序章
平成三十一年(2019年)三月
東海道新幹線、新横浜駅のホーム。
神奈川県川崎市の北部にある真言宗応禅寺の住職、林良閻の目にはうっすらと涙の膜が光っている。
この年に五十七歳になる良閻は、日本古武士道連盟神奈川支部の重鎮であり、応禅寺において主に青少年に古武士道全般を教えている。
良閻の目前で顔を顰め涙をポロポロ溢している、小学校を卒業したばかりの十二歳の少年。
名を、伴忠太、と言う。
年配の読者はプッと吹き出すかもしれない。でもあの人とは全く何の関係もない。
顔つきも眉毛が太くて四角い顔、ではなく、そこそこ整った目鼻立ちでちょっと良いとこの高貴な面影である。
十二年前の雪の積もったある朝、応禅寺門前にて毛布に包まれた新生児が保護された。
横に置かれた鞄の中に、『伴忠太』と清書されたメモ書きが見つかり、良閻はその名を役所に届け、自らが育てることとした。
この頃より、幼いながらにちょっとした貴族顔で、一体どこの御曹司なのか話題になるほどであった。
寺が運営する養護施設で、そんな忠太はすくすくと育っていく。この平成の世に捨て子とは、と周囲からは憐憫の情を受けつつも、他の保護児童らと共に元気いっぱいに成長していく。
二歳を過ぎた頃から、忠太の生まれながらの才として、常人を遥かに凌駕する敏捷性を良閻は見出し、三歳になると寺で古武士道を伝え始める。
必然、身体を良く動かせば性格も朗らかに成っていく、忠太は生誕してすぐに親に見捨てられた子にしては、明るく実直に育っていく。
五歳になると、二つ上の道士(古武士道に邁進している者)に打ち勝つようになる。
八歳では小学生道士で忠太に敵う者はいなかった。
十歳の時点で応禅寺道場の中学生の部の頂点に立った。
この頃から忠太の中に驕りが見え始める。年上の道士に舐めた態度を取り、年下の貧弱な道士をいじめたりするようになる。
大人に対しても大したことのない相手には態度を変え、見下すような仕草を見せるようになっていく。
養護施設での生活面の乱れも見え始め、掃除をサボる、門限を破る、食糧をちょろまかす、禁じられているゲームを隠れてする、女子児童の下着をずり下ろす、など日常茶飯事となっていく。
良閻ら保護司たちがこれを諌めるも、一時は大人しくなれど数日後には元の木阿弥。
どうやら天狗になっておる、少々荒療治が必要かの、と良閻は思料する。
昨年の夏。
十年に一度と言われた猛暑の中、良閻は驕り天狗の忠太を連れて、滋賀県南部にある私立甲賀学苑を訪れた。
甲賀学苑の高等部は古武士道で全国高校総合体育大会三連覇を誇る古武士道の名門校である。
学苑近くの山中に佇む志徳寺の住職である杉山蕭衍は良閻の旧友である。
この寺に一週間滞在し、忠太は甲賀学苑中等部古武士道部の夏の修行に参加した。
そもそも、古武士道とは。
戦国時代の武術を基本とした刀術、槍術、弓術、砲術などの総称である。
いわゆる何々流剣術、槍術などとは異なり、それぞれが独立した武術ではない。
一人一人が刀、槍、弓、銃の技と手技(正拳、手刀など)足技(主に蹴り)を総合的に駆使するのが古武士道なのである。
古武士道は個人種目ではなく、常に団体戦だ。
十八歳以下の青少年大会においては、刀役四士(名)、槍役三士、弓役三士、そして総大将一名の十一名がチームとなった団体戦である。
十九歳以上の大会では筒(銃)役二士と刀、槍が一人ずつ追加され、十五名編成となる。
ルールは二十五分〜三十分の前後半制であり、試合時間内に総大将を討ち取れば勝ち。若しくは試合終了後に残っている者の多い方が勝ち。
全員が剣道で用いるものに似た面、胴、籠手を着けなければならない。
刀役は刀を落としたり、倒されて背中を地面についたら脱落。
槍役も同様。
弓役に矢で射られたら皆その時点で脱落。
滅多にないが、弓役は弓を落としたら脱落。
現代のサバゲー(サバイバルゲーム)の原点であることが世界中から注目を浴びており、近年世界大会も開催されている。
そんな忠太と言えば。
正に、井の中の蛙、であった。
槍術、弓術、刀術。何一つ忠太が甲賀学苑中等部員に敵うものは無かった。
槍術は、己の身長の二倍の長さの槍を用いて主に防御を担当し、味方の総大将の周りに布陣されることが定石である。
