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一日目⑧

「恥ずかしかったー。誰も見ていないって分かっていても、野外で服を脱ぐのは緊張しちゃうよね」

 部屋に戻ってきた千帆は、恥ずかしがるどころかむしろにこやかに、そう報告した。

 僕たちはコーヒーの残りを飲みながら話をする。いまひとつ盛り上がりに欠けるけど、途切れずにだらだらと続いていく、そんな会話となった。

 世界には僕と千帆の二人きり。

 二人揃ってその現実を受け入れて、では、これからどう行動すればいいのか。

 僕たちは多分、それについて話し合うべきなのだろう。千帆も当然、そうするべきだと認識しているはずだ。

 だけど、実行には移さない。

 百パーセント受け入れたつもりでいたけど、実際には九十九・九パーセント止まりだったのかもしれない。その結果が、重大な議題について話し合うことを避けている現状、というわけだ。

 普段は人が多い徳島市内を歩いて、通行人と出会わなかったという結果が出ても、まだ受け入れきれない。

 人間は、なんて弱い生き物なのだろう。

 やがて話題も枯渇してきて、コーヒーの缶も空になった。黙って、俯きがちに、広いとはいえない密室で面と向かっているのは、あらゆる意味で気詰まりだ。

「一階、見に行ってみない? 案内するよ」

 僕の提案を、千帆は快く了承した。


 千帆はテレビのリモコンの電源ボタンを連打しているけど、うんともすんとも言わない。

「電気が通っていないから、つかないよ」

 理解した上でやっているのは分かっていたけど、一応言葉をかけておく。真っ暗な冷蔵庫の中身を確認しながらの発言だ。加熱しなくても食べられそうなものは、意外にもたくさんある。多すぎて、逆に食べきる前に腐らせてしまいそうだ。

「なにかの間違いでつかないかなぁ」

「残念だけど、無理だろうね」

 冷ややかに言葉を返したけど、気持ちは痛いほど分かる。受信料を返せと抗議したくなるようなくだらないテレビ番組も、BGM代わりに流せば、場の雰囲気が重苦しくなるのを防いでくれる。その手が使えないのは、今の状況だと少々きつい。

 冷蔵庫のドアを閉める。千帆はリモコンをダイニングテーブルに置き、リビングのソファに腰を下ろした。

 僕はキッチンの窓越しに外を見やる。見えるのは、高柳家に隣接するアパートの駐車場。普段なら常に何台か駐車されているのだけど、今は一台も停まっておらず、閑散としている。

 僕たち二人を除く人間と動物以外にも、この世界から消えてしまったものがある。自動車だ。高校から高柳家に戻ってくるまでのあいだ、歩道に停まっている自転車は一台も見かけなかったから、乗り物全般が消えた、と解釈するべきなのだろう。なにが消えるか消えないかの決定が、いかなる基準によって下されたのかは、現時点では謎だ。僕たちが気づいていないだけで、他にも大事なものがこの世界から消滅しているかもしれない。

 殺風景な景色を直視しながら、最後の〇・一パーセントを埋める方法は時間しかないのでは、と考える。

 悪夢のような一日が終わり、夜になりました。眠りました。朝が訪れて、目が覚めました。改めて探してみましたが、やはり僕たち以外の人間はどこにもいませんでした。僕たち以外の人間が消えたのは、どうやら動かしようがない事実のようなので、今後は事実を事実と認めて生きていきましょう。

 そのような過程を経なければ、僕たちは前に進めないのかもしれない。

「シューマ、これからどうする?」

 聞こえてきた千帆の声は、先ほどよりも少し遠い。いつの間にか、リビングの窓にかかったカーテンの隙間に顔を突っこみ、外の景色を眺めている。

「選択肢、いろいろあると思うけど」

「そうだなぁ」

 いかにも考え中といった返事をして、窓に背を向けてダイニングへと移動する。

「次にしなきゃいけないことは、夕食かな。電気がないから、明るいうちに食べておきたいし」

 僕はダイニングテーブルの椅子を引いて腰かける。僕の席ではなく母親の席だったけど、今となってはそんなことはどうでもいい。千帆は体ごと僕のほうを向いた。

「さっき食料品の在庫をチェックしたんだけど、一週間ぶんくらいはあった。だからここで食事できるし、もちろん大毛島に帰ってもいい。ただし帰る場合は、暗い中を移動するのは避けたいから、早めにここを出たほうがいいと思う」

