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甲賀学苑古武士道部  作者: 悠鬼由宇
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第二章

 令和四年(2022年)四月。


 滋賀県甲賀市の山中にある私立甲賀学苑中等部の始業式。


 因みに、甲賀は(こうが)ではなく(こうか)と呼ぶことは、松坂牛を(まつざかうし)と呼ぶのと同じ位、世に知られていない。


 そんな甲賀学苑中等部の新三年生となった伴忠太は、中等部の校舎の前に佇み、山の所々で咲き乱れている山桜をぼんやりと眺めている。

 そしてコロナ禍の影響もあり、もう二年も帰っていない生まれ育った川崎に想いを馳せ、同時にこの怒涛の甲賀での二年間を思い返している。


     *     *     *     *     *     *


 二年前の令和二年、旅立ちの日。コロナ禍で閑散とした新横浜駅で己の荷物を小僧に持たせたまま新幹線に飛び乗ったのを思い出す。


 何とか財布は持っていたので、泣きべそのまま仕方なく甲賀に向かう。

 京都駅で降りて山陽本線の草津駅行きに乗るのは、前の年の夏に良閻和尚と共にしたので覚えている。だが保護施設で育った故、スマートフォンという高価な代物は持ち合わせておらず、常に乗り間違えの恐怖に取り憑かれながらの道中なのであった。

 初めての一人旅。見た目や普段の態度からは窺い知れぬが、実はかなりのチキンな忠太はブルブル震え怯えながらローカル線の座席に座っていた。

 口の中はカラカラに渇き、目は絶えず挙動不審。同じ車両に乗った他の乗客は、誰もが通報するか緊急停止ボタンを押すか迷っていた程だ。

 前回の来訪時は、行程を全て和尚に任せ切っていたので、己を信じきれぬ忠太は絶えず疑いしか頭に浮かばない状態だ。そんな彼も何とか目的地の甲賀中央駅に到着した。


「え… こんなど田舎だったっけ…」

 と思わず呟いてしまう程、駅前の風景はどこか牧歌的な様相であった。

 三階建て以上の建物はない、即ち駅ビルすら存在しない。駅前はロータリーに数台のタクシーがつまらなそうに停まっているだけで、ちょっとした店すら存在していない。

 夏にも乗った筈のバスをロータリーのバス停で待つ。時刻表には一時間に一本しか運行がないので、二十分ほどこのまま待たねば……

 忠太は頭を抱える。

 俺は、何というど田舎に…


 昨夏宿泊した志徳寺まで二十分ほどバスに揺られる。

 車窓からの景色は呆れるほど田畑が広がり他に何もない。時折通り過ぎる家々のデカさにはちょっとビックリだが、基本駅からの道すがらにコンビニやレストランなどは一切存在しない。する気もなさそうだ。それぐらい人気のない寂しい風景なのだ。

 こんな所だったか? 俺、駅を間違えたんじゃね? 不安と狂騒で気が変になりそうな忠太だったが、バスはやがて『志徳寺前』というバス停で忠太を降ろし、白煙をあげて去っていった。

 こんな筈では… こんな殺風景なところで俺は…

 暫し歩くことも出来ず、呆然と立ち尽くし辺りを見まわしたものだった。


「よう来た! なんや荷物を忘れてきたそうやな」

 良閻和尚の親友、杉山蕭衍和尚が満面の笑みで忠太を迎え入れてくれた。

 これ以上あるか、と思う程のまん丸な顔、目尻の垂れた大きな目、饅頭ほどもあろう大きな丸鼻、拳骨が二つは入るであろう大きな口。

 顔のパーツが一々自己主張甚だしい蕭衍和尚は、それでも大変優しい人格者である、昨夏の宿泊体験から忠太はそう勘違いしていた。

「ま、長い旅路で疲れたんとちゃうか? ゆっくりと風呂に入りや」

 優しい。良閻和尚より遥かに優しい。

「ああ、風呂は離れにある、そうそう、去年も入ったから知っとるやろ。のんびり浸かって来るんやで」

 忠太は一人旅の不安と緊張から解放され、目尻に涙を浮かべながら離れの風呂場に向かった。

 そして、和尚の正体を知った。

 離れの風呂場の風呂桶は湯が抜かれて空で、何気なく掃除用具が置かれていた。

 忠太は膝の力が抜け、目尻から涙がポロリと溢れた。


 風呂を清掃し、湯を入れそれに浸かり、やっと落ち着いてのんびりした気持ちになる。

 風呂を出て母屋に行くと、不意に腹がキュウと鳴る。

「おお、ええ湯やったろう。ささ、夕飯の支度せにゃ。ちょいと手伝ってくれへんかのう」

 ああ、いいですよと台所に連れて行かれ。

 炊飯器は空。鍋一つコンロにかかっていない。

 ちょいとではなく、ガチで夕飯を手伝わねば…

 結局、忠太は他の小僧の分を含めた、六人前の夕食を一から造らねばならなかった。

 因みに忠太の料理の腕、良閻和尚に幼な子の頃より鍛えられ、そこらの主婦より卒なくこなしたものである。

 以来。

 食事の当番は忠太不動となるのだった。

 ついでに風呂桶掃除も忠太の仕事となった。

 要は、この寺で下僕としてこき使われることが確定し、他の小僧たちは小躍りして喜び、和尚は目を細めて忠太の料理に舌鼓を打つのである。


 寺の生活(使役とも呼ぶ)に慣れた頃、学校が始まった。


 私立甲賀学苑。

 創立1915年、男女共学の中高一貫の六年教育。全校生徒は七百二十名程、ひとクラス三十名程度で各学年四クラス。

 男女比はほぼ五分五分、県外からの進学者多数。

 卒業生の九割は主に関西地区の諸大学へ進学していく。滋賀県では中々の進学校と認知されているが、それ以上に全国がこの学苑を知っている。

 そう、古武士道部の活躍がそれである。

 過去十年間において、全国高校総合体育大会の古武士道の部で、優勝四回、準優勝二回を誇る超名門校なのだ。


 先にも紹介したが、古武士道は槍、刀、弓の技を駆使して集団戦で各々の精度、速度、深度を競い合う我が国古来の武道だ。

 その競技人口は平成元年をピークに徐々に減ってきてはいるものの、未だに根強い人気を誇り全国各地の強豪校がしのぎを削りあっている。

 近年では世界の忍者ファンが古武士道に気付き、その虜となって自ら刀を振るい弓を引く姿が世界中で見られるようになっている。

 昨年史上初の世界大会が開催され、その様子は全世界にネット配信され、古武士道の裾野は全世界に広がりつつあるのだ。

 忠太も古武士道部の特待生としてこの学苑に入学したことは先に述べた。

 コロナ禍で入学式は中止され通常授業も行われず、配られたプリントを寺でひたすらにこなす日々が始まった頃。何故か古武士道部の活動だけは始まった。


「新入部員。一人ずつ自己紹介せんか」

 中二の茶髪の先輩、青木桃が新一年生を睥睨しながら吼える。

「池田、美咲ですぅ、とくいは弓ですぅ、どうぞよろしゅぅお願いしますぅ」

 青木の顔が池田の顔にくっつきそうになる程睨み付けながら、

「誰がワレとよろしゅうするかボケ。おい次!」

 ヒッと叫びながら、やや長身の女子が、

「わ、わ、和田、和田真央です、や、や、槍が得意じゃけん、よろしくお願いしますぅ」

 青木は和田を見上げながら、

「ワワワダって変な名前やな、アレか、アフリカ出身かワレ?」

 和田は首を振り振り、

「ひ、ひ、広島からきちょります」

「知るかボケェー。まずは日本語話さんかいワレ! 次ぃー」

 この後十名ほどが自己紹介するも、更に酷い仕打ちを青木に受け、最後に忠太の番となった。


 とうとうこの日がやってきた。この半年間忘れたくても忘れられない敵。茶髪のドブス女。

 忠太の目は喜び二割興奮三割怒り五割のギラギラした輝きに満ちている。

 目前に並ぶ先輩達には目もくれず、茶髪女の目だけを睨み付けながら大きく息を吸い込む。

 そして。

「伴忠太得意は刀神奈川の川崎から来ましたよろしく」

 と吐き捨てた。


 居並ぶ二年生は好奇心に満ちた目で忠太を眺め、新入生達は全員呼吸が停止する。

 青木は忠太の髪の毛を掴み、

「おお、来たのうワレ」

 突然の不穏な空気に全一年生が凍り付く。

 忠太は表情を全く動かさず、青木を見上げながら

「はぁ」

 周囲から音が消える、一人の男子新入部員の唾を飲み込む音が響き渡る程に。

「よう来れたのぉ、ここに! この場に!」

「はあ?」

「ワレ、忘れたとは言わせへんで、去年の夏、帰りしなウチに何言うたか忘れたとは言わせへんぞコラ!」

 他の二年生が全員吹き出す。一年生は状況認識が全くできず、ただただ顔色を青くしている。

「えっと俺なんか言いましたっけ?」

 忠太が青木を睨み上げながら吐き捨てる。

 この女。

 この半年間、毎日のように夢想し何万回と斬り捨ててきた女。

 この女に打ち勝つために、自らに厳しい修行を強いてきた。

 強く握りしめた拳に手汗が滲み出る。


 そんな忠太の思いとは裏腹に、二年生、特にイケメンでヘアバンドをしている野田樹と丸坊主で長身かつ筋肉質の山上悠斗は大爆笑だ。

「なんか、コイツには色々期待してまうわー」

「それなー。いや、これからめっちゃ楽しみや」

 そんな二人の笑い声は忠太の耳に届かない。青木を見上げながら、

「こーゆーのって、イジメ? ハラスミント? 世間に知れたらマジやばいんじゃないっすか?」

 ハラスミント。はらすみんと? ハラスみんと?

 こいつ、態度もやべえけど、頭もやべえのでは? 新入生達がヒソヒソ話を始める。

 青木はブルブルと震え出し、額を忠太の額にくっつけながら、

「ウチのこと、ブス言うたん、忘れたかコラ?」

 え?

 は?

 新入生の頭上にはてなマークが浮上する、特に男子部員の頭上に。

(青木先輩、めちゃキレイやん?)

(顔はこえーけど、マジ可愛いよな?)

