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川沿いを更に進むこと六日、リリたちはヒュペルボレイオス山脈の裾野に佇む、小さな村へと到着した。リリたちが到着した時、辺りには粉雪が、微かに風に舞っていた。銀白の雪景色に霞むのは、『白雪の山村・バーグニクス』だ。
ヒマロス大陸の凡そ中心部から北側は、アシリア全体でも類を見ない、特に寒冷な地方であり、一年を通して雪が降る。それはこのバーグニクスも同様であり、リリたちはリヴィールで或る程度の備えはしてきたものの、ここに到着するまでに、もっと暖かい衣類を用意しておくべきだった、と度々後悔した。
浅く雪の降り積もるバーグニクスの村には、雪景色によく似合うログハウスが十数棟、立ち並んでいた。雪の白に染まる山脈を背景に、なだらかな斜面にぽつりぽつりと並ぶ家々から、赤い火の光が漏れ出すその光景は、まるで御伽噺の中にでも入り込んでしまったかのような感覚を、リリに齎した。
飼育小屋か何かだろうか、一際大きなログハウスの中からは、牛のものと思しき鳴き声が聞こえてくる。脇を通りかかった際に、リリは小窓からその中を覗き込んでみた。白く長い体毛を全身に纏い、湾曲した立派な角を持つ牛の姿が、そこにはあった。ミドの話にも登場したラトモス牛だろう、とリリは思った。その存在を、リリは誰かに知らせたかったが、身体は口を開くのも躊躇われるほどに悴み切っていたので、リリはそれを諦めた。
「やあ、お客さんとは珍しい」
リリたちはこの晩、バーグニクスの村長・マートンの家の世話になった。暖炉に焼べられた火に、ログハウスの中は温まっており、一行はここまでの道のりに冷え切った身体を、漸く休めることが叶った。
マートンは五十代前半ほどの男で、金の髪と緑の瞳、鼻の下には程良く蓄えられた髭を持っていた。この家には彼の他に、愛想がよく料理の上手い彼の妻と、小さな二人の子供がいた。アーツのいないバーグニクスで生まれ育ったこの姉弟に、ドボロは大層気に入られ、寝る前までには良い遊び相手となった。
広々としたリビングで、暖炉を囲うような形に並べられた低いソファに腰を下ろし、リリたちはマートンと語り合った。話を聞いてみると、現在ヒュペルボレイオス山脈、並びにラトモス山には、吹雪の為に入山規制が行われており、翌日には山に入ろうと考えていたリリたちは、ここで足止めを食うことになった。入山規制自体は村長であるマートンによるものなので、『どうしてもというのなら止めはしない』、とした上で、『それが大事な用事であるならばそうであるほど、急がないほうがいい』、と彼は言った。山に慣れたこの村の人間すら、時には山の上で命を落とすこともあるのだという。入山規制は基本的には、数日のうちに解除するつもりだと、マートンは教えてくれた。
「……すごいところまで来ちゃったよね」
その晩、四つのベッドが並ぶ客間の、そのうち一つに寝転がって、サイドテーブルのランプに火を灯したリリは、誰に向けてともなく、ふと言った。隣のベッドから、ルチカが答える。「まあ、四月に納物祭の為に、コントゥリを旅立ったことを考えればね。あれからもう九ヶ月よ。こんな長旅になるなんて思わなかった」
いつの間にか年は明けていたし、秋生まれのリリが誕生日を迎えていたことに気が付いたのは、つい最近になってのことだった。随分と無我夢中で走ってきたものだな、とリリは実感していた。
「もうすぐ帰れるさ。ローレルの実を手に入れて、デロス島でアポロンと契約をすれば、あとはジークたちを倒すだけだ」
バーンズの言葉には、「そう上手くいけばいいがな」とシンが返した。皮肉のようにも聞こえたが、それはまた事実でもあると、リリには思えた。
マートン曰く、確かにラトモス山の頂には大樹が立ってはいるらしいが、それを最後に確認したのは彼の曽祖父の代なのだとか。彼も話を聞くのみで、実際にそれを目にしたことはなく、話の真偽は不明だし、仮に大樹があったとしても、それが今も無事かどうか、ということは、行ってみなければ分からないという。特別な用事がなければ、村の人々は山に入ることはないし、勿論、山頂まで赴かなければいけないような用事というのは、基本的にないのだと、マートンは冗談交じりに言った。
ローレルの実を無事に手に入れたとしても、リリたちの行く手には、その時になってみないとどっちに転ぶのかが分からない壁が、幾つも存在した。アポロンを招来出来るのかどうか、アポロンが契約を結んでくれるのかどうか、リリの身体には本当に、宙のフォルスが宿っているのかどうか、宿っていたとして、リリがその力を使いこなすことが出来るのかどうか、そして、それでジークを倒すことが出来るのかどうか――。アルバティクスを出発する前、これらの問題点を一通り洗い出したリリたちは、現状ジークを倒す為の手段が、他には存在しないであろうことを踏まえ、吟味の上で、『実際に壁にぶつかるまでは、立ち止まらずに進み続ける』ということで、方向性を統一した。
それにしても、とリリは思う。
