プロローグ 近江の麒麟児
※この作品はフィクションです。
登場する人物名 地名 団体名 等は実在する物とは一切関係ありません。
その場所は、これまでの彼らが知っている物では理解できない場所だった。
靄のような煙があたりに立ち込め窓はおろか穴すら開いておらず、殆ど光は入り込んで来ない。にも関わらず目の前に何があるか分かる程度の明るさはあり、それが余計に不気味に感じさせる。
(……どうして…なんで…こうなった……?)
その中を、壁に体を引き摺らせながら進む一つの影。
南蛮渡来の白銀鎧を模した濃紺の甲冑を着込んだ一人の若者が、兜を外しながらうずくまった。
「……父上……爺様……皆何処に…」
疲労困憊している様子の若者の身体には、時間の経過によって黒ずんだ血液がびっしりとこびり付き、甲冑の隙間からは彼自身の物と思われる赤い血も大量に流れ出ていた。
「冬!……冬!…返事をしてくれ!!」
もう一度壁に体を預けながら立ち上がり、若者は大声で叫んだ。
しかし、返ってくる声は無い。
「……くそ…俺が……浅はかだったのか…?」
カラン、と音を立て彼が握っていた一振りの刀が床に転げ落ちた。
それに続くように、若者も床に手を付く。
「信長様……命を無駄にし…冬を護る事もできず……申し訳ありません……」
そうボソリと呟いた彼は、徐々に薄れていく意識の中で、そのまま倒れこむように横たわった。
「……おい!ここに一人倒れてるぞ!…」
「ひどい怪我ですね…急いで砦へ!」
「早くしろ!一人も死なせんな!!」
その叫び声は、気を失っていた彼の耳には届いていない。
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室町後期……第十五代将軍義昭の時
麒麟児の異名を取り、織田家の若き将達を牽引する存在として大いに期待されていた一人の若武者が、家臣と織田家当主の愛娘に加え、居城とその付近の村落ごと唐突に姿を消した。
娘婿と言う立場にありながら織田に反旗を翻したのだと、人々は口々に噂し、大いに疑問に感じたが、誰あろう当主織田信長だけはそれを信じなかったと言う。
信長の傍に仕えた側近が書き残した書物に、その時の信長の言葉が残っている。
曰く「あやつはあやつに相応しき場所へと行ったのだろう」「案ずる事は無い、戻ってくることは無くともあやつは信長の義息子ぞ。娘の事も、その他の事も、何もかも、あやつであれば託せる」
この言葉の真意は現在に至るまで分かっておらず、専門家や武将ファンの論議の的となっている。
今後この真相について解明されるかどうかは不明であるが、この記述を最後に渦中の『「麒麟児」蒲生氏郷』の記述はどの資料にも一切登場しないのは非常に興味深いものである。
南近江私立大学
姉川 長知 教授
ご覧頂き、ありがとうございました。
当然ではありますが、大学、教授、歴史書物等は全て架空のものです。
次回もよろしければご覧ください。