人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である~地球を知らない僕とアームストロング船長のあしあとを見たがってる地球の姫君~
『人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』
これは今から1500年前、地球のアームストロング船長が月面に降り立った際に言ったとされる言葉である。
そしてこの言葉は僕ら月の民にとって神聖なものだった。
彼はこの月の大地に初めて足をつけたとされる最初の人間だ。
今では彼のつけた足跡を中心に半径50㎞にもおよぶ巨大コロニーが建造されている。
僕はここの第七世代。
つまりはこの月に移住してきた人たちの七番目の子孫にあたる。
当然、地球なんかには行ったこともなければどんなところかもわからなかった。
時折開くドームのガラスの向こうから青く輝く大きな地球の姿は見ることができるけれど、まるで別世界だ。
本当にあんなところに人が住んでいるのだろうか。
僕らのように普通に生活できているのだろうか。
月から眺める地球はただの大きな水の球体にしか見えない。
もしかしたら地球人は水の中の生き物なのかもしれないとさえ思えてしまう。
そんなことを考えながら天文公園のベンチに座って地球を見上げていると、野太い声が耳を突き刺した。
「ゼクト!」
振り向くと、そこにいたのは友人のヴァンだった。大きな人工樹木の脇から手を振っている。
「何やってんだよ、こんなところで! もうすぐ地球のお姫さんが来ちまうぞ!」
「あ、もうそんな時間か」
手にした腕時計を見て重い腰をあげる。
今日は数十年ぶりに地球からの来訪者がやってくるという記念日だ。
この日に合わせて数年前から準備が始められ、コロニー中がてんやわんやの大騒ぎになっていた。
かく言う僕の父さんも、忙しすぎてここ数週間家に帰っていない。
「まったく、お前だけだぞ? こんなめでたい日にこんなとこでボーっと地球を見上げてるヤツなんて」
「いいじゃないか。久しぶりの平日休校なんだから」
今日は記念日ということでハイスクールは休みになった。
ハイスクールだけじゃない、商業施設以外のほぼすべての会社が休みになっている。
みんな地球のお姫様を一目見ようと入港ゲートに殺到しているらしい。と、朝のニュースでやっていた。
「早く行こうぜ! お姫さんの顔を見逃しちまう」
「一人で行きなよ。僕は別に興味ないし」
「興味ないってことはないだろ。お姫様だぜ? お姫様」
「地球の、だろ。どうせ半魚人みたいな顔だよ」
「なんだそりゃ。お前、いまだに地球人が水の中で生活してると思ってるのか?」
なかばあきれたように肩をすくめるヴァン。
ちょっと小馬鹿にしたその態度に僕は少しムッとした。
頭上に輝く青い地球を見れば誰だってそう思うはずだ。
「いいか、ゼクト。地球はこうやって見ると水の惑星だけどな、大地だってちゃんとあるんだぜ?」
「それはわかってるけど……」
「いいや、わかってない。ゼクトは全然わかってない。いいか、地球ってのはな月に比べて何十倍も大きくて……」
「ヴァン。説明はありがたいんだけど、早く行かないと見逃すよ?」
「おっと、そうだった。お前に構ってる暇なんてないんだった。ま、お前が興味ないんならオレ一人で見に行くからな」
「ああ、いいよ」
「ものすごく可愛い子で、あとで見ればよかったって後悔しても知らないぞ?」
「するわけないじゃん」
「本当にいいのか? 一人で行っちゃうぞ?」
「はやく行けって」
ヴァンは「素直じゃないな」とため息をついて「じゃあな。後で詳細教えるから」と言っていそいそと入港ゲートへと消えて行った。
「だから別に興味ないって言ってるのに……」
僕はヴァンが消えていった通路を見つめてつぶやくと、再びベンチに腰かけて青く輝く地球を見上げた。
やっぱり地球は今みたいな静かな空間でゆっくりと眺めるに限る。
と、その時。
ポケットに入れていた通信機が激しく震えた。
数世代前の機種だけど、いまだに使えるから買い替えていない。
おそらくこの月コロニーでこの機種を使っているのは僕だけだろう。
使い勝手はいいんだけど、こうしていきなり震えだすのが難点だ。
僕はポケットに手を突っ込むと、ぶるぶると震える通信機の通話をONにした。
すると意外な顔が空間に映し出された。
