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甲賀学苑古武士道部  作者: 悠鬼由宇
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第三章

 食堂に通された八田と田所は蕭衍和尚と和かに話をしている。

 どうやら旧知の間柄らしい、それにしても法務省に警察。どちらも只事ではなさそうだ。

 食卓につくや否や。

「早速やけど。伴君、ちょっと話を聞かせてもらえへんかな」

「え? 何の?」

「えー、山中―紅葉さんを発見してからのこと」

 ああ、そう言うこと、か。

 この人達が、和尚が言っていた……

「あの、逆に聞きたいんですけど。紅葉みたいな、過去の人? 的な人って、よくいるんすか?」

 警察庁の田所はうーむと唸り、

「そうだなぁ、詳しい統計は話せないんだけれど、これだけ遠くから来てはっきりしたケースは数年に一度、かな」

「遠くから? ハッキリしたケース?」

「うん。戦国時代以前のケースだとね、大体が、死体で発見されることが多いからね」

「そうなんだ…」

「安土桃山時代の人で、これだけ記憶がハッキリしていて心身に異常のない案件は、どうだっけか、十年間で数人いるかいないか、だなぁ」

 と言うことは、それ程頻繁にある出来事ではなさそうだ。

 それから二人は忠太から話を聞き出した後、紅葉と面会した。

 紅葉は最初は大いに戸惑っていたが、田所の巧みな誘導尋問に乗って多くの話を口にした。

 その中には忠太らも聞いていなかったことも多々あり、知らずのうちに固唾を飲んで尋問に聞き入ったものだった。


「では、忠太郎さんと二人で敵陣に乗り込むのに成功したんだね、凄いなあ」

「じゃが、敵もさるもの、まさかあないな仕掛けを用意していたとは思わなんだ」

「で、柴田勝家はどんな仕掛けで君を襲ったのかな?」

「あれや、大きな甕が放られたんや」

「大きな、甕?」

「その中に火薬がぎょうさん詰められとったんや、それをこちらに放ってきたんや」

「何とまあ… それを君は?」

「何としても忠どのだけは助けたかったんや、そやからウチはその甕向かって飛んだ」

「ほう、そして?」

 その場の全員が固唾を飲む。

「その甕を捕まえ、押し戻したんや。その瞬間、甕が爆発したんや」

 何と言う… 正に命と引き換えに、愛する殿方を守った…

 忠太は呆然と紅葉を眺める。

 この子は己の命を顧みず、忠太郎を爆発から守ったと言うのか…

 ああ、それであの時、妙に焦げ臭い匂いが…

「成る程ね。その爆発の衝撃で君は時空の歪みに飛ばされ、そして現代のこの地にやってきた、と言うことだね」

 忠太と蕭衍らはハァーと大きく息を吐いた。ほんの数日前に保護したこの可愛げな女子が、そんな恐ろしげな状況に身を置いていたとは…

 そして、遥か四百年以上の時空を超えて、ここに来たとは…

 田所の尋問は終わり、食堂は何とも言えない重い空気に包まれている。


「それでな紅葉さん。今後の事なんやけど」

 すっかり冷えたほうじ茶を啜ってから、八田が口を開く。

「二つの道があるんや。一つは我々が用意する土地に住まい一生を過ごすこと」

 これが照天曰く『異世界専門施設』か。まさか実在するとは。

「そこって、どこにあるんですか?」

 堪えきれず照天が問うも

「日本中に数カ所、としか言えへんよ」

 ですよね、と照天が残念そうに呟く。

「それともう一つが。」

 忠太はゴクリと唾を飲み込む。

「ここに、このまま住まうこと、令和人として。や」

 皆がフーと息を吐き出す。

「その為にはここにいる皆の協力が必要や。絶対に他人に話してはならんし、彼女を令和人として教育してかなあかんし」

 忠太達は互いの顔を見比べながら頷く。

「ま、どっちが簡単か言うたら、施設に入る方が楽やで。君と同じような人、仰山いてはるからね」

 あれ? さっきはそれ程多くないって言っていた?

「ああ、それは彼女ほど昔から来た人、って言う意味。明治、大正、昭和の人はそれこそ毎年何名もおるで」

 ええええええ?

「何なら平成の人もな、ま、五年十年昔から来た人の多くは、施設入らんでそのまま暮らしとるかな」

 照天の興奮は絶頂に達し、

「スッゲー、スッゲー、リアル異世界人やん、大勢いるんやん、スッゲー」

 八田は苦笑いしながら、

「でもな、結構な数の方がな、自ら命絶ってまうんや。あの浦島太郎もそうやったようにな」

 えっ…

 浮たった照天の顔が凍り付く。

「異世界で堂々と伸び伸び生活できるなんてほんの一握りじゃない、アニメの世界でもさ?」

「あああ、それは… そうかも… デス…」

「すっかり老けた両親、兄弟、恋人。全く自分が関知していない五年、十年。人からも時代からも取り残された絶望感はな、その当事者でなきゃ理解出来んのよ」

 皆が紅葉をそっと見つめる。

 項垂れている紅葉は一つ小さな溜め息をつく。


「ゆっくりと考えて欲しい、結論はいつでもいいからね、半年後でも一年後でもいいし。いいかなそれで?」

 八田が優しい声音で紅葉に問いかける。紅葉は天井を見上げながら大きく息を吐き出す。

「と言う訳でして。彼女の気持ちが固まるまで、皆さんよろしくお願いします」

 八田と田所が頭を下げる。

「ああ、それともう一つ。えっと彼女と一番接することが多いのは、伴君でいいのかな?」

 田所が忠太を見ながら言う。

「まあ、そうなりますかね」

「それならば、」

 田所がバッグから一台のスマートフォンを取り出す。

「これは特別仕様のスマホでね。これを君に持っていてもらいたいんだ」

 渡されたスマホを眺めながら忠太はハアと呟く。

「毎晩これで定時連絡を入れてもらいたい。あと彼女に緊急事態が発生した時には即座に知らせてもらいたい」

 俺がコイツの監視役って訳か。

「そう捉えてもらって差し支えない。あと、君は彼女の保護者だと言うことも」

 保護者、ですか……

「令和の知識や常識を率先して伝えて欲しい。その為に必要なアプリは入れてあるから」

 えっ? と思い、スマホを起動させる。

 一見して普通のスマホと変わらない、え、何々、このスマホって俺のモノって言うことなの?

「そ。だから、今持っているスマホと上手く使い分けしt―」

「持ってませぬ! ガラケーしかありませぬ!」

「え…嘘? キミ、中三だよね…」

「ケチな和尚が持たせてくれえませぬ故。よっしゃー、やったぁー、わぁーーーい」

 突如スマホ持ちになり、一気に舞い上がる忠太を睨みながら、

「田所どの。ウチもすまほを所望したいのじゃが」

「え? 紅葉ちゃんも、スマホ欲しいの?」

「欲しい」

「うーーーむ… これは初めてのケースだなぁ」

「ですね、戦国女子がスマホ欲しがるなんて、びっくりやわ」

 照天が首を傾げつつ

「そんなもんですか? 若い子なら誰だって欲しいんとちゃいますか?」

 八田が首を振りながら、

「そもそもこっちに来て数日で、これ程僕らと話をしてくれる人珍しいんや。大抵はこの現実を受け入れられなくて塞ぎ込んじゃうか、己の境遇を認められなくて大暴れするとか、や」

「そうだな。珍しいさ。ねえ紅葉ちゃん、スマホどうして欲しいの?」

 紅葉は何を当然の事を言わせるのか、と言う顔で、

「色々、令和の事を知るためじゃ」

 皆、ほおおおー、と声を上げる。

「あの、それって、紅葉ちゃん……」

 ドヤ顔の紅葉は

「おうよ! ウチはここで、令和人になるんや。蕭衍、皆の者、よろしゅう頼むぞ」

 即決かよー 八田は唖然とし田所は呆然とする。

「あの、そんなにすぐに決めなくてもー」

「愚か者! 武士は何事も即決じゃ。そして一度決めたら突き進むのみっ」

 あ。この子ちょっとヤバい娘かも。

 八田と田所は人知れず冷や汗を流す。


「いいかい伴君。くれぐれも頼んだよ。紅葉ちゃんのこと、しっかり導くんだぞ」

「そうやで、責任重大やで。頼むで」

 まさかのスマホ持ちとなり、浮かれ舞い上がっている忠太は、

「楽ショーっす、おまかせくださいって。えっと、それよりー」

 急に忠太は紅葉の今後のことが気になりだす。

「名前とか、生年月日とか、あと戸籍とかどうするんすか?」

「全てこちらで用意しておくさ。だから君は彼女をしっかりと見守ってくれ、いいね」

「分かりました、で、アイツいつ頃世間様に出してもいいすかね?」

「そうだね、今年いっぱいは他人とは会わせない方がいいな。月に一度、僕らが彼女と面接をするんだ。そして様子を見て行く形になるんだ、分かるかな?」

 忠太はコクリと頷く。

 八田は忠太の肩を叩きながら、

「頼むで、忠太先生。しっかりと色々教えてやってや」

 任せなさい、と満面の笑みで忠太は二人を見送った。


     *     *     *     *     *     *


 その晩、忠太は不思議な夢を見た。


 ここは戦さ場だ。辺りには重々しい死線の空気が漂い、そこら中に凄惨な骸が転がっている。

 忠太は匍匐前進をしており、すぐ隣に紅葉が蒼白な顔で虚空を睨んでいる。

「おい紅葉」

 紅葉に返事はないが、体がピクリと反応する。

「この戦を終えたら、」

 忠太は紅葉の視野に己が顔を投じ、強引に視線を合わせ、

「祝言いたそうぞ」

 壊れかけ固く閉ざされた紅葉の心の扉がゆっくりと音を立てて開いていく。

「いま… なんと…?」

 目に力が戻り始めている!

「紅葉、儂の妻となってくれまいか!」

 顔に血の気が戻り始めた、目に生気が漲り始めた!

「忠さん… いえ、伴忠太殿!」

 身体に熱き血潮が漲り始めおった、声も張りが出てきおった!

「皆が、聴いております…… なんと破廉恥な…」

 ハッとして周囲を見回す。


 ハッとして目を見開く。

 見慣れた天井だ、そして隣から穏やかな寝息が聞こえてくる。

 何という夢なのだ。

 きっとあれは戦場の、それも紅葉が参戦した『野洲河原の戦』の一コマだろう。

 俺が、居た。そこにいるのが当然が如く、居た。

 あれは… 俺じゃない。

 忠太郎、だ。紅葉が恋焦がれていた、伴忠太郎、だ。

 だが、俺はあそこに居た、間違いなく居た。俺は知っている、あの日の紅葉を、あの頃の紅葉を。

 俺は誰なのだ? 俺も紅葉と同様に、あの時代からタイムリーブしてきた伴忠太郎なのか?

