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二日目①

 視界を遮断する、温度のない膜の中で、声を聞いた。耳を凝らしていないと無音に同化してしまいそうな、淡い、淡い声。

 僕は聴覚を研ぎ澄ませる。声は遅々とした速度ながらも着実に鮮明さを増していき、やがて一定のクリアさを獲得した。どうやら僕の名前を呼んでいるらしい。

 呼ばれているのだから、応えたい。いや、応えなければ。

 試みに「おーい」と呼びかけてみた。声は膜に弾き返され、僕のもとまでそっくりそのまま戻ってきた。

 声を跳ね返す。周りは見えない。膜が全ての元凶なのだ、と悟る。

 声と視界を完全にシャットアウトするほどの物質を、僕一人の力でどうにかできるのだろうか?

 上手くいくとは思えなかったけど、声が聞こえなくなってしまう恐怖に背中を押された。思考しているあいだに、声は消えそうな淡さに退行している。灯火を消すわけにはいかない。

 膜は、弾性と強度を併せ持つ特殊なゴムのような性質だ、と僕は理解していた。ならば、無理矢理引きちぎって風穴を開ければいい。

 右手を伸ばすと、思ったよりもずっと柔らかな感触が五指と掌に伝わった。その柔らかさたるや、損傷させるのに罪悪感を覚えるほどだ。

 それでも僕は、膜の外に出たかった。出なければならないと強く思った。

 指先に力をこめると、膜が手から逃げていく感覚が伝わってきた。まったく予想していなかった反応だ。

 取り逃がしてしまったら、二度と掴めないかもしれない。永遠に膜の外に出られないかもしれない。渾身の力でたぐり寄せた。

 手応えはなく、破裂音も立たなかった。しかし、膜は破れた。膜の外に広がる景色が視界に飛びこんできた。

 アップで映し出されたのは、呆気にとられたような千帆の顔。

 僕の右手は、なにか柔らかいものを掴んでいる。

 手元に視線を落とすと、キャミソール越しに胸を鷲掴みしている。のみならず、左腕を千帆の背中に回し、自らへと引き寄せるという体勢をとっている。

 寝ぼけていたせいで、起こしに来てくれた千帆に蛮行を働いたのだ、と状況を理解する。

 僕の片腕と片手に捕らえられた千帆は、目覚めた僕が最初に見たのと同じ表情で僕を見ている。至近距離から見つめ合う形ではあったけど、羞恥の念はこみ上げてこない。目の覚めるような体験をしたにもかかわらず、頭の芯がまだ眠りから脱しきれていないのだ。

 寝ぼけているふりをして、千帆に欲望をぶつけようか、という考えが脳裏を掠めた。

 しかし、理性的な、あまりにも理性的なもう一人の僕は、その案に猛烈に反対の意を表明した。浅ましい考えは捨てて、可能な限り紳士的な対応をとって、汚名を返上しろ。苛立ったように、高圧的にそう命じた。

 千帆の胸から右手を離し、背中に回していた左腕をほどく。ラブコメマンガの奥手な主人公が、官能的なハプニングに見舞われたさいに決まってするように、慌てふためきながらではなく、壊れ物を扱うように慎重に。

 千帆は少しぎこちない挙動で上体を垂直に立てた。自らの胸元に視線を落とし、着衣の乱れを軽く正す。僕に目を合わせると、はにかみ笑いをこぼした。

「シューマ、おはよう」

 表情と声、どちらからも千帆らしい澄んだ明るさが感じられた。寛大で、でも飾り気のない対応に、救われた思いがした。

「……うん。おはよう」

 髪の毛に触りながら挨拶を返したのは、寝癖を直すのを装った照れ隠しだ。千帆は白い歯をこぼし、上体を屈めて再び僕に顔を近づける。

「いきなり抱きつかれたから、びっくりした。寝ぼけていたの?」

「そうみたい。本当にごめん」

「ううん、気にしないで。そんなことよりシューマ、見て」

 千帆は窓のほうを指差した。上半身を捻じって後方を振り向くと、窓外が明るさに包まれている。

「……朝だ」

「そう、朝」

 千帆は声に力をこめて「朝」という単語を発音した。

「人が消えちゃうなんてことがあったから、もしかしたら夜が明けないんじゃないかとか、ベッドの上で考えたりしたんだけど、杞憂だったね。朝が来たのを知ったとき、あたし、感動のあまり泣きそうになったもん。大げさかもしれないけど、本当に泣きそうになった。鳥のさえずりが聞こえないのがちょっと寂しいけどね」

