彼氏作って…」
折角いいこと言っているのに、最後の一言に自ら詰まり墓穴を掘る忠太。
「うちより弱い男なんかと誰が付き合うかい」
「そんな男、令和におるかい」
「それな」
「それな」
二人は笑い、そして互いを眺め……
バスチェアに股間を隠すこともなく座っている忠太。
半身を風呂桶から出し上半身を晒す紅葉。
先に反応を示したのは思春期真っ只中の忠太、みるみるうちに股間の形状が変化していく。
それを具に観察し目を丸くする紅葉、人の身体の神秘に全く言葉が出ない、代わりに出たのが、いわゆる絶叫。
ぎゃぁーーーーーーーーーー
令和の恐怖を目の当たりにし、深い心的ショックを受けたのである、同時に奥深い性的好奇心も高まったことに気づかぬ紅葉なのであった。
* * * * * *
人間。腹が膨らめば、精神的ゆとりが出来る。すなわち、空腹時よりも遥に建設的意見が出るのであり。
「紅葉さん、まずこれを寸止めできますか?」
遥が食卓に座る照天の脳天にリンゴを一つ乗っける。
皆、ポカンとしている。
「造作もない、誰か、木刀を持て」
行円が自分の木刀を部屋から持ち出し、紅葉に渡すと
「寸止めじゃな、ふんっ」
おおおお…
見事、紅葉の一刀は照天の頭上のリンゴにピタリと止まる。固く目を瞑っている照天はそれでも紅葉の刀圧に押され、肩を震わせている。
「遥ちゃん、一体なぜこないなこと?」
「あれか、照天の脳味噌で味噌ラーメン作るという…」
皆オエーという顔になるのを無視し、遥は紅葉に、
「では。刀を左で構え、同じことを。」
一同シンとなる。
「それは… あまりに無謀かと…」
照天が震えながら遥に訴える。
「さすがにそれは… 無理やろ…」
「ホンマに味噌ラーメン作る気ちゃうか…」
紅葉はキッとなり、
「馬鹿め、それぐらいの芸当、出来ぬはずなかろう。さあ照天、そこに直れっ 行くぞ!」
照天は咄嗟に目を瞑り、両手を合わせ念仏を唱える。ああ、何と短い人生だったのか、思えば親孝行もせずに罰当たりな生活に耽り、怠惰な己を直そうともせず… ああ、まだ生きたいよぉ ……
紅葉が左手に木刀を構え直し、腹に力を込め、目の前のリンゴに寸止めー
グシャリ
ぎゃぁーーーー
二つの異音と共に、リンゴの汁が食堂に撒き散らされる…
「うぅーむ。これは中々に難いのぉ、どれもう一本…」
「「「やめテェーー」」」
皆が呆然と困惑に見舞われる中、一人頷く遥である。
「つまりです。入部後、紅葉さんはサウスポーで通せば良いのです。フィジカル、アジリティの優位性は隠しようもありませんが、この程度の技術なら令和レベルでも目立ちようがないかと」
一同が唾を飲み込み、低く深く唸る。
「確かに… この精度なら、俺よりも下や…」
行円が少しドヤ顔で呟く。
「そやな、動きは素早いが技の正確性がイマイチ。これなら目立たん。」
珍龍が感嘆しながら頷く。
不満げなのは忠太と紅葉。
「これじゃ、使い物になんねーわ、まだ土山や蓮兎の方がマシだぜ」
「阿呆、あんな雑魚と一緒にするでない。こんなの、ちょいと修練すればあっという間にー」
「「「あかん、あかん、このままで!」」」
紅葉はムッとし、
「なんでうちが、わざわざこんなしょぼいことを… 苛苛苛苛」
忠太も大変不満に思っていたが、現実的に考えてこれ以上の策はないかも知れぬ、と思い始め、
