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一日目③

「じゃあ、行くよ」

 穿き終わったのを合図に、少女を先頭に僕たちは移動を開始する。

 部屋の床は様々なものが散らばっていて、足の踏み場もないほどだ。歩き出して早々、僕の右脚が空のペットボトルを踏みつぶしてしまい、大きな音が立った。少女は振り向いたけど、なにも言わなかった。床の上のものを極力踏まないように注意しながら、部屋を出る。

 出てすぐのところに下り階段があった。段差が下っていくのとは垂直方向に廊下が伸びていて、右手には襖が、左手には窓が、それぞれ複数確認できる。窓のカーテンが閉じられているせいで暗く、突き当たりは闇と一体化している。

 少女に続いて階段を下りる。作られた時代の古さを主張するように、踏みしめるたびに軋む音が鳴る。角度が少し急で、隅に溜まった埃が目立つ。

「家族はどこに住んでいるの? 二階は生活感がない感じだったけど」

「ここは離れで、元は漁具なんかを置く倉庫として活用していたんだけど、あたしが中学生になった年に新しく倉庫を建てたから、あたしの部屋になったの。もともと秘密基地みたいなノリでよく忍びこんでいたから、そんなに気に入っているなら使ってもいいよ、ということで」

 怒っているようだったので、話しかけるのは少し勇気を要したけど、返答の声は丸みを帯びている。

「二階建ての自室か。すごいね。漁業、儲かるんだ」

「んー、どうなんだろうね。うちの親、子どもの前でお金の話はめったにしないから、経済状況はよく分かんないっていうか」

「でも、余裕がないと新築はできないよね」

「そうだね。お金持ちだとは思わないけど、それなりに余裕があるのかもしれない。見てのとおり、一人の部屋にするには大きすぎるから、最初のころは寂しくて。取り上げられるのが嫌だったから、親の前ではネガティブな感想は意地でも言わなかったけど」

 寂しかった。状況が状況だけに、その一言は重く感じられて、適切な返答の言葉を見つけられなかった。

 階段を下りきると、右手に和室があり、左手にある短い階段を下りた先は土間になっている。過去に漁に使用していた道具だろうか。小さく折り畳まれた網や、傘立てらしい容器に突っこまれた棒状の物体などがある。他にも、藁を束ねたものや、大小のスチール缶、分厚い布がかかったダンボール箱など、とにかく雑多なものが大量に置かれていて、部屋に負けず劣らず雑然とした印象だ。

「ごちゃごちゃしてるでしょ。元は倉庫だったから、不要物が置きっぱなしになっているんだ」

 さばさばとした口調で説明し、僕を振り返って口元を少し緩める。

「ひっくり返さないように気をつけてね。壊れてもいいものばかりだけど、怪我をしたら大変だから」

 人が通れるだけの通路が確保されていたので、騒々しい音を立てることなく出入口の戸に辿り着いた。上半分がガラスになっているけど、それ越しには、ただ明るいという情報しか取得できない。

 少女の手によって戸が開かれる。

 視界に飛びこんできたのは、荒廃し、変わり果てた世界、

 ではなくて、開けた空間だった。地面は、離れの周囲だけ雑草が疎らに生えた砂地で、それ以外の領域はコンクリートに覆われている。現在地から七・八メートルほど進むと、左手に木製の建物が建っている。平屋で、古びているもののかなり大きい。母屋だろう。

 その母屋の前を通りすぎると、幅の狭い舗装道路に出る。どこに通じているのかは、道の両脇にあるブロック塀が邪魔になって見通せない。

 敷地の右手には、高さ二メートルほど、道の左右にあるものよりも少し高いブロック塀がそびえている。その向こうには、現代風の二階建ての住宅が建っている。

「車がなくなっているから、もう漁に出かけたみたい。いつもは母屋の前に駐車しているんだけど」

「ここに来るまでに自動車は一台も見かけなかったから、もしかしたら消えたのは人間だけじゃなくて、車も――」

「そんなはずないでしょ。浦田さん家、行こう」

 少女の声からは、だんだん元気が抜け落ちていっている気がする。現実を突きつけられる瞬間が近づいているから、だろうか。

 道路に出てすぐ曲がったところに、ブロック塀越しに見えた住宅の敷地の門があった。そこが浦田家だった。

 門扉には鍵がかかっていなかった。失礼します、と心の中で断って潜り抜け、庭を二分するように伸びた小道を直進する。玄関ドアに辿り着くと、少女は躊躇うことなくインターフォンを押した。