『やあゼクト』
「と、父さん……?」
思わず目を見張る。
何やってんだこの人。地球のお姫様がもうじき来るっていうのに。
父さんはコロニー公社入港管理ゲートの役員だ。
つまりは、今回の地球からの来訪者を迎えるコロニー側の責任者の一人。
そんな父さんが、こんなタイミングでCALLしてくるなんて信じられない。
「何やってんの? お姫様のお出迎えはいいの?」
『ああ、父さんはいいんだ。それよりもな。お前今、暇か?』
なんだそれ。
いきなりの問いかけに頭の中にたくさんのクエスチョンマークが浮かぶ。
「暇……といえば暇だけど」
『ちょっとこっちに来られるか?』
「なんで?」
『頼みたいことがあるんだ』
数週間ぶりの会話なのに、どこかよそよそしい。
息子との会話が照れくさいというわけでもなさそうだけど。
「どんなこと?」
『来ればわかる』
こういう時、大人はずるい。
頼みたいと言っておきながら「来ればわかる」って、それはもう行ったら断れないじゃないか。
でも、ここずっと父さんが大変だったのも知っていたから僕は黙ってうなずいた。
「わかったよ。どこに行けばいい?」
『入港ゲート管理者用通路。そこにいる』
「うん、わかった」
『なるべく早くな』
そう言って通話が切れた。
ほとんど一方的な会話だった。
僕はもう一度地球を見上げると、深いため息をついて入港ゲート管理者用通路へと向かった。
※
入港ゲート広場は予想以上に多くの人でごった返していた。
やはり地球からの来訪者は珍しいらしい。
コロニー中の人間が集まってるんじゃないかというくらい、ぎゅうぎゅうにひしめき合っていた。このどこかにヴァンもいるのだろう。
僕はその群衆をかき分けて進みながら、入港ゲートの関係者用の扉に向かった。
大きな扉の横には、ロックを解除するパネルがある。
そこに手をかざすと、ピロンという電子音とともにロックが解除された。
僕はこのゲートの関係者ではないけれど、父さんの役職が役職なだけに事前登録されていて、こうして気軽に出入りできるのだ。
解除された扉をくぐり抜け、父さんの待つ入港ゲート管理者用通路へと向かった。
「ゼクト、早かったな」
入ってすぐ、通路上にはすでに父さんがいた。居ても経ってもいられず、歩きながら僕を待っていたらしい。
こんなにそわそわしている父さんも珍しい。
「さっきまで天文公園にいたから」
「そうか。近くにいてくれて助かった」
「それで頼みたいことって?」
僕が最後まで言い終わらないうちに、背後から一人の女の子が現れた。
同い年くらいの子だろうか。
大きな腕輪をジャラジャラつけた猫みたいな可愛い子だった。
「サーゼマン卿。この方がご子息のゼクト様ですか?」
「はい、そうです」
父さんがそう言ってうやうやしく頭を下げる。
他人に頭を下げる姿なんて初めて見たのですごくビックリした。
「君は?」
僕の問いかけに父さんのほうが「こら! ゼクト」と声をあげる。
「よいのです。申し遅れました、わたくし地球からやって参りましたナーシャと申します」
「地球?」
地球という言葉に反応する。
確か今、地球からお姫様一行がやって来ているはずだ。なんで地球からやってきた子がこんなところにいるんだ?
そんな僕の疑問を見抜いてか、ナーシャと名乗った女の子が言った。
「私は姫の侍女でございます。姫は分刻みでスケジュールが埋まっているため、私だけが別行動を取らせていただきました」
「別行動って……」
「アームストロング船長のあしあと、それをこの目で見てみたいのです」
あしあとを見てみたい?
それだけ?
きょとんとしながら父さんに目を向けると、父さんは真剣な顔でうなずいた。どうやら本当らしい。
「地球の方たちは月のありとあらゆるものに興味がおありだ。ただ、アームストロング船長のあしあととなるとな。あのコロニー公園だけはどうしても警備が手薄になってしまうからお連れできないのだ」
確かにアームストロング船長のあしあとがあるコロニー公園はだだっ広い上に死角も多い。地球のお姫様が訪問するとなると、多くの人だかりができて警備もままならないだろう。
ナーシャはグイッと詰めよって僕に伝えた。
「姫はどうしてもアームストロング船長のあしあとを見てみたいそうなのです。ですので、代わりにわたくしが見ることになりました」
「いや、代わりにって……」
どうしても見てみたいのに、代わりの人に見てもらうの?
