表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/14

一日目②

「ねえ」

 心が一定の落ち着きを取り戻したのを見計らったように、声が降ってきた。淡い戸惑いが含まれた響きだ。

「ちょっと、苦しいんだけど。強く抱きつきすぎ……」

 本人から抗議を受けたことで、見て見ぬふりをし、抑圧してきた罪悪感が、爆発的に膨らんだ。弾かれたように体を離し、上擦った声で「ごめん」と謝罪する。恐る恐る顔を上げると、一糸まとわぬ体が目に飛びこんできて、慌てて顔を背ける。

「あなたに抱きつかれているあいだ――」

 少女は指差した。僕の方向を、ではあるけど、僕ではないものを。

「ずっと気になっていたんだけど、その穴はなんなの?」

 肩越しに後方を振り向く。見覚えのある引き戸――僕が通う高校の体育館の出入口の戸が、ほぼ全開にされた状態でそこに存在していた。

 僕はその戸をたしかに開けた。しかし、戸の先に待っていたのは、見慣れた体育館ではなかった。お世辞にも片づいているとは言えない部屋で、裸の少女が眠っていた。

「その戸がある方角には、本来なら壁があって、壁の先には空があった。二階で、ベランダとか階段とか、人が存在できる余地はなかったはずだけど」

 首から下を目に入れないように注意を払いながら、少女の顔を直視する。眉根を寄せて困惑を表明している。戸を開けて少女を目の当たりにした瞬間の僕も、こんな顔をしていたのだろうか。

「混乱しているところ悪いけど、混乱しているのはあたしも同じだから、質問させて。いったいなにが起きたの?」

「あの……。話の腰を折るようで悪いんだけど、その前に一つお願いが……」

 どうぞ、というふうに少女は頷く。

「服、着てくれないかな。裸の異性に向かって話をするのは、ちょっと」

「あっ、そうだね」

 少女は慌てた様子もなく、布団の傍らのキャミソールを引っ掴んで立ち上がる。股間の高さがちょうど顔の高さに来た。視界にアップで映し出された、男子高校生にはいささか刺激が強すぎる映像に、酸欠の金魚のように口をパクつかせながら顔を背ける。

 ……本当にいろんなことが起こるな、今日は。

「はい、おまたせー」

 上はキャミソール、下は純白のショーツという格好だ。明らかにサイズが小さく、膨らみの形がくっきりと分かる上半身も気になるけど、下着を穿いただけの下半身はそれ以上に気になる。この恰好でいいのかな、と思ったけど、本人は平然としているし、じろじろと見るのはよくない。

「なにから話せばいいのか、迷うところだけど」

 空咳を一つして気を取り直し、僕は話しはじめた。

「僕の背後にある戸、君は見覚えないって言っていたけど、あれ、僕が通っている高校の体育館の戸なんだ」

「高校?」

「うん。県立J高校。吉野川の近くにある」

「ここ、大毛島だけど」

「は?」

 素っ頓狂の声が僕の口から出た。大毛島――聞いたことがない地名だ。

「J高校ってどこにあるの? 吉野川の近くって言っても、いろいろな町があると思うけど」

「市内だよ。徳島市内」

「つまり、徳島市内にある高校の体育館に入ろうと思ったら、大毛島のあたしの部屋にワープしたってこと?」

「そう、なるのかな」

 というか、

「大毛島ってどこにあるの? 島、だよね?」

「うん、島。と言っても橋で繋がっているけどね。四国とも、淡路島とも。鳴門市の北にある島なんだけど、知らない?」

「うん。ごめん」

「高速道路のインターチェンジがあるよ。鳴門北インターチェンジ。あとは、大塚国際美術館」

「ああ、それなら知ってる。鳴門市内にあるのは知っていたけど、島にあったんだね」

「島って聞くとすごく田舎で、生活が不便っていうイメージがあると思うけど、たぶんイメージよりもいろいろあるよ。コンビニもあるし、小学校もあるし、病院もある。島内唯一のスーパーマーケットはつぶれちゃったから、橋を渡って買いに行かなきゃいけないけど」

