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出会った時からずっと、シンに憧れて、僕はその背中を追ってきた。シンは何でも出来たし、何でも知っていたから。でも、それを口にはしたくなかった。勝ち負けがあるわけでもないのに、言葉にすれば負けな気がしていたんだ。
少しでもその背中に近付きたくて、知識や勉強では敵わないと分かっていたから、戦いの場でならと思って、僕は稽古にのめり込んだ。魔物との戦闘中にも、出来る限りシンの動きに目を向けて、そのスキルを盗んできたつもりだ。何十何百という、寝る間も惜しんでのドボロとの稽古が功を為して、僕にとってのシンは、彼方に霞む憧れから、少しずつ手の届きそうな存在になっていった。君は僕の目標だった。そしていつからか、僕はそんな君を、ライバルとして認識するようになっていった。それも、口にしたことはなかったけど。
そうなってからは、尚更に君の才能を妬んだ。修行の成果もあって、僕は戦闘中には、君に近付けている、追い越せるかも知れない、と思える場面も、少しずつだけど出て来ていた。でもやっぱり、精霊やアーツ、歴史や地理なんかの、知識と学が必要とされる話になると、君はどうしたって、遥かに僕の上を行ってのけた。そういう時、僕は顔には出さなかったし、勿論感心もしていたけど、内心どうしようもなく悔しかった。だから一層、戦いだけは負けたくないという気持ちが強くなった。僅かな隙間時間でも、寄せて集めて修行に当てた。イメージトレーニングでは完璧だったんだよ。君を倒すまでの段取りを、完璧に思い描くことが出来ていた。なのに――。
「これで終わりか? へっぽこ。口ほどにもないな」
仰向けに地に倒したリリの首に、柳葉刀の刃先を向けながら、シンは言った。二人が戦い始めて、三十分ほどが経過していた。二人は共に、息を切らし始めている。
戦いは初め、ほぼ互角に始まった。が、やはりというべきか、リリの僅かな隙を突くことを繰り返す形で、戦況は少しずつシンの優勢に傾いていった。ドボロとの別れへの悲しみに、初めは何となくぼうっとしており、五分の力も出せなかったリリだったが、戦いの中で少しずつ目を覚ましたリリの意識は、今や完全に覚醒し、その全てが、シンとこの戦いへと向けられていた。それでもここまで追い詰められざるを得なかったことが、リリにはどうにも悔しく、受け入れ難かった。
「――まだだッ!」
シンの一瞬の隙を突き、リリは身体を捻らせながら、自身に跨るシンの腹部に、強烈な蹴りを入れた。シンが仰け反ったその隙に、リリは地を転がってシンから距離を取りつつ、再び立ち上がる。よろめきながらも、立ち上がったリリを見据えたシンは、それを睨み付けるように、然し何処か嬉しそうにして、その表情を歪ませた。
「そうこなくちゃな」
「まだまだこれから!」
言いながら、リリはシンへと駆け出しつつ、短剣を一旦鞘へとしまった。助走で勢いを付けた右ストレートを、リリはシンへと打ち放つ。シンはそれを左手で受け止めるも、リリは間髪を入れずに、今度は左の拳でボディブローを放たんとしている。左手に掴んだリリの右手を、時計回りに捻りながら、シンは柳葉刀を納刀しつつ、舞うようなステップでリリの後方へと回った。リリの背中側から、シンはリリの身体を締めようとしたのだ。が、リリはシンに捻られた、その勢いに身を任せて跳び上がり、その場で宙返りをして、シンの背中に強烈な踵落としを放った。寸前でそれを見切ったシンは身を屈め、後方から振り下ろされるリリの左脚の脹脛を、左の肩で受け止めると、そのまま両の手でリリの脚を掴み、勢いを付けて前方の砂浜へと叩き付けた。受け身を取ることが叶ったリリは、転がりつつも立ち上がり、向かってくるシンに対して構えを取った。シンの左右の拳による連続の打擲の、その全てをリリは両手で受け流す。シンの悪い癖で、彼が五発目の打擲の後には、決まって左足による回し蹴りを放つことを覚えていたリリは、鏡合わせのように同様に、左足で回し蹴りを放ってこれを受け止めた。