なんかおかしくない?
そんな疑問を口にしようとすると、父さんが遮った。
「そういうことだ、ゼクト。案内してあげてくれないか? ナーシャ様は17歳。お前と同じ年齢だ。話も合うだろう」
それで呼ばれたのか、と合点がいった。
でも話の合う合わないは別に年齢だけじゃないだろうに。
そう思ったけれど、ナーシャの「どうぞよしなに」という言葉と優雅にお辞儀をする仕草に、僕はそれ以上何も言えず「はあ」とうなずくしかなかった。
※
入港ゲートから出たあとのナーシャは好奇心の塊だった。
「まあ!」と口を大きく開けて叫び、大きな瞳をキラキラと輝かせながら辺りを見渡しまくっていた。
「ゼクト様、これはなんですか!?」
「それは酸素を空気中にばらまく装置だよ」
「ゼクト様、あれはなんですか!?」
「それは火事が発生した時に瞬時に消せる粉末消火栓」
「ゼクト様、この器具は何にお使いになるのでしょう!?」
「それはドームに穴が開いた時に一時的に穴をふさぐバルーン」
どれもこれもに驚くほどたくさんの質問をしてくる。
挙句の果てにはゴミ箱にまで「これはなんですか!?」と聞いてくる始末。
よほど珍しいのだろうか。
僕の説明に「ほむほむ」と大きく頷きながら街のありとあらゆるものを眺めていた。
「本当に何もかもが素晴らしいですわ! 月コロニーの街は地球にはないものばかり! 見れば見るほど、聞けば聞くほど惚れ惚れとしてしまいます!」
自分の住んでる街をそこまで褒めてくれると悪い気はしない。
僕は自分の手柄ではないのに「へへ」と鼻をかいた。
「やはり宇宙空間と紙一重……いえ、ガラス一重の街は対策もばっちりなのですね」
どうなんだろう。
今まで気にも止めていなかった。
言われてみれば、この街のガラスの向こうは宇宙空間なんだよな。
「地球にはこういうものはないの?」
「ありません。物は燃やし放題、ゴミは捨て放題、海も油で汚染されて多くの海洋生物が絶滅してしまいました」
「海洋生物?」
「海の生き物です」
「海?」
首をひねると、ナーシャは「あっ」と口に手を当てて「申し訳ございません」と謝った。
「海自体を知らなかったのですね。気が回らなくてすいません」
「あ、いや、謝らなくても……」
「海とは大きな水たまり……と言えば想像がつきますでしょうか」
「水たまり……?」
その言葉にピンとくる。
「もしかして地球の青のこと!?」
「地球の青?」
僕はいてもたってもいられなくなり、ナーシャの手をむんずとつかみ取った。
「ゼゼゼ、ゼクト様……!?!?」
素っ頓狂な声を上げるナーシャ。
でも僕にはそれどころではなかった。
「地球が見える公園があるんだ! そこに連れてってあげるよ!」
「ちょ、待って……、ゼクト様……手が……手が……!!」
わけのわからない叫び声を上げている彼女を連れてやってきたのは天文公園のいつもの場所だった。
さっきまでベンチに座って眺めていた地球が、またさらに青さを増している。
「あれが海なの!?」
天井を覆うガラス窓の向こうから見える地球を指差して問いかける。
ナーシャはさきほどまでの狼狽ぶりとは打って変わって青く輝く地球を見上げて「まあ!」と感嘆の声をあげた。
「地球……! 地球ですわッ!!」
「すごく青いけど、あれがナーシャの言っていた海なの!?」
「こんなに……こんなに美しいだなんて……」
「あの青い部分が海ってこと!?」
「この目で見ると美しさが全然違いますわ!」
話を聞いちゃいねー……。
僕の言葉などまったく耳に入らないようで、彼女は頭上に浮かぶ地球の姿に夢中のようだった。
まあ、僕もその気持ちがわかるから何も言えないのだけれど。
確かにこの場所から見える地球はすごく綺麗で何度見てても飽きないのだ。
僕はやれやれと肩をすくめた。
「この景色いいでしょ。時間制でたまにしか見られないんだけど、僕の大好きな場所なんだ」
「素敵すぎて胸が張り裂けそうです」
うっとりと眺める彼女の横顔に、僕は不覚にもドキッとしてしまった。
そしてその時初めて彼女の手を握っていることに気づいて、慌てて手を放した。
けれども彼女はそんな僕の動作にも気づいてもいないようだった。
彼女の隣で一緒に地球を見上げながらつぶやく。
「実は僕、地球ってどんなところかわからないんだ」
