第四章
「ったく、こんな深夜に呼び出しやがって。ホンマええ加減にせいよ、蕭衍!」
志徳寺のかかりつけ医の島村天然は怒り半分、呆れ半分で蕭衍以下五名の寝転んでいる男達を怒鳴りつけている。
「こんなん、一晩寝てりゃ朝には治るっちゅうの。全くお前らはだらしねえなぁ。少しはこの子を見習わんかい」
食卓に両手で頬杖をついて膨れっ面をしている紅葉を一目見ながら、島村は溜め息を吐く。
「そんなこと言おうても、あいてててて…」
「まさかこんなk― おえっ んぐっ」
「ト、トイレ、行かんと、ああああー」
紅葉は呆れ顔で、
「ほんに情けない。うちがウルイと、ばいけいそう? を間違うただけやないか。令和の男どもは柔じゃの、ああ憫然憫然…」
スマホ検索をしつつ、忠太が吠える。
「てめえ、このバイケイソウってやばいやつだっつーの、ネットにもめちゃ出てるわ、ウルイと間違わないように、ってよ、ったくお前が川沿いで、ウルイが生えてる、天ぷらにしろ、なんて言うから、畜生、二度と信じねえからな! ああああ、やばいやばい、トイレ…… ああああああーーー ああ。」
食堂に悲惨な匂いが立ち込める。
「こら忠助! こんなところで漏らすとは締まりのないケツをしおって。情け無い」
島村は大爆笑しながら、
「そんな訳や。大したことあらへんから、クソして寝とき。ほな」
片手を振り振り帰って行った。
「それにしても、このてんぷらは美味じゃった、おい忠助、また作るのじゃぞ」
「ばかやろーーーー」
ああああー、と照天も情けない声で天井を仰ぐ。辺りを更なる異臭が立ち込める。
皆が唸るように寝静まった頃。
紅葉は一人、寝床で天井を眺めている。
そしてこの数日の目まぐるしい己の身辺を顧みている。
どうして自分は今こうしているのだろう。令和という遥か遠き未来の世界で、どうして自分はのうのうと生きているのであろう。
柴田陣中での大爆発は忘れられない、そしてその直前に見た忠太郎の驚愕の表情も忘れられない。
爆風に飛ばされながら意識がなくなり、ああ自分はこれで死んだのだ、忠太郎を救うことと引き換えで天国に行くのだ、そう思いそれを受け入れた。
だが。
目を覚ますと、南蛮服を着た忠太郎が自分を見下ろしていた! 助かったのだ、自分も忠太郎も!
だが、その喜びは束の間だった、自分を見下ろし保護した男は忠太郎では無かった、そして時代は令和という想像を絶した未来の世であったのだ。
もしも、
かの男が忠太郎に瓜二つでなければ。恐らく自分はこの事実を受け入れることが出来ず、愛刀で喉を掻き切っていたであろう。
では何故そうしなかったのか?
忠太、と呼ばれるあの男が余りにも忠太郎に似ていたからだ。似ていると言ったレベルではない、変な髪型や服装、話し方を除けば、忠太郎そのものなのだから。
顔も声も背格好も同じ、正直者で根が真面目。料理上手で器用で。身体能力もほぼ同じ、刀の扱いはだいぶ劣るが武将としての片鱗は窺える。
少し異なるは妙に人付き合いの良い点か。忠太郎は元来寡黙であり、仲間とあんな風に騒ぐことは一切なかった。
むむむ? それでは忠太郎どのとは大いに異なるのでは?
だが、こちらの方が生来陽気で気さくな紅葉にとって、ずっと好ましいのだ。いつも思っていた、忠さまはもっと友人と戯れ語らうべきだと。
故に、己の理想とする忠さまがあの忠助なのだ、不覚にも。
紅葉は音を立てずに身を起こし、屏風の上から苦しそうに寝込んでいる忠太を見下ろす。
だが、此奴は忠太郎どのではない。この令和に生きる忠太なる男である。
しかし。不思議と忠太郎のいないことが苦でなく辛くもない。
それは、此奴があの忠太郎どの以上に自分に尽くしてくれ、良くしてくれるからなのか?
あの忠太郎どのもぶっきらぼうであるが、根は優しく正直な人だった。
この忠太は時折子供染みているが、忠太郎以上に優しく、そして真っ直ぐな男だ。
幼き頃より忠太郎は常に自分の隣にいて、男として意識し出したのが昨年の夏の頃からか。
好いている、と言うよりは、ずっと共にいるのが当然である、という感情であった。
なので、あの爆発の瞬間も愛する男性と別れねばならない辛さ寂しさは微塵も感じず、それよりもこの快男児を救うことのできた事実が満足であった。
翻って、今自分が見下ろしている男にとってこの私の存在意義は何なのだろう。
長き時空の旅の末、親類も知り合いも全くいないこの令和の世で自分を救い匿い世話する男。そんな義理はないはずなのに、どうしてこの男は寝所を分けてまで自分を世話してくれるのだろうか。
もし自分が美女であるならそれも頷ける。だが自分は兄曰くカマキリのような不細工な女子なのだ。
実の兄に虫の如きと言われるのは美醜を全く気にかけなかった紅葉にとってどうでも良いことであった、それより寧ろ自分の持つ武士としての才能を褒めてくれるのが何よりも嬉しかった。
寺の小僧達が、自分を美しいと褒めそやすが紅葉は全く信じていない。今日初めて令和の世の街に出てみたが、令和の女子達の何と美しきこと! ふっくらとした頬に一重の細い目。小さくまん丸の鼻に薄い唇。
甲賀の若い衆が見たら、涎を垂らしそうな美女達であった。
自分のような小さく細い顔立ち、大きな目、とんがった鼻の女子なぞ一人もいなかったではないか。
こんな不細工な自分を、どうしてこの男は優しく大切にしてくれるのだろうか。
間違いない。
もしこの男がそばにいなかったのなら、兄者からたまいしあの刃でこの喉を……
「…なんだ…、お前、まだ、寝てないのか…」
「いや、あの、様子が気になって、の」
「ああ、きっと、大丈夫、だ、お前も、早く寝ろ…」
「分かった」
紅葉は自分の布団にくるまる。
この優しさ、忠太郎と同じだ。胸に沁みる優しさに自分の胸がポカポカしてくる。
不思議だ。
どうしてこの男は忠太郎どのではないのに、
自分はこんなにポカポカしているのだろう。
結局結論に辿り着くことはなく、紅葉は静かに夢の世界に落ちていった。
* * * * * *
この日から、時はゆっくりと進んで行く。
小僧どもが学校へ行っている間、紅葉は蕭衍と寺の雑用をこなすと共に、田所から送られてきた教材を使って令和の世の中の勉強を始める。
基礎的な読み書き算術は寧ろ照天、行円を凌ぐ程であり、何の苦もなかった。問題はやはり理科、社会の知識と、あとは意外にも保健の知識だった。
「月のものって、こういう意味やったんか、驚きや…」
月経の知識を得た時、紅葉は愕然としていたものだった。
「なるほど思春期、故に里の若い衆は急に身体つきが変わったり性格が豹変するんか。ふむふむ」
特に努力はせずとも話し方も徐々に変わっていき、十日ほど経つと普通の令和の女子中学生となんら変わらぬ言葉遣いとなっている。
「やっぱ地頭がええんちゃうか、ホントに」
「そやな。さすが忍者や、筋がちゃうわ」
確かに忍者は敵国に潜入するために、敵国の話し言葉を習得する能力が高くなければならない。紅葉にもその才能がふんだんに備わっていたのであろう。
「この調子なら、今年中に学校行けるんちゃうか?」
「そして、普通の女子として令和で生きてけるんとちゃうか」
紅葉自身も令和の学校には大いに興味がある様子。
「おい忠助。うちいつになったら、学校に行けるん?」
「まだ早いって」
「何でやねん。うちのどこがあかんのや!」
キッとなる紅葉に、
「じゃあ。お前の生年月日。」
「むむっ 2007年は七月七日、や。」
つい先日、東京の田所から政府発行の正式な戸籍謄本が送られてきたのだ。
「どうして小学校、中学校に行かなかったのか?」
同時に、架空の生活実態書が添付されていた。内容は忠太の意見も多く取り入れられている。
「それはのお、五歳の時に交通遺児になって、島村医院に入院して、そして記憶相違になりこの志徳寺で介護され、そして今年記憶が戻ったー どうじゃ、完璧じゃろ!」
真剣に考えると戦国言葉に戻るのが玉に瑕だ。
「チゲーよ。交通遺児じゃねーよ。交通事故だっつーの。あと、記憶喪失、な。もっと完全にスラスラ出てこねえと、勘のいい奴に疑われちまうぞ」
チッと舌打ちをしプンと拗ねる。
「今に見ておれ、忠助の分際で……」
週に一度、八田の付き添いで街に出るようになる。忠太は部活の試合や修行があり、毎回帯同は出来ないが、空いている時には常に付き添っている。
ある日、少し遠出をして近江八幡の市街地に出掛けた。
水口とは違い、そこそこの都市である。高層ビルはないが中々の商業都市であり、紅葉は大きな目を更に大きくし、街並みを眺めている。
駅の南口には立派な駅ビルがあり、すぐ近くには商業施設が立ち並んでいる。
八田が車を駐車場に入れている間、二人は駅前のイオンの前で待っている。忠太が尿意を催し、トイレに行って戻ると。
三人組の若い男子が紅葉を取り囲んでいるではないか!
