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甲賀学苑古武士道部  作者: 悠鬼由宇
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第一章

 永禄十三年、改め元亀元年(1570年)文月(七月)或る夜


 近江国(滋賀県)甲賀にある油日神社の真っ暗な境内に一組の男女が見つめ合っている。


 油日あぶらひ神社は古来より朝廷の崇敬が厚く、「甲賀の総社」と言われるほど甲賀武士達が篤く信仰している神社だ。聖徳太子の創建とも伝えられており、御神体は鈴鹿山脈の油日岳(標高699メートル)である。


 新月故の漆黒の闇なれど、忍びの訓練を幼な子の頃より受けてきた二人の夜目に支障はない。

 身の丈五尺四寸(約163センチ)、女子とは思えぬ巨漢を誇り豊な黒髪を後ろでおおらかに束ね、鋭い視線で男を見ているのが甲賀二十一家の中でも一、二の勢力を誇る柏木三家筆頭、山中長俊が妹、紅葉。弘治二年生まれの十四歳。

 一方、身の丈五尺六寸(168センチ)、長身かつ強健な身体つきながらに引き締まり整った顔立ちの若武者は同じく柏木三家に名を連ねる伴家の三男坊、伴忠太郎信定。天文二十四年生まれの十五歳。


 じめっとした湿った空気が境内をゆっくりと流れている。忠太郎の額の汗が音もなく境内の砂利道に消えていく。

「忠どの、柴田との決戦にどうしても赴く、と?」

 静まり返った境内でそっと呟かれる言葉は満天の星々にさえ聞こえない。

「ああ。もう決めた」

 鼻から大きく息を吐き出しながら忠太郎が呟く。

「ほならうちも行く」

「あかん。柴田、佐久間は筒(鉄砲)を使う。危ない」

 忠太郎のぶっきらぼうな言葉に紅葉はムッとする。


 二人は物心ついた頃よりずっと共にある。

 近江甲賀衆の名家である両家は交流が深く、幼児の頃より互いの存在を意識して成長していく。

 甲賀衆といえば忍術で広く知れ渡っており、両家もいわゆる上忍の家筋で甲賀衆の間でも一目も二目も置かれた存在である。


 忍者と言えば、黒装束で闇に塗れ、呪文を唱えると爆発が起こり敵が吹き飛ぶ。くの一が投げる手裏剣が敵の首筋に深く突き刺さり、敵の陣営は大いに乱れやがて潰走する……

 そんな忍者像が現代の私達に広く知れ渡っている。

 のだが。

 三重大学を始めとする『忍者学』が近年目覚ましい発展を見せており、その最新の研究によるとこれまでの忍者像がガラガラと音を立てて崩れ落ちているのをご存知だろうか。

 例えば。

 忍者の『黒』装束。これは江戸時代の歌舞伎が元になった話であり、実際に黒装束で闇に佇む姿は存在しなかったようだ。主に濃い茶色、紺色、渋柿色が主流だったらしい。

 従って、油日神社の若き二人も黒装束で密会しているでなく、紺色の頭巾に装束、といった出立なのである。

 例えば、

 くの一。言わずもがな、女忍者のことであるが、これも江戸時代以降の想像であり、実際に女性の忍者が存在していたことを示すものは何も発見されていないという。

 考えてみれば、戦国時代の武士に女性が存在したであろうか。三島水軍を率いたとされる鶴姫や『のぼうの城』で有名な成田氏長の娘の甲斐姫などの稀な例外を除き、ほぼ居なかったのが事実であろう、それと同様に甲賀にも伊賀にも、女性の忍者はほぼ存在しなかったのが現実であった。


 だが、歴史に残ることのない稀な例外が存在するのがこの世の常である。

 この、山中長俊が妹の紅葉は生まれつき大変敏捷であり、また優れた動体視力を有しており飛んでいる蝿を指で掴むなぞお茶の子さいさいである。

 また生まれながらに体が大きく、必然的に力も強く、成長と共に同年代の男子と同じ程の背丈と腕力を有する程となっていく。

 この資質にいち早く気付き面白がって忍びの訓練を授けたのは上忍として有名な兄である長俊で、その結果十五歳にもなる武家の娘が未だ嫁にも行かず、幼馴染と野山を駆け回り泥まみれで獲物を仕留めてくる事実を苦々しく思っているのも兄であった。

 そんな紅葉が幼馴染の決意を深く案じている。


 甲賀武士の名家である柏木三家の一つ、伴家と言えば後に織田信長に仕え本能寺の変で明智勢相手に八面六臂の活躍を見せた伴太郎左衛門尉資家が有名であるが、その従兄弟筋に当たる忠太郎も生まれつき敏捷かつ力持ち自慢であり、家伝の忍びの訓練を難なくこなし十五の元服の歳を迎えた今年、立派な上忍の後継として周囲に認知された。

 そんな忠太郎は幼少期より山中家のお姫様である紅葉と過ごす時間が多く、下手したら己よりも敏捷性を有す彼女に対抗心を持ち、知らぬ間に切磋琢磨する間柄となっていた。

 負けてなるものか

 生来の負けず嫌いな二人は偶に会うたびに技を競い合い、負けた方は次見えた時こそと復讐を誓い己の技の修練に没頭したものだった。

 気がつくと二人は周辺でも飛び抜けた能力を持つ甲賀武士、即ち忍者となっていたのだった。

 と同時に、思春期に入り男女を意識し出したのもこの頃であった。


 紅葉が兄の長俊は、妹を伴忠太郎信定に嫁がせる事に意欲的であり、機会があるたびに妹を嫁に貰わぬかと彼に問うていた。

 紅葉を女性としてよりライバルと見ていた忠太郎はその度に憤慨し首を横に振っていたのだが、十四を過ぎた頃より紅葉の胸の膨らみが気になりだし、白く細い太腿に生唾を飲み込むようになる。

 紅葉も成人男性として成長した忠太郎に遠弓や塀登りなどでパワー不足を痛感させられ、やはり女性としての忍びの限界に首を項垂れる。

 同時に、己よりも力強く大きく逞しさを増した忠太郎に素直に感心し尊敬し、徐々に男として見るようになっていく。

 忠太郎よりも優れた技を持つ若手の忍びは甲賀にも少なく、厳しい鍛錬を幼少期より重ねている下忍筋からの評判もすこぶる良い。それ故、元服後の実戦での大活躍を甲賀中から嘱望されている。

 そして、その機会が間も無く訪れようとしている。


 甲賀に住まう忍びの者達、すなわち甲賀衆は当時戦国大名である六角義賢、義治父子に属している。

 六角家は室町時代半ばより近江地方を統治し、現在の近江八幡市に在った観音寺城を本拠によく近江地方を治めてきた。

 だが応仁の乱以後の乱世の中、周辺諸大名の群雄割拠により徐々に六角家の求心力は低下していき、尾張の小大名だった織田信長の台頭に抗しきれず、また十年ほど前の観音寺騒動と呼ばれるクーデター騒ぎで今やその勢力は風前の灯と化している。

 そんな甲賀衆、または甲賀武士は江戸時代の地誌である『淡海温故録』に次のように記されている。


甲賀武士は累代本領を支配し古風の武士の意地を立て華奢を嫌い質素を好み、(中略)世に甲賀の忍の衆と云ふは鉤陣に神妙の働あり。日本国中の大軍目前に見及し故、其れ以来名高く誉を伝えたり。元来此の忍の法は屋形の秘軍亀六の法を伝授せし由なり。其れ以来、鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し。


 室町時代以降、甲賀地域の小農民が急成長し、名主層を経て武士と相成っていく。その過程で彼らは連合組織として『惣』を形成している。惣とは村落の共同自治組織であり、対外的には強固な防衛力を、対内的には共同生活の調整力を発揮していた。

 簡単に言えば、一人の傑出した頭領が組織を収めるのでなく、集団で意思決定を行なっていた、すなわち甲賀衆とは地方自治体組織そのものであったのだ。

 故にそれまで従っていた六角氏に対しても、普通の戦国大名とその家臣団のような主従関係とは異なり、六角氏という領主に対し協力しても構わない、というなだらかな権威勾配なのである。

 そんな六角氏は織田信長軍の侵攻に耐えかね、甲賀衆に救いを求めてきたという歴史を持つ。

 甲賀衆はその都度六角氏に味方し織田の軍勢を迎え討ってきたのである


 この正月に元服を迎え一人前の武者となった忠太郎にとっては、弱肉強食の戦国の世において己の名を売る最高の機会の到来である。

 だが。

 彼をライバルし、そして今や彼をその身同様に愛す紅葉姫がどうしても自分も付き従うと言って聞かないのだ。

「のぉ紅葉。おなごのそなたが、実の戦さ場で通用するはずもなかろう。それぐらいそなたも承知していよう?」

 普段は口数少ない忠太郎が懸命の説得だ。

「そないなこと、やってみんとわからんて」

「いや。それは困る、そなたの兄者になんと申しひらけば良い?」

「兄者には言わぬで出陣じゃ、ささ忠どの、お覚悟を決められませ」

 このジャジャ馬娘が!