 千帆はこちらに歩み寄ってきた。ソファを素通りしてダイニングまで来て、僕の向かいの椅子に座る。

 千帆は頬杖をつき、右斜め前方の虚空を見ながら黙考している。やがて両腕を組んで天板に置き、その上に胸をのせるというポーズをとった。必然に強調されたその部位に、僕の視線は引き寄せられる。見れば見るほど吸いこまれそうになる、深い、深い谷間。

「こっちがいい」

 凛とした声に、僕は我に返って顔を上げた。千帆は僕の顔へと真っ直ぐに眼差しを注いでいる。

「あたし、シューマの家にいたい。食事はシューマの家で済ませたい。理由は、なんとなく、かな。説明しろって言われると困るけど、とにかくそういう気分なの」

「そっか。だったら、ここで食べようか」

「……あの。もう一つお願いなんだけど」

「なに?」

「一人きりになる時間が欲しいの。夕食の時間まででいいから。シューマといるのが嫌になった、とかじゃなくて、純粋に一人きりになりたい気分なの」

 胸をまじまじと見ているのを目撃されたらしいあとだけに、それが理由で距離を置きたいのかとも思ったけど、どうやらそんな表面的な話ではないらしい。真剣で、少し硬さが感じられる表情が、そのことを如実に物語っている。

「ここに残りたいって言ったあとで、図々しいお願いかもしれないけど、少しだけワガママを通させて。……駄目かな?」

「いや、駄目じゃないよ。全然駄目なんかじゃない。朝からずっと二人で行動してきたから、そういう気持ちになるのも無理はないよ。千帆が言い出さなかったら、僕から同じようなお願いをしていたかもしれないし。お互いにとって悪くない選択だと思う」

「ありがとう」

 表情が少し柔らかくなったようだけど、芯にあるものは変わっていないように見える。望みが叶えば解消されるのだろうか? そうであってほしいと願わずにはいられない。

「じゃあ、妹の部屋を使って。妹の部屋は、階段を上ってすぐ右。ドアにひらがなで『まゆる』って書いたプレートがかかっているから、分かると思う」

「ありがとう。そういえば、妹さんがいるって言ってたね」

「うん。三つ下なんだけど」

「シューマは頼り甲斐のあるお兄ちゃん? 真由瑠ちゃんにとって」

「僕としてはそのつもりだったけどね。むちゃくちゃ生意気言うし、尊敬はされていなかったと思うけど」

「そっか。でも、なんだかんだで頼りにしていると思うよ、きっと」

 ようやく、千帆らしい笑顔が見られた。僕は二重の意味でほっとした。

「じゃあ、使わせてもらうね。私物を勝手に見るとか、絶対にそういうことはしないから」

「いや、そこまで気をつかわなくてもいいよ。……もう永遠に帰ってこないし」

「あ……」

 沈黙。放っておけば夜が明けるまで続きそうだ。千帆は無理矢理気味にほほ笑み、椅子から腰を上げる。気まずい空気になるのを避けたいのは僕も同じなので、無理をしない程度に明るい声を出す。

「僕のほうから二階へは行かないから、ゆっくりしてね。あ、でも、夕食の時間には下りてきてほしいかな」

「暗くなる前にだから、空が紅くなるころでいい?」

「そうだね。それまでに夕食を用意しておくから、ごゆっくり」

 後ろ姿がドアの向こうに消える。足音が遠ざかり、ほどなく無音に溶けた。


 千帆は約束どおり、西の空が夕焼け色に燃え盛るころに一階に下りてきた。仄かな照れ笑いを浮かべていたのは、どういう意味だろう。顔色はよく、涙の跡は認められない。

「おかえりなさい」

 階段の上り口で出迎えた僕は言葉を贈る。最善の言葉を選べた自信はなかったけど、千帆は曇りのないほほ笑みを返してくれた。だから、僕も心の底からほほ笑むことができた。

「いい時間を過ごせたみたいだね」

「おかげさまで」

 ほほ笑む顔に淡い恥じらいが滲む。その表情を、世界で一番きれいだ、と僕は思う。

「夕食を用意してあるから、いっしょに食べようか」

 別れる前まで座っていたのと同じ椅子に、それぞれ腰を下ろす。

 料理はすでに卓上に並べてある。食パンにジャム、ハムにソーセージ。包丁で食べやすいサイズにカットしただけだけど、生野菜のサラダも作ってある。ドレッシングは市販のものが三種類。飲み物はミネラルウォーターとオレンジジュースの二種類。デザートとしてチョコレート菓子とフルーツヨーグルトも出した。