小走りで近づくと、男子達が興奮状態であるのが分かるー
「なあ、アイドルとかやってるん?」
「めっちゃ可愛いやん、彼氏待ち?」
「暇してるんやったら、わしらと遊びに行かん?」
紅葉は三人を睥睨し、
「嘘つくな。うちが可愛いて? どの口が言うてんのや」
男子Aは驚きながら、
「ホンマやで、顔ちっちゃいし目大きいし」
「それ、不細工ちゃうか!」
男子Bは驚愕しながら、
「なんでやねん、芸能人みたいやんか、小顔で大きな目。」
「こんなとんがった鼻と顎や、ブッサイクやんか!」
男子Cは愕然としながら、
「整形かってくらい、綺麗な鼻と顎やで、そんじょそこらにはおらんで!」
三人は頷きながら熱弁する。
不意に紅葉は忠太に向き直り、
「忠助、こいつらこんなこと言うてうちを騙そうとしとるよ」
忠太は苦笑いしながら近付いて、
「さ、行くぞ」
と言って紅葉の手を握り駅ビルに歩き出す。
フードコートでそれぞれ好きなものを食べることとなり。八田もあれから色々勉強したのだ。
忠太が豚骨ラーメンの食券を買い、引き換えに呼び出しブザーを受け取って席に着いた時。
紅葉が中華料理の店の前で二人組の若い男子に話しかけられている。
忠太がそっと近付くと、
「なあ、ご馳走するから一緒に食べへん?」
「好きなもの買うたるよ、何が食べたい?」
紅葉が睥睨しながら、
「なんで知らん人に声かけるん? うちあんたらのこと知らんけど」
男子Dは笑いながら、
「だって、きみめちゃ可愛いから」
男子Eもうんうんと頷きながら、
「読モとかやっとるん? それかアイドルとか?」
うんざり顔の紅葉が忠太に振り返り、
「なあ、こう言ってんのやけど、忠助も一緒にご馳走になるか?」
いや、それは……
「なんや、彼氏おるんやん」
「ほな、さいなら」
男子D、Eは残念そうに去って行く。
「おい忠助。何故にこの街の男子はうちにちょっかいをかけてくるのじゃ? 面倒でたまらん」
それはな、
「お前がーそのー、まあ、ちょっと? 可愛いからじゃね?」
紅葉はキッとなり、箸を忠太の喉元に突きつけて
「だからそのような冗談を申すでない! どこが可愛いのじゃ、うちの!」
八田がクックックと笑いながら、
「紅葉ちゃん? きみ、ホンマに可愛いんやで。きっと元いた世界ではちゃうんかったかもだけどな、今の時代ではな、きみみたいな容姿は男子の憧れなんやで」
寺の小僧や忠助が言うのは信じられぬが、八田殿がこうまで言うのなら?
「ホンマ? こんなデカくてブッサイクな顔やのに?」
「デカくないで、ほら周りの女子見てごらん。キミより大きい子、いくらでもおるやん」
確かに。今日初めて気づいたが、自分より背の高い女子がうろうろしている。そうか、この時代では自分はだいだらぼっちではないのだ!
これは大発見だ、ちょっと八田を見直しつつ、それでも
「ふっくらした美人顔はほれ、そこにもホレ、大勢いるではないか」
八田は苦笑しながらスマホを滑らせ、
「見てみ。これが現代で美女と言われる子達だよ。きみと似てへん?」
そう言ってスマホを差し出すと、人気タレントやモデルの画像が表示されている。
「こんなんが、令和の美人? 嘘や。不細工やんか!」
紅葉が己の容姿を正確に認識するのは、もう少し先の話となる……
「でだ。仮にうちが可愛いとしよう、それで何故に奴らはうちに声がけしてくるんや? 意味が分からん」
忠太は麺を啜りつつ、
「ナンパだよナンパ」
「なんぱ、とは?」
「お前と仲良くなろうとしてんだよ」
「ほお。うちと仲良くなってどうするのじゃ?」
「彼氏になりたいんじゃねえの?」
「かれし?」
忠太と八田は顔を見合わせる。そう言えば戦国時代の男女の恋愛事情はどんなもなのだろう?
「ふーむ。うちのような上忍の家系は親が決めるかのぉ。下忍や農民らは近所付き合いのどさくさで夫婦となるかのぉ。令和人は違うのか?」
「いきなり夫婦かよ? 令和ではな、まずは彼氏彼女となって付き合うんだよ、そr―」
「付き合うとは、何に?」
ううーーむ… 何んと説明すれば…
「だからー、まずは好きな子ができるだろ、告るだろ、上手くいけば付き合うんだよ」
「じゃから、付き合うとは夫婦となることなのか否か、と聞いておる」
「チゲーよ。結婚しねえよ。恋人だよ!」
紅葉は真剣に首を傾げ、
「夫婦とならずに、恋人となる? それが付き合う、合っておるか?」
「ハアーー、そんな感じ。分かったか?」
「まあ、何となくのぉ。要は婚姻せずにさながら夫婦のように『付き合う』ということじゃな?」
「そーそーその通り」
忠太は冷めかけた麺を急いで啜る。
「子ができたらどうするのじゃ?」
喉を通りかけた麺が逆走し、鼻から麺が吹き出る。
「お主、すごい芸を持っておるの、子供が見たら大ウケじゃ」
八田はあたり構わず大爆笑してしまう。
「成る成る。理解できたぞ。要はじゃ、令和の男女は子を儲ける為でなく、快楽の為にせっくすをするのじゃな?」
保健を勉強し、語彙が増えるのはいいが、時と場合を考えよ、と怒鳴ると
「間違っておるか、うちの理解は? え? 正しい、ならえええじゃろが。お前もうちとせっくすをしたいのか忠助、どうなんじゃ、ほれ、言うてみい!」
フードコート中の主に男子が立ち上がって紅葉を眺めているじゃねえか……
「頼む。大声出すな。そしてこの話はおしまいにしてくれ、頼む……」
なんでやねん、別にええやん、と呟きながら渋々口を閉じる紅葉に八田は腹筋が崩壊してしまう。
「八田どの、この令和の人々は腐っておるぞ。快楽のためにせっk―をするとは。もしや八田どのもそうであるか?」
「僕は、えええと、その、まあ、そういう気持ちがなくもない、かな。あはは」
下手な標準語で誤魔化す。
紅葉は大きな溜め息を吐き出し、
「人の世も落ちるところまで落ちたと言うことか、情けない世の中じゃ」
そう吐き捨てると、空き皿を回収場所に置くべく立ち上がる。
帰りの車中で話は戻り、
「何と情けない、おい忠助、其方も性の快楽に囚われし下郎であるのか、どうじゃ?」
忠太はうんざり顔で、
「だから、俺は童貞だっつーの。知らねえよ、やったことねえし」
ふうん、そうなんだと八田はちょっと驚く。
「どうていとは?」
「はーーー、もーいーだろ。だからー、セックスしたことねえ、ってこと!」
「それは当然じゃろ、お主は嫁もかのじょもおらぬのだからな」
忠太はふと、去年の夏の個別修行の時を思い出すー
青木桃と二人で組み手をしていたら土砂降りの雨が降ってきて、慌てて部室に入ったら妙な雰囲気になり、青木に押し倒され服を脱がされー
その瞬間に小走りの足音がしたので二人してパッと離れたこと。
もしあの時、美咲が部室に小走りで来なかったら、あのまま俺は……
あの時はホッとしたものだが、帰宅後無性に残念だったと言う甘い思い出。
思い出し笑いをしつつ、
「そう言うお前は、忠太郎とセックスしたのか、ええ?」
いや忠太くん、それは言っちゃ……
八田が慌てて口を挟もうとしたが、時既に遅く。
紅葉の大きな目にみるみるうちに大粒の涙が込み上げ、やがてポロリと頬を伝う。
忠太は凍りつき、己の発言を心から後悔する。
気まずくなった後部座席をバックミラーで眺めながら、これも青春や、しゃあない、そう心で呟きながら八田はハンドルを国道へ向けた。
* * * * * *
近江八幡からの帰りの車中での出来事以来、紅葉と忠太はその生活において殆ど会話することがなくなった。
口をきかなくなって一週間が過ぎ。
忠太は半ばノイローゼとなってしまう。その原因は明白、その対応策も至極明瞭。土下座してあの日の不適切な言動を謝罪すればいいだけのことである。
だが。
男のプライドがそれを良しとせず、ズルズルとここまで引き摺っているのである。
思えば、川崎の応禅寺時代。天狗となっていた小六の頃。生意気だ許さん、と目上や同級生に無視されても全く応えなかった。寧ろ、話しかけてくるな雑魚が、位の気持ちであった。
今。
伴忠太としての心は、男のプライドを訴えている。
だが、心の半分を占める紅葉への気持ちが、それを断じて許さないでいる。
向こうからも話しかけては来ないのだが、ちょっとした用事で紅葉を呼ぼうとするや否や、
(こっちが話しかける必要あるか? ねえな。ふん)
と言う自分と、
(もう良いではないか、早う元に戻りたいぞ)
と言う何かが心の中で葛藤し、一人悶え苦しんでいる。
一方の紅葉。
実はあの時の言葉、
「忠太郎とせっくすしたのか」
と言う言葉に何の怒りも感じておらず、ただただ忠太郎の懐かしい大きな手の温もりを思い出し悲しんでいただけだった。従って忠太のことを一寸も恨んだり憎んだりしていない。
何故かあの時以来忠太が自分と目を合わせようとせず、話しかけてくる事がなくなり、すなわち無視されだし、その事自体に
「忠助の分際で、うちを無視するなぞ不遜なり」
と腹を立てているだけなのである。
互いの思惑違いは寺の生活にも徐々に支障をきたしており、雰囲気の悪い朝食と雰囲気最悪の夕食が少しずつ小僧達の心を蝕み始めているのだ。
それ以上に忠太の心は壊れ始め、部活動での後輩の指導などに大きな影響を醸し出している。
「てめえら、やる気あんのか、クズが! もっと真剣にやれ!」
「おっめぇらがだらしねえからチーム力が全然あがんねえんだよ、馬鹿野郎!」
下級生達は最初驚愕し、やがて恐れ出し、その内呆れ始める。
「あれ、絶対なんかの八つ当たりじゃん、何なんチュータ?」
上野澪が不貞腐れながら吐き捨てる。
「それな。青木先輩に振られたんじゃね? ダッサ」
大野雫の一言が尾鰭を付けて部員間に回り出す。
数日後に和田真央の元に届く頃にはー
「青木先輩に告ったらアタシより背の低い男は好かんと言われた」
となっており。
「おい忠太、そりゃあホントのことなのか? 気にすんな、背の低い男はえっとおるけぇな」
なんて見当違いに慰められたりして。
「それよりな、ちいと後輩にキツう当たりすぎじゃでぇ、みんなドン引きじゃねえかよ」
忠太はムッとして、
「ホントのことだろ、アイツらが気合い入ってねえの、このままじゃ近畿大会やべえってえの」
真央もカッとして、
「大将がキレてどうするんじゃ! もっとドンと構えてろよ」
最もである、忠太はぐうの音もでずにソッポを向いてしまう。
寺では珍龍が遂に、