 忠太郎は頭を抱える。


 当時の織田軍と言えば、二ヶ月前に越前の朝倉義景を攻撃中に妹婿の浅井長政の裏切りにあい挟撃の危機に瀕したいわゆる『金ヶ崎の戦い』からの体勢の立て直しを図っていた。

 六角義賢・義治父子はこの機に乗じ、弱体化した織田勢から近江一円の領土奪回を図るべく織田軍に対し挙兵したのが今である。

 甲賀衆もこれに応じ、攻撃の準備を進めてきた。勿論上忍の家筋である山中家も伴家も出陣を決めており、正月に元服を迎えた伴忠太郎信定の初陣も決定しているのだ。

 そして現在、織田軍の柴田勝家、佐久間信盛らと野洲川を挟んで対峙している状況である。


 野洲やす川。

 現在の滋賀県でも代表的な河川であり、通称『近江太郎』と呼ばれている。

 河口である琵琶湖付近に八つの洲が在ったことから八洲、転じて野洲川と呼ばれるようになったと言う通説もある。

 源流は鈴鹿山脈の西にある御在所岳であり、途中甲賀の地を流れ琵琶湖に至る。従ってこの川は甲賀衆にとっては大変馴染みの深い河川である。


 柴田勝家率いる織田軍と六角軍は琵琶湖に程近い落窪、現在の野洲市乙窪の辺りに布陣している。

 上流から見て左岸に六角軍、右岸に織田軍がそれぞれ睨みを効かせている。

 織田軍の柴田勝家は守っていた長光寺城から駆けつけ、佐久間信盛と合流したばかりである。


 甲賀の里からは野洲川沿いに七里(約三十キロ)程で、忠太郎が参陣するには一刻半(約四時間)はかかるであろう。

 早く出発せねば合戦に間に合うまい。

 焦りだす忠太郎に紅葉は追い打ちをかける。

「さあ、お覚悟を。なぁにこの紅葉、大将首とは言わぬも首級の三、四は軽く挙げて見せますぞよ。」

 紺色の頭巾の奥に隠れた小さな美しい顔。その大きな目がギラリと光っている。

 大きな溜め息を吐きながら忠太郎は天を見上げる。北斗の位置より、もう出立せねば明け六つ(早朝五時頃)の総攻撃には間に合わないと知る。

「兄者は今?」

「もう落窪におりまする」

「ふぅ。仕方あるまい。ついてまいれ、遅れは許さぬ」

「ふふふ、遅れるのはどちらやろ」

 夜のしじまに包まれた油日神社から二つの蒼き影が消えた。


     *     *     *     *     *     *


 油日神社から真っ直ぐ北に上り、滝川城を過ぎる頃には山林を抜け、なだらかな傾斜地となってくる。

 月の無い真っ暗闇の中、二つの影は速度を落とす事なく疾走していく。

 ふと思い出すように紅葉が、

「そう言えば、柴田、佐久間は筒を用いると言うてたな?」

 忠太郎は一言、ああと答える。

 どうしてこの男はこうも無口なのだろうか。そう言えば出会った時から無口で大人しい子であった、額の汗を拭きつつ紅葉は思い出し笑いに口角を上げる。

 初めて出会ったのは油日神社での七五三の儀式の時か。兄の長俊に手を引かれ挨拶させられた記憶が未だ鮮明に脳裏に残っている。

 面白半分に覚えたての指弾きで小石を顔に目掛けて放つと、額にコツリとぶつかった。その時のキョトンとした顔に爆笑し兄に強く嗜まれたのをよく覚えている。

 次に会った時、徐にドングリの実をおでこにぶつけられ、目から火が出るほど怒り狂ったものだった。

 それからは会う度に互いに覚えたての技を仕掛け合い、六歳の頃に手裏剣を投じあっていて大人たちの度肝を抜いたことは今も両家の、いや甲賀中の語り草となっている。


 普通、山中家や伴家のような上忍の家筋では忍び術よりも剣術や読み書きが推奨される。

 一般的な甲賀衆の忍びの術の訓練は、それぞれの家系単位で執り行われている。一族の幼少の者が集い、三歳の頃から修行は始まるのだ。

 跳躍力と呼吸法の鍛錬から始まる。麻の苗を植えてその上を毎日飛び越えるというアレである。その内に聴力、視力の鍛錬も加わっていく。暗がりでロウソクの炎を見つめ瞬きをする、 砥石の上に針が落ちる音を聴き分ける、といった鍛錬だ。

 武器の使い方も教わり、同時に薬草や火薬の知識もつけていく。

 上忍家系の忠太郎と紅葉は互いをライバル視しており、次に会った時には驚かせてやりたい、との思いから近所の下忍家系の修行に出入りし、彼らと同等の能力を醸成していく。

 いやむしろ、二人の卓越した身体能力は彼らを大きく上回り、その評判はあっという間に在所に広まっていく。


 特に紅葉、当初は山中のお姫様が忍びごっこをなさっていると笑われていたのだが、その実力を間近で見た者は開いた口が塞がらない様子であった。

 生まれ持ったアジリティ(敏捷さ)は修行と共に更に精錬されていき、手裏剣や吹き矢をかわす護身の術にかけては大人顔負けであった。

 身体も大きく育っていき、腕力も全く男子と引けを取らない。大人が使う刀を難なく振り回し、強弓をいとも簡単に扱っていく。

 また、投擲の才は誰もが驚くべきものがあり、棒手裏剣の精度は正に百発百中であった。

「だいだらおひいは、才能がある」

 当時としては163センチほどある彼女の身長は女子として相当に大柄であり、陰で『だいだらぼっち姫』と笑われている、半分は彼女への愛嬌として。

 幾人の指導者が舌を巻き、彼女を認め、

「女子にしておくのは勿体なし。じゃが女子に劣る其方らは不甲斐無し、精一杯努めよ」

 と周りの男子を叱咤激励したものだった。


 一方の忠太郎もその素質は早々に他の党の者に認められていた。

 普通下忍の子は上忍の子と共に修行することはなく、あってもかなり手加減をしたものだったのだが、忠太郎の技量、身体能力はあっという間に彼らを追い越し、逆に手加減してもらわねば忠太郎に太刀打ち出来ない有様であった。

 特に『二重息吹』と言われた呼吸法を使った長距離走では、同世代で彼に敵う者は一人もいなかった。

 二重息吹とは、「吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐く」という変則的な呼吸のリズムで大量の酸素を肺に取り込む手法であり、長距離走に最も適した呼吸法として現代でも知られている。

 その他に跳躍力、そして高所からの着地能力にも優れ、下忍の指導者は

「お家を捨てて、城取りの隊に入られるべきかと」

 と唸ったものだった。


 そんな二人だったが、性格は真逆だ。

 明るく社交性もある紅葉に対し、忠太郎は幼き頃より寡黙で人とあまり関わり合いを持たない性格である。

 これは、紅葉の兄である山中長俊が妹を猫可愛がりし、過剰とも言える愛を注いだ結果とも言えるし、忠太郎の二人の兄が従兄弟の上忍である伴太郎左衛門尉資家に劣等感を抱きそれを末の弟にぶつけ続けたせいなのかも知れない。

 誰からも愛され慕われてきた紅葉は天真爛漫で好奇心旺盛な少女に育ち、兄弟から疎まれ蔑まれてきた忠太郎は猜疑心を常に抱き孤独を抱えた少年に育った。


 そんな忠太郎だが、紅葉だけには常に己を晒し弱さを見せてきた。実の家族には決して見せない泣き顔も、紅葉には何度からかわれたことであろう。

 彼にとっての彼女の存在こそが、壊れそうな心をかろうじて保っていける故なのである。

 それだけに戦に紅葉を参戦させるなぞ論外、万が一紅葉を失ったらその後一人で生きていく自信が忠太郎には全くなかった、それ故己の初陣の共なぞ断じて許せなかった。

 のだが。

 あの大きな麗しい目で見つめられ、あの小鳥の囀りのような可愛らしい声で口説かれるとどうしても断ることが出来なかった。

 落窪を目指して疾走しながら、己の優柔不断さに腹が立って仕方のない忠太郎なのである。


 ちょうど中間地点と思われる野洲川の川筋で、二人は休息をとる。

 忠太郎は無言で兵糧丸を一粒紅葉に放り投げる。兵糧丸とは二センチほどの大きさの携帯食である。もち米、蓮の実、山芋、朝鮮人参などを鉄製の薬研やげん(=引臼の事)で細かくすり潰し練り込んで作ったもので、エネルギー補給や疲労回復によく用いられている。

 ほぼ同時に、紅葉も忠太郎に兵糧丸を一粒放り投げる。

「ほれ、うちの拵えたのも召し上がり」

 忠太郎はヒッと小さく悲鳴をあげる。

 無理もない、何をやらせても人並み以上の能力の紅葉なのだが、何故か料理だけは全くと言って才能がなかったのだ。薬草なぞは完璧に調合して見せるのだが、こと食事に関しては何故この味になる、何故食後にこうなってしまう、と言った有様なのだ。

 以前紅葉のこさえた『飢渇丸』と呼ばれる携帯食を口にした忠太郎は、本来ならばその名の通り空腹感がなくなる筈なのに、逆に気を失いそうなほどの空腹感に苛まされた。

 また喉の渇きを抑える効能を持つ『水渇丸』を食した後、余りの喉の渇きに本当に倒れてしまった経験を持つ。

「大丈夫やって。ちゃあんとおみつに見てもらいながらこさえたさかい、間違いないねん」

 おみつ、と言うよく気の利く山中家の下人の監修のもとならば大丈夫か、と思いそれならば、とその一粒を口にした忠太郎が甘かった。

「なんや、苦々しいのぉ」

 顔を少し顰めながら咀嚼する忠太郎。それを一気に飲み下し、水を二口も飲む。

 その一方で忠太郎のこさえた兵糧丸をもぐもぐしている紅葉は、

「さすが忠さん、ええ味や」

 と満足そうだ。

 忠太郎はその細かい性格故、兵糧丸なども細心の注意を払い丁寧に仕上げていく。材料を薬研でじっくりとすり潰し、丹念に練り込めていく。必然味も効能も一級品だ。

「うちのは味はイマイチやけど、よく効くで。おみつのお墨付きやから」

 忠太郎の身体に変化が生じ始める。

「どんな疲れも失せはるよ、どや?」

 うむ。確かに疲れは少し取れたかもしれぬ。

 だが。人生にたった一度の大事な初陣前だというのに……

 忠太郎は激しく欲情し始めた……


「どうや? よく効くやろ?」

 額に汗が滲み始める。

「お、お主。本当におみつが手伝い……」

 紅葉の装束越しの胸の膨らみにゴクリと唾を飲み込む。

「一体、何を入れ……」

 夜目越しに見る紅葉がこの世のものとは思えぬ美しさに思え、

「も、も、も、」

 紅葉の両肩に荒々しく手をかける。紅葉は唖然とした表情で、

「どうしたん?」

「も、も、も、も、も… もみじぃーーーー」

 河原に紅葉を押し倒した。頭の中は真っ白となり、思考は停止し十五のオスの本能が全開となったのだ…

 が。

 その瞬間、忠太郎の身体は宙に浮き上がり、大きな音を立てて河原の砂利に叩きつけられた。

「な、な、なにすんねん!」

 紅葉は頭巾の中で顔を真っ赤にしながら叫ぶ。

 遠のく意識の片隅で、己の不甲斐なさを叫びたくなる忠太郎なのである。


     *     *     *     *     *     *


「忠さんのお料理、なんて美味しいんやろ。」

 家の料理番に教わった里芋の煮物を満面の笑みで咀嚼する紅葉。

 ああ、儂はなんと幸せなのだろう、愛しい女子の笑顔を間近に見れて。

 こんななんでもない幸せな時がずっと続けばよいのに。きな臭い戦国の世を忘れ、争いのない平和な世であったなら、どれ程良いことか。

 それにしても、幼き頃より隣にいたこの娘のなんと美しきことよ。

 日に焼かれ褐色の頬に大きなつぶらな目。意志の強そうな黒い眉毛にやや厚い唇。スッと鼻筋の通った細い鼻梁。

 世間的には紅葉の顔つきは美人とは言い難い。それに背丈は普通の大人の男性ほどもあり、里の者も紅葉を美女認定しているものは全くいない。京に登れば、紅葉はハッキリ言って巨漢の不細工、と蔑まれよう。

 だが、儂にとってはその全てが愛おしくて仕方がない。世間の美醜の価値観なぞ己の美的基準からしてみればどうでも良い話だ。

 山中の長俊どのも、

「こんなデカ物の不細工な妹ではあるが、」

 などと常に言うておるが、もし時が違えば紅葉の様相が美女の範疇に入るやも知れぬ。

 それより何より。

 顔の造りなぞどうでも良い。

 儂はこの紅葉の気性に惚れておるのだ。

 勝ち気で明朗、裏表のない物言い。そして、小さき者や弱き者への優しさ。

 多少せっかちでぞんざいな部分もあるが、全く問題ない。兵糧丸の不味さやおかしな効能なぞ可愛いものではなかろうか。

 ああ、アブラのヒ(油日)の大神よ

 願わくばこの娘を永遠に拙者の隣に……


「……さん、忠さん、のお忠太郎どの!」

 パッと目を開けると、薄ぼらけの河原に寝転がっている、そして愛しい女子が心配そうに己を覗き込んでーー

 忠太郎はサッと起き上がり辺りを見回す。どれほど意識を失っていたのか、東の空がぼんやりと明るくなっているではないか。

「紅葉、儂はどれ程?」

「そやな、半刻(約一時間)は寝ておったぞ」

「な、なんと!」

 総攻撃が始まってしまう!

