夜のオアシス
夕食の後、イーリャは一人自分の部屋に籠ってベッドに寝転がっていた。いつものこの時間は両親と団欒を持っているが、今日は一人で考えてみたいことがあった。もちろん、人形遣いの継承のことだ。
──大長老様の前では半ば勢いで引き受けることにしちゃったけど、あたしで務まるのかな?
それに、自分のことは自分で決めたい。もう大人なんだし。なのに、人形遣いのことはあたしが産まれたときから、こうなるって決まっていたみたい。だから大人達はあたしの十六の誕生日を知っていた、ううん、待っていたんだし。
自分でやることを決めなくていいのは楽だけれど、誰かに操られているみたいで気持ち悪い。でも、あたし以外に人形遣いを継げる人はいないって言うし。
いくら考えても答えは出てこない。イーリャは顔を横に向けて壁を見た。プレゼントに貰った服が掛けてある。部屋の照明を受けて、生地がキラキラと輝いている。イーリャの髪のように。
──あれを着て、みんなの前で舞いたいな。巨神を駆るより、そっちの方がずっといい。そんなこと言ったら、あの子が可哀想かな。ずっと神殿の奥にじっとしたままの巨神に。
「うんっ」
弾みをつけてベッドから飛び降りたイーリャは、ショートブーツを取ってロングソックスの上に履いた。部屋の明かりを消して両親のいる居間に「ちょっとお散歩に行ってくるっ」と言いおいて玄関へ向かう。
「あまり遅くならないようになさい」
母の声が追ってきた。
「はーい」
返事した時にはもう外に出ていた。どこに行こうと考えていたわけではない。足の向くまま、舞うような足取りで、夜の街を歩く。ウェーブのかかったプラチナブロンドの髪が、ゆったりした袖と一緒に広がる。街灯の弱い光に照らされた街を舞台にして、イーリャは舞った。
もうそろそろ、みんな眠る頃だろう。それでも、遅い夕食を摂っている家もあるらしく、夕餉の匂いが風に乗って香っている。身体を覆い隠す外套を着る必要の無い、攻撃的な太陽の光のない夜の街を、イーリャはのびのびと舞いながら進んだ。
いつしか、広場に来ていた。動きを止め、広間の端に立つ。中央に向かって摺鉢状に窪んでいる広間の向こうには、神殿がある。その中には、夕方に見たときと変わらず、巨神が佇んでいるはず。今もジェネレーターとして、街にエネルギーを供給しながら。
暗闇の中、照明に浮かび上がる神殿の天窓と壁が開き、巨神の前に立つイーリャが現れる。身に纏った服を取り払い、巨神の胸に開いた空洞の中へ。巨神の紅い瞳が見開き、轟音を立てて巨神が全身を見せる。十日後に行われるだろう式典の様子を、イーリャは幻視した。
同時に、見下ろす広場の中央で舞踏を披露する自分の姿を想像する。今日贈られた衣装に身を包んで、両手に細剣を携えて。そう考えていると、今、ここで舞いたくなってくる。石段を降りかけて、けれどイーリャは考え直した。楽しみは次に取っておこう。
いつになるか判らないわけではなく、十日後と決まっているのだ。欲求を抑えて、イーリャは広場に背を向けた。どこに行こう? 空には真ん丸い月が昇っている。それに引き寄せられるように、イーリャはまた舞うような足取りで南への街路を選んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
街を南に出てすぐのところ、街で一番大きなオアシスの縁に、イーリャはいた。街の明かりはここまでは殆ど届かない。空に浮かぶ満月が照明の代わりになっていた。凪いだ湖面にも月が揺らぐ。こんな遅くに外に出る者は滅多にないが、変わり者はどこにでもいる。
少し離れた湖岸に人影を認めたイーリャは、そっと近寄った。背後から、驚かさないように控え目に声をかける。
「アステリアさん、月の観測ですか?」
それでもちょっと驚かせてしまったかもしれない。ビクッと肩を小さく震わせて彼女は振り返った。