その言葉に、初めてナーシャがこちらを向いた。
「わからない?」
「だって、こうしてみるとほとんど水の惑星でしょ? 大地があるっていうのは知ってるけど、全然想像がつかなくて……。もしかしたら地球の人たちって水の中で生活してるんじゃないかって思ったりして……」
そう言うと、ナーシャはクスクスと笑いだした。
「水の中で生活している人なんていませんわ。確かに地球の7割は海……じゃなくて大きな水たまりですけど、残り3割の大地でも、それはもう広大な大きさなんですから」
「この月コロニーみたいに?」
「もっともっと広いです。そして自然にあふれています。国によって違いはありますが、春夏秋冬という4つの季節があって、その季節ごとに景色が変わるんです」
「季節?」
「今は12月ですから……冬ですね。北半球……地球の北側はとても寒く、地域によっては雪が降ります。南半球は逆にすごく暖かいです」
知らない単語ばかりが飛び出してくる。
季節? 冬? 雪?
いろいろと聞きたかったけれど、きっと聞いても混乱するだけなのでやめておいた。
でも地球を語るナーシャの表情はとても柔らかく、それらすべてがすごく素敵なもののように感じられた。
「行ってみたいな」
今の今まで考えてもいなかったことを口走る。
するとナーシャは顔を輝かせながら「ぜひお越しくださいな!」と嬉しそうに笑った。
ちょうどその時、ざわざわと大きな騒音が聞こえてきた。
すぐ近く、臨時で流れる壁面モニターからニュースが映し出されたのだ。
『速報です! 地球のナーシャ様一行が姿をお見せになりました! 繰り返します、地球のナーシャ様一行が姿をお見せになりました!』
ほぼ絶叫に近いアナウンサーの声。
そしてモニターには、はにかんだ笑顔を見せる女の子が手を振りながら声援に応えている映像が映し出されている。
「ナーシャ様?」
僕はアナウンサーの言葉に疑問を抱いた。
僕の隣にいるのがナーシャではなかったか。
すると彼女は慌てたように説明した。
「……あ、同性同名なのです。私もナーシャ、彼女もナーシャ」
「へえ。お姫様もナーシャって言うんだ」
「そ、そうなのです。まったくの偶然で……」
モニターに映るお姫様ナーシャはどこか頼りなさげで、周りの付き添いの人たちの顔色をうかがいながらたどたどしく手を振っていた。
「にしても、なんかお姫様っぽくないね」
「だってしょうがないでしょう? あの子、人前に立つの苦手なんだから」
「あの子?」
「……あ、いえ! 姫様です、姫様!」
侍女でありながら裏では自分の姫様をあの子呼ばわりか。
なかなかどうして腹黒い。
僕は思わず「ぷっ」と笑った。
「おかしいですか?」
「いや、君も人の子なんだなーって思って……」
「わ、忘れてください! それよりも今はあしあとです、あしあと! はやくアームストロング船長のあしあとまで案内してください!」
途端に命令口調になる侍女ナーシャ。
彼女の方がお姫様っぽい感じがするのは気のせいだろうか。
「はいはい」
僕は肩をすくめてコロニーの中心地へと向かって歩き出した。
※
「わあ! これがアームストロング船長のあしあとですかッ!?」
コロニー公園の中心部、小さな柵で囲まれたその中に目的のあしあとがあった。
風化されないように蝋で固められ、さらには何重にも強化ガラスが施されて触れないようになっている。
そしてその脇には
『人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』
という名言が石碑として刻まれている。
「これが夢にまで見たあしあと……」
うっとりと地面を眺める彼女の横顔は、どこか乙女チックだった。
このアームストロング船長のあしあとに関しては僕ら月の民にとっては触れてはならない神聖なものではあるが、彼女のそれはもっとそれ以上に感じられた。
「そんなに見たかったの?」
「もちろんです! 地球に住んでる人なら誰もが見たがる聖なるあしあとです! こんなに間近で見れてすごく興奮してます!」
ナーシャはあまりの興奮ぶりに顔を真っ赤に染めてハアハア言っていた。
端から見たらヤバい人だ。
「どうしましょう! 興奮しすぎて卒倒しそうです!」
「それだけはやめて!?」
こんなところで倒れられたらどうしようもない。
