Venus smileを求めて:1
アネットの話を聞き終わったエレノアは、自身が思っていた通り、サキュバスはすぐそこまで迫ってきているのだとあらためて思い知らされた。
ちなみに容赦なくアネットによって傷つけられたエリスの傷は、エリスと入れ替わっている状態のままサキュバスが死んだことで、瞬く間に体の傷がふさがっていき、そのままエリスと入れ替わっていたサキュバスと分離する形で、元に戻ったという。
「過去にも、流れもののサキュバスに憑依されたとある貴族が、そうとは知らずに暗殺された結果、突如どこからともなく多量の血を流したサキュバスが出現し、暗殺したはずの貴族の傷が瞬く間に癒えてしまった――というような類例もありますから、まぁつまるところ、そういうものなのでしょうね」
「なるほどね」
エレノアにとってもそれは、ゲーム知識がある故に頷けるものだったので、一つ頷いて受け容れることにした。
「――まぁ、なにはともあれ、あなた自身がサキュバスに憑りつかれていなくてよかったわ」
まさか、アネットがそんなに腕利きの暗殺者だったとは思いもよらなかったため、もし彼女がサキュバスに憑依された状態で、しかもその力が十全に発揮できるという条件付きで来訪されていたら、どうすればよいかわからなかった。
エレノアは、アネットの暗殺者としての実力は今回初めて知ったのだが、できれば今後も味方でいてほしいな、と切に願うのであった。
そして、今度はエレノア側から本日シリカと会って、彼女と話をしたこと、またその話の内容をアネットに語った。
アネットもまた、いくらかの覚悟はできていたのか、それほど動揺せずにエレノアの話を真摯に受け止め、思ったよりも状況はまずいのかもしれない、と考えを改めるかのように呟いた。
それはそうだろう、とエレノアは頷く。
アネットがどのような予測をしていたかは不明だが、ゲーム『ツイント』では、国の中枢部に勤めている高官の配偶者という立ち位置にも、それなりにサキュバスが潜り込んでいたのだ。
下手をしなくても、もう傾きつつある。そう言っても過言ではない状況だ。
「とはいえ、私はもう貴族たちとは縁が切れてしまっています。一応、貴族令嬢時代に交友関係にあった他家の令嬢たちには注意喚起をしておきますが――それくらいしか、打てる手はなさそうです」
「教会の聖女様が、どの立ち位置にいるサキュバスを倒したのかわかりませんからね。サキュバスが誰と入れ替わっているかがわからない現状では、むやみに手紙をしたためるわけにもいかないですし、……悔しいですが、今は後手に回ざるを得ないでしょうね」
まったくもってその通りだ、とエレノアは心の中で頷いた。
現状では、敵がどこに潜んでいるのかがわからない状態だ。そんな状態で無暗に動いても、却って敵に動きを悟られ、余計に相手に策謀の材料を与えるだけである。
今はまだ、雌伏の時なのだろう。
『ツイント』そっくりの世界で、エレノアという超重要人物の中に入り込んでしまったから仕方がないとは言えど、それでも騒動からは逃げられそうにないなぁ、とエレノアは嘆息するのであった。
(可能なら、スローライフを楽しみたかったんだけどな……まぁ、『ツイント』でも私は一応メインヒロインの内の一人で、主人公勢だったし。歴史の勢いからは逃れられない運命、なんだなぁ)
結果として、『ツイント』のエレノアがシリカルートで辿った『その後』とは程遠い未来を見据えることはできるエレノアであったが、それでも明確な『敵』が、それも自分を付け狙う敵が存在する以上、世界は舞台から降りた気でいる自分を逃しはしていなということなのだろう。
(そう考えると――私は、いや私も、打てるだけの手は打ってかないといけないわね……)
そう考えたエレノアは、どうにかして敵の動向を探ることはできないだろうか、と考えをめぐらせたが、いい方法は見つからない。
あたりまえだ、エレノアは諜報をはじめとする計略には明るくないのだから。
「とりあえず、今打てる手段と言えば、サキュバスに対抗しうる装飾品を身に着けて、彼女たちの呪いを未然に防ぐ。これしかなさそうですね」