 いただきます、と声を揃え、僕たちは食べはじめる。

「その野菜、ミネラルウォーターで洗ってあるからきれいだよ」

 食パンにソーセージを挟み、ケチャップをつけただけのホットドッグを頬張りながら、サラダを小皿に取り分けている千帆に告げる。彼女が食べているのは、オレンジママレードといちごジャム、二種類のジャムをつけた食パンをサンドイッチにしたもの。

「水は貴重だから葛藤があったけど、栄養をとるのも大事かな、と思って」

「そっか。水道が使えないんだったね。勝手が違うから、準備が大変だったんじゃない?」

「まあね。そもそも食事の準備はほとんどやらないから、そういう意味でも大変だった」

「早めに下りてきて、手伝ったほうがよかったね。ごめんね、気がきかなくて」

「気にしないで。洗って、切って、盛りつけてみたいな、簡単な作業ばかりだから」

「でも、こういうときだからこそ協力したほうがいいと思うし、今度からは手伝わせて。――はい、サラダ」

 菜箸を使って手際よくサラダを小皿に装い、ドレッシングをかけて僕へと差し出す。黙礼して皿を受けとり、さっそく口に運ぶ。味わいは単純だけど、昼に食べたのがパンと菓子だったので、野菜を摂取できるのはありがたい。

「あ、飲み物をいれるね」

 お返しとばかりにグラスにジュースを注ぎ、千帆の前に置く。

「冷たくないから、そんなに美味しくないと思うけど」

「夏場じゃないからちょうどいいよ。うん、美味しい」

「電気もガスも使えないから、要冷蔵の食品は早いうちに食べておかないとね」

「だからサラダなんだ。シューマって頭が回るんだね」

 まあね、とばかりに頷いてみせたけど、指摘されて初めて気がついたというのは内緒だ。

 駄目になった生鮮食品の処理のことなど、食品関係の問題について話し合っておきたかったけど、今のところは胸に秘めておく。千帆と他愛もない話をしながら食事を楽しむひとときよりも、優先させるものはなにもない気がしたから。


 千帆と手分けをして懐中電灯を探したのものの、高柳家にそんな代物は存在しなかった。徹底的に捜索すれば、あるいは見つかったかもしれないけど、探しているうちに太陽は完全に沈んでしまった。

 暗い気持ちを抱えているときに、空が完全なる闇に支配されると、全世界が暗夜に覆われた気がするから不思議だ。地球は丸い。日本が夜なら、地球の反対側は昼間。小学生のときに、あるいはそれよりも以前に誰かから教わった、初歩中の初歩の常識だというのに。

 白黒写真しかなかった時代も空は青かったことを想像しにくいのと同じ理屈、なのだろう。深刻な社会問題が報じられるたびに、当事者の想像力の欠如が糾弾されるけど、人間の想像力なんてたかが知れている。

 頼みの綱は、僕のスマホのライト機能だった。千帆は自分のスマホは家に置いてきていて、今日のところはとりに戻るものも難しい。だから、明かりはこれ一台のみだ。

 僕たちはダイニングテーブルに対座し、光を発するスマホをテーブルの中央に置き、無駄話をして時間をつぶした。共通の趣味であるマンガのことや、黒猫のルドルフの思い出話、僕の自宅の近所にある店についてなど、気軽に話せる話題ばかりが取り上げられた。

 闇の中、ささやかな明かりを囲んで過ごす時間は新鮮だったけど、電気の供給がストップしている現状、充電は減っていく一方だということに遅まきながら気がつた。

 現時点で唯一確認できる、自分以外生き残りである千帆と懇談することは、決して無意味ではない。ただ、今後のことを考えて、スマホは生かしておきたい。電話をかけられない、ネットにも繋がらない代物だけど、きっとなにかの役に立ってくれるはずだ。

「それじゃあ、もう寝ちゃおうか?」

 提案はこちらからした。話をする以外に暗闇の中でできることは、それくらいしか思いつかなかった。

「そうだね。今日は本当にいろいろなことがあったから、早めに休んだほうがいいと思う」

 他にこれという案が浮かばないのは千帆も同じらしく、すんなりと同意を得られた。

「じゃあ、千帆が寝るのは妹の部屋、ということでいいかな」

「もちろん。それじゃあ、おやすみなさい」

 千帆は胸の前で控えめに手を振り、二階に上がっていく。あくびを漏らすことも、疲れた顔を見せることもなかったけど、疲労感はかなり強いのかもしれない。そんな疑いを抱かせる足の動かしかたであり、背中だった。

 当たり前だ。自分たち二人を残して地球上から生物が消滅したのだから、精神的にダメージを受けないほうがどうかしている。

 自覚はしていないけど、僕もきっとそうなのだろう。

「……寝よう」

 戸締りを確認して、それから二階に上がった。

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