武闘試合
舞踏場を、昼前から使う人は少ない。それでも、イーリャが着いたときには親友の一人、カナテが棍を握って舞っていた。
「おはよう。早いね」
陽が届かない闘場に入ってフードと色眼鏡を外したイーリャは声をかけた。
「おはよう。相手してくれる?」
カナテは動きを止めることなく挨拶を返した。
「うん」
更衣室に入ると、持って着た着替えの袋と色眼鏡を棚に置き、外套とフェイスヴェールも外して丁寧に畳み、一纏めにする。白く長い髪を紅いバンダナでポニーテールに纏め、ロングブーツを脱いでサンダルに履き替えてから闘場へ出る。
壁際から練習用の剣を二振り選ぶと、軽く振ってバランスを確かめてから、中央へと進んだ。舞い続けるカナテに合わせて自然にその中に入り込み、両手の剣を振るって軽やかに舞う。棍と双剣の二重舞踏。時折、剣と棍が当たって金属音を立てる。
誰も見る者のない中で、真白い肌の少女と浅黒い肌の少女が計算された動きを繰り広げる。二人の身体から汗が散る。カナテの身に付けたアクセサリーが軽い音を立てる。イーリャの髪がなびく。目が合ったときに微笑みが溢れる。
どれくらい舞っていたろう。闘場に三人目の人間が現れた。
「あら、セクスリー、昼前から来るなんて珍しいんじゃない?」
舞の動きを止めずに、カナテが言った。
「まあね。今日、ゼントルノさんが帰って来てるだろ? 次、再来節に行くときは俺もメンバーに入る予定だから」
「少しでも腕を上げておこうってこと?」
「いや、旅に出たら何ヶ月か、場合によっては何年か帰って来られないからね。出掛ける前に、できるだけ皆と舞っておきいたいな、ってね」
「そういうことね」
しかしセクスリーは闘場の中には入ろうとはせず、二本の剣を左手に下げたまま、闘場の隅で二人の舞を眺めていた。ひとしきり舞ったところで、二人の少女は舞を終えた。武器を左手に納め、互いの右手を握りしめる。
「どうしたの? 舞うんじゃないの?」
一纏めにした黒髪をほどき、頭を振って広げたカナテは、セクスリーに近付きながら聞いた。
「ん? あぁ、二人とも上達したな、と思ってね」
「何言ってるのよ。二つしか違わないくせに」
カナテが軽くセクスリーの肩を小突く。
「でもその歳で師範代だものね。凄いよ」
イーリャがセクスリーの、筋肉質で均整の取れた身体を見ながら言う。
「それほどでもないさ。同い年でもっと巧く舞う奴もいるし。それより」
セクスリーは真っ直ぐにイーリャを見つめて言った。
「俺と、手合せしてくれないか」
二人の少女は顔を見合わせた。
「手合せ? って、舞踏じゃなくて武闘試合ってこと?」
「ああ、そうだ」
「何言ってんのよ」
イーリャが次の言葉を言う前に、カナテが横から口を出した。
「イーリャは武闘より舞踏に比重を置いてるの知ってるでしょ? 武闘試合なんて、今までに数えるほどしかやってないじゃないの」「もちろん、知っているさ」
セクスリーは、二人から顔を逸らして言った。
「何しろ、二年前、その滅多に武闘を見せない女の子にコテンパンに叩きのめされたのは他の誰でもない、俺なんだからな」
一瞬、呆気に取られた表情を見せたカナテは、次の瞬間身体を折って笑い出した。
「あー、あったあった、そんなことっ。瞬殺ってああいうことを言うのよねっ。あんた、ずっと根に持ってたわけ? あー、おっかしーっ」
「そこまで笑うかよ。当の本人の目の前で。恥を忍んで過去の傷を自分から晒しているってのによ」
セクスリーはふいっと横を向いた。
「ごめんごめん。あの時のあんたの顔を思い出したら、おかしくっておかしくって。はぁ、しぬぅ。はぁはぁ。でもさ」
なんとか笑いを納めたカナテは目の端を手の甲で拭った。