リリの反応に驚いたシンに生まれた一瞬の隙に、リリはすかさずに右の拳によるボディブローを打ち込む。唸り声を上げながら、シンは大きく仰け反った。リリはそこへ畳み掛けるように、三発の打擲に続けて、強烈な蹴りを打ち込んだ。後方へと吹き飛びながら、バランスを崩したシンはその場に倒れ込む。すぐさま立ち上がろうとするシンの目には、短剣を右手に跳び上がる、リリの姿が映った。先のシンのように、リリは彼の身体に覆い被さるような形で着地をし、その喉元に、逆手に持った短剣の刃先を突き立てた。ぜえぜえと、二人は息を切らしている。一度唾を飲み込んでから、リリは言った。
「これで終わり? 口ほどにもないね」
リリの挑発に、シンは眉間を顰めて怒りを露わにした。短剣を持つリリの右腕を、シンは右手で掴むと、それを自身の左側へと放るように、ぐるりと捻りながら起き上り、今度は逆に、リリの身体に馬乗りになった。
「舐めるなッ!!」
左の拳で、シンはリリの右頬を殴った。が、リリはそれを左の掌で、すんでのところで受け止める。続いて右の拳を振り上げるシンに対し、短剣で右手が塞がったままだったリリは、勢いを付けた頭突きを放った。鈍痛と共に、二人は視界が揺らぐのを覚えながらも、互いに逃げるようにして、ふらふらと立ち上がって距離を取る。数秒の沈黙を挟んで、二人は再び、互いに向かって駆け出した。
決闘に終わりは見えなかった。始まってから一時間ほどが経過した頃、シンはリリの短剣を、柳葉刀の峰で叩き落としたのだが、リリは負けを認めずに立ち上がった。シンも暗黙で続行を認めたので、二人の戦いは続けられた。
短剣を失ってから十数分後、靴の金属部分を上手く使った蹴りで、リリは見事にシンの柳葉刀を弾き飛ばし、二人の戦いはついに、生身と生身同士のものへと持ち込まれた。初めのうち、組手程度の気持ちと力で争い合っていた二人だったが、気持ちが昂るに連れて、二人の頭から『遠慮』の二文字は消えていき、互いに武器を失ってからは、それは更に顕著になった。日頃の魔物との戦いよりも、更に強い力を込めて、その力よりも、更に強い気持ちを込めて、二人は互いに殴り、蹴り合った。消耗し、憔悴し、避ける力をも失った二人は、泥のように絡み合いながら、最後にはリリが、シンに対してマウントを取る形で、二人の身体は互いに動かなくなった。
水平線の彼方から、白く燃える朝の光が、二人の横顔を照らしている。振り上げた右手に、何の力も入っていないことに気が付いたリリは、ケラケラと笑いながら、それを重力に任せて、シンの胸へと落とした。
「僕の勝ちだ。シン」
二人の顔は青痣と、裂傷に塗れている。口の中には血の味が広がっており、何箇所も切れているのが二人には分かった。身体もところどころに痣や傷があるようだし、呼吸をするだけで二人の身体中には、電撃のような激痛が走った。
細い目を更に細めて、睨み付けるように、然し真っ直ぐにリリの目を見つめると、いつになく優しい口調で、そして仕方のなさそうに、シンは言った。
「分かったよ、リリ。……俺の負けだ」
ニヤリ、と口角を上げて微笑むと、リリは「やった、シンに勝った」と覇気のない声で言ってから、微かに乾いた笑いを上げて、溜め息を吐き出しながら、シンの右隣に仰向けに倒れた。暫しの沈黙を挟んでから、リリは再び、静かに口を開いた。「僕はさ」
リリが咳き込むと、「大丈夫か?」とシンは聞いた。「ん、ごめん」と答えてから、リリは続ける。
「シンみたいになりたかったんだ。シンは何でも出来たし、何でも知っていたから」
東から、徐々に白んでいく空を見つめながら、シンはまた、数秒間沈黙した。デロス島は、今日も快晴だった。
シンの無言を不審に思って、リリが彼のほうに顔を向けると、シンは空を向いたまま、一筋の涙を溢していた。それを隠すように、シンはすぐに向こうを向いてしまったし、それが何を意味する涙なのかは、リリには分からなかった。
「俺もだ」とシンは言った。
「え?」
「俺も、お前みたいになりたかった。お前はいつも自分を省みなかったし、誰からも愛されていたからな」