「これしか、ねえかもな。いや。これだ、これでいいんだ! 紅葉も俺らと一緒に技を競い極めていくんだ、サウスポーで」
元来の好奇心と負けず嫌いがムクムクと顔を出し始め、
「一瞬や。一瞬でさうすぽおを極めてみせん。おい照天」
「なんだい」
「リンゴを大量に仕入れておけ」
「いやだい」
「安心せい、誰も味噌らあめんなぞ喰いたかないぞ」
「ダメだい」
半べそとなる照天に一同大爆笑。
それで、ええ。
蕭衍は食堂の扉の向こうで満面の笑みで何度も頷くのであった。
遥が風呂に入っている間に忠太と小僧どもで食堂を片付け、遥が出た後順番に入浴し、各々部屋に戻る。
四畳半に布団三枚。さすがに狭いので屏風は撤去し、忠太と紅葉、そして遥は川の字に寝ることにする。
最近紅葉は女性用のシャンプーを使い始め、遥も持参したシャンプーとリンスを使うものだから、忠太の部屋はすっかり女子臭が染み付いてしまった。
真ん中の布団にドスンと飛び込むと、紅葉は電気が煌々と付いているにも関わらず、あっという間に寝息を立て始める。
「よっぽど緊張していたんですかね」
遥が呟く。忠太もそうだなと頷き、部屋の電気を消す。
「それにしても、よく思いついたな。ナイスゥアイデアだぞ」
「せんぱい。前々から思っていたことなんですけれど。せんぱいのカタカナ言葉、相当変ですよ」
暗闇の中、忠太は顔を真っ赤に染め、
「し、知るかよ。いいんだよ、伝わりゃあ」
「まぁ、そうですけど。それに、そんなところも大好きですよせんぱい」
サラッと告ってくる遥に、全身真っ赤になりながら、
「ば、ばきゃやろう、さっさと寝れ」
「あ。噛んだ。」
甘ったるい言葉で遥が忠太を攻める。
「噛み噛みだね、お兄ちゃん」
お兄ちゃん お兄ちゃん お兄ty―
忠太の頭にお兄ちゃんが鳴り響き、同時にあの夜の醜態が思い出されー
「あの時は、ごめん。どうかしてた俺、本当に申し訳なかった…」
遥はニヤリと笑いつつ、
「本当ですよ。あれから男の人が怖くて怖くて… もう一生彼氏とか作れないかも…」
忠太はヒッと呻き、紅葉越しに遥に手を合わせ、
「俺が悪かった、俺が悪かった、許してくれ、頼む、許してくれ…」
「はぁー。どうしよっかなぁ。傷付いた心って、簡単に治せないんですよ」
「すまん、すまん…」
「まぁ、いきなり責任取れって言うのもなんだし、」
ゴクリ。乾いた喉に無理やり唾を流し込む。
「お兄ちゃん、から始めてもらおうかな。それでいいかな、お兄ちゃん?」
枕の上空で何度も何度も首を縦に振りながら、
「それでお願いします、お願いします」
よし。第一歩はこれでよし、と。
「じゃあね、おやすみお兄ちゃん。明日は一緒に部活行こうね」
大いなる戦略の第一歩を歩み始めた遥は満足げに目を瞑り、やがて眠りにつく。
そして今夜も、眠れぬ夜を一人過ごす忠太なのであった。
* * * * * *
翌日、朝。
滋賀県大会から二日間の完全休養を経た甲賀学苑古武士道部の面々が、来る近畿大会に備えモチベーション高く集う中。
「三次と蓮兎、ホントに刀を見に会津行ったのか… 蓮兎の奴、マジ面倒見いいな」
だが真央はキレ気味に、
「健斗が熱あるけぇ休むってさ。どうするよ、このままじゃ後輩に示しつかんよ」
決勝戦でメンバー外にしたことに立腹しているのは間違いない。だが、今のままの土山ではこの先試合に使うことは正直難しい。