(目はキッツイけど、めんこいで)

(やはりコイツ、頭も目も悪いに違いねえ)

(ああ、あんま関わりたくねえな)

 入部前から既にハブられようとしたその刹那。忠太がボソッと、

「青木パイセン、俺と勝負してくださいよ」

 一年生全員が、驚愕と恐怖で硬直する。


「アイツ、本当のバカやわ。U16県選抜で『甲賀の女豹』と呼ばれる青木先輩に喧嘩売るなんて…」

「ああ。自分を何様だと思ってんのかね。川崎の伴? 聞いたことねえよ」

「無礼にも程があるで、死ね」

 もはやヒソヒソ声でなく普通に共通認識しあう新入生達。

「死ぬなアイツ」

「ええ、間違いないわ。絶対死ぬるわ」

「ホントめーわくかもぉ、あーゆーのってぇー」

「どーせ口だけ番長気取ってんやろ」

「いるんだよな、あーゆー奴。承認欲求パンパンのさぁ」

 皆呆れ蔑みつつも、憧れの青木道士の実技を心待ちにするのであった。


 だが。

 二十分後。

 新一年生達は、認識の変更を余儀なくされていた。

「……川崎の伴、か。へえ…」

「ふぅん、まあ、中々、やるわね…」

「出血… へいきかにゃぁ…」

「んーー、ま、根性だけは認めてたるわ」

 額の横を割られ、血まみれになりながら失神している忠太を、息を切らせながら見下ろしている青木が途切れ途切れ呟く。

「この、クソガキ、はぁはぁ、痛ってー、ちくしょう、はぁはぁ、覚えてろや、くっそぉ、はぁはぁ」

 二年生のイケメンヘアバンドの野田と厳つい坊主頭の山上は真顔で

「これは……ちょっと想定外やね、まさかここまで桃に食いつくなんて。」

「ああ。即戦力、やな」

「この半年で、ここまで… どんだけ桃の事… 結構貴族顔のくせに執念深いんやねこの子は、ああ恐ろし…」

「それな」

「これからが楽しみやね、コロナで中止にならなければ近畿大会もこの子十分使えるんちゃう? あはは、悠斗―、うかうかしとると追い抜かれるでこの子に」

「…… それな」

 蒼ざめながら語る二人である。


     *     *     *     *     *     *


「ちゅーたぁー、なにボーッとしてんねん」

 池田美咲が校舎の入り口で佇んでいる忠太に声をかける。

 忠太はあの時の決闘の際の古傷である左の額下の傷をさすりながら、

「いやさ、俺らも中三になったんだなーって。なんかあっという間だったよな」

 美咲はハッキリと首を振りながら、

「長かったよぉ。やっとだよぉ。それよりぃ、」

 地元甲賀市にある安然寺の娘である美咲は、高等部の大エースである二つ上の兄がいる。

「今日はぁ修行ないんよねぇ、ちゅーた大将?」

 忠太は一年上の先輩である青木桃より、つい先日中等部大将を引き継いだのだ。因みに『大将』とは普通の部活でいう主将、に相当する。

「ああ。今週いっぱいは自主練だけだ。美咲、サボんじゃねえぞ」

「サボらないよぉ、美咲ちゃぁんとやるもん。ぷん」


 入部してしばらくし、この子がこの学苑を代表するあの池田駿の妹と知り皆が愕然としたことを思い出し、忠太は軽く吹く。

 現在高二の池田駿は「十年に一人の逸材」と呼ばれる程の道士だ。忠太は初めて彼の技を目の当たりにした時、川崎に帰りたくなったものだった。

 戦略性に富んだ身のこなし、アジリティ、技のキレと深み。

 どれをとっても未だかつて忠太が見たことのない道士であった、そしてそれは未だに、だ。

 駿を目標に掲げることは、スーパーのタイムセールで買った食材でミシュランの三つ星を取るに匹敵すると忠太は真剣に思っている。うん、意味がよくわからない。

 そんな偉大な兄を持つ美咲。さぞや凄腕の道士では、と誰もが期待し、ズッコケる。

 アジリティ、無し。戦略性、皆無。技のキレ、虚無。技の浅み、琵琶湖の如し……

 だが、そんな自分を偉大な兄と比較しないマイペースさが部員の心を和ませ、欠くことのできない存在であることを忠太はよく認識している。


「ぷん、じゃねぇよ。マジでちゃんとやっとけよ。でないと下の奴に抜かれちまうぞ」

「大丈夫やって。それよりぃ、ちゅーたはほどほどにせなあかんよぉ、月末は今年こそ県大会あるしぃ」

「ああ、そうだな。俺らにとって初めての県大会、そんで来月が近畿大会、か」


 県大会、と言ってもそれは学校対抗戦ではない。何故なら、古武士道部のある中学校は滋賀県には甲賀学苑しかないからだ。

 故に、県大会とは滋賀県内の古武士道を教えている寺や団体との戦いなのである。

 甲賀学苑中等部は過去三十二年間、県大会で負けたことがない。


 だが毎年五月に開催される近畿大会は様相がガラリと変わり、毎年全力勝負の場なのである。

 三重県代表の常連校である三重県立伊賀中等教育学校は強敵だ。中高一貫の公立校なので甲賀学苑の様に全国から生徒は集まらないが、県内の強者どもが集い切磋琢磨している。

 まあ、大昔から「伊賀者」「甲賀者」同士で戦いあった間柄なので、令和の世でもその関係は変わらない。

 また、近年目覚ましい活躍を見せているのが和歌山県の常連校、和歌山中央中学校だ。

 大阪府代表の堺古武士道研究会も侮れない相手である。

 京都府代表の常連、壬生院みぶいん古武士道会は設立四百年の歴史を誇る超名門だ。


 その三年振りに開催される五月の近畿大会に向けて、戦力の充実化と深化した戦略を練り上げていくのが大将の仕事なのである。

「絶対、優勝しようぜ」

 美咲はその癒し性に溢れた独特の笑顔で

「そやねぇ、精々気張らんとねぇ」

 と言いながら校舎に入って行った。


 忠太が三年B組の教室に入ると、窓際の後ろの席から中等部副将の和田真央が大きな声で

「おぉい忠太、ここだここ」

 と隣の席を叩いている。

 そこに座っていた気弱そうな秀才眼鏡君が

「え、ここは僕の席d―」

「何じゃコラ! 文句あんのかワレ! とっとと失せろやボケ!」

 教室は一瞬静まり返るもああまたアイツか仕方ねえな、とざわめきが戻ってくる。


 新三年生の副将であり防御の要の槍使いである和田真央は、身長が百七十五センチと長身で、忠太よりも七センチも背が高い。

 肩幅も広く足も忠太よりも遥かに長い。まるで外国人モデルの様なスタイルだ。

 但し、顔がデカい。応じて目も鼻も口もデカい。

 総じて、実に迫力満点の顔付きなのである、普通のガリ勉くんなぞひと睨みで逃げ出すほどの。

「うち達にとって初めての大会じゃ、絶対近畿大会勝たにゃつまらん!」

 忠太は秀才君の肩をポフポフ叩きながらその席に座り、

「ま、二年生おるし、何とかなるっしょ、知らんけど」

「アホか、真面目に考えろ。刀が力不足じゃろうが!」

 総大将忠太率いる新生甲賀学苑中等部の悩みは、ズバリ攻撃力なのである。


「そうやね、防御に関しては和田さんと共に三年生の槍使いである大原君、佐治くんが百八十センチ台の長身で繰り出す槍の防御力は近畿一帯に知れ渡っている程なんやけどね」

 突如秀才眼鏡君が興奮気味に語り出す。真央は思わず後退りつつ彼を見上げてしまう。

「弓使いも攻守バランスええよね。三年の大久保くん、小泉くん、二年生の望月の三人は近畿では『魔弾の射手』って恐れられとるんよ」

 へーーーー

 秀才君の周りの生徒が声を漏らす。

「但しね、肝心の刀使いがなぁ。小川くんも土山くんも、他校やったら即エース級なんやけど、ウチのレベル的にはちょっと、やね」

 真央は思わず立ち上がり秀才君の肩を掴みながら、

「そうじゃろ? その通りなんじゃ。なあ、どうすればええじゃろうか?」

 すると教壇の真ん前に座っている秀才眼鏡ちゃんがボソッと、

「大会までに死ぬ程特訓するか、どっかからとっ捕まえてくるか。どっちにしてもあまり時間あらへんで」

 クラス全員がううむと唸り声をあげる。

「伊賀中の百地レベルの奴、どっかにおらんかね?」

 クラスが一瞬静寂に包まれる。

 伊賀の百地、か。伊賀の百地、な。伊賀中のモモじんやわー。

 だよな、だよねー、クラス中が騒然となる。


 三年B組の担任、柴田勝己は教室の外で悄然としている。


 この学校に赴任して三年目なのだが、彼にはどうしてもこの学校の雰囲気、すなわち生徒達の古武士道熱に慣れることができないのだ。

 この学年には古武士道部員が十名いる。各学年概ねその人数だ。彼らは大概県外からの特待生であり、滋賀県出身の子は二、三人いれば多い方だ。年によっては全員県外生というのもあるらしい。

 ひと学年が約百二十名なので、比率で言えばそれ程多いとは思えない。

 なのに。

 何なのだ、この古武士道熱と言うか、古武士道愛は!

 今も学年成績ツートップの高野と長野の二人が真剣に古武士道部の行く末を案じているのだ。

 そもそも、古武士道って…

 まあ、日本人として生まれた故、その存在くらいは知っていた。高校生の大会が毎秋ちょっと話題になるのも知っている。

 去年辺りから世界大会の影響で外国人が熱中しているらしい、現に最近、古武士道に関する英語のメールが公務課に毎日二、三通届くという。

 古武士道、か。

 俺もこの学校に長く勤めるなら、もちっと親しまにゃああかんかな。

 柴田教諭は軽く一人頷いてから、ホームルームをするべく喧騒の最中の教室に入って行った。


     *     *     *     *     *     *


 忠太が下宿している志徳寺には他に甲賀学苑生はいない。

 何故なら寺に寄宿する即ち寺の小僧になる、という事だから皆敬遠するのは当然だろう。

 元々忠太自身が川崎の応禅寺の保護施設で生まれ育ってきたから、寺の生活には馴染みがあり、人が言うほどこの生活を苦に思ったことはない。

 ただ時折、駅の近くのアパートに下宿している仲間達が友人を呼んだり異性を誘ったりしているのは正直羨ましく感じてしまう。

 と言うのは、この志徳寺にクラスメートを呼んだり、気になっている異性を呼べないから。

 呼べば、否応なしに忠太と共に寺の雑務をこなさねばならないからだ。

 一年生の時。

 初めて出来たクラスメートを五名ほど寺に誘ったら、台風で傷んだ本堂の扉の修繕に皆駆り出されてしまった。

 古武士道部の一年生会を忠太の部屋でやることとなり、十名弱の部員が集まるや否や、蕭衍和尚の巧みな話術により御本尊が見違えるようにピカピカに磨き上がった。

「二度と来るかボケ」

 和田真央の怒りは道理である、以来忠太が誘っても誰も応じることはなく、その内に誰も誘うことをしなくなって久しい。


 学苑から山の中腹にある寺までは徒歩十五分程だ。

 多くの帰宅生は駅の方へ向かうので、志徳寺の方向即ち駅の反方位へ向かう生徒はほぼ皆無だ。

 そんな訳で忠太は友人と一緒に帰宅したことがない。

 今日も春の淡い陽気の中、山桜の濃いピンクに目を細めながらプラプラと歩いている。

 ふと空を見上げると、所々夏を思わせる積雲が湧いている。大きな鳶が輪を描きながら牧歌的な里を俯瞰している。

 県道から寺に入る道は途中から山道となる。日没の一時間前くらいにはすっかり暗くなる程木々が密生しており、必然春の夕刻の濃厚な新緑の匂いが山道に満ち満ちている。

 街灯なぞない道が故、日没を過ぎれば行き交う人もいなくなる。そんな人気のなさを案外に忠太は気に入っている。

 川崎時代から人に囲まれ人に馴染んで人と共に歩んできた忠太なのだが、寺と学苑の往復の孤独感というかボッチ感が決してやぶさかでない。

 寺での生活も朝と夜の食事は皆でとるが、あとは他の小僧と関わることはなく。ましてや蕭衍和尚とよっぴいて語り合うなぞ一度たりとも経験ない。

 即ち寺での生活も案外一人きりでおることが多い。そしてその孤独が寧ろ居心地が良い。

 暮らし始めた当初、保護施設で育ったが故独り寝の経験のない忠太は夜が寂しかった。だが三日もすると寧ろその静けさが心地良くなり、今では布団を並べて皆で寝る行為に抵抗を感ずる様になっている。まあ、思春期の男女は皆そうなのかもしれないが。

