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甲賀学苑古武士道部  作者: 悠鬼由宇
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最終章

 片付けを終えて本陣を引き払った頃、病院から前田りえが到着する。

「残念だったわね。」

 と一言言う。

 柴田が大久保充の容態を尋ねると、

「重度の熱中症。脱水症状がひどくて明日の試合は無理だそうよ」

「そうですか… 準決勝の伊賀中等戦、忠太はどうするんやろ… ねえ、先生ならどうしますか?」

 りえは柴田を睨め付け、

「聞きたい?」

 柴田はコクリと頷き、

「聞きたいです」

 りえは目を妖しく光らせ、

「そ。帰りの車の中で教えてあげるわ」

 柴田はゴクリと唾を飲み込みながら、

「お願いします」

 と呟いた。


 帰りの電車の中は、それ程悲壮感はない。真央がすっかり立ち直り、準決勝で当たる伊賀よりも決勝で当たるかも知れぬ壬生院へのリベンジに熱くなっているからだ。

「ほんでちゅーた、弓はどうするんじゃ?」

「それな… 伊賀の奴らは動画で研究してくるだろうしな、どうしたもんだか…」

 と頭を抱えてしまう。

 二年生の葛城みさとは正確性には欠けるがパワフルな連射が持ち味だ。相手が今日の様な攻め方をしてくるなら、みさとを使う方が良いかも知れない。

 だが。

 何と言っても、あの伊賀中等である。

 その戦いぶりは甲賀学苑の部員達も研究済みだ。実にオーソドックスな攻撃なのだが、その正確性、パワー、アジリティ。更に、炎天下でも全く体力の落ちないハードワーク。

 そして、総大将の百地翔琉を中心とした堅牢すぎる守備陣。

 一体、どこから手をつければ良いのか、未だに忠太は悩んでいる。

「まあ、前半は互いに睨み合いの展開になるじゃろう」

 真央が鋭い目付きで呟くと忠太も頷き、

「そして、後半勝負、なんだろーな。だろ、一宇?」

 一宇もコクリと頷き、

「何せ、奇策、秘策とは無縁の王道の戦いっぷりですよ、百地さん中心に横綱相撲を取ってくるやろな」

 忠太は激しく同意し、

「そんなら前半は美咲、後半からみさと、が無難かな」

 だな、ですね、真央と一宇は首を縦に振った。


「何でだが師匠、なすて明日は付ぎふとやらへでぐださねのだが? おいの何がいげねのだが? わり所は直すますはんで、明日も付ぎふとやらへでげ!」

「だーかーらー お主、何言うとるか分からんて」

 車内に爆笑が湧き上がる。特に下級生達は腹を抱えて苦しそうに笑っており。

「それにしても。美晴って、ちゃんと喋るんやな」

「それなー。初めて聞いたべ、あんなに喋っておるの」

「てか、何言ってるか、マジ分からん」

「でも、さすが師範、美晴の心をガッツリ開いたのお」

 同級生達が感心したように話している。


 杉谷美晴。青森県むつ市出身、有名な恐山へは車で二十分程の距離である。

 幼き頃より、

『陸奥の無双童子』

 と呼ばれ、その怪力ぶりは地元では有名だった。

 六歳の時に青森市の某寺で行われた怪力自慢コンテストで、六十キロの岩を軽々持ち上げて放り投げ、その名は県下に知れ渡る。

 自慢の力を生かした槍は天下無双と噂され、美晴の『無双突き』を知らぬ東北地方の道士は一人もいなかった。

 生来内気な性格の上、東北訛りがひどく、甲賀学苑に進学後も殆ど他人と喋ったことはない。

 また社会不安障害(S A D)かと親が心配するほどの緊張体質で、入部の時の自己紹介では何も話せずに真央を苛立たせた。

 だが、槍を握ると全くの別人格、あの『甲賀の女狼』と恐れられる真央とも対等に突き合える無双ぶりなのである。

 一昨日、紅葉が暇つぶしに相手をしたが、無駄な力配分を教えようとして掴んだ槍ごと放り投げた。

 自分より遥に小さく遥に非力な女子に槍ごと放り投げられた。

 美晴はショックを受けるどころか、紅葉に心酔してしまい、自ら紅葉の下僕を買って出て一日中団扇を仰いでいたのである。


 真央はそんな美晴を眺めながら、

「アイツ、明日は使えるかも分からんね」

 忠太も

「出番は必ず、ある」

 と断言する。


 寺に戻ると八時近くになっている。

 小僧達が言い合っている声が山門にまで響いている。

「そやから、絶対刀役で先発出場やって!」

「そないなことしたら、五分で試合終了や。そして全世界に紅葉ちゃんがバレてまう」

「いやいや、伊賀は舐めたらあかん、紅葉ちゃん抜きなら余裕で負けや」

「そやそや、忠太なぞ五秒で討ち取られるわ」

 忠太らが眉を顰めながら食堂に入って行っても議論は止まらず。

「なあ忠太、ええ加減紅葉ちゃん出さんかい、でないと甲学三決(三位決定戦)行きやで」

「なあ忠太、後半の後半に、パッと出すんやで、そんでチャチャっと百地斬り倒して、終いや、それ位でええ」

 紅葉は大欠伸をしながら、

「くだらん。ウチは風呂入るで、おいチビハル、背中流さんかい」

「はーい」

 女子二人はさっさと風呂場へ駆け込む。

 既に食事、入浴を済ませた照天、行円はブツブツ言いながら部屋に戻っていく。

 忠太は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに入れて食卓に座り美味そうに一気飲みする。


「で。何か秘策はあるんか? 鍵はやはり紅葉ちゃんやで」

 一人残った珍龍がボソッと呟く。

「それな。まだ何も考えてねえ」

 ふん。珍龍は頷き、タブレットの動画を忠太に見せながら、

「伊賀は攻守共に万全の態勢や、奇策や秘策なんて全く通じんと思ってええ」

「わーってる」

「特に刀役のスタミナ。マジでえげつないレベルや。コイツらを何とかせんと、前半で相当削られてまうよ」

「スタミナ、な。こっちもそれなりに対策したんだけどな。この蒸し暑さ、これは対策すんのすっかり忘れてたわ」

「そやね。そこでや。こんな策はどうや?」


 それから珍龍と忠太は日が変わるまで明日の伊賀戦に向けて真剣に話し合ったのだった。


     *     *     *     *     *     *


「それでは、これをもって本日は解散とする。明日は十時にJ R京都駅集合、遅刻は厳禁とす」

「うぉっす」

「明日は我が伊賀中等教育学校が近畿の頂点に立つ日である、各自万全の体調で集合されたい」

「うぉっす」

「以上。気をつけぇー 気を引き締めぇー 礼っ」

 皆が四十五度の角度で礼をする。

「明日の本選の先発メンバーは残ってくれ。以上」

 翔琉の周りに先発メンバーがサッと集まる。それ以外の道士達は秒でこの場を去って行く。

「みんな、今日はお疲れ。明日の準決、甲賀学苑戦なんだがー」

 翔琉が珍しく口篭っている、堪らず副将の藤林芯が、

「なんや翔琉、言いたいことあんなら遠慮せず言わんかい、え? 俺と遥ちゃんの結婚を許してくれるんか?」

 槍役の下柘植洸太がいきりたち、

「はぁ? 俺は会員番号十七番やで、俺こそが遥ちゃんの婿に相応しいやろ?」

 翔琉が殺人鬼の形相で二人を睨みつける。

 場は凍りつき、皆は背筋を伸ばす。

「明日の甲学戦だが。後半からアレをやろうと思う」

 一同は呆然とし、息を呑む。

「もちろん、前半で試合が決まっていたなら、やらんけど」

 藤林が

「俺らは別にええけど、翔琉、お前ホンマにそれでええんか? O Bとか後でめっちゃ文句言うてくるで」

 下柘植も、

「お前の覚悟はわかった。でも、そこまでする相手か? 動画見る限り、そこまでの相手とは到底思えへんのやけど」

 翔琉は何度か頷きつつも、

「そやけどな、なぁんか薄気味悪いんやわ、アイツら。ホンマの実力を出し切っているようには思えへんねん」

 うぅーむ、皆は唸る。


 しばらく皆は無言であったが。

「まあ、大将がやる言うてんのやから、やろうや。それにアレやったらウチの勝ちは確実なんやし、そうやろ?」

 一同は深く頷く。

「よっしゃ。そなら、もう一度フォーメーションのチェックせんと。おう、これから翔琉の家でブリーフィングや、ええやろ翔琉?」

 翔琉は軽く頷き、スマホで母親にその旨を連絡する。

「よし、行こか」

 試合会場だった神戸市営フィールドを後にする。

 翔琉は藤林の耳元で、

「芯、おおきに」

 と一言囁く。

「かまへん。それよか、明日の観客や甲学の奴らの驚く顔がはよ見たいわ、マジで」

 翔琉はニヤリと笑い、

「三連覇なんて、絶対させへん。近畿の王者は、俺らや」

 藤林は力強く頷いて同意する。


     *     *     *     *     *     *


 令和四年 五月二十九日 日曜日。

 昨日とはうってかわり、梅雨空を思わせる低い雲が空一面を覆っている。

 気温は二十三度、湿度六十七%

 近畿大会決勝トーナメント会場の京都伏見スタジアムは既に超満員だ。


 十一時に試合開始の準決勝第一試合、壬生院古武士道会と大阪A代表の堺古武士道研究会の試合は、地元の大歓声を受けた壬生院が10対8で堺を下し、七大会ぶりの決勝進出を決めている。

 午後一時試合開始の準決勝第二試合、甲賀学苑中等部対伊賀中等教育学校。


 本来ならば決勝戦のカードとなるべき試合であり、近畿地方のみならず、日本中の古武士道ファンが固唾を飲み込みながら試合開始を待っている。

 この準決勝と決勝戦は衛星放送で全国中継され、更には世界中で録画放映されるのだ。

 スタンドやフィールドには夥しい数のTVカメラが設置され、よりリアルなフィールド上の道士達の動きが映像化されるのである。


 十二時五十分。

 フィールド上に両チームが現れると、聞いたことのない大歓声が湧き上がる。

 伊賀の道士達はそんな雰囲気に飲まれることなく、いつものように厳しい表情で綺麗に整列している。

 一方の甲賀学苑の道士達は、主に一年生、二年生のメンバーがあまりの歓声の大きさに動揺し、顔を強張らせ手先が震えている。

 中でも一番挙動不審なのは三年生の新メンバー、山中紅葉その人である。

 三万人の大観衆の大声援。

 あの戦のものの数では無い、これに匹敵するのは三方原の戦いや長篠の合戦か。まぁ、どちらも紅葉は知らぬのだが。

「なんじゃ… この人の多さは… さすが京の都じゃ、都中の人が観にきておるのじゃろう?」

 と忠太に囁く。

「なんだ紅葉、緊張してんのか?」

「しとるわ。こないな人の群れ、見たことないわ」

「まぁ確かに。このフィールドが超満員なんて、滅多にねえんじゃね?」

 紅葉は回れ右をし、

「帰る。気分が悪うなった」

 忠太は紅葉の腕を掴み、

「俺の後ろを守ってくれんじゃねーの?」

 と挑発する。

 紅葉はしばし忠太を睨め付け、ふぅーと大きく息を吐きながら、

「仕方ないのぉ、哀れな忠助を守ってやるわい」

 と吐き捨てるのであった。


 試合に先立ち、先発メンバーが発表される。


「甲賀学苑 総大将 伴忠太くん」

 県予選での『忠太斬り』はもはや彼の代名詞、凄まじい大歓声に当の忠太が目を見張り慄く。

「弓役 小泉浄蓮くん 池田美咲さん 望月一宇くん」

 盛大な拍手が送られる。

「槍役 和田真央さん 大原譲治くん 佐治冬馬くん」

 近畿に誇る甲賀三本槍、大歓声がスタンドに湧き上がる。

「刀役 小川蓮兎くん 宇田かなさん 三雲三次くん」

 おおおおおー 観衆がテンションは上がり、

「―百地遥さん」

 ウオォーーーーーーー

 忠太の時よりも更に凄い歓声が京都の曇り空に沸き上がる。


「伊賀中等教育学校 総大将 百地翔琉くん」

 遥の時と同じ程の大歓声が伏見の地を揺らす、兄妹対決の行く末に観衆の誰もが身震いしている。

 弓役 新堂新 野村弦 楯岡みすず

 槍役 下柘植洸太 高山瑛太 上野数馬

 刀役 藤林芯 山田瑛美 神戸龍之介 音羽レオナルド


 以上、県予選からの不動のイレブンなのである。


 道士紹介が終わり、メンバー達は各々の陣地に散って行く、観客のボルテージは高まっていく。

 本部から見て右側に甲賀学苑、左側に伊賀中等が陣取り、試合開始の法螺貝を今か今かと待っている。


 時計は十二時五十九分をさしている。

 本部前に大きな法螺貝を持った大会責任者が現れる。

 本部内のモニターが各道士を映し出す、センサーチェックO K

 インカムに間も無く試合開始との声が入る。検視役のスタッフの緊張感もマックスだ。


 時計が一時をさす。

 大きく頬を膨らませた責任者が肺いっぱいの空気を法螺貝の口に送る。 


 運命の準決勝が、始まった。


     *     *     *     *     *     *


「さあ、準決勝第二試合、甲賀学苑と伊賀中等教育学校の試合が始まりました、向かって右側のグレーの胴着の甲賀学苑、左の白の胴着の伊賀中等、両者慎重な出だしとなります、甲賀学苑左翼の百地、伊賀陣内に入りますが遠矢を嫌い深追いはしません。伊賀中等の藤林、じりじりと前に出ます、サポートの下柘植が背後を固めています、」