「分かった、修行終わったら、LINEするわ」
「頼むね。頑張れ、大将!」
「お、おう」
真央はよっしゃと頷いてから、
「よぉし、全員集合っ」
一年から三年生までがサッと列をなす。
顧問の柴田教諭もさりげなく遠くから見守っている。
「みんなゆっくり休めたか? 疲れは完全に取れたな、よし、今日の修行のメニューを大将から。」
忠太が一歩前に出る。
「三重県大会の結果。みんなチェックしてるな。伊賀がラクショーで優勝した」
皆がゴクリと唾を飲み込む。
「決勝で『総崩し』やで、三試合とも総大将の百地、一回も刀振ってへんかったよ…」
「特別凄いやつはおらんけど、統率取れとるよな」
「まるで軍隊や、特殊部隊や…」
蒼ざめながら、皆が囁き合う。
忠太は頷きながら、
「じゃあ、奴らに対抗するために俺らに必要なのは何だ?」
皆が、運、金、祈祷なぞと呟いている。
「スタミナ、だな。俺たちに不足していたのは」
迂闊に同意してしまうと、スタミナ増強メニューが待っているので、誰も頷かない。
「あ。実は俺、一昨日、伊賀の百地に会って、ちょっとやり合ったわ」
誰もが一瞬息を呑み、無言で忠太を注視する、その痛いほどの視線を受けつつ、
「やっぱ、すげえわ。ほれ、ここ。青あざになってるだろ」
左の頬の薄い青あざを皆に示すと、全員が凍り付く。
「とんでもねえスピード、パワー、キレ。一歩間違えてりゃ、頬を砕かれてたわ」
マジですか… 信じられへん ちゅーたがそこまで…
「ただし。俺が見るに、あいつの弱点は。」
全員が唾を飲み込む。一人呆れ顔の遥を除き。
「ズバリ、スタミナ、だ。近接戦に持ち込まれたら、アウトだ。だが、持久戦に持ち込んで、時間一杯を有効に使えば奴は必ず崩れる。試合は県大会よりも蒸し暑い条件でやるんだからな」
スタミナ 持久戦 蒸し暑さの中
各自がキーワードを呟き、そして認識する。自分たちに足りないもの。それがあれば強敵を凌駕できると言うこと。
「近畿大会まで、体力増強第一にやってくぞ。いいなっ」
全員が無言で頷く。やるしかない、やらねば敗北だ。
「よし、早速走るぞ。道具持って田圃巡り、行くぞっ」
田圃巡り。校外の近隣の田圃の畦道をひたすらに走りまくる彼らにしては超荒行。
本選の面々は覚悟を決め、残りの部員は諦め、各自道具を取りに小走りに行く。
同刻。
三重県伊賀市 県立伊賀中等教育学校 中等部古武士道部修行場。
「よぉーし、これより本日の修行を開始するっ その前に大将から一言っ 気をつけぇー」
一同が背筋を伸ばし、百地翔琉に向かい直立不動の姿勢をとる。
「れぇーい」
全員が腰を四十五度傾け、翔琉に礼をする。
「なおれぇーい」
翔琉が咳払いを一つする、場に緊張感が漂う。
「近畿大会、打倒甲賀学苑に向け、各自修行に励んでいることと思う。奴らは決勝戦で相手を『総崩れ』させた。途轍もない破壊力は今年も健在である」
「うぉっす」
「特に大将の伴忠太、刀の百地遥。その名は一気に全国区と相成った」
「うぉっす」
遥ちゃん、可愛くなったぁ 俺、ファンクラブ入ったで あ、俺も俺も
「自分は一昨日、その伴忠太君と軽く手合わせを行った」
「うぉっす?」
皆が口を揃えて返事をしながら、目を白黒させるー どう言うこと? 何が起きたの? あの伴忠太と大将が? 一体何故?