 小さな頃は親や大人を見、思春期には自分の仲間と自分自身を見、考え、悩み、そして理解する。

 少年から青年へのその過程において、思春期の子供は悩み苦しむための一人の時間が多く必要なのだろう。

 二年間近く一人の時間を過ごし、この頃少し己と仲間達がうっすらと分かってきた気がする忠太なのである。そして今日も一人山道を無心で歩いている。


 必然と偶然、蓋然性と必然性。


 忠太の耳に、不意にドサっという下草が押し潰される音が入ってきた、何か重いものが木から落ちたのだろうか。

 日没が近づき、かなり暗くなった木々の奥に目を向け意識を向ける。


 一体どれ程の偶然が重なることで彼女と出会えたのか?


 濃厚な新緑の匂いの中に、成熟していない女性の匂いを忠太の鼻が拾う。

 ふん、古武士道部の一年上の先輩、青木桃あたりが俺を待ち構えているだろうか。

 そういえば先日大将を仰せつかった際の乱取りで、二、三発多く入れたことのケリをつけにきたのかもしれない。

 馬鹿な女だ、この木々の狭さと暗さで俺に敵うはずなどないだろ。秒殺は難しいが分殺してやろう。そして服をひん剥いて思う存分イタズラしてやろう。

 もう二度と俺をチビ忠と呼ばせねえ。

 御免なさい二度と馬鹿にしません、と青木桃が泣きながら半裸で土下座する様子を思い浮かべ、ちょっと興奮する。

 茶髪でブスだけど、体付きは悪くねえ、胸もそこそこあるしなぁ。

 あと、匂いも悪くねぇ。立ち合いの時に不意に漂うシャンプーの香りにこの二年間で幾度幻惑させられたことだろう。

 森に分け入りながら、少女の匂いが濃厚になってくる、やや饐えた匂いは腐った木々のものだろうか。

 知らぬうちに、股間のものが硬くなってくる。

 俺のことを馬鹿にしてろよ、すぐに後悔させてやる!

 こんなところで一人待ち伏せているアンタが悪いんだぜ、

 てか、それを覚悟して? 望んできたんじゃねえの? まあそれはねえか、そんなタマじゃねえなあの女は。あの女が俺の如きチビを相手にする筈など。

 だが、先日やり合った後、うっすらと頬を赤くしていたなぁ。

 あと、大将引き継ぎの時に、いつもの様に髪の毛掴まれて額と額をくっつけられた時、鼻と鼻が軽く当たって、そん時アイツめっちゃ顔赤くして…

 あれってもしかして…

 ま、まあ、マジでブスだし性格キッツイし。

 ただなぁ、最近アイツのちょっと拗ねた表情に胸がドキッとすることが……

 あと、乱取りの時にたまに胸が当たったり、柔軟運動の時のアイツの股間……


 はぁ、はぁ、はぁ

 日頃己の中にひた隠してきたオスの本能が、春の夕暮れと共に抑えきれない状態となってくるー


 それとも彼女との邂逅は必然的なものであり運命的に回避できない事象だったのだろうか?


 大きな楠の下に黒く横たわった何かが見えてくる。

 あれ… あの女じゃないぞ。

 アイツは木の根元でくの字で寝るような隙は絶対見せない。しかも服が半分脱げかかっている、アイツはこんなヘマはするはずね……

 え?

 は?

 忍び足をやめ、立ち止まりその横たわっているものを凝視する。

 匂いからして、女子に間違いない。

 既に闇に近い状態だが、着衣が乱れているのが確認できる。

 まさか、遺棄屍体?

 暫く様子を眺めておると、浅く呼吸をしているのを確認できた。だがそれは弱々しいもので、相当に衰弱している様子だ。

 慌ててそれに近づき、得意の夜間視力でじっくりと彼女を確認する。

 くの字型に身体を曲げ、横たわっている。

 解けた長い髪が焦げ臭い、ボロボロの衣服も所々焦げている様子。

 雷に撃たれたのか? そう言えばさっきゴロゴロ音がしていたかも…

 きっとそうに違いない、だとしたらすぐに蘇生を!


 忠太はかがみ込んでその横たわっている若い女性に触れた瞬間。

 全身に電気ショックが流れた気がした。

 それは性的なものでは断じてなく、どちらかと言えば懐かしさに歓喜するような感覚だ。

 煤けた横顔を眺めた瞬間。

 眼前が揺れた。

 海馬が歓喜に震えた。

 意味も分からぬ涙が両目から溢れ出た。

 理解不能の絶叫が森に響き渡った。

 そして、不意に意識が遠くなり、横たわる少女に重なるように忠太は倒れた。


 いずれにせよ。彼女の寤寐思服の想いと彼の人面桃花の苦悩は、今時空を越え一つに重なった。


 数分後。

 意識を取り戻した忠太は、異臭に眉をしかめる。

 パッと起き上がり、横たわる女子を眺め、状況を思い出し把握する。

 落雷で気絶した、もしくは重傷を負った若い女子。

 首筋に指で脈を探る。弱々しいものの、確かな脈動を感ずる。はだけかけた胸も微かに上下している。

 これは早く病院に送らねばならない。

 そう認識した忠太は次の行動を思索する、

 彼女を抱え森を出て寺に運び込む。それしか選択肢はない。

 身長は160センチ少々か。ちょっと小柄な女子である。

 横たわる彼女を両手に抱え、ゆっくりと持ち上げる。

 はだけた胸が目前にあるが、全く気にならず歩き始める。歩行のたびに揺れる小ぶりな肉塊、普段の忠太なら青い衝動と共にむしゃぶりついていただろう。

 今そうならない最大の理由というか原因は、この子から発せられるとんでもない異臭によるものであった。

 ハッキリ言って、野犬、野獣の類の強烈な匂いが忠太の鼻腔を襲っているのだ。目の前の柔乳が気にならぬほどの体臭である。

 忠太は顔を顰めながら木々をすり抜け、ようやく山道に出た。

 丁度日没の頃であった。


 汗を腐らせたような、一週間履き続けた下着のような強烈な異臭と闘いながら、忠太は寺への坂道を登っていく。

 これにはどんな匂いフェチの変態男も首を横に振るだろう、例えばユート(山上悠斗)先輩でさえ…

 そんなことはどうでもよい。

 小柄なその子は意外にズッシリと重い。かなり重い。相当、重い。

 息が切れてくる。すると息を吸い込むたびに異臭が肺に入り、とても残念な気持ちになる。

 顔は煤で覆われておりハッキリとは眺められないが、小さな顔で顎がシュッと引き締まっている、今風な流行り顔の様だ。

 ボロボロの衣服は焦茶色なのか群青色なのか識別不能、ただ見たこともない素材で出来ている。

 厚い木綿の生地で俗にいう帆布の様である。

 ふと、左手に硬く握られた細長い物体に気づく、そして立ち止まり凝視する。


 うそ、だろ?

 こいつ、小太刀持っていやがる……

 一体この子、何者なのだ?


 忠太の頭は混乱し、思考は右往左往する。

 やがて志徳寺の山門が暗闇の中から浮かび上がってくる。


     *     *     *     *     *     *


「おぉい、誰かぁー、来てくれぇー」

 宿坊の入り口で忠太が叫ぶ。

 数秒してパタパタと足音が近づいてくる。

「ああ、忠太はん、おかえr――― クッサーーーー」

 今年で十四になる照天という小僧が玄関先でひっくり返る。

「ちゅ、忠太はん、なんやこのえげつない臭い… って、誰それ?」

 鼻をつまみながら照天が怯えながら問う。

「ああ、これか。さっき森の中で倒れてた。和尚を呼んで来てくれ」

「くっさー、えらいこっちゃ、くっさー、おぉーーい、わじょーー」

 ちなみに真言宗では和尚を『わじょう』と呼称する。


 玄関先にそっと横たえる。

 電灯の下であらためてその女子を眺めてみる。

 まるで映画やドラマに出てくる忍者の様な装束だ。頭巾をかむり忍び装束のような出立ちだ。

 コスプレに違いない、それもかなり凝った感じの。

 煤けた小さい顔はツンと尖った鼻、今風の眉、流行りの口元。

 きっと都会のギャルが忍者コスプレの撮影をしているうちに仲間とはぐれ、雷に撃たれたのだろう。

 ……

 ない、ない。コスプレーヤーがこんな異臭を放つはずがない。本物のコスプレーヤーを見たことはないけれど。

 忠太は自問自答自ボケ自ツッコミしながら首を振る。

 ではこの眼下の女子は何者なのだろうか。


 一番忠太を困惑させているのが、彼女がぎゅっと握りしめている小太刀だ。

 かなりの、いや相当な業物で剥き出しの刃がドス黒く汚れている、

 今時の女子がこんな格好をして、こんな本格的な小太刀を振り回して森の中で遊ぶか?

 これ完全に銃刀法違反じゃん、刃は削ってあるとしてもーー

 忠太がそっと小太刀の刃に触れる。

 はぁーー?

 刃先は欠けが微塵もなく、指先なぞ簡単に切り落とせるほどに研ぎ澄まされている。

 ダメじゃん、削ってねぇじゃん!

 アウトじゃん!

 ……ってことは、この刃に付着しているこの汚れって…

 忠太は彼女から五十センチほど離れる。

 まさか、ガチの猪狩り? 

 それも、コスプレしながら?

 はぁ???