「僕も思った。千帆とまったく同じことを、昨日夜中に目を覚ましたときに」

「あ、そうなんだ。考えていることはみんな同じなんだね」

 顔を戻すと、千帆は窓ではなく僕を見ていた。ほほ笑むその顔は、僕と同じ思いを共有できたことが嬉しい、と言っているみたいだ。

「朝食の用意はできてるから、早く食べよう」

「えっ、千帆がしてくれたの?」

「うん。まだ夜が明けきっていないくらいの時間に目が覚めて、暇だったから。昨日は食事の準備の手伝いができなかったから、というのもあるし。勝手なことしてごめんね、シューマの家なのに」

「気にしてないよ。そんなこと、全然気にしてない」

 僕は首を左右に振り、ほほ笑んだ。夕食の準備の件は気に留めていなかったのに、埋め合わせをしてくれたこと。昨夜の僕の異常な振る舞いを水に流してくれたこと。どちらも嬉しくて、自然にその表情を作っていた。

「むしろ感謝してる。ありがとう。今日も一日、よろしくね」


 昨日の夕食と似たようなラインナップがダイニングテーブルの上に出揃った。サラダがないのは、一夜を経て傷んでしまったからではなく、千帆が包丁の扱いに慣れておらず、作業を控えた結果だ。栄養バランスが偏ってしまったけど、そんな些細なことは全然気にならない。

 食べながら、本日の予定を話し合った。徳島市内の別の場所を見て回る。大毛島に戻ってみる。二つの案が出て、後者を採択することで話はまとまった。安藤家は一晩人がいない状態だったので、様子を見ておきたかったのだ。

 食事の片づけを手早く済ませて、高柳家を発った。食事をはじめてから一時間も経っていなかったと思う。

 急ぐ理由があったわけではない。でも、高柳家に長々と居座る理由もない。


 昨日の昼下がりに通った道を、昨日とは逆方向に進む。

 昨日と同じく、人も車も見かけない。鳥の鳴き声すら聞こえてこない、静かな、静かな朝。

「誰もいないねぇ」

 予想はついていたが落胆を禁じ得ない、といったふうに千帆が呟いた。商業施設が多く建ち並ぶ県道を歩いている最中のことだ。

「朝が来たから世界が元通りになっているかもしれない、なんて思ったりもしたけど、そう甘くはなかったね。鳥のさえずりが聞こえなかった時点で、駄目だろうなとは思っていたけど」

「夜が明けないけど消えた人が戻ってくるのと、二択だったらどっちがいい?」

 気軽な気持ちで投げかけた質問に、千帆は少しばかり考えてから答えた。

「答えになっていなくてごめんだけど、朝が来て、人も戻ってくるほうが絶対にいいよ」

 いつもどおりの柔らかい表情で答えたから、かえって胸に刺さった。僕たちが置かれている状況の深刻さを冗談として扱うのは、やめよう。そう心に決めた。

 他愛もない会話をしながら歩きつづけて、橋に差しかかった。人も車も通っていないのは昨日と変わらない。

 中ほどまで来たところで、どちらからともなく足を止め、欄干越しに川を眺める。昨日と同じく、生き物の姿は見つけられない。

 暗い感情を胸の奥に押しやり、「そろそろ行こう」と声をかけようとすると、隣にいたはずの千帆が消えている。

 狼と狽、二頭の犬科の化け物が僕の中で駆け回る。欄干に添えた両手の震えかたが激しくて、自分のものではないみたいだ。欄干を強く握りしめることで振動を殺そうと試みたけど、上手くいかない。ふと気がつくと、両脚も震えに見舞われている。