「行くぞ」

 そう吐き捨てるや否や、忠太郎は飛び起きて走り出す。

「ちょ、待ちぃ」

 慌てて紅葉も駆け出す。

 静けき野洲川の河原の砂利道を下流に向かい二人は音もなく疾走していく。


 堤もない野洲川の流れに沿って琵琶湖に向かい二人は進んでいく。

 白々と明けつつある光が東の山々の濃き緑を膨らませていく。次第に川幅は増していき、水の流れの音が明けきらぬ早朝に響き渡り始める。

 空には薄っすらと雲がかかり、蒸し暑い一日となりそうだ。

 全力で疾走していた二人がピタリと足を同時に止める。

 河原に生えている背の高い草の影に人影を認めたのだ。その物陰より、不意に

「花」

 と呟く声がした。

 忠太郎は咄嗟に

「吉野」

 と返答する。

 草陰より忍び装束の小柄な男が姿を見せ、

「誰ぞ?」

「伴忠太郎信定」

 頭巾の奥の鋭い目が柔らかになり、

「おお、忠太郎殿か。よくぞ参った。確かそなた様の初陣、祝着にござります」

 下忍の中でも探索に優れた蝶児だ。下忍故に苗字はない。

「して、その女子…… まさか、山中のだいだ…いや、おひい様ではあるまいの?」

 紅葉は瞬息の間で蝶児の目前に進み、

「だいだらじゃが。それが、なんぞ?」

 己の巨漢を誇示するように蝶児を見下し、

「いや… 何故おひいがここに? まさか戦に出るではなかろうの?」

「その、まさかじゃ」

 蝶児はギロリと紅葉を睨み上げ、

「ガキや女子の出る所やあらへん。すぐに戻りなせ。兄者に知れたら首を刎ねられるで」

「無理じゃ」

「何言うとんねん、これはホンマもんの戦や。修行とちゃう、鉄砲の弾が飛んでくんねんで、あちこちで血飛沫が飛び散るんやで、子供の遊びとちゃう。早よ帰り」

「嫌じゃ。どうしてもあかん言うなら」

 更に一歩蝶児に近づき、

「うちをこの場で殺せ。」

 凄まじい殺気で蝶児を睨み付ける。


 河口に近づくにつれ、戦地独特の重々しい空気が身に纏わりついてくる。

 厳しい訓練、修行に明け暮れていた忠太郎でさえ、初めて味わうこの空気に呑まれ始め、身体の震えが止まらなくなってくる。

 味方の兵の顔つきはこれまでに見たことのない鋭く険しい表情だ。触れれば指が切れるであろう凄まじい殺気に満ち満ちている。

 忠太郎は歩きながら己の手を繁々と眺める。小刻みの震えが全く止まらない。

 ふと後ろを歩く紅葉を振り返る、さぞやこの空気に恐ろしい心地であると……

 思いきや、満面の笑みで辺りを睥睨しているではないか…

「恐ろしくないのか?」

 掠れ気味の声で問うと

「いやむしろ、嬉しい。」

 思わず忠太郎は立ち止まり、唖然とする。

「だって。忠さんと一緒に戦えるんや」

 満面の笑みながら鋭く光った厳しい眼。

 なんやこの娘、ホンマに戦うつもりか?

 てっきり途中で引き返すか、戦場から少し離れたところで見守るものだと鷹を括っていた忠太郎は呆然とする。

「蝶児も言っとったやろ、これは修行ちゃうで、ほんまもんの戦やで」

 武家言葉なぞ軽くすっ飛んでしまう。なんなのだ、この娘は。この儂でも心からブルっておるのに、笑顔で戦うなぞ……

「忠さんは、うちが守る。絶対、死なせへん」

 震えがピタリと止まる。

 ちょっと待てい。本日初陣で伴家の誇りにかけ死闘を制さんとす儂を守るだと?

 女子のそなたが儂を守る、だと?

 普通の武士ならば屈辱で顔を赤くし激怒することだろう。だが忠太郎は顔は赤くせども、満面の笑みとなり、

「それは心強き。儂の背中、そなたに任す」

 武士の誇りも男の尊厳も関係なし。愛する者を背中に従え共に敵を討ち果たす、何と心躍る展開であろうか。

「任せとき。その代わり、柴田か佐久間の首、二人で獲るで!」

 最早全身の震えは恐怖から武者震いに変わり、握りしめる拳が戦いの血を求め始めている。


 やがて甲賀衆の陣地に近づくと知った顔が増えてきて、同時に皆が後ろを歩く紅葉にハッとした顔となっていく。

「あれえ、伴の忠太と……」

「山中のだいだらおひいでないか?」

「女子が戦場に… 何考えとんねん」

「足手纏いや、とっとと往ね」

 一様にあからさまに眉を顰めている。

 その言葉を聞き、紅葉は徐にかぶっていた頭巾を脱ぎ、顔を露わにする。戦場の重々しい空気が微風に感じ、汗がスッと引いていく感触に紅葉の口角が上がる。

「うわ… 相変わらず不細工やな」

「真っ黒な顔であれじゃ農夫の娘っ子やないか。ホンマにブッサイクや」

「あのとんがった顎に鼻。女子はおたふくに限るわい、のお」

 同意の笑い声が辺りを満たす。


 山中長俊の陣営に近づくと、お付きの兵達が驚愕する。

「おひい…様…?」

「へ… 何故に…?」

 忠太郎が陣幕を掻き分けて中に入る。

 山中長俊がその鋭い目で忠太郎を一瞥し、軽く頷く。

「忠太郎。そなたの初陣、めでたきことじゃ。」

 力強くも明瞭な物言いに忠太郎は深く頭を下げた。


 山中長俊。天文十六年(1547年)生まれ、二十三歳。別名、橘内。

 この戦いの後、織田氏に仕え柴田勝家の家臣となる。賤ヶ岳の戦いで柴田氏が滅亡した後、丹羽長秀、堀秀政に仕えるが、天正三年(1585年)より豊臣秀吉に召し出され右筆(秘書役の文官)となる。文禄四年(1595年)に一万石の大名に列した。関ヶ原の戦いでは西軍に与したため戦後改易となり、慶長十二年(1607年)京で没した。享年六十歳。

 文官として安土桃山時代に活躍した長俊だが、甲賀衆の上忍の家系としてその武勇は郷里には鳴り響いており、此度の戦でも織田勢にとって悩みとなる難敵の一人に数えられている。


 その敵方にとって鬼が如き長俊が忠太郎の後ろに控えている己が妹を一目見て。

「おおおおおお、紅葉ぃー、こんな戦さ場にどうしたのじゃぁー」

 と目を細め叫ぶのだから、家臣達はずっこけた。


     *     *     *     *     *     *


「兄者。紅葉も参戦したく、参上仕りました」

 長俊の温和な目が凍り付く。

「何卒、一兵卒としてお使いあそばせ」

 何を、言っているのだ、我が妹は?

「なぁに、大将首とはいかぬまでも、鎧首の三つや四つ……」

「おい。忠太郎」

「ははっ」

「我が妹は何を言うておるのじゃ?」

「それがしも、今一つ…」

「儂の耳が間違うてなければ、この戦に出ると言うておるぞ」

「そのようで」

「確かにだいだらが如く巨体で色黒でとんがった顔立ちの不細工な妹なれどな、まさk―」

「不細工では、ござらぬ!」

 忠太郎の野太い声が陣中にこだまする。

 家臣達は顎が外れんばかりに口を大きく開き、呆然と様子を眺めている。

「す、すまぬ忠太郎。不細工は流石に言い過ぎたわ。それにしてもお主の好みはケッタイじゃのう、こんな蟷螂のような顔立ちのどこが好ましゅうー」

「長俊さま! 言い過ぎでござる!」

 怒りおった。怒鳴りおった。殿に向かい忠太如きが。

 従者達は口々にしながらも、興味津々で様子を伺っている。

「妹君は、そのう、時代が違えば、美女と称されん可能性をお持ちであられまする!」

 あの無口の忠太が吠えた。初めて見たわ、あやつ喋れるではないか。可能性とは何ぞ?