 応答はない。

 死のような静寂の中、息を潜めて気配を探ったけど、人気は感じられない。居留守を使っているのだろうか? そうは思えない。

 少女は再びインターフォンを押した。前と同じくらいの時間待って、返ってきたのは、同じく沈黙。

「浦田さん! いないんですか? 浦田さん!」

 少女はドアをノックしながら呼びかける。拳を連続して叩きつける、と表現したほうが正確かもしれない。お世辞にも上品とはいえない音は、次第にボリュームを増していく。

「ちょっと、浦田さん! 浦田さん! いるんだったら返事を――」

 僕は手首を掴んで行為をやめさせた。不服そうな顔が振り向く。無言で頭を振ると、少女は顔を弱々しく歪めた。手を離すと、ノックをしていたときの乱暴さが嘘のように、力なく右手を下ろした。

「おばあさんの部屋まで行ってみよう。おばあさん、庭を眺めるのが好きだから、カーテンが開いているかも」

 少女は庭の奥を目指して歩き出した。動作はきびきびとしているけど、どこか無理をしている印象は否めない。

 過密気味に植えられた庭木の葉がひっきりなしに肌を掠めて、少しむず痒い。歩いているあいだ、僕は地面に視線を落としていたけど、昆虫一匹見かけなかった。今の季節であれば、蟻くらいいてもおかしくないのに。

 問題の部屋のカーテンは少しだけ開いていた。

 少女は窓にへばりつく。僕はその背後から室内を覗きこむ。少女の髪の毛からはシャンプーの淡い香りが漂ってくる。

 部屋は消灯されている。介護ベッドが置かれているのが見えるけど、誰も寝ていない。

 少女が急に窓から体を離したので、体と体がぶつかった。僕には目もくれずに来た道を引き返す。黙ってそれについていく。

「あと何軒か回ってみよう。浦田さんは今日はたまたま不在だったけど、他の人はいると思うから」

 早口気味に一方的に告げて、少し足を速める。

 自宅で介護を受けている高齢者が、朝の早い時間帯から外出するものだろうか? 疑わしく思ったけど、正面切って疑問を呈せる雰囲気ではない。

 宮尾、椎原、田辺。道に沿って建つ住宅のインターフォンを次々と鳴らしたけど、どの家も応答がない。

 五軒目の酒井家から、少女はドアをノックするのをやめた。

 七軒目の飯塚家からは、ドア越しに住人に呼びかけることもしなくなった。インターフォンを押して、静寂の中で三十秒くらい待って、もう一度鳴らして、また三十秒待って、少し眉をひそめた顔で僕を見て、眼差しと手振りで「行こう」と促して次の家へ向かう。そのくり返しだった。

 おそらく、最大でも十までと最初から決めていたのだろう。

 十軒目の落合家の訪問を終え、門を潜って道に戻った少女は、魂を抜かれたようにその場に立ち尽くした。

 かけるべき言葉が見つからない。見つかるはずもない。

 俯いていた顔が持ち上がった。悲愴感さえ漂う表情が僕を見つめる。

「帰ろう。お父さんとお母さん、もしかしたら母屋にいるかもしれない。車は、多分故障するとかして、一時的に家にはない状態で……」

 言葉を途中で打ち切り、僕から顔を背けて歩き出す。僕は従順な忠臣というよりも、臆病な小間使いのように彼女についていく。

 少女はジーンズの尻ポケットからキーを引っ張り出した。それを使って母屋の玄関の戸を開錠し、中に入る。ついていこうとして、思い留まる。真由瑠がベッドから消えているのを見て、取り乱した過去の自分を思い出したからだ。

 少女が立てる足音が暗がりを奥へ、奥へと遠ざかっていき、闇に紛れた。

 僕は戸口から離れ、隣家との敷地を区切るブロック塀にもたれる。そして空を仰いだ。

 非の打ちどころのない快晴だ。運動会などのイベントが催され、開会式で校長が「雲一つない快晴」と本日の天候を褒め称えるたびに、疑い深い捻くれ者の僕は、ひとひらの雲を空に探し求めた。いくら入念に探しても白いものを確認できないこと。トイレットペーパーの切れ端のような雲を辺境に見つけること。どちらもあったけど、本日の空は前者だ。

 気持ちよく晴れた空を眺めていると、どうしてこうも死にたくなるのだろう?