「遥―、突っ込むなよ、かなとの距離感を意識しろっ」

 忠太が逸る遥に叫ぶと遥はムッとした顔で頷く。

「真央、二間(約1.8メートル)押し出せ」

 槍役が揃って前方に動き出す。

(三次、少し陽動しろっ)

 と言うサインを右翼の三雲三次に送ると、三次は軽く頷き猛然とダッシュする。

 だが伊賀は応じることなく中央を固め、抜群の守備陣を構成する。

(蓮兎、三次を引き戻せ)

 蓮兎は頷き、三次に掛け声を送る。

 遠矢を払いながら三次は引き返し、蓮兎の脇に戻る。

 固え、な。

 苦笑いしながら、忠太は伊賀の隙を見つけるべく視線を何度も行き来させる。


「―全く動じません。甲賀学苑はじりじりと伊賀陣内に入ります、解説の林さん、ここまでの両陣営の動きは如何でしょう?」

「そうですな、まずは様子を伺っているのだと思います。両チームとも非常に連携が取れていますので、迂闊な攻撃は命取りだと分かっているのでしょう」

「そう言えば林さん、甲賀学苑の総大将である伴忠太道士の育ての親と言うことで話題になっております、少年時代の伴道士をよくご存知ですね?」

「はぁ、小さい頃から元気のいい子供でしたね、特に敏捷性に優れておりました」

「そうですか。県大会での新技『忠太斬り』は今や世界中で話題となっておりますが、これも林さんのご指導の賜物と思われます。その伴総大将が大声でチームを鼓舞しております、」


「世界中で話題、か… 困ったもんだな華子ちゃん」

 田所が大画面のテレビを見ながら側の田中華子に呟く。

「全くですわ、涼一ちゃん」

 相変わらず、ブレねえなこの子は。田所は苦笑いしながら、

「それより、分かったんだって? 奴らの狙いが?」

「はい。予想通り、忠太くんとスポンサー契約を結び、高校卒業後にスタッフ兼専属道士として『オリハルコン』に迎え入れるプランなようです」

 鈴木次郎が大きく息を吐き、

「専属道士、すなわち専属の傭兵って奴か。冗談ではない、古武士道士を戦争の駒になぞ断じてさせるものかっ 許すまじオリハルコン、そしてオグネルめっ!」

「その通りよ、絶対この子の青春、戦争になんて捧げさせねじゃ!」

 熱くなる二人に苦笑いしながら、

「そう言えば、紅葉ちゃんは今日も試合に出てないな。まあ、それはそれでいいのだけど…」

 華子がクスッと笑って、

「少しくらいは娘の晴れ姿が見たい、って感じですか?」

「ははは、そんな感じだよ」

「ところで田所さん、どうして未だに独身を通しているのでしょう? もう孫がいてもおかしくない歳でしょうに?」

 次郎がズケズケと痛いところをついてくる。

「それは、君らに子供でも出来たら話してやるよ」

 …… ……

 一瞬の沈黙の後。

「な、な、何を言うのでござる田所どの、さ、さ、仕事じゃ仕事、のぉ華子どの」

「何どしゃべる破廉恥な… さあすごどさ戻るべ、じろさ」

 あと一押しだな、田所はニヤリと笑いながら画面に目を戻す。


「結局、メンバーに大きな変更なし、でしたね」

 柴田がフィールドを観ながら前田りえに話しかける。今日は本陣スタッフとして、りえに入ってもらっているのだ。

「それが一番無難だからよ」

 柴田は頷きながら、

「山中を入れてくると思ったのですけど。先生、山中の技、見たことありましたっけ?」

「ええ、遠くから少し。私もどうして彼女を入れないのか不思議だわ」

「ですよね、ですよね。あれだけ刀も槍も弓も上手いのに、なんで試合に出さないんやろ。まあ、当の本人が頑なに出場を断ってるようなんですが…」

 りえは本陣の端でうたた寝をしている紅葉を睨みながら、

「やる気のない者を出す必要はないわ。大方、この大観衆におじけついているのではなくて?」

「そうですかねぇ、そないなタマやないと思うんですが」

「まぁ、大将の采配のお手なみ拝見ね。前半はどうせこのまま動かないでしょうから」

「はぁ」

 古武士道の大先輩の言うことだ、俺は口出さんとこ。そう決めて柴田はフィールドに目を戻す。


「さあ前半の十五分が経過しました、依然スコアは11対11、両者ともに睨み合った状態が続いております。どうでしょう林さん、動きがあるのはやはり後半でしょうか?」

「その通りだと思います。前半はこのまま経過し、後半に一気に動いてくると思います」

「この、均衡を保ったままというのも、両者ともに精神的に厳しいのではないでしょうか?」

「ええ、ここから先は一人の不注意が勝敗を分けてしまいます。どうしても慎重にならざるを得なく、従って大変な集中力が求められます」

「そうなると三年生が主体の伊賀中等の方がやや有利なのでしょうか?」

「甲賀学苑は一、二年生が多いですからね。大将の求心力がどうしても必要になります」

「どうでしょうか、甲賀学苑の伴総大将は? 林さんは彼の人となりをよくご存知かと思われます」

「そうですね、昔から周囲を巻き込む熱い情熱の持ち主でしたので、うまく若いチームを引っ張っていけるかと思います」


 神奈川県川崎市応禅寺。

「ないないない」

「和尚、何言っちゃってんだか、ウケるー」

 一同、大爆笑だ。

「あの忠太が? 周囲を巻き込む熱い情熱? 単に暑苦しい脳筋バカですから」

「女子のパンツ脱がせの術は確かに凄かった」

「ブラ外しの術も神業だった」

 ギャハハハハ

 ひとしきり大笑いの後。

「それにしてもよ、あの忠太がホントにこんな道士になるなんて、な……」

「アイツ、俺にタメ口しかきかなかったし。よくケツ蹴られたし。あの、忠太が、なぁ」

「スゲーバズったよな、忠太斬り。あれはマジでヤバいって」

「そーそー、伴って俺の後輩だぜ、って高校で言ったらよ、サインだの写メくれって…」

「あの、チビ忠がなぁ…」

 二年前の新横浜の駅のホームで忠太を見送った純平は、目にうっすらと涙を浮かべながら、

「あの忠太くんが、こんなに立派になって…」

 と呟くと、

「夏休みとか、帰ってこねーかなー」

 と誰かが呟いた。

 大型テレビの画面は、あの頃とは別人の真剣な顔の忠太がアップに映し出している。


 それにしても。

 百地翔琉は右翼から攻撃を仕掛けてくる妹の遥の成長ぶりに目を見張っている。

 さっきから動きっぱなしではないか、いつの間にあれ程の体力、スタミナをつけたのだろう。

 見たところ、息切れなぞ全くなく、動きも敏捷性も全然落ちていない。

 遥は天才的な技使いであるが、体が小さい分スタミナが無かった。自分と遥の違いはその部分だと思っていた。

 ところがどうだ。

 右翼から果敢に突っかかってくる妹は、まさに無尽蔵のスタミナを誇り、少しでも油断すれば山田か神戸辺りは簡単に仕留められてしまうだろう。

 一体、この数ヶ月で遥に何が?

 翔琉は固唾を飲み込む。

 あの体力、スタミナ。

 もし、今遙とやり合ったら?

 俺は勝てるのか?

 天才、百地遥を凌駕出来るのだろうか?

 翔琉は首を振り、フィールド全体を見回す。

 後半だ。後半。

 俺はこのチームを絶対に勝たせる。コイツらと共に近畿を制す。

 士気高く、意気高く戦う仲間達を見つめる。

 そして、遥か向こうで佇む敵の総大将を睨み付ける。

 あの時の決着を付けてやる。

 ふと、思う。

 まさか。まさか遥の大躍進は、あの男のせいではないだろうか? あの男の指導によって遥はあれ程の体力を……

 頭にカッと血が昇る。

 斬る。アイツをぶった斬る。

 刀を強く握り締める。

 後半は、このフィールドを地獄絵図に変えてやる。

 翔琉は残酷な笑みを浮かべ、味方に適切な指示を与える。


 それにしても、動きがない。

 あまりにも伊賀中等の動きが少ない。

 忠太はまさかここまで前半が膠着するとは思っていなかった。この試合までの伊賀中等は、概ね前半に敵陣に切り込んでいき、二、三人差を付けていたのだった。そして後半の中頃から強烈な切り込みを見せ敵を圧倒していたのだ。

 何だろう、この違和感は?

 スコアボードを眺めると、残り時間は三分を切っている。それでも伊賀中等に攻撃の動きは見られない。

 後半に、何かを仕掛けてくる!

 忠太はそう確信するも、それが一体どのような戦術なのか皆目検討がつかなかった。

 幸い今日は本陣に高等部の顧問である前田せんせがいる、ハーフタイムに意見を貰おう、そう決めてから後半の布陣をどうするか考え始める。

 この前半はほぼ中央付近での小競り合いが多かったので、弓役が射っぱなしだった。よく見ると右翼の美咲はヘロヘロだ。

 フィールドに目を戻す、左翼の遥は元気一杯に走り回っている、後半も大丈夫だろう。三次はどうだ? やや疲れが見える、交代が妥当だろうか。


 それにしても、この静けさ。


 気に入らぬ。


 忠太の内なる誰かがそう呟いた。


「ああ、ここで前半終了の法螺貝です。11対11、甲賀学苑と伊賀中等教育学校、同点のままハーフタイムに入ります。林さん、両チームの前半戦はいかがだったでしょうか?」

「お互いに失点を防ぎ、ミスの無い良い出来だったと思います。後半戦に大いに期待したいと思います」

「それでは、前半のハイライトをご覧ください…」


     *     *     *     *     *     *


 本陣に戻ってきた忠太は一人ベンチの片隅で腕を組み思索に耽っている。

 水分を補給し、一息ついたメンバー達は忠太の周囲に集うも、どうも様子が変である。

 いつもなら誰彼なしに声をかけ、安っぽい元気と勇気を振りまく忠太が、真剣な面持ちで何事か考えているのだ。

 突如忠太は立ち上がり、ベンチ中央に座っている前田りえの眼前に立ち、

「のお軍師どの。敵は後半、何かを大いに変えてくるかと思うのじゃが。そちはどう思う?」

 はあぁ?

 軍師?

 それに、この私にタメ口!、

 りえは、顎が外れんばかりに口を大きく開け、呆気に取られつつ、

「そ、そうね。陣形を大きく変えてくるのじゃなくて?」

 忠太は首を捻り、

「陣形、ぞ。ふぅむ、それだけかのお?」

 と呟くや、メンバーに振り返り、

「後半。弓を変えようぞ。左翼、一宇。右翼、浄蓮。」

 一宇と浄蓮は頷く。皆は首を少し傾げる、中央を薄くする? どういうこと?