「時代が遡れば、または降れば美女と称されるやも知れぬのです! それにこの巨体も目立たぬ大柄な時代が来るやも知れませぬ」

 あかん… 腹痛うなってきた… く、苦しい… これ、笑ろうてはならぬ… ぷっ…

「蟷螂の様な小柄な美女、と称されん日がいつの日か来るのです!」

 カマ… キリ… 小柄…

 山中陣営に大爆笑が爆ぜた。


「はあはあ… もうよい忠太。蟷螂はもうよい。それより、何故に紅葉がここにおるのじゃ? ここは戦地ぞ、炊き出しの女子なぞいらぬで」

 紅葉は三歩前に出て、

「ですから兄者、紅葉も武士の端くれとしてこの戦にー」

「ならん!」

 長俊の鬼も凍り付く程の怒声が響き渡った。対峙する柴田勝家が思わず盃を落とす程に。

「おい忠太。どういう訳じゃ、説明せい」

 忠太郎は俯いたまま、

「それがしはよせと言うたのですが…」

 暫く野洲川の流れの音だけがその場に流れていく。

 意を決した忠太郎が顔を上げ、長俊の目をキッと見据え、

「それがしの背中を、紅葉に預けとうございます」

 紅葉もキッと長俊を睨み付け、深く頷く。

 長俊は二人を交互に睨み付け、やがて首を振り大きく息を吐き出す。

「馬鹿を言うでない。ここは修行の場では無いぞ、血飛沫が飛び交う戦地ぞ。女子供のおる場所ではないっ さっさと往ね!」

 と叫ぶ。

「嫌でございます。紅葉は忠どのの背中を守りとうございます!」

 負けん気の強い口調で言い返す。

 長俊の怒りは頂点に達し、刀の柄を握り締める。

「兄の言うことを聞けぬか紅葉。聞けぬなら成敗致すぞ!」

 家臣と従者達は狼狽える様子も見せずに、呆れ顔で口々におやめくだされ、慎まれよ、と一応申し立てはするが。

「切れるものなら、切ってみよ兄者。その代わり切り抜けし時は、参陣いたしますぞ」

 と紅葉が長俊を煽る。

 おひい様、おやめくだされ! 何人かが近付こうとした瞬間。長俊の堪忍袋の緒が音を立ててキレ申した。

「もみぢぃ、覚悟ぉー」

 と言いながら実の妹に抜き打ちを放つ。


 これまでに幾度も戦に出、二ヶ月前の『金ヶ崎の戦い』にも参戦し、京に逃走する織田信長を朽木の地で追い詰めた程の豪傑だ。

 越前の敦賀にて浅井長政の叛逆を知った信長は、今の若狭街道を南下し佐柿、熊川、保坂を経て朽木元綱の朽木城を通る。

 保坂から朽木に至る道は深い山に囲まれ、この時信長は十数騎程の家臣しか連れておらず、長俊ら甲賀衆の追走に一騎、また一騎と削られていく。

 朽木城の手前の険しい山中にある三ツ石の岩窟に隠れ、領主の朽木元綱の助けを待っていた所を長俊が見つけた。

 信長は死を覚悟しつつ、もし見逃すならば近江国における甲賀衆の領土を安堵する、と口にし助命を乞うた。

 長俊はもしここで信長の命を奪っても織田軍の勢力は衰えるどころか益々盛んになり、その復讐心を持って甲賀は殲滅されるだろうと予見し、信長の助命を受け入れた。

 信長はこの恩は決して忘れぬと誓い、持っていた太刀、小太刀を長俊に授けた。


 その信長から下賜された太刀が紅葉の身体を斜め下から切断せんと一閃する。

 あああああ…

 誰もが紅葉の胴体が両断されたと思った瞬間。

 紅葉の巨体は後方転回、すなわちバク転し宙を舞い、長俊の抜き打ちは空を切った。

 同時に長俊の目に砂利が飛び込み、不覚にも長俊は視野を失う。

 砂利を目から取ろうと片手を目にした瞬間、首筋に冷たい刃を感じた。

「ほぉら兄者。これで文句なかろう」


 …… 見なかったことにするべ。そうやな、今のは無かったことで。さーて、見回りにでも参るか。ああ拙者も。それがしも……

「もぉーみぃーぢぃーーー、きぃーさぁーまぁーーー」

 最近従したばかりの下忍達がその場に腰を抜かしてしゃがんでいるが、旧来の従者達はアホらしくなり陣営から出払ってしまう。

 様子を見守っていた忠太郎も、ああまたか、と大きな溜め息を吐く。

 これがこの兄妹なのだ、昔から。

 妹可愛さの余りに剣術のみならず忍術も身につけさせ、その上達をギャハハと笑いながら見守る兄なのである。

 故にこのような座興は日常茶飯事、ああまた兄馬鹿が始まったと呆れる家臣団及び忠太郎なのである。


「それにしても紅葉、今の避刀術は中々のものぞ。巨体ながらのその俊敏さ、大したものじゃのぉ。投げ砂の術も良い塩梅じゃ。カッカッカ」

 ニヤリと笑いながら紅葉も

「そうでありましょう。忠どのとの修行の賜物にござります」

 などと殊勝なことを申している。

「いやあ、流石兄上の抜き打ちは深みがござりますなぁ。あと一寸で紅葉の乳は切り裂かれておりましたでしょう」

「馬鹿者。愛しい我が妹の乳を切り裂く兄がどこにおろうぞ、カッカッカ」

 馬鹿馬鹿しくなった新米の従者達も吾先に陣営を後にしだした。

「それより兄者。その小太刀、紅葉に下さらぬか? 確かほれ、織田のうつけ三郎からせしめし小太刀を」

「うぅーむ、これかぁ。結構気に入っとるのだがのぉ。」

「良いではないか、良いではないか。その刀で柴田の首を掻き切って参りますぞ」

「カッカッカ。面白い、呉てやろう、ほれ。」

 惜しげもなく兄馬鹿は妹に小太刀を放り投げる。


「但し。本当に切るなや、柴田や佐久間を」

 紅葉はキョトンとし、

「へ? なして?」

 忠太郎も首を傾げ、

「大将首を狙うのが戦の常かと」

 と問う。

 長俊はニヤリと笑い、

「お前らもあと少しすれば分かろうぞ、この世の仕組みと言うものがのぉ。それよりも、つまらぬ怪我はするなや、筒玉には注意するのだぞ」

「ははっ」

「はぁーい」

「命だけは落とすなや。ええか?」

 二人は深々と首を縦に振った。


     *     *     *     *     *     *


「わぁーい、わぁーい。前から欲しかったんよ、この小太刀。わぁーい」

 八寸(約25センチ)程の小刀を放り投げながら紅葉が大喜びしている。


 平造で直刀。切先の刃紋は横の筋から切先に向けて小さな円を描いている、柄の頭は金でできており、鞘は黒塗りで腰は縄の紋様が刻まれている。

『吉光』と銘が刻まれており、見るからに大名クラスの武将が保持するに値する名物だ。

 刀の目利きが多少できる忠太郎はその銘を見て、

「これは藤四郎吉光の業物でないか?」

 と唸っている。

 藤四郎吉光は鎌倉時代の山城国栗田口派の最も有名な刀工だ。足利義満が愛用していたことでも知られている。

「あのうつけ三郎がそないな業物持っている筈なかろう」

 今イチ世の流れを把握できていない紅葉は不貞腐れて言うが、それなりに乱世の混沌を把握している忠太郎は首を振り、

「恐らく松永(久秀)辺りが機嫌取りに献上したものやも知れぬ。大事にせいよ」

「そげな筈なかろう。それにしても、この切れ味、流石やなあ。えいっ」

 徐に紅葉がその短剣を薬草を擦り潰す為に置かれていた鉄製の薬研やげんに向かって放り投げた。馬鹿かお主、鉄に突き刺さる筈なかろう、と呆れた忠太郎の顔が直後に凍り付く、

 なんと、紅葉の投じた短剣は、その鉄製の薬研にグサリと突き刺さったではないか!

「おおおぉ、これは正しく業物やねぇ。気に入ったわこの刀」

 大満足な紅葉。驚愕する忠太郎。


 まさかこの小刀が歴史上大変有名な『薬研藤四郎』とも知らず、何度も鉄の薬研を的に投擲する紅葉なのであった。


 そんな紅葉を放置し、忠太郎は日が明け始め辺りが明るくなってきていることに気づいている、間も無く己の初陣が始まろうとしている。

 山中陣営を出て野洲川に出ると対岸にみっしりと敵兵が待機している。旗印は丸の内に三引両、佐久間信盛の陣営に間違いない。


 佐久間信盛。信長の父織田信秀に仕え、後に信長の重臣となる。織田軍の中でも古参の重臣で、主な戦いには殆ど参戦している。『退き佐久間』として有名で、殿軍の指揮が得意であったとされている。後年、信長より一九条の折檻書を突きつけられ、織田家を離れ高野山に隠遁したのは余談である。


 相手にとって不足なし、佐久間本人の首は困難だろうが、家臣団の首級でも挙げれば初陣としては万々歳だ。

 漲る闘志に武者震いが止まらぬ。

 そんな忠太郎に蝶児が近寄り肩にそっと手を乗せ、

「力み過ぎや、忠太郎殿。肩の力抜かんと、鉄砲玉に当たるで」

 戦さ場では大先輩の蝶児の言葉に頷き、大きく深呼吸してみる。細く長く息をゆっくりと吸い込み、口から同じように吐き出す。

 すると先程までは目に入らなかった敵の様子がありありと見えてくる。

「ご覧なされ。長槍の背後に鉄砲隊がおる。数にして百」

 忠太郎はゴクリと唾を飲み込む。あれに気付かずに突撃していれば、蜂の巣になることは自明だろう。

「一斉射撃から次の射撃まで間がありまする、その隙に前進すること」

 流石、間諜の腕利である、敵の武器についても戦術についても熟知している様子だ。

「鉄砲隊は近接戦はからっきしにござる、近付いて切り裂いていけば、混乱すること間違いなし。そして何より肝要なのは」

 蝶児が敵陣を鋭く細い目で睨め付けながら呟く。

「鉄砲隊の指揮をとる隊の長を真っ先に倒すこと。連動した射撃さえなければ、筒など恐るるに足らず。よいですか、狙うは鉄砲隊指揮者なり」

 忠太郎は深く頷く。

 織田陣営の誇る鉄砲隊を壊滅させれば、大殊勲に間違いない。

「蝶児、指揮者はここから見えるかのう?」

「恐らくは、ほれ、あの者」

 蝶児の指した指先の延長線上を忠太郎は目で追う。

「鉄砲隊にいながら筒を持たぬあの者に相違ありませぬ。」

 よし、真っ先にあの者を屠ってくれる。

 忠太郎の闘志は未だかつて経験したことのない程盛り上がっている。


「いよいよやね、忠さま。」

 隣から呟く声に軽く頷く。

「儂から離れるでないぞ、紅葉」

「任せとき。それにしてもこの鎖帷子、重うてかなわん」

 忠太郎は思わずフッと笑ってしまう。

 間も無く戦闘開始だというのに、まるでこれから修行を始めるが如く落ち着き払っている。

 何という女子だろう。

 ふと己の握りしめた拳を開いてみる、手汗でびっしょりである。

 その手汗を隣の紅葉の装束に擦り付けた、

「あっ 何すんねん、汚らしい。あとで洗って返してや」

 ああ、いつも通りじゃ、平常じゃ。

 忠太郎は徐々に精神が研ぎ澄まされていく感覚に陥っていく。


 やがて攻撃の開始の合図である法螺貝の音が響き渡る。


 合図によれば、まずは遠矢による一斉射撃の後に対岸へ渡河、だ。

 六角軍営から夥しい数の遠矢が川を越え敵陣営に注がれていく。同時に、敵陣営からも同じ程の矢がこちらに降り注いでくる。

 東の山々の峰より太陽が顔を見せた瞬間。六角勢は一斉に野洲川を渡り始める。

 地の利は六角勢側にある、川の深さも熟知しており、川の何処を通れば徒歩で渡れるか知らぬ織田勢は右岸で迎え撃つのみだ。

 攻撃の第一陣が川を渡り終えたが、鉄砲隊はなりを潜めている。思い出したような遠矢が飛んでくるばかりだ。

 第二陣、三陣が渡河を終える。忠太郎は第三陣の右翼に属している。

 正に三陣目が渡河を終えた瞬間。

 鉄砲の一斉射撃だ。聞いたことのない轟音が野洲川に響き渡る。咄嗟に這いつくばり弾を避ける。相当数の味方が被弾し声も立てずに倒れていく。

 射撃が終わると同時に、敵の長槍兵が大声を上げながら突入してくる。その後ろから刀を振り上げながら足軽兵が押し寄せてくる。

 流石、天下統一を図ろうとしている織田軍だ。その統一された戦いは実に洗練されており、まともに対峙したらあっという間に粉砕されてしまうだろう。

 六角正規兵がしゃにむに突撃しバタバタと倒されていく最中、甲賀衆は独自に動き始める、忠太郎もその一人だ。

 突っ込んでくる長槍兵には見向きもせず、その背後の足軽兵に襲いかかる。彼らは軽装備なので防御が薄く、簡単に隊列を切り裂けられた。

 一般歩兵は防御に弱い。戦いの常識である。忠太郎ら甲賀衆の俊敏な攻撃に織田足軽隊は大混乱に陥り、あちこちに隙間が生じ始める。


「忠さん、あそこや!」

 紅葉の指す方向に必死で弾込めをしている鉄砲隊が目に入る。

 既に何名かの甲賀衆が襲い掛かり、混乱状態となりつつある。

 見つけた!

