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バーグニクス到着から、凡そ一週間後。
四日前に、入山規制の解除されたラトモス山へと足を踏み入れたリリたちは今、山頂と目と鼻の先まで迫りつつあった。ここまでに吹雪に遭うことはなかったが、ほぼ常時、雪は降り続いていたし、慣れない雪道の移動に、リリたちは苦戦を強いられていた。また、雪山の過酷な環境に生息する魔物は非常に強力で、足場の悪さも相まって、ここでの戦闘は決して楽なものではなかった。一行は毎夜、ドボロの作った岩窟の中で、ヘルズの火で十分な暖を取って過ごした。それでもやはり、ここに辿り着くまでにリリやルチカの体力は、厳しいところまで到達してしまっていた。
「一旦山を下りて、登る時期を見たほうがいいかも知れないな」
昨晩、焚き火の光に顔を赤く染めながら、バーンズはそう言った。が、リリとルチカがそれを制止した。リリたちに残された時間は、そう多くはなかったからだ。
「――うおわっ!」
焦りを露わにするリリの声が、山間に木霊して響いた。人一人が通るのがやっとな断崖の淵を、一行が慎重になって進んでいた時のことだ。雪に足を滑らせたリリの身体は、足元の雪を崩しながらバランスを崩し、危うく崖下へと落ちていくところであった。一同が肝を冷やしたその刹那、すぐ後ろを歩いていたドボロが、すんでのところでリリの腕を掴み、それを元の地点へと引き上げた。
「ごめんごめん、うっかりしてた。ありがとう」
「怪我してないだか? 気を付けるだよ」
「うん」とリリがドボロの顔を仰ぎ見ると、彼は芥子色の鼻の穴から、垂れ出た鼻水を氷柱のように凍らせていた。
「ドボロ、鼻水凍ってる」
それを指差して、リリは笑った。ドボロは鼻の下を触って確かめてから、恥ずかしそうな笑みを浮かべる。「こんなに寒かったら、鼻水も凍っちまうだ」
鼻水が凍り付いていたからという理由で、命の危機を一瞬で忘れ去るリリを見兼ねたルチカが、ドボロの後方から声を張って言った。
「もーリリってば! 気を付けてよね~」
「もう大丈夫! ごめんって!」
「……ホントに悪いと思ってるのかしら」
小さな口から微かに零れたルチカのぼやきは、風の中へと消えて、リリの耳まで届くことはなかった。届けようとして言ったわけではなかったので、ルチカにはそれでも構わなかったのだが。
それから間もなくして、リリたちは漸く、ラトモス山の山頂へと辿り着いた。見渡す限りの絶景に、リリは括目すると共に、言葉を失った。古の時代からバーグニクスの人々によって、この場所は〝神域〟と呼ばれているのだと、リリはマートンに教えてもらったことを思い出し、その言葉の意味を理解した。リリたちの眼前には、何処までも見果てぬ美しい雲海が広がっていた。その壮麗さたるや、まさに神の領域――人間としてここに立ち入ったことに、居たたまれなくなるようなものであった。
「す、すごい……」
『神々の山麓・ヒュペルボレイオス』。季節を問わずに雪を積もらせる、この截然たる山脈の頂点であるラトモス山。そしてそのまさに頂点たる山頂――アシリアで最も天に近い場所に、リリたちはいた。その身には、バーグニクスの村でマートンらから借り受けた、ラトモス牛の毛皮を使ったコートを、彼らは纏っている。そして、リリたちがその安否を危惧していた、彼らがここに赴いた目的でもある一本の大樹は、山頂の凡そ中心地点のそこに、巍然として聳えていた。この零下の世界に於いても、豊かに緑の広葉を茂らせるその神樹の名は――。
「ローレルの樹……。本当にあったんだ」
恐る恐る、リリはゆっくりとその大樹へと歩み寄った。幹回りは信じられないほどに太く、逞しい。ジークがここを訪れた時には、まだ今よりはほっそりとしていたのだろうか、と、リリは千年前のこの場所に思いを馳せてみた。樹の真下からそれを見上げると、その枝葉の隙間からは、赤く小さな実りが、幾つも確認出来た。
(……ローレルの実、これでアポロンを……)
ドボロが隆起させた地面を踏み台にして、リリはローレルの樹から、その木の実を三つほどもぎ取った。こうしてリリたちの手元には、アポロンを目覚めさせる為の役者が揃う形となった。
贄となる者の血、四大精霊による祈り、精霊の歌、そしてローレルの実。ミドの話が真実であるならば、デロス島の祭壇でこれらを捧げることによって、アポロンは姿を現す筈である。リリはもぎ取ったローレルの実を失くしてしまわぬよう、右の手の中でしっかりと握り締めた。一行の次なる目的地は、アンモス海の中心に浮かぶ常夏のリゾート地――デロス島だ。