「やはり、現状ではそうなってしまいますよね……。結局、私がいくら聞いてもあのサキュバスは口を割らなかったでしょうし」
そのあたりは、よく訓練されている感じがしたとアネットは語った。
「実はここに、淫魔石が一つ、あるの。コーネリアの呪いから抽出したやつね。これを使えば、まぁかなりの品質のものができると思うわ。……ただ、ちょうどいいアクセサリがないから少し時間をもらいたいのだけれどね」
「そうですか。では、出来上がるのを楽しみにしていますね。いつまでも警戒をしているのも疲れますから」
「任せて」
エレノアは、言いながら片手を胸にあてて、アネットに微笑みかけた。それに対し、アネットも微笑みを返す。
そして、テーブルの上では二人の決意を表すかのごとく、二人の固い握手が交わされるのであった。
翌朝。
エレノアは、商業ギルドへと出勤するアネットを見送ると、そのまま自身も身支度を整えて、コーネリアとともに出かけた。
本日の行き先は、エレノアに前世の記憶が宿ってから最初にお世話になった、女性スミスの鍛冶屋である。
エレノアの予想が的中していれば、その女性スミスは今は少なくとも男爵の爵位を授かっていることになる。
平民に落ちたエレノアからすれば、本来であれば今は向こうの方が雲の上の存在、ということになる。あくまでもエレノアの予想が当たっていれば、の話だが。
そしてその鍛冶屋に到着すると、エレノアとコーネリアはすぐには中に入らずに、一旦その佇まいを見上げて互いに顔を見合わせる。
「……ここが?」
「えぇ。私が平民に堕ちてから最初にお世話になった金物屋ね。ちなみに鑑定系のスキル持ちで、たまたまアレの鑑定中に私を視界に入れちゃったらしくて、私の事情も知っているわ」
「それは…………放っておいていいのでしょうか」
「さぁ? まぁ、今はサキュバスのこともあるし、最低限の警戒はしておくべきなんでしょうけど……それ以外の部分では今さらだと思う」
すでにあれからそれなりに日が経っている。一応、一度挨拶とその後の報告のために立ち寄ったりもしたことはあったものの、正直それほど懇意にしているというほどでもなかった。
ただ、開店後はガラス工房ではないとはいえど、もしかしたら魔道具関連で協力を依頼するかもしれないし、そういった意味では付き合い方を考えたほうがいいのかもしれないな、とエレノアは気に留めておくことにした。
とりあえずは、店の前で話をしていても仕方がないし、中に入って店主である女スミスと話をしようと入店する二人だった。
「おう、いらっしゃい。…………こりゃまた、どうしたんだ一体。店に入ってくるなり、不躾に人様のことを確かめるように眺めて……」
「いえ、ちょっとね……」
「………………?」
当然ながらエレノアが新たに抱えた事情など知る由もない女スミスは、エレノアが適当にはぐらかしたことで首を傾げた。
「またなんか厄介ごと抱えてるみたいだね。察するに私も巻き込まれる危険性があるのかい?」
「えぇ……ちょっと、ヤバそうな事案が発生していてですね……サキュバスってわかりますかね」
「あぁ、知ってる知ってる」
女スミスは、カウンターの下から一枚の紙束を取り出して見せつけた。
それは、ルベルト王国とその周辺国で使われている共通言語で書かれた新聞だ。
銘柄は『ルベルトノーブルタイムズ』といい、その名の通り貴族向けの新聞である。
ちなみに発行元は完全な私営で、同発行元からは平民向けに『ルベルトタイムズ』という新聞も発行されている。
両者の違いは貴族向けの情報が載っているか、平民に周知しても問題ない(または周知するべき)内容のものしか載っていないかの違いである。
当然貴族向けのそれは貴族にしか販売してはいけないことになっており、闇ルートにつながりがあるとか、他に貴族ないしその身内でありながら鍛冶屋を営んでいるような変わり種の女性がいるとかでもない限り、この女スミスはアネット達がいっていた男爵で違いないということになる。
「ほら、これ。うちで取ってる新聞にでかでかと載ってたからさ、もしかしたらあんたにも関係あるのかも、って思ってたりはしてた」