「なあ、アイツと紅葉ちゃん、ちゃんと話し合わせんとあかんと思うんやけど」
行円が大きく頷き、
「朝は卵かけご飯、夜は冷凍食品。もう堪忍や」
照天も激しく同意する。
「風呂の湯加減がわからんて、俺には無理や、洗うのも面倒やし」
人に頼らず自分たちがちゃんとせい、と仏様が怒鳴りそうな会話であり。だが、事態は日に日に悪化していき、遂に厨房で保存していた食材に悪い虫が湧くという事態となる。
「マジで、何とかせんと」
「ああ、俺最近便秘気味やし、そろそろヤバいわ」
「風呂場のシャンプー、なくなっとるんやけど。どうしたらええねん…」
ここまで小僧共を甘やかせ続けた忠太にも責任はあるかも知れない…
「紅葉ちゃん、すっかり食欲落ちとるし」
「最近、げっそりやつれとるしな」
珍龍がボソッと、
「そやけど、夜の修行だけは二人で欠かさず行っとる。一体どうしたらええんか…」
そこが問題なのだ。完全に仲違いしているならば、当初に珍龍が述べたように、話し合いの場を作り出せば良い、そして徹底的に忠太をこき下ろせば良い。
だが、夜の修行だけは示し合わせたように二人でスッといなくなり、小一時間ほどで二人でスッと帰ってくるのだから、よくわからなくなるのも当然であろう。
「無視する相手と一緒に山間走駆せんよな、普通…」
「何やねんあの二人、はよ何とかせにゃ……」
「ホンマや、どうすりゃええのよ…」
主に紅葉の心配に明け暮れる小僧達。
忠太と紅葉の夜の修行、と言っても令和の男女が寝室で執り行う卑猥な修行ではなく、近隣の山々を駆け巡る『山間走駆』の方である。
原則、紅葉は一人で寺の敷地から出ることは許されない、ので忠太は食後、
「そろそろ走りに行くっかぁ」
とわざとらしい独り言を唱え、ダラダラと支度をして
「さー、走りに行くっかぁ」
と言ってゆっくりと山門を出る、すると背後からしれっと紅葉が距離を空けてついてくる、そんな感じなのである。
忠太にしてみれば。
流石に寺の雑用だけでは紅葉の体力が落ちてしまうだろう、なので田所達との約束通り夜だけは付き添ってやらなければならない。
と言う義務感から生じた行動である。
一方、紅葉にしてみれば。
何で毎晩、走りに行くのだろう。あんな未熟者が山を走るなんて危なかしくて見てられぬ。
と言う不安感から生じた行動なのである。
絶対に一度話し合うべきなのだが、小僧達も蕭衍もその糸口すら見出せず、状況は日毎に悪化しつつある。
そんなある日。
忠太は一年の百地遥と乱取りをしている。
忠太の心の乱れは相当なもので、何度も遥に一本取られてしまう始末。
遥は刀を下ろし、
「伴先輩。これでは私の修行になりません。高等部に行って修行してきてもよろしいですか?」
忠太は息を切らせながら、へたり込んでしまう。
遥は溜め息を抑えきれずに、
「一体。どうしたと言うのでしょう。技のキレ、読み、その他諸々。まるでその辺の雑魚同様ですね」
周囲の部員達は恐れをなし、そそくさとその場を立ち去って行く。
「これが『甲賀の猛虎』と呼ばれし伴先輩とは。余りに無惨です」
そんな呼び名があるの? それもビックリだったが、遥の情け容赦ない罵詈雑言にすっかり心折れてしまった忠太である。
「しかしながら。不思議と下半身の安定性は抜群なのです、決して修行を疎かにしていないのは明白、それも相当な走り込みをしている様子……」
すげえなこの子、本当に一年生なのか? 忠太はゴクリと唾を飲み込み、知らず知らず遥の話に耳を傾けてしまう。
「どんな修行を続けてらっしゃるのですか、後学のためにご教授くださいな」
「いや別に。ただ毎晩、寺の周りを走ってるだけだよ」
「志徳寺の周りに走る場所なぞありませんが」
おい、よく知っているじゃねええか… ちょっと背筋が寒くなる。
「まさか… 伴先輩、『山間走駆』をなさっているのですか! あの木々が密集し深い傾斜の山々を? しかも真夜中に!」
忠太は仕方なく軽く頷く。
「ああ、道理で先輩の下半身の動きだけは目の見張るものが… そうですか、それも面白いですね、どうでしょう先輩、今夜から私も同行させていただいてもよろしゅうございますか?」
それは困る! 断じて断る!
紅葉の事がバレてしまう。それだけは固くお断りだ。
「……そうですか。分かりました、残念です…」
そう言うと遥は、
「では。高等部の池田先輩に手合わせを願って参ります」
と言って去って行った。
* * * * * *
蕭衍のこさえた不味い食事を終えた後。
小雨がぱらつく中、いつものように
「さあて、そろそろ走るかな」
と言って忠太は部屋を出る。背後を伺うと、紅葉もモゾモゾと支度をしている様子だ。
寺を出て山門を潜ると、雨によって霧が発生しており、いつにも増して視界が悪い。紅葉について行けるだろうか、少し心配になるが構わず走り出す。案の定、三分も走ると後ろから忠太を追い抜く紅葉の姿が一瞬で前方に消えて行く。
辺りは湿った新緑の匂いと濡れた落ち葉の匂いが混然としている。時折大粒の雨粒が顔に当たり背筋がゾッとしてしまう。
もやが木々の隙間を遮るように湧いており、いつもよりも視界は格段に悪い状況だ、自然走る速度は落ちてしまう。
こんな夜は実に不気味だ、暗闇の中に白いもやが断続的に湧き上がるのだ。それがこの世のものとは思えぬ光景で、ホラー映画のワンシーンを思い浮かべてしまう。
紅葉と出会うまでの自分なら、決してこんな夜に山に入ることはなかったであろう。
まるで地獄への迷い道のような道なき道を進みつつ、必死に紅葉の走跡を追っていたまさにその瞬間。
ぎゃあーーーーーー
この世のものとは思えぬ悲鳴と共に、横たわった白い人影が忠太の前に現れたのだった。
忠太は心臓が凍る思いと共に急停止する。
何だよ何なんだよ、何だよこいつ、何なんだよコイツ……
白い人影は倒れたまま動かず、小さな呻き声が聞こえてくる。若い女性のようだ、甘くフルーティーな香りが忠太の鼻腔に入ってくる。
どうやら右の脛を抑えもがいている様子、それにしてもこんな時間にこんな山の中で一体誰が?
「…伴…先輩…ですか…」
百地遥だった!
そう言えば部活で修行を共にさせろと言っていた、てっきりただのアピールだと思い軽く受け流したのだったが。
「百地か、どうしたんだこんなところでー それより右の脛か、何かにぶつけたのか?」
「あまりに…未熟でした… まさか、山間走駆がこれ程のものとは思わず…」
忠太は大きな溜め息を吐き、そして決してこんな厳しい修行をしないよう念を押すべきだったと後悔しながら、
「ちょっと見せてみろ、切れているのか、血の匂いがする…」
遥に近づきしゃがみ込んだその刹那。
「忠助、お主どうしt― 」
紅葉が音もなく舞い戻って来て、そして言葉を失う。
これを恐れていたのだ。忠太は小さく舌打ちをし、下を向く。
「先輩… その方は…」
紅葉はハッとし、横たわる遥を見下ろす。
誰?
この子、誰?
暗がりでも分かる、小さな顔、大きな目。
令和の世で好まれる、流行りの顔立ち。
忠太が愛おしそうにその子を抱いている(訳ではないのだが、そう見える)
突如湧き上がる、強烈な怒りの念。だがそれを打ち消す様に漂う出血の匂いに、
「どうした、怪我をしている様じゃ、それも相当出血している様じゃの」
すっかり武家言葉になっている紅葉、怒りは心配と優しさに一瞬で変換した模様。
「右の脛だ。石の角にでもぶつけたのか? 確かにすごい出血だ、紅葉、寺に連れて行くぞ」
忠太も紅葉との柵を忘れ、一人の後輩の負傷に気が動転し始める。
「百地、俺が背負ってやる、立てるか?」
背負う、その子を?
その瞬間、再度強い怒りー世はそれを嫉妬と呼ぶのだがーが湧き上がり、だが傷つきし者への労りの念はそのままでー
「よい、うちが担ぐ。忠助は先陣じゃ、よいなっ」
有無を言わさず紅葉は遥を担ぎ上がる。右足から血が滴り落ちる。
「待て、止血してからだ」
忠太は包帯の代わりになるものを探るが、ジャージ姿なのでどうしようもない。
「ちょっと待っておれ、何か探してくる」
そう言って遥を下ろすと紅葉は一瞬のうちに目の前から姿を消す。
遥は訳が分からないと言った表情で呆然としている。やがて一言、
「どなた…ですか?」
忠太は何と答えようかと考えていると、紅葉が音もなく現れ、
「これで縛るぞ、忠助、足を持て」
どこから見つけ出して来たのか、つた状の植物をあっという間に遥の右脛に巻いていく。
「これは止血作用もある優れものじゃ、運が良いのお主」
言い終わるや、
「よし。これで寺までは持とうぞ、ささ忠助、先陣いたせ! まさか迷うたとは言わさぬぞ」
迷うかよ! 心で叫びつつ忠太は寺に向けて駆け出す。後ろから遥を背負った紅葉が続く。
「紅葉、大丈夫か? ゆっくりでいいぞ、足元気をつけろよ」
「誰にものを言うておる、そら、さっさと行かぬと置いていくぞ」
紅葉は人を背負っているとは思えぬ速度で駆け上ってくる、なんて奴だ、まだまだ俺が敵う相手ではない。
不思議と悔しい気持ちよりも頼もしい気持ちに満たされていく忠太であった。
「ちょ… えええええ! ま、また出たんか!」
玄関先で呼び出された照天は、泥まみれの遥を一目見て腰を抜かす。
ああそう言えば和尚がこの辺りは神隠しが多いと言っていたな、忠太は一人苦笑する。
バタバタと皆が玄関に集い、遥を見、遥の出血を見て照天と同様の判断を下したものだった。
「ですから、違います! 私は甲賀学苑中等部古武士道部一年、百地遥、です!」
「……で、平成何年から来たん?」
「はあ?」
「それとも、まさかの昭和かいな?」
「な、何を言っていらっしゃるのか…」
紅葉は笑いながら、
「お主が過去から旅してきた女子だと、みな考えておるのじゃ。失念いたせ」
遥は紅葉をマジマジと眺めながら、
「そういう貴女こそ、ひょっとして過去からいらした方なのですか?」
小僧と和尚が凍りつく。
この子、何と感の良い……
「そ、そんな訳ねーだろ、バカだなお前、こいつは山中紅葉って言う、立派な令和人に決まってるだろう、あははは」
「あははは、で誤魔化せるとお思いですか伴先輩。私とて伊賀で生まれ育ちし女子、神隠しの伝承くらい存じております」
「神隠しって… そんなのある訳… ないじゃん…」
はーーと溜め息を吐き、
「先輩は嘘が下手くそですね。まあそこも好きなところではありますがー」
好き、だと?