「あ、なんだ、イーリャか。まぁ、そんなとこ。あんたは何してんの? こんな夜中に?」
「あたしはちょっと、お散歩」
「そ」
それだけ言って、アステリアは月面観測に戻った。反射望遠鏡の接眼レンズを覗いたり、手に持ったボードの紙になにやら書き込んだり。
「何か進展ありました?」
「う~ん、なかなかね~。私の推論を決定付けるような結果はまだないわね」
観測と記録を続けながら顔も向けずに答えるアステリア。
「アステリアさんの推論、って何でしたっけ?」
「知らないか。月は過去の人間が造った人工天体である、って奴」
「聞いたことあります。それってアステリアさんが言い出したことだったんですか」
「私が初めてってわけじゃないけど。実際、月の表面を観察すると人工物があるのが判るのよ。肉眼でも見えることはあるでしょう?」
それ自体はよく知られた現象だった。今日のような満月には見えないが、三日月や新月のとき、光を発していない陰になった部分に幾何学模様の光の点滅が流れることが度々ある。それは、かつて月面に至った人間が造った何らかの施設があり、それが光を放っていると言われている。
「でも、それから月自体が人工物であるって、飛躍してません?」
「月ってね、大きいのよ。直径が地球の三分の一くらいあるかな。質量は判っていないけど、それなりにあるはず。そんな大きい物を地球の引力で引き止めておくなんて、奇跡的なのよね」
アステリアは望遠鏡を覗きながら言った。
「人間が造ったものなら、予め計算して地球の周りを回るような軌道に置くことができるし、多少それがずれても補正できる」
「ふーん。でも、その通りなら、昔の人って凄いね。巨神だけじゃなくて月まで造っちゃうんだから」
それを聞いたアステリアは、望遠鏡から目を離してイーリャを見た。
「そう言えば、あんた、今日で十六じゃなかったっけ?」
「はい。アステリアさんも知ってるんですね」
「そりゃ、ここに住んでいれば、ね。おめでとう。それで、人形遣いの継承は済んだの?」
イーリャは首を振った。
「説明は聞いたけど、儀式はまだ。十日後にみんなを集めて継承の式典を開くから、その場で儀式もやろう、ってことになって」
「ふうん。大長老様らしいね。あの爺さんが言い出したんでしょ?」
「うん、そう。はぁ」
「どうしたの? 溜息なんてついて」
「うん、私なんかで務まるのかなぁ、って」
「イーリャなら大丈夫よ。私じゃ逆立ちしたって無理だけど。月の観測ばっかりやってて、舞の練習サボってたからね」
アステリアは自嘲するように笑った。
「でもね、イーリャ」
「はい?」
「務まるかどうか、じゃないのよ。人にはそれぞれ、定められた役割ってものがある。それがイーリャは、たまたま人形遣いだった、ってことよ」
「アステリアさんが月面観測の役割を与えられたみたいに?」
それを聞くと、彼女はまた自嘲気味に笑った。
「私はねー、好きでやってるだけなんだけどね。でもね」今度は真顔になって「他に月に興味を持つ人がいないのに、私だけがこんなに関心を抱いているっていうのは、私にこの役割が与えられたからかも、とは思ってる」
「そうか。アステリアさんは、役割と自分の好きなことが一緒なんだね。あたしはどうなんだろう? 人形遣いの役割を与えられたとして、あの子を駆るのを好きになれるのかな……」
台詞の後半は独り言になっていた。けれど、アステリアはそれに答えた。
「巨神を駆る機会なんて滅多にないだろうからね。それを好きかどうかって言っても難しい、って言うより、判らないよね。……イーリャは舞うのは好き?」
「はい」
「それなら、駆るんじゃなくて一緒に舞うって考えればいいんじゃないかな。イーリャの舞踏は武闘にも通じるし」
「そうかな?」
「私はそう思う。それにね」アステリアは微笑みを浮かべてイーリャをみた。「あんた、巨神はもう見たのね」