「そして、中央。紅葉、入れ!」


 おおおおおお……


 甲賀学苑本陣に低い唸り声が響く。

 遂に、とうとう出場するのか! まさか彼女が弓役で出るとは思っていなかったので、一同は驚愕の表情を見せたのだが。


 紅葉の弓の腕前を一同は脳裏に思い返してみる。

 その瞬間、全員がカッと目を見開き、大きく何度も頷き合う。

 一昨日だかその前日だかに、ふらりと弓役の修行場を訪れた紅葉は一宇から弓を強奪し、十間向こうに歩かせて、その場に立たせ。

「オモロい芸を見せたる」

 そう言うや、三本の矢を持ち、弓でキリキリと引き、パッと射る。

 その放たれた三本の矢は、一宇の頭、胸、そして金的に命中し、一宇はその場にうずくまったのだ。

「あれは神業やったわ、そうや、師範が弓で中央ならー」

「ええ、簡単に敵は中央突破出来ないっしょ、それ、チョーナイスアイデアじゃん」

「あの精度の矢なら、ちゅーたさんも安心して暴れられるで!」

 まさかの紅葉の弓役起用に、本陣内は大興奮の坩堝と化す。


 その紅葉なのだが。

 先程から呆然と忠太を眺めていた。

 あの仕草、あの挙動

 まさか、まさか忠太郎どの……


 もしいつもの忠太の雰囲気で言われたのなら、

「阿呆か。誰が出てやるものか、ウチはここで寝とるわ」

 と吐き捨てていたであろう。

 だが。

 今、目の前の忠助は、間違いなく忠太郎どのなのだ。

 ああ、どうして、突然?

 不意に紅葉の脳裏に忠太郎の言葉が甦る。


「儂の背中、そなたに任す」


 忠太郎どのや。忠さんが戻ってきた!

 そして、忠さんと一緒に戦える!

 忠さんの背中をウチが守る!


 忠太がゆっくりと紅葉の目の前にやってくる。その歩き方、首の曲げ方。ああ、何もかも忠さんそのもの…

「紅葉。儂の背中、そなたに任すぞ!」


 紅葉は唐突に、その大きな目から大粒の涙を幾つも溢しながら、

「この紅葉に… 任せておくんなされ…」

 忠太郎はニッコリと笑いながら、紅葉の肩を両手で優しく掴む。


 その手の温もりを肩に感じながら、紅葉の涙は止まりようがなかった。


     *     *     *     *     *     *


「道士の交代をお知らせします。甲賀学苑、池田美咲さんに替わりまして、山中紅葉さん」


 三人はテレビ画面に振り返り、えええ、と大声を上げる。

「あららら… 出ちゃいましたよ…」

 華子は呆れ顔で呟くと、

「まあ… 弓役ならば、それ程目立つこともあるまい。恐らく問題なかろう」

 と次郎が頷きながら言う。

「複雑だなぁ、活躍して欲しいけど、目立たないで欲しい… 上手くやってくれよ、戦国武士っ娘ちゃんよぉ」

 次郎は複雑な顔で、

「でも、なんかイヤな予感がします、」

 華子もにがり切った顔で、

「見てください、やる気満々の顔だよ、絶対派手にやらがすますじゃ!」

 田所はゴクリと唾を飲み込んでから、

「よし… もしそうなった時の対処を今から考えよう」

「「そうしましょう」」

 三人は画面から全く目を離せなくなったのだった。


「伊賀中等教育学校、総大将の百地翔琉くんが刀役に、藤林芯くんが総大将に首替えとなります」


 伏見スタジアムが一瞬静まり返る。


「な ん だ と」

「ちょ… まさか…」

「…… うそ、やろ?」


 観客席は大騒然となる。

 まさかの、百地翔琉の刀役への下役だ。

「林さん、まさかの首替えです… これは一体どんな意図が…」

「伊賀中等は後半頭から超攻撃的に攻める、と言うことでしょう。通常総大将はそのチームで最も実力のある道士が選ばれます、即ち伊賀中等で最強の刀役である百地くんが甲賀学苑を斬り刻む、そういった戦術なのでしょう」

「成る程、これは正に戦術『百地』と言ったところでしょうか。運命の後半戦が間も無く始まりますっ」


 ぶおおおおおーーーー


「後半が始まりました、あああああ、その百地、一気に甲賀学苑陣内に突入、あああ、そしてぇー」


「甲賀学苑 宇田かなさん 脱落ぅー」


「電光石火! なんという速さ! 宇田、一歩も動けず、あああ、そしてまたー、あああ」


「甲賀学苑 大原譲治くん 脱落ぅー」


「何という破壊力! 一瞬の綻びを逃しません百地! 甲賀学苑が誇る三本槍の一本をたった一刀で斬り捨てましたぁ!」


 遥は戦慄する。

 兄が、わずか開始一分で二人を斬り捨てたのだ。それも槍役を一刀斬りしたのだ。

 通常、槍の長さがあるので槍役の間合いは三メートル程であり、刀役が容易に踏み込める距離ではないのだ。

 だが兄は神速でその間合いに侵入し、あの大原先輩の面を取ったのだ!

 あの速度、その重さ

 大原先輩は恐らく病院行きだろう。現に倒れてからピクリとも動かない。

 何という速さ、重さ…

 我に返ると、何と自分の周りが三人に囲まれている!

 コータくんとエミちゃん、それにレオ…

 一対一なら決して負けはしないが、三人掛では荷が重い。その場を離脱しようとすると、巧みに隙間を埋めて囲いを突破できない。

 サポートを!

 周りの味方は兄の突進でバラバラになってしまっている、自分のサポート役の宇田先輩、大原先輩、共に兄に斬られた。

 孤立無援、なのだ。

 恐るべし翔琉にぃの謀略。

 私を、妹の私を陥れるとは……

「ハルカぁー、耐えよ、何とか耐えよぉー」

 忠太先輩…

 大丈夫。少なくともこの三人は私が引き受ける、必ず三人斬り捨てる。

 だから忠太先輩、いや忠太くん、いいえ、ちゅーた

 にぃを斬って!

 兄を叩き斬ってくださいっ


「遥ちゃん、卑怯だと思わんといてな」

 山田瑛美が鋭い視線で遥を睨む。

「ハルカサン、モシワケナイケド、キルカラネ」

 音羽レオナルドが刀を握り締める。

 二人は遥の前に左右に展開している。そして遥の背後に

「悪いな遥ちゃん、これも勝負やから、な」

 下柘植洸太が無表情で槍を構えている。

 死地、である。

 あまりにも残酷な包囲網なのである。

 容赦無く、山田が遥に突きを入れる、と同時にレオナルドが遥の胴に袈裟斬りを入れる。

 二人の攻撃をかろうじてかわすと背後から凄まじい殺気と共に鋭い槍が突き出され、何とか前方宙返りでそれをかわす。

(卑怯やろ やめろぉぉぉぉ 逃げろハルカちゅわん ダメだぁぁぁ No Way! )

 ネット上の書き込みが秒で百を超える。

 ちゅーたが翔琉にぃを斬るまで、耐えてみせるっ

 遥の地獄の時間はまだ始まったばかりであった…


「甲賀学苑左翼で百地遥が囲まれています、山田、音羽、下柘植に完全に包囲され身動きが取れません、そして伊賀の百地、今度は甲賀学苑右翼に襲いかかります、何というスピード、あっという間に甲賀学苑守備網を切り刻んでしまいました、甲賀学苑右翼の三雲、小川が前方から神戸、高山、上野に攻められます、そして後方から百地がっ 止められないっ 和田と佐治が懸命に防御しますが、百地はものともせずに小川、三雲を背後から攻め立てますっ、」


 冗談ではない…

 何という速攻なのか!

 蓮兎は三次と共に伊賀の刀と槍の三人を正面に相手しているのに、背後から百地が攻め立てるのだ!

 真央も冬馬も必死に百地を排除しようと槍を振るってくれるのだが、それを悠々と掻い潜り、蓮兎と三次の背中に斬りかかるのである。

 速いだけではなく、その打撃の何と重いこと…

 既に三大刀ほど入れられたのだが、あまりの衝撃で呼吸困難になりそうだ。

 隣の三次はそろそろ限界かも知れぬ、こうなったら差し違えてでも!

 蓮兎は徐に三次の背中に己の背中を合わせ、背後の百地と向かい合う。

「俺が百地の相手をする、何とか耐えてくれ三次!」

 三人を相手させるのはあまりに申し訳ないと思いつつ三次に叫ぶと、

「たのんます蓮兎さん!」

 三次の目前に三人、蓮兎の前に百地。

 百地の背後に真央と冬馬が回り込み、不完全ながらも百地包囲網を構築する。

 頼むで三次、お前が耐えれたなら、百地を囲んで斬れる!

 たのんます蓮兎さん、三人は俺が引き留めます、絶対に!

 互いに背中で語り合い、誓い合う二人である。

 だがその誓いはあまりに残酷な誓いなのであった…


 高山、上野の両槍は容赦無く三次を突き、神戸の刀は過酷なまでに三次を斬り刻む。

 槍に突かれるたびに後ろに倒れそうになるも、蓮兎がそれを背中で支える。

 神戸の籠手打ちが何度も決まり、その度に刀を落としそうになる。だが三次は歯を食いしばり刀を握り直し、刀を構える。

 背中の蓮兎も呵責無い翔琉の攻めに何度も後ろに倒れそうになる。だがその度に三次が背中でそれを支える。

 真央と冬馬の突きが翔琉の背中を何度も襲うも、まるで後ろに目が付いているかの如く、悉くそれを逸らし、逆に蓮兎へ激しい斬り込みをかける。

「トーマ、何とか、蓮兎を!」

「わかっちょる、わかっちょるが!」

 焦りから冬馬の槍先が乱れ始めるや、翔琉は蓮兎への攻撃から反転し、冬馬に襲いかかる。

 冬馬は必死で間合いを取り、ジリジリと後退しながら攻撃を避けるのだが、翔琉の踏み込みの速さは忠太のそれ以上であり、あっと思った時には目の前に鋭い刃が振り下ろされ…


「甲賀学苑 佐治冬馬くん 脱落ぅー」


 甲賀三本槍の二本が、堕ちた。

 大歓声の半分は悲鳴に変わり、顔を覆いうずくまる生徒が甲賀学苑応援席に多発している。

「何ということでしょう、後半十分で甲賀学苑は四名が脱落です、圧倒的な強さの百地の前に、なす術がありません。小川と三雲もそろそろ限界か、伊賀の激しい攻撃に崩壊寸前です!」


 はあ はあ はあ

 激しい呼吸を抑えることができない。

 目の前に百地が刀を構えている。

 浄蓮の必死の援護射撃も百地は軽く刀を振い、いなしている。真央の強烈な突きにも全く動ぜずに落ち着いて対処している。

 何という、百地…

 蓮兎は刀を握り直し、背中の三次の様子を伺う。槍と刀に攻め立てられ、反撃どころか立っているのがやっとの状態だ。

 三次がこんなに頑張っているのに…

 蓮兎は歯を食いしばり、翔琉を睨み付ける。

 俺を信じて三次が頑張っているのに… 畜生、チクショウ!

 不意に背中がずっしりと重くなる、三次、お前……

 ……

 嘘やろ、お前……

 何と三次は気を失ったまま、背中を蓮兎に預けて立っている!

 蓮兎の両目から涙が溢れ出る。

 何と俺は情けない先輩なんや。後輩が気を失いながら立っているというのに、俺は、俺は…

 うわぁーーーー

 蓮兎は絶叫しながら翔琉めがけて刀を振り下ろす。


 何故、この男は泣いておるんや

 翔琉は不思議に思った。

 男は絶叫しながら自分に刀を振り下ろす。中々鋭い太刀筋である。

 だが、翔琉は難なくそれをかわし、男の胸に渾身の突きを入れる。男は後ろに吹き飛び、瑛太、数馬、龍之介に攻め立てられている刀役の背中に当たる。

 手応えは十分だった、普通ならその場で崩れ去るはずだ。だが、この男は背中の男と支え合い、膝を崩すことなく立っている…

 目は虚で殆ど意識は無くなっているはずだ、だが刀も落とさず崩れ去らず…

 背中の男も全く反撃せず、立ち尽くしている、すなわち

 二人の男は、背中を支え合い、気を失っているのだ!