 鉄砲隊の長らしき武士だ。大声で弾込めを指示している、間違いなし。

 忠太郎は己が鉄砲玉となった感覚になり、一直線にその武将に疾走する。

 あれ。なんか、儂、こないに脚遅かったかのう?

 急に視界がゆっくりと見えだし、己も敵も動きがゆっくりに見え始める。

 大声を上げているその武将がこちらに気付き、驚愕の顔となる、

 近づく。もっと近づく。

 武将が刀を抜こうと右手を動かす。遅い。

 その手が刀の柄に届く前に、忠太郎の渾身の一撃が武将の首に届く。

 そう言えば人の首を斬るのは初めてじゃ

 藁人形の首は数え切れぬほど斬ったが、上手く斬れるじゃろうか……

 刃が首にスッと入る。ほう、この感触は初めてじゃ。

 迷わず刀を振り抜く。

 藁人形とは全く違うのう、不思議な感触じゃ

 首の骨も難なく切断していく。

 ほう、思ったよりも軽いではないか。首の骨は相当硬くて刃こぼれには注意せよと教えられたもんじゃがのう…

 やがて刀が首を完全に切断する。

 こないに簡単に… 人の命の儚いことよ……

 忠太郎は止まることなく鉄砲隊を駆け抜けその背後の林に消えて行く。


 樹齢百年以上と思われる大きな楠に登った二人は静かに呼吸を整えている。

 覚醒状態から戻った忠太郎が改めて紅葉を振り返ると、彼女はしきりに首を傾げ何事かブツブツと呟いている。

「このボンクラ刀、ちっとも役立たずやねん」

 忠太郎が指揮官を斬り倒す背後で、鉄砲隊を三、四人斬り裂いているのが目に入ったのだが?

「それがのぉ、鎧や兜は斬れるんよ、スパスパとな」

 ほぉ。流石業物ではないか。

「じゃがの、首を狙ってもちっとも斬れぬのじゃ。斬れても皮をちいと削ぐだけで、肉を断つことが叶わんのじゃ、ほんにボンクラ刀よ」

 その割には返り血に塗れているではないか。

「みなかすり傷程度じゃ。一人も殺せんかったわ」

 すっかりしょげかえっている紅葉に

「これがほんまものの戦じゃ。力が入り過ぎたのちゃうか?」

「そうかのぉ、いつも通りに撫で斬ったつもりなんじゃが」

 つまらぬ刀を貰ったもんじゃ、紅葉は不貞腐れている。その様子がとても同い歳の女子とは思えず、忠太郎は思わず吹き出してしまう。

「なして笑うかのぉ、忠さんはええよぉ、初陣で早速首一つ奪ったんやから。」

 口を尖らせ不平を言う紅葉が更に可笑しく思え、つい声を立てて笑ってしまう。

 初陣で、隊長首を挙げられた。

 大満足である。

 ……

 はて。

「おい紅葉。お主、確か儂の一つ年下ぞ?」

 キョトンとしながら

「そうや。この春で十四になったわ。もう婆さまや、はよう忠様が貰ってくれねば行き遅れの年増になってs―」

 此奴……

 初陣は十五の元服後と郷の掟で決められていると言うのに……

「ええやん。そないなこと気にする奴はこの戦場には一人もおらんで。ちゃうか?」

 んぐ… た、確かに「あ。歳数え間違うたから帰るわ」と言うてこの場を去ることは出来まい。

 ったくいい加減なおなごよ。それにその兄者も知ってて見逃したに違いあるまい。

 まあよい、戦が終わり郷に戻りし後、惣(村の会議)で糾弾してくれるわ。

 大きな溜め息を吐いた後。

 むむむ?

 そう言えば、此奴何か途轍もない事を言うた気が……

「そや。うちが十五になったら、ちゃんと貰ろうてもらうで、忠どの」

 叫び声を両手で抑えた故、バランスを崩し忠太郎はあえなく楠の大枝から落下した。


     *     *     *     *     *     *


「こ、ここは戦場じゃぞ、何と言う不謹慎なことを」

 落下後見事な着地を決め、即座に登り直してきた忠太郎は顔を耳まで真っ赤に染めながら紅葉を怒鳴りつける。

「兄者からも頼まれておるじゃろ。うちを嫁に、と?」

 それは… そうなのだが…

「なんよ、うちじゃ、嫌なの?」

 つぶらな瞳が忠太郎をしっかりと見つめる。

 嫌な訳あるまい、寧ろ声を上げて喜びたい気分である。しかし生真面目な忠太郎は思う、ここは戦場じゃ、祝言の話なぞしては不謹慎なり、と。

 だが余り真面目ではない紅葉にとっては人生でも大事な瞬間だ。家同士の話し合いでほぼ決まっていることとは言えども、それを本人からちゃあんと言葉にしてもらいたい、この時代の女子としては割ととんでもない思考の紅葉なのであった。

「忠さん、いえ忠太郎殿。わたくしめを妻に迎え入れて貰うわけにはいかぬでしょうか?」

 恐らく史上初の戦場での女性からの求婚という事態に、口をパクパクさせて思考停止状態となる忠太郎であった。


「お二人、無事でござったか」

 木の下より声が掛かる。蝶児だ。

「忠太郎どの、初陣ながらお見事な一太刀、この目でしかと拝見させていただきましたぞ」

 ホッとしながら下を見ると蝶児が頭巾の奥でニッコリと微笑んでいる。

「おひい様も中々の奮闘、敵も目を白黒させておりましたのぉ、ひゃっひゃっひゃ」

 いやらしい笑い方。人生で最も大事な瞬間を邪魔された紅葉は蝶児をギラリと睨め付けた。

「山中様がお呼びです、戦の状況の確認だそうで」

「分かった。今まいる」

 二人は瞬時に飛び降り、蝶児の後を疾走する。


 激戦の跡地を抜けていく、ここかしこに敵味方の骸が転がっている。味方の、それも六角兵が多いのが目につく。

 どれも凄惨な状態で死期を迎えた様子で、苦悶の死顔が宙を睨んでいる。一つ二つ、知った顔の下忍の骸も転がっており、胃の腑がギュウと締め付けられる。

 紅葉はこれ程まで凄惨な有様を見るのは初めてで、思わず瞼をきつく閉じる。

 これが戦… 一歩間違えれば自分も忠さんもこうなるのか……

 顔を真一文字に斬られた骸が目に入った瞬間、喉に苦いものが込み上げてくる。

 先程までの幸せな気持ちはとうに無くなっており、ひたすらに現実の戦の悲惨さを目の当たりにしていくのであった。


「よう戻った、話は聞いておるぞ忠太郎。敵鉄砲隊を壊滅させたそうじゃの、大手柄じゃ」

 鋭いながらも柔らかな視線で山中長俊は忠太郎を労う。

「それで? 我が妹は少しは役に立ったのかのう? 当然首の一つも刎ねたであろうの?」

 紅葉は上目遣いで、

「兄者、何じゃこのなまくら刀は。兜や鎧は切り裂けど首は斬れませぬ、とんでもない代物にござりまするぞ」

「はて。三郎殿より給われし小太刀、間違いはなかろうに。そなたの腕のせいじゃろう。それよりも浮かぬ顔をして、どうじゃ本物の戦に怖気付いたか、カッカッカ」

 紅葉はキッとなり、

「そないなこと! しかしながら、知った顔が骸となっているのはあまりよい気持ちはいたしませぬ」

「だぁからおなごは戦さ場なぞにいてはならんと言うたのじゃ。人の心を捨て心を鬼にせねば、敵を斬るなぞできぬ。さあ今からでも遅うない、甲賀の郷に戻るがよい」

「それはできませぬ、忠太郎どのの背中を守ると約束いたしましたゆえ」

「ふん。まあよい。おい忠太郎よ、一息ついたら、柴田の本陣に一寄せいたせ」

 無表情で兄妹のやり取りを聞いていた忠太郎はハッと顔を上げ、

「つまり、勝家が首を?」

 長俊は微笑みながら、

「それは無理じゃろうし、本当に斬っても困る。なぁに、柴田が本陣に突入し一、二太刀入れてくるだけでよい」

 本当に斬っても困る、じゃと? そう言えば長俊殿は先程も『本当に斬るなや』だの『この世の仕組みと言うもの』なぞ申しておった。これは如何なことか?

「お主も元服し甲賀上忍の立派な武士じゃ。よい機会じゃ、教えて進ぜよう。よいか忠太郎、戦とは何じゃ?」


 戦とは… 普通に敵を殲滅し敵の大将の首級を挙げることかと…

「それは下級武士や下忍の考えじゃ。よいか儂ら上級武士の考える戦とはな、」

 忠太郎はゴクリと唾を飲み込む。このような観念的な話を父や兄らとしたことはない。この甲賀を代表する上級武士が、そして紅葉の実兄がこの世の理と言うものを教えてくれようとしてくれている。


 自然に姿勢を正し、長俊に向き合う。長俊は軽く頷き、そして呟く。

「落とし所、よ。」

「落とし所、にございますか?」

「そうよ。ほんに敵将の首を互いに狙い合っていたら、みな傷付きボロボロになり、戦力は無きに等しゅうなるじゃろうが。」

 確かに。敵陣を斬り裂き隊長一人屠るのにどれ程苦労したか。それが総大将の首を取るなぞほぼ不可能であろう。

「こちらも敵も、なるたけ被害を少なく戦を終えたい。そして少しでも多くの実益を手にしたい。そうせねば、戦が終わりし後、すぐに別の敵にあっという間に滅ぼされてしまおうぞ」