 考えれば考えるほど謎が深まっていく忠太なのである。


「何ぞ、鮒寿司の如く臭い女子を忠太が犯して連れ帰ったと。これ忠太、それはh――」

 志徳寺の住職、山中蕭衍は忠太の連れ帰った女子を一目見て絶句する。

「ば、バカを言え! 俺は、犯してなんてねぇぞ、森ん中で匂いがしたから見つけたんだよ、そしたらあちこち焦げてて臭くて脈が弱くてよぉ、これ病院連れてかなかやべえんじゃねって思ってよぉ」

 途中噛みながらも、なんとか状況を伝える忠太。

「和尚、早く救急車呼ばねえと」

 蕭衍は目を鋭く細め、横たわる女子に近づき首筋に触れ、

「ふむ、弱々しいが大丈夫じゃ、おい忠太、わしの携帯を持ってこい」

「分かった、えっと何処にあんだ?」

「わしの寝室の机の上じゃ」

 忠太は返事もせずに駆け出した。


「それにしても、くっさい女子やの」

 忠太と同い年の小僧、行円が眉を顰める。

「忠太、お前の部屋に運び込むんや、ええな」

 年長の小僧である珍龍が有無を言わさず申しつける。

 志徳寺には忠太が寄宿し始めた三年前には四名の小僧がいたが、一人は去年実家の寺を継ぐことになり帰郷したので、現在照天、行円、そして今年十八となる珍龍の三名しかいない。

 志徳寺の宿坊には寝所が四つ、蕭衍和尚、珍龍が個室、照天と行円が相部屋だ。

 一応忠太は実態はともかく客人として預けられているので、個室が与えられている。従ってこの非常事態において珍龍の判断は至極真っ当である。

 が。

 常人よりも嗅覚の鋭い忠太にとっては、まるで拷問の如しである、三人が断固拒否するので、仕方なく彼女をお姫様抱っこしながら自室に運び入れ、客人用の布団にそっと下ろすや否や、  部屋はあっという間に獣臭と腐敗臭に満たされる。

 珍龍の指示でお湯のはられた盤と手拭いを持ってきた照天は、

「くっさー、あとは一人でやってや、忠太はん」

 と無情にも立ち去る始末だ。


 なんで俺が、こんな目に……

 大きな溜め息を吐きつつ、手拭いを盤の湯で湿らせ、まずは顔を拭いてやる。

 あれ……

 この子、何処かで…

 気を失う前の意識が忽然と忠太の脳裏に戻ってくる。

 この眉、この鼻、この唇… 俺はこの子を以前何処かで?

 顔の煤を手拭いで拭い去ると、そこにはさながらアイドルの様な綺麗な顔立ちが現れた。

 異臭を忘れ(慣れ)、呆然とその顔を覗き込む。

 なんて美しい顔立ちなのだろう

 そして、

 なんて懐かしい顔だろう

 俺はこの子を何処かで、絶対、間違いなく……


 忠太の部屋の戸が騒々しく開かれ、

「おお忠太、お前の拾ってきた子ってどないや」

志徳寺のかかりつけ医である、島村天然の巨体が遠慮なしに忠太の部屋に入ってくる。

 島村は横たわる少女を一目見て、

「和尚、これは、アレ、やな」

 と野太い低い声で囁く。

「そやろ。アレ、に違いあらへん」

 やはり野太い和尚の声が同意する。

 忠太は首を傾げ、

「おい藪、アレって何だよ?」

 島村は忠太の頭をパシッと叩きながら、

「アレは、アレや。おいどけ、ちょいと診てみるさかいな」

 忠太は頭を押さえながら渋々場を島村医師に譲る。

「おい和尚、アレって何だよ?」

「まあ慌てるでない、まずはこの子の診断が先や」

 それにしても、臭い。

 忠太は立ち上がり、締め切っている部屋の障子戸を開け、ガラス戸を開き外気を部屋に満たしたものである。


「火傷も大したことあらへん、所々擦過傷があるけどどれもかすり傷程度や。地面に叩きつけられたショックで気ぃ失ってるけど、そのうち目ぇ覚ますやろう。念の為レントゲンとC Tは撮っていた方がええね」

 それは意識が戻ってからおいおい、と言うこととなり島村医師は立ち上がる。

「おい忠太。こんな上玉滅多におらんで。ま、精々頑張りや、どうせお前のようなヘタレではあかんやろうけどな」

 と忠太の頭を叩きながら帰って行った。

 意味が分からず困惑しながら部屋に戻る。そして横たわる少女を眺める蕭衍に、

「で。アレって何? いい加減教えてくれよ」

 蕭衍は目を瞑りフーと大きく息を吐き出す。そして未だかつて見たことのない真剣な鋭い目で忠太を睨みつけ、

「これから話すことは、公には出来へん話や。この寺の中だけの話や。他言無用を誓えるか?」

 忠太は蕭衍の真剣な眼差しに思わず唾を飲み込み、

「誓う」

「よし。この辺りはの、昔から…」

 蕭衍が言葉を止め、視線を女の子に移す。

 忠太も視線を移すと、その女の子の目が薄っすらと開かれてーー


     *     *     *     *     *     *


「ここは、何処…」

 やや厚い小さな唇から小鳥の囀りの様な可愛らしい声が漏れてくる。

 二重の大きな目が蕭衍を眺め、そして忠太を見た瞬間。

「忠太郎どの! よくぞご無事で!」

 叫び声と共に布団から身を起こす。驚愕の表情はやがて苦痛の表情となり、

「横になるんや。まだ寝とかなあかん」

 と蕭衍は優しく言う。


 忠太は呆然とし、女の子を凝視する。

 俺のことを、知っている? 忠太郎、と言ったのか?

 誰だ? 何なのだ?

「お主、名前は?」

 蕭衍がそっと呟く。

 その女子はキッと蕭衍を睨め付け、

「これ坊主、わらわを知らぬのか」

 見た目は忍び、それも下忍の様相だが話し言葉は意外にも高貴なイントネーションだ。

 蕭衍は座り直し姿勢を正し、

「これは失礼仕った。それがしこの志徳寺の和尚、杉山蕭衍と申す。」

 忠太はポカンと口を開けてしまう。

 何故、突然和尚は昔の言葉遣いを?


 女子は布団に横たわりながら軽く頷き、

「油日の志徳寺、か。世話になr― それよりも忠どの、そなた一体なぜその様な…」

 女子は再び忠太に視線を向け、体を軋ませながら半身を起こす。

「その様な南蛮の服を召しておられる? いやそんなことはどうでもよい、忠どの、わらわは何故今ここに?」

 忠太はポッカーンと口を開き、

「てか、お前、誰?」

 女子は大きな目を見開き、

「で、戦は? 勝家が首、忠どのがしかと討ち取られたと?」

 忠太は数秒ほど固まってから不意に納得顔で、

「ああ、あれか、やっぱお前、戦国サバゲーのプレィヤーかぁ。なーる。それにしてもくせーなぁ、まさか何日もやってんのか?」

 女子は急に不安顔となり、

「まさか忠どの、仕留め損なったのか? それ故先程から訳のわからぬまやかしを言うておるのか?」

「何でもいいけどよぉ、こうやって他人に迷惑かけんなよな。そうやって成り切って遊ぶのもいいけどよぉ、せめて携帯か財布ぐらいは身に付けてろよ」

「それにしても身体中が痛うて堪らぬ、一体わらわはいかほど伏しておったのか… あ、忠どのは息災な様子、流石甲賀一の上忍じゃ」

 …… ……

 不意に会話が途切れる、それはそうだ、全く会話が成り立っていないのだから。

 そんな空気をかき消すが如く、蕭衍はニッコリと微笑みながら口を開く。

「して姫君、失礼ながらどちらの家中の?」

 女子は蕭衍に向き直り、

「そなた蕭衍と申したの、志徳寺が瑞苑和尚は所用でおらぬのか? まあよい、わらわは山中為俊が娘、長俊が妹、紅葉じゃ。」


 もみじ…

 忠太は木刀で頭を殴られたような衝撃を受ける。

 俺は知っている、この子を知っている

 だが、どうして?

 知っている筈なのに、それも心から会いたかった筈なのに、

 俺はこの子を全く知らない…

 切なさと懐かしさが心に溢れ出てくる。ずっと求めていた想いが堰を切った流れのごとく忠太の胸に渦巻いている。

 だのに何故……

 お前、誰なんだよ!

 忠太は紅葉を凝視しながら頭を抱えてしまう。


「姫様、この蕭衍、姫様に告げねばならぬことがございまする」

 蕭衍が畏まりながら紅葉に向かいあう。

「何事じゃ」

 紅葉は困惑顔で蕭衍に向き直る。

「実は姫様におかれましては、遠く長き旅を終え、今ここに居られるので御座いまする」

「遠き、長き旅、じゃと?」

「さように。姫様は、時空の旅を終えたところで御座いまする」


 な ん だ と ……


 忠太はかつて経験のない衝撃を受け、思わずのけぞり両手を後ろ手についた。

「わ、和尚、今何と… 時空の旅? 何だよそれ、意味分かんねえよ」

 蕭衍は忠太に向き直り、困り顔で

「忠太よ。この姫君はのぉ、時空を越えて今ここにおるのじゃよ」

 阿呆の様に口を開けたまま忠太は、

「いや、それって、まさか、この子は、タイムリーブ(タイムリープ)してきた、ってことなのかよ? はぁ? バカじゃね、そんんなのの、有り得ねえって、あははは、あ、あれか、お前らみんなでグルになって、俺を嵌めようってか、ははは、エープリルフラウ(フール)ってやつか、それとも、あれか、テレビでやってるやつ、モニタニング(リング)ってやつか、はははは、だ、騙されるかっつーの、バカじゃね、あはははは」

 乾いた笑い声が忠太の部屋に響く。


「蕭衍どの。その時空の旅、とやらは何のことか分かりかねるのじゃが」

 眉をハの字型にして戸惑う紅葉に

「紅葉姫、お生まれは? おいくつになられますかの?」

 眉の型が逆さになり、

「おなごに歳の話を聞くか、腐れ坊主め」

 忠太の目は飛び出し、蕭衍はポリポリと頭をかく。紅葉はふんと鼻を鳴らし、

「光治二年は卯月の十四日じゃ。今そなた、行き遅れのオババと思うたな、この腐れ外道が」

 何という口の悪さ。まず忠太はそのことに衝撃を喰らう。そして次に、聞きなれない年号に脳の処理能力はついていけず、ただただ呆然としてしまう。

「光治二年、と申しますと。えーと、ううーむ。おい忠太、珍龍を呼んでまいれ」


 突如、障子戸がガバッと開き、珍龍がころげ入ってくる。照天、行円らと共にずっと盗み聞きをしていたのは明白である。

 紅葉は何事かと身構える。

「和尚、光治二年と申しますと、西暦ではえーーと、えーーーと… 十六世紀の半ばかと…」

「てことは、1650年くらいや、江戸時代始まった頃やねきっと」

 全然違う。知ったかぶる行円の学業は忠太の遥か下を行く。


 頭を振りながら、忠太は胸ポケットから携帯電話を取り出し、秀才眼鏡ちゃんこと長野琴美に電話をかける。

「長野、ああ、オレオレ。あのさ、聞きてえことあんだけど今いいか?」

 その様子を身構えていた紅葉が呆然と眺めている。

「あのさ、昔の年号でさ、コウジ二年って、西暦だとどんな感じになんの? え? 千五百、五十六年? へーー。分かった、あんがとな。へ? 伊賀中から百地を引き抜け? その話はまた今度な、じゃあな」

「忠どの… そなた一体何を…」

 信じられぬ表情で恐る恐る尋ねる紅葉に、

「あのな。まず言っておくけど」

 紅葉の不安不信が顔にありありと出ている。

「俺、忠太郎、じゃなくて、忠太。伴忠太。」

 この時の紅葉の表情は。

 この人トリカブトの毒が脳に溜まっているのじゃないかしら?