 翔琉は背筋に冷たいものを感じ、数馬達に合図を送る。数馬らは攻撃をやめ、こちら側にやってくる。

 スタンドが騒然となり、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。

 二人は、それでも倒れずに支え合い立ち尽くしている。

 副将の和田を四人で取り囲んだ時。

 全観客が悲鳴を上げたと同時にどさりと背後で音がした。

 二人は背中合わせのまま、その場にしゃがみ込んでいた、二人の手から刀は離れていない。

「どうする翔琉、このままじゃ脱落やないで、蹴り倒して背中つけたろか?」

 本来ならそうすべきだろう、チームの勝利のためならばそうせねばならない。

 だが、翔琉は

「ええ。伴を倒せば、それで勝ちやさかい。放っておき」

 高山、上野、神戸は納得顔で頷き、敵の副将に向かい合う。


 観客席から静かな拍手が起こり、やがてそれは盛大な拍手に変わっていった。


 蓮兎と三次の有様はさながら弁慶の最期に例えられ、

『甲賀のしゃがみ往生』

 として長く語られることとなる。


 また伊賀中等の情けも同時に語られ、

『伊賀の情け』

 は以後、伊賀中等教育学校の代名詞となり、

『Iga No Nasake』

 は全世界にその尊さを賞賛されることとなる。


     *     *     *     *     *     *


 冗談では無い。

 まさか敵に情けをかけられるなんて…

 真央は悔しげに歯軋りをしていた。

 それにしても、何と恐るべき攻撃力… 真央は全身に冷たい汗が溢れ出すのを感じる。

 左翼の遥は三人に囲まれ身動きが取れない。

 あとフィールドに残っているのは、自分とちゅーただけ…

 百地、そして槍が二人、刀が一人、ゆっくりと包囲網を縮めてくる。

 どうやら敵は、自分を屠った後にちゅーたと対決する作戦らしい。

 本来ならばちゅーたと二人で二対四の形勢を保つべきなのだが、あの場からの離脱が遅れ、一瞬のうちに囲まれてしまい、身動きが取れなくなってしまった。

 浄蓮の援護射撃は槍が一人で防いでおり、実質の相手は百地、槍、そして刀の三人だ。

 詰んだ、のか?

 真央はまた歯軋りをする。

 このままでは、忠太一人に四人相手となってしまう。遥が仕留められたら、七人相手だ。

 冗談では無い。

 必ず二人は道連れにしてやる!

 絶対に、二人。

『甲賀の女狼』はその牙を剥く。


 伊賀の三年生の槍役、下柘植洸太、高山瑛太、そして上野数馬は三人とも伊賀市出身である。

 先にも述べたが、伊賀中等教育学校は三重県立の学校なので、県外からの生徒の入学は許可されない、従って古武士道部員を含む全校生徒が三重県出身なのである。

 故に、甲賀学苑のような全国から有望な道士を集めている学校とは道士層が違い、年によって豊作不作の差が激しい。

 今年の三年生は百地翔琉が十年に一人の大器と呼ばれ、一見豊作年と思われるが、

「百地は凄いけれど…」

 と言われ続けてきた世代なのであった。

 槍役三人の内、下柘植以外の二人は中学生になって初めて槍を握った道士であった。

 従ってその練度は『甲賀三本槍』に比べたら相当評価は低い。専門誌によれば、

『和田真央一人で伊賀の三人の槍を倒せるだろう』

 なのである。

 当然彼らはそれを自覚し、入学以来必死の努力をしてきた。甲賀学苑の道士からすると考えられぬ程の厳しい修行をこなしてきた。

 甲学が十やることを伊賀は百こなしてきた。その結果、才能やセンスでは相当劣るものの、三年生となった今の実力は対戦してみねば分からぬ程に上がってきている。

 彼らからすれば、眼前にいる和田真央は常に目標であり憧れでもあった。

(広島の和田)

(甲賀の女狼)

 ネットや専門誌ですげーなーと思いながら読んでいた相手である。

 古人曰く、修行の量は決して嘘をつかない。

 自分たちのこなしてきた修行量は、間違いなくコイツよりも上だ。なので、必ずコイツを仕留めることが出来るのだ!

 真央と対峙している高山洸太は槍を握り直し、真央と視線を合わせた。


 視線を合わせた瞬間。

 高山は身動きが出来なくなる感覚に陥る。まるで狼に睨まれている兎のように。

 何なのだコイツのこの圧は? 凄まじいオーラと気迫がまとわりついているように見える。

 いや、負ける筈がない。

 それだけの修行を積んできたのだ。例えコイツが才能に恵まれていようと、それを凌駕する修行を俺はー

 和田の槍が伸びてくる、自分に襲いかかってくる、まるで飢えた狼が野兎を襲うが如く。

 思わず一歩、後ずさる。それでも槍は伸びてくる。

 翔琉がすかさず和田の胴を払う、物凄い斬音が響き渡る。

 だが、和田の槍の勢いは全く衰えず、いや寧ろ勢いを増していないか?

 龍之介も背後から斬りかかる、だが全く動じず槍は伸びてくる!

 これは、才能や素質ではない。

 執念だ。

 この執念は一体何なのだ? どこから来るのだ?

 いや、違う。

 これがコイツの強さなのだ、素質であり才能なのだ。

 どれだけ身を削られようと、必ず敵を突き抜くという執念。これこそがコイツの実力なのだ!

 俺はそこまで執念を持っているだr―


 物凄い衝撃が胸元に入り、それがまるでスローモーションのように見えー


「伊賀中等教育学校 高山瑛太くん 脱落ぅー」


 真央はすぐに反転し、浄蓮の矢に対処しているもう一人の槍に襲いかかる。

 百地はちゅーたに任せよう。

 自分は到底、絶対、間違いなく百地には勝てない。

 なので、一人でも多くを削り後を託す。それも、槍はなるべく排除したい。刀同士ならばちゅーたならば必ず勝つ。百地にでさえ、ちゅーたなら勝つ。絶対に、勝つ。

 だから、間合いが深い槍だけは自分が責任を持って排除してやる!

 おい、そこの雑魚。

 ウチを誰じゃと思っとるのじゃ

 矢ではなく、ウチと勝負せい!

 おんどりゃぁ、こっちと勝負せんかい!


 神戸龍之介の渾身の一撃は間違いなく槍の副将の背中を斬った。

 だが、この女はびくともせずに、数馬に突きを入れている!

 翔琉の一撃も確かに胴を抜いたのだ、だが女はよろめきながら、数馬を突きまくっている!

 畜生。

 何が三本槍や、何が甲賀の女狼や!

 ちょっと(相当)デカくて、ちょっと(かなり)迫力があるだけやないか。

 そら、翔琉の斬撃でよろめいたわ。

 俺がとどめ刺しちゃる、甲賀の女狼を俺が倒したる!

 だあぁーーー

 …… ……

 嘘、やろ?

 今ので、倒れるやろ、フツー

 何でやねん、何でコイツ倒れへんのや、信じられへん、ホンマに人間か?

 ああ、あかん、数馬、下がれ、あああ、弓に注意や、後ろに注意y――


「伊賀中等教育学校 上野数馬くん 脱落ぅー」


「何という展開でしょう、後半一気に試合が動いております、伊賀中等の上野が甲賀学苑和田の執拗な突きを避けきれず、その隙を弓役小泉が仕留めて見せましたっ これはほぼ和田の仕事と言えるのではないでしょうか?」

「その通りですね。甲賀学苑副将としての誇りと執念が、伊賀中等の槍二本を仕留めたのではないでしょうか」

「ああ、ですが、和田、ここで百地に捉まる、百地の凄まじい斬撃だ、神戸も同時に襲いかかる、これはピンチだ、和田、危ない!」

「耐えて欲しい、何とか中央の総大将の所まで… あああ…」

「膝をついた、和田、堪える、だが百地の強烈な蹴りが背中に入る、神戸の蹴りが胴に入る、絶体絶命です、和田、何とか堪えるか、耐えられるかー」


 なんて重い斬撃じゃ…

 当たる度に、悲鳴を上げてしまいそうだ。

 何とか、この刀を倒したかったのだが。百地一人にしたかったのだが。

 腕が上がらぬ。腰が上がらぬ。

 ちゅーた、あたぁは頼んだぞ、もう身体が動かん

 せめて後少し耐えて、百地をもう少し疲れさせたい。もう一人の雑魚はどうでもよい、ちゅーたなら秒殺するだろう。

 真央は忠太の後ろ上からフィールドを睥睨している百葉を見上げ、

 後はちゅーたを頼んだでぇ

 そう心で叫ぶ。紅葉と目が合い、真央は頷く。紅葉がニヤリと笑いながら頷く。

 胸に凄まじい衝撃を受け、堪らず倒れ込んでしまう。


「甲賀学苑 和田真央さん 脱落ぅー」


「もはや、甲賀学苑のフィールド上の道士は、百地遥、そして伴忠太の二人です! 伊賀中等は六人。残り時間は十五分です、圧倒的に伊賀中等の有利、林さん、この後の展開はどうなるのでしょうか?」

「確実に勝利するならば、伊賀中等は自陣に引いて守るべきでしょう。ですがその気配は全くありませんね、甲学の総大将狙いです、これは…」

「甲賀学苑の百地が三人を引きつけていますが、伊賀の神戸、そして百地翔琉がゆっくりと中央の伴忠太に向かっています。もしも伴が刀を落とすか背中を地面につければその時点で伊賀中等の勝利です、甲賀学苑、絶体絶命のピンチですっ」

「それにしても、甲学左翼の百地、驚異的な踏ん張りですね」

「そうです、後半開始から十分に渡り、下柘植、山田、音羽の三人を引きつけ続けております、どうでしょう林さん、一人を伴の方に向かわせるのは?」

「この三方からの攻撃だから百地の攻撃を無力化しているのです。ですから一人抜けて二人での攻撃となれば、百地の反撃に遭うのではないでしょうか」

「成る程、百地遥を引き留めたままにしたい伊賀はどうしても三名で囲まねばならない、そういうことですね?」

「その通りです。それ程百地遥を恐れている、と言うことでしょう。いや実際に技も体力も兄である百地翔琉に匹敵しているように見えます、はい」

「観客としては兄と妹の直接対決も見てみたいものですが、それよりもこの、エース同士の対決が間も無く繰り広げられようとしております、伴忠太と百地翔琉。実力は同程度と見て良いでしょうか?」

「二人ともアジリティ特化型の道士ですね、どんな戦いを見せてくれるか楽しみです」

「さあ、いよいよ伊賀中等の百地、神戸がセンターラインに到達し、伴と正対します、二体一、圧倒的に伊賀中等有利でしょうか」

「そうですね、忠太… 伴はまず神戸くんを削らないt―」


「伊賀中等教育学校 神戸龍之介くん 脱落ぅー」


 盛り上がっていた観客は一瞬シンとなり、何事が起きたのか確かめるべく立ち尽くしている神戸を見つめる。

 神戸の足元に三本の矢が落ちている、まさか、矢が当たった?