 いや、それは有り得ない。

 応禅寺の良閻和尚から『伴忠太』と書かれた書き置きを見せてもらった、幼き頃の写真もある。

 では、俺は誰なのだ?

 ひょっとして、あの伴忠太郎の生まれ変わり?

 身体は滅びても魂だけは数百年間漂い続けたのか?


 そんな思いも徐々に瞼は重くなり、いつの間にか忠太は深い眠りに落ちていた。

 そして翌朝起きた時、見た夢も生まれ変わりのアイデアも、綺麗さっぱり忘れていたー


「おい忠助。今日もがっこうへ行くのか?」

 朝ご飯を食べながら紅葉が忠太に問う。

「ああ。今日は土曜日だけど午後から部活あるから、帰りは遅くなるぞ」

「ぶかつ、とは?」

「古武士道部。刀、弓、槍で双方に分かれ戦う部活動だ」

「戦は無くなったと聞いておるが?」

「戦ではない。その、えーと、うーむ…… なあ珍龍、なんと説明すれば?」

 珍龍も呻きながら、

「あれや、今は平和やけどまた戦の世になるかもわからん、そやからその練習をする活動、でどや?」

 照天は首を傾げ、

「それはちゃうん。部活動は、戦のない世でも己を鍛錬するための場、や」

 忠太らはほぉと声を上げ、紅葉は成る程と頷く。

「そうか。忠助は己を鍛えてるんやな。感心感心。精々精進することや。して、今宵の飯は何ぞ? ウチはまたはんばあぐが喰いたい」

 よっぽど昨夜作ったハンバーグがお気に召したらしい。

「いいや。今夜はクリームシチューだ。まあ、期待しておれ」

「くりいむしちゅう、か。重畳重畳。それにしても、だ」

「何だよ」

「こう、喰うて寝てばかりで、身体が重くて仕方ないのじゃが」

 むむむむ… 皆が下を向いて唸る。

 こればかりは、ちょっと今は…

「傷もすっかり癒えたことじゃ、少々遠出をする訳にはーー」

「「「いくまい」」」

 そ、そんな…

 紅葉はシュンとなる。

 でも確かに、このまま寺に縛り付けておくのも如何なものかと忠太は思い、

「夕食後。庭で打ち込みでもするか?」

 紅葉の目がギラリと光り、

「ええけど。またすぐ失神しても知らんよ」

 あははは。割と洒落にならないぞ、と思いつつ

「バーカ。今夜は本気出すからな、この前みたいにいかねえからな」

 と言いつつ、箸を持つ手が震えている。


「紅葉ちゃん、少しずつ今っぽくなってきてへん?」

 山道を降りながら行円が意気揚々に吠える。

「話し方とか、全然今っぽくなってきとるな、確かに」

 頷きながら珍龍が同意する。

「そしたら、紅葉ちゃん俺らみたく学校行くんかな? あれ、中学生? 高校生? あれ?」

 混乱しつつ照天が忠太に振ると、

「厳密に言うとな、今年でアイツは466歳な」

 三人がプッと吹き出す。

「で。タイムリーブした当時、数え年で十六歳ってことは、満十五歳ってことになる」

 今、タイムリーブ言うたよな? タイムリーブ言うたで、間違いない。ホンマこいつ、カタカナ言葉苦手やね、わざとちゃうか? ウケ狙いちゃうの?

「…… お前ら、聞いてるの? 今年満十五ってことは、俺と行円と同じ、中三ってことじゃね?」

 そもそもタイムリープって、Time Leapやん、忠はん絶対Leaveやと思っとるよ、へえ、そうなんか、お前よう知っとるのぉ、いやいや、タイムリープって本当は意識だけが過去や未来に行く現象やから、正確にはタイムトラベルなんやけどね、ええ、そうなの? お前その知識学校の勉強に活かさんかい、そなんやけどね。あ、そもそもタイムリープって和製英語でな、

「…… バス、来たぞ。じゃあな、馬鹿ども」

 バス停に残る三人に悪態をつき、忠太は駆け足で学苑に向かう。

 そうか、半年後か一年後。

 紅葉は俺と一緒に登校するのか?

 中一の照天と中三の行円は市立中学、高三の珍龍は県立の高校に通っている。

 紅葉は市立中、それとも俺と同じ甲賀学苑、どちらに?

 ちょっと浮かれ気分の忠太は、いつもよりも四十秒ほど早く校門をくぐるのだった。


     *     *     *     *     *     *


「のぉ忠太、午後の部活で新一年生が仮入部するけぇのぉ、しっかり頼むでぇ」

 教室に入ると、和田真央がいつもの大声で話しかけてくる。こいつの声の大きさは顔のデカさに比例しているよな、と苦笑しつつ忠太は頷く。

「ったく今年の一年、ロクな奴おらんのじゃろ? 近畿大会、ヤバいかもな」

 そっと呟いたつもりが教室中に響き渡る大音量であることを自覚するのは二年後である真央は大きな溜め息をつく。

「ホンマやね、はっとりせんせ退任されて、後任も決まっとらんようやしぃ。そやからちゅーたぁ、アンタがしっかりせんとあかんよぉ」

 相変わらずのフワフワした口調で池田美咲が忠太に笑顔を送る。

 忠太は分かってるし、と呟き大きな溜め息を吐き出す。

 すると、教室最前列から、

「あのぉ、うちの弟がな、刀で入るんや、どうかよろしくな」

 と学級委員であり秀才眼鏡の長野琴美が、自分では大声で叫んだつもりが半径二メートル以内にしか届かぬ声で言うと、最後列の忠太と真央、美咲に三回ほどの伝言ゲームでようやく伝わり、

「マジか! 長野の弟か、刀か! どうなんだ、実力は?」

 忠太は嬉々として立ち上がり、琴美の机へ小走りで向かう。

「ああ、伴くん。そう言えばこないだの晩の電話、あれ何やったの?」

 巧みに話題を逸らす琴美にまんまと引っかかる忠太は、

「あ、ああ、あれな、おお、あん時はサンキュな、お陰で助かったわ。それにしてもよくお前戦国時代の年号とか知ってたな、さすが学年トップだな、お前に聞いて良かったわ」

 忠太も強引に話題を変えると、意外にも琴美はポッと頬を染め、

「えー、そないなこと… でも役に立って良かったわ」

「で、どうなんだよお前の弟? お前からみて役に立ちそうか?」

「え? あはは、あははは…」

「そ、そうか…」

 教室前方が妙に静まり返る。が、突如教室後方の出入り口から、

「た、大変や! 大変やぁー!」

 常日頃冷静沈着な学級委員であり秀才眼鏡の高野が、目を大きく見開いて教室に入ってくる。


「やっかましいんじゃワレ、殺すぞ」

 真央が鋭く睨み付けながら吠える。

「き、聞いてくれ、和田しゃん」

 え? 噛んだ? あの高野が噛んだ? マジ?

 教室中がしんとなり、高野に注目する。

「お、おお。ど、どうしたんじゃメガネ?」

 高野はゴクリと唾を飲み込んでから、

「今年の新一年生に、」

 真央は高野に向き直る。それに倣うかのようにクラスの皆も高野に向き直る。

「伊賀の… 百地ももじの妹がおるんや!」

 …… ……

 真央の顔はこれ以上ないアホ面になる。琴美の眼鏡がずれ落ちる。美咲のブラ紐が肩からズレる。

 忠太は高野をマジマジと眺め、呆然となる。

 教室の、時が止まった。


 あれ? 妙に教室が静かや。この春の陽気で皆朝から居眠りしとるんちゃうか?

 そんな能天気なことを考えながら、担任の柴田が教室に入る。

 クラス全員が茫然として静まり返っている。

「お、おい。ホームルーム始めるで、席につかんかー」

 何故か最前列で立ち尽くしていた忠太が、

「おい柴セン。新入生に、あの、伊賀の、百地の妹が入ったって、本当か?」

 イガのももじ? 誰?

 教卓に腰掛け、タブレットを操作して新一年生の情報を検索していると、いつの間にか周囲には生徒が屯している。

「ももじ、ももじっと… ああ、おるね。一年A組、百地遥。三重県伊賀市大内… ホンマや、伊賀出身の子や」

 うおおおおおおーーーーーー

 柴田がかつて経験したことのない程、生徒たちが叫び驚いている。

 彼らが何故こんな状態になっているか全く分からず、

「な、なんやお前ら? どうしたんや?」

 何人かに声をかけるも、皆柴田を無視して興奮状態になっている。

 ああ、きっとなんとか坂のアイドルか、天才子役の子やな、そう考え、

「さぁ、ホームルーム始めるで、席につけぃ」

 と叫びながら、彼らのケツを叩いて回った。


 今日に限り、全く教室が落ち着かない。皆が興奮気味にその百地という新一年生の話題で盛り上がっている。

「その百地って子は、そんなに有名なんか? 俺はテレビとかYouTubeとか全然見いへんからアイドルとか全く知らんのや」

 皆がハア? という顔になる。

「お前らも三年生になったんやから、そんな有名人に浮かれるんやないで。サイン貰いに行ったり写メ撮ったりするんやないで。ああそれと、S N Sに投稿するなよ、停学処分になるで」

 先生! 長野琴美がサッと手を上げて発言を求めている。

「なんや長野」

「百地遥さんは、あの伊賀中等教育学校三年生の大エース、百地翔琉ももじかける道士の妹なのです。」

 なんや、また古武士道か…

 柴田は苦笑いしながら、頷く。

「百地翔琉道士は本校高等部二年の池田駿道士に匹敵すると噂されている十年に一人の刀使いの逸材なのであります、受け、攻め、どちらも隙が全く見当たらずー」

 学級委員であり次期生徒会長有力候補の長野琴美が興奮し口から泡を飛ばしながら力説している…

 本当に、何なのだ、古武士道……

 我がクラスの古武士道部員である忠太と真央、そして美咲を眺めると、いつもはうたた寝している筈の三人が、見たことのない真剣な眼差しで意見交換しているではないか。

 何なんや、古武士道部……

 そう言えば顧問だった服部先生がこの三月で退任なさり、後任を募集していると教職会議で言っとったな。

 今日の昼過ぎ、部活動をのぞいてみるか。

 忠太と真央、そして美咲を眺めながら柴田は心の中で呟いた。


 食堂で昼食を食べた忠太は部室で着替え、中等部グランドに降りていく。

 既に新一年生と二年生は一列に整列しており、三年生がちらほらとその前で控えている。

「おう忠太、遅いぞ」

 三年の刀使い、土山健斗が怒声を飛ばす。静岡県出身で中肉中背。割とキレやすく、後輩からは蛇蝎の如く嫌われている。

「そや、大将なんやからもっとしっかりせんとあかんで」

 地元甲賀出身の宇田かなに冷静にキレられる。忠太を始め、同級生は誰もかなが笑った姿を見たことがない。その割には中々熱い心の持ち主だ。

「まぁ、そこがウチの大将のおおらかさ、っちゅうか大物さ? ええやんええやん」

 同じく地元甲賀出身、刀使いの小川蓮兎が朗らかに言い放つ。同級生は誰も蓮兎がキレたり怒鳴ったりする姿を見たことがない。下級生からは『生き仏』と崇められている人格者だ。