先端に丸く布を巻き付けるものの、まともに頭に直撃すればほぼ失神する。
この数年、忠太は一度たりと頭部を打撃された試しはなかったが、わずか十分間の乱取りで三回失神させられた。
因みに忠太の槍先は、相手を掠ることさえなかった。
弓役の射る弓矢には猛毒が塗られている設定なので、体の一部にでも当たれば即脱落せねばならない。
五間練と言う、約九メートル離れて互いに矢を撃ち合う修行において、忠太は相手の全矢を手足胸、何なら顔に受けてしまう。
最後の矢は忠太の金的に命中し、この種目では滅多に見られない失神、更には失禁をしてしまう。
当然忠太の矢は一本たりとも相手に掠ることさえなかった、
そして刀術。刃と切先が削られた日本刀を用い、下半身以外の部位に容赦なく斬りかかる。
籠手をしていても腕に真面に当たれば骨折し、面に当たれば容易に失神する。
当たりどころが悪く、過去に幾人も死に至ったケースもある。故に古武術道において最も鍛錬が必要なのは当然である。
忠太は小学五年生にして応禅寺道場では中学生らを圧倒していたものであったが。
甲賀学苑の道士達の太刀筋には手も足も出ず、何度も失神し全身アザだらけの有様となる。
そして、団体戦。
忠太は応禅寺では中等部の総大将を張っており、この一年間で彼に一太刀でも一矢でも当てた者はいなかった。正に天上天下唯我独尊状態であったのだが。
甲賀学苑中等部の二軍戦に刀役として参戦した彼は、開始数分で樹上からの矢を受けて即離脱。
二回戦でも自陣内で敵の刀役に一太刀で斬り崩された。
三回戦ではまさかの自軍の矢に射抜かれ、敵道士たちの笑いの的となってしまう。
これまでに培われてきた彼の自尊心、自信は粉砕され、七日間の修行を終えた頃には蝉の抜け殻と化していた。
一体俺は今まで何を……
たった一学年しか違わない彼らに、何もかもが全く手が届かない。これ程情けない思いをするのは人生で初めてのことだ。
修行場に大の字で倒れ、真っ青な空を見上げながら、大粒の涙が目から溢れ出す。
そしてこの数年の己の所業を思い返し、余りの幼さと拙さに思わず大声で叫んでしまう。
「ったく。なんでこんなやわなガキの面倒見なきゃあかんねん!」
忠太と共に七日間の修行をこなした鋭い目の茶髪の女子道士が、無様に地面に伸びている忠太を見下しながら吐き捨てる。
「東京(実際は川崎であるが)から来たボンボンなんて、ウチでやって行けへんよ。二度とここに来んな! ええな?」
忠太は自分を見下ろし見下している女子道士をぼんやりと見上げる。
「そうか? 小学生にしては中々やないか? 中々見所あると思うけどな。まあ桃と比べたら全然やけどな。特にアジリティーはホンマ化け物レベルやでこの子」
お喋りなヘアバンドをしたイケメン男子道士が茶髪女子に笑いながら問いかける。
「アンタ、去年の今頃あれくらい出来た? 出来へんかったやん?」
別の女子道士が彼に同意しながら呟く。茶髪女子は
「ともかく。あのガキは気に入らへん。なんかムカつくねん。」
「それ、お前の好みだろうが?」
笑いながら厳つい丸坊主の先輩が野太い声で笑う。
「そや。このスカした目ぇが気に入らん。左手の中指が気に入らん。クッセー息が気に入らん!」
「息って… 何それウケるー」
軽い笑いが起こるのを呆然と眺めていると、ヘアバンドイケメンの道士が話しかけてくる。
「少年。どや、ウチの部は。ちょっとやるやろ? キミも中々やけど、まだまだやね、入学までの半年にな、もっとk―」
「俺、お前らみたいに、なれるのか?」
彼の言葉を遮り、真剣な表情で吐き出す。
その刹那、茶髪の女子が目に止まらぬ速さで忠太の頬を蹴り飛ばした。
思わず尻餅をつく忠太を見下ろしながら、
「その口の利き方。直せ。次生意気な口利いたら、」
忠太が頬を押さえながら唖然として茶髪女子を見上げる。彼女は右手の親指を立て、自分の喉元を割く仕草で
「これやで」
唾をゴクリと飲み込み、カクカクと首を縦に振る忠太であった。
身体はかつてない修行濃度でボロボロ、精神は茶髪の女子道士にボコボコにされ、忠太は経験したことのない失意のうちに甲賀を後にする。
その帰り際、件の茶髪女子、どうやら青木桃、と言う名前らしい、が