 いや。誰も神戸に矢が放たれたのを見ていない、と言うか、見えなかった。

 呆然と立ち尽くす神戸の姿がスクリーンに映し出されると、甲賀学苑応援席は全員が立ち上がり、絶叫する。


「…… 今の、見えたか?」

 田所が唖然としながら二人に振り返る。

「…いいえ。全く」

「…いいえ、全然」

 田所は何度も何度も頷きながら、

「バレてないよな、全国に紅葉ちゃんの神技、バレてないよな?」

「なんか消極的だね、涼一ぢゃんらすくねなぁ」

「その通り。紅葉どのは我らが命にかえても守る、先程そう誓うたではないか田所うじ」

 そりゃそうなんだけどさ、それとはちょっと違うさ、その、なんて言うか…

 要約すると、可愛い娘を画面に晒したくないだけの、心の狭い男心なのである。


「今の… 山中の一撃、ですよね?」

 柴田が呆然としながらりえに尋ねる。

「……です、かね。」

 りえが憮然として答える。

「おい、今の誰か見えたか? どんな矢やった?」

 誰もが首を振り、喜びながら驚きつつ戸惑っている。

「いやはや、これはこれは。チュータ… 伴の采配、ズバリですな先生」

「…… そうね」

「目にも止まらぬ早業、那須与一も真っ青。いやぁ、さすが山中や。ねえ先生?」

 りえはキッと柴田を睨め付け、

「ええ、そうですねっ」

 そしてプイッと彼方に目を向けてしまう。

 えええ? 俺、なんかいらんこと言うた? 柴田は動揺しオロオロしてしまう。

 なんて事はない。単に元弓役女王として軽く嫉妬しているだけのりえなのである。


 忠太郎は後ろの木を見上げ、

「すまぬ紅葉。面倒をかけたの」

 と叫ぶ。

「何の忠さま、これしきのこと。さ、背中は守ります故、存分にお斬り合いなされませ」

「おうよ、見ておれ紅葉。ささっと片をつけてまいるぞ」

 そう言うや否や、前方に駆け出す。

 観客の歓声は今日一番のものとなり、その声援は東山三十六峰さえ震わせるが如く、なのである。


 その大歓声を聞き。

 遥は全身の疲れが一気に消え去った思いである。

 一体、どれ程の時間が経ったのか。感覚的には一時間も二時間も戦っている気分だ。

 三人の連携は完璧であり、囲いを突破する隙は微塵も見えない程であった。

 全身から汗が絶え間なく噴き出ており、疲労も甚だしく刀を構えているだけで精一杯な状態であった。

 三月まで一緒に修行していた彼らは、この二月ほどでどれ程実力を伸ばしたのか。

 瑛美ちゃんのこんなに必死な姿は初めて見た。レオの技のキレは信じられない程だ、そしてコータくん… 翔琉にぃの大親友。にぃに憧れ尊敬し、ずっとそばにいるコータくん。

 どれ程にぃに鍛えられたのだろう、最後に刃を交えた時よりも遥かに強くなっている!

 何度も刃を叩きつけても、平然と向かってくる。何という精神力…

 だが、自分もこの数ヶ月でどれ程成長したか。

 どれ程己を見つめ直し、どれ程鍛えてもらったことか。

 ちゅーた、そしてお姉さん。

 見ていて下さい、この、甲賀の遥を!


「さあ残り十分、どんなドラマが用意されているのでしょう、あっと、甲賀学苑左翼、百地遥が力を振り絞っております、包囲陣を逆に押し込んでいます、おおおお! 鋭い切り込みだっ、ああ、思わず音羽が転倒っ、そして素早い蹴りが入りますっ、おおおおお!」


「伊賀中等教育学校 音羽レオナルドくん 脱落ぅー」


「包囲陣が崩れましたっ しかし、槍の下柘植、刀の山田が上手く回り込み、百地を自由にさせません、これまで一人で三人を相手してきた百地、一年生ながらに驚異的なスタミナです、ですがそろそろ限界でしょうか、ああ、下柘植の槍がまともに入りました、百地がよろめきます、そこに容赦ない山田の袈裟斬り、ああ、百地受けきれない、これはピンチだ、百地ピンチっ」

(もういいだろ見逃してやれや やめてぇー 卑怯だぞ Parar Не делайте этого снова Ne recommencez pas!)

 ネット諸氏の願いも虚しく、遥は片膝をつき…

 目の前の下柘植がやや顔を歪めながら右足で遥に蹴りを入れようとした瞬間。


「伊賀中等教育学校 下柘植洸太くん 脱落ぅー」


 伏見スタジアムの時が止まる。全世界の視聴者も何が起きたのか全く分からず、思わず呼吸するのを忘れる。


「えっ? 何が、起きたのですか、林さん?」

「うぅーむ… 私の目には下柘植君に向かった矢は外れたと思ったのですが… どうやらその矢が方向を変えて彼の背中に命中したのかと思います、ほれ、彼の後ろに矢が落ちとるでしょう?」

「ああ、本当です、下柘植の背中の下に矢が落ちています、今のプレー、スローで見てみましょう」

「確かに甲賀学苑左翼弓役の望月君の放った矢が下柘植君に向かっていますが、ほれ、勢いが落ちてこの辺りに…… えっ?」

「はい、勢いの落ちた矢は失速して手前に落下しかけていますね、ですがその矢が、ああああああああ! な、なんとっ!」

「おおおおおお! こんな偶然が…」

「はいっ 恐らく中央弓役の山中の放ったと思われる矢に当たり、方向を変えて下柘植の背中に当たりましたっ」

「いやっ、こんな偶然は珍しい。甲賀学苑にとっては非常にラッキーな出来事ですっ」

「ええ、そして伊賀中等にとっては痛い、痛すぎる事故です、これは今後の展開に大きく影響を及ぼs― あああ、甲学百地が立ち上がり、猛然と伊賀の山田に襲いかかるっ」

「まさかのアンラッキーに呆然としていましたね山田さんは、逆に甲学の百地さんは大いに勇気付けられたことでしょう」


 信じられない人だ…

 一宇先輩の放った矢を狙ったなんて。全く冗談が過ぎる。

 遥は顔が綻ぶのを抑えきれない。何と言う人だろう私の姉は。私の絶体絶命のピンチを一瞬で救い出してくれた、それも奇跡的な一矢で。

 さあ、片をつけよう。

 尊敬する姉がくれたこのチャンスを活かさずば、甲賀の女に非ず。

 ごめんね瑛美ちゃん、この戦い

 どうしても、負けられないっ!


「伊賀中等教育学校 山田瑛美さん 脱落ぅー」


 スタンドの観客は全員立ち上がる。全国の視聴者も大声を上げ拳を握り締める。


 甲賀の鬼夜叉 百地遥は正に夜叉の表情で毅然と立ち尽くしている。


     *     *     *     *     *     *


 あれが我が愛する妹、遥なのか?

 翔琉は有り得ないと言った表情で瑛美を斬り倒し立ち尽くす遥を呆然と眺めている。

 俺の遥はあんな姿ではなかった。

 確かにその天性の素質には幾度も嫉妬したものだったが。

 あんなズタボロになってまで相手を斬り倒す鬼神のような妹ではなかった。

 あれは、鬼だ。夜叉だ。

 俺の知っている愛しい遥ではない。

 翔琉は十間先に仁王立ちしている総大将を睨み付ける。

 貴様が遥を変えたのだ。

 貴様があんなに可愛らしかった遥を、鬼に変えたのだ!

 許さぬ。

 断じて許さぬ!


 翔琉は刀を強く握り締め、忠太目掛けて突進する。


「百地が、百地が動きますっ 甲学総大将、伴に向かって突進です! ついに、遂にエース同士の直接対決なのですっ!」

「この対決は見逃せません、一挙手一投足から目が離せませんっ」

「百地の凄まじい突きっ! 伴が難なくかわす、そして逆に袈裟斬りっ 百地、軽く払うっ」

「物凄いスピードです、力と技の応酬です…」

「……凄い、……速い」

「……これはっ ……何という…」


 フィールド上に二人の刀の斬り合う音が響き渡る。スタンドは全員総立ちのまま、声も上げらない。二人の攻防を瞬きもせずに、食い入るように眺めている。

 翔琉が飛ぶ。忠太がかわす。

 忠太が斬り上げる。翔琉が空かす。

 まるでA級の特撮チャンバラ劇を観ている気分だ、だがこれは現実なのだ。

 T Vカメラは二人の攻防を必死に追う、この死闘をフレームにしっかりと収めるべく。上空からのドローン映像も、二人の史上稀に見ぬ攻防をしっかりと俯瞰する。


「…忠太も凄えけど、何この百地って奴…」

「あの忠太と互角かよ… バケモンだわ…」

「てか、和尚解説、しろよ…」

「無理だべ、声が出せねえって… 何この修羅対決…」

 応禅寺の忠太の先輩道士達は息をするのも忘れ、二人の壮絶な戦いを呆然と眺めている。


「…忠太くん、凄いよ… これ程の剣士は、江戸広しと言えど早々おらんて。まるで千葉の小天狗を見ている様じゃ…」

 ええええ… 千葉の小天狗って、あの北辰一刀流玄武館の、千葉栄次郎ですか?

 田所は次郎の超レア発言に目を剥きながら、冷え切ったコーヒーを一口啜る。

「でも、この相手の青年… 何だがげ素敵な子でね? かなりのイケメンでね?」

 顔を赤らめて眺めている華子の足を田所は軽く蹴っ飛ばす。

「何するのよ涼一ぢゃん、痛ぇでねの!」

 田所が次郎を指差しする。次郎が華子を睨み付けている。

「何睨んでらんず、わ何が変なごど喋ったがすら?」

「お主、年若い男が好みなのか? この好色田舎娘がっ」

「何よ、なだっで遥ぢゃんのごど目尻垂らすて見であったでねの! このスケコマシのボンボンがぁ」

 田所が目を細めて二人の痴話喧嘩を眺めていると、メールの着信音に気づく。

「何々… …… おい、二人とも!」

「邪魔をするか田所うじ」

「貴方は黙っていでけ」

 田所は真顔で唸りながら、

「CIAから、忠太くんの身分証会の依頼が来たそうだ、当然忠太くんの先輩の…」

 華子は一瞬で我に返り、

「池田駿くん、もですね…」

 鈍い沈黙がオフィスに漂った。


「…なぁ珍龍、これって、もし忠太が百地に負けたら、甲学は負けだよな?」

 照天が横で仁王立ちしている珍龍に呟く。

「そうや。総大将が討たれたら、その時点で負けや」

「でも、今の時点で、ひぃ、ふぅ、みぃ、えっと、4対2で甲学が勝っとるよな?」

「そうや。あの座り往生の二人は脱落しとらんからな」

「伊賀の総大将が、チャチャっと二人を脱落させても… 2対2やな?」

「そうや。でも遥ちゃんならあの総大将は楽勝やろ、故に忠太が討たれん限り甲学有利、や」

「そんなら、伊賀としては是が非でも忠太を討たん限り…」

「伊賀に勝ち目はあらへん、ちゅうことや」

 照天は珍龍の方を向き、

「なんで忠太は逃げへんの? 逃げ切れば勝ちやろ、それぐらいアイツも分かるやろ!」

 行円が首を振りながら、

「アイツはそんなセコい男やない。それに、忠太が討たれることは絶対にあらへん」

 と断言する。

「何でよ? 何の根拠があるんよ?」

 食い下がる照天に行円がポツリと、

「アイツの背中、誰が守っとるよ?」

 あああ、成る成る… そう言うこと!

「それにしても、まさか紅葉ちゃんが弓役とは。アイツよう考えたのぉ、なあ珍龍の兄貴」

 やや自慢げな咳払いをしながら、

「もおええから。ほれ、忠太の戦ぶりを眺めんか」

 照天はハッと我に返り、

「そうや、そうや! ほれ、頑張れちゅーたぁー」


 土山健斗は呆然とその戦いを眺めている。

 退部してから半月ほど経っただろうか、未だに朝起きると身体が自動的に部活の準備をしてしまう。

 夜に見る夢も殆どが古武士道と部活のことばかり。今朝なぞ、一年生の頃忠太に散々打ち負かされた夢を見たものだ。

 どれほど奴を憎んだだろう、恨んだことだろう。そして、どれほど奴に憧れたことだろう。

 自分や(宇田)かなとは素材が違う、ずっとそう思ってきたし、今の今までそう思っていた。

 だが。

 今、あの百地翔琉と対等にやり合っている姿は…

 才能や素質? そんなものは関係ない。

 奴は仲間のため、チームの勝利のため、そして甲賀学苑の誇りのためだけに戦っている!

 健斗はスマホを取り出し、忠太からのラインメッセージをスライドする。

『お前のフッキを待っているからとっとと部勝に出てこいよ、みんなお前を待ってるぜ(絵文字)』

 何だよ、フッキって。何だよ部勝って…

 不意に、画面の意味不明な絵文字が滲みだす。

 分かっている。自分に足りないもの、お前に有って俺に無かったもの。

 仲間だろ? 信頼し信頼される同期、先輩、後輩なんだろ?