 忠太は悪い悪いと侘びながら心の中で溜め息を吐く。

 お前ら三年の刀使いがピリッとしねえから、今年はヤバいんじゃねえかよ、ったく。


 忠太は主将、すなわち大将の定位置である列の左に収まる。

 すぐ横にいる近畿屈指の槍使いの一人、大原譲治に

「百地の妹って子、どの子?」

 譲治は忠太の耳元で

「あん右端ん子やっど。小せし細かし、大丈夫かねえ?」

 もう慣れきったが、忠太が入学して間もない頃は譲治の薩摩弁がちっとも聞き取れなく、何度も譲治を凹ませたものだった。

 その譲治の隣から同じく近畿屈指の槍使いである佐治冬馬が、

「いやいや、あん雰囲気。すげーオーラ出ちょるちゃ。あん子は相当やるに違いねえちゃ」

 そう言えばいつの間にか冬馬の宮崎弁も難なく聞き取れるようになったなぁ、なんて感慨に耽っていると、

「ごめん、ちょっこし遅んなったわ。まだ始まっちょらんね?」

 島根県出雲市出身の弓使いである大久保充と、

「ギリギリセーフやろ? オッケーオッケー」

 石川県七尾市出身の弓使いで同期一のお調子者、小泉浄蓮がケラケラ笑いながら歩いてくる。ちなみにこの浄蓮、室町時代から続く浄土宗の寺の子だ。

「これでぇ、三年はみぃんな揃ったよぉ、まおぉ」

 同じく弓使い、池田美咲がフワフワ言う。

「よぉーし、一年坊。自己紹介始めんかコラァ!」

 近畿中に鳴り響く『甲賀三本槍』の筆頭、甲賀学苑中等部古武士道部副将の和田真央が吠える。


 新一年生の新入部員である長野鍵はある意味驚きを隠せなかった、姉ちゃんが常日頃自慢している、近畿に鳴り響く『魔弾の射手』達がこんなにもフワフワヘラヘラした人達であることを。

 大久保先輩はパーマかけとるし。小泉先輩は金髪やし。池田先輩はふわふわしとるし、巨乳やし。これが本物の魔弾の射手? ああ、池田先輩ちゃうわ、後一人は二年生の望月先輩やったわ。どこにおるんやろ?

『甲賀三本槍』は頷ける、いやそれ以上に跪ける。とんでもないオーラや、とてもあの三人を突破するなんて僕にはできへんわ。大原先輩と佐治先輩、絶対人を串刺しにして殺したことある顔付きだし。『甲賀の女豹』青木桃先輩の後継者と言われとる『甲賀の女狼』こと和田先輩、ホンマ怖いわ… まあ姉ちゃんが自分の親友や言うてたから、僕には優しくしてくれるやろうけど。あ、近づいてきた、次は僕の番や…


「おう、次。お前じゃ」

 鍵はゴクリと唾を飲み込んでから、掠れ声で

「甲賀出身、長野、鍵、ですぅ、刀使いです、よろしくお願いしますぅ」

 真央は一瞥した後、

「よし、次」

 ……あれ?

 眼中に無かった? 僕の事、姉ちゃんの弟って伝わっとらんかったかな。姉ちゃん勉強は出来るけど、ちょっと抜けとるからな、ま、ええわ。そのうち実力で僕の名前が響きわたるやr―

 鍵が妄想し始めて少しした時。

 二年、三年の上級生が

 おおおおおーーー

 と叫んでいる。

 何? どうしたん?

 隣の守田とか言った気弱そうな女子に聞いてみると、

「今の子、伊賀の百地の妹、らしいで」

 な ん だ と ……


「百地遥です。三重県伊賀市出身、刀使いです。よろしく」

 まるで声優の声のようなかわゆい声が煌かしい春の風に乗ってグランドを通り抜けていく。

 背は152、3センチ程、顔は小さく目は切れ長、鼻梁はスッと通りちっちゃな唇。

 やっぱり、普通にアイドルやないか!

 少し離れて見学していた柴田教諭は彼女の容姿にアングリと口を開いてしまう。

 あんな小さくて細くて可愛い子が、古武士道を?

 一体どんな競技なんだ?

 赴任以来、これほど興味を惹かれたことは無かった。だがこれは、険しく長い彼にとっての古武士道の道程の最初の一歩に過ぎなかったことをすぐに思い知るー

「あの、伴先輩、いますか?」

 伴… 伴忠太か。この部活の主将らしいな。授業中は居眠りばかりの劣等生。柴田にしてみれば、地頭は良いので部活は程々にし勉学に勤しめば、阪大神大も夢ではない、と思うところである。

「ああ、俺が大将の伴忠太な。なんか用か?」

 大将? 主将じゃなく? ふーん、覚えておこか。

「私と勝負してください」

 とても三十数名とは思えぬ大歓声が柴田の耳を襲うのである。


     *     *     *     *     *     *


 一年生長野鍵は、目の前の光景がとても現実のものとは思えなかった。

 なんやこのスピードは! 互いの斬り筋が全く視認できへん!

 前後左右の身体の動きも尋常やない、常に数センチ単位で身体が動いており、それが一気に加速したかと思えば急停止し、また加速、の連続…

 こんな動きはかつて見たことがない、自分の通う道場の上級生でこんな鋭い動きをする道士はいなかった。

 これで僕と同じ一年生… 鍵は自分が間違った学校に入ってしまった、と言う後悔の念に苛まされ始めている…


 三年B組担任の柴田勝己は息をするのも忘れ、ただただ驚愕していた。

 この子達の斬り、突きの異様な速さ。人の肉眼で感知することが可能なのだろうか。

 恐らく削ってあるであろう日本刀を尋常でない速度で振り合い躱し合う。突き合い逸らし合う。

 これが、古武士道、なのか!

 何というスピード感、スリル感。当たれば、若しくは刺されば間違いなく大怪我をするであろう、なのにどちらもそれを恐れずに躱し、逸らし、そして斬り、突く……

 ただただ、呆然と眺めるしかなかった。


 三年生の人格者、小川蓮兎はゆっくりと首を振りながら冷たいものを背中に感じていた。

 何やこの子… 忠太と全くの互角やないか。俺が対峙したら数秒でのされてしまうやろ。

 これが伊賀の百地の妹… 何と恐るべき遺伝子…

 近畿大会では間違いなく大活躍するはずだ、俺か健斗かかなの代わりに…

 まさかこんな一年生が入ってくるとは…

 蓮兎は己に忍び寄る薄黒い感情を完全に抑え切れるか不安に苛まされる。


「よぉし、それまでっ 双方剣を引けっ」

 真央が高らかに宣言する。

 時間にして二十分は経ったであろうか。忠太と遥は互いに身を引き、深々と礼をする。

 同時に遥の身体は崩れ落ち、その場で意識を失った。

「おい澪、雫。女子部室に運んじゃれ」

 二年生刀使いの上野澪と大野雫がコクコクと顔を縦に振りながら、慣れた仕草で遥を担ぎ部室へ向かう。

「いや、それにしても…」

「忠太と、ここまで… こんな小柄なのに…」

「やるやろ、とは思っとったが、まさか…」

「これ程とはな、こんな一年生おるなんて未だ信じられんわ…」

 皆がざわめいていると、

「これが、百地遥、や。百地の妹、や」

 真央が呟く。

「一年生の妹がこれ程ってことは、三年の百地は…」

「一体、どんだけ…」

「想像、出来へんわ…」

 伊賀中等の百地。この場の全員が来月に戦うであろう大き過ぎる敵に戦慄するのであった。


 全身汗まみれ、肩で息をしている忠太は確信している。

 紅葉は、こんなものではない、と。

 百地の妹も信じられないアジリティ、スピード、テクニックの持ち主であったが。紅葉のそれは遥にその上をいくし、更にパワーが加わる。

 忠太は苦笑いしながら、この子にこれだけ手を焼くようでは、今夜も紅葉にチンチンにされるであろう。

 そして皆と同様に忠太も感じる。伊賀の百地。コロナ禍の影響でこの二年間全ての大会が中止されたので、その実力を目の当たりにしたことはない。だがきっと、今の俺では歯が立たぬであろう。妹と対等な程度では秒殺とはいかぬまでも分殺されてしまうのだろう。

 今夜から、紅葉に稽古を付けてもらおう。

 まずは百地遥を軽くいなせるようになれる程に。そして伊賀の百地と対等にやり合える迄に。

 忠太は真央に後のことは任せ、遥が運ばれた女子部室へ足を向ける。


 部室に近づくと、二年生女子道士の上野澪と大野雫が目を釣り上げながら部室から出てくる。

「どうした澪、雫。百地は意識戻ったのか?」

 澪は膨れっ面で、

「ちゅーた先輩、聞いてくださいよぉ、アイツちょー生意気なんすよ」

 この世界では珍しい東京都出身の澪がギャル口調全開で忠太にかます。

「汗拭いてやろーとしたらさぁー、ほっとけってほざくし。マジ有り得ないし」

「何あの大物ぶり? 偉そうに。マジイジメ倒そっかな」

「いやマジやめてお願いします大将の俺のお願いです何でもしますだからお願い」

 雫は膨れっ面ながらも、

「ったくぅ。ちゅーた先輩がそこまで言うならぁー、今日のとこは大目に見ちゃう?」

「しゃーないなぁ、あのガキ今日のとこは見逃すし。その代わりセンパイ、今度水口のカフェ連れてってくださいよぉー」

 忠太は親指を立て、強く頷く。


「入るぞ、百地」

 忠太は女子部室のドアの向こうに一声掛け、ドアをガチャリと開ける。

 部室の中に、小さくうずくまり膝を抱えた百地遥がいる。

「大丈夫か百地。左の腕と右手首、すぐに冷やせよ」

 遥は顔を伏せたまま

「伴、先輩」

「ん… 何?」

「なんで本気出さなかったのですか?」

 そう言えばこの子、滋賀のすぐ隣の三重県出身なのに、素晴らしく綺麗な標準語を使う。

「いや。本気だったよ。ちょっとでも気を抜いたら、お前にやられてたわ。お前は強えよ、高等部の青木先輩程じゃねえけどな」

 甲賀の女豹、青木桃。と遥が呟く。

「早速来週から、刀の本選に入ってもらうぞ。いいな」

 遥は顔を上げ、不意に

「百地の妹のくせに、弱い、と、思ってませんか?」

 忠太は目線を合わせるべくしゃがみ込みながら、

「はあ? 別に」

「はあ?」

「いや、はあじゃねえよ。お前はお前だろ? カンケーねえだろ兄貴とは。てか、お前どうしてウチに来たんだ? フツーなら伊賀中等行くだろうに」

 遥は目を逸らし、

「先輩には、関係ないから」

「ふぅーん、まいっか。それより、さっきの二年生たちがお前の態度にブチ切れかけてたぞ、上級生への態度、ちゃんと改めろや。いいな?」

 そういう自分はどうなのだ! と神様はブチ切れるであろう言葉を残し、忠太はそっと部室を出ていった。

 その後、遥の態度が改まることは無かった……


     *     *     *     *     *     *


 志徳寺への山道を登りながら、ああだいぶ日が伸びてきていやがる、と忠太は足を止め甲賀の里を振り返り見る。

 夕陽は名残惜しそうに西の山に消えかけ、辺りは橙色の枯れた田圃がひっそりと到来する春を待っている様だ。顔の周りに蚊柱が立ち、両手でさりげなく払うもまとわりついて離れない。