紅葉はまたまた正体不明、意味不明の怒りに襲われる。それを振り払うように、
「お主、薄汚れて汚いのお、風呂に入れ。うちが手伝ってやる。おい忠助、此奴の着替えを用意せぬか」
「あ、待て紅葉、俺がー」
多数の平手打ちが忠太を襲っている隙に、紅葉は遥をひょいと持ち上げ、さっさと風呂場に去ってしまう。
残されし寺の者どもは拳を握りしめ、忠太に視線を集める……
「あの子、ホンマにお前の後輩なんか?」
「そーだよ」
「伊賀の百地、言うてたな、まさかあの子…」
「そーだよ」
「百地翔琉の妹、なんか? めっちゃ可愛いやん!」
「そーかね?」
「なんや、一体お前、どーなっとるん? 紅葉ちゃんだけやなく、あないな可愛い子…」
「知らん」
「付き合うてるんか? そうなんか? 紅葉ちゃんを差し置いてコラ!」
「知るか」
「それよりも忠太よ、紅葉ちゃんとうまく仲直りが出来た様やな、これぞ雨降って地固まる、じゃの、ほっほっほ」
蕭衍が忠太の頭をぽんぽんと叩く。小僧達もそれに紛れて忠太のケツを蹴り上げ腹に手刀を叩きつける。
仲直り、出来たのか? まだちょっと不安な忠太なのである。
* * * * * *
「お主、ほっそいのお。ちゃんと飯食うとるのか」
背中を流してやりながら紅葉が物珍しそうに令和女子に話しかける。元来無口で人見知りの遥なのだが、傷を負った自分を背負い、あれ程の速さで山を駆け抜けた謎の女子に興味を抱き、
「まあ普通に。それよりも貴女、本当に過去から来たのですか?」
紅葉は頭にシャンプーをかけてゴシゴシしながら、
「そうや。うちは甲賀柏木三家筆頭、山中長俊が妹、紅葉じゃ」
遥は急に振り返り、驚愕の表情で、
「何ですって! 戦国時代の甲賀上忍、豊臣家の右筆も務めたあの山中長俊ですって?」
「おお、そなたは知っておるのか、重畳重畳。令和の世では知る人も少ない様じゃが」
「私の名前は百地遥、祖先はー」
紅葉は遥の短い後ろ髪を掴み、
「まさかそなた、伊賀の百地丹波の子孫?」
遥は豹変した紅葉に怯えつつ、パッと顔を明るくし
「そうです」
「なんと… あの喰えぬ百姓ジジイの子孫とは… おもろいのぉ、旅はしてみるものじゃ」
と言ってかっかっかっと笑いだす。
遥は普段は常に他人を疑い己を疑うような疑心暗鬼をモットーにしているような女子であるが、不思議と背中にいるこの女子を信じ信頼し始めている。
何より、自分の苗字である『百地』の読みはかつて(ももち)と呼ばれていたらしい、彼女はそれを正確に「ももち」と発音しているのだから!
「あの、丹波はどのような方だったのでしょう」
「まっこと腹が見えぬジジイでのぉ、我が父も兄者もあやつは信頼できぬ、と散々な言われようじゃったわ。じゃが、忍びの術は大したものじゃったようよ、うちは実際に見たことはあらぬがな」
「うわ… なんか、感動です… 自分のご先祖を知っておられる方とこうしてお話しできるなんて…」
紅葉も令和に来て初めて同性の令和人と話が出来て、実はとても興奮している。それもまさか伊賀の百地の子孫だったとは。
それにしてもたかが闇夜の山駆け如きで負傷するとは、何とも愛い奴。
紅葉は笑いを堪えながら丁寧に遥の髪を流してやる。
己も服を脱ぎ、サッと体を清め、遥と共に風呂に浸かる。遥は右足が湯に浸からぬように風呂桶から右足を突き出しながらの入浴で、紅葉の支えが必要であった。
そう言えば里の女子衆ともよく山の湧き湯に浸かりに行ったものだった、と懐かしく思っていると、急に遥が
「あの、紅葉さん。貴女、伴先輩と付き合ってらっしゃるの?」
付き合う… ああ、恋人となること…
「はあ? お主何を言うておる。うちがあの忠助と? 冗談ではない」
遥はじっと紅葉を見つめる。どうやら嘘は言っていない様だ、さすが伊賀の上忍家系の子孫、人の嘘や誤魔化しを見抜くのは特技である。
「そう言うお主、忠助と付き合うておるのか?」
軽く返したつもりだが。何故か心がチクっと痛む。
「いいえ。でも、お慕いしてます、心から」
まず虚脱感。次に絶望感、そして好奇心が押すなとばかりに心に込み上げてくる。
「あ、あの忠助の、どこが、ええのじゃ?」
遥は頬を赤らめうっとりとした表情で、
「イケメンです。正直者でまっすぐです。そして何より、あの方の技に惚れています」
いけめん?
「ああ、えっと、ハンサム、いや、二枚目?」
にまいめ?
「ううーん、えっとぉ、そや、美男子、美丈夫? それや!」
「ほお。美丈夫を、いけめんと言うか令和では。成る成る、うちの時代ではな、――」
まさかの紅葉と遥の深夜の入浴女子会。長すぎる風呂に心配となった忠太が外から声がけするまで長々と続いたものだった。
風呂から出ると、実に手際よく紅葉は遥の右の脛の治療をする。何でもこの数日寺の敷地内に生えていた草から幾つか薬草をこさえていたと言う。
「すごい! 甲賀上忍秘伝の薬ですか、感動です!」
遥はキャッキャ言いながら紅葉の治療を受けている。
忠太は、その仏頂面がトレードマークである百地遥の豹変ぶりに心底驚き戸惑っている。
こいつ、こんなキャラだったとは… どうして学校や部活ではあんなんなんだろう、遥に話しかけようとするも、紅葉がそれを遮り
「おうよ、うちは料理はダメじゃが、薬草作りは中々なのじゃぞ、これを塗っておけば明日には歩けるように成るじゃぞ」
遥の脛の傷は二センチほどのちょっと深い切り傷だったが、縫うほど深くは切れておらず、むしろ打撲の方が痛そうであったが、
「明日の朝には腫れも引いておるじゃろ、心配いらんて」
忠太としては、遥の豹変ぶりが気になるところではあるが、それよりも重大な心配なのが今週末に行われる古武士道U16滋賀県大会への彼女の出場可否なのである。
去年、一昨年はコロナの影響で大会が開催されなかったが、今年は三年振りの開催が決定されており、日々大会に向けて修行に励んでいるのはご覧の通りだ。
遥の右の脛は傷の周りが青く腫れ上がっており、今後数日間は走るどころか歩く事さえ困難になるであろう、と。
「安堵せい、問題ない。それよりも… 何じゃその、こぶしどう、とは?」
「前に説明しただろうが。俺とこいつの入っている部活だよ」
「して、どのような内容なのじゃ?」
好奇心は強いくせに、関心のないことには全く興味を示さない。忠太は遥に説明してやってくれと言うと遥はコクリと頷いた。
「…と言ったような次第なのです。分かりました?」
紅葉は目を爛々と輝かせ、
「よう分かった、お主は賢いの、この小僧どもに爪の垢を煎じずに喰わせたいわ。そんなことより、おい忠助―」
「むり。絶対、むり!」
「まだ何も言うてないじゃろうが」
「うちを出場させろ、だろ。全然ムリ。」
「えええええーーー そこをなんとか… ほれ、田所殿にちょちょっとかけあってだな…」
遥が特大の真珠を眺める目付きで、
「私も見てみたい… 紅葉さんの道士振りを…」
小僧共も唾をゴクリと飲み込み、紅葉が刀役で敵陣に切り込む姿を想像するーあかん、強すぎて勝負にならん、伊賀の百地さえ片手で十分かも知れへん、と。
「それは… 確かにー」
忠太も夢想する。
高等部一年青木桃と紅葉。相手にならん、瞬殺だ。
高等部二年池田駿と紅葉。ああこれも、分殺だ、間違いない。
伊賀中等学校三年百地翔琉と紅葉。未だ戦ったことはないのだがーきっと秒殺だな。
「田所さんに、相談してみるわ。今日明日、来週は無理だろうが、ひょっとすると五月末の近畿大会には……」
つい一刻前には最悪の雰囲気だった寺が、こんなに明るく戻るとは。蕭衍は青春の愚かさと可能性に目が眩む思いである。
雨は蕭蕭と降り続け、夜の志徳寺をしっとりと包み込む。今夜は大事にせい、と言うことで百地遥は志徳寺に一泊することとなる。
忠太が寝室に案内し、ここで紅葉と二人で寝ろと申しつける。
時刻は十一時を過ぎ。いつもならば遥は熟睡している時刻である。だが余りの出来事の奥深さのため、全く寝付くことが出来ない。一番の理由は恋焦がれている忠太の部屋で寝ている、である。
屏風の奥から紅葉が不意に、
「ところで。伊賀者のそなたが、何故に甲賀に参ったのじゃ?」
遥に対して、何故か武家言葉を通す紅葉。
遥は胸の奥底にしまっている思いを告げるかどうか迷っている。そう言えば忠太にも入部の日に問われたが、そっけなく突き放したことを思い出し、
「人には言いたくないんです」
目上には徹底的に丁寧語を使う遥だが、何故か紅葉には砕けた口調で話す。
しばらく沈黙となる。
ずっと胸にしまっていた苦く辛い思いーそれは。
「あの、百地の妹だから、と言われたくない」
遥は人として普通に兄を尊敬しているし、家族として兄を普通に好いている。だが、誇り高く勝ち気で負けず嫌いの遥かにとって、古武士道で絶対的な強者である兄の側にいるのがどうにも耐え難かったのだ。
人は常に兄と自分を比較し、こう言う。
「遥ちゃんは強いね、さすがお兄ちゃんの妹や」
と。
伊賀の中学生では最強の存在である兄ありきの自分なのだ。
この地にいたら、必ず兄がついてまわる。兄の通う伊賀中等教育学校は中高一貫の六年制であり、すると今後六年間常に兄との比較に晒されねばならないのだ。
自分はそれに耐えられない。兄は肉親としては尊敬するが、自分は自分であり兄の妹の自分ではない!