 俺は部活の誰も信頼してこなかった。あの池田先輩、青木先輩にさえ尊敬することはなかった。同期、下級生は雑魚だと思っていた、一ミリたりとも信用することはなかった。

 スマホに大きな水滴が落ちて弾ける。

 こんな俺が、お前のためにしてやれること。二年間在籍した、甲賀学苑中等部古武士道部のためにしてやれること!


「忠太ぁーーー、負けるなぁーーー、ぶった斬れぇーーーー」


 健斗の叫びはしんと静まり返り、刃の交わす音しか聞こえなかったスタジアム中に轟き渡る。

 健斗の叫びが呼び水となり、あちこちから声援が立ち始める、やがてそれは大きなうねりとなり、スタジアムは一瞬のうちに大歓声に包まれていくー


 あれは土山先輩の声……

 遥は甲賀学苑応援席を眺める。

 なんだかよく分からない人だった。傲慢でエゴイストで、連携なんて全く眼中になく、非常にやり辛い先輩だった。

 自分から退部したと言われているが、忠太や和田先輩が辞めさせたのだと思っていた。

 その土山先輩が。

 疲れ切って息を切らせていた遥は、その叫びを聞いてアドレナリンがどっと出た気分になる。

 やがて静まり返っていたスタジアムが、嘘のように大騒ぎとなり。

 力が漲る。

 心が沸き立つ。

 そして。

 兄を視線で追う、忠太と斬り合っている翔琉にぃをロックオンする。

 自然に身体が二人の元に向かう。

 それに呼応し、観客の叫び声が大変なことになっている。

 絶叫。悲痛な叫び。悲鳴。そして、

 雄叫び。歓喜の叫び。歓声。

 スタジアムが揺れる。

 遥の心は無になり、ただただ敵を求め走り出す。

 敵を斬る。

 甲賀の鬼夜叉の疾走に、大歓声と悲鳴が混じり合う。


 これは、あかん!

 後半から伊賀中等の総大将を任されていた藤林芯は凍り付く。

 遥ちゃんが、翔琉を討ちに…

 冷静に後方から状況を把握していた藤林は、心のアラームが高らかに鳴り響くのを感じる。

 今現在、2対4。

 翔琉が伴を倒せば、ウチの決勝進出。

 翔琉と伴が共倒れすれば、1対3でウチは三決へ…

 あの、座り往生している奴らを早く脱落させねば!

 一瞬その方向へ駆け出すも、

 あの二人を転がせて、1対1。準決勝は十分間の延長戦がある、俺は遥ちゃんに勝てるのか?

 ……否。

 先ほど瑛美とレオを斬り倒した様子を思い浮かべる。

 あれは俺のよく知っている遥ちゃんではない。

 何か鬼か夜叉が乗り移った恐ろしげな女だ。

 危険だ、危険過ぎる。

 その女が翔琉を斬りに走り出した!

 不味い! これは不味過ぎる!

 このままでは翔琉が屠られ、俺も簡単に討たれてしまう!

 せめて翔琉を援護せねば。

 二人の斬り合いは微妙に甲賀陣内である、新、弦、みすずの援護射撃には遠過ぎる。

 もう一度、冷静に状況を整理する。

 このままでは翔琉は伴と夜叉に討たれるだろう。そしてそのまま俺を討ちにくるだろう。

 俺が翔琉の援護に向かえば、翔琉の負担は軽減し伴を討つチャンスも訪れよう。

 引きつけるだけでいい、無理に斬り合う必要は、ない。

 藤林はそう結論付け、甲賀学苑陣内へ向けて駆け出した。


     *     *     *     *     *     *


「これは、面白い展開になってきましたぁ! 伊賀中等の総大将、藤林が前線に向かっています、林さん、この戦術はいかがでしょうかぁ!」

「甲学の百地さん対策でしょう、伊賀の百地くんの負担を減らすために捨て身の作戦ではないでしょうか」

「甲学の伴と百地、伊賀中等の百地と藤林、どちらが戦力的に優位に立ちますでしょうかぁ?」

「甲学の百地さんはずっと三人を相手にしてきました、相当スタミナを減らしていますね、一方の藤林くんはスタミナ十分、ですが忠太もスタミナは満タン、あとは仏様のお心次第ではないでしょうか!」

「さあさぁ、御仏の微笑みはどちらに向けられるでしょうか! 全視聴者が待ち望んだ百地兄妹対決も実現しそうです、残り五分、全く試合から目が離せませんっ」


 さぁてさてさて。

 面倒臭い展開となってきおったわ。あと少しでこの若造を斬り捨てられたものを。

 それにしても、この身体。なんと重き事よ。そしてなんと鈍き事。どれほど鍛錬を怠けておったのじゃ、このたわけめ!

(仕方ねーだろ、これでも結構頑張って鍛えたんだぜ)

 黙らっしゃい小童。何じゃこの跳躍力は! 三尺も跳べぬではないか、これではまだ飛蝗の方が遥かにましじゃ!

(バッタって… てか忠太郎さん、どんだけ跳ぶんだよ…)

 優に六尺は跳ぶわ。全く近頃の若人はこれだからつまらぬ

(六尺って… どんだけー)

 ほれ、お主の身体が鈍っているせいで、ちびすけが助太刀に来たではないか。あんな小娘に頼るとはお主男の風上にも置けぬ、ああ情けなや

(知るかよ… )

 ふん。じゃが、紅葉は心無しか表情が明るくなったの。あの頃よりもずっとずっと、良い面立ちとなったわい。

(そうなん?)

 おうよ。あの戦の時なぞ、そこら中に転がる骸を眺めては青褪めて震えておったわ。心優しき女子故、不憫なことをしたわ。

(それって、あの野洲河原の合戦か?)

 落窪の戦いじゃ。そう、紅葉がこの令和なる世に飛ばされし戦の時じゃ

(ああぁ… そっか…)

 長俊様の言うてた通りじゃった、紅葉は逝っておらぬ、行ったのじゃ、と。この令和なる世に紅葉は旅したのじゃ

(そう、だね)

 令和。戦の無い世とは、かくも平和なことよ。削られし刃、鏃のない矢、布巻きの槍にて戦とは。命は散らず、片端にも成らず。さりとてこの程真剣に斬り合い闘い合う世の中…

 戦の後には敵と笑い慰め称え合い。味方とはぶつかり合い信じ合い、固き絆を醸成し。

 正に、紅葉が心底望んだ時代ではないか、ええ?

(…さっき健斗の声が聞こえたよ。アイツの声援のお陰でフィールドの、スタジアムの空気がガラッと変わったな)

 ふん。とまれ、紅葉が今の何と幸せなことよ。仲間に恵まれ衣食住に恵まれ、

(そ、そうか? あんなボロ寺…?)

 そして。其方に出逢うて。

(……忠太郎、さん…)

 ようやく儂も、安心して逝けるわい。

(え… 何だって? それってまさか…)

 おい小童。其方も重々承知とは思うが。大変じゃぞ、あの娘は。天上天下唯我独尊。男に産まれなかったことをどれだけ郷の者が嘆いたことやら。

(知ってるって。それより、忠太郎さん、あんた…)

 後は其方に任せても良い。儂のお役は御免じゃ。この令和なる世、紅葉なら十分に満足に生きていけるじゃろう、儂がおらんでも。

(待ってくれ忠太郎さん! 俺はアンタの生まれ変わりなんだろ?)

 違うわ。お主は儂の記憶の欠片を感じておるだけじゃ。ふん、もし本当に生まれ変わりなれば、こんな生温い生き方はしとらんて。毎朝毎晩、修行修行じゃ。山間走駆? そんなの当然の日常茶飯事じゃ。刀の素振り? 毎日千二千は当然じゃろうが!

(うへ… そ、それはちょっと…)

 まぁ良い。この平和な世ならば、それも不要。さぁて、そろそろお暇する頃じゃ。どれ最後に紅葉の勇姿でも拝んでおくかの


「おっと、伴が甲賀学苑陣内深くに戻っていきます、そして伴に替わり百地が百地と… ええっと、百地遥と百地翔琉が刃を交えます、すごい歓声です、観客は総立ちです、大変な声援です、隣の声が聞き取れない程です!」


「どうされた忠どの。生温い斬り合いに飽いたとでも言うのか、かっかっか」

 紅葉が高らかに笑う。

「紅葉よ。ようやくお主と逢えたわい、何一つ違うておらぬ、重畳重畳」

「そうや忠さん。ウチ、お前様と話したいことが仰山あるんや」

 忠太郎はフッと笑い、

「それは拙者もじゃ。だがの紅葉、儂はそろそろ逝かねばならぬ」

 紅葉は呆然となり、危うく弓を落としそうになる。

 物凄い歓声がフィールドに響き渡る。二人の会話を拾える者は誰もいない。

「どうして… 忠さん、どうして? 折角こうして逢えたのに…」

 途轍もない大歓声が起こる、遥と翔琉が火花を散らして戦っている。

「永い永い間、そなたを探しておった。それこそ気が遠くなる永い年月じゃ。そして、お主を見つけた。」

「そや。ウチを見つけてくれた。忠さんは見つけ出してくれた…」

「心は満たされた。そなたのその美しい顔を再び拝めた、どうじゃ、儂の言うた通りじゃったろ、この令和の世ではお主は絶世の美女ではないか、カッカッカ」

「そんなん… どうでもええ。なあ忠さん、行かんといてよ、ずっとウチの側におってよ! 約定したやないか、あの戦が終わったら、う、う、うちを、嫁御に、貰うって、言うたや、ないか、言うたや、ないかぁ、ひっく、ひっく」

 大粒の涙をポロポロ溢しながら紅葉が必死に訴える。

「この男がおるではないか。少々女々しく情けないが、儂に瓜二つの、この漢が。」

 忠太郎はニッコリと紅葉に微笑む。

 紅葉は大きく鼻を啜り、頭を振る。

「嫌じゃ。いやじゃいやじゃ嫌じゃ! そんならウチも付いて行く!」

 忠太郎は急に顔を顰め、

「いかん! お主は二度と儂に付いてきては、ならん! お主の我儘を通したお陰で儂らはどうなったのじゃ!」

 それは… と紅葉はしゅんとなる。

「ええか紅葉。お主はこの令和で幸せいっぱいになるのじゃぞ。儂の分まで、いっぱいいっぱい幸せになるのじゃ。この忠太なる小童と共に、な」

 紅葉は滂沱の涙に顔を歪ませ、

「嫌じゃ。忠さまがおらねば、嫌じゃ」

 いやいやをしながら、鼻水を手の甲で拭う。

 そんな様子を見ながら、忠太郎は軽く吹き出す、この世でも先の世でも、とてもお姫様とは思えぬ仕草。だがこれが本来の生来の紅葉なのだ。衒わず飾らず有りの儘に。それこそが儂の愛する紅葉なのだ。

 大歓声に悲鳴が混じる、ふと見ると敵は総大将が加勢し、ちびすけの大ピンチである。

「さらば紅葉。必ず達者に暮らすのじゃ!」

 忠太郎は紅葉に背中を向け、目を閉じながら百地兄妹対決の場に疾走し始めた。


 さらば、愛しき女子

 さらば、永遠の美しき姫よ


 固く閉じた目の端から、涙が流れ出す。


 忠太郎はカッと目を見開き、忠太に言い放つ。

 儂の最期の闘い、その目をよう開いて見ておくがよい


 忠太はかつて感じたことのない加速に唖然とするー


     *     *     *     *     *     *


「凄まじい死闘、まさに歴史に残る斬り合い! 百地兄妹の壮絶な斬り合いに全く目が離せません、藤林総大将は少し離れた場所で状況を眺めております、」

「この戦いは迂闊に外から手を出せませんよ、常観するしかありません、藤林くんは冷静な判断と思います」

「だがしかし、残り時間は二分を切りました、このままでは残存差で甲賀学苑の勝利です、伴総大将は自陣内やや深めの位置、こちらも常観している様子… いや、伴が突如走り出します、何と兄妹対決の場へ向かっております、これは林さん一体…」

「忠太のやつ、勝負を決めに行ったわい。百地くんの所でなく、藤林くんを狙いに行ったのでしょう、全くアイツは… 大人しく常観していればいいものを… ハァーー」


 藤林は忠太の動きを察知し、身構える。

 サシでは絶対に敵わへん、何とか二対二の状況を作り出さねば。

「翔琉! 伴が来たで、どうするっ」

 翔琉は咄嗟に後ろに下がり、藤林の前に毅然と立ち塞がる。その姿はこれより後ろには死んでも行かせない、そう背中が語っているようだ。

 壮絶な斬り合いをしていた遥も咄嗟に下がり、忠太の到着を待つ。

 すると後方から忠太の大声が遥を包み込む。

「ちびすけぇ、そのまま若造に突っ込むのじゃあー」

 …ちびすけって…

 確かにチビですけど。自分だってどっちかって言うとチビのくせに。

 プッと吹き出した遥はニヤリと笑みを浮かべる。

 さあ翔琉にぃ。

 いや、伊賀の百地翔琉。

 甲賀仕込みの私の一撃、とくとご覧あれ!