 そう言えば、紅葉を発見したのはこの先であったか、と左手の林の方を眺める。

 いつの間にか、己の生活の中に住み始めた謎の美少女。

 やっと、待ち望んだ邂逅を果たせた永遠の相方。

 普通に可愛い女子と同部屋で暮らしていける単純な喜びと、

 心の奥底から湧き上がる、己の感情とは全く別個の懐かしさにも似た喜び。

 自分の心の中に棲み始めたこの二つの奇妙な想いをどうすることも出来ず、そしてこれからどうしていけばも分からず、大いに戸惑い迷う十五の春なのである。


 寺に戻ると着替えを済ませ手を洗い、厨房に入り夕食の支度を始める。

 すると音も立てずに背後から

「おお忠助、くりいむしちゅうをこさえるのか」

 今日は蕭衍和尚と大人しく寺にいたようだ。暇を持て余していたのだろう、必要以上に忠太に寄り添ってくるのが恥ずかしく、そして嬉しい。

「おお紅葉。お前が未だ食ったことのない美味を楽しみにしてろよ」

「ふぅむ、おみつの飯も大層美味であったが、忠助の飯も中々にうまいからのお。期待しちょるぞ」

 その割とどうでも良い期待に応えるべく、いつもよりほんの少し丁寧に食材を調理し味を整える。

「さあ出来たぞ、紅葉この皿を運んでくれ」

「なぜうちが。嫌じゃ」

「手伝わざるもの食うべからず。それならお前の分は、無しだ」

「お主、主人に向かい何という……」

「お前は俺の主人じゃねえし。戯言はいいから、とっとと運べ」

「億劫億劫。何でうちが……」

 ブツブツ言いながら、皿を運び食卓を布巾で水拭きする紅葉なのである。


 何なのだ、この味わいは…

 牛の乳の様な味わいだが口の中でとろりと蕩けている……

 じゃがたらイモ(ジャガイモ)に染み込んだ味が奥深く、人参の甘味が浮き立つようだ。

「何じゃこの、まあるいネギのようなものは?」

 照天が、え? という顔をしながら、

「玉ねぎじゃん、フツーに」

「たまねぎ?」

 寺の小僧達と忠太は唖然とし、

「え? 戦国時代って、玉ねぎ無かったん?」

「無い」

「マジか! 嘘やろ?」

「マジや。嘘ちゃう」

 忠太が自慢げに昨夜もらったスマホを取り出し、ちゃちゃっと検索すると、何と玉ねぎは明治時代に持ち込まれたとの事であった。

「それは知らんかった、他にもいっぱいそーゆーのありそうやな」

「えへへ、これから毎日紅葉ちゃんの驚きの顔が見れそうやね」

 紅葉はツンとした表情で、

「おい忠助。はよ田所どのに頼み、すまほを手配せぬか。己ばかりズルではないか!」

 忠太は軽く吹きながら、

「わかったよ、今夜頼んでみるさ。それより紅葉、これ食ったら夜の稽古、頼むぞ」

 紅葉の目がギラリと光り、

「おお忠助。忘れていなかったようじゃの。覚悟しておきや」

 折れた俺の木刀、どうすっかな。ああ、そう言えば珍龍が使わずに大事に取っておいている黒檀のがあったな。


「忠太。分かっとるな、それは死んだ爺さんの大事な形見や、その辺で売れば十万はする木刀や、ええな、ヒビ入れたりすんなよ」

「大丈夫だって。紅葉の木刀は照天の安い木刀だからな」

 寺の庭で素振りをする忠太をオロオロしながら珍龍が眺める。その横で行円、照天、そして蕭衍が対峙する二人を眺める。

「よっしゃ紅葉。かかってk―」

 寺の部屋から漏れた照明の明るさだけなので、常人ならば目を細めねば何も見えぬ暗さである。

 だが夜目が効く皆は苦もなく二人の剣戟が眺められるー筈だった。

「…み、見えん…」

「速すぎて、分からん…」

「こやつら一体どんなー あ、忠太が撃たれた!」

「おお、立ち上がって、そうや、まだまだy― ありゃりゃ…」

「あのさ。紅葉ちゃんって…」

「…ちょっと、強すぎへん?」

「忠太がここまで、ボコボコにって……」

「ちょい、珍龍の兄貴、相手してみいや」

「アホ。忠太があんなんや、やってられるかい」

「そやな、無理やな」

「ああ、また… そろそろ額から血ぃ吹きだすんちゃうか?」

「包帯、準備しとこか」

「あと、氷嚢も、な」

 十分後、氷嚢が大いに役立つことと相成った。


「もぉーーーー、忠太あーーー、そやから言うたやんかぁーー、ああああーーー」

 無惨にも黒檀の最高級木刀は根元からボッキリ逝ってしまっておった… 南無三南無三。

「おい貴様ら。これでは腹の足しにもならぬ。三人同時で良い、かかって参れ!」

 三人はごくりと唾を飲み込む。三人同時、なら?

 なんて甘い考えは三分後に吹き飛んでいた、彼らの木刀と共に遥か闇夜の彼方へ。

「洒落になっとらんって…」

「尋常じゃないわ、この子の強さ…」

「この世でこの子に敵う奴、おるかいな?」

 息を弾ませ砂利の上に伸びた三人は、まるで宇宙人を眺めるかの如く紅葉を見上げる。

「おい坊主。これでは汗一つかけぬぞ。どうしてくれる!」

 蕭衍はオロオロし、

「それは、のぉ、困ったのぉ、ううーーむ…」

 紅葉はニヤリと笑い、

「それならちょいと山の中を駆け巡ろうかの。ええな?」

「「「「いやいやいや、あかんあかんあかん」」」」

「平気や、誰にも見つからんようにするさかい」

「「「「ダメダメダメ」」」」

「いやや! こんなクソ寺に閉じこもるだけが生業なぞ、もう御免じゃ!」

 蕭衍に木刀を突きつけ、

「そなら、こうしよ。忠助を共にするなら、構わんな? ええ?」

 この娘… 元の時代でも、さぞや家中の人々を困らせたことだろう。

「おい忠太、紅葉ちゃんと共に、山間走駆して参れ」

 額のたんこぶを氷嚢で抑えながら、野良犬の下痢便を眺める表情となる忠太である。


 山間走駆。

 古武士道の修行の一つで、ただひたすらに山々を駆け巡り心身を鍛える修行。

 普通のマラソンやジョギングと異なり、山々には平に整備された道は無く、倒木や放置岩がかしこにあり、それを飛び越え乗り越え進まねばならない。

 ハッキリ言って、古武士道の修行の中でも最も忌み嫌われる厳しい修行である。

 寺の門を飛び出した紅葉は、

「きゃっほーー」

 と雄叫びを上げながら森に消えていく。

 川崎時代も今も、そんな厳しい修行を好んで行うものなぞ皆無であり、当然忠太もやったことが無い。

 遊びで照天達と森の中に入ることはあったが、こんな全力疾走で山を駆け巡るのは初めてである。しかも漆黒の暗闇だ、まともに走れるとは思えない忠太だったがー

 一瞬で、紅葉が消えた!

 さささっと駆け出す音がしたかと思いきや、紅葉の気配は少なくとも半径五十メートルから無くなった。

 まさか、本当にこの暗闇の中、全力で駆けている?

 微かに漂う紅葉のシャンプーの香りを頼りにヨタヨタと駆け出す忠太である。


「おっそいのぉ、忠助、歩いておるのか」

 不意に背後から声がかかる。

「それ、このまま十町ほど駆けるぞ、ハッ」

 一陣の風の如く、紅葉は前方へ消えていく。

 十町って、何メートルだよ、と疲れ切った頭で考えながら、忠太も前方へ駆け出す。因みに一町が約百十メートルである……

 寺を出て、三十分も経った頃。ようやく忠太は暗闇の山々を駆け抜けるコツを掴み出す。

 立木や倒木をガン見してはならない、中間視野で何となーく眺めるのだ。足は高く上げるべし、いつもの様に低く足を出すと立ち所に足を取られ転倒してしまう。

 十回程すっ転んで、何とか転ばずに前方へ進むことが出来るようになる。

 すると不思議なことに、感覚が研ぎ澄まされだしているのに気づく。まるで昔から普通にこなしていた修行の如く。

 あ、この木の向こうに倒木があるぞ、

 む、十メートル先に腰までの岩があるし、

 おっと、このまま進むと崖があるな、少し左に迂回だ

 顔は蜘蛛の巣まみれ、飛び出た枝をかわしきれずに出来た切り傷だらけ。

 それでも一時間後には、紅葉の半分ほどの速さで闇の山々を走り切れるようになっていた。


 不意に前方に、紅葉の気配がする。

 足を止めると、紅葉が呆然と立ち尽くしている後ろ姿が見える。

「おい、はあはあ、どうしたんだよ、はあはあ、そんなところd―」

 紅葉の視線の先は崖の向こう遥か、甲賀市の中心部の街明かりが煌々と瞬いている。

「あれは… なんじゃ… 火事か… 戦火か…」

「あれは。街明かりだ。人が大勢住んでいる街の明かりだよ」

 まちあかり…

 そう呟いて紅葉は口を閉じる。

 何と美しい

 まるで新月の満天の星空がひっくり返ったようだ

 そう、あの日とおんなじ

 忠どのと共に見上げた、油日神社の満天の星空達…

 夜空を見上げ、そして隣の忠太を眺めてみる。

 ああ、こうしていると、この人は忠どのそっくりなのだ。

 この息遣い、この雰囲気、この話し方、この匂い

 ああ、どうして

 どうしてそなたは忠どのにあらざるか?