周囲の猛反対を押し切り、隣の県の甲賀学苑を選んだのは、そう言うことなのであった。
「ふうむ、偉大すぎる兄の存在、か。」
紅葉が静かに呟く。
結局遥はその胸のうちを洗いざらい紅葉に語ってしまっていたのだった。
「ああ、そう言えば紅葉さんも長俊さんという偉大な兄が… その辺の気持ちは、どんな感じなんですか?」
穏やかだが切実な思いで紅葉に問う。
「兄者はな、うちにとっては憧れであり目標でもあったんや。またその存在はな、絶対的なものだったんよ、甲賀上忍の家の次期当主としてな」
いつの間にか紅葉の口調は砕けた話し方に変わっていた。遥が心を開き己の苦悩を話してくれたからだろうか。
「それに令和の今と違って、うちらは女子が刀握るなんてありえへんかったんや、うちが単にジャジャ馬なだけだったんよ」
自嘲しながら紅葉が苦笑する。
「えー、そうやったんだ。だって紅葉さん忍者だったんでしょ、くノ一だったんでしょ?」
「それ、小僧達も言うてたが、なんやそのくノ一って? く、ノ、一を重ねろ? ほお、女という字や、へ? 女の忍者をだからくノ一と? なんやそれ、ウケるわー」
「違うんですかぁ、戦国時代ってくノ一いなかったんですか? マジですか?」
「おらんて。うち以外に刀握るおなごなぞ、聞いたことあらへんよ。てへぺろ、ってか?」
遥は笑いが止まらなくなる。全く似合っていない、なぁにがてへぺろや。そう言う自分も決して似合わぬだろうが。
「そやから。うちはうち、兄者は兄者、や。兄は甲賀の里全体のことを考えなきゃならぬ、なんなら天下のことを思わねばならん。そやけどうちは忠どのと野山を駆け回り、そのうちの戦さ場を共に駆け抜けたい、それしか思わんかったさかい。うちと兄者、兄妹やけど全く別の人生やし別の役割。そう考えとったな」
兄は兄、自分は自分、か。
ああ、そう言えば先輩も
『お前はお前だろ? カンケーねえだろ兄貴とは』
そう言ってたな。
翔琉にぃは、翔琉にぃであり、自分は自分。自分の古武士道は百地遥のものであり、百地翔琉のそれとは関係がない。
この数年間の心の重しが取れた気がする。肩の荷が降りた気がする。
心が軽くなった瞬間、遥は僅かに微笑みながら眠りに入っていった。
* * * * * *
「と言うわけだから、忠太くん、くれぐれも百葉ちゃんには軽率な約束をしないでくれな、うん、うん。新規観察者の件も、こちらで処理しとくから。じゃあ、また。」
田所はスマホの終話ボタンをタップする。
窓の無いこの『特殊旅行課』の部屋の天井を見上げ、大きく息を吐き出した。
「どうしたのですか。直電なんて珍しい、何か非常事態でも?」
田中華子がパソコンに入力しつつ声をかけてくる。
「ああ。甲賀の紅葉ちゃんが、明日にでも学校に行きてえんだと」
華子は手を止め、田所をまじまじと眺める。
「まさか… そんなに早く順応しちゃったのですか? 信じられない…」
その横で鈴木次郎も驚きの声を上げ、
「それで色々こちらで考える、と。では色々考えますか。さて過去のケースを総浚いしますかね、ええと、」
次郎がチャチャチャと画面のフォルダから事例を摘んでくる。
「さてさて。これまで十五歳でこちらに来たケースは、と。記録されている限りで十七件ですか。そしてその後この世界に同化したケースはっと。ええと、……四件、ですか…」
華子も別画面を立ち上げ、同様のフォルダを開き、目を見はる。
「その四件も、その後高等学校に入ったケースはゼロ… これでは過去ケースは参考になりませんね。我々で今後起こりうる障害を全て想定し精査せねばなりません」
「参ったな、全く。仕方ない、明日から当分その作業に没頭しよう。君ら二人が頼りだぜ、先輩!」
「然し乍ら、我々もこちらの学校機関に入学した経験はありませんよ。一体何を想定すれば良いのか…」
「我々だけではちょっと不安ですね、全国の特別戸籍課に招集をかけませんか? 我々三名と彼ら八名、十一名集わば文殊の知恵と申しますし」
「こら次郎。何適当なこと喋るんだが。こぃだはんで幕府の人間は信用でぎね」
次郎はキッとなり、
「おなごが何を意見するのじゃ、お主は黙って津軽の山奥に引っ込んでおれ」
華子は立ち上がり、
「そった女性蔑視すてあったはんで幕府は潰さぃだのだよ、この貧乏旗本退屈男めが」
「な、なにおう、そこに、そこに直れい、その首跳ね飛ばしてくれるわ」
田所は鞄を抱えて立ち上がり、
「あとは若い人たちでなー、お先―」
そろそろあの二人、付き合い出してもいい頃なんだけどな、と吹き出しつつ部屋を後にする。
翌朝。
朝方まで降っていた雨は止み、雲の合間から朝日が差している。
障子戸の外でちゅんちゅんと小鳥が鳴いている…… いや正確にはウグイスがホーホケキョと鳴いている。
まぁ、朝チュンがどうのこうの、と言う展開では無いのでそこはどうでも良い。
遥の脛の打ち身は、驚くほど回復している。傷口も完全に塞がっており、周囲の腫れも殆ど引いている。
「これ程、とは… 恐るべし甲賀忍術、やな」
珍龍が有り得ない、といった表情で遥の傷口を眺める。
「俺も怪我したら紅葉ちゃんの秘薬使おっと」
「俺も俺も。紅葉ちゃん、記憶力が凄くなる薬とかあらへんの?」
紅葉は真顔で、
「せっくすしたくなる薬なら、作れるで、多分。」
朝食の席が凍り付く。この子は一体朝から何てことを……
「どうだ百地、走れそうか?」
忠太の作っただし巻き玉子を頬張りながら、
「大丈夫れふ、十分はひれまふ」
忠太は軽く頷きながら、一晩で豹変した後輩に脳波検査が必要でないか心配する。
朝食後。遥は一旦下宿先に戻り登校するからと、早々に寺を出る。
「いつでも修行に来いや、うちが相手しちゃるさかいに」
「わぁー、ちょー楽しみです、ほなまた!」
うん、絶対にT C(C T)検査が必要だ、忠太は島村医師に連絡しようと心に決める。
別れ際に、
「そういう訳だから。紅葉のことは、絶対に他言無用でな。今後はお前も俺らと同じ様に、紅葉の国が公認する保護者、みたいなのになるから。分かったか」
「一つ条件があります」
忠太の耳元で遥が囁く。
「私と付き合ってください。それが条件です。ではっ」
忠太は立ち尽くし、思考が停止する。
あいつ、今何と?
殺気を感じ振り返ると、紅葉が般若の形相でこちらを睨んでいる。
こんなことなら、昨夜までの状態の方がマシだったのか、忠太は這々の体で部屋に戻ったものである。
色々なことが目まぐるしく起き、忠太は週末の試合に集中するのが困難になっている。だが今日は木曜日、あと二日後の土曜日に三年ぶりの開催となる滋賀県大会が迫っている。
参加校、団体は四。甲賀学苑中等部、近江古武士道研究会、信楽古武士道愛好会、そして鈴鹿寺古武士道少年の部、である。
三年前までの県大会には、二軍が参加しても楽勝であったが。
昨今の古武士道ブームが県内に巻き起こり、登録道士数はコロナ前の三割増しの状態である。
忠太達三年生以下の部員は県大会、近畿大会の経験が無く、今度の県大会も彼らには未知数なのである。
青木先輩らと相談し、取り敢えず県大会は一軍フルメンバーで臨むこととし、その準備を新学期以来進めてきたのだがー
午後の部活で、中等部一軍と高等部三軍の模擬戦が行われ。
忠太達は刀、槍、そして大将まで討ち取られる『総崩れ』で敗れた。
古武士道において。
試合時間は中学生の部では二十五分ハーフの計五十分。因みに高等部では三十分ハーフでトータル一時間となる。
メンバーは十一名。攻撃を担当する刀役、攻撃と守備の槍役、守備に特化した弓役、そして総大将。
刀は四名、槍三名、弓三名。
従って、通常裏手に設置された木などの高所に配置される弓役三名を除き、フィールドに立つのは刀、槍、総大将の計七名である。十九歳以上が参加できる『真戦』ではこれに筒(火縄銃)二名、刀と槍が一名ずつ追加され、計十五名での戦となるのは余談だ。
サッカーコート半面ほどの縦三十間(約54メートル)横十五間(27メートル)のフィールドの自陣奥に、サッカーで例えるなら自陣ゴール付近に総大将は構え、槍役三名がそれを囲む。 ゴール裏高所の弓役三名がこれを補佐し、攻撃担当の敵の刀役の襲来に備える。
戦の勝敗は、
一、敵総大将を討ち取った方
二、戦終了時に残っている道士の多い方
が勝利となる。終了時に道士が同数の場合、弓役同士の『弓矢戦』で決着をつける。
フィールドの全道士は、剣道に用いられるのに似た古武士道専用の面頭巾、鎧、籠手を装備しており、脱落の条件として
一、持っている刀や槍を手放した時
二、転倒し背中が地面に接した時
三、敵味方の弓矢が身体の一部に当たった時
四、弓役が使用する弓を地面に落とした時
脱落と判定されると戦闘不能となり、その場でうずくまり待機せねばならない。
弓役以外の道士は、持っている武器以外にも蹴り、殴打が認められ、所有する武器さえ手放さなければ寝技も認められている。
刀、槍の技で転倒させ蹴り、寝技で相手の背中を地面に接触させるのが常套手段と言えよう。
地面との接触は検分役が判定し、脱落者はその場でしゃがみ待機し、以後戦いに加わることは出来ない。
つい数年前までは、弓矢が命中したかどうかは検分役=審判員の判定によっていたが、世界大会開催と共にハイテク化が進み、センサー付きの弓矢が身体の各部に命中すると検分役に知らせるシステムが導入され、今年の大会からは全てこのシステムの下で戦わねばならない。
典型的な戦の流れは。
戦の開始と共に、刀役同士の斬り合いが始まる、これに槍役が参加することは定石ではない。
刀役同士の四対四の均衡が崩れた時、初めて後方の槍部隊が攻撃に加担していく。一番後方の大将もじわじわと後方から敵陣に上がっていく。
敵攻撃が自陣に入ってくると防御に特化した弓部隊の出番である。刀役同士の戦いで味方守備網を突破された時、狙い澄ましたが如く三名の弓役が敵を射抜いていく。射程はおよそ25メートルほど、フィールドの半分程度であり、敵陣内の敵を射抜くのは至難の業とされている。