 後ろからの物凄い圧力に押され、遥は今までにない瞬発力を発揮し、翔琉に飛びかかる。

 あれ、私、こんなに速く動ける?

 自分でも驚くほど身体は前に進み、振り下ろす刀の速さに唖然とする。


 なんだ…

 この速さは…

 あっという間に眼前に迫る遥に翔琉は肝を冷やす。

 何というアジリティ、後半のこの時間帯に、まだこのスピード

 俺の知っている遥じゃない

 俺の大事な可愛い遥じゃない!

 こいつは鬼だ、夜叉だ、

 チームのために、すぐ後ろに控える芯のために、

 ここで受け切らねばならないっ

 翔琉は渾身の力で遥の刃を受け止める。

 バチっ

 大きな火花が散る。

 飛び掛かりながらの斬撃を気合いと根性で何とか受け止めた。

 重い。信じられぬ程、重い。

 だが、耐えれる、耐え切って見せる、そして刃を押し返した後に、返り斬りに!


 翔琉は、見た。

 伴忠太が高々と飛んでいるのを、見た。

 刀を押し合っている遥と自分の遥か上を伴は飛んでいる、とても人間の所業とは思えない…


 スタジアムは一瞬息を呑んだように静まり返る。


 翔琉と遥を飛び越した忠太は、いや忠太郎は、そのまま得意の蜻蛉返りをしながら藤林に迫る。


 藤林は驚愕の表情を一瞬見せるも、ああこれが例の忠太斬り、と冷静に判断し寧ろ前方に移動する。

 動画を研究した結果、前回転してからの斬撃を防ぐには下がるよりも前に出た方が良い、そう結論付けたのだ。

 案の定、伴の振り下ろす刀は藤林の遥か後ろを斬っている、よし、伴の体勢は後ろ向き、このまま振り返って逆に渾身の一撃を頭上に喰らわせてやる!


 藤林は即座に半回転し忠太の後ろ姿を臨む、よし、思惑通り!

 刀を振り上げる、この一撃で、伊賀の勝利や!

 忠太の後頭部に奇声を上げながら刀を振り下ろす。

 いやぁーーーー

 万力を込めた刃が忠太の後頭部にー


 んぐぅ

 途轍もない衝撃を鳩尾に受ける。

 セルロースナノファイバー製の胴具が衝撃を全く吸収せずに、その圧を直接藤林の鳩尾に伝えてしまう。

 何が、一体…

 目を腹部に下ろす、

 何と伴は後ろ向きのまま、刀の切先を背後の自分に突き出していた!

 それを見た瞬間。

 猛烈な嘔吐感が湧き起こり、それを抑えられず吐き出してしまう。

 面具内は吐瀉物まみれとなり、視界が失われる。いやそれ以前に、腹部の痛さを抑えるべく脳内から化学物質が分泌され、その代償として意識が遠くなっていく。


 あかん!

 このまま倒れたら、あ、か… ん……

 倒れても刀を離さぬように両手で刀を抱き抱えるも、意識は更に遠のき、身体は後ろに傾斜していき……


「しぃーーーん!」

 翔琉は絶叫する。

 背後を支えてやろうにも、遥と刀を押し合っている最中なので、どうすることも出来ず。


 まさか、こんな結果になるとは…

 気を衒ったつもりは無い、オーソドックスな攻めではウチが不利になると読んでの奇策だった。

 遥を三人で封じる。

 自分が甲賀の刀と槍を斬り捨てる。

 途中までは完全だった。全てが想定した通りの出来であった。

 皆も想定以上に頑張ってくれた。遥を十分以上孤立させたコータ達には素直に尊敬の念を禁じ得ない。

 だが。

 あの、弓が…

 後半から入った、あの中央の弓役が自分達のプランを全てぶち壊した!

 あの、どこかで見たことのある小柄な女一人に、悉くやられてしまった…

 龍之介を射抜いた矢は正直見えなかった、が間違いなくあの距離をあの女が射抜いたのだ。

 そしてコータへの投射。あれは間違いなく、誤射ではない、左翼の援護射撃の矢を狙って、軌道を変えてコータを狙ったのだ! 

 通常の軌道ならばコータは確実に避ける。現にあの援護射撃もコータは完全に見切り、自分の方には届かないと判断したのだ。

 だが、

 あの女は中央から矢を放ち、あの左翼からの援護射撃の軌道を変え、コータの隙を狙ったのだ。

 あの矢さえ当たっていなければ、直後に遥を討ち取り、皆で伴忠太を囲めた筈だったのだ…


 背後から吐瀉する音が聞こえてくる。

 翔琉は渾身の力で遥を押し返す。

 後ろを振り返る、ゆっくりと藤林が倒れ……


 翔琉は天を仰ぐ。


 伴忠太、遥。そしてあの中央の弓役。

 まさかあんな魔王のような使い手が甲賀学苑に存在したとは…


 ハッとして、思い出す、

 そうだあの女、志徳寺で遥の後ろに控えていた、とんでもない殺気を送ってきた……

 翔琉は更に大きく天を仰ぐ。

 藤林が地面に倒れる音が聞こえた。

 足りぬ。

 何もかもが、俺には足りない……


「伊賀中等教育学校 総大将 藤林芯くん 脱落ぅー 以上を持ちまして、甲賀学苑中等部の勝利ぃーーー」


 スタジアムが、揺れた。


     *     *     *     *     *     *


 同日、夜八時過ぎ 水口の大衆焼肉店『くろべこ』


 甲賀学苑中等部の近畿大会三連覇祝勝会が始まろうとしている。


「みんなお疲れさん。今日は大変な一日やったけど、ホンマみんなよう頑張った。大したもんや」

 そーゆーのいいから! 早よ食わせんかい! 話長いんじゃボケ

 あちこちから笑いを含んだヤジが飛ぶ。

「そやったな、腹ペコやろなお前ら。ああ、それでもこれだけは言わせてくれ。今夜のこの会食代な、全部OBの方々のカンパや。お前ら会費は今夜は取らん」

 おおおおおーーー スッゲー 死ぬほど食うでぇー 気前いいのぉ

 皆拍手で喝采する。

「それぐらい、先輩方はな、お前ら後輩を気にしてらしたんや。というか、この甲賀学苑の古武士道部を気にかけとったんや」

 皆はシンとなり、軽く頷く。

「勝って当然、史上初の三連覇。名門の重圧に、お前らは見事応えたんや、ほんま大したもんよ」

 えへへへ まぁーなー お、おう それなぁー

 皆思いはそれぞれであるが、やはり相当な重圧がかかっていたことは誰も否まない。

「コロナ禍もあってな、忠太ら三年生は今回が初めての公式戦や、それも三連覇がかかっとる。色々あったわな、危うく県大会で負けそうになったり、健斗が退部したり。一宇が心肺停止になった時は俺死ぬか思ったわ。それだけやない、山中ってとんでもないジャジャ馬が部活ヒッチャカメッチャカにするわー」

 それなっ それなー マジウケるー 師範サイコー キャハハハ ギャハハハ

 一人ドリアンの匂いを嗅いだが如く顔を顰める紅葉を除き、場は爆笑となる。


「でも、今日。忠太を中心に、三年生が頑張った。遥も頑張ったが、真央も譲治も冬馬も凄かった。浄蓮と美咲も大したもんやった。蓮兎と三次、あれは泣けた、ああ、今でも泣ける、ううううう…」

 本気で泣き出す柴田に、何故か盛大な拍手が送られる。

「かなも最後、ようやった。そんでもって、忠太、お前はサイコーや。日本一の総大将や! 高校行って、ホンマもんの日本一目指さんかい、中間? 期末? そんなんどーでもええわ、古武士道せい古武士道! 天下取ってこいや、勉強なんてどーでもええ! うぎゃっ」

 興奮する柴田の顔面に熱々のおしぼりが命中する。隣の前田りえが指を冷ましながら大きく溜め息を吐くと、店内は大爆笑の渦に巻き込まれ…

「よぉーし、すまんな話長くなってもうて。グラス持たんかい、ほな、みんな優勝おめでとさん、かんぱぁーい!」

長えんだよ おっせーわい じゃかぁしいボケ! 

 何十枚のおしぼりが柴田を襲う、その何枚かがりえの頭に乗っかる。

 りえが無言で立ち上がり、一言。

「乾杯と言ったのだから、乾杯なさい」

 こえー マジこぇー やっばー キレてね? 誰さ頭におしぼりぶつけたん お前やろ うちちゃうよ うわ、睨まれた、死ぬ。 高校はバンド部入ろかな 俺、実家帰ろかな


 こうして優勝祝賀会はつつがなく始まった。


 奥の幹部席にはいつもの面々、高等部の青木桃、忠太、真央、一宇、遥。そして何故か紅葉がちょこんと腰掛け、目の前のカルビ肉を涎を垂らしながら眺めている。

「この子… なんで刀で使わんかったの? この子出てたら準決あんなに苦労しなかったやろ」

 桃が紅葉を眺めながら忠太に問う。

「こいつ、刀はつまんねーって。弓の方が殺す感があっていい、って言うから」

「何やそれ… ま、準決はこの子おらんかったら、この場は三位おめでと会やったろうね」

 それな、と一宇と真央は頷き同意する。

「それにしても真央、あれは笑うたわ。お前お笑いのセンスええもの持っとるの、ウキャキャキャキャ」

 桃が思い出し笑いして弾ける、忠太や一宇も腹を抱えて笑いだす。

「ああ、ほれ丁度テレビでやっとるよ、あれあれ。ウキャッキャキャ」


 店内の大型テレビで決勝戦の録画を流しているー

 試合開始直前。壬生院得意の『口撃』を受けた真央の放った一言が、静まり返っていたスタジアムに響き渡ったのだ。


『おんどりゃあワレら、琵琶湖の水止めたろかぁ!』


 店内は大爆笑だ、さすがの鉄面皮りえもおしぼりで口を抑え、涙を流しながら必死に笑いを堪えている。

「アレはじゃ、ほれ、アイツらが性懲りも無く、『準決でボコられて更に顔がデカくなったの』なんてほざくからじゃ」

 桃は腹を抱えて笑いながら、

「それにしても決勝は笑えたわー、なんやお前らのあのキレっぷりは! ウキャキャキャ」


『それでは決勝戦の先発メンバーです。大幅にメンバーを替えてきました甲賀学苑です、

 総大将 伴忠太

 弓役 小泉浄蓮 望月一宇 葛城みさと

 槍役 和田真央 佐治冬馬 杉谷美晴

 刀役 小川蓮兎 土山かな 上野澪 大野雫』


 開始早々。

 甲賀の槍が無双するー

 真央が刀役二人を瞬時に血祭りにあげる。すると負傷欠場の大原譲治の代役、杉谷美春がー

『何という怪力! 斎藤の刀を彼方に弾き飛ばしましたっ 恐るべき一年生!』

『また杉谷だぁー 今度は新見の槍を高々と打ち払ったぁー 恐るべし杉谷、恐るべし甲賀学苑!』

 ヒュー スッゲー ひゅうひゅう 美晴、神かよー 神ったわー

 紅葉が横で嬉しそうに正座している美晴に向かい、

「お前は今日から、『甲賀のだいだら』と名乗るがよい、ええな」

 おおおお! だいだらや だいだら様や 畏れ多いわ 

 美晴は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 この日から。近畿中が『甲賀のだいだら』を恐れ始める。中でも京都の若い奥さんが子供を嗜めるときに、