 と心底心配し同情するものであった。


 それから蕭衍と珍龍の説明により。

 紅葉は己が元亀元年から令和四年に、時空を越えて来たことをなんとなく理解した。

「要は、わらわは神隠しにおうた、そう言うことじゃな和尚」

「その通りに御座いまする。」

「神隠しにより、その令和とやらの未来の世界に居る。そう言うことじゃな珍龍」

「仰る通りに御座います」

 なんと……

 紅葉は大きな溜め息をつくとともに、天井を見上げる。

「やけに眩しいと思うたが。これはロウソクの灯りではないな。それにそなたらの装束。そして何より…」

 忠太に向き直った紅葉はこれ以上ないほどの哀しげな表情で、

「そなた… 忠どのにあらず… ああ、忠どの、忠どのぉーーーー」

 それから半刻(一時間)ほど、おいおいと布団を涙で濡らす紅葉であった。


 その間。

 令和人達の間で戦略会議が開かれたのは言うまでもなく。

「よいな、誰にも口外するでないぞ」

「「「分かってる」」」

 フツーにタメ口をきかれている和尚は更に、

「山中、紅葉ちゃんか。これ以後、こと更に遜ることはない。普通の女子として接しよ」

「「「分かった」」」

 不意に珍龍が、

「和尚、このことは警察とか役所に?」

「その辺のことはわしがやるさかい、気にせんでよい」

 行円が不満気に

「紅葉ちゃん、このまま忠太の部屋に置いとくのか? それともどっかの施設に預けるのか?」

「うぅーむ。これまでのケースでは、施設に預けるのが多かったかのぉ」

 照天は行天し、

「なんやて、今までもこないな異世界系の話、何度もあったんすか?」

 何故か珍龍、行円、忠太が照天の頭をパシパシパシと叩く。

「この寺の門前の林の辺りはの、昔から神隠しで有名なんや」

 四人は唖然とし

「聞いてないわ!」

「怖えよ、俺この寺出ようかな」

「うっひゃー、リアル異世界ワールド、スッゲー」

 忠太は一人、口を真一文字に閉じている。やがてポツリと、

「忠太郎って人、どんな人だったのかなぁ…」

 他の三人は口を閉じ、辺りは紅葉の啜り泣く声のみが響いている。


     *     *     *     *     *     *


「と、と、と……」

 忠太の吃りに紅葉がキョトンと首を傾げる。

「とにかく。今夜は遅いから、ここに、泊まれ」

 紅葉は無表情で頷く。さっきから悄然とした様子だ、まあ無理もない。

「でだ。まずは、あの、その、ふ、ふ、」

 忠太は一度言葉を止め、深呼吸をした後に、

「風呂に入れ」

 意識も定かでないまま紅葉は軽く頷く。

「こ、こ、こっちだ風呂場。た、た、立てるか?」

 よっこらせと立ち上がった紅葉だが、軽くよろける。慌てて支えた忠太の鼻に変わらない異臭が入り込んでくる。

「い、い、いいか、身体をよく洗うんだぞ、よぉーく洗ってから風呂桶に浸かるんだ、分かったか?」

 軽く頷く。その仕草にドキッとする。

「よ、よ、よしこっちだ、俺が支えてやるからな、そっと歩け、そうだ、こっちだ…」


 寺の宿坊が故、やや広い造りになっている脱衣所に入ると、紅葉は少し物珍し気に辺りを見回している。

「ここで服を脱げ、そして扉の向こうが浴室だ。着替えは持って来てやる。じゃあ後でな」

 と逃げるように脱衣所から駆け出す。

 皆を探すと厨房で夕食の準備をしていた。

「あのえげつない匂い、落ちるかのぉ」

「顔が可愛くっても、あれじゃぁ引くわな」

「それより、忠太、あの子の着替えどうするつもりや?」

 えーーー、それも俺かよ?

 あからさまに嫌そうな顔をするも、

「お前のジャージ、貸してやれや」

「わーった。それより。下着、どーするよ?」

 三人は考え込む。

 蕭衍がひらめき顔で、

「女子が下着をつけるのは明治時代からや、ほかしてもええやろ」

 四人の青少年は目を見開きゴクリと唾を飲み込みながらカクカクと頷いた。


 その時。

 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた忠太は、

「ったく何の用なんだよ…」

 照天がときめき顔で、

「あのさ、戦国女子って、シャワーとか使えんのかな?」

 一瞬の沈黙の後。

「仕方ないな。俺が教えちゃるわ」

「いやいや、俺は滋賀県一のシャワー使いやけん、」

「俺は近畿一のハンドソープテクやから、」

 三人を無視してサッと風呂場に向かう忠太なのである。

 途中、自室に寄り中一の頃まで使っていたくたびれたジャージ上下を引っ張り出し、脱衣所に入る。

「俺や、どうした?」

「おい忠太。これの使い方、分からん」

 案の定、であった。

 風呂に入る前に使用方法をレクチャーするという段取りの良さは、中学三年生の男子では持ち得ないのは仕方ない。

「右の蛇口、向こう側にひねれ」

 ……

「蛇口、とは?」

「蛇口って、えーと、その、ホースの根元の金属製のやつだよ」

 ……

「ほおす? きんぞく?」

 おいおいおい… 言葉が、通じねえぞ… この状況で…

 これが男子だったのなら、扉を開けてこうやるんだっつーの、と教えてやるのだが。

 これはマズイ、どうする? 今から長野琴美を呼び出すか? それとも(和田)真央を呼び出すか?

 フル回転で思索していたその時。

 ガラガラガラ

「おい忠太。全く要領を得ぬ。こっちに来いや」

 湯気の中、全裸の紅葉が仁王立ちしていたのであった。

 持っていたジャージを落とし、茫然自失となる忠太であった。


「このしゃわあとやら、なんと便利なものや、まっことおどろいたわ」

 制服のズボンを捲し上げ、長袖ワイシャツの袖を捲って、何故か紅葉の背中を必死で洗っている忠太は、

「なあ、お前の時代って、男と女、こうやって一緒に風呂入るのか?」

「馬鹿かお主。入る訳なかろう。お主は下僕やからウチの背流しとんよ」

 下僕……

「ああ、よく考えれば、忠太郎どのとそなた、顔立ちは似てはおるが尊さがちゃう。何を血迷うてお主を忠どのをまちごうたのか。剣呑剣呑」

 邂逅して初めて。殺意が湧き出る。

 それを察するかの如く、紅葉はボディーソープのボトルを掴み、

「なんや、すごい殺気じゃのぉ。相手するか雑魚が!」

 よく見ると、ザラザラの背中には無数の傷、それも刀疵らしき跡が目に入る。不意に興味が湧き、

「なあ、お前って、いわゆるくの一ってやつなの?」

「なんじゃクノイチとは?」

「女の忍者のことだろ?」

「忍者とは?」

「んーーー、えっと、忍び?」

 紅葉は背中を揺らしながら大笑いし、

「おなごの忍びなぞいるわけあるかい。この阿呆が」

 徐々にこの毒舌に慣れてきた忠太は、

「え、そうなの? でもお前、あれは忍びの装束だったろ、それにあの小太刀…」

 紅葉はドヤ顔で

「うちは特別や。兄様と忠どのに術を仕込まれたのよ、どうじゃ後で試してみるか?」

 それは……

 滅茶苦茶興味深い! 戦国時代の現役忍者との打ち手、組み手、乱取り…

 知らず背中を流す手に力が入ってしまう

「痛った! こら忠助! 手加減せいや、この役立たずが!」

 忠助って……


「いやあ、良き風呂であったぞ和尚。これほど南蛮渡来の品々が備わっているとは。ひょっとしてそなたら、耶蘇教に宗旨替えをするつもりなのか?」

 先程の悄然とした様子はどこへやら。やはりいつの時代も女子はスッキリさっぱりすると機嫌が戻るのだろうか。

 忠太のお古のジャージを着た紅葉が満足そうに食堂に入って来てそうのたまうと。

 珍龍、行円、照天の三人は顎が落ちる程に口を開け、紅葉をガン見する。

「め、め、め、」

「っちゃくちゃ、」

「カワイイやん…」

 実は忠太もドライヤーで髪を乾かしながら、紅葉の素顔に驚いていたのだった。

 新型の種子島(銃)か、と最初はドライヤーにビビりまくっていた紅葉に笑いを堪えていたのだったが、徐々に髪が乾き髪型が整ってくると、真っ黒な腰までの髪にビックリするほど小さな顔、ドッキリするほど大きな目。