この時点で刀役が弓に射られ、攻守逆転することが多々あるので弓の精度はチームの生命線と言えよう。
双方の刀、槍が削られていき、最終的に総大将同士の一騎打ちとなることも多い、従ってチームのエース格は概ね総大将を務めるのだ。
こうして最終的に総大将が生き残った、もしくは制限時間が過ぎフィールド上の道士が多いチームの勝利、と相成るのである。
勿論これは基本的な展開であり、江戸時代より研究尽くされてきた数々の戦法が展開される、例えば、鶴翼の陣、車懸かり、雁行の陣、右翼(左翼、更には中央)一点突破、堅牢の陣。
その戦術は数百とも数千通りとも言われており、更に毎年新たな戦術が披露されているのだ。
故に古武士道の戦において、刀、槍、総大将のフィールドプレーヤー全員が討ち取られる『総崩れ』と言われる事態は、相当な実力差がないと有り得ない稀有な事態なのである。
「おいおい… 中等部、大丈夫なんか?」
主に高等部一年生が主力の三軍の道士達が、真剣に心配し始める。
「開始二分であの小さい子以外の刀が全滅って… 相当ヤバいんじゃないか?」
「槍も白兵戦は中々やったけど、全員が弓に射抜かれるって… 実戦感覚が無さ過ぎやで」
「『魔弾の射手』とか言われとるそうやけど、当てた奴おった? 味方を一人射抜いとったけどな、ウケるー」
「忠太も八人に囲まれては、なー 近畿大会どころか、県大会もヤバいんちゃうか?」
先輩方の心配以上に、自分達の今の実力の無さに愕然としている中等部道士達であった。
「やっぱ刀が弱すぎる! 遥以外、全然ダメじゃん」
「お前ら槍かて、あんな遠矢にビシビシ射られて、恥ずかしゅうないんか! 何が甲賀三本槍だよ、三ぼんやり、じゃねえかよ」
「うるせえ、遥を背後から射抜くってよお、何のアピールなんだよ。魔弾の射手だあ? まだまだの射手じゃねえかよ、浮かれてんじゃねえよ」
あちこちで口論が始まり、遂には真央と刀使いの土山が取っ組み合いを始める。
「お前ら、勝手にやってろ。俺は帰るから。明日、中等部内で模擬戦やって、明後日のメンバーを決める。以上」
そう言い捨てて、忠太はさっさとフィールドを後にするのだった。
「おうチュータ。散々やったな」
校舎の影から高一の青木桃が現れる。桃は既に二軍に昇格しており、秋の大会には一軍に上がるのでは、と噂されている。従って今日の三軍戦には参加していない。
「まぁ、うちの三軍言うたら、そこらの高校じゃ相手にならんし。伊賀中等部にも楽々勝つくらいやから、あまり気にすんな」
……優しい。こんな優しい桃は、初めてである。
見た目以上に凹んでいた忠太は、
「どした? なんかキモいんだけどその優しさ」
二人きりの時は普通にタメ口なのである。
ウッセーボケ、と言いながら忠太の脇腹に手刀を入れる、その場に忠太はうずくまる。相変わらず遠慮ねえよな、ここは通常運転じゃん、忠太は少し気が晴れた気がする。
「総大将が気落ちしたりカリカリしとったら、部全体がフワフワするからな。お前はどっしり構えてりゃええんやで。大丈夫や、明後日は二つとも勝てるで。ウチが保証したるよ」
ちょ… ほんとどうしちゃったの? なんか、心に一々刺さるんですけど、アンタの言葉が…
忠太より五センチ程高い桃を見上げる。高校生になって少し綺麗になった気がする、昔はあんなにブスだったのに…
「明後日はみんなと観に行くで、終わったら焼肉屋で打ち上げしたるよ、そやから精々きばりや、チビ忠」
「チビ忠言うな。焼肉約束だぞ。それとー」
桃を真剣な眼差しで見上げながら、
「俺たちは絶対、勝つ。よく観とけ」
桃は満面の笑みを見せる。
……桃パイセンが、笑っとる… 嘘だろ…
入部して二年経つが、青木桃の笑顔を間近で見たのは初めてであった、そしてその笑顔が当分忘れられないほど、とっても可愛かった!
忠太の胸はドキドキが止まらず、慌てて部室へ走り去ったものだった。
* * * * * *
「と言うわけで、もし彼女が目立たずに普通に学生生活を送る分には、早ければゴールデンウィーク明けには入学を許可しても問題ないと結論します」
田中華子が十名の審議委員の前で滔々と述べる。
スッと一本手が上がる。
「でもさ、彼女、古武士道部に入っちゃうんでしょ? それ、相当まずいことになるんじゃねえの?」
続けて女性委員が
「ですよね、現役の戦国武士なのですから。今現在で、日本一の刀使いじゃないかしら」
鈴木次郎がスッと立ち上がり、
「ですので。もしマスコミに嗅ぎつかれ過去を突かれても、万全の準備をしておけば問題ないと思われます。交通事故で記憶喪失、では事故の記録を遡られますので、山道から転落し記憶喪失、に変更したいと思います。島村医師ともよく相談していこうと思います」
皆は渋々と頷き、
「あまり最初から注目されるような活躍は避けた方がええと思うで」
「公認の保護観察者はこれ以上増やさないように、な」
「なるべくな、無口で人見知り設定がいいと思うよ」
華子はポンポン出てくる意見を即座にタイプしていく。どれも貴重な意見であるから。
メンバーで最も古株の委員がポツリと呟く。
「これ、もしうまく順応したらさ、最古記録になるんじゃない? 今までの記録は享保四年、だっけ? 一気に二百年だよ。大変なことだと思うよ。八田くん、頑張りなさいよ、キミ次第なんだからね」
このメンバーでは割と若手の八田は、背筋が冷たくなる。それって失敗したら俺のせいやん…
「まあ、精々頑張りますさかい、どうか皆さんのお力添えのほど、よろしゅう頼みます」
パチパチと拍手が湧き上がる。八田は立ち上がり、ペコペコと頭を下げまくる。
臨時旅人委員会が終了し、八田は田所と喫煙室でホッとしている。
「スマホの件も何とか同意が取れたし。紅葉ちゃん、大喜びやろな」
田所は何度も頷きながら、
「ウチの若い衆が良く頑張ったよ。自分らが出来なかったことだから、何とかして叶えてやりたいって、な。あとで褒めてやってくれや」
「ええ、勿論ですわ、嫌っちゅうほど褒めたりますわ。それよりこれでゴールデンウィークは甲賀に出突っ張りですね」
「ああ。さすがに俺たちが直接ブリーフィングしないと。あと寺の衆と、誰だっけ、新しい公認ちゃん?」
「百地、遥ちゃんです。この子がまた、めっちゃ可愛いんですわ。何やろ、紅葉ちゃんといい遥ちゃんといい。美少女づいてますな、カッカッカ」
「おい、変な気起こすなよ、旅人に手出ししたら、間違いなくアレだぞ!」
「分かってますって。それよりいつ現地入りします? 迎え行きますさかい」
「来週の頭、月曜日に入ろうかな」
「承知です、宿は水口でええですか?」
「うーん、近江八幡がいいなぁ」
「一週間ですからね、分かりました、手配しときます、ほなお先」
と言うと八田は会議室に戻って行った。
季節は四月の終わり、春から夏の入り口に差し掛かっている。
夕暮れの山道を吹き下ろす空気が、温かく柔らかになってきている。風の匂いも新緑の匂いから青い匂いに変わってきている。
昨夜の雨は朝にはすっかり上がり、日中はよく晴れた清々しいお天気だった。
だが忠太の心は曇りどころかトルネードが吹き荒れる荒天なのである。
今日の戦の惨敗は俺のせいだ、もっと皆を能動的に動かさなきゃいけなかった。瞬間的な判断が上手く出来なかった、頭が全然回らんかった。須く、俺の心理状態が今日の惨敗をもたらしたのだ。
では何故こんな闘う姿勢が取れぬほどの心理状態に?
一、今朝の百地遥の告白
二、今後の紅葉の行く末〜本当に学校に入れるのか、古武士道部に入部できるのか
三、無理に約束させれたスマホの件
四、そう言えばまだ紅葉に謝罪していないこと、あんな酷いことを言ったのに…
ふむ。こんなに心にあれこれ抱えていたら、今日の結果も仕方ないか。
そしてとどめの追い討ちが、
五、青木桃パイセンが異様に優しくて笑顔がキモいほど可愛かった件
お陰で初夏の訪れを楽しむ余裕なく、黙々と山道を登っているのだった。
頭上をトンビがピーヒョロロと滑空している、日はまだ沈んでおらず、淡いオレンジ色の夕空に茶色のトンビ舞っている、まるで絵画のような光景が見られると言うのに。
そんな風景を眺めることもできず、出るのは大きな溜め息、やがて山門が見えてくる。
夕食後。
今日明日は明後日の大会に備え、山駆けはしないと紅葉に宣言すると
「ほんまに柔じゃの。ウチ一人で駆けてくるから別にええよ」
なぞ言われ、ちょっと待てそれでは俺の男が廃るだろうが、よしいいだろう、俺も駆けるからと宣言し直す。
確かに真っ暗闇を全力で駆けていると、考え事をする余裕はなく、色々な悩みをひと時忘れることが出来て良い。思わぬ気づきであった。
紅葉の挑発に乗ってまあ良かったと思いつつ、走駆を終えて山門付近でハアハアと息を整えていると。
「お主はすぐに息を切らすのぉ、呼吸法が間違ごうておるんじゃろな」
「こ、呼吸法? スー ハー スー ハーって、は、鼻から息吸って、口から、吐くん、だろ、やってるし、はあはあ」
紅葉は思い切り被りを振り、
「何じゃその呼吸法は。ええか、甲賀忍術に伝わる呼吸法はこうじゃ」
スー ハー ハー スー ハー スー スー ハー
「これを繰り返すのじゃ、すると多くの空気をより肺に送り込めるんや、やってみい」
甲賀忍術!
マジか! スッゲ…
早速紅葉の指導のもと、その呼吸法を試してみる。するとすぐに息が整い、身体中に新鮮な血が送り込まれる感覚になり、
「ちょっと、駆けてくるわ」
再び山に入り、この呼吸法を維持して全力で駆けてみる。
初めて試したのだが、何故かすぐにこの呼吸法をマスターする。そして忠太は殆ど息を切らせることなく半刻も険しい暗闇の山々を駆け回れたのだった。
紅葉が入浴中、忠太が蕭衍にこの話をすると、
「おお、所謂『二重息吹の術』や。お前は幸せ者やな、何せ本場本物の術を教われるのやからのぉ」
嬉しいぞ、素直にメチャ嬉しい!