それからまた、リリはシンに向けていた顔を空へと向け直すと、暫く黙考してから、嘲るようにクスクスと笑った。
「何がおかしい?」
苛付きを露わにした口調でそう言って、リリを振り返ったシンの頬からは、もう涙は消えていた。瞳だけを動かしてシンのほうを見ると、リリは答える。「僕たち、変なとこだけ似てるなって思って」
「ああ」と、シンも今一度、空へと顔を向けると、「そうだな」と彼は言った。また幾らかの沈黙の後で、「なあ、リリ」とシンは言った。
「うん?」
シンは口ごもったが、リリは何も言わずに、彼が喋り出すのを待った。十数秒を置いて、シンは漸く口を開いた。
「……ドボロのこと、分かってやれよ」
リリはそれには答えなかった。シンは続ける。
「もう俺たちには、他に手立てはない。例えあったとしても、今のところは見つかっていないし、残念ながら探しに行く時間も、今の俺たちには残されていない」
「……うん」
「でも俺たちは、この方法をお前とドボロに強要することは出来ないし、したいとも、俺は思わない。他の皆もそうだと思う」
「うん」
「ここまで一緒にやってきたドボロと別れるのは、俺だって辛い。信頼し合ってるお前とドボロが別れるのだって、見たくないし、嫌だ。でもこんな痛みは、きっとお前たち二人に比べたら、ちっぽけなものなんだろうと、俺は思うよ」
「……」
所は移り、大通りに面した宿屋の一室。部屋の中では、ひとしきり泣いて落ち着いたドボロを、同じく泣き通したルチカが、静かに窘めていた。
「世界を守る為に犠牲になろうとするのは、立派なことだよ。誰にでも出来ることじゃないし、その為に、躊躇うリリを引っ張ってあげるのも、間違いではないと思う」
ルチカの言葉に、ドボロは静かに頷いた。「……ンだ」
ルチカはラメールの隣に、ドボロは二人と向かい合う形で、もう一方のベッドに腰掛けている。
「でもね、大きな決断には、それと同じだけ大きな痛みが伴うものなの。元より確実な方法なわけではないし、成功しても失敗しても、リリはドボロを失うことになる」
「ンだ」
「皆、ドボロのことが大好きなんだよ。アタシだってそう。仲間だもの。でもね、リリだけは違う。ドボロもそうでしょ? アタシたちのこともリリのことも、ドボロは大好きでいてくれてるだろうけど、リリだけはいつだって、特別な筈だよ」
「……」
自身の心中にピタリと当て嵌まるルチカの言葉に、ドボロは心が動かされるのを感じた。確かに、自分は皆のことを、等しく大切に、どうしようもなく愛しく思っているが、その心の真ん中、最も深い位置にある特等席には、いつもリリが座っていた、と。
藤色の朝焼けに、空が燃えていく。砂浜に寝転がったリリとシンの身体は、溶け出すようにそれに染められていく。
「無責任なことを言うようだが、この痛みは、お前とドボロの二人でしか背負えないものだ。他の誰にも背負いようがないし、二人のどちらかでも欠ければ、背負い切れるものじゃない」
窓の外から、朝の光が差し込んでくる。少しずつ明るい表情へと変わっていくドボロの、その黒い瞳を真っ直ぐに見つめて、ルチカは言った。
「冷たい言い方になっちゃうけど、お互いの、その特別な気持ちに応えられるのは、リリとドボロだけなんだよ。だから辛くても怖くても、ドボロはリリの苦悩から、目を背けたらダメ」
シンにもルチカにも、勿論発言は躊躇われた。然し、二人にはそれを耐え抜く必要があったし、その為の決心があった。
「一人で塞ぎ込んでたって、何の意味もない」
「一人で抱え込めるものじゃ、初めからないんだから」
それはジークを倒す為でも、世界を守る為でもない。
「お前たち二人で――」「リリとドボロ二人が――」
自分たちよりも遥かに強い痛みを、目の前で感じている仲間が、そこにはいたからである。
「――考えて、乗り越えなくちゃいけないんだよ」
リリは遠い空を見つめたまま、ドボロはルチカの瞳を見つめ返して、二人はその言葉に、強く頷き返した。一つずつの小さな決意だけが、その瞳には宿り、密やかに、然し強かに燃えていた。
「……――うん」「……――ンだ」




