Business、battle、リバーシブル:1
――その部屋は、ショッキングピンクの濃厚な霧に包まれていた。
部屋にいるのは、二人。
一人は、ルベルト王国の王都に潜伏し、聖女の一人であるエレノアの暗殺、もしくは誘拐をもくろむサキュバス達の暗部組織が一人。
もう一人は、サキュバス達に捕らわれの身となっている、商業ギルドの職員であるエリス。彼女の体は、相変わらず厳重に拘束具が巻き付いており、物々しい雰囲気を纏っていた。
しかし、それにしては本来であれば焦燥としていてもおかしくはないはずの状況であるにもかかわらず、本人はいたって普通の様子で、それが却って彼女の現状が普通ではないことを物語っていた。
様子がおかしいのは、それだけではなかった。
まず、エリスの下腹部には、いつぞやのコーネリアのように、妖しく輝く紋様が浮かび上がっており、サキュバス達がなにかしらの呪いをかけたことがうかがえる。
その上で、その背中からは蝙蝠のような翼が。尾てい骨のあたりからは先端が鏃のような形状となっており、細く鞭のようにしなる、湿り気を帯びた尻尾が生えている。
衣服も、捕まっている間にすり切れたり汚れたりして見るも無残になってしまった商業ギルドの制服ではなく、艶のある扇情的な衣装をまとっており、まるで彼女自身がサキュバスになってしまったかのようであった。
――エリス。商業ギルドの職員の一人であり、財務担当を任されている女性。
彼女はこれまでに一度、エレノアを付け狙うサキュバス達の策謀に堕ち、精神体のみの状態となって捕らわれの身となった。
その時は、アネットの敏感な第六感によって救出され、事なきを得た――その時は。
しかしサキュバスは彼女を逃がしたままにはしてくれなかった。
ある日の仕事帰りのこと。その日、エリスはエレノアのもとへ出向していた間にたまっていた仕事を片付けるために夜遅くまで残業をしていた。
サキュバスの問題もあり、友人であるアネットからは心配されてもいたが、エリスは大丈夫だと言って聞かなかった。
業務を終えて、商業ギルドの裏口から路地裏に出たエリスは、途端に周囲に甘い匂いが漂っていることに気づく。
最初は気のせいかな、と思い気にせずに職員寮へとむけて歩いていたのだが――時間が経つにつれて、その匂いは急速に強まっていった。
そしてそれと同時に、エリスはなぜか意識が遠くなるのを感じ取る。例えるならば、酷い酩酊状態にあるような感じだ。
耐えきれず、その場に倒れ込むエリスを――抱きとめるようにして誰かが受け止める。お礼を言おうとして、その背中に蝙蝠のような羽が見えた、その瞬間。
わき腹に、何かが突き刺さるような痛みを感じ、間もなく彼女の意識は完全に闇に閉ざされた。
次に彼女が目を覚ました時には、もうすでにサキュバスの手に落ち、今度は心身ともに見覚えのある牢獄へとつなぎ止められていたのである。
エリスを捕らえたサキュバス達は、彼女に一つの選択を迫った。
すなわち、自分たちの側につきエレノアへの工作活動の手引きをするのか、否か、と。
答えあぐねているエリスに、敵陣へと潜伏している状態にあり、常在戦場を強いられているサキュバス達の、ストレスのはけ口になるのか、否か。さらにそう迫られ――エリスは、サキュバス達の提案を断った。
エレノアを裏切ることなどできない、と。
エリスの返答を聞いたサキュバスは、面白くなさそうにエリスを一瞥すると、『それならばせいぜい媚を売り続けることだ』と言い捨てて、彼女を捉えている牢獄から立ち去っていった。
それからは、エリスにとってまさに地獄の日々であった。
日々彼女の肉体に、そして精神に加えられる暴行。
エリスの精神状態は加速度的にすり減っていき、極限状態に陥るまでにそう時間はかからなかった。
そんな中で、彼女が拷問を受けるたびに掛けられる甘い誘惑――手駒になってくれるのであれば、手綱付ではあるけど介抱してやってもよい、というサキュバス達の誘いは、大いにエリスの決意にゆさぶりをかけた。
そうしてエリスへの拷問と、協力依頼という名の強迫が続けられること一週間。
短い期間とはいえどその種族特性上、相手の心に機敏なサキュバスの責め苦を受けたエリスの心は容易に限界を迎え、これ以上は許してほしい、とサキュバス達に懇願するにいたった。
その場にいたサキュバス達はその言葉を待っていた、と言わんばかりに嗜虐的に微笑むと、即座に彼女にある種の呪いをかけたのであった。