忠太は一つも二つもレベルが上がった気がし、そうだ無事に滋賀県大会を勝ち上がったら、部員の奴らに教えてやろう、そう思った。
それにしても。
もしも今日の戦いに、紅葉が刀役でいたならー
間違いなく彼女一人で全員をぶった斬っていただろう。敵の弓矢は掠りもせず、あの十五間三十間のフィールドを目に見えぬ速度で走り回り、ものの数分でかたを付けていたに違いない。
欲しい。素直に戦力としての紅葉が欲しい。
彼女がいれば、近畿大会も楽勝だ。三年ぶり開催の大会で、近畿中、いや全国が俺たちを知るに違いなー
…… ……
ちょっと、待て。それでいいのか? 近畿中に、全国に山中紅葉の存在を知られてしまって、本当にいいのか?
忠太はちょっと背筋が寒くなるのだった。
「そうなんだ。我々が危惧しているのが、まさにその点なのだよ。大会に出場すれば、間違いなく彼女は有名になるだろう。俺は実際に見てないが、相当の腕前なのだろう? え? うん、うん、マジか… そこまでの強さとは…… だとしたら、益々彼女を大会に参加させるために相当な準備と覚悟が必要になるぞ。わかった、ゴールデンウィークに一週間ほどそちらに滞在するから、その時にじっくりと話し合おう。こちらもそれまでに、出来るだけ多くの対策を練っておくから。ああ、ああ。へ? いやいや、そんなこと一切気にしなくていいよ、それが俺らの仕事なのだから。うん、うん。はい、それじゃ、また来週。おやすみ」
フーー、大きく息を吐きながら電話を切る。
田所は忠太が意外に頭の回転が早く、理解力に優れることに少し驚いている。
「彼、よく分かってるわ。俺らの立場も彼女の立ち位置も。なんか凄いねあの若さでさ。これも彼自身が親兄弟なしながら周りの助けと愛を一身に受けてきた賜物なのかね?」
「きっとそうに違いありません。それよりも田所さん、ちょっと気になる話を見つけたのですが……」
田中華子が冷徹な表情を更に険しくしながらパソコンの画面を睨みつけている。
田所と鈴木次郎が何事かと華子のデスクに近寄る。
「あくまで噂なのですが。今年の県レベル以上の古武士道大会全てに、最新のシステムが寄贈されているのです。その寄贈元、すなわちスポンサーが、日本防犯警備保障、通称ボーケーという新進の警備会社なのです。」
「ああ、知ってるよ、あの『オーケーボーケー任せてオーケー、』だろ。オリンピックでメダル取った柔道選手とかレスリング選手のスポンサーだよね?」
格闘技好きの次郎が即座に答える。
「ああ。俺も知っているよ、確か五年くらい前に外資系の警備会社として設立したんだよな、それが何か?」
華子は更に深く鋭い眼差しで二人に向き直り、
「その外資系の本社。あのオグネル社なのです」
オグネル社…… あのロシアの傭兵専門派遣会社なのか…
「極秘情報として入ったものですが。アメリカC I Aが日本政府にオグネル社の資本を受けている企業の監視を要請したようです。」
「オグネル社… ウクライナで残虐非道な戦いを行っているみたいだね。まさかあのオーケーボーケーの親会社とは… 遺憾ながら知らなんだ…」
次郎は顔を引き攣らせ呟く。
「昨年の古武士道世界大会でもオグネル社はメインスポンサーとして資金、最新機器を提供したのです、この意味がお分かりですよね?」
元公安課の田所は真っ青になる。
「古武士道の道士を、傭兵に雇うため、なのか?」
「確かに、近接格闘術の世界では古武士道の刀役は最強と言われていますからね。筒役も即狙撃手として使えますし……」
三人は言葉を失う。
やがて田所がポツリと
「すると、古武士道の大会で活躍してしまうと、まずオグネル社に目をつけられる……」
次郎が顔を顰めながら
「同時に政府情報機関にも目を付けられ……」
華子がキツく目を閉じながら、
「我々以外の部署に、紅葉ちゃんが『旅人』であることがバレて、そして『旅人』の存在が不必要に知れ渡ってしまう……」
田所は手が震えだす。
「おいおい、C I Aが『旅人』の存在を嗅ぎつけたら、大変なことになるぞ…」
「ですよね、研究機関に回され永久に隔離されるか…」
「世界秩序安定のために全て抹殺されるか… いやだぁ、そったの嫌だよぉ」
華子が大粒の涙をこぼし始めると、
「な、泣くでない、安心いたせ、亜米利加の刺客なぞこの儂が一刀両断にしてくれるわ。お主をみすみす亜米利加なぞに渡してなるものか!」
「じ、じろさ、ほんにわの命助げでけるのだが?」
「武士に二言はない。お主の命、この次郎左衛門が預かった」
「わも… 貴方のごど守りでわ、じろさ……」
田所は無言で立ち上がり、部屋を後にする。若い二人のまさかの展開に本来ならば二、三度ジャンプして喜びたいのは山々なのだが。
事態が余りに急転している、少しでも踏み外せば全ての『旅人』とその関係者は最悪抹殺されてしまうかも知れない。
早急に事態を共有し、カウンターメジャーを構築していかねば…
住所録から田所は生活安全局長の電話番号をタップする。
* * * * * *
三年ぶり開催の滋賀県大会、前日。
放課後の部活動後、忠太は全員を集合させ、真央と共に決定した明日のメンバーを発表する。
その前に。
「知ってる奴は知ってると思うけど。三月に退任したハットリくん(服部教諭)の代わりに、顧問になったヤツを紹介すっから。おいシバセン、挨拶しろ」
……この、不遜な態度……
同期は『ああ最初からブレねえ奴やなあ』と澄まし顔だが、二年生、一年生は顔が引き攣り、シバセンなる若い男性教諭が激怒するのでは、と一歩引く。
「えー、この度、何のご縁か知らんけど、この古武士道部の顧問をすることになった、三年B組の担任の柴田や。専科は社会科な。三年生は皆知ってるけど、一、二年生は名前しか知らん。これからよろしくな」
パチパチパチ
力無い拍手がシバセンへの部員の思いであるのを柴田は理解している。
「俺は古武士道をやったことないから、お前らに何もしてやれねえけど、中間期末テストでなんかやらかしたら、相談に乗ってやるぞ。だから、勉強のことは気にせず思いっきり部活に打ち込め。そして明日の県大会、来月末の近畿大会、絶対優勝してこい。いいな!」
おおおおお!
盛大な拍手が湧き起こる。
忠太は、この先公なかなかやるな。今後は大いに利用させてもらおう、自分の担任教師を見直した。
「よし。でもお前ら、赤点なんて取んじゃねえぞ、この名門古武士道部員として恥ずかしいかr―」
馬鹿やろーと言う怒声とともに、様々な罵声が浴びせられる。
「て、テメーが一番ヤバい奴やろが!」
「去年、社会赤点取ってたん誰やぁーー ブーブー」
「古文、追追試験受けさせられたん、誰じゃーー」
「せんぱーい。貸した金、返さんかいボケー」
「水口でパフェいつ奢るんだよー、約束守れーー」
「返事まだかー、早くしろーー」
柴田も逆に忠太を見直す。こんな場で罵声を浴びせられると言うことは、それだけ絶対的な安心感、信頼感がコイツになければ有り得ない。昨日は流石に心配だったが、こいつならこの個性派集団を難なくまとめ上げていくかも知れない。
「よし。それじゃ明日のメンバー発表。真央、頼む」
部員の顔がキュッと引き締まる、特に選考ギリギリラインにいる三年生は特に。
「名前呼ばれたもん、前に出ろ。」
何故か柴田も緊張感に包まれ、手に汗を握る。
「総大将 伴忠太」
「はいよっ」
「刀役 宇田かな、土山健斗、三雲三次、百地遥」
四人がゾロゾロと前に並ぶ。選ばれなかった小川蓮兎の顔が真っ白になる。
「槍役 和田真央、大原譲治、佐治冬馬」
大原と佐治が貫禄たっぷりで前に出る。
「弓役 大久保充、小泉浄蓮、望月一宇」
『魔弾の射手』なのか『まだまだの射手』なのか真価は明日問われる。二年生望月の顔に緊張感が走る。
「サブメンバー、池田美咲、小川蓮兎、上野澪、大野雫、鳥居玲央、服部光輝 以上、十七名。明日は絶対勝たにゃあつまらんぞ! ええのぉ!」
よっしゃー、勝つで! 勝つぞぉー
歓声が巻き起こる。忠太はそれを頷きながら聞いている。
「で、俺は当日、お前らの引率だけしていればいいんだな、アレだぞ、急に審判やれとか言われても、何も出来ねえぞ」
「うん。他の道場のせんせ達にペコペコしとけばいいや」
「…そんなら、名刺作っとかんとあかんな」
「詳しいことはさ、高等部の顧問の、えーと、前田にでも聞いとけよ。もう挨拶はしたんだろ?」
甲賀学苑高等部古武士道部顧問、前田りえ教諭。自身が本校古武士道部出身で、弓の名手としてインターハイ連覇に貢献し、大学卒業後母校で教鞭をとりつつ後進をそれは厳しく鍛え上げている有名人だ。因みに二十七歳の独身。
柴田が挨拶に出向いた時、自分は未経験者と言うと、
「ま、中等部やさかいどうでもええけど」
とそっけない返答をされ、大いに戸惑ったものだ。
「あの人、苦手やわ」
「知るか。ちょっと美人だから、ラッキーじゃん。乳でかいし」
「それなー、ってコラ! ったくお前… ま、明日は頼むで、大将」
「はいよっ 遅刻すんなよ、じゃあなー」
柴田はプッと吹き出しながら片手を上げる、学校は遅刻大王のお前が、と。
その夜。
八田からの連絡で、紅葉にスマホが貸与されることが公式に認可されたことを知り。
「あざす、これで煩く言われずに済むわ、助かるわー」
忠太は心からホッとする。
だが、また新たなお願いがつい先ほど発生し…
「八田さん、実はさ、紅葉がさ、明日の滋賀県大会、観に行きてえんだって、それ無理だよなー?」
八田は電話口で唸り、ちょっと田所さんと相談すると言って電話を切る。
その横で紅葉が頬を膨らませ、
「ただ見るだけの何が悪いのじゃ。別に助太刀させろと言うとる訳ではあるまいに」
不思議と忠太にだけは昔の話し方を変えようとしない紅葉。
「お前が熱くなって突然乱入しねえか心配なんじゃね?」
「ふむ。それは約束しかねるのお、確かに」
「アホか、本物の戦じゃねえんだから。ルールに則ってやる武道なんだから!」