「その結果が、これだ」
翔琉は徐に上着を上にはだけ、左脇のミミズ腫れを皆に見せる。
「うぉっす!」
嘘やろ… 大将がまさか… いやあれは掠り傷や 伴忠太め…
「戦いは一瞬。すぐに止めが入り互いに一撃ずつ、掠りあったのだ」
「うぉっす!!」
さすが大将や 一撃入れたんや あの伴忠太に すごい、すごいで大将
「俺が思うに、今年の甲賀学苑に死角なし。技、力、スピード、どれもが我々を凌駕していると見ていいだろう」
「う、うぉっす…」
翔琉は一呼吸置き、
「だが道士諸君、諦めるには早い。彼らに不足しているものがたった一つだけあるのを自分は読み取ったのだ!」
「うぉっす?」
「それは。体力だ。県大会でも彼らは終盤に疲労困憊していたのは諸君も承知の通りだろう。我々が彼らに付け込む隙はその唯一点、尽きることのない体力の保持なのである!」
「うぉっす!」
「これより近畿大会にて我が校が優勝するまでの間。自分は諸君と共にこの尽きることのない体力を目指していきたいと考えている。何か異論がある者?」
一同は口を閉ざし、これからのひと月を想像する。そして絶望と希望をない混ぜにした表情で、一斉に
「ありませんっ」
と叫ぶ。
翔琉は大きく頷き、
「よろしい。では早速、『畑廻り』を実習しようではないか。各自道具を準備し、三分後に出発する。以上!」
「ウォッス!」
一同は一斉に散開し自分の道具を取りに走った。
同じ頃、志徳寺。
「そういう訳で、君の生活実態書を少し書き換えたんだ。一緒に確認して行こう。まず生年月日は変わらずの2007年7月7日。星座は何かな?」
「蟹座」
「そう。生まれたところは?」
「滋賀県信楽」
「いいね。ご両親はー」
「五歳の時に交通事故で亡くした」
「それだと事故を手繰られてしまうから、借金を抱えて失踪したことにしよう」
「ダッサ」
「君は志徳寺に置き去りにされた。いいかな。そしてすぐに山で転落し?」
「頭を打って記憶を無くした」
「そうだな。島村医院でお世話になったんだぞ。それからは?」
「志徳寺で匿われ育ち、この4月に突如記憶を取り戻した」
「その通り。島村先生の診断書も用意されているから、もし誰かに聞かれたら先生の元へ。大まかだけど大体こんなところかな。」
紅葉は一見不貞腐れてやる気のなさそうに見えるが、あと数日で学校に行ける喜びは隠し切れる筈もなく、口元は常にニヤけた状態なのが田所には可愛く思えて仕方がない。
「田所さん、甲賀学苑の理事長とアポ取れたそうです」
「さすが蕭衍さん。紅葉ちゃん、編入試験があるのだけれど、一応過去問を渡しておこう、今日から忠太くんたちとしっかりと準備するように」
「ん」
「それと、一番厄介なのは面接だ。絶対に武家言葉は出さない事。一番いいのは、無口なキャラを通すことじゃないかな」
「ん?」
「ははは。別に喋るなと言っている訳じゃない。必要最低限のことだけ答えていればいい、それだけだよ。出来るよね?」
「うちを誰だと思ってんねん。下忍頭から甲斐国に潜入して欲しいと言われたんやで」
八田は目を大きく開き、
「それって、あの、武田信玄の……」
「家臣の馬場何某の下女に入れと言われたんや。でもあまりに不細工やから無理じゃ、という話になって流れたんや」
「馬場…信春… マジか…」
「全く、あの頃はこの不細工顔が邪魔やったなぁ、ほんま令和の世が信じられんわ、こんなカマキリ顔が流行りとか。未だに騙されとるんちゃうか、と思うわ」
田所と八田は首を激しく振り、
「すっごく可愛いぜ、俺が保証する」
紅葉は大きく溜め息を吐き、
「田所さんみたいなオッサンに保証されてもなぁ。」
田所はプッと吹き出し、
「うん、それでいい。すごく普通な女子高生だ。そのままでいいよ」
「平平凡々。で、その過去問とやらを見せてもらおか?」
このやる気がどこから来るのか、田所には未だに不思議でならなかったものだ。
運命の近畿大会は月末に迫る。
それぞれの若者の、それぞれの運命が動き出す。