 その通りである。今日の戦で例え柴田、佐久間軍を倒しても、恐らく味方も大損害を受けるに違いない。

 その戦力が戻らぬうちに織田軍が別の部隊を派遣してくれば、甲賀衆は全滅するであろう。

「忠太郎よ。本日のこの戦の落とし所、それは何ぞ?」

 ううむ… この様な事を考えたこともない。今まではただひたすらに敵兵を屠ることのみ考えてきたのだから、当然であるが。

 忠太郎が唸りながら真剣に考えていると、その横から紅葉がポツリと一言

「それが柴田本陣でのひと暴れ、じゃろうに」

「おおおぉ、さぁすが我が愛しき妹よ! 正解じゃ」

 柴田勝家が構えし本陣に突入する。大将の本陣に至ると言うことは、こちらの攻撃陣が敵守備網を切り裂き掻い潜ったと言うことに他ならない。

 それは天下最強の織田軍の守備網を簡単に引き裂くことの出来る甲賀衆の恐るべき攻撃術、と天下に響き渡ることであろう。

「この戦は近畿のみならず東海、西国の国々にも注目されておるのじゃ。あの織田の本陣に到達する攻撃力を持つ甲賀衆とは何ぞ? 恐るべき力を有せし甲賀衆、と噂になろう」

「確かに。仰せの通りにござります」

「さすれば、今後諸侯たちは簡単に我々に弓引こうとするじゃろうか? あの最近力をつけてきた松平家康が、わが近江を捻り潰そうと考えるじゃろうか?」

 忠太郎は会得したとばかりに首を横に振る。

「なるほど、これぞ落とし所、にございますな。ご教授いただきかたじけのうござりまする」

 長俊はニッコリと笑いながら忠太郎を見下ろす。


     *     *     *     *     *     *


 時折鉄砲の発射音が響くも、戦いは一山を越え、辺りは重々しい静けさに満ちている。

 野洲川の右岸、即ち柴田、佐久間軍の陣地側で行われた戦闘は、渡河した六角勢が押すものの被害は甚大で、多数の名もなき足軽兵の屍が辺りに転がっている。

 日が昇りじめじめした暑さが身にまとわりついてくる、琵琶湖からの涼しい風がなければ頭巾の中は汗みどろであっただろう。

 この辺りは河口近くの平坦な場所で遮蔽物といえば竹林が所々にあるのみ、一面に田畑が広がっている。

 柴田勢の陣営は河岸よりも三町(約三百三十メートル)程も下がった所に設営されており、忠太郎の目にもその陣容がしかと目に入っている。

「さぁて、あそこまでいかに進むかのぉ。敵はほとんど無傷であそこに引きこもっておろうぞ、そのまま進めば間違いなく遠矢の餌食となろうの」

 蝶児が汗を拭いながら目を細め柴田の本陣を睨みつけながら呟く。

 織田勢自慢の鉄砲隊は既に甲賀衆により壊滅されておるものの、長弓隊、長槍隊は依然温存されており、その背後には騎馬隊も虎視眈々とこちらを狙っていることであろう。

 敵にとっても見晴らしが良い為、徒党を組んで進軍すれば一網打尽に狩り尽くされよう。

「そこで。ワシら下忍衆の出番じゃ」

 忠太郎は首を傾げる。その拍子にもみあげから汗が一雫流れ落ちる。

「骸のふりをしながらのぉ、じわじわと近づくのよ。そして一町ほど近付いてから、俊足で近づくのよ」

 そんな無茶な…… 相手も偵察しておろうに、簡単に見つかってしまうのでは?

「ふっふっふ。よくご覧なされ、すでに進軍は始まっておりますぞ」

 馬鹿な… 忠太郎が目を凝らせば、なんと! 骸と思っていた者たちがじわじわと敵陣に匍匐しているではないか!

「これからが修行の見せ所ですぞ、忠太郎どの」

 軽く頷き、紅葉を見下ろす。

「うちが得意の戦法やね、ほな行こか」

 言うが否や、匍匐を始める紅葉であった。


 珍しく紅葉が黙り込んでいる。流石にこの蒸し暑さの中での匍匐に根を上げたのかと振り返ると、かつて見たことのない表情でまっすぐ先をぼんやりと見ているのだ。

 それは一言で言えば、虚無、の表情だ。流れる汗をものともせず、正気の無い目で呆然と遥か先を眺めている様子に、

「どうした紅葉?」

 と一言向ける。

「何か腑に落ちぬことでも?」

 紅葉は軽く首を振りつつ、

「なして人は殺しあうんやろ」

 と溢す。

「なして戦は、人の殺し合いなんやろ」

 紅葉はふと匍匐をやめ、傍の無惨な骸を見つめた。

「この者もほんの一刻前は生きておったのに。それがこないな惨たらしい姿になりおって。なあ忠どの、うちもそなたも、ほんの間違いあればかような姿になるんよ」

 ……

 やはり、連れてくるのではなかった…

 勝ち気でジャジャ馬な紅葉なのだが、本性はとても根の優しゅう女子なのだ。

 こんな切り刻まれた骸の転がる地獄が如く戦場にいて、気がおかしくならぬ筈はない、誠しくじった。

 忠太郎は心底後悔した。

「されば、遅うない、ここから立ち去られよ」

 それも紅葉にできる筈はない。地獄の様なこの場所で敵を求め斬る辛さ以上に、忠太郎の背中を守ると言う使命を果たせぬ悔しさに耐えられる訳があるまい。

 行くも地獄、戻るも地獄。

 あの快活な表情は何処にもなく、諸行無常の凍りついた面持ちの紅葉に呆然とするしかない忠太郎であった。


 互いに無言のまま、匍匐は進む。

 日はすっかり天中、雲間から強い日差しが戦場に差し込む、

 その日差しに数多の骸は焼き焦がれ、既に蝿がブンブンまとわりついている。

 一面の血の匂いに咽せながら、一寸また一寸と進んで行く。

 敵も警戒してのことだろうか、本陣より打ちい出てくる者もない。一息付きがてらに周囲を眺めると、相当数の甲賀下忍衆が敵本陣目掛け地を這いつくばっている。

 すっかり目力が失せた紅葉に喉の渇きを癒す『水渇丸』を放り投げるも、紅葉の目の前にポトリと落ちる。

 儂のせいじゃ

 殴りつけてでも眠らせ、この地に連れて来るのでは無かった。

 この世の地獄を見せてしまった。

 男であり武士である儂でさえ、腕のちぎれた骸や顔から目が飛び出た骸を眺めると、胃の腑が逆流しそうになる。

 人一倍情けが深く人一倍優しい紅葉には、この場は正に生き地獄じゃろうに。

 だが、もう引き返すには近づき過ぎた、本陣まであと一町半(百五十メートル)である。あと半町進んだところで、下忍頭の合図で一気呵成に敵陣に突撃せねばならぬ、

 この戦術は本来上忍が参加すべきものではない。下忍としての修行を積み重ねし者たちの役目である。

 生半可に下忍の修行に足を突っ込んだせいで、己も紅葉もこの戦術において戦功を期待されし存在となってしまっておる。

 全ては儂の責任じゃ。紅葉が下忍の修行に励み出したのも儂の責任じゃ。

 この場で心を壊しながらも地を這っておるのも儂の責任じゃ。

 儂は、此奴に責任を果たさねばなかろう。


「おい紅葉」

 紅葉に返事はないが、体がピクリと反応する。

「この戦を終えたら、」

 忠太郎は紅葉の視野に己が顔を投じ、強引に視線を合わせ、

「祝言いたそうぞ」

 祝言いたそうぞ… 祝言いたそうぞ… 祝言いたそうぞ……

 この地獄絵図が如し戦場で聞きし福音…

 壊れかけ固く閉ざされた紅葉の心の扉が、ゆっくりと音を立てて開いていく。

「いま… なんと…?」

 目に力が戻り始めている!


「紅葉、儂の妻となってくれまいか!」


 顔に血の気が戻り始めた、目に生気が漲り始めた!

「忠さん… いえ、伴忠太郎信定殿」

 身体に熱き血潮が漲り始めおった、声も張りが出てきおった!

「皆が、聴いております…… なんと破廉恥な…」


 ハッとして周囲を見回す。

 骸と思われし甲賀衆下忍共がこちらをニヤニヤしながら眺めておるではないか…

 その内に、ここかしこから小石が忠太郎に飛んでくる。中には鉄粒を投げて来る者もいる。

 コツン カツン

 数え切れぬほどの祝福を受けながら、忠太郎はアブラノ大神に誓った。

 必ずこの大柄な娘を幸せにしてみせまする

 と。

「ひゃっ なんと恥ずい… そないなこと口に出さずとも…」

 先程の倍の小石や鉄粒が忠太郎を襲う。

 しもうた、声に出してもうたわい。


 戦後、甲賀下人衆の間で、

『戦さ場でおなごを口説けぬようでは一人前とは言えぬ』

 という言い伝えが広まったそうな。


 日が二時の傾きとなる頃。

 総勢約六十名程の決死隊が柴田勝家本陣の一町(約百十メートル)の地点に到達する。

 本陣から盛んに昼餉の煙が立っており、まさか劣勢かつこの暑さの中突如攻めて来ることもあるまい、と判断しての昼餉休息中らしい。

 紅葉は兄よりせしめた小太刀を握りしめる。今度こそ忠さんを守ろうぞ、しっかり働けや。

 風は先程から琵琶湖からの海風から近江鈴鹿の山々からの生暖かい山風が吹いており、身体中の穴という穴から汗が吹き出している。

 不意に犬笛が戦場に鳴り渡る。

 常人には全く聞こえやしまいが、修行を重ねた下忍どもには聞き慣れた高音の合図だ。

 全員が声を立てず、突如立ち上がり柴田本陣に向けて疾走を開始する。

 忠太郎も遅れじと立ち上がり、一陣の風となる。

 その真後ろに紅葉が付き従う、よって二陣の風とでも呼ぼうか。

 二人の五間(約九メートル)程先に蝶児が進み、二人をより確かな道に導いている。

 白い厚手の布で囲まれた本陣はもう目の前だ、この間十秒も掛からなかっただろう。

 見張りの足軽が気付いた時には既に何名かが幕を切り裂き本陣に突入していた。

 刃と刃がぶつかる音があちこちから聞こえてくる。忠太郎と紅葉は本陣の東側より潜入に成功し更に脚を進めていく。


     *     *     *     *     *     *


 柴田本陣は大混乱に陥っていた。

 昼餉を食べていた足軽どもはひたすらに逃げまとい、長槍兵が振り翳す長槍に刺される者が続出している。

 陣内故に弓を射ることもできず、多くの者は刀を抜き狼狽えるばかりである。

 だがそんな混乱の中、柴田勝家の与力の一人、徳山孫三郎則秀は瞬時に状況を把握し、

「甲賀が下忍衆の襲来なり、少数じゃ、慌てるでない」

 と一喝し、混乱はピタリと収束する。

 忠太郎と紅葉も大混乱に乗じ、幸運にも柴田勝家本人まであと十間程の場所まで侵入していた。だが徳山則秀が一喝で混乱が収まった瞬間、勝家の周囲に人垣が出来、これ以上進んでもらちのあかぬ状況となってしまう。