女スミスが示した記事にはなるほど、確かにシリカの協力の元、王太子が王宮内に潜伏していたサキュバス族を討伐した旨の情報がでかでかと見出しとして記載されていた。
ちなみにシリカはこれに限らず、最近王都内で不審な魔力をたびたび感知しているため、この度大々的に調査を開始することにしたと語っていたことも記載されている。
「私、こんなの見たことないわ」
「そりゃあ、趣味の問題だろうさ。私は暇なときは読み物で暇をつぶすたちだからね。それに、私は茶会やパーティなんかにいっても、壁の花になることがほとんどだから、情報収集の手段としても重宝しているよ」
ちなみに女性スミスとエレノアとの間にある最大の差は、派閥によるものが大きい。
エレノアの実家は公爵家であり、当然茶会やパーティなどで未発表情報などが飛び交うことも多々ある。それに、欲しい情報や秘匿したい情報は話術で奪い合うのがこの世界における社交界の仁義なきルールである。
そうした兼ね合いもあるから、基本的には話術などを鍛えるために新聞などには頼らせず、積極的に茶会やパーティなどに参加させられる令息令嬢も結構な数がいるのだ。
かくいうエレノアも、茶会やパーティには嫌というほど参加させられた記憶がもともとのエレノアの記憶にあるから、おそらくはレーペンシュルク家もそういう口だったのだろう。
王妃たるもの、話術が得意でなければならない、という妃教育の一環だったということも考えられるが。
エレノアは、女スミスが差し出した新聞の記事をしばし読み進めていたが、やがて女スミスが掌を叩くような動作をしながら、
「っと、そうだった。私としたことが、用件を聞くのすっかり忘れてたな。何の用できたんだ?」
とようやく本題に踏み込んだことで、意識を女スミスへと戻した。
「あぁ、私もすっかり忘れてましたね。…………っと」
エレノアは、慎重な手つきでバッグ(なお、背嚢とは別に新調したポーチである)から巾着袋を取り出した。
淫魔石が収められた、例の巾着である。
「これをもとにレジスト系とサーチ系の効果を何かに付与したいなって思ってるんですけど、何かよさそうなアクセサリってありますかね」
「ふむ……ちょっと拝借するよ」
「あ、気を付けてください。元はサキュバスの呪いで、直接触れただけでそれ系の強烈な呪いがかかる可能性が高いですから」
「おっと、それは気をつけないとだね……どれ」
言いながら、女スミスは軽い手つきで巾着の中身を見て、軽く鑑定をかけた。
「なるほど…………こいつはすごい逸材が入っていたもんだ……。これをもとに付与魔法を使えば、かなりの強さのレジスト系効果でも作り出すことができるだろうね」
そして、女スミスはカウンターから売り場に出て、主にアクセサリが並べられた区画へとエレノアたちを案内する。
「ものはいくつある?」
「一つですね」
「なら、レジスト系9に残りの魔力をサーチ系、って振り分けがいいだろうね。素材は、やはりこうした呪いに抵抗力が強い、銀かミスリル、ミスリル銀のいずれかだね」
銀かミスリルはそのままで、ミスリル銀はその二つの合金だ。
いずれにせよ、様々な呪いに対して高い抵抗力を有する。
反面、物質化系の呪いには弱いためそれだけは別の素材のものを用いる必要が出てくるが。
エレノアは、いくつも並べられたアクセサリから、首飾りと髪飾りをベースとして購入。さらに安物のパリュールも何セットか購入した。
いずれも宝石はあしらっていないか極小サイズのモノだけしか使われていない物だったので、代金は非常用の積立金を切り崩して充当しただけでどうにかなった。
エレノアにとって、サキュバス対策は喫緊の課題なので、非常用のお金に手を出すことにためらいはなかった。
そのまま女スミスに礼を言うと、もうそろそろ開店の準備が整いつつあることを説明し、もしかしたらアクセサリ類に魔法効果を付与して販売するために、そのベースを定期的に買いに来るかもしれないとも相談。
女スミスは豪快に笑いながら、返事一つでこれを了承したのであった。