先に口火を切ったのは、サキュバスの方であった。
「それじゃ、拘束を解いてあげるけど――今更、抵抗しようなどとは考えていないでしょうね」
「それは……あ、ありません」
「そう…………ま、それがあるから裏切りの心配はなさそうだけど。――あぁ、もうすでに裏切っていたんだっけ、クスクス……」
「…………っ」
サキュバスが何を指さしたのかを察したエリスは、悔しそうに唇をかみしめる。
しかし、彼女は挑発紛いの言葉を口にするサキュバスに言い返すことはせず、ただ黙ってその言葉を聞き入れるだけであった。
そんなエリスの心情をわかっていながら、その上でなお彼女を虐げるようにふん、と馬鹿にするようにサキュバスは鼻で笑う。
「まぁどうでもいいわ。私達からすれば、あなたがちゃぁんと、役目を果たしてさえくれれば、ね」
それから、あぁでも、とサキュバスは一言付け足して、
「今回の作戦が成功したにせよ失敗したにせよ。あなたの居場所は、これでもうなくなったも同然、でしょうけどね」
せいぜい最期の悪あがきをすることね、と言って、エリスに背を向けて歩き出した。
エリスは人質的な立ち位置にあるが、目的成就のためであれば有象無象のどうでもいい存在でしかないのだ。
こうして自分たちの手駒としていいように扱って、それで相手の心を砕く一手として貢献してもらえれば儲けもの。彼女たちにとって、エリスは所詮、その程度の存在でしかなかった。
拘束をすべて解かれたエリスは、
「……絶対に、裏をかいて見せる。こいつらの好きになんか、絶対にさせるものですか……!」
その知的な瞳に激情の炎を湛え、その後に続いた。
アネットやパッセ、女性スミスたちと会合をした翌日。この日も、夜が明けるまでの間にサキュバス達が戦いを仕掛けてくるようなことはなく、エレノアはつかの間の平穏な朝を迎えることができた。
「平穏なのはいいことなんだけど……なんかちょっと不安な気がしなくもないんだよねぇ」
「そうですね。なんと言いますか……暗殺者が、相手をしとめるまさにその直前のような……」
「面白い例えをしますね、アネットさんは」
「そこは普通に嵐の前の静けさでいいんじゃないかって思うんだけど?」
「あぁ、申し訳ありません」
客間で夜を明かしたパッセ達とともに朝食を取りながら、エレノアはそのことについての話題を取り上げる。
王太子達がレーペンシュルク公爵家王都邸に電撃訪問をしてから二日目の今日。
これに応じて、王都に潜むサキュバス達もエレノア達に攻撃を仕掛けるものと思っていたが、エレノアの許へは全く攻め込んでくる様子を見せなかった。
一応アネットもこのことは気にかけているらしく、今日は商業ギルドの方に出向いてそれとなく探りを入れるらしいが――少しでも怪しい気配を感じたら、すぐに戻ってくる、と本人も警戒心を強めていた。
エレノアが貴族社会から追放された後、商いを始めたことで商業ギルドとつながりが強くなっている今、直接攻め込まれないとなれば次に狙われる可能性が高いのはそこの可能性が高かったからだ。
商売人にとって商業ギルドは無くてはならない存在である。押さえられれば、何か理由をつけて商業ギルドから営業許可の停止がかかる可能性も否定できない。
今のエレノアにとっては一種の生命線ともいえる存在であった。
「あたしたちは警護のためにこの店にしばらくとどまろうかな。ここ、お気に入りだし、エレノアさんも結構気に入ってるし」
「そうだな。俺も、短い期間とはいえこの店には世話になったし、キミにはアンチミネラリーヒールポーションの恩もあるからな」
「あの一件については、すでに終わったと思っているのだけど」
「命の恩人だ。あの程度では返しきれたとは思っていない」
とりあえずは、そんなわけだから引き続き客間を借りるぞ、と言って、カイル達は早々に食堂から出て言ってしまう。
「……食べるのが早いですね。さすがは冒険者、と言ったところでしょうか」
「コーネリア様、それは勘違いです。少なくとも、冒険者と言ってもこれはない……」
「同感です。これは、彼らが食というものに貪欲なだけです」
口々にそう言って、残された面々のほとんどは引き続き朝食を食べ進める。
ちなみにコーネリアの用意する朝食は、公爵家に仕えていたことがあったということもあり、なかなかに絶品である。
ナカノヒトが宿り、公爵令嬢時代以上に舌が肥えてしまったエレノアをして味に申し分がなく、彼女のメイドとしてのプライドの高さをうかがい知れる要因の一つともなっていた。