 あの子は今、我が家の中にいる。今現在、青空の下にいる人類は、地球上で僕一人かもしれない。

 僕が死んだら、あの子が戻ってきたとき、青空の下にいる地球唯一の人間になってしまう。快晴の空を眺めると死にたくなるから、彼女もきっと死にたくなって、結果的に僕のあとを追うかもしれない。

 そんな喜劇じみた悲劇を回避するためにも、僕は死んではいけない。気をたしかに持たなければ。

 そう自分に言い聞かせたけど、死にたい気持ちは消えてくれない。

 こんな心境のときには決まって、上空を飛ぶ鳥がからかうように鳴くものだけど、生き物の声はどこからも聞こえてこない。空のどこを探しても生き物の姿は見つけられない。

 本当に、みんな、どこへ行ってしまったのだろう。

 虚しさと寂しさと悲しみ、三つの感情が押し寄せ、心臓が締めつけられる。思わず、シャツ越しに左胸を握りしめた。

 直後、足音が聞こえた。

 母屋に注目すると、闇の中から少女が姿を現した。表情を一目見た瞬間、答え合わせは完了した。

 少女の名前を呼ぼうとして、まだ知らないことに気がつく。

 どこまで惨めなやつなんだ、僕は。

 顔が歪みそうになったけど、それでも少女に歩み寄った。そうしないと、もっと情けない男になってしまう気がしたから。

 目が合うと、少女はどこか寂しそうにほほ笑んだ。少し間があって、泣き出しそうに顔が歪んだ。足元がふらつき、上体が後ろに傾く。

「危な――」

 反射的に伸ばした右手が触れるよりも早く、少女は片足で踏ん張って自力で持ちこたえた。しかしその直後、立ち眩みに襲われたかのようにその場に座りこんでしまう。膝を抱え、顔をうずめる。

 その場に片膝をついて顔の高さを合わせる。表情は分からないけど、泣いてはいないようだ。しかし、顔を上げてくれない。

 彼女は今ごろ、どんな想念や感情と格闘しているのだろう。僕も似たような状態に陥った過去があったのに、その過去は現在から遠く離れていないのに――なぜだろう、当時の自分を鮮明には思い出せない。

 かけるべき言葉を見つけられない。仮に彼女の名前を知っていたとしても、呼びかけることすらできなかっただろう。

 やっぱり、僕は情けないやつだ。

 時計が止まった世界で、どれくらいの時間が流れただろう。

 不意に少女の顔が持ち上がった。僕がどこにいるのかを寸分の狂いもなく把握していたとでもいうように、迷いのない軌道で僕を見据え、

 相好を崩した。

 諸々の感情を抑えこんで笑おうとしたけど、抑えきれずにぎこちない笑顔になるどころか、笑顔を作ること自体にもほとんど失敗している。そんな痛々しい笑顔だ。

 裸で寝ていて。裸を隠す素振りを見せずに着替えて。大毛島に僕たち以外の生き残りがいないかを確認する方向に、半ば強引に話をもっていって。

 少し風変りなところもある、奔放でアクティブな女の子。少女に対して、僕はそんな印象を抱いていた。

 その評価は大きく間違っていないと思う。だけど僕は、そのイメージに騙されて、大事なことを見落としていた。

 この子は多分、そんなに強くない。

 力になってあげないと。

 世界には僕たち二人だけになってしまったのだから、この子を守ってあげられるのは僕しかいないのだから、守ってあげないと。

 助ける役回りに徹せるほど強い人間ではない、という自覚はあった。天秤にかけたなら、僕のほうこそ助けてもらわなければならない立場だ、という気もする。それでも、そう強く思った。

 少女は吐息を外界にそっと放った。重たそうに腰を上げたので、僕も立ち上がる。束の間沈黙が流れて、視線が重なる。

「二人きり、なのかな」

 少女がつぶやき、僕は答える。

「確定ではないけど、その可能性が高いんじゃないかな」

「ネットが繋がれば、事実確認ができそうだけど」

「ほんと不便だよね。こういうときに限って」

「まず有り得ないけどね、こんな事態」

 少女は少し口元を緩めたけど、僕は笑えなかった。重苦しさの底は脱した。そうは言っても、気安く笑い合える状況からはかけ離れている。

 これから僕たちは、どうすればいいんだ?