 呆れる程長いまつ毛、整形かと思われるほどの整った鼻筋。思わずしゃぶりつきたくなる少し厚い唇。

 鏡に映る紅葉に我を忘れた忠太であった。お陰で髪の毛が少しチリチリになった。

「いやぁ、こんな可愛い子とは思わなかったわ…」

「正に流行り顔やね、すぐにでもアイドルになれるで」

 すると紅葉はキッとなり、

「汝等、揶揄うのもええ加減にせんか。己が不細工で大柄のだいだらぼっちなのは百も承知じゃ。世辞はええ、不細工なら不細工と言わぬか!」

 三人はポカンとした後激しく首を振り、

「だいだらぼっち? いやいやいや、」

「ホンマに小柄で可愛いで、ホンマや!」

「めちゃ流行り顔やし背もフツーやフツー、モテモテやで!」

 余りの真剣な訴えに、紅葉は困惑しつつ、

「そか。時代、かのぉ」

 と、まあどうでも良いと肩をすくめる。

 突如、咳払いしながら珍龍が、

「おい忠太。お前さっきこの子を部屋に泊めるの嫌や言うてたな、しゃあないな、俺のへy―」

 照天と行円が珍龍の脇腹を手刀で突き刺し、珍龍は悶絶する。

 小僧達もそれなりの古武道士なのである。


 紅葉は絶句している。

 元々好奇心が強いのが性分であり、それが故にこのような宿命を背負ってしまったのだ。

 しかしながら。四百五十年近くの歴史の進歩が成す様に、紅葉は圧倒されている。

 真っ白なコメ。京の貴族じゃあるまいに、何故にこのような小さな寺で召されるのか。

 形容不能な豆腐の煮物。どうやら遠く明(中国)の食べ物らしいが、これまで見たことも聞いたこともない、まあぼう豆腐なるもの。

 湯気のたった、黄色き、もろこし汁。ドロリとした汁にもろこしの粒がふんだんに入っている。

 それよりなにより。

 色とりどりのビードロ(ガラス)らしき瓶に詰められし香料類、そして瓶に描かれし絵や文字の美しさ。

 食欲を忘れ、紅葉はひたすらに醤油瓶、胡椒瓶、七味唐辛子、味付け海苔などを手に取り眺め、感嘆の溜め息を漏らし続けるのである。


「そなたら、毎日このような馳走を喰っておるのか?」

 信じられぬ表情で紅葉が呟く。

「いやいや、今夜は忠太がサボったからさ、俺らがチャチャっとテキトーに作ったんや」

 サボってねーよ、忠太が行円を睨みつける。

「明日からは忠太はんのご馳走が食べられますで、マジで美味いっすよぉ」

 オメーもそろそろ手伝えや、照天を睨みつける。

「そうか。忠助は下男じゃから、飯の支度もお手のものか、なるなる」

 ちゅうすけ… 下男…

 丁度コーンポタージュを飲み込んでいた珍龍が激しく咳き込む。

「それにしてもじゃ… なんなのじゃ、この明るさは? ロウソクでもなく、油でもなく… なしてこないに眩いばかりに明るいのじゃ?」

 紅葉が心底不思議そうに蛍光灯を指差す。

「ああ、これは電気の力で発光しとるのよ。」

「でんき?」

「そ。目に見えないビリビリする力で光らせておるんさ」

「どのように?」

「え? その電気って力がさ、こう右から左に…」

「そのでんきなる力がどのように作用し光らせておるかと聞いておる」

「そ、それはさあ、あの、その…」

「そもそも。でんき、とはなんじゃ?」

「ええと、あの、その、」

 中学二年の理科やり直せやボケ、行円を見下す。


「おおお、冬のあのピリピリするのが、電気、か。分かるぞ分かるぞ、あれは辛い、このわらわもつい驚き飛び上がってしまうで」

「その電気をさ、発電所ってとこでいっぱい作って、それを電線ってやつで家々に送るんだわ。それがこれ、な。」

「それでは、先ほどの種子島ドライヤーも電気にて動くのか?」

「そうだよ。あと、あのテレビもな」

 忠太は立ち上がりテレビのリモコンを手にし、スイッチを押す。

 画面が立ち上がり、くだらないお笑い番組が映し出されるや否や、

「おおおおおおおおおおおおおおおお―――――――!」

 紅葉の絶叫が志徳寺に鳴り響いた。

「板の、中に、人がおる! 小人がおる! 蠢いておる、お主ら、仏に仕える身でありながら、見世物小屋なぞ営んでおるのか、こら蕭衍、貴様許さぬぞ!」

 蕭衍に飛び掛かる紅葉を全力で取り押さえながら、今度は電波について説明する。

「成る程成る程。狼煙のようなものじゃな、遠くへ命令を伝える要領じゃな。それにしても電気に電波とやら。この世界の恐るべき進み方……」

 紅葉は呆然とした表情で、

「どれほど遠くへきてしまったのか……」

 ポツリと呟き、黙り込んでしまった。


     *     *     *     *     *     *


 食後のお茶を啜りつつ、令和人たちは紅葉の話を聞いていた。

 どうやら生まれ育ったのは、この近辺ではなく焼物で有名な信楽町の方らしいこと。

 父や兄は、特に兄の山中長俊は調べたところ有名な武将であり文官であったこと。

「すげえな、秀吉のお気に入りだったのかよ…」

「秀吉? 誰じゃ?」

「豊臣秀吉だよ、チョー有名やんか」

「知らぬ」

「うーむ、えーと、アレや、木下藤吉郎!」

「ああ、猿か。あの薄汚い」

 やっぱそーなの! 皆大興奮だ。

 紅葉が参戦した戦は、どうやら元亀元年、1570年の野洲河原の戦、という合戦であったらしい。蕭衍も聞いたことがないらしく、珍龍のスマホ検索が何よりの情報源である。

「勝家め、後一歩で…」

 小太刀を握りしめブルブル震え出す紅葉に戦慄する令和人たち。

「ねえ、紅葉ちゃんホントにその合戦に参加したの?」

 ちゃん? やや戸惑いながら紅葉は頷き、

「兄者より賜いしこの小太刀を持ち、忠太郎どのと共に敵陣深くに切れ込んでくれたわ…」

 急に黙り込む。


「珍龍どの、そのすまほで忠太郎どののその後を調べることはできようか?」

「出来るで。名前は、なんやったっけ?」

「伴忠太郎信定」

 目を顰めながらスマホをタップし、

「ああ、あったで。伴忠太郎信定。天文二十四年生まれ、元和二年死去、か。西暦やと1616年やて。六十一歳で亡くなっとるよ」

 紅葉は一瞬嬉しそうな、そして儚げな、寂しそうな目で頷く。やがて一筋の涙が頬を伝う。

「忠さん。長生きしたんやね。ウチの分までたっぷり長生きしたんやね。でも…」

 この地で果てるまで、自分のことを想い続けたに違いない忠太郎の辛さが身に染みてくる。

 ウチもこれから、ずっといつまでも…

 紅葉は鼻を啜り、涙をジャージの裾で拭う。

 珍龍はゴホンと咳払いをし、

「武田勝頼、北条氏政、明智光秀らに仕え数々の影の武功を立てまくったようや。家康からの再三の遣いに首を縦に振らず、関ヶ原の戦い以降は甲賀に戻りひっそりと暮らしたそうや」

 勝頼、氏政、光秀って… 皆信長、秀吉、家康に滅ぼされた面々じゃねえかよ。どんだけ逆目引きなんだよ。

 忠太は自分の名によく似た武将に想いを馳せる。

 ふと視線を感じ。

 紅葉が遠くを見る表情で忠太を眺めていた。

「そんなに俺と忠太郎さんって、似てたのか?」

 口を開きかけ、また閉じて。ゆっくりと首を振る。

 うちがお嫁に行こうとしてたんは、忠太郎どのや。いくらその瞳が似ていようが、その高貴な顔立ちが似ていようが、その懐かしい声がそっくりであっても、あんたは忠太郎どのではおまへん。

 ああ忠さん、二度と会えんかのぉ

 二度と抱きしめてもらえんかのぉ

 遠くでフクロウの鳴き声がする。志徳寺の時はしばし止まり、各々が思考は時空を行き来しているのだった。


 一番年下の照天が大きなあくびをし、そろそろお開きにしようかという時。

 日本刀に詳しい蕭衍が紅葉の小太刀を繁々と眺め、

「これは相当な業物やで。さぞや鋭い切れ味やったのでないか?」

 すっかり砕けた話し方で紅葉に問いかける。

 紅葉はフッと苦笑いしながら、

「これか。とんでもないボンクラ刀やで。敵の兜や鎧は切れるんやけどな、首どころか人の肌もよう切れんアホ刀や」

 紅葉も武家言葉をやめ下々の話し方で訥々と話す。

 その小太刀を受け取り、蕭衍はじっくりと品定めだ。

 長さは二十五センチほどか。平造で直刀、栗田口派の特徴だ。刃紋は横筋から切先にかけて小さな円を描き、よく目を凝らすと『吉光』との銘が読みとr――

 蕭衍はゴクリと唾を飲み込み、震え出す。額から汗が吹き出し、瞬く間に全身からも汗が滲み出す。

「紅葉ちゃん、この小太刀は誰から?」

「兄者からや」

「兄者… 長俊どのは、誰から?」

「んーー、うつけ三郎や言うてたなぁ」

 うつけ? 三郎?

 …… ……

 それは、まさか、あの……

 ッカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 蕭衍は絶叫しながら立ち上がり、小太刀を頭上に捧げた。

 その手は震え、やがて紅葉に恭しく手渡した。

 間違いない

 これは、あの、幻の、歴史の狭間に消え去った、

『薬研藤四郎』や!

 その夜、突如発熱した蕭衍は、翌日も寝たきりのままであった。


     *     *     *     *     *     *


 若い女子の匂いで目が覚めた。

 へ? 何故俺の部屋で女子の匂いが?

 しばらく天井を眺めながら、ハッとして左を見ると古ぼけた屏風がある。そしてその向こうから静かな寝息が聞こえてくる。

 紅葉。

 戦国時代からタイムリーブ(プ)してきた美少女。

 己と似た名の若武者と将来を約していた美少女。

 そして、

 何故だかとてもとても懐かしくて懐かしくて、涙が浮かぶほど懐かしい美少女。

 どうやら青木先輩への淡い憧憬の念は一夜で吹き飛んだらしい。

 音を立てずにそっと身を起こし、屏風の向こう側を伺うと、

「目が覚めたんか、忠助。喉が乾いた、水を持て」

 ううーむ。青木先輩とこの女。一体どっちが……

 己のM属性に未だ覚醒していない忠太は、よいしょと立ち上がって水を汲みに行く。


「和尚のやつ、ウンウン唸ってはるわ。なんかうなされとるで」

「アレや、こないだ一人で水口にこっそり焼肉食い行ったバチや」

「ったく生臭坊主が。さて、いただきますしよか」

 忠太がこさえた朝食を五人でつつき出す。

 今朝も紅葉は、忠太自慢のシラス入り卵焼きに目を丸くし、

「忠助、お主なかなかやるのぉ、どうじゃ本気で我が家に仕えてみぬか?」

 と就活を持ちかけるも、

「お前そろそろいい加減にしろよ、いつまでもいいとこのお姫様扱いしねえからな」

「背中流すのも達者やし。髪の毛k―」

「「「なんだとぉー」」」

 六本の箸が割と真剣に忠太の目に向けて飛んでくるのを軽く否しつつ、

「それよりこいつ、この後どうなるんだろ」

 忠太への攻撃が停止する。

「どっかの施設に入れられるのかね?」

「それって、どんな施設なんよ?」

「アレじゃね、異世界専門の施設とか? うわ、行ってみたいわぁ」

 照天が夢見がちに呟く。

「でも確かにな、この子このままにしたら世の中パニックになるんとちゃうか? 戦国時代からのタイムリープくノ一美少女、歴史研究所と芸能事務所から人が殺到してくるで」

 珍龍が小さな溜め息混じりに言うと、

「あと政府関係者や。内閣調査室からも調べが入るで」

 と行円が知ったかぶる。

 珍龍が鼻で笑った後。

「ま、明日以降、和尚がなんとかするやろ。さ、俺らは学校に行こか。ああそれと忠太、」

「ん?」

「お前は学校休んで紅葉ちゃんの相手せなあかんで」

「なんで俺が?」

「背中流した三下なんやから当然やろ」

 この人の意見は一々的を得ているからやりずれえ、それにまあ今日は新一年生の入学式だけだから、まいっか。忠太は素直に頷く。


 珍龍、行円、照天が学校へ行った後。取り残された忠太は寺の清掃を始める。

 紅葉は一人縁側でボーッと外を眺めている。

 あらかたの清掃を済ませ、コーヒーを淹れて忠太も縁側に腰掛ける。

「コーヒー、飲むか?」

「こおひい?」

 用意したカップを紅葉に渡す。そのカップを繁々と眺めてから、そっと口に含む。

 や否や、忠太の顔目掛けて吹き出す。

「こら忠助! うちに泥水飲ますとはええ度胸じゃのぉ」

 泥水… あ。あの時代、コーヒーなんてなかったかも。

「しばき倒したろか三下がぁ」

 ギラリと目を光らせる紅葉。

 忠太は初め笑っていたが、ふと己の中の古武士道士の魂が震え出す。

 あんな業物を使いこなす程のリアル武者。生の戦国時代を生き抜いてきた本物の武芸者。試してみたい己の実力を。

 忠太は紅葉に向き直り、

「やるか?」

 紅葉の闘争本能も一気に爆発する

「刀を持てぃ」

「面白えっ」

 忠太は立ち上がり、部屋から木刀を持ってくるのだった。


 何なのだ、この速さ、鋭さ!