「ええ子にしてへんと、甲賀のだいだらが来るわぁ!」

 と言うと、泣き叫ぶ子もピタリと泣き止み、体を震わせ許しを乞うようになる。


 澪と雫の通称『シティーギャルコンビ』も黙っていない。

 数々の口撃を全て

「ウザ」

「ダッサ」

 と躱し、絶妙のコンビプレーで次々と浅葱色を薙ぎ倒していく。

 壬生院の総大将、吉村何某の痛烈な口撃、

「江戸の鈍臭いビッチギャル共め、東に帰らんかい!」

 すると澪の痛烈な一言、

「は? 壬生狼が語ってんじゃねーよ、ばぁーか」

 更に雫が被せていく、

「壬生菜でも喰ってろ、田舎モンがっ」

 二乗に比例した反撃をまともに喰らい、すっかりメンタルをやられた吉村何某の足がもつれた所をかなが冷静かつ高圧的に、

「錦の御旗は我に有り!」

 と叫びながら吉村総大将の頭上に渾身の一太刀を叩きつける。

 そんな馬鹿な… 我らが朝敵になっただと…

 二重の衝撃に思わず膝をついた何某に、蓮兎が万感の思いを込めた一撃

「志士の仇ぃ!」

 見事な中段蹴りを顔面に決め、吉村何某はフィールドに大の字に倒れ込む。


 甲賀学苑は、前半十分で総大将を討ち取ってしまったのだ。


「聞いたことないわ、決勝戦で前半十分で決着って。頼もしい後輩達や、ウチらも秋のインターハイ頑張らんとなー」

「俺も早く高等部でやりてーわ。あ、池田センパイによろしく言っといてよ、中間試験でめっちゃ世話になったんだ」

 桃は微妙な顔で、

「お、おお。駿さんに、な。ああ、おっけ」

 忠太は首を傾げ

「どした? さては駿さんに告ってフラれたとか? ダッサ」

 言った瞬間に顔を防御したのだが、いつもの桃の手刀は飛んでこなかった。

「チュータ、ちょっと話あるんや」

 桃がそう言うとスッと立ち上がる。何事か、と忠太もよっこらしょと立ち上がり、店の外の駐車場に移動する。

「あんな、ウチな、あの人にちょっと誘われとんねん」

 マジか! あの駿センパイが、こんなブッサイク…でもなくなった桃を誘うとは…

「ちゃうわ。そっちやない。高校卒業したらな、俺が世話になる会社にお前も来いへんかって」

「へーー、それってヘッドハンテングってやつじゃん、スゲーじゃん」

「んーー、でもな、ウチ大学行きたいねん。それに駿さんのいく会社って、なんかイマイチ…」

「何処よ?」

「古武士道の防具メーカーの、オリハルコンってとこ」

「ふぅん、ま、桃パイセンのしたいよーにすればいいんじゃん?」

 忠太が内心スッゲーと思いながら、そっけなく言う。

「お前は、高校卒業したら、川崎に戻るんか?」

「んーーー、そんな先のこと、考えたことねーわ」

 街灯に照らされた桃の顔が赤くなっていることに全く気づいていない忠太は、月も星も見えぬ曇り夜空を仰ぎながらボソッと言う。

 そんな忠太を見つめながら、

「お前が… 後から入ってくる言うんなら、駿さんの会社も、ええかなって…」

 必死の覚悟で絞り出す桃にも、全く意を介さず

「そん時になんねーと、分からんっしょ。あ、それよか、優勝のお祝い、なんかくれよっ」

 出来れば、桃の愛刀がいいなあ、虎徹とか言ったっけ、やたら斬れ味よさげn――


 桃が忠太の頭を両手で鷲掴みにする。

 あ、頭突きくるわ 思わず忠太は固く目を閉じ、衝撃に備える。

 次の瞬間。

 唇に温かい感触を覚える、未だかつて感じたことのない、柔らかく優しく暖かい……


 鷲掴みから解放され、恐る恐る目を開ける。

「ゆうしょう、いわい、や お、おめ……」

 ダッシュで駅の方に走り去る桃の後ろ姿を、唇に手を当てながら呆然と見送る忠太なのである。


     *     *     *     *     *     *


 祝勝会は恙無くお開きとなる。

 今夜も僅かなビールで前田りえは意識を失い、皆に冷やかされながら柴田はりえをタクシーに押し込み、自らも乗車した。

 忠太はあの後の記憶が全く無く、遥に引っ張られながら水口の駅のホームに辿り着いた頃にようやく、

「あれ… 今何時?」

「もう十時半ですが。それよりも途中、青木先輩と抜け出して何を話してたのですか? 青木先輩は戻らなかったようですが、何があったのですか?」

 忠太の脳は依然活動中止しており、

「さーなー、そんな昔のこと覚えてねーわ」

「ふぅーん。あ、電車来ましたよ、これを逃すと後一時間後になるわ、さ、早く早く」

 全部員が呆れ顔や冷やかし顔で眺めるのも何のその、全く意に介さない遥に引き摺られて電車に乗る忠太なのであるー


 甲賀中央駅で下宿組が皆下車し、今日の健闘を讃えあったのち、解散となる。

 終バスはとっくに終わっており、志徳寺へはタクシーか四十分ほどかけて歩くかー

「もう疲れたわい、やきにくたらふく喰うてもう歩けん、たくしいじゃ、たくしい!」

 と紅葉が喚くので大枚を叩いてタクシーに乗車する。

 十分ほどでバス停『志徳寺前』に停車し、降りるや否や、

「ううう、腹が… ウチはダッシュでトイレに行かねばならぬ、うぉーーー」

 と叫びながら紅葉は山道を颯の如く駆け上っていく。

「アイツ… タクシーの中で、屁こきまくりやがって…」

「凄まじい臭いでした… 悪夢のようでしたね、きゃは」

 遥がくすくす笑いながら、不意に忠太の手を握る。

「おいこら何の真似だこれではまるで恋人のようではないか」

 遥は拗ねた顔で、

「違うよ、兄と妹なんだよ、お兄ちゃん」

 出た。お兄ちゃん お兄ちゃん お兄ちゃん……

「さ、早くお寺に帰ろ、お兄ちゃんっ」


 さっきの桃といい、コイツといい……

 中々胸を高鳴らせてくれるじゃねーか、こんちくしょう…

 漆黒の暗闇の中でもハッキリと分かるほど顔を赤らめ、遥のなされるがままに石段をゆっくりとゆっくりと仲良く昇っていく忠太であった。


 寺の小僧や蕭衍から手荒い祝福を十分間に渡り受け、ボロボロとなった忠太は一人じっくりと湯に浸かり、部屋に戻ると珍しく遥が大いびきで寝ている。

「チビがうるさくてかなわん、喧騒喧騒」

 紅葉が不貞腐れてうつ伏せになって転がっている。

 相変わらず川の字のど真ん中で偉そうに寝っ転がっており、今夜もコイツの寝相の餌食になるかと思うと、ややゲンナリとする忠太だ。

 それにしても。

 疲れた。恐らく人生で最も疲れた一日であった。

 忠太は一番手前の布団に寝転び、古ぼけた天井を見上げる。

 準決勝の前半の終わり間際。

 俺は忠太郎、だった。

 そして、背後の総大将の藤林を後ろ突きで倒した後。

 忠太郎は、逝った。

 所謂、成仏? した。

 俺の中から、忠太郎がいなくなった。

 それは紅葉も理解したらしく、試合後三十分近く俺にしがみついたまま、号泣していた。


 あの瞬間は忘れようにも忘られない。

 身体が二メートル近くジャンプし、遥と百地の上を飛び越え、更に藤林まで飛び越したのだ。何という跳躍力、現代人では考えられない技であった。

 そして。

 まるで背中に目がついているが如く。背後から斬りかかる藤林の鳩尾を左脇から突き出した刀で渾身の一突き。

 試合後、藤林は病院に運ばれ、一週間の安静が必要と診断されたらしい。セルロースナノファイバー製の胴具は、修復不能の凹みが出来ていたらしい。

(後は其方に任せても良い。儂のお役は御免じゃ。)

 今でも忠太郎の、想いを込めた低い声が耳から離れない。


 後は任せる…

 俺はこれから、コイツに何を…


 ふと左隣の紅葉に首を向ける。


 紅葉も天井をぼんやりと眺めている。

 そして呟くように、

「忠さまは、逝ってしもうたんやな」

 大きく静かに息を吐く。

「もう二度と忠さまに会えへんのやな」

 今度は忠太が息を吐き出す。

「ま、今までもほとんどいないようなもんやったわな…」

 下唇を噛み締める音が古い部屋に響く。遠くで夜鹿が物寂しく鳴いている。

「忠さまは何処へ逝ったんやろ。天国やろか。それとも、誰かに生まれ変わったんやろか…」

「きっと、この辺のどっかで、神様にでもなったんじゃねーか」

 紅葉は忠太に向き直り、

「そやろか。神様になって、うちのことをずっと見守ってくれるんやろか?」

「ったく。なんという自己中発言を…」

「てへぺろ」

 舌を出す紅葉が、普通に可愛い。

 桃にも、遥にも感じなかった、胸のキュンキュンに戸惑いながら、

「さ、もう寝ようぜ。明日は朝からフツーに学校だぞ」

「サボる。疲れた。」

「はぁ? 弓役で二十五分出ただけじゃねーか、ざけんな」

「黙れ。それより。ウチに何か言うことあらへんか?」

「へ?」

「お主の背中を守るという約定を果たしたのじゃぞ。何か言うことは?」

 忠太はプッと吹き出しながら、

「おおお、サンキュサンキュ。お陰で伊賀に勝てたわ」

 紅葉はプッと膨れっ面で、

「御礼は何じゃ? 言うとくが、御礼の接吻なぞお断りじゃぞ」

 ふと焼肉屋での桃との出来事を思い出し、激しく赤面する。

「な、何がいいんだよ?」

 紅葉はいたずら小僧の顔付きとなり、パッと閃いた顔で、

「腕枕。」

「…… ハァ?」

「御礼に腕枕をせい、と言うとる」

 忠太は上体を起こし、首を振りながら、

「いやいやいや、そーゆーのは彼氏彼女がするもんだから。仲間同士や友達同士でするもんじゃねーから」

 紅葉はキョトンとした顔で、

「こら忠助。お主阿呆か? 誰が忠助如きを彼氏だの婿にする言うた、身分を弁えよ」

 確かに社会格差はスゲー令和だけど、身分って…

「ええからウチの言うことを聞けばよいのじゃ。分かったかこの唐変木め」

 唐変木って、何すか?

「ほれ、いいから腕を出さぬか、これ、言うことを聞かぬと絞め落とすぞ」

 無理矢理左腕を伸ばされ、その上に嬉しそうに乗っかる紅葉。

 あ。

 思ったより軽くて優しくて温かい… そんで、スッゲーいい匂い。

 唐突に初めて邂逅した日の紅葉の匂いを思い出す、とても人の匂いとは思えず、猪か山犬のような獣臭に鼻を顰めたなぁ。

「ほうほう。これが巷で噂の『腕枕の術』ぞ。ふむ、中々に居心地がええの。気に入った。これから度々これを所望するぞ、よいな忠助」

「だーかーらー。こーゆーのは、彼女にしかしてやらないっ」


 紅葉は不貞腐れつつ、

「ふむ。仕方あるまい。それなら、今宵より忠助は、ウチを彼女と思い、扱うことを許す。これでどうじゃ? よし決まりじゃ。あーー、快楽快楽〜」


 …… ……


 ハァーーー

 コイツにはこの先、もっともっと令和の社会性を教えていかねばならねえ……

 でも、今夜は、今夜、くらいは、この、まま、で…


 忠太は生まれてこの方、経験したことのない幸せな眠りに落ちていった。




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