「あのとき地に這いつくばっていたあんたが今は師範代なんだから、大した成長よね」
「這いつくばってはねーよ。尻餅をついてはいたけどさ。それで」
隠しきれていない恥ずかしさを顔に覗かせて、セクスリーは改めてイーリャに向き直った。
「あの時の雪辱戦ってわけじゃないが、改めて俺と手合せ願いたい。頼む」
そう言って深く頭を垂れる。
二人のやり取りをクスクスと笑って見ていたイーリャは、自分に向かって頭を下げているセクスリーに言った。
「顔を上げてよ。解ったから。師範代が門下生にそんなことしてるところを誰かに見られたらどうするのよ」
「私が見ているけどね」
顔にニヤニヤ笑いを貼り付けたカナテを無視して、セクスリーは頭を上げてイーリャを見た。
「それじゃ、いいのか?」
「うん。別に禁止されてるわけじゃないし」
イーリャはこくりと頷いた。
突然『手合せを』と申し込まれた時こそ戸惑ったものの、二人のやり取りを見ているうちに、やってもいいかな、という気になっていた。自分のやってきた舞踏が武闘としてどこまで通用するのかを試してみたくもあった。
「お手合せ、よろしくお願いします」
姿勢を正して一礼。
「こちらこそ、よろしく。……カナテ、開始の合図を頼む」
「いいけど、勝敗はどう決めるのよ?」
「判りやすい形になるさ。そうならなかったら引き分けってことで。いいよな?」
「うん、私は構わないよ」
イーリャは即座に答えた。
「なら、審判はしなくていいね」
カナテが棍を壁に立て掛けている間に二人は闘場の中央へと進み、互いに剣を持った右手を差し出して剣先を合わせた。カキン、カキン、と金属音が響く。それから二人とも二歩、三歩と下がって距離を取り、対峙した。
セクスリーは脚を前後に開いて体勢を低くし、両の剣先を相手に向けて構える。対するイーリャは、右脚の膝を折って左脚一本で立ち、両手を左上方と右下方へ鳥の翼のように広げる。武闘というよりも舞踏の姿勢。
二人の準備が整ったのを見て、カナテは間に立ち、右手を高く掲げた。
「では、セクスリー対イーリャの立会い、一本勝負、……始めっ!」
カナテの口から開始の合図が発せられるのと同時に、その右手が振り下ろされた。
カナテの右手が振り下ろされた瞬間、イーリャは両腕を相手に向けて差し出し、軸になっている左膝を曲げて重心を落とすと、それをバネにして対戦相手に向かって跳躍した。見ているカナテも、対峙しているセクスリーも、あの姿勢から飛び込んで行くとは予想すらしていなかった。
二人には、イーリャが行動を開始したのがいつなのかも見えず、気付いたときには彼女はセクスリーとの距離を半分ほどに縮めていた。いや、それは正確ではない。カナテもセクスリーも、翼を閉じるような腕の動き、背が低くなったかのような腰を落とす所作、緊張した脚の筋肉の緊張まで見えていた。
にも関わらず、イーリャの動きをまったく目で追えていない。それほどに彼女の動きは、緩慢に見えて、しかし素早く滑らかだった。前に出した両腕を交差させ、両側からセクスリーに斬りつける。セクスリーもただ待ってはいない。初動こそ一瞬遅れたものの、すぐに右に跳ぶ。
空を切った両手の剣を掌で回転させつつ、軽やかに左へと体を回して相手の背後を取ろうとするイーリャ。左手の剣をしっかりと握り、斬りつける。
キンッ。
セクスリーは左手を背中に回して斬撃を受け止め、体を回転させて向き直りざまに右手の剣で攻撃する。
けれど、すでにそこにはイーリャの姿はない。剣を受け止められた後も動きを止めずに、セクスリーの動きに合わせるかのようにその周りを舞う。手合い開始直後の動きこそ武闘と呼べるものだったが、その前の構えも、その後の動作も、舞踏の舞だった。それに惹かれるように、セクスリーも舞う。