もちろん他の家事についても同様であり、今雇っている使用人たちの間でも彼女が奴隷でなければ、ハウスキーパーになっていたのではないかと口々に言われているほどである。
そんなコーネリアの食事を、ナカノヒトが宿ったことで一気に庶民化したエレノアが優雅に食べることなどするはずもなく――いつも通り、むさぼるように食べていた彼女は、カイル、ルルネに続いて三番目に食べ終わってしまった。
「ふぅ、ごちそうさまでした。コーネリア、ありがとう。今日も美味しかったよ」
「はい、ありがとうございます。ですがお嬢様――」
「あーあー、聞きたくない聞きたくな~い」
「お嬢様! ……はぁ。平民に落とされた弊害、なのでしょうか、あれも」
「…………、まぁ、コーネリアの心配するところも、わからないでもないけれど、ね……」
あれは多分素だ、とアネットが言えば、パッセもまた頷くばかり。
「公爵家にいた時は、もっと公爵家の令嬢らしい品位と風格を備えた方だったのですが……」
これにコーネリアは、ため息しか出ない様子であったという。
さて、朝食を食べ終えたエレノアは、その後すぐに一階の店舗スペースへと移動して、本日の開店準備に取り掛かる。
毎晩、在庫管理も兼ねて商品補充を行っているが、チェックしすぎて損をすることはない。
補充漏れがなければそれでよし。補充漏れがあればそれはそれで問題だが、そうであってもこの時間に補充しておけば問題ない。
そうこうしているうちにパッセがカイルとルルネを伴って売り場スペースへやってきて、エレノアに寝床の提供と食事のお礼を言ってきた。
「エレノア様、昨晩はお世話になりました。それに、美味しい朝食までいただけまして恐悦至極にございます」
「いえ。私が招いたのですから、私がもてなすのは当然のことです。それに、私の問題なのに何の関係もないパッセさんを巻き込んでしまって、申し訳ありません」
「いえいえ。まだ可能性の段階ではありますが、エレノア様が公爵家に戻る話が出ているのです。それを考えれば、雲の上の存在とつながりができるのは商人にとっても冥利に尽きることですから」
「そう言っていただけると、幸いです。……そろそろ、お帰りですか?」
「はい。それでは、失礼いたします」
「俺達はパッセの旦那を送ってきたらまた戻ってくる。部屋は片づけないで、そのままにしといてくれよ?」
「わかりました」
そう言って、カイルとルルネはパッセに続いて退店していった。
エレノアはそんなカイル達を苦笑しながら見送って、再び開店準備を進めていくのであった。
そうして本日の開店準備もまもなく終わり、そろそろ店を開ける時間に差し掛かろうかという頃合いになったところで、
――コンコン、と玄関扉をノックする音が聞こえてきた。
「あれ? 客? 誰だろう」
一応、開店前とはいえもう数人は客が並んでいるのだろうが、わざわざこうしてドアをノックしてくるということは、エレノアや、ここで働いている人たちの誰かに用事があるという可能性もある。
開店時間ももう間もなくなので、場合によっては応接室に案内することも考えに入れながら、エレノアはそのドアを開こうとして――しかし、ドアに手をかけた直前に、後ろに控えていたコーネリアに呼び止められた。
何かと思い振り返れば、彼女は険しい表情で玄関扉をにらんでいる。
「どうしたの、コーネリ――」
「シッ……、エレノアお嬢様、おかしいです。何か、匂いませんか?」
「匂い……? ……そういえば、かすかに甘ったるいような匂いがする、ような……」
ハッとして、その場にいた全員――エレノア、コーネリア、アネット、およびその他従業員が一様に視線を交わす。
先ほどまでは感じなかったのに、唐突に感じるようになった甘い匂い。それはそのにおいを漂わせる者が、この店の前に立ったことを示す。
今エレノアに迫っている驚異のことを鑑みれば、そこから導き出される答えは一つしかない。
「エレノア様。注意して、扉をお開きください」
最低限の迎撃準備を済ませたアネットも、険しい表情でエレノアに語り掛ける。
二人の強い味方に守られながら、エレノアもまた、この場にいる全員に『レジストバリアー』を施して準備を万端に整えて、その玄関扉に手をかけた。
そして、ゆっくりと、そのドアを、開いていき――
――その向こう側にいた人物を見て、彼女はまさしく度肝を抜かれた。