「これ以上無理に押し入っても命の無駄や、引くで紅葉」

 足軽を四、五人ほど撫で斬った忠太郎は、そう判断し踵を返す。

「そやね、これくらいやれば十分じゃろ、退こう退こう」

 いつの間にか蝶児が二人の背後にかしこまり、

「では、失せましょうぞ、どうぞこちらから」

 と駆け出そうとした瞬間。


「このぉー、大たわけがぁーーー」

 という怒鳴り声と共に頭上に甕が舞った。

 そう、あの水などを保存する為の甕、であった。

 何故、甕が放られたのであろうか。


 その時、柴田勝家は激怒していた。


 柴田勝家。大永二年(1522年)尾張国生まれ。当初は織田信長の弟、織田信秀に仕え信長と敵対していたが、信長との戦いに敗れ降伏し暫くののち信長の家臣となる。永禄十一年からの上洛戦以降重用され、姉川の戦い、長島一向一揆討伐、一乗谷の戦い、長篠の戦いなど主な戦に参戦し武功を上げていく。そして織田軍北陸方面軍司令官に任命されやがて織田家筆頭家老となる。信長の死後、妹のお市と結婚するも天正十一年賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市と共に自害する。


 この戦は信長の北陸侵攻作戦の失敗による反織田勢の追撃を抑えるという目的である。勝家は信長の指示に従い近江国は長光寺城に配属されたのだ。

 そして六角勢の侵攻に対峙すべく野洲川右岸に布陣しているのだ。

 開戦初頭は六角勢の攻勢をよく防ぎ、河川から撤退しつつも本陣のある開けた田畑での迎撃戦ではほぼ敵を壊滅状態にしたとの報告を受けていた。

 だが今、本陣に少数ながら敵兵が侵入し撹乱、統制は乱れに乱れているのだ。

「どうやら甲賀者が我が陣営に紛れこんでいる様子、殿、如何されます?」

 敵の本隊はほぼ撃滅したのに、この有様……

 報告する家臣に対しての返答が、件の怒鳴り声であったのだ。


 二日前。

 まだ長光寺城に布陣していた勝家の元に甲賀衆の上忍である山中長俊が訪ねた。

 長光寺城は現在の近江八幡市の山中に築かれた城である。標高二三四メートルの山頂に不定六角形の主郭があり、城の東西には石垣が組まれていた。

 斜面はなだらかであるが鬱蒼とした木々が山肌一面に生えており、守るによく攻めるに難しである。

 近習達に長槍を突きつけられながら長俊は勝家の前に召し出された。甲賀衆にしては公家のような端正の顔つきながら、細く冷たい目が妙に印象的であった。

「甲賀衆の取りまとめ役が、儂に何用じゃ。まさか降伏せよと言うでないじゃろうの?」

 髭を撫でながら眼光鋭く長俊を睨み付ける。数日後に開戦を控えている最中の来訪に不信感が付き纏う。

「柴田さま、これをご覧くだされ」

 長俊が徐に己の太刀、小太刀を勝家に差し出した。

「ふん、その刀がなん…… ハッ これ… は、まさ…か…」

 長俊は能面の表情を崩さずに

「そうでござる。この刀はお館様より拝領せし物にござる」

 勝家は信長が朽木にて長俊に見逃されたことを知らない。長俊はその時の状況を淡々と説明する。

「するとそなたは、お館様の命の恩人と言うことになるのじゃな」

「ごもっとも」

「ふむ。で、今日は如何したのじゃ、こんな山城にわざわざ来るとは」

「明後日の合戦についてでござる」

「ほぉ」

「我が甲賀衆は、六角義賢勢に加勢仕る」

「知っておる」

「しかしながら、あくまで加勢するのみの所存にて、柴田さま、佐久間さまのお首を頂戴しとうはございませぬ」

「ふぅむ」

 勝家は長俊を睨みながら思考する。

「それすなわち。六角に味方するが織田軍を倒す意思は無い、と?」

 長俊はゆっくりと頷く。

「成る程、お館様より領地は安堵されておる。もし此度の戦で我が軍に大損害を与えようものならその約定は破棄される、故に……」

 勝家が覗き込むように長俊を眺めると、真顔で

「本気は、出しませぬ。」


 勝家の侍従達は一斉に刀の柄に手をやる。本気出さないでやるよ、と言われたのだ。武士にとってこれ程の侮辱があろうか。

 だが勝家はその物言いに大爆笑した。

 呆気に取られる侍従達に、

「いやはや、こんな物言い、未だかつて聞いたことないわ。織田家の重臣である儂に向かい、本気は出さぬ故安堵せい、と抜かしおって。ギャハハハハ」

 そう言われると仕方あるまい、侍従達も続いて爆笑する。いつの時代も上司が黒といえば黒なのである。

「承知した。だがこちらはそうもゆかぬぞ、何せ戦場では誰が六角で誰が甲賀者かなぞ分からぬでな。せいぜい我が弓矢に当たらぬよう注意いたせ」

 ここに至り長俊は表情を緩め、

「大丈夫にござる。そちらの弓矢に当たるような未熟者は我が衆にはそうそうおりますまい」

「言うの長俊、お主気に入ったぞ、どうじゃ儂の配下にならぬか、厚遇するぞ」

「それはおいおい。勝家さま、一つお願いがございます」

 サラッとスルーした長俊が頭を下げる。

「なんじゃ、言うてみい」

「織田軍は火薬を使うて爆発させる武器をお持ちだとか。」

「ふむ。よう知っておるのぉ」

「それは大層な破壊力だとか」

「そうよ、火薬を甕にぎょうさん入れて火をつけ放り投げるのよ。こんな風にのぉ」

 勝家は徐に立ち上がり、傍に置いてある甕を抱えるや否や、えいやっと前方に放り投げた。

 甕は高々と宙に舞い、十間(約十八メートル)も先の石垣にぶつかり大破した。勿論火薬は詰まっておらず、それでもその有様に長俊は目を剥き、

「これは…… 恐ろしき武器にござる。二十や三十の兵は吹き飛びましょうぞ」

「その通りじゃ。これは南北朝の時代、かの楠木正成なる武人の……」

 語り出す勝家を遮り、長俊は

「どうかこの武器だけはご勘弁を。こちらもできるだけ兵を失いたくございませぬゆえ」

「ギャハハハハ、さすがの甲賀衆上忍もこれの恐ろしさに震えとるのぉ、よしあいわかった、こいつは使わんでおこう。ギャハハハハ」


 こんな経緯があったにも関わらず。

 余りの強烈な甲賀衆の急襲に我を忘れた勝家は、侍従に火打石で点火させた甕を抱えるや力の限り放り投げたのである。


 甕が、飛んでくる。

 忠太郎の視野に高々と宙を舞う甕が入ってくる。

 勿論彼らはこの『火甕』の存在は知らず、その恐るべき威力も分かっていない。だが忠太郎の本能が警笛を鳴らす。あれは、危険じゃ!

「紅葉っ 逃げよ、駆けよ!」

 と言いつつ即座に反転し駆け出す。

 だがすぐに立ち止まる、何故なら紅葉が追走してこないからだ。

「おい、何をしている、逃げよ」

 振り返ると、紅葉は三間(約五メートル)程後ろで仁王立ちしているではないか!

「忠さま、ここはうちが食い止める、先に参られよ!」

 何やら煙の吹いた甕がこちらに近付いてくる。

 紅葉も本能でこれはとてもまずいものだと気付いていたのだ。ここで自分が受け止めねば忠太郎に被害を及ぼすだろう、咄嗟にそう思ったのだ。

 紅葉の視野に甕が徐々に大きく広がってくる。やけにゆっくりと感じられる。

 ああ、あれは信楽の甕じゃな。あの煙はなんじゃろうか。中には目眩しの粉でも詰まっておるのかのぉ、それとも火薬でも……

 火薬……

 だとしたら、あれが破裂すれば忠さまは……

 紅葉はチラリと背後を見て、

「忠さま、はようお逃げなされ!」

 と叫ぶや否や、前方に駆け出す。

 立ち止まっている忠太郎は背筋に冷たい汗を感じる、何をしている紅葉。まさかお主……


 駆け出した紅葉は甕の落下地点を読み、更にその前方へ駆け出す。

「下がれ、下がれ!」

「危ないぞ、下がれい!」

 周囲から柴田勢が物凄い勢いで引いていく、ああやはり… これは火薬の甕なのだ…

 うちの腕力ならば押し返せよう

 うちが守らねば

 うちが忠さまを守らねば

 紅葉は全力で跳躍する。飛んでくる煙を吹いた甕に向かい全力で跳躍する。

 思い切り手を伸ばす、甕を叩き落とさねば!

 早う叩き落とさねば!


 まるで大鷲の如く宙を舞う紅葉の後ろ姿に忠太郎は絶叫する。

「もみじぃーーー」

 目を大きく見開き、その姿を凝視する。

 待て、待てい!

 行ってはならぬ、儂を置いて

 行ってはならぬー

「もーみーじぃー」

 忠太郎の絶叫に紅葉が一瞬振り返る。

 その横顔に、喜びと切なさを含んだ横顔に、言葉を失う。

 跳躍した紅葉が力任せに甕を叩き落とす。

 その甕が地面に落ちた瞬間。


 ドカーーーーーーーーーーーーーン


 途轍もない爆音と黒い煙が忠太郎を襲い、程なく意識が遠のいていく……


     *     *     *     *     *     *


 元亀元年六月四日(1570年7月6日)、野洲河原の戦い、通称落窪合戦は織田軍の勝利に終わった。


 六角軍側は三雲定持父子、高野瀬、水原、甲賀衆ら七百八十名が討ち取られた。六角義賢・義治父子は戦場から逃れたものの、近江一円の支配権は織田信長のものとなった。

 伝承では、長光寺城内で籠城していた柴田勝家が配下の士気を高めるため、不足していた水が入った甕を叩き割り背水の陣を引いたことから『甕割り柴田』の異名がついたとされている。


 十日後。

 柴田勝家の陣営を訪ねてきた者がいる。

 紺色の装束に頭巾を被った主人とその配下達である。

 勝家はその訪いを知らされ、胃に鉛をぶち込まれた様な気分となる。

 従者に通された装束姿の山中長俊の怒りに満ちた鋭い視線に思わずゴクリと唾を飲み込む。

「柴田どの。約定を覚えておられるか」

 まるで地獄の修行僧の如く低く恐ろしげな物言いに額から汗が滴る。

 十数名の勝家の近習に刀を突きつけられながら、怯む様子は一切見せずただ勝家を睨みつけている。

「や、約定、とは?」

 声が霞む。長俊の殺気にこの鬼柴田が小刻みに震えている。

「火薬の甕、火甕は使わぬとの約定。まさか忘れたとでも?」

「ああ、使ったわい。汝等の凄まじき攻勢に思わず、じゃ。あれはまるで儂の首を取る勢いではなかったか、ええぇぇ?」

 反論するも長俊の冷たい視線に言葉が萎んでいく。

「それにじゃ、こちらも兵を多数失のうたわい、あいこじゃ」

「では亡くなられた家臣は誰でござるか?」

 因みにこの戦で柴田家の主な家臣は与力の徳山則秀を初め誰一人欠けていない。あの爆発で数日耳が遠くなった者は多々いたが。

「汝等も失ったのは精々下忍衆であろう、あいこじゃあいこ」

「いいえ」

 長俊はゆっくりと被りを振り、

「我が妹、紅葉を失い申した」


 勝家の顎がだらしなく下がる。

 い、妹じゃと?