「うん」
「さっき言った『あの子』って、巨神のこと?」
「え? あ」イーリャは頬を微かに染めた。「はい、なんか、見たとき『子』って感じがして」
「それなら、それで充分なんじゃないかな」
「どういう意味?」
「あんたが巨神を『子』って思ったのは、巨神を『可愛い』と感じたからなんじゃないかな。そう感じたなら、人形遣いとして巨神と上手くやっていけるよ」
「……そう思う?」
「ええ」
アステリアは優しく微笑んでいる。その笑顔と言葉で、イーリャも(それでいいのかもしれない)と思えてきた。
「うん。なんか自信が出てきた気がする。ありがとう、アステリアさんっ」
「それならよかった」
アステリアはイーリャの頭をポンっと軽く叩いて、望遠鏡に戻った。
「それにしてもアステリアさん、月だけじゃなくて巨神にも詳しいんだね。さっきの感じだとアステリアさん、巨神を見たことあるの?」
「ん? うん、子供の頃にね、見せて貰った。自分が何をやりたいのか判らなくて、何にでも手を出してた頃だね」
「ふうん。そっか。今日はありがとう。観測の邪魔してごめんなさい」
イーリャは頭を下げてからその場を離れた。水際に沿って歩く。適当なところで砂の上に腰を下ろし、オアシスに映る月を眺めながら、今日一日のことを思い返す。
「いーーっりゃっ」
後ろから、彼女を呼ぶ声がした。振り向くと、カナテが後ろに手を組んで立っていた。
「どうしたの? こんな夜更けに」
「そう言うあんただって」
カナテはイーリャの隣まで歩いて来ると、同じように腰を下ろした。
「月が綺麗だね」
「うん」
空に浮かぶ月と、湖に映る月を、二人は眺めた。
「イーリャ、人形遣いを継いだんだって?」
カナテが前置きもなく話し出した。
「ううん、まだ。十日後に式典を開いて、そこで継承の儀式をやるんだって。明日の朝には御触れを出すって大長老様が言ってた」
「そうか。大長老様もお祭り騒ぎが好きよね。もう歳なのに」
また会話が途切れた。今度沈黙を破ったのはイーリャだった。
「カナテも知ってたの?」
「え? 人形遣いのこと? ううん、全然。今日、イーリャが帰った後でセクスリーから聞いた」
「そっか。じゃ、セクスリーも知ってたんだね」
「イーリャは知らなかったわけ?」
「うん。大長老様から言われるまで、全然。まったく、失礼な話よね。本人が全然知らないのに、街の大人たちはみーんな知ってるんだもん」
「らしいね。私も誕生日がもう少し早かったら、イーリャより先に聞いていたかも」
柔らかい風に、木の葉がそよいだ。水の中の月が揺れた。
「あたしね、さっきまで自信なかったんだ。大長老様から話を聞いたときには、勢いで『やります』って言っちゃったんだけどさ」
「だと思った。だから、ここに来てると思ったんだ。イーリャ、昔から悩み事があると、夜中にここに来るもんね」
「あははー、あたし、単純だから」
イーリャは笑った。
「でも、『さっきまで』ってことは、今は自信ついたわけ?」
「自信がついたって言うか、それが自分の役割なんだ、って納得した、のかな。アステリアさんのおかげ」
「アステリア?」
カナテは首を巡らせた。
「あ、あそこにいるの、アステリア?」
「うん」
「あの人も好きよねぇ。相変わらず、月面観測でしょ?」
「そう言ってた」
二人で笑う。
「でも、それでイーリャに自信がついたんなら、あの人でも役立つことあるんだね」
「そんなふうに言っちゃ駄目だよ~ 年上の人相手に」
「だけどさ~この街に生まれて舞踏も武闘もしない、行商や公演に行くわけでもない、かと言って農業や畜産もやるわけじゃない、それで月を眺めているだけなんだもん、役立たず!って思っちゃうよ」