突然、視界からイーリャの姿が消えた。けれどその意図を読んでいたセクスリーは慌てることなく舞の動きを保ったまま、右手だけで振り下ろされる二本の剣を受けた。火花が飛び散る。右手をそのまま払い、その勢いで左手の剣を叩きつけるように繰り出す。
しかしイーリャは、受け止められた反動を使って空中で後方に回転、着地すると一歩距離を取り、すぐに横へと跳び退いた。再び舞踏の動き。今度はセクスリーが仕掛けた。タイミングを計って距離を詰め、左手の剣を繰り出す。イーリャは木の葉のようにこれを避ける。
避けられることは計算済みのセクスリーは、剣がイーリャに届くのを待たずに身を沈め、地を這うように跳躍して後ろを取り、振り向き様に回転の勢いを乗せて横薙ぎに払う。これを両手の剣を使って受け止める、いや、受け流すイーリャ。先より激しく火花が飛び散る。
横の動きでセクスリーから離れ、また剣を回す。いつの間にか、イーリャの剣が一振り消えている? 右手で回転させていた剣を、両手を交差させて左手に、そしてまた右手に。もう一本はどうした? 先の攻撃を受け止めた際に取り落としたか。考えている暇はない。
セクスリーは相手の舞に合わせ、イーリャの剣が右手に移る瞬間を見計らって間合いを一気に詰め、右手で攻撃を仕掛けた。しかし。「はっ!!」
その斬撃はイーリャの裂帛の気合いとともに、彼女の左手から繰り出された剣によって防がれた。
のみならず、セクスリーの右手の剣を弾き飛ばす。闘場の端へ、剣が転がった。勢いのついていたセクスリーは左手からの攻撃に切り替える。が、これをイーリャは右手の剣で難なく受けると、返した左手の剣の切っ先をセクスリーの喉元に突きつけた。時が止まった。
「おぉ、本当に判りやすい形で決着が着いたね~」
ぱちぱちと手を打ち合わせて、カナテが言った。
「参った」
セクスリーが言うとイーリャは剣を引き、左手に持ち替えて右手を差し出す。セクスリーも残った剣を納めると、姿勢を正して差し出された手を握った。
「また勝てなかったか」
そう言う彼の顔は悔しさを感じさせつつも、どこか満ち足りた風に見えた。
「でも、辛うじて勝てた、って感じ。もっと練習しないと、次は負けちゃうかな」
イーリャも今の勝負に満足がいったように微笑む。
「今度は瞬殺とはいかなかったね~。流石は師範代」
カナテが二人に近付いてきた。
「負けてちゃ同じだよ。って言うより、お前は俺が瞬殺されることを期待してたのかよ」
呆れた返った様子のセクスリー。
「まぁね。さっき二年前の対戦を思い出させて貰ったから。あの再現と行かないかなぁ、と」
ニヤニヤ笑いを堪えきれないカナテ。
「……ったく。あっと、それよりイーリャ、さっきのはどうやったんだ? 途中から剣が一本無くなったように見えたんだが」
「気付かなかった? なら、成功かな。あれはねぇ、ここに隠してたんだよ」と、剣を持っていない右手を横に上げてひらひらさせる。
「ここって……どこだよ? 焦らさないで教えろよ」
「あれ? 判んない? カナテには見えてたでしょ?」
「まぁね」
まだニヤニヤしているカナテ。
「判らないのは俺だけかよ」
セクスリーは天井を仰ぎ見た。
「私だってイーリャと対峙してたら判ったかどうか、怪しいよ。横から見てたから判ったけど」
漸く笑いを引っ込めて、カナテは言った。
「そうなのか?」
「うん。イーリャはね、これを使ったのよ」
と言ってカナテは、イーリャのゆったりしたシャツの袖を引っ張った。
「袖? 袖の中に仕舞う暇はない筈だから……袖の後ろか」
「そそ。私やあんたじゃ思いつかないよね。私は乳当てだけだし、あんたは上半身裸だし」
「そうでもないよ。袖のないシャツだったら腕で隠したと思うし。ちょっとやってみようか?」