 落ち着け。とにかく落ち着くんだ、高柳秀真。震えを収める努力をいったん断念し、自分に言い聞かせる。

 ずっと川面を眺めていたけど、波紋は見なかったし、水音は聞かなかった。つまり、川に落ちたわけではない。僕たち以外の人間のように消えたか、そうでなければ、単に僕が気づかないうちに僕の視界の外に移動したか。考えられる可能性は二つに一つだ。川を眺めはじめてそんなに時間は経っていないから、後者だとすれば、まだ目の届く範囲内にいるはず。さあ、探せ。今すぐに千帆を探すんだ、高柳秀真。

 瞬間的に四肢に力をこめ、半ば無理矢理震えを殺す。体の向きを百八十度転換させる。

 あっさりと千帆の姿を発見した。車道の真ん中を歩いている。雨上がりに、長靴を履いて水たまりの中を歩く小学生のような、弾んだ足取りで。

 本来なら安堵しなければいけない場面なのに、呆然としてしまった。

「千帆……?」

 呼びかけたのではなくて、勝手に声がこぼれていた。千帆が振り向き、おどけたように軽く挙手をした。すぐさま進行方向に顔を戻すと、いきなり大股で駆け出した。何歩か走ったところで、走り幅跳び選手のように跳躍する。

 長い、長い、物理法則を超越したような滞空。

 何十センチか先の路面に両足から着地する。姿勢は美しく見えたけど、上体が大きくふらつき、尻餅をついてしまう。

 僕はかける言葉を見つけられない。

 千帆は再び振り向いた。ジャンプ、どうだった? 子どもっぽい笑みから無言のメッセージが発信され、僕のもとまで届いた。

 気がつけば、四肢の震えは収まっている。

「ちょっと、千帆。なにをやってるの?」

「特に意味はないよ。体を動かしたかったから、運動してただけ」

 声からも表情からも、嘘の気配は感じられない。姿が一時的に視界から消えただけなのに、僕が慌てすぎたのだと気がつく。それを境にして、脈拍は駆け足で正常に向かった。

「ていうか千帆、大丈夫なの? 怪我してない?」

 アスファルトにお尻をつけたまま、じっとしていることを受けての発言だ。

「するわけないでしょ。走り幅跳びをしただけなのに」

「座ったままでいないで、戻ってくれば」

「えー、なんで?」

「だって、危ないから……」

 思わず口にした言葉に、千帆は笑った。

「危なくなんかないよー。車も人も通る心配がないのに。おかしなことを言うんだね、シューマって」

「でも、なんとなく落ち着かなくない? 通ってはいなくても、本来なら通る道だから」

「そうかな?」

「そうだよ。とにかく、歩道まで戻ってきてよ」

 やや間があって、千帆は路面に両手をついた。立ち上がるのだな、と思ったら、

「よいしょっと」

 その場に大の字に寝ころんだ。「んーっ」と声を上げながら目いっぱい四肢を伸ばす。あくびをして、リラックスした表情で上方を見据える。視線の先には、文字どおり雲一つない蒼穹が伸びやかに広がっている。

「ちょっと、千帆。なんでそんな……」

「シューマもこっちに来て、寝ころぼうよ。気持ちいいよー」

 僕のほうは見向きもせずに、軽やかに言葉を返してくる。

「そうかもしれないけど、僕はいいよ。ていうか、いい加減戻ってきて。本当に落ち着かないから」

「じゃあ、シューマが横に寝てくれたらおしまいにしようかな」

 静かに告げて目を瞑る。何度も呼びかけたけど、返事がない。

 仕方ない。

 心の中で呟き、千帆に歩み寄る。「仕方ない」という言葉を選んだけど、マイナスの感情はまったくない。昨朝の光景が脳裏にちらつく。鼓動がだんだん速くなっていく。

 左腕の間際で足を止め、寝姿を見下ろす。

 瞼の幕は下ろされ、唇は逆に薄く開いている。水色のキャミソールの下で、裸の胸が規則的に上下している。寝ているのだとすれば、安らかな表情と形容されたに違いない。四肢は自然体に投げ出されている。リラックス状態にあるのは一目瞭然だ。