 未だかつて経験のない鋭い打ち込みに翻弄される忠太。青木先輩など比にならないスピードとアジリティ。

 数合打ち合っただけで圧倒的な実力差に戦慄する。そして頭上からの二段打ちを何とかかわした直後、腹部に鈍い痛みを感じ、やがて頭上に光を感じたと思いきや、徐々に意識が遠のいていった……

「…い、ちゅうすけ、おい、目を覚まさぬか」

 薄っすらと目を開く。目の前に呆れ顔の紅葉があった。

「ったく… 弱いにも程があるぞ。なんじゃお主の剣は。どんな惣(寄り合い)にも、こんなへっぴりはおらんかったぞ」

 握りしめていた川崎時代から愛用していた木刀が、根元からへし折れている…

「こんなことでは、あっという間に斬られてしまうぞ、剣呑剣呑」

 まるで毛虫を眺めるような目で、

「お主、もう元服しておるのじゃろう、戦にはまだ出ておらぬか?」

「い、戦さ?」

「差し当たっての敵はどこじゃ? 織田か? 武田か? まさかの松平か?」

 ああ。そうか、昨夜はコイツの話ばかりで、今の令和の世の中の話は全くしなかったな。

「おい紅葉、今の世間のこと、知りたくないか?」

 木刀を担ぎながら、眉を寄せつつも好奇心には勝てぬ仕草で軽く首を縦に振る。


「何じゃて? 戦さはない、じゃと!」

 食卓をドンと叩きながら思わず立ち上がる。

「天下統一が、為されたんか! まさか、あのうつけが?」

 そこそこ日本史に詳しい忠太がざっくりと織田、豊臣、徳川の世の流れを伝える。

「嘘や! 羽柴の猿が? それに、あの松平の小倅が? 徳川幕府? 嘘や、あり得ん!」

 部屋から持ってきた日本史の資料集を見せながら徳川幕府の太平の世を語る。

「戦さのない世… ホンマに成ったんや… 殺し合いのない世の中…」

 つい先日の落窪での惨状が思い起こされる。千切れて転がっている手足、首のない骸、槍が刺さったままうめく下忍…

「天下泰平の世、と言うわけなのじゃな、この令和の世は。」

 信じられぬという表情で紅葉は天井を見上げる。

 もう戦さの準備はしなくて良い、厳しい修行も不要だ、そして何より。もう他人の命を奪う必要がない。

 信じられぬ、こんな世の中になろうとは。

 身体中の力が抜け、椅子にへたり込む紅葉。心なしか表情から険しさや緊張感が削げ落ちた様子である。

「と言ってもな、それは日本だけの話だから。世界ではまだまだ戦さは続いてるぜ」

「せかい、とは?」

「あーー、ちょっと待てっろ」

 部屋から地図帳を持ってきて食卓に広げる。

「ここが俺らが住んでる日本。そんd―」

「馬鹿な。日の本がこないに小さい訳あるか」

「……いや、これが、日本、だ」

「嘘や。ウチを騙そうとしても無駄や」

「だからーーホントにこれが日本なんだって!」

 紅葉はゴクリと唾を飲み込んだ。異国の存在は知っていた、兄が酒席でよく宣うていたのを覚えておる。

 何でもこの世は球の如し形をしており、その上で我らは過ごしておる、と。しかも一日一回、回転していると。

 海を越えれば南蛮があり、言葉を解さぬ人々が住む、と。そして肌の色や髪の色が異なる人々が大勢いると。

 だが。

 これが日の本じゃと? まるで毛虫ではないか。

 それに、平らではないかこの世は!

 忠太は苦笑しながら地球儀を求めに行円の部屋へ向かう。


「こっ こっ これがこの世、じゃと!」

 地球儀を見せられた紅葉は口をあんぐりと開けて叫ぶ。

「そして、この尺取り虫が如き小さな島が、日の本じゃと?」

「そ。そんでこんな感じで自転して、太陽の周りを公転してるの。解った?」

「ち、ちょっと待てい。このちきゅう、がお日様の周りを廻っている? 何を寝ぼけておる忠助、お日様はほれあの様に東から西へ動いておろうぞ。騙すでない三下め」

 それから三十分ほどかけて、持てる知識と教材を駆使し、何とか紅葉を地動説への洗脳に成功する。

「成る程のう、前々より何故に冬は寒く夏は暑いか、摩訶不思議であったが… 太陽の周りをちきゅうが廻っていたとは…」

 ついでに忠太は頑張って太陰暦と時刻について一時間かけて説明した。

 手元にスマホがあれば、もっとすぐに簡単に説明できたのだが。今日ほどスマホが欲しいと思ったことはない忠太であった。

 それにしても。

 紅葉の理解力には少々驚きであった。

 初めの頃は忠太本人を馬鹿にし疑ってかかっていたので何を説明しても信じようとしなかったが、用意した資料やノートパソコンでの検索結果を信用し始めるや否や、驚愕の理解力を示し始めたのだ。

「成る成る、太陽のみならず星々の動きも自転の為せる技じゃな。七剣星(北斗七星)が夏に見えぬのはこの自転と軸の傾きの仕業と。なるなる」

 抑えきれぬ好奇心がさらなる知識を求め出す。

「一日を二十四等分したものが時刻、か。これは便利で良い、更に六十等分したものが分、更に更に六十等分したのが秒、か。おい忠助、今何時何分じゃ?」

 時計の読み方を教える。ついでにアラビア数字の読み方も教える。

 気がつくと昼食をすっぽかし、午後二時を過ぎている。


     *     *     *     *     *     *


 遅めの昼食を啜りながら、紅葉の興奮は未だ衰えず。

「こんなツルツルしたうどんは初めてじゃ。ほんに令和の世ははるけき事よ。おい忠助、お代わりじゃ」

「お前さあ。こんだけもの教えてもらって、飯食わせてもらって。少しは恩義ってもの感じねえのか?」

「何を言う、それがお主の務めであろう。当然の事をして何を偉そうに。片腹痛いわ」

 えーーー

 何この女。こんなんだったらまだ青木先輩の方が可愛げがあるぜ。

 ブツブツ文句を言いつつ、紅葉にお代わりを差し出す忠太である。

「それにしても流石に寺の小僧じゃの。お主、その歳にして中々の博学じゃ。蕭衍から学んだのか?」

「ああ、さっき教えた事? あれは全部学校で習うんだよ」

 紅葉はキョトンとして

「がっこう?」

「そうだよ。お前に時代にもあったろうよ?」

「ない」

 そう。庶民が通える学校に近しき学問所は、江戸時代にならねば発達しない。安土桃山時代の頃に一般庶民が学べる学問所は存在しなかったのだ。

「だけどお前、漢字読めるじゃん、ひらがなも読めんじゃん、学校で習ったんじゃねえの?」

「これは全て爺婆から習おうた。偶に兄者からも」

「マジか… ちなみに、九九は知ってるか?」

「おう、九九八十一。知っておるぞ。算木や算盤は割と得意じゃぞ」

「算木? 何それ?」

「ふっふっふ。算木を扱えたおなごは里でもウチだけやったのぉ、ほれ、好きな数字を言うてみい」

「じゃあ。お前の生まれた年、1556」

 紅葉は箸箱から箸を取り出し、見たことのない並べ方を示し、

「ほれ。これで千と五百の五十六、じゃ」

 箸を左から横に一本、縦に五本、縦に五本、最後にTの字形、に並べながら自慢顔をする。

 ひょっとして自分よりも賢いかも知れぬ、そう悟った忠太は冷や汗を背中に感じながら食事の片付けを始める。


 志徳寺は山の奥深くにある故、それ程文明のギャップを感じさせないと忠太は思っていたが、自分では何とも思わぬ品々が紅葉の好奇心の吟線に一々触れていく。

「こ、これは何じゃ? 音が鳴り出したぞ」

 電話が鳴る。檀家の一人からの七回忌の相談だった。

 忠太が普通に要件を聞き、和尚に伝えますと電話を切ると、

「何と、喋っておった? ああ、そう言えばお主昨晩も板切れで何かと喋っておった…」

「それは電話。ああ、これは携帯電話。どっちも人と話すための道具。あれだ、糸電話は知ってるだろ?」

「知らぬ」

 因みに糸電話は一七世紀のイギリスで糸ではなくワイヤーで実験されたのが最初らしい。

「そっか… 音声を電波に変換して遠くの相手に伝えるんだよ、昨日の夜説明したろ?」

「おお、狼煙な。そうかそうか、電波でな、話し声を伝えるのだったな、成る成る」

 受話器を耳にしながら目をキラキラさせる紅葉。

「ウチも、そのけいたいでんわが欲しい。おい忠助、何とかせい」

 そう言うと、

「厠じゃ」

 と言って食堂を出て行った。

 何とかせいって、何とかなるかバッキャローと心で叫んでいると、

「ちゅーすけー、大変じゃぁーー」

 との叫び声。おいおい風呂場の二の舞は勘弁だぞ、とビビりながら便所へ駆け出す。


「といれっとぺいぱぁが無くなったぞ、どうすれば良い?」

 うわぁーーー マジか…

 今朝、トイレの使い方を説明した時、尻を拭くのにトレペを使うことを教えてやったのだが、さては照天の奴、クソ拭くのに使い切りやがったな!