 汗の滲んだ額を拭うついでに、頬を伝う涙を拭いとる。

「今宵はこの辺にしておいたろ。さ、寺に戻るで」

 紅葉は踵を返すと深く暗い森の中へ消えていった。


     *     *     *     *     *     *


 今年二月の『平成七年人』案件の報告書を入力し終えた田所は、大きく背伸びをしてすっかり冷え切ったコーヒーを一気に飲み干す。

 二十八年前から『旅』をしてきた四十二歳の女性は、結局国が用意する東北地方の隔離施設に入居することで落ち着いたのだ。

 健在であった夫は七十一歳、社会人となっていた長男は四十五歳、長女が自分と同い年の四十二歳となり二児の母となっていた。

「あの子達を混乱させたくありません」

 女性は苦悩の末、自ら施設の入居を希望したのである。

 ノートパソコンを畳み、腕時計を見ると十時半だった、そう言えば元亀元年人の定時報告がまだだな、と思いパソコンを開き直す。

 昨夜、十時前後には定時報告をするようにと念を押したのだが、相手はまだ中学生だからな、仕方なく数時間前に淹れたコーヒーを汲みに席を立つ。


 田所は都内の私立大学を卒業後、ノンキャリアとして警察庁に入庁した。以来、公安畑で十五年程過ごした。ある日直属の上司より、生活安全局へ異動する様言われた。

 公安局でそれなりの成果を上げていたので、どうして今更と思ったが何も言わずに異動を承諾した。

 あの日のことは未だに忘れられない、初出勤した部屋は局の誰も知らない地下の小部屋であった。そして明かされた業務内容―

「『旅人の保護監視』だ。業務内容は『機密』扱いである。」

 旅人? 保護監視? それに機密、だと?

 通常秘密の度合いは順にマル秘、各秘、極秘、機密の順に高まっていく、即ちこの部署での業務内容は最高度の秘密が要求される、と言うことなのだ。

『機密』の定義とは、

「秘密の保全が最高度に必要であり、その漏洩が国の安全や利益に重大な損害を与えるもの」

 なのだ。

『旅人』の保護監視が機密事項?

 当時の生活安全局長が声を抑えて言った。

「普通の概念で言う『旅』ではない。『時空の旅』を為した『旅人』達である」

 と。

 田所は吹き出して、そんなSFじみた話が実際ある訳ないでしょう、と笑ったが。

「君の秘書をしてもらうこの鈴木君は、嘉永三年(1850年)生まれなのだ」

 と、どう見ても二十代半ばの青年を指差したのだ。

 全く納得できない様子を見せると、局長は頷きながらレポートを差し出した。田所はそれを受け取りサッと目を通し、凍りついた。

 このレポートの閲覧権限が、内閣総理大臣、法務大臣、警察庁長官、そして警察庁生活安全局長のみとされているのだ。

 そしてその内容… この目の前の鈴木次郎という青年の生い立ちから失踪に関する数々の公的書類の写し、失踪までの自身の供述、そして関係家族のその後の消息などがみっちりと記されていたのだった。


 局長はずっと無表情でブリーフィングを行っていたが、不意に砕けた表情となり、

「昔からよく聞くだろ、いわゆる神隠しってやつ。千葉の市川の『八幡の藪知らず』とか、神奈川の『山神トンネル』とかさ。知らないかね?」

 首を傾げていると、

「そこのパソコンにこれまでの事案と統計が入っている、まずはしっかりそれを精査してくれ、そしてー」

 田所はゴクリと唾を飲み込み局長の言葉を待つ。

「早く、慣れてくれ。以上。はっはっは」

 いや笑い事じゃありませんよ、と抗議するも、

「だってさ、未だに僕、半分信じてないからこの業務内容。だからね、この仕事任せられる人、田所君みたいな生真面目で頭が固い人でなきゃ、ね」

 そうウインクし、局長は出ていった。


「田所さん、元亀元年人からの定時連絡、遅いですね」

 秘書の鈴木次郎が呟く。

 あれから十年近く経つのだろうか、鈴木は見た感じはすっかり令和人となっており、彼が幕末生まれで旗本の御曹司であり、勝海舟に師事し上野戦争に参戦していたとは誰も思うまい。

「何で中学生だきゃに任せるがなぁ。信ずらぃねね」

 今年二十五歳になる田中華子が冷たい視線で黒縁メガネ越しに田所を睨みつける。

「まあ、大丈夫だって。俺が直接会って話した奴だからさ。華ちゃん、少しは俺を信頼してくれよ」

「華ちゃんと呼ぶのはやめでけどあんきしゃべっちゅのばって!」

 田所は鈴木の耳元で、

「今、何て言った?」

「さあ」

「何男同士でコソコソ話すちゅのだが。こぃだはんで日本男子は未だにグローバル化成ねのだょ!」

 華子は冷静にブチ切れて席を立ってしまう。

 田中華子が田所の部署に来たのは三年ほど前か。

 彼女の生まれは大正十二(1923)年、青森県津軽郡出身の大和撫子だ。村の神童として立身出世を目指し、女子ながら東北大学法学部に在籍していた昭和二十(1945)年七月、アメリカ軍による仙台大空襲に巻き込まれ、令和にやって来たのだ。

「まあまあ華子さん。大丈夫ですよ、田所さんが今まで人を見誤りしことがあるでしょうか、否、ありますまい」

 こいつもちょっと油断すると上品な武家言葉に戻ってしまう。田所はちょっと吹き出しながら、

「ごめんな華子さん。別に君を小馬鹿にしているつもりはないんだ、もっとこの部署をフランクな意見が言い合える場にしたいと俺は思って……」

「そいだばわも貴方の事『涼ちゃん』と呼ばへでいだだぎますがよろすくて?」

「……華子さん、俺が悪かった。これまで通りでいこう」

 田所涼一は頭を掻きながら苦笑する。


「おや。元亀元年人の保護者からの連絡が来たようです。田所さん確認してくだされ」

「ホイホイっと。えーと、どれどれ?」

 ノートパソコンを開き、専用のアプリを開く。確かに伴忠太、からの連絡が来ている。

「えー、なになに。…… ハアーー、まだ諦めてねえんだ、ったく困った子だ」

 鈴木と華子が近寄ってきてどうしたのか伺う。

「この元亀元年っ子がさ、どうしてもスマホ持ちたいってうるさいんだってさ」

「はあ? だって彼女、戦国武士でしょう? こんな急に文明の利器を欲しがるものでしょうかねえ?」

「少なくとも半年以上様子を見るべきかと愚慮いたします。これから学ばねばならない事も多々あるのですから」

 仕事になると頑張って標準語を話してくれるのだが、イントネーションが津軽弁のままなので相変わらず聞き取りづらい二人である。

「そうだな。まだ時期尚早と伝えよう。それにしても、君達はこれほど過去の旅人を扱うのは初めてじゃないのか?」

「僕は、宝治二(1248)年人を担当しました、すぐに自殺しちゃいましたけど…」

「私は享保八(1723)年人が最も過去の旅人ですわ。同じく自害されました…」

 田所は大きく息を吐き出し、

「そう、なんだよな。だからこそ、この子には何とか頑張ってもらいたいんだよな…」

「…ですね」

「…ええ」

「この、保護者の伴君にかかっていると思うんだ、彼へのサポートをいつも以上に手厚くしてやろう」

「そうですね」

「ですね」

 頷きながら、田所は忠太宛の返信を認め始める。


     *     *     *     *     *     *


『旅人』と言う名のアプリが田所と八田との通信アプリである。

 使い方はLINEとほぼ同じなのであるが、そもそもスマホもSNS系アプリも初めて使用するので、初めての定時報告を送信するのに悪戦苦闘したのだった。

「おい忠助。すまほの件しかと頼んだか?」

「まあ一応な。でもお前まだ令和のこと全然分かってねえから、ちょっと早いんじゃね?」

「だからこそ、よ。はよこの令和の世のことを知りたいのよ。孫子も言うているじゃろう、『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』と」

 やっぱ戦うのかよ、と突っ込みたくなるが、そこは素直に彼女の教養の高さを褒め称える。

「よく知ってんな。あれだろ、お前の時代って女子は殆ど勉強しなかったんだろ?」

「まあの。ああ、うちもそのがっこうとやらに行ってみたいわ」

「マジか? 授業とかダルいし宿題とかクソ面倒だぞ、やめとけやめとけ」

「ほんに、お主は怠け者じゃのぉ。忠どのとは大違いや。もう寝るで、灯りを消さぬか」

 へいへい、と呟き電灯を消す。

 それにしても。

 今宵で紅葉と二人きりで寝るのは四晩目となるだろうか。初めは女子と同部屋で寝ること自体に大興奮であったが、慣れてみると他の小僧共と寝るのと何の大差もない。

 互いに寝付きは早く、小さな音にすぐ目を覚まし、そして朝は目覚ましが鳴る前に起床する。

 女子の匂いは多少今でも気になるが、寝顔を眺める訳でもなく、今では全く気にならない。

 むしろ養護施設で生まれ育ち大人数で就寝してきた忠太は、こうして他人の寝息を聞いている方が実は落ち着くのだ。

 いつもなら即寝落ち、特に今晩はあれだけ山を駆け回ったので身体はすぐに眠りたがっていたのだが、何せ初めて扱ったスマホに脳が興奮状態なので、珍しく寝付けずにいる忠太である。


 田所からの返信では、スマホは時期尚早だが、その他のことは全力でサポートしていく、必要なものがあれば遠慮なく伝えて欲しい、とのことであった。

 また八田からの返信には、明日の日曜日、予定が空いていたら紅葉を水口の町に連れて行っても良いが、と認められていたので、紅葉に伺うと即返で行く、と言ったので、その旨を認めた。

 正直、もっとお堅いやり取りを予想していたので、自分の肩の荷がだいぶ軽くなった感は否めない。むしろ今後彼らに大いに協力してもらおうと決意したものだ。

 だが。

 それにしても。

 紅葉。

 彼女がもしフツーに現代人で、同級生とかだったら、恋愛感情を持ったであろうか?