「ルールとは」
「えーと、……規則、だ規則!」
「ふむ。規則に則り行いしが部活か。それは臨むところじゃが、そのるうるを破る不届きものはおらぬのか?」
「いねえよ、道士は皆紳士淑女なんだからな」
こら忠太何を言う! と仏様が激怒しそうなことをヘラヘラ言う忠太に、
「ならうちも武士の端くれ、るうるを遵守し戦を眺めてやろう。な、それなら構わんじゃろ?」
「だから、今八ちゃんがドコロに聞いてくれてんだって!」
……仏罰ものの口の悪さである忠太。ところが紅葉もそれに乗っかり、
「ったくあのハチ公のとろさと言ったらないわ。ほれすまほを貸せ、うちがつついてやる!」
「…お前、本人の前で言うなよ、ハチ公って… プッウケるそれ…」
哀れ八田俊宏、彼等が宣いし罵詈雑言も知らず、一人苦労の内に田所と口戦の最中…
「そーすか、うん、うん。わっかりました、よーく言っときます、うん、うん。そう、試合開始は十時丁度、決勝は二時。うん、うん。じゃ、伝えとくから、はーい、そんじゃー、え? 勝つに決まってんだろ、任せとけって。うん、はーい、そんじゃー」
紅葉は目を輝かせ、
「良いのじゃな? 観に行って良いのじゃな?」
「九時にバス停前に迎えに来てくれるってよ。良かったな」
「わーいわーーい。お出かけじゃお出かけじゃ。ふふふ、お前らの腰抜けぶりをとくと観てしんぜよう、かっかっか」
「あと、明日の試合、和尚や小僧達も観に来るから。一緒に観るといいや。ルールとか聞いて覚えとけ」
「おお、そういたそうぞ、おーーい、珍龍、うちも明日観に行くで、照天も行円も、よろしゅう頼むでー」
各部屋から皆が顔を出し、
「やった、女子とデートや」
「紅葉ちゃんと観戦デートやなこれは」
「おい照、前に貸した双眼鏡、返さんかい!」
忠太もひょいと顔を部屋から出し、
「お前らわかってんだろーが、くれぐれも、頼むぞコイツのこと。旅人だって分かるような言動、絶対させなよ」
「おっ前に言われたかないわ、ボケ」
「負けておいおい泣いて帰んなや」
「でも忠はんの道士ぶり、ちょいと楽しみやなあ」
「まあ、確かにのぉ。何せあの超名門校の総大将やし」
「明日はわしらを少しは楽しませてくれや。でないと折った木刀弁償させるで」
彼等なりの激励の返事にピシャリと障子戸を閉める。
「それにしても楽しみじゃ。お主と遥がどれほどやるかのぉ。まあ討たれし時はうちが骨を拾ってくれようぞ」
かっかっかと笑いながら満面の笑顔だ。
「そんな簡単にやられる訳ねーだろ。俺たちは甲賀学苑だぞ。近畿チャンピヨンだぞ」
中等部の大会は地方大会までであり、全国大会は存在しない。
「間抜け。油断強敵、伏寇在側と言う言葉を知らぬのか。いかなる相手にも気の緩みは己の死を意味するのじゃ。常に渾身の力を持ち緊張を緩めてはならぬ。良いか!」
おおお… さすが現役武士。本物の戦に参加しただけあるわ…
「お前、その戦で、どんなんだったんだよ?」
紅葉はドヤ顔となりながら、
「聞くか? そうあれは朝日もまだ顔を起こさぬ虎の刻。まだ覚めやらぬ野洲の流れのほとりに佇みし我とー」
…その後延々と二時間聞かされ、やっとこさ床に入ったのが一時過ぎ、興奮と緊張で全く眠れず聞こえるのは安らかな紅葉の寝息と小僧どものイビキばかり。
やばい、まずい、少しは眠らねば、と己にプレッシャーをかけるも結局一睡も出来ず。気がつくと朝日が部屋を明るくしていたものだった。
八時に学校集合なので六時半には諦めて床を出て、いつも通りに朝食を用意し始める。
土曜日で小僧達の通う公立校は学校が無く、食卓につくのは忠太と和尚だけである。
「どうや。よう眠れたか?」
忠太は目の下のクマを隠そうともせず、
「ダメだ。一睡も出来んかった… ハー俺ってダメダメじゃん…」
溜め息と共に忠太が愚痴ると、
「それが人間や。他の道士も皆そうや、特に大将やエース級の子らはのぉ。責任感の重い者ほど、不安で心配で眠れんくなる。責任のない者はぐっすり寝てまうもんや。そやから忠太、安心せい。今夜いくらでも寝れば良い。思い切り暴れてくるが良い。」
いつもなら和尚の説教の初めのくだりで逃げ出す忠太であるが、今朝だけは和尚の言葉が突き刺さり、そっか、よし、大丈夫。たかが一晩寝れなくても問題ない、俺らは勝つ! と思うのであった。
食べ終わり支度をし、
「そんじゃ。行ってくるわ。応援頼むぜ」
「おお、お前の活躍を誰よりも楽しみにしておるで。仏様に祈りながら応援するさかい、しっかり頑張るんやで」
? いつになく素直に優しいぞ。
こんな和尚には大抵裏がある、二年前にこの寺に来た時のように……
ま、気のせいかと流し、忠太は山道を駆け下っていった。
そんな忠太を見送った後、蕭衍はニヤリと笑いながら携帯電話の電源を入れる。
* * * * * *
「おーーい、ここや、ここ!」
照天が試合会場の古武士道専用のフィールドである滋賀県立近江フィールドの観客席で大声を上げる。
八田と紅葉は志徳寺の小僧達の席にそそくさと座り、一息つく。
快晴の空はどこまでも青く澄み渡り、琵琶湖からの湿った微風が頬をしっとりと撫でる。
三年ぶりの開催とあってか、観客席は既に八割がたの入りであり、試合開始時刻には満員の観客となるであろうと主催者側は予想している。
フィールドは青々とした芝生が敷き詰められ、葉や枝が落とされた二股の大木が片側に三本、計六本生えている。
フィールドの上を数羽の水鳥が横切っていく。
紅葉はかつて見たことのない荘厳な舞台に圧倒され、一万人収容できる観客席の人々の喧騒に言葉も出ない様子だ。
「紅葉ちゃん、大丈夫? 顔真っ青や」
照天がちょっと心配そうに語りかけると、
「なんじゃ… この舞台は… こん大人数は… 国中の者が集うておるのか… 凄惨凄惨…」
珍龍が慌てて、
「紅葉ちゃん! 話し方!」
「ああ、そうや、そうやったな。それにしても、なんやこの人の数は… 近江中の人が集まるんか?」
「近江って… まあ、古武士道って人気あるんや。そやから学校や道場関係者だけでのうて、古武士道ファンの人々もぎょうさん観に来とるんやで」
「それにしても、この、近江ふぃーるど、とは。おい珍龍、何故に日本古来の武道にこうも南蛮語が介在しておるのじゃ? 参戦者どもをめんばあと言うておるし、合戦場をふぃーるどと呼称するし…」
「紅葉ちゃん、言葉!」
「お、おう… てへぺろっ」
珍龍は軽くノックアウトしてしまいつつ、
「何でもな、終戦後にG H Qが古武士道を禁止しようとしたんやけど、多くの人や組織から猛反発にあってな、ほなら続けていく代わりに英語でやれ、って言われた影響らしいで」
「「「へえーー」」」
「でもそのお陰さんで、世界大会開かれるくらい世界の人々に知れ渡り、愛されるようになったんや、G H Qさまさまやな」
珍龍がちょっといい事言った風にドヤ顔になる。
「あ、紅葉ちゃん、G H Qってー」
「じぇねらる へっど くをーたーの略やろ。田所どのからもらった教科書に書いてあるやんか。大戦後の日本を民主化に導いた組織やろ」
小僧達は腰を抜かしてしまう。蕭衍も小便をちびりそうになる、だがそれ以上に驚いたのは隣の席の八田であった。
「すごい… よく、こないな短い間に、覚えたやないか…」
紅葉はちょっとドヤ顔で、
「そか? まあ、忠助に毎晩手伝わさせたさかい。当然や」
忠太くん、君、本気で…?
八田はまだフィールドに姿を見せない、たかが十五そこらの少年の責任感に身体が震えてしまう。
「それと。今日渡しておくで、スマホ。夜にでも忠太くんと一緒に設定するとええよ」
紅葉はほぼ満席の観衆に人酔いしているのか、青褪めた表情で、
「おお、それはそれは。ありがとな」
とテンション低く引き攣った笑顔を返す。
「紅葉ちゃん、大丈夫かい? 様子変やで」
八田が心配顔で言うと、
「忠助の奴、こないな大勢の前で戦うんか… 」
と呟いた。
ああ、この子の時代にこれ程の人々に眺められる状況なんて、殆どないだろうからか。確かに戦国時代にこれ程の人が集まるのは、大合戦くらいなものだろう。
「もし気分悪いんなら、寺まで送ってくで?」
紅葉は毅然と首を振り、
「約定したさかい。忠助の戦いぶり、とくとこの目で見なあかん」
紅葉ちゃん、キミも、本気で…?
過疎の地域から大阪へ初めて来た人たちは大抵こうなる。あまりの人の多さに脳が情報を処理しきれなくなり、気分が悪くなったり嘔吐してしまったり。だがそんな状態でも応援しようとしているのかキミは… 自分のことよりも、彼のことを…
突如、大歓声が湧き上がる。
フィールドに甲賀学苑の道士達が現れたのだ、続いて対戦相手の近江古武士道研究会の面々も続々と現れる。
紅葉は未だかつてない興奮に包まれる。
この大歓声、巻き上がる大興奮、フィールドと観客席が一体となり沸きあがる形容しがたい高揚感。
先の戦とは全く違う、全身にみなぎる闘争心。
何と言う、時代であるのか、この令和は…
紅葉のアドレナリンは沸騰した如く脳内を暴れ回り、今すぐにフィールドに駆け降り、鬨の声をあげたい感情を抑えるのに必死であった。
試合開始の時刻が迫る。
フィールド上の甲賀学苑道士達は心なしか表情が固い。その一方の近江古武士道研究会の面々は非常にリラックスした様子で時折笑顔も見られる。
「これは… ちょっとあかん展開になるかもな…」
珍龍がボソッと呟く。志徳寺一の古武士道通であり、自らも高校の部活で槍役である彼のコメントは照天、行円も頷かざるを得ない。
紅葉が忠太を見つめる。少し気負いの表情が見て取れる。
これ忠助、落ち着かぬか!
彼にとってこの学苑での初陣なのだ、当然ながらあの日のことを明瞭に思い出す。
うちがついておる。そなたの背中はうちが……
ああああ…
ダメだ、ここにいては… こんな場所からでは、そなたの背中を守れぬ…
早く、早く其方の横に立ちたい、其方の背後はうちが守りたい…
試合開始の法螺貝がフィールド上に響き渡る。