「ちょっと!」

 いきなり肩を叩かれた。シャンプーの香りが近づき、少女の顔が目の前まで来た。

「あたしたち、なんか暗くない? こんな状況でテンション低いままだと、押しつぶされちゃうよ。無理に明るく振る舞わなくてもいいけど、暗くならないように心がけたほうがいいと思う。ていうか、絶対そうするべきだよ」

 歌うように軽やかな口振りで、それでいて力強く言い切る。その顔には、先ほどは似て非なる、一点の曇りもないほほ笑みが浮かんでいる。

 急変に面食らって、まじまじと顔を観察する。偽りや痩せ我慢の気配は一握も読みとれない。少女は心の切り替えを自らに命じ、完璧に履行してみせたのだ。

 無理に明るく振る舞う必要はないが、暗くならないように心がける。

 一見矛盾しているようだけど、ニュアンスの違いは理解できる。反対する理由はどこにもない。

「なんていうか、もっと喋ったほうがいいと思う。静かすぎるよね、ちょっと。人がいないからっていうのもあるんだろうけど」

 僕の表情の変化を見て、方針に賛同する方向に意思が固まったと見抜いたらしく、すかさず声をかけてきた。

「そうだね。人間以外の動物も消えちゃったし」

「えっ、そうなの?」

「うん。学校までは徒歩で行ったんだけど、朝なのに鳥の鳴き声がまったく聞こえてこなかったから。普段から注意して聞いているわけじゃないけど、やっぱり消えたんだと思う」

「……そっか。動物も、だったんだね。最近野良猫の餌づけに成功したばかりなのに――って、暗くならないようにって言ったばかりだったね。ごめん」

「少しくらいなら大丈夫だよ。そんなことより、自己紹介しておかない?」

「あっ、そうだね」

 少女は一瞬にして顔から陰りを消し去った。やっぱり、この子は切り替えが上手だ。

「あたしの名前は安藤千帆。一十百千万の千に、帆船の帆で、千帆」

「秀真。高柳秀真」

「どうせ二人きりなんだし、下の名前を呼び捨てでいこうよ。よろしくね、シューマ」

「こちらこそよろしく。……千帆」

 同年代の異性の名前を呼び捨てにするのは思っていた以上に照れくさく、指先で頬をかく。

「じゃあ、ついでに握手も」

 右手が差し出された。こちらも差し出すと、千帆のほうから握りしめ、外国人のように激しくシェイクした。

 なんていうか、千帆らしいな。

 彼女のことはまだ全然知らないのに、そう思った。

 握ったのも千帆からなら、離したのも千帆からだった。掌から温もりが離れる。でも、その温もりの影響を受けているから、僕の右手は握手をする前よりもほんの少し温かい。

 誰かと触れ合うことは、一人ではできない。

 世界で二人きりになってしまったけど、一人ではない。

 強がりの開き直りではなく、現実逃避の戯言でもなく、祝福するべきことだと僕は思う。

「じゃあ、これからどうする? あたしとしては、もうちょっとこのへんを歩いて、人を捜してみたいんだけど。諦め悪いかな?」

「いや、そんなことはないよ。軒数はこなしたけど、範囲は狭かったから」

「じゃあ、さっそく出発しようか。あ、一応戸締りをしておかないと」

 世界には僕たち二人以外の人間はいないのだから、玄関の戸に鍵をかけなくても、なんなら戸を開けっ放しにしておいても、不利益をこうむる心配はない。僕はそう思ったし、千帆だってそのことに気がついていないわけではないだろう。だけど、彼女はそれについて言及することなく、軽やかに体を回して戸に向き直る。

 無理に明るく振る舞う必要はないが、暗くならないように心がける。少々居心地が悪いけど、実践しているうちにきっとよい方向に向かうという、希望の兆しのようなものはほのかに感じている。

 立てつけの悪さを示す音を立てながら戸が閉ざされ、施錠され、闇が封じられた。

 目配せをして、僕たちは歩き出した。

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