「上の棚に、替えがあるんだ、取れるか?」

「ったく令和の世は面倒じゃな、こないなの拭かんでもよいじゃろうに」

「良くねえ。必ず拭け。そして教えた通り流せ」

 今朝、紅葉のトイレ使用後、野太い大便が便器に鎮座していた様を思い出しながら忠太は叫ぶ。

 女子の、それも年頃の女子の生大便を視認したのは全国広しといえど俺くらいだろう、それもこのアイドル級の可愛らしい女子の大便を……

 山上先輩に話したら、悶絶死するに違いない。マジ信じられない価値観だ、首を振りながら流したものだったが。

「うわっ うわっ おおおっ ほっほぉー」

 あーーーー

 やっちまったな。トイレの中の惨状をイメージする。トイレットペーパーを落っことしたに違いない。ったく三歳のガキかよ、溜め息を吐きながら

「もういい。あとはやっとくから、ここ開けろ。開けるぞ。いいな、開けるぞ!」

 ガチャリ。扉を引く。

 そして、見た。

 下半身丸出しのミイラ女を。

 何が楽しいのか、頭から首までトレペでぐるぐる巻きになっている、下半身丸出しの美少女を。

 よし。見なかったことにしよう。

 ガチャリ。扉を押し戻す。


「アレはやるじゃろぅ。誰もが通る道じゃろうが?」

「やらねえよ。三歳のガキがやることだろうが!」

「三歳とは失礼な。お主には寛容さが足らぬようじゃ、その様ではおなごに好かれぬぞ」

「下半身丸出しのミイラ女にモテたくねえよ」

「いや、それにしても恐るべしとれぺじゃ、アレは戦にも十分使えるのぉ、目眩しや火をつけて投げ込むか、いやいやそれともー」

「武器じゃねえからな。大切な生活必需品だからな。大事に使えや。それと必ず流せや」

「分かっておる、といれは用をしたら流す、じゃろ」

 だがこの習慣に慣れるまで、もう数日要することを忠太は知らなかった。実は紅葉は便器を流す水の流れと勢いを恐れているのだった。

「因みにじゃ、流れた後は何処に行くのじゃ?」

「汚水槽ってのに溜めておくんだ。そんで毎月汲みにきてくれるんだ」

「成る程。それを畑の肥やしにする、と。」

「しねえよ」

「それよりな、忠助」

「忠太だっつーの」

「そろそろ、月のものが来るのじゃが。このままで良いのかの?」

 と言いつつ股間を指で示す。

 忠太は即座に理解できず、数十秒後に顔が真っ赤になり、

「あ、あ、あ、あかぁーん」

 そう叫び、頭を抱える。

 どうすれば良い? 知らねえぞ、生理の始末なんて……

 これはもう、この男所帯の限界としか言いようがねえ、コイツは早急に施設とやらに送った方が……

 と思う反面。

 紅葉と離れる? 別々に暮らすだと? やっとやっと巡り会えたと言うのに!

 と叫ぶ何かが己の中に居り。

 どうすれば良い? 何をすれば良い?

 夜にでも正気に戻るであろう和尚と相談するしかない、問題の先送りを選択した忠太である。


 夕刻となり、小僧どもがそれぞれ学校から戻ってくる。

「ただいま紅葉ちゃん、忠太になんか悪さされへんかった?」

「おう行円。無事に戻るとは息災じゃ。忠助にはといれで下を見られたくらいじゃ」

 なん、だと?

 凍り付く行円の後ろから照天が帰宅する。

「紅葉はん、ただいま戻りましたぁー、忠太はんになんかされまへんでしたか?」

「ああ照天、よう戻ったのぉ。忠助に大便を流させたくらいじゃ」

…… ……

凍て付く照天、の後ろから珍龍が顔を覗かせ、

「やあ紅葉ちゃん、お留守番ご苦労様やな。忠太と何してたん?」

「やあ珍龍、そなたも無事で息災じゃ。それにしても忠助の弱いこと、立ち合いで失神させたったわ」

 え……

 立ち合いで忠太といい勝負の珍龍は立ち尽くし、決して彼女を怒らせてはなるまい、そう心に決める。

「さておき… 和尚は正気に戻ったん?」

「ああ、先程よたよたその辺を歩いておったぞ」

「ったくだらしない和尚で申し訳ないね紅葉ちゃん。これからの事はもう少し待ってな、それまではここでのんびりするんやで」

「これからのこと、か。」

 そう呟き紅葉は玄関先で屯す小僧どもを眺めるのであった。


     *     *     *     *     *     *


「おう忠太。熱はもう下がったんか? まさかコロナじゃないじゃろうね?」

 翌朝、三年B組の教室に入ると真央が大声で怒鳴ってくる。

 コイツに生理の相談……

 無理無理無理

 コイツでなくても、俺が女子に生理の時ってどーすんだっけ、なんて死しても聞けねえ

「コロナじゃねえし。熱下がったし。それより真央、新入生集めんの今日? 明日?」

「明日じゃのぉ、今日はミーティングの日じゃけぇの」

「そか。分かった」

「ああ、あと桃先輩が連絡しろ言いよったよ」

「そか。分かった」

 一昨日までだったらちょっとキュンとなっていた忠太。今は、そうだ青木先輩に女の生理について相談したらどうだろうか、と無謀過ぎる考えを持つようになっている。


 甲賀学苑高等部の校舎は中等部の校舎の対面に位置する。山側にある中等部校舎からは俯瞰できない甲賀の里の牧歌的な風景が、高等部校舎の屋上からは堪能することが出来る。

 柔らかな温かい四月の風を感じながら、青木桃は物思いに耽っている。

 いつから自分は伴忠太を男として意識しだしたのだろうか。

 初めて奴を見たのは三年前の夏。なんと整った貴族顔なのだろう、一目見て胸がキュンキュンしたのを思い出す。

 多少、いやかなりのエス属性の彼女はそんな忠太に殊更強く当たり、何度も気絶させたのだ。

 白目を剥いてひっくり返っている姿に心がゾクゾクし、このまま覆い被さりたい衝動を抑えるのにどれほど苦労したことか。

 奴が川崎への帰りしなに

「このドブスが!」

 と叫んだ時、首を締めて息の根を止め、奴の全身を舐め回す己を想像し戦慄した。

 また、会いたい。また、斬り合いたい。

 翌年春、その願いが叶い、彼女は生まれて初めて神仏に感謝する。そしてこの二年間、いやと言うほど奴を叩き潰し、奴の血と汗と涙を啜ってきた。

 この四月から自分は高等部に進級し、奴と交わる機会が無くなった。

 たった数日顔を合わせなかっただけなのに、心は沈み込み身体は悲鳴を上げ続けている。

 奴に、会いたい。

 昼休みに連絡が来たので、部活が終わったら高等部の屋上に来るように申しつける。

 奴に、会える。

 そう思っただけで、身体は震え心は戦慄く。

 思う存分痛めつけたい、失神する程殴りつけたい、そして。

 身動きしない奴の身体を思う存分味わいたい。

 沈みかけた夕陽が甲賀の里を真っ赤に染める。山ガラスの鳴き声が里中に響き渡る。

 冷たい空気が身体中にまとわりついてくる、それに気が付かないほど、桃の心と身体は火照り始めていた。


「お、お、おまえ… 今、なん…て…」

 自分の用件を切り出す前に、忠太が自分にとんでもない質問をぶつけてきた。

「だから、生理の時って、どう処理するんすか?」

 顔が熟れた柿のように真っ赤になった桃は、目に止まらぬ正拳突きを忠太の鳩尾に叩きこむ。

「死ね」

 と吐き捨てて思わず屋上から去って行く。

 まさか、奴が自分にそんな質問をしてくるとは… 全くの想定外の出来事に我を忘れその場から逃げ出したのだ。

 数分後、息を吹き返した忠太はヨロヨロと屋上の出入り口に辿り着く、とそこに桃が突っ立っている。

「一つ、聞いてもええか?」

 身構えながら忠太は

「な、何すか?」

 桃は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出してから、

「なんであんなこと聞く? まさか、ウチの生理に興味…」

 ちょっと想像し、首を振りながら

「全然」

「ほな、何であんな事聞いたん?」

 流石に紅葉のことに触れる訳にはいかず。えーと、そのー、あのー、と焦りだす忠太。

「いやぁー。青木先輩って、生理始まってんのかなーって」

 どうして自分の生理をコイツが気にする? 再度顔を真っ赤にしつつ

「それって… ウチの生理の日が、気になるって?」

「いや… 別に…」

「ウチの、危険日が知りたいって話なん?」

 その言い方が妙に頼りなさげで、思わず忠太の胸の消えたと思われた炭火の炎が息を吹き返す。

 そして改めて暗がりにボヤッと立ち尽くす桃を見上げる。

 目は鋭くキツいがタレント顔負けの面立ち。抜群のスタイル、特に胸から腰にかけて。細く長い足、何度蹴られ踏まれ続けてきたことか。

 あっという間に一昨日までの淡い想いが込み上げてくる。

「あはは、え、何すか、俺にヤらせてくれるって話すか? わっわっ冗談っすよ、あっはっは、まさか俺なんかに、え? あれ? 青木センパイ? おーい、モモー?」

 両手拳を力強く握り締め、全身をブルブル震わせている。あ、これヤバいやつかも、もうすぐブチギレるやつかも、やばっ

 後悔後に立たず。

 それから五分間に渡り、殴る蹴る締めるの暴行を受けた忠太は全治一週間の怪我を負ったものだった。

 そして桃は、ご満悦の満たされた満足げな表情でゆっくりと階段を下って行った。


 ったく何と凶暴な女なのだろう。

 入学前からそうだし、入学後も今に至るまで俺はずっとあの女に痛めつけられ続けている。

 アジリティでは負けていない、だが自分よりも長いあの手、あの足による攻撃に負け続けている。

 首を腕で締められた時。いつものシャンプーのいい匂いがした、そして。あの豊満な胸が背中にグイグイと押し付けられた。

 去年の夏頃までは逃げるのに必死で気づかなかったが、今は違う。首を締められつつも、あの感触を喜んでいる自分がいる。背中に当たる肉の感触を求めている己がいる。

 屋上の踊り場で大の字になりながら、弾けそうな股間に苦笑いする。

 アイツといい、紅葉といい。

 どうして俺は凶暴な女にちょっとときめいてしまうのか。どうして己より強い相手を求めてしまうのか。

 あれ? 俺ってひょっとして、マゾ?

 十五歳になろうとする春。忠太はようやく己の属性に目覚めつつあったのだ。


 長い山道をよたよたと登り、ようやくヨロヨロと寺に戻った時。

 玄関先に客人がいるのを知る。見たことのない背広姿の二人の男。

 その若い方が忠太の方を向き直り、

「ああ、君が伴忠太君かな」

「はあ、そうですが」

「僕は大阪から来た、法務省民事局特別戸籍課の八田言うもんです。こちらは東京からいらした、警察庁の田所さん。よろしくね」

 法務省? 警察?


 忠太は眉を顰めるばかりである。


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