「……えっと、ここは二十一世紀だよね?」

「えっ? なんでそんなことを訊くの?」

「いといろと非現実的なことが起きているから、そんなこともあるのかな、と」

「二十一世紀だよ。ちゃんと二十一世紀。スマホで調べたら一発で――」

「スマホは無理だよ。ネットは繋がらないし、時計は止まってる」

 きょとんとした顔になった少女に向かって、顎をしゃくる。言わんとしていることを理解したらしく、少女は枕元のスマートフォンを手にとる。二秒後、驚きをたっぷりと含んだ悲鳴が部屋に響いた。

「ほんとだ! 繋がらない! 頼みの綱のネットが……!」

「さっき『いろいろと非現実的なことが起きている』って言ったけど、それがその一つ。体育館の戸が君の部屋に繋がっていたのも一つ。それから」

「なに? まだあるの?」

「人が消えた」

「……どういうこと?」

「言葉どおりの意味だよ」

「でも、あたしたち、普通に存在してるけど」

「僕たち二人以外がってこと。君と出会うまでは、僕一人かと思っていたんだけどね。今朝目覚めてから君に出会うまで――時計が駄目になったから正確には分からないけど、だいたい一時間くらいかな。そのあいだに、僕は誰にも出会わなかった。同居している両親と妹もいなくなっていたし、普段は朝から交通量が多い道を通っても、人も車も通っていなかった」

 少女は絶句している。無理もない。僕だって同じリアクションだった。

「最初は、三月に東北で起きたみたいな大きな地震がこの町を襲って、他のみんなは僕を置き去りにして避難したのかな、って考えた。でも、そうじゃない気がする。上手く言えないけど、地震よりももっと大規模で深刻な事態が起きたような、そんな気がしてならないんだ」

 少女からの返事はない。これも当然のリアクションだろう。

 でも、信じてほしい。僕が言っていることは本当なんだ。僕たちが生きるこの世界でなにかが起きて、この世界は劇的に変化してしまったんだ。

「せっかく空間が繋がっているんだし、徳島まで来てたしかめてみる? 信じられないかもしれないけど、本当にいないんだ」

「でも、大毛島も同じだとは限らないよね」

「……ああ、そうかも」

 同調こそしたけど、でも、どうなのだろう? 現実は、残念ながら、少女が望むものではないとしか思えない。

「うちの親は漁師をやっていて朝が早いから、外が明るくなるころには家にいないんだ。でも、お隣の浦田さんの奥さんは専業主婦で、お祖母ちゃんが在宅介護を受けているから、この時間帯だと誰かいると思う」

 少女は腰を上げる。またしても股間が、下着に包まれているとはいえ目の前まで来たので、こちらも慌てて立ち上がる。顔の高さはちょうど同じくらいで、女の子にしては背が高い。

 少女は真っ直ぐに僕を見据える。大きな瞳にたたえられた静かな怒りは、僕個人、理不尽な状況、どちらに向けられたものなのか。怒っているのは伝わってくるのだけど、瞳が大きく、どことなく幼さが感じられるせいか、いかんせん迫力に欠けている。正面から見て初めて、端正な顔をしていることに気がついた。

「じゃあ、お隣さんまで見に行こう。もし誰かいたら、ほんと怒るからね。女の子の部屋に勝手に入ってきて、そんな嘘までついて」

「すでに若干怒っているよね。ていうか、下は穿かないの?」

「パンツ穿いてるでしょ」

「いやいやいや……。そうじゃなくて、下着のさらに上にってこと」

「どうせ誰もいないんでしょ? あなたの言い分によると」

「万が一のことも考えて、という言いかたもなんだけど、とにかく穿いて。世界規模の異常事態が起きているのだとしても、ルールを守るのって大切だと思うし」

 少女は反論の気配を唇に滲ませたが、なにも言わなかった。前屈みになって床に落ちているジーンズを拾い上げ、両脚を通す。キャミソールと同じくサイズが若干きついらしく、お尻がつかえて穿きづらそうだ。

『もし誰かいたら、ほんと怒るからね』

 もしそうだったら、どんなにいいだろう。

 でも多分、現実は僕たちが思っているよりも非情で、救いようがない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