「ふん。どうしてもここでやりたいなら、ウチに土下座しい」
などと曰うたので、誰がこんなところでお前となんか一緒に修行するか、このどブス、と吐き捨ててダッシュで学苑を後にし、志徳寺でのほほんとしていた良閻和尚のケツを叩き、宿坊を逃げるように後にして電車に飛び乗る。
新幹線に乗り換えて静岡を過ぎる頃には、己の未熟さを痛感できた中々いい修行だったなと思ってしまい、熱海を過ぎる頃には、優しかったイケメン先輩と丸坊主先輩が懐かしくなり、新横浜に到着した頃には、是非また彼らと修行に励み日本一を目指してみたい、但しあの茶髪ブス抜きで、と極めて自分勝手な願望を抱くに至る。
その日を境に、忠太は人が変わったかの如く修行に勤しむ。
先輩や後輩をコケにすることは無くなり、傲慢さは影を潜め、持ち前の明るさで周囲を引っ張っていく存在となりつつあった。
あの茶髪ブスの太刀筋が目に焼き付いて、寝ても覚めても忘れられない、次会うときには必ず凌駕してやる。その決意が忠太の修行の質を向上させる。
これまでは漫然と素振りをしていたが、目の前に茶髪ブス…青木桃道士をイメージし、彼女の幻影に向かい刀を斬り下ろす。
朝も晩も、それこそ両手のマメが破れ血が吹き出しても、悴んだ手の甲から血が滲んでも、忠太は刀を振り続けた。
あの女には絶対負けたくない。見下されたくない。
次に対峙する機会はあるのだろうか、もし再会したなら、俺は必ず……
必然、忠太の剣技は夏までに比べ鋭さ深さが増し、もはや相手となるのは高校生以上の道士達となる。
そんな忠太の真剣な態度に良閻は目を細め、ある日忠太に、中学から甲賀学苑に進学する気はないかと問う。
忠太は即座に茶髪どブス女が脳裏に浮かぶ。あの女にリベンジ出来る、俺の目の前で土下座させてやる!
忠太は良閻に土下座をし、後生です、俺をあの学校に行かせてください、と頭を畳に擦り付けた。土下座のための土下座なのである。
良閻はそんな忠太の邪な思いは即座に見抜き苦笑いするも、その願いを快諾する。
話はとんとん拍子に進み、年末には推薦入学枠での甲賀学苑進学が決定する。
道場の先輩も後輩も大いに驚くも忠太なら、と思っている様子だ。
「忠太なら、あの名門校でも十分な戦力となるであろう」
「日本を代表する道士になるだろう」
口々に言いながら、そして近づく忠太との別れを惜しみながら、やっとこさ無駄な熱血バカとの離別にホッとしていたことを、忠太は知らない。
そして、惜別の時。
「これ忠太、もう泣くのはおよし。旅路に涙は不吉なり、じゃぞ」
新横浜のホームに新幹線が力強く入ってくる。付き添いで忠太の荷物持ちの純平も、貰い涙にくれている。
「いつでも帰ってくればいい。さあ、元気な笑顔を見せておくれ」
忠太はジャンパーの裾で涙を拭い、無理やり良閻と純平に笑顔を見せた。そして不遜にも
「なあ和尚。もう泣くのはおよし。送りに涙は不謹慎、だぞ」
「なぁにが不謹慎じゃ。知ったかぶりおって。そんな格言聞いたこともないわ」
「あは、俺がいなくなって寂しくなったら、いつでも甲賀に来ればいいじゃん」
「だぁれがお前なぞ寂しがるかい、お前こそ寂しくなったら電話でもしてこんかい」
「電話代もったいねぇわ。LINE電話にすっから。LINE、そろそろ出来るよおにしとけよ」
ああまた始まった、和尚と忠太の憎まれ口の掛け合い。うんざり顔の純平がそっと溜息を吐く。
そもそもスマホを持っていないのに、どうやってLINEするんだか…
呆れ顔の純平が肩をすくめると、
「ふん、メイルで十分じゃわ。おいこら、早く乗らんか、乗車ベルが鳴っておるぞ」
和尚のメール打つ姿なぞ一度たりとも見たことない。一体この人達は何を話しているのだろうか。純平が声を立てて笑い出すと、
「おっといけねえ、ほんじゃちょっくら行ってくるからさ。元気でな和尚」
「ああちょっくら行ってこい。息災にせよ」
「じゃあな和尚、純平。達者で…… ん? あれ? おい……」
ドアがシャッと閉まり、目を見開き口をパクパクさせた忠太を乗せたひかり三七号がゆっくりとホームを滑り出す。
良閻は再び涙の膜を目に張らせ、いつまでも走り去る新幹線を眺めている。
その横で純平は、両手の荷物をいかにすべきか、オロオロし始めたものだった。