「ちょ、ちょっと待てい。うぬが妹じゃと? 女子が何故に戦場に?」

「女子云々はどうでも良い。問題は何故に柴田どのは約定に反した行いをしたのか、じゃ。」

「そ、それは、だ、だから……」

「織田家では戦の約定はどうでも良いと? 大将のその場の気分で約定を破るのが普通じゃと?」

「ち、違う、そうでは……」

「我が方は約定通り、開始早々から六角勢本体を支えずにおった。柴田どの本陣への奇襲は少数のみ、少々撹乱させた後すぐに引いたのはお見知りの通り」

「そ、それは、そうじゃが…」

「なのに。何故に約定に反した火甕を使われたのじゃ。我が妹の命を吹き飛ばしたのは何故じゃ勝家どの」

「で、であるから、その… 」

 見かねた与力の徳山則秀が脇より出て、

「本陣への襲撃は勇猛果敢、命の危険を顧みての仕方なき仕置きぞ。確かに約定を破りしはこちらの責なれど。汝等、如何する所存じゃ? 織田家に反旗を翻すとでも?」

 長俊は則秀を睨め付け、

「織田家ではない。織田信長公ご本人に責を取ってもらう、即ち」

 信長拝領の一振りを差し抱え、

「いかな手段を用いても、信長公の命頂戴する所存。忍びの郷の我らにとって、総大将ただ一人の首を狙うなぞたやすきことよ。我らの忍びの力、徳山どのならよくご存知かと」

「汝等…」

「そして信長公亡き織田家は、果たして天下統一ができますことやら」

 勝家の従者達は背筋が冷たくなる。

「甲賀衆の情報網をよくご存知であろう、北は伊達、蘆名、上杉」

 徳山則秀の顔が歪む。

「東は北条、武田。西は尼子、毛利、三好」

 他の従者の溜め息が重なる。

「南は大友、島津。信長公亡き後、織田家に加担する家がおありかと? みな我が一筆で一気に尾張に殺到しましょうぞ」

 勝家はようやく己の所業に気付き呆然とするのであった。


「儂は… 如何すれば良い?」

 勝家は額から脂汗を垂らしながら、低い声で呟く。

「領地の安堵に加え、税及び使役の免除」

「うぅぬ…」

 勝家は則秀らを見廻す。彼らは囁き合い、やがて仕方なく頷く。

「承知した」

「それに加え、それがしを柴田どのの配下に加えてもらおう」

「なんじゃと?」

「おのれ、いい加減にせい」

「この若造が、調子に乗りおって!」

 皆騒然となり刀の柄に手を載せる者さえいる。

「殿、なりませぬ。このような輩を家臣にするなぞ」

「そうですぞ、寝首を掻かれること必定」

「忍びの者なぞ我が家中に不要にござります!」

 いきり立つ家臣団の中、徳山則秀のみ顎に手を当て片眉を上げ思索に耽っている。やがて徐に、

「この織田家において最も勇猛なるは誰ぞ?」

 と皆に問いかける。

「我が柴田家に他ならぬ」

 誰かが答えると皆当然とばかりに頷く。

「では織田家最強の我が軍の本陣を最も容易く混乱に導いたのは誰ぞ?」

 場はしんとなり、咳ひとつ聞こえない。

「その者どもを家臣に加えること、これ柴田家の更なる強さにならんと思わぬか?」

 皆は目を見合わせ、ヒソヒソと囁き合う。

「ひいては織田家の天下統一の近道となるのではなかろうか?」

 主人である勝家が脳筋系の男だけに、その部下や従者達も脳筋系だらけだ。まあ単純な漢どもである。理路整然とした話は苦手だが、単純明快な話にはすぐに食い付いてくる。

「我が柴田家が天下最強……」

「天下統一のため……」

「お館様の天下布武のため……」

 長俊をチラ見しては囁き合う家臣達を見渡し、勝家も考えてみる。

 この男は武のみならず知も有す漢だ。我が家臣でこれ程理路整然と思考できる者は多くいまい。それだけでなく、我が言葉に平然と反論する度胸も持っている。

 元より気になっていた漢である、いっその事本当に取り込んでしまった方が?

 則秀に伺いを立てるかの様に視線を送ると、

「この者。必ずやお家の為となりましょう。お抱え入れるのが重畳かと」


 これから暫くして、長俊は柴田家の家臣となるのであった。


     *     *     *     *     *     *


「おい忠太郎。いい加減に床から出ぬか。いつまで引きこもっておるのじゃ」

 忠太郎の上の兄である伴助左衛門が冷たく言い放つ。

「長俊どのの妹御は残念じゃったが、お主がいつまでもうじうじしておってはこの家が暗うなって辛気臭いわい」

「申し訳ありませぬ。今少し伏せらせていただきとうございまする」

 助左衛門はへっと見下した顔で、

「ならば勝手にするがよい、なんとだらしのない、我が家の恥じゃな」

 そう言い捨ててドシドシと足音を立てて遠ざかって行く。

 呆然と寝所の天井を見上げている忠太郎。

 あの爆発によって全身打撲と顔や手足に多数の擦過傷を負い、身を起こすのも未だに困難なれど後数日もすれば元通りに回復する見込みであると薬師は見立てている。


 兄の戯言に関わらず。この甲賀の郷において、柴田本陣を撹乱しあの大爆発からこの程度の負傷で帰還した忠太郎の評価は鰻登りである。

 年下の下忍衆からは存在が神格化されつつあり、見舞いがひっきりなしの状態だ。誰もが褒め称え称賛し、忠太郎の様な武者になるのが夢であると言っている。甲賀の若き忍びの憧れである、これからは自分達を良く導いて欲しい、皆口々にそう言って首を垂れるのである。

 だが。

 未だに忠太郎は信じられない。

 あの紅葉がこの世から消え失せてしまったことが、どうしても納得出来ない。


 あの轟音の後、暫く気を失っていた忠太郎は頬を叩かれ意識を戻す。

「忠太郎どの、気を確かに」

 埃で真っ黒の顔の蝶児だ。

「蝶…児…、もみ…ぢ…は?」

 悲しそうな顔で首を振る蝶児に、

「嘘や! どこや紅葉はぁ? どこにおるんや!」

 と掴みかかる。

「おひいさまが叩き落としてくれなんだら、儂らもあの世に消し飛んでおりましたぞ」


 ひいぃぃーーーーーーーーーーーー


 忠太郎の口元から呻くような叫び声が溢れ出す。

「ささ、とっとと失せましょう。柴田らも混乱してはりますが、すぐに見つけ出されましょう」

 そう言うや忠太郎を肩に担ぎ、柴田本陣から矢のように飛び出した。


 甲賀衆の本陣に戻ると山中長俊が険しい表情で

「おい忠太郎、先程の轟音、あれはもしや?」

 跳ねた石が当たり腫れた左目を押さえながら

「甕が、火薬の入った甕が飛んで参りました」

「おのれ、勝家」

 普段は陽気で気さくな長俊が怒りに満ちた冷たい目で彼方を睨む。

「して、紅葉は? まだ戻らぬ様じゃが」

 不意に忠太郎の瞼に涙が溜まり、やがて頬を伝い流れ落ちる。言葉を発しようにも胸が詰まり一言も出てこない。小さな呻き声のみがその渇ききった唇から漏れるのみである。

「まさか… おい蝶児!」

 蝶児はガバッと長俊に平伏し、

「申し訳ござりませぬ。拙者がおりながら、あの爆発にどう致すこともできませぬまま…」

 長俊はがくりと膝をつき、呆然と横たわる忠太郎を見下ろす、

 周囲の者共は口々に

「だからおなごが戦場に出るなぞ」

「いかに腕利きとはいえ、おなごでは」

 と囁きあいつつ、深く項垂れる長俊を思いやり一人また一人と外に出て行く。

「おひいさまは忠太郎どのを守るべく、あの甕をおん自ら…」


 あぁぁぁーーーーーーーーーーーーー


 長俊の悲痛な叫び声が野洲川に響き渡る。日は傾き川の水の色はどす黒く琵琶湖に向かい流れている。

 辺りには大量のカラスの鳴き声が響き渡っている、倒れた者どもの弔いと共に夜の宴をついばまんとする為にー


 二月後。

 夏は終わり、秋の訪れが風の冷たさから感じられる。

 すっかり回復した忠太郎は日も暮れかけた夕刻、野洲川の辺りで一人川面を眺めている。

 白鷺が一羽、川を泳ぐ小魚をついばんでいる。遠くの林の中からカラスの鳴き声が切なく耳に届く。

 空を見上げると流れ行く雲は橙色で、あの日の戦で見た敵味方の血飛沫を彷彿とさせ、忠太郎は顔を顰める。

 身体はすっかりと良くなったのだが、あの日以来心が空っぽのままである。

 兄達の暴言も、下忍達の賞賛も全く心に響かない。

 母の慰めも父の労りも、全く心に届かない。


 唯一心に響いたのは。紅葉が兄の山中長俊の

「よいか忠太郎。あれからどれほど探しても、紅葉の切れ端一つ見つからなんだ。きっと紅葉は逝ったのではないぞ、どこか別の世に行ったのよ。紅葉は生きておるぞ、この世でない別の世で、必ずや」

 と言う言葉だ。

 紅葉はあの爆発で死んだのではない、何故ならその痕跡が全く見当たらないからだ。

 あれから何度その現場に足を向けたであろう、今日も昼からずっと爆発の跡地周辺を蟻のように這いつくばっていたのだ、

 指一つ、髪の毛一本、布切れ一つ見つからないのだ。

 蝶児をはじめとする探索方がどれ程探しても、紅葉の亡骸や痕跡は一切発見出来なかったのだ。


 故に。

 紅葉は、生きている。

 この世ではないかも知れぬが、紅葉は必ずや生きている!

 橙色の空を見上げながら忠太郎はそう確信する。

 そしていつの日かまた紅葉と会える。そうに違いない。

 その日の為に、儂はこれから……

 儂はこれから、紅葉に相応しき漢に成らねばならぬ。再会し時にあの大きな目が更に大きく広がるような、目を見張るほどの立派な漢になっておらねばならぬ。


 新たな決意を胸に、忠太郎は重い腰を上げる。

 白鷺がその気配に気付き、大きく羽ばたいて琵琶湖の方へ飛んでいく、

 忠太郎は思わず片手で白鷺を追う。

 その手の先に飛び去る白鷺は、まるであの日の火甕に飛びかかる紅葉の姿……

 忠太郎は首を振り、邪念を払う。

 大きく深呼吸を何度か繰り返す。

 飛んでいく白鷺に背を向け、甲賀の郷へと駆け出した。


 その眼から涙の粒が夕暮れの風に消えていく。


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