 無防備なその姿を見て、なにがしたくて千帆に歩み寄ったのかを僕は理解する。

 千帆はおそらく、僕が隣に寝ころぶのを恥ずかしがっていると考えているはずだ。猶予はどのくらいあるだろう? 訝しく思って目を開かれ、見つめられたが最後、僕はなにもできなくなる。もたもたしていられない。

 千帆の隣に仰向けに横になるのではなく、屋根を作るように、体を密着させない形で彼女に覆い被さる。

 異変を察知したらしく、千帆の双眸が見開かれた。

 僕の姿を認めた瞬間、その顔は驚き一色に塗りつぶされた。ワンテンポ遅れて、恐怖でも羞恥でも不安でもなく、戸惑いの色が顔に滲む。その表情は、愛らしくて、なおかつ嗜虐心をそそる。もはや躊躇いはなかった。

 目を瞑り、唇を唇に宛がう。

 感触は柔らかく、それでいて押し返してくるような弾力を感じる。甘い、と思ったけど、正体は唇の味ではなくて、千帆の体から発せられる匂いだった。昨日はシャワーを浴びていないのに、こんなにも香しいだなんて。

 膨らんだ胸と平べったい胸とが接している。接面は狭いはずなのに、しっかりと温かい。

 頭が熱く、脳髄は半ば溶けているかのようだ。それでいて、情報を認識する機能は正常に作動していて、初めてのキスの味わいを深く噛みしめている。

 二つの唇が重なっていた時間は、五秒にも満たなかったと思う。

 瞼を開くと、千帆は頬を薄く紅潮させて驚きを露わにしている。

 抱きしめたい、という欲求が疼いたけど、再び顔を近づけるのは勇気を要した。少し迷って、顔を遠ざけて上体を垂直にする。その流れのままに起立し、一瞬次の行動を考えて、右手を差し出す。

 千帆は僕の掌をじっと見つめる。上目づかいに僕の顔を一瞥して、それから手を握った。引っ張り上げる力を借りて立ち上がる。お尻を軽く払い、目と目を合わせる。

「びっくりした」

 はにかんだような表情での一言。なにか言わなければいけない気がして、「ごめん」と言いそうになり、咄嗟に口を噤む。その言葉は口にしては駄目だ。絶対に駄目だ。なぜって、千帆は咎めるような目はしていない。

 千帆は右手の人差し指で自らの下唇をなぞる。希少な昆虫でも眺めるように、唇に這わせたばかりの指先を凝視し、軽く舐めた。唇よりも淡い桃色の舌を見た瞬間、僕は思わず小さく身震いをしてしまった。唾液がいくらか付着したままのはずの指を、臆することなく僕の指に絡め、再び僕の目を見つめる。

「それじゃあ、帰ろっか」

 裏表のない柔和な表情で、何事もなかったかのように千帆は言う。そのあまりにもナチュラルな振る舞いに、少し気圧されながらも首を縦に振る。キスをしたのは僕のほうなのに、千帆にいきなり押し倒されて無理矢理唇を奪われたような、そんな錯覚に束の間囚われた。

 僕の首肯の浅さに合わせるように小さく頷き、千帆は歩き出した。そのときには、頬から赤味は消えていた。

 キスのあとの千帆のリアクションは、見方によっては少しそっけないようにも思える。だけど、悪い気分ではなかった。それを証明するように、今僕の心臓は、唇を重ねようと決意した直後よりも、唇を重ねていた最中よりも、速いテンポで血液を供給している。

 歩きながら、千帆は時折、絡みつけた指を意味深に蠢かせる。唾液をなすりつけて、すりこんで、キスによって得た僕の唾液を還元しているかのようだ。嫌悪感はない。むしろ奇妙な心地よさを感じる。舌と舌を絡め合うキスを模倣しているようだと、経験したこともないくせに思う。

 リアルタイムで官能的な疑似体験をしているにもかかわらず、僕たちは内容のない、他愛もないことばかりを話した。

 だけど、キスをした事実は、過去は、思い出は、僕の胸の奥にしっかりと定着している。きっと、千帆にとってもそうだろう。

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