「アステリアさん、言ってたよ。この街で月に興味を持って生まれたのは、それが自分に与えられた役割だからかもしれない、って。役割として与えられたものだったら、無意味に見えても、きっと何かしら意味があるんだよ」
「でもね、それを当人が言ってるだけじゃね。役割なんだか、趣味なんだか、判んないよ。まあ、何していいか判らない私よりはマシだけどね~」
カナテは両手を後ろについて月を見上げると、自嘲的に笑った。
「カナテはみんなに舞を教えるんじゃないの?」
「うん、まあ、そうなんだけど、『それが自分の役割だ!』っていまいち思えなくてさ。この街じゃ、それができる人なんてそれこそいくらでもいるし。イーリャやアステリアが羨ましいよ」
「アステリアさんは兎も角、私なんてただ、白子に生まれたから、ってだけの理由だよ。役割って言ったって、まだ実感湧かないし。一応、納得はしたけどさ。それに、カナテだって少し前に十六になったばかりでしょ? これから時間をかけて見つければいいんじゃない?」
「ま、そうなんだけどね。見つけられるのかなぁ。私の役割」
「見つけられるよ。私も手伝うからさ」
「うん、ありがと」
時折、弱い風が吹き抜けてゆく。それにそよぐ木の葉のざわめき以外には、音はない。街は眠りについている。
「泳ごっ」
突然カナテは言って立ち上がると、身に纏った胸当てと腰巻を脱ぎ捨て、サンダルも脱いで裸になって、オアシスの湖に駆けて行った。水際を途中まで走って行って飛び込む。水中を進み、中央辺りで水から顔を出したカナテはイーリャに手を振った。
「イーリャもおいでよっ。気持ちいいよっ」
くすっ、と笑ってから、イーリャも立ち上がった。
「うんっ」
シャツを脱ぎ捨て、ブーツとソックスも脱ぎ、下着を上下とも剥ぎ取って裸になる。真っ白い裸身が月の光に映える。その姿はまるで、白い妖精のようだ。
カナテと同じように水際を走り、湖に飛び込んだ。カナテの隣に浮かび上がる。
「イーリャの肌、いつ見ても綺麗。見惚れちゃう」
「そう? だけど、陽に当たるとすぐに赤く腫れちゃうし、だから昼間はいつも外套が必要だし、いいことないよ。私はみんなの褐色の肌が羨ましい」
「それが残念なのよね。イーリャの綺麗な肌を、明るい太陽の元で見られない、っていうのが」
「訓練してどうにかなるもんじゃないし」
二人は、夜のオアシスを泳いだ。褐色の身体に黒い髪の少女と、白い身体に白銀の髪を持つ少女が、水の中で戯れる。
「人形遣いを継いだら、引っ越しかぁ。面倒だなぁ」
水に浮かび、暗い空を見上げながらイーリャは言った。小さな白い乳房が水面を泳ぐ。
「何? 家変わるの?」
カナテは立ち泳ぎで聞いた。
「うん。今大長老様が住んでいる家に住まないといけないんだって」
「大長老様の住んでる家って、“人形遣いの館”に?」
「あ、あそこそんな名前が付いているんだ」
「こら。人形遣いがそれでどうする。でもそっか、あそこなら神殿に近いものね。大長老様も一緒に?」
「ううん、大長老様は適当に家を見繕って出て行く、って言ってた」
「じゃ、イーリャ一人で住むの?」
「うん。お父さんとお母さんも一緒に、って思ったけど、二人は仕事行くのに、今の家の方がいいし。……そうだ、カナテ、私と一緒に住まない?」
イーリャも立ち泳ぎの体勢になって言った。
「私が? 人形遣いの館に?」
「うん。大長老様も、側仕えとして誰かと一緒に住んでいい、っていってたし。側仕えっていったって、一緒に生活してくれるだけでいいんだけど。一人じゃご飯も味気ないし」
「人形遣いの側仕えかぁ。それもいいかなぁ。役割も判らないことだし」
「もしかしたら、それがカナテの役割かもしれないし、さ。すぐじゃなくていいから、考えといてよ。気が向いたら来てくれるんでもいいし」
「うーん、考えとく」
また、二人は泳いだ。湖に戯れる、白と黒の妖精。その様子を、月が優しく照らし出していた。夜はどこまでも静かだった。