僕はナーシャの背中をさすりながら息切れが収まるのを待った。
「あ、ありがとうございます……」
「大丈夫?」
「はい、おかげさまで」
と言いつつ、まだほんのり頬が赤い。
よほど見たかったんだろう。
ナーシャは深く深呼吸して、語り出した。
「私、昔から宇宙にすごく興味がありました。小さいころは宇宙飛行士になりたいって毎日言っていたらしいです」
「宇宙飛行士……」
僕ら月の民にとっては馴染みのない職業だ。
「宇宙について少しでも知りたくて、いろんな文献を読み漁りました。もちろん大昔の映画も」
「映画?」
「太古の人々による平面映像で作られた物語です」
ナーシャは映画というものについても詳しく教えてくれた。
細かい部分はよくはわからなかったが、要するに昔の人々の娯楽だったらしい。
そして過去の人々の暮らしを調べるには欠かせない資料でもあるそうだ。
「そこにはアームストロング船長が初めて月に行った時のものもありました」
「え!?」
僕はびっくりして声をあげた。
話でしか聞いたことがないアームストロング船長の勇姿が映像として残っているなんて。
このコロニーにあったら、間違いなく国宝級だろう。
「その映像を見た時から、どうしても一目見たいと思っていたのです」
「ちょっと待って。それ、お姫様の話? それとも君自身の話?」
「……あ。も、もちろん姫様の話です! 私は代理ですので!」
この興奮ぶりといい、語る内容といい、どう見てもこの人自身の願望のように感じるんだけど。
「今こうして直接見ることができて幸せです」
「よかったね」
「あ、あの……不躾ながら、お願いがあるんですけど……」
「なに?」
「……写真、撮ってもらえませんか?」
恥ずかしそうに懐から一台のカメラを取り出した。
「ゴツイ……」
めちゃくちゃゴツくて大きなカメラだった。
どう見ても素人が持つようなものではない。
彼女の本気度合いがうかがえる。
僕はカメラを受け取ると、少し離れた場所からカメラを構えた。
嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべるナーシャとともにアームストロング船長のあしあとをカメラのレンズ越しに眺める。
ヒラヒラの絹のドレスに身を包んだ女の子と、アームストロング船長のあしあと。
見事なまでのアンバランス差が、逆に味わいのあるものに感じられた。
「じゃ、撮るよ」
「はい!」
パシャパシャッと何枚か撮った後、カメラを渡す。
ナーシャはすぐに撮った画像を確認して「わあ!」と声をあげた。
「ありがとうございます! 一生の宝物にします!」
大げさだな、と思いつつも本当に嬉しそうにうっとりと映像を見つめるナーシャに、なんだか僕も嬉しくなってしまった。
その後、僕はナーシャをいろんなところに連れて行き、彼女はその一つ一つに感嘆していた。
始めはちょっとめんどくさいと思っていたけれど、僕の言葉にいちいち感動する彼女の反応が楽しくて、気が付けばあっという間に18時をまわっていた。
「あ、もう行かないと……」
時計を確認してナーシャが声をあげる。
「ごめん、時間のことなんか考えずにいろんなところに連れまわしちゃったね」
「いいえ! いいえ! すごく楽しかったです! あなたが案内人でよかったです!」
それはお世辞でもなんでもなく、本心から言っているようだった。
「ナーシャ。月にはどれくらい滞在するの?」
「二日間です」
「じゃあ、明日帰っちゃうんだ……」
「そうですね」
「もっとゆっくりしていけばいいのに。せっかく来たんだから」
「そうしたいのは山々なのですが、地球でのスケジュールもびっしり詰まっていて……」
「大変だね。その上お姫様のお世話もしなきゃならないんでしょ?」
「そ、そうですね……」
ちょっと困った顔を見せるナーシャを訝しく思いながらも、僕は父さんに連絡をとって入港ゲートまで送って行った。
※
「姫様!」
入港ゲート管理者用通路に着くと、そこにはスーツ姿の人たちが整然と並んでいた。
よく見れば、コロニーのお偉方たちの面々だ。もちろん、父さんもいる。
そしてその脇には昼間、天文公園のモニターに映し出されていたお姫様ナーシャもいた。
あまりの威圧感にぎょっとして立ち止まる。
僕、何か悪いことでもしたのだろうか……。
……っていうか、姫様って誰?