 いや、ありのままのこの紅葉に俺は今後、恋をすることになるのだろうか。

 心の半分を占めている、紅葉への懐かしく思う気持ち、それもずっとずっと思い焦がれてきた相手に対するこの気持ち。

 サッパリ分からねえ。全くもって、この感情を理解できない。

 初めて会ったはずなのにずっと待っていたこの感情。やっと会えたと思っている自分。

 だがそれは、本来の伴忠太の感情ではないのだ。川崎の応禅寺で拾われ育った自分に生じた感情ではないのだ。

 確かに、可愛いし性格もギリ許せる範囲の気になる女子だ。だが、正直すぐに付き合いたいとか屏風を取っ払い押し倒し一つになりたいとは到底思えない。

 その一方で。

 手を握りたい、ギュッと抱きしめたい、肌と肌を合わせたい、そして一つになりたい、と望んでいる正体不明の欲望と感情が今の忠太の心の半分を占めているのだ。

 この複雑な己の感情を相談できる友人知人がおらぬ自分が、もの凄く孤独に感じている。

 いかんいかん。

 折角明日の日曜日、八田さんが水口の街に気晴らしに連れて行ってくれると言う、ちょっと本屋でも覗いて役に立ちそうな本か雑誌を探してみるか。

 この想いを整理できそうな知識を俺にくれる本か、ざっs―


 これから一刻半は走り通さねば、合戦に間に合うまい。

 このままダラダラと口論をしていてはあっという間に夜が明けてしまうであろう。

 焦りだす忠太に紅葉は追い打ちをかける。

「さあ、お覚悟を。なあにこの紅葉、大将首とは言わぬも首級の三、四は軽く挙げて見せますぞよ。」

 紺色の頭巾の奥に隠れた小さな美しい顔。その大きな目がギラリと光っている。

 大きな溜め息を吐きながら忠太は天を見上げる。月はなく、満天の星空に七剣星(北斗七星)が煌々と輝いている、そしてその位置より、もう出立せねば明け六つ(早朝五時頃)の総攻撃には間に合わないと知る。

「兄者は今?」

「もう落窪におりまする」

「ふぅ。仕方あるまい。ついてまいれ、遅れは許さぬ」

「ふふふ、遅れるのはどちらやろ」

 夜のしじまに包まれた油日神社から二つの蒼き影が消えた。

 油日神社から真っ直ぐ北に上り滝川城を過ぎる頃には山林を抜け、なだらかな傾斜地となってくる。

 月の無い真っ暗闇の中、二つの影は速度を落とす事なく疾走していく。

 疾走して行く。

 疾走……


 目を開き、バッと身を起こす。

 外はもう明るくなっており、長年使っている目覚まし時計は六時半を指している。

 また、見た。

 俺が戦国武士になっている、夢……

 俺が、伴忠太郎信定その人となっている夢……

「目が覚めたのか忠助… やけに早いのぉ」

 きっとコイツは元の世界では寝坊助… いや、寝坊姫だったに違いない。

「なあ紅葉。お前、油日神社って知ってるか?」

 夢に出てきた神社が油日神社だとなぜ俺は知っている? ちなみに俺はこの神社のことは何も知らなかった…

「おお当然よ。我ら甲賀武者の聖地であるからのぉぉぉ… グーー」

 ……二度寝しているし。

 仕方ない、これ以上眠れそうにない。忠太は一度大きく伸びをしてから、朝食の準備をするべく寝床を後にする。


 朝食を作りながら、先日田所と八田に渡されたスマホに入っていた『旅のしおり』というアプリを開き、眺める。

 そのアプリには、『旅人』との接し方、保護観察の方法が事細かく記されている。

 曰く、

『旅人が現実と現状をしっかりと受け止めるまでは、過剰な情報、例えばテレビの視聴、インターネットの利用、を勧めてはなりません』

 蕭衍和尚は何故かそれを知っており、あの日の翌日の朝テレビのコンセントを抜いてしまっている。また部屋のパソコンはパスワードを設定し、更に各自携帯やスマホを紅葉に見せないよう申し渡している。

 曰く、

『現実を受け入れることが出来ず、自ら命を絶ってしまう旅人が多く存在するのが事実です。それも、より遠くから来た旅人ほどその傾向が顕著なのです』

 元亀元年。西暦に直すと、1570年。戦国時代。もし自分がその時代の住人で、いきなり令和の世に放り出されたら、何を思い何を考えたであろうか。

 曰く、

『旅を終えた旅人にとって最も大切なことは、少しでも早く現実と現状を受け入れてもらうことなのです』

 昨日までの紅葉を見る限り。これはどうやら問題なさそうだ。スマホを欲しがるし、今日の街への外出の予定を知らせると狂喜乱舞していたし。

 曰く。

『そうした中で、実は最も大切なことは、保護者であるあなたの精神状態なのです。あなたが常に心にゆとりを持ち、正常かつ冷静な判断が出来るようにいなければなりません。旅人が現代で幸せに過ごせるか否かは、あなたの心の平穏が一番重要なのです。どうか一人で悩まず、公認された仲間や我々スタッフに相談してください』

 公認された仲間がさぁ、あの愚鈍な三小僧なんだよな… せめて部活の仲間だったなら… 真央や美咲、蓮兎や冬馬なんかだったら心強いんだけどな、ああ、後クラスメイトの高野や琴美な、アイツらなら常に最良の答えを教えてくれそうだ……

「おっはよぉー忠太。今日何すんやぁー、紅葉ちゃんとデートか、俺も混ぜてなぁー」

 朝から妙なテンションの行円を呆れ顔で眺めながら、だし巻き玉子を手元も見ずに巻いてしまう忠太である。


「え… それ、ホンマ?」

「…ええんか、ホンマに?」

「……まあ、八田さんが一緒なんやら…」

 朝食の席で、今日の予定を告げると三馬鹿は絶句し、次に羨ましげな表情で、

「それってな、俺らも…」

「一緒の方が、他のやつに怪しまれんと…」

「うむ。大勢の方が逆に目立たんかも分からんな」

 目立つし。坊主頭がゴロゴロその辺歩いてたらメチャ目に付くし。前髪を掻き上げながら忠太がダメ出しをする。

「…決めた。和尚、わし髪の毛伸ばすで。」

「…俺もや。夏までにソフトモヒカンにしちゃるで」

「…俺も、来年は大学生やからな、そろそろキチンとせにゃな」

 蕭衍はだし巻き玉子を頬張りながら、

「お主らの親がええ言うなら、そうするがええよ」

 三人はがくりと項垂れる。彼らの親は、地域でも有名な高僧かつ豪僧なのだ。

 胡瓜の浅漬けをポリポリ齧りながら紅葉が

「おまえら、そないにうちと出かけたいんか?」

「「「出かけたいよ」」」

「こんな巨体で不細工なおなごと、か?」

「「「不細工ちゃうよ、フツーの大きさだし、可愛いヨォ」」」

「この、嘘つきのうつけどもが。そないな姑息な言い方しおって」

 三人はキッとなり、

「本当のことやって、嘘ちゃうで」

「そやそや、紅葉ちゃんマジで可愛いで」

「それにそんな卑怯な言い方なんてしてないで、騙すようなこと言うてへんよ」

 紅葉は眉を顰め、

「はあ? 姑息とはその場凌ぎ、と言う意味じゃぞ。卑怯と言う意味では使わぬが。どうじゃ和尚、令和ではそのような使い方なのか?」

 蕭衍はアサリ汁を啜りながら、

「姑息、即ちその場凌ぎ、に相違いありませぬ。おいお主ら。姑とは「しばらく」と言う意味で、息とは「休む」と言う意じゃ。紅葉ちゃん、ほんに教養のないボンクラばかりで申し訳ありませぬ」

「ぼんくら、とは何じゃ?」

 ちなみにボンクラ=盆暗は、江戸時代以降の博打打ちの用語なので彼女が知る由もない。


     *     *     *     *     *     *


「……これが、忠助、お主がさっき言うてた…」

「そう。車。自動車とも言う。」

「…馬ではない、と…」

「そう。機械だ。」

「きかい、とな… して、誠にこれに乗るのか?」

「そう。八田さんが運転してくれる。俺とお前は後ろに乗る」

「…生きて… おるのか…」

「機械は生き物じゃない。ほら見てみろ、鉄や銅とかの金属で出来てんだ」

「鉄…… おお、硬いの… して、この黒い脚は?」

「ああ、タイヤな。ゴムで出来てる。」

「ご、ごむ…」

「えーーと、うーん、ゴム、ゴムっと… ほお、ほお。なるほど。あのな、南蛮渡来の木の汁から出来たもんだってさ」

「ううむ。ほう、鉄と違い柔いのぉ、ふむ、これが回転することで前に進むのか?」

「ああ、その通りだ」

「…はよ…」

「は?」

「はよ、乗るのじゃ! はよ乗せよ! はよ!」

 大興奮状態となってしまう。


 八田が運転する県の公用車であるプリウスが県道一三五号線を軽快に走っている。

 後部座席の紅葉はまず車の速度に驚喜乱舞し、そのうち見えてくる街の景色に大興奮する。

「あれ、あれは何ぞ? あの真っ直ぐな糸で繋がれた柱は?」

「電柱。電気を各家庭に運ぶための設備だ」

「あれ、あれは? 城か? いやそれにしては小さい?」

「令和の家だよ。木と石で出来てるんだ。外壁は石油から作った物質で出来ている、らしい」

「あれ、あれは! 人じゃ、人がおるぞ! おおみなお主らのような格好をして。やはり耶蘇教の信者なのか?」

「ちげーし。普通の格好だし。てか、これからお前もあんなのを買うんだぜ」

「おおおお… うちも、あれを… おおお…」

 どんだけ好奇心が強いのだろう… 半分呆れつつも忠太は必死に紅葉の質問をスマホで検索しまくるのである。


「それにしても、忠太君は凄いわ、ちょっと驚きや」

 運転しながら八田がバックミラーで問いかけてくる。

「え? 何がすか?」

「説明が、や。普通、こんなに上手に教えられへんよ、いや、ホンマにすごいと思うで」

 ちょっと照れる。

「ねえ紅葉ちゃん。忠太君の説明って分かりやすいでしょ?」

「当然や。うちの下僕なんやから」

 八田がブッと吹き出し、大爆笑となる。

「そうか、そうなんや。紅葉ちゃんの許婚と忠太君がそっくりなんや。忠太君もええ迷惑やね、なんちゃって、あははは」

 ツンと澄ます紅葉を横目で眺めながら心で叫ぶ、笑い事じゃねえんだって! 俺の中の半分がコイツを求めているんだって!

 求めている?

 何を?

