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「それじゃ、ドボロ」
悲しげに眉を八の字に曲げて、リリはドボロに呼びかける。全てを受け入れるような、満足げな笑顔で、「ンだ」とドボロは笑った。
ネーデルラント城、謁見室の外に広がる、芝生のそよぐ中庭。月明かりに照らされる草原の上で、リリとドボロは向かい合って立っていた。静かな風が、二人の間を吹き抜けていく。リリの葡萄色のケープと、ドボロの緋色のマントが、それに呼応するように、ふわりと翻る。
「――さよならだね」
声が震えようとするのを、リリは必死で堪えた。伏せた目を、リリはドボロへと向けることが出来なかった。その屈託のない笑顔を見てしまえば、きっと堪え続けてきた何かが、壊れてしまうようで。
「違うだ、リリ」と、ドボロは言う。
「こういう時、またねって言うだよ。約束、覚えてくれてるだか?」
俯いたまま、リリは静かに、一度だけ頷いた。
「……うん」
約束を守れないのは自分のほうなのだと、ドボロはきっと分かっていない。彼は本当に、記憶を残したまま再生出来るのだと信じている。いや、信じているのではなく、彼は疑っていないだけなのだ。愛してやまないリリのことを、自分が忘れられる筈がないのだ、と。
ドボロの肉体が、その足先から、山吹色に輝く光の粒子となって消えていく。粒子は煌めきと共に舞い上がり、次々と風の中に飲み込まれていった。彼の肉体はこのアシリアを巡る、フォルスの流れへと還るのだ。
表情豊かなドボロの、その表情の数々が、リリの脳裏を走馬灯のように駆け巡った。別れが目前まで迫っているというのに、涙を堪えるのに必死で、リリには何を言うことも出来なかった。それでも呻き声と共に、堪え切れない涙が幾らか、足元の地へと落ちていく。右手に掴んだドボロのマントの裾を、ギュッと握り締めてしまうと、リリにはもう、それを我慢することが出来なくなった。辛抱を失ったリリの目からは、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
「リリ」とドボロは呼びかける。
「デロス島で、怒ったりしてごめんだ。オデも本当は、リリと離れたくなかった」
知っている。それでも君が、そうせざるを得なかったことも。僕と同じように、君が苦しんでいたことも。
「リリと一緒にいられて、一緒に旅が出来て、オデ、すごく楽しかっただよ」
知っている。辛いことも苦しいことも沢山あったけど、僕が思い出す君は、いつだって楽しそうだった。
「色んなとこ行っただな。色んなもの見ただな。リリと一緒にしたこと、見てきたもの。全部オデの、大切な宝物だ」
知っている。僕だってそうだ。でもね、ドボロ――。
「リリ。オデ、リリと出会えて、本当に良かった。だから……、本当は今、すごくつらい」
ドボロの声が、涙に震え出す。ドボロの身体は既に、胸の辺りまで消えかかっている。リリが右手に掴んでいたマントも、もうそこにはなかった。
「――ねえ、ドボロ」
『何が一番大切なことなのか、もう一度よく考えるといい』って、君はデロス島で、僕に言ったよね。僕は今日まで、ずっとその答えを考えていた。自分にとって一番大切なことが、本当は何なのかってこと。
あの時ドボロが、僕に伝えようとしていたことはよく分かる。僕もドボロもみんなも、生きているから喜べるし、生きているから悲しむ。命は何物にも代えられない、ということだ。ドボロを失うか、ドボロを含めた全てを失うかを迫られた時、大局的に見て、勿論選ぶべきは前者だ。いずれにしても、僕はドボロと別れなければならないし、結果的に前者の先の世界でなら、――記憶を失っているかどうかは兎角として――僕はドボロと、もう一度出会うことが出来るのだから。でも、それはやっぱり綺麗事なんじゃないかって、僕は思う。
何が一番大切か、という問いに対して、生まれる答えは一つではない。だから答えに行き着くまでの過程だって、そこには何通りも用意されているべきだ。僕は弱いし、卑怯だから、最後になる今日まで考えてみても、こんな答えにしか辿り着かなかったよ。でも僕はこの答えを、今の自分にとって、一番大切なことなのだと、胸を張って言える。
「僕も」とリリは涙を拭いて、ドボロの顔を仰ぐと、ニッコリと笑って言った。
「君に出会えて、本当に良かった。約束は守るし、君のこと、僕はずっと待ってる。だからドボロも、僕のこと忘れたりしないでよね」
僕は前者の世界を選んだ。でも僕にとって一番大切なことは、ジークを倒したことじゃない。この世界を守り抜いたことでもない。共に旅した、掛け替えのない相棒の――ドボロの旅立ちを、ここから笑顔で送り出すことだ。
ギョロリとした黒い瞳を持つ目を丸くして、君はキョトンとした。数秒間そうしてから、君は横長の口を、縫い合わせるようにピッタリと閉じて、満足そうにニンマリと笑った。その頬を、一筋の涙が伝った。
「ンだ!」
その笑顔を見た途端、リリはどうしようもなく、切なく、また遣る瀬無くなった。表情には笑みを保ちながらも、その両の目からは大粒の涙が、再び止めどなく流れ出す。それを余所目にドボロの頭部は、その速度を緩めることはなく、無慈悲に消滅を続けた。
「ドボロ、大好きだよ。本当にありがとう。それから――」
風に乗って飛んでいく、ドボロだったものを、リリは縋るように、両の手でかき集めた。が、その指の間をすり抜けて、彼は空へと消えていく。
星空へと溶けてなくなる、光の粒子の最後の一群れを見送ると、涙に擦れるか細い声で、リリは言った。
「――またね」
その場に膝を突き、地を殴り、心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、リリは激しく泣いた。泣けども泣けども、その空白が埋まることはなかった。
謁見室に辿り着き、砕け散ったステンドグラスの向こう側に、泣き伏すリリの姿を見つけた仲間たちは、彼が泣き止むのを、何も言わずに待った。一時間弱泣いて、漸く泣き止んだリリに、シンが手を差し伸べた。
「……帰ろう、リリ」
アシリア歴二〇四九年、四の月三の日。リリたちの戦いは終わった。ドボロの犠牲という、大きすぎる代償と共に。