固まっている僕を無視してコロニーのお偉いさんが隣にいるナーシャに声をかける。
「姫様、月の街はいかがでございましたか?」
「想像以上に素敵な街でした。防災対策も行き届いていて、街の美化にも全力を尽くしている、そんな印象でした。とても素晴らしかったです」
とても誇らしげに、そして優しい笑みでうなずくお偉いさん。
「それとこちらのゼクト様の案内もとてもわかりやすくて、楽しめました。この街のありとあらゆることを教えていただきましたわ」
ナーシャの言葉に父さんが目の前で「やったな!」という意味のウインクをしてみせた。
「姫様!」
すると今度はモニターに映っていたお姫様ナーシャが駆け寄ってきて、侍女ナーシャの手を取った。
「ご無事でなによりでございます!」
「アイナ……。あなたには無理難題を押し付けて悪かったわ」
「いいえ! いいえ! ナーシャ様が昔からずっとアームストロング船長のあしあとに興味を持っていらっしゃったことを知っていましたから! こうして姫様のお役に立てて嬉しいです!」
「ありがとう、アイナ」
僕は何が何やらわからず混乱していると、ナーシャは僕に向き直って深々と頭を下げた。
「ゼクト様、ずっと騙していて申し訳ございません。地球からの姫は実は私の方なのです。こちらは侍女のアイナ。私に変わって地球の姫を演じてくださいました」
「ひ、姫……? ナーシャの方が……?」
「身分を明かすと情報が漏れてかえって危ないというのと、ゼクト様には自然な感じで案内をしていただきたかったのです」
アイナと紹介された女の子も、僕に向かって頭を下げる。
「姫様のこと、本当にありがとうございました!」
もう何が何やらわけがわからない。
首だけを父さんに向けると、ペロッと舌を出してとぼけられた。
は、謀ったな父さん……!
「ゼクト様」
「は、はい……!?」
ナーシャは僕の手を取ると眩しいほどの笑顔を向けた。
「この度は本当にありがとうございました。あなたのおかげで念願のアームストロング船長のあしあとを見ることができました」
「あ、いや、僕は特に何も……」
「しかも青く輝く地球も見せてくださって、本当に感謝の意に堪えません」
これ、どうすればいいの?
お姫様とわかった瞬間、緊張して声が出なくなってしまった。
いや、それよりも、がっつり手を握られているのが気になってしょうがない。
チラッと握られた手に視線を移すとナーシャは「あっ」と声をあげながら手を放した。
「さ、先に握ってきたのはあなたの方ですから……」
「先に?」
「と、とにかく! ゼクト様にはとても感謝しています!」
さっきまで普通にしゃべっていたからだろうか。
頬を赤く染めながら感謝しているのか怒っているのかわからない口調でしゃべるナーシャが、なんだか愛らしく感じられた。
「それから……」
「はい?」
「ゼクト様、おっしゃいましたよね? 地球に行ってみたいと」
「あ、ああ、うん」
天文公園での会話を出されて気恥ずかしくなる。
「その時は遠慮なくわたくしにお申し付けください。全力でご案内いたします」
「ナーシャが?」
「はい、わたくしが」
「じゃあその時はぜひ」
「はい」
「できればお姫様という立場じゃないほうがありがたいんだけど」
一瞬きょとんとされるも、すぐにナーシャは「ああ、なるほど」と察してくれた。
「こんなに大勢の人たちに囲まれながらでは気が休まりませんものね」
「うん」
「……じゃあその時は二人きりで」
優しくそっとささやく彼女に僕は笑いながらうなずいた。
『人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』
アームストロング船長のこの言葉は、地球のお姫様と約束を交わした今の僕にぴったりな言葉だと思った。
後に二人は地球の代表と月の代表として深い関係で結ばれるのですが、それはまた別のお話。
お読みいただき、ありがとうございました。