 ああ、また訳わかんなくなってきたし……

「おい忠助。」

「何だよ?」

「うちに似合う着物、しかと見繕えよ、ええな」

「知るかよ。女の服なんて俺知らねえし」

「そう言えば忠助、あのぼんくら三人小僧衆はさておき。お主、嫁ごか許嫁はおらんのか? 確かそなた今年元服と聞いた気が…」

 おっと。その辺の令和の事情を説明せんと。

「…てな訳で、えーと、今の日本人の平均結婚年齢が、男が三十一歳で女が二十九歳、なんだってさ。だから、俺なんてまだまだヒヨッコなの。分かったか?」

 唖然とする紅葉。声を震わせながら、

「すると… 八田殿も、もしや…」

「あははははー、今年で三十五なんだけど、今彼女もいないんやー」

「どうなっとるのじゃ、令和は! これでは社会が成り立たんじゃろうが!」

 ズバリ高齢化社会の原因を指摘する紅葉に、ちょっと尊敬の念を抱く忠太である。


「それにしてもすごい数のくるまじゃのぉ、皆餌やりにさぞや苦労しとるのかのぉ」

 八田がハンドルを必死で押さえながら爆笑している。

「この車はな、ガソリンって油で動くんだわ。だから餌やりの心配はねえんだわ」

「ほぉ。がそりん、と。ふうむ、油で動くと言うたが、火が付くと爆発するのでは?」

「簡単に爆発しねえように作られてるから大丈夫、おっそろそろショッピングモールじゃね?」

「しょっぴんぐもうる?」

「あーー、えーーと、ああ、楽市楽座、みてえなやつ?」

 意外にも紅葉は即座に反応し、

「おおお、定頼殿が観音寺城の石寺にて開いた、あの楽市! うちも行ってみたかったのよ、それは快事快事。八田殿、まだかの楽市は?」

 忠太君、上手いこと言うなぁと感心しつつ、

「もうすぐやで、ほら、見えてきたで」

 車は水口の大きなショッピングモールに近付いていく。


「ここは… 何処じゃ… 天宮か? 水宮か? いや、極楽浄土か……」

 水口のそこそこの大きさのショッピングモールに車を入れると、紅葉は驚愕半分、驚喜半分の表情で戸惑う。

「そもそも、ここは何処じゃ?」

「へ? 水口だぞ。お前の時代には無かったか?」

「ほお水口。あったわ。そこそこの宿場町じゃ。それがこのような… ここが日本の京になったのじゃな。恐るべし令和… 何故に水口が…」

「いやいやいや。全然チゲーし。ここはフツーに町、だから。もっとでかい都市ってのが、他にもいっぱいあるから」

「そう、であるか… それにしても、この人の多さ…」

 日曜日のお昼前。コロナ禍にも関わらずかなり大勢の家族連れ、カップル、友達同士の群れがモールに出入りしている。

 車は立体駐車場に入り、屋上駐車場で車を停める。街の景色を紅葉に見せるためである。

 紅葉は絶句しながら街を見下ろしている。

 その格好は相変わらず忠太のお古のジャージ上下である。

 そのすぐ後ろで街を一々説明してやっている忠太も、普段着がわりのジャージだ。

 まあどうみても、鈍臭い田舎の中学生カップルだ、逆にそれが目立たなくて良い。八田は頷きながら二人の姿を写メで撮る。


 だが令和人と比べても驚くほどの美貌の紅葉は逆に注目を浴びてしまう。どうしてこんな可愛い子があんなダサいジャージを着ているのか、と。

 八田はさりげなく二人に、

「なあ、二人ともちょっと流行りの服選んだ方がええよ。もう中三になるさかい」

 流行りの服? 俺は要らねえけど、確かにコイツには必要かも知れねえ。

「なあ紅葉、ユニクロでも行って普段着と部屋着、買えよ」

「できれば訪問着も欲しいところじゃが」

「…お、お前、おねだりさんかよっ ま、とにかく行ってみるか」

「じゃが。うちの巨体に合う服なぞあるのか?」

「だから。お前全然でかくねーし。普通よかちょびっと高いくらいだし。あるってフツーに」

「……」

 紅葉には政府から支給された支度金があり、最低限の日常生活を令和人として送れるだけの衣類等を揃えることが出来る。

 紅葉の目の色が怪しく光ったことに全く気づかなかったのが、八田にとっての大失敗の一因であった。


「ほぉ、おぉ、わぉ!」

 紅葉は服を手に取っては一々歓声を上げ、

「この手触り。絹のような? いやもっと滑らかや、それにこの色遣い、この光沢、ひっひっひっひ おお、丁度いい、このMとやらを選べば良いのじゃな、おお、この品数……」

 洋服に全く興味のない忠太がボーッとしている間に、手提げバッグ二つ分の服をチョイスした。

 また、『旅のしおり』アプリに記されていた通りに、彼女に下着の重要性を車中で説明していたので、一週間分の下着を物珍しそうに選んでいた。

「ほれ。これは返すぞ、え、要らぬ? ならその辺で処分いたせ」

 とこの数日着ていたジャージを放ってよこす。

 おま、ザケんな! と怒鳴ろうとして。声が出なくなる、そして紅葉をガン見してしまう。

 ユニクロのお洒落な服を着た、紅葉がいる。

 戦国時代の女子には全く見えない。令和人にしか見えない。それも相当可愛い令和ギャルだ。

 色遣いは正直微妙であるーオレンジの長袖Tシャツにレモンイエローのベスト、そしてショートパンツ。本人にしてみれば着やすさを重視したのかも知れないが。

 派手な色遣いに負けない小さく細い顔。ショートパンツからスッと伸びている引き締まった長くて細い足。

 化粧っけは全くないが、地黒ながらツヤツヤした肌、そしてそれ故引き立つ大きな目、ぷっくりした唇、そしてスキージャンプ台のような鼻筋。

「初めて着るが、南蛮服はええの、至極着心地が良いぞ。故にたんと選んでやったわ、それにこの下着も悪うないの、胸がブラブラせず実に良いぞ、ひゃっひゃっひゃ」

 大喜びで卑猥に笑う紅葉。

 大変身後のあまりの美少女ぶりに目が釘付けとなっている忠太は、俺もちょっとちゃんとしよっかな、と思い始めている。それを八田はその通りやで、と頷きながら眺めている。


「おおおお。二人とも、中々よく似合っとるよ、いや、かなりお似合いや。二人とも相当お洒落に見えるで、ええねええね!」

 ちょっと興奮気味の八田は二人の姿を写メし続ける。

 紅葉が見繕って忠太の服を選んだのだが、そのセンスがとても戦国女子とは思えぬ素晴らしくお洒落なチョイスだったものだから、シャッターが止まらなくなっているのだ。

 試着し鏡で己を眺める忠太も、思わずおおお、と感嘆してしまうナイスなチョイスなのだ。

 元々貴族顔で高貴な顔立ちの忠太にはちょっと着崩したスタイル、すなわちダブッとした白のTシャツやパンツが良く似合い、キャップを斜め被りした姿は

「お主、やれば出来るではないか!」

 と紅葉も驚く仕上がりを見せている。

「よし。こんなもんじゃろ。八田殿、お代をきちんと払ろうてもらえぬか」

 二人の選んだ服を回収し、セルフレジでピコピコバーコードをスキャンしていく。

 ……む。二万円を超えたで。

 ……むむ。三万を…買いすぎちゃう? 予算オーバーやちゃうか…

 ……むむむ、四万円やて? 嘘やろ… まだある? えええ?

 ……むむむむ、五万円って、完全予算オーバーやんけ、これどないすんねん!

 ……むむむむっむ! 合計税込64,387……

 支給された衣類代は25,000円であった……

 八田は涙目で足りない分を自分の財布から払ったものだった。


「そうだ、八田さん。こいつサンダルしかないんっすよ、靴買ってやんねえと」

 ええええ、予算が、予算があらへんぞ!

 とは言えず、凍りつきながら

「そやな、ABCマート行こか…」

 大型に靴屋に入ると紅葉は忠太に

「こんなもん要らんて、うちが作る草鞋で十分じゃ」

 と健気なことを言い、八田は少しホッとするのも束の間。

「はあ? 今着てる服に草鞋なんて合わねえぞ。お洒落じゃねえぞ。ダッサいぞ」

 こら伴君、なんて余計なことを…

「そやな。ほな、お洒落な靴、見繕ってな」

 キラキラに輝いた紅葉の瞳はさながらメデューサの瞳の如く八田の心を固まらせるのだった。

 半刻後。

 三足で計二万円ほど支払った八田は、今日と言う日の大失敗を二度としないことを天に誓うとともに、真剣に転職を考え始めるのだった。


 昼食は令和日本を代表する食事を、と言うことでラーメン屋に入る。チェーン店ながら休日にはちょろっと行列が出来る程のまあまあの店だ。てか、それ以外の選択肢が八田の財布内には存在しなかったのだ。

 三組ほど行列し、豚骨ラーメンを三人前注文する。ラーメンとは何か、を忠太がやる気なさそうに説明しているうちに、テーブルに運ばれてくる。

「おお、先日のうどんのようじゃな、それにしては麺が細いの、なるほど明の食事とな、どれどれ……」

 一口啜り飲み込んだ紅葉はフリーズしてしまう、小刻みに体を震わせながら。

 そして。

「う、う、う、う、う、」

 忠太と八田は苦笑する、まあ、分かるわ、最近世界にもバレたし。

「美味いぃーーー、なんじゃこりゃあ! こう、コッテリ、ながらにつるると喉越しが堪らぬ、」

 レンゲでスープをズズズと啜り、

「この汁のコクの深さよ… 獣臭がするがさほど気にならぬ、いやむしろ食欲を掻き立てる臭みじゃ、これは堪らぬーー」

 スープを我を忘れて啜り出す。

 あっという間に啜り尽くし、八田の目をジロリと睨むので、

「これ、食べるか?」

「おおお、すまぬの八田殿。では遠慮なく〜」

 ひったくる様に八田の器を奪い、じゅるじゅる啜り出す。まるで小学生のガキじゃねえか、忠太は思わず吹き出してしまう。


     *     *     *     *     *     *


 ショッピングモールを後にして、数分で紅葉は寝てしまう。なんやかんやで相当緊張していたのだろう、それにほぼラーメン二杯平らげたのだから。

 後部座席で座っている忠太の左肩に紅葉の頭がちょこんと乗る。途中で買ったキャップ越しにシャンプーの匂いがたまらない。どうして俺らと同じのを使っているのに、こんなに香りが違うのだろう、不思議でたまらぬ忠太である。