剣を一本カナテに渡すと、イーリャは右腕の袖をたくし上げ、左手で押さえた。剣を持った白い右手を横に伸ばす。「いくよ」と言って、剣を回転させる。
と、二人の見つめる視界から、剣が消えた。
「おお、凄い。本当に消えたように見える」
そう言いながら、カナテは後ろに回ってきた。
「なるほどねぇ。剣を逆手に持って腕の後ろに隠してるだけか」
「ずっとこのままでなくても、これくらいなら前からは見えないし」
少し後ろに角度をとってみせるイーリャ。
「あとは舞の動きに紛れ込ませてセクスリーとの角度とか考えながら、適当に誤魔化しただけ」
クルリと剣を回して腕を下ろす。袖が白い腕を隠した。
「はぁ。その“適当な動き”に騙されてたわけか」
肩を落としてみせるセクスリー。
けれど、それほど気落ちしているようには見えない。
「でも、そう簡単にできるもんじゃないよな。相手との位置関係とか距離とか、余程正確に捉えていないと。……ん? さっき『成功』とか言ってたよな。もしかして、これ使ったのよ初めてか?」
「うん。舞踏じゃ使い途ないし」
こともなげに言うイーリャ。
「って言うより、さっき舞いながら考えたんだけど。セクスリーの実力は知ってるつもりだから、勝つなら奇襲しかないなぁ、と思ってたから。最初の攻撃は上手く躱されちゃったし」
「闘いながら考えたのかよ。ますます敵わないな。俺もまだまだ精進が必要だな」
「その場であれを考えて、しかも実践しちゃうなんて、私じゃ考えられないなぁ。う~~、才能の差を感じるっ」
カナテも唸る。
「そんなことないって。今のはたまたま上手くいっただけ」
謙遜してみせるものの、二人から褒められて満更でもなさそうなイーリャ。
「ところでさ」セクスリーが落とされた剣を拾いながら話題を変えた。「お前、今日で十六だろう? 大長老様に呼ばれているんじゃないのか?」
「え? イーリャ今日お誕生日? おめでとうっ」
イーリャが返事をするより先に、カナテが今知った事実に反応した。
「うん、ありがとう。でもよく知ってるね、あたしの誕生日。街の皆も知ってたし。それにセクスリー、大長老様に呼ばれてることまで知ってるの?」
礼を言いつつも首を傾げるイーリャ。
「なんだ、お前知らないのか。……いや、十六になったのが今日なら知らなくても当然か」
「知らないって、何を?」
「ん? う~ん、大長老様が話してくれるさ。直接聞いてこいよ」
「? うん。解った。そうする」
「ねぇ、イーリャの誕生日に何かあるの?」
セクスリーや大人達が知っていることを、カナテは知らないらしい。
「お前も知らないのか。もう十六になったんじゃなかったっけ?」
「うん、ひと月ほど前に」
「まだひと月か。なら、知らなくても不思議じゃないな。そうだなぁ、後で教えてやるよ。それより」
セクスリーはイーリャに向き直った。
「さっきの答えがまだだけど。大長老様のところには行かなくていいのか?」
「お昼過ぎてからでいいって。あんまり陽が傾く前に来るように、とは言われてるけど。家でご飯食べてから行くつもり」
「そうか。大長老様によろしくな」
「うん。……さてと、今日は軽く身体を動かすだけのつもりだったから、あたしはそろそろ上がるけど、二人は?」
「俺は練習これからだから」
「そう言えばイーリャとの手合いしかしてないっけ。私ももうちょっと舞っていくつもりだから、相手をしてしんぜよう」
「そりゃどうも」
「じゃ、あたし先に上がるね。そうそう、カナテ、午後の年少組の相手、よろしくね」
「任せなさい。昼過ぎれば、他の連中も来るだろうし、問題なし。大長老様に私のこともよろしく言っといてね」
「うん」
イーリャは、剣を仕舞うと汗を流すために闘場を後にした。