 そんな忠太がふと、

「ねえ八田さん。紅葉みたいな『旅人』? こんな風に結構面倒見てきたの?」

 八田はそうやねえと呟きながら、

「この近畿地区で、かれこれ十年はやってきたからなぁ」

「そっか。みんなこんな紅葉みたいな感じなの? 好奇心旺盛でさ、俺が私が、って感じ?」

「そんなことないで、この子はちょっと、いや相当特殊や。前も言うたけどな、こっちの世界に来てこんなに早く順応する人はホンマ珍しい、それもこの若さでな」

「へえ、そうなんだ」

「紅葉ちゃんは四百年以上前の人やんか、知り合いどころか社会の仕組み自体が変わっちまった所に飛ばされたんやで。忠太くん、君なら今の紅葉ちゃんみたく出来る?」

「いや、絶対無理っす。外に出るのも怖いだろうな。人と喋るのもおっかねえかも…」

 八田はだよねーと頷き、

「本当に稀なケースや、紅葉ちゃんは。でもな、なんでこないなったか、今日で僕ちょっと分かったわ」

「紅葉が、普通に馴染もうとしている理由?」

「そや。それな、忠太くんの存在があるからや。間違いないよ」

 忠太はフーンと唸り、寝息を立てて熟睡している紅葉を見下ろす。


「忠太くんは、彼女が元いた世界での許婚に似てる言われたんやろ? 名前もそっくりやしな」

 忠太は頷き、紅葉の頬をそっと触れてみる、するととても懐かしい気持ちが胸に溢れてくる。

「あのさ八田さん。変なこと言う様だけどさ、笑わないで聞いてくれる?」

 忠太は己の中の謎の気持ちを八田に相談してみようと思った。

「笑う訳ないやろ。何でも言うてみ?」

 とても優しい口調で促される。忠太はコクリと頷き、

「あのさ。俺、紅葉が懐かしくてたまらなくなることがあるんだよ、今まで一度も会ったことねえのに」

「ほうほう、懐かしいんや」

「なんかさ、涙が出るほど会いたかったって思う瞬間があるんだよ、これ、俺の頭ヤバいやつかなあ。俺、コイツに会って頭おかしくなっちゃったのかなあ。」

「ないない。おかしくなってなんかないで。安心しい、問題ないで」

「でもさ、毎晩変な夢見るんだよ… 俺がさ、コイツの許婚? 伴忠太郎って奴になってる夢だよ、変だろう? どうなっちまったんだよ俺…」

 気付かぬうちに目頭に涙が溜まっている。だがそれも悲しみや憂いの涙ではなく、喜びや懐かしみの涙なのである。

「俺、変だよね、ヤバいよね、どうしちまったんだろ……」

 八田は忠太の激白を一言漏らさず丁寧に聞いている。余計な突っ込みはせず、忠太の心の思うままに話させている。忠太の鼻を啜る音が聞こえてきた頃、車を野洲川の河川敷にそっと停める。


「もしかしたらな。忠太くんはその忠太郎氏の生まれ変わりかもしれへんね」

 忠太は鼻を勢いよく啜り、八田の意外な言葉に首を傾げる。

「生まれ変わり? それって、俺が昔、忠太郎だったってこと?」

 八田は窓を開け、iQOSを一本旨そうに吸い始める。

「意味分かんねえし。何それ、俺が昔忠太郎で、長生きして死んで、それで俺に生まれ変わったって? 漫画やアニメじゃねえんだし、そんなのある訳ないじゃん」

 八田はゆっくりとかぶりを振りながら、

「今、世界中の研究者たちがな、魂の転生について研究しているの知っとるか? 人は死ぬとな、身体から魂が抜けて他の生まれたばかりの身体に入り、次の人生を始める。そう、肉体は死んで朽ち果てるけど魂は死なずに永遠に生き続ける、って研究。聞いたことあらへん?」

 忠太は激しく首を横に振る。

 何じゃそれ。まんま仏教の輪廻転生思想じゃん。

「それそれ。一宗教の思想を今科学的に分析しとるんだって、世界中で」

「マジで? ふーん。で?」

 八田は薄い煙をふぅーと外に吐き出し、

「案外、事実かも知れんで、君が忠太郎さんだったって。」

 俺、が、忠太郎、だった?


「何それ、もしそれが本当だったらさ、え? 俺は紅葉の許婚? でも、それはその時の時代の話でさ、今は令和じゃん、なんかおかしくね? ああ、でもー」

 でも。

 もしそれが事実ならば全ての辻褄が合うのだ。

 初めて紅葉を発見した時の不思議な喜びと懐かしさ

 やけにリアルな最近の夢

 触れ合った時にたまに感じる、どうにもならない切なさ

 俺が本当に昔伴忠太郎であり、現代に魂だけが転生し伴忠太として生まれ育ったとしたらー

 そういう、ことなのか?

 爆睡している紅葉を眺める。今こうしている時も、懐かしさで胸がはち切れそうである。

 では、そうしよう。

 俺は、伴忠太郎の生まれ変わりだ、そう認めたとする。

 では、これからどうすれば良い?

 俺は忠太郎の代わりに、コイツのそばにいなければならないのか?

「それはさ、元の世界でもあくまで許婚であっただけだから。これから二人で育んでいけばええんちゃうかな」

「それってさ、元いた世界で、もしかしたら二人は結ばれなかったとするじゃん、それは現代でもやっぱそうなるのかな」

 八田は吸い終えたタバコを灰皿に入れながら苦笑いし、

「ごめん、ちょっと何言うてるか分からんわ」

 言いたいことはよく分かるのだが。

「ああ、そっか、うん、俺もちょっと混乱して、上手く言えねえや」

 八田は優しい笑顔で振り返りながら、

「ゆっくりと。ゆっくりとこの子と向かい合っていけばええ。別に無理して忠太郎氏になろうとせんで、ええ。無理にこの子と一緒になろうとせんで、え え。普通に、ゆっくりとやっていけば、きっとなるようになる、間違いない。」

 一言一言ゆっくりと忠太に語る。

 忠太は八田の目をじっくりと見てから、しっかりと頷く。


 八田の温かく優しい言葉で、忠太の心は相当軽くなった。

 俺の心に住み着いた、紅葉を懐かしく、そして抱きしめたい気持ちはそのままで良い。

 この先忠太の心が本当にそれを求めるならそれに従えばいい。もしそうでないなら、そっちに従えばいい。

 なる様になる、ゆっくり、無理をせずに。

 左肩の温もりを、そのまま受け入れれば良い。普通に可愛い女子がもたれかかっているじゃんラッキー、でいい。

 無理に忠太郎になる必要はない、だって俺は忠太なのだから。そうなるときっと紅葉は寂しがるだろう。忠太郎を求め欲しがるだろう。

 でもそれもそれで良い。無理に俺、紅葉が頑張る必要はない。ゆっくりと普通にしていけばいい。きっとなる様になるのだから。

「ありがと八田さん。俺、今日から肩の力抜いてコイツと接するよ」

「そや。それでええよ」

「へへ。なんか八田さん、精神科のカウンセラみたいじゃん、カッコイイじゃん」

 カウンセラ? カウンセラーでは? とは突っ込まず、八田は有難うと笑いかける。

「ぼちぼち寺に戻ろか」

 エンジンをかけ車のアクセルをゆっくりと踏む。車はすっかり春めいた陽気の中、川沿いの道を進んで行く。


「これ以上食えぬと言うとるじゃろうが!」

 紅葉が突如絶叫し、ガバッと身を起こす。

 八田は思わず急ブレーキを踏み、何事かと後部座席を振り返る。

「なんじゃ、夢か。忠どのがもう食えぬと言うのにまだまだと精進揚げを食わすものだから…」

「びっくりするじゃねえか、大声出すなよ」

「黙れ忠助。おお、そう言えばお主、取り柄が一つだけあるのぉ、料理の腕だけは忠太郎どのよりも上じゃ、そもそm― おい、ここはー」

 紅葉が車窓から身を乗り出し、景色を見渡す。

「野洲の流れに、似ておる…… まさか…」

「そうだぞ。野洲川だぞ、お前の時代にもあったろう?」

「あったも、なにも…… うちはここをほんの数日前……」

 紅葉は言葉を飲み込み、無言でドアを開けて河川敷に立ちすくむ。

 何という……

 川沿いには道路が敷設され、建物が立ち並んではいるが、この流れはまさしくあの夜二人で駆け抜けた……

 魂を抜かれたかの如く、フラフラと紅葉は道路から川に向かって歩み出す。


 忠太と八田はその後をそっとなぞって行く。

 不意に紅葉が立ち止まり、

「この、辺りかも、知れぬ…」

 そう言うと、しゃがみ込んでしまった。

「この辺で、何かあったのか?」

 紅葉は返事をせず、辺りを空な眼差しで見渡している。

 やがて、ポツリと

「あの夜、この辺りでうちと忠どのがー」

 柔らく暖かい春の風が紅葉の頬を撫で、後ろに結んだ髪を靡かせる。


 忠太郎は無言で兵糧丸を一粒紅葉に放り投げる。

 ほぼ同時に、紅葉も忠太郎に兵糧丸を一粒放り投げる。

「ほれ、うちの拵えたのも召し上がり」

 忠太郎はヒッと小さく悲鳴をあげる。

「大丈夫やって。ちゃあんとおみつに見てもらいながらこさえたさかい、間違いないねん」

「なんや、苦々しいのお」

 顔を少し顰めながら咀嚼する忠太郎。それを一気に飲み下し、水を二口も飲む。

 その一方で忠太郎のこさえた兵糧丸をもぐもぐしている紅葉は、

「さすが忠さん、ええ味や」

 と満足そうだ。

「うちのは味はイマイチやけど、よく効くで。おみつのお墨付きやから」

 忠太郎の身体に変化が生じ始める。

「どんな疲れも失せはるよ、どや? よく効くやろ?」

 忠太郎の額に汗が滲み始める。

「お、お主。本当におみつ……一体、何を入れ……」

 紅葉の両肩に荒々しく手をかける。紅葉は唖然とした表情で、

「どうしたん?」

「も、も、も、も、も… もみじぃーーーー」

 河原に紅葉を押し倒した。だが、その瞬間、忠太郎の身体は宙に浮き上がり、大きな音を立てて河原の砂利に叩きつけられた。

「な、な、なにすんねん!」

 紅葉は頭巾の中で顔を真っ赤にしながら叫ぶ。


「要は、お前の作った薬が疲労回復剤でなく、催淫薬ってオチなのか、バカじゃね、ギャハハハハ」

 忠太は腹を抱えて爆笑する。

「笑うなら笑え。うちはどうにも料理の才が、のぉ……」

 腹を立てるでもなく、昔を懐かしむ表情で呟く紅葉に忠太は笑いを止め、紅葉の横にしゃがみ込む。

「そうか。俺はその忠太郎よりも、料理は上手いのか」

 紅葉は指先で米粒を摘む仕草で、

「これくらい、ほんのちょっとだけ、な」

「何だよそれ。まいっか、よし、今夜は天麩羅を作ってやるかな」

「てんぷら、とは?」

「多分、お前が夢で食わされてた精進揚げ、みてーなやつ。もっと美味いぜ」

「ほお、てんぷら、か。」

「ああ。海老とか野菜を衣に付けて揚げるんだ。メチャクチャ美味えぞ」

 紅葉は素晴らしく爽快な笑顔で

「それは楽しみじゃ」

 と忠太に笑いかける。

 美しい。本当に、こんな可愛い子が俺の隣にいるなんて、信じられねえ。


 青木桃への汗臭い淡い想いはとっくの昔に霧散し、伴忠太は今初めて山中の紅葉に淡い想いを抱くのであった。


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