自分たちとジークの関係――延いては自分とジークの関係を、ジークは『宿命』と呼んでいたが、あれはあながち間違いではない。初めに聞いた時こそ、リリはその意味を理解出来てはいなかったが、ミドの話を聞いた今、その『宿命』という語は、成程言い得て妙であると、リリには感じられるようになっていた。ミドの話の中で明らかになったことを、リリは眠りに就くまでの間、一通り頭に思い浮かべてみることにした。
当時の最大国・クアセルス王国に於いて、ジークが王子として生まれていたこと。これはリリの推察通りではあったが、リリーシアなる人物――バルドリリーシアという名前であったことも明らかになった――は自分の祖先であり、そしてドボロの先代使役者でもあったということ。同時に彼はジークの弟でもあり、驚くべきことに、現代に於いても名を残す世紀の大繁栄『太陽王の時代』に君臨した、まさに太陽王その人物でもあったこと。
アシリアに存在する四種のフォルスの上の次元にあるという、宙のフォルス、刻のフォルスと呼ばれる別格のフォルスと、それらを司る極精霊の存在。ジークが使った白銀の光がその刻のフォルスであり、彼が刻の極精霊・セレーネと契約を結んだ上で、刻のアーツ・リュンヌと共に、それを顕現しているということ。彼の持つその力に対抗する為には、刻のフォルスと対を成す、宙のフォルスが必要になってくるということ。
リリーシアが宙の極精霊・アポロンと契約をした上で、宙のアーツ・ソレイユを使役していたこと。現代にも残る世界最大の教団・バルド教が、彼らを教祖として始まったものであるということ。これまで原理が明らかでなかった、精霊のまじないの仕組み。そして――。
(ジン、ニック、ダグザさん……、みんな無事でいるかな)
リリの故郷であるコントゥリの北に存在する巨大遺跡が、千年前にはクアセルス王国の王都・ネーデルラントであったということ。
ミドによれば、ジークは今も巨大遺跡の地下深くを本拠地にしている、ということだったので、アルバティクス滞在中、リリたちはライラット王に、コントゥリの住人たちを、安全な場所まで避難させてもらえるように申し入れた。コントゥリから城砦都市フルリオまで、住人らが騎士団による護衛の下で移動出来るよう、ライラットは素早く手配をしてくれた。
ネーデルラントの血が、コントゥリには色濃く残されていることから、――ルチカが納物祭で披露もした――コントゥリに古くから伝わるあの歌が、恐らくアポロンとセレーネによって作られた『精霊の歌』で間違いないであろうということも、リリは推察していた。自身の血統についても、リリーシアには子供もいたというから、それが何者かによってネーデルラントから連れ出され、運良く生き残ったのだろうと、リリは考えていた。
その他にも、ジークとリザ、ハウルらの関係など、驚愕の事実は幾らでも数えられたが、やはり、というべきか、リリが最も強く興味を持ったのは、自身の相棒であるドボロのことだ。
彼は試作品第一号として生まれたアーツだった。フォルスチェインを使わずに〝共鳴〟が出来るのも、その頃にはフォルスチェインなど開発されていなかったということならば頷ける。そしてミドによれば、彼の左足首に付けられた金のリングが、その代わりの役割を担っている。
リリはぐるり、と寝返りを打って、ベッドの脇に腰を下ろすドボロの、その足首に嵌められたリングに目をやった。そういえば、そこにはフォルスチェインと連動して、ドボロをドルミールに変える能力も備わっているのだと、リリはミドに聞いたことを思い出した。
「……ドボロは、ドルミールになりたいと思う?」
リリからの唐突な問いに、ドボロは頭を捻らせた。それがどういうつもりの質問なのかを、ドボロには理解し得なかったからだ。とはいえリリの疑問は、一般論から言えば、至極まっとうな発想でもあった。
本来であれば――ヘルズやクーラン、ラメールがそうであるように――アーツは移動中、基本的にはドルミールの姿となって、使役者に持ち歩かれる。ドボロが今までそうして来なかったのは、リリがフォルスチェインを持っていなくてもドボロと〝共鳴〟をすることが出来たし、ドボロがリリの左隣を歩くことが、両者にとって当たり前のことでもあったからだ。が、フォルスチェインさえあればドボロを休眠体化させることが出来ると知ったリリには、どちらがドボロにとっての幸せなのか、ということが気になり始めていた。常に活動体の状態で、ドボロには十分な休息が取れているのかどうか、リリには分からなかったからである。
暫く唸った後で、ドボロは答えた。
「リリがオデの身体を邪魔だと思うなら、オデはドルミールになりたいだ。そうじゃないなら、オデはこうしていたい。この身体で、こうしてリリの隣にいるのが、オデは幸せだ」
ニンマリと笑ったドボロの顔に、その答えは必要なかったのだと、リリには思えた。野暮なことを聞いてしまったと、リリは負い目すら感じた。
「うん。僕も、ドボロの隣がいいや」
ドボロがそういうのだから、きっとそれはこのままでいいということなのだ。考えてみればリリにとっても、常に活動体として動いているドボロと共にいられるということは、願ってもいないことだった。もしそうでなくなる日が来るのなら、その答えはその時に、ゆっくり考えればいい。自分とドボロの前にはこれから先、まだまだ長い未来が続いているのだから。
そんなことを思いつつ、リリは穏やかな眠りに落ちた。「ンだ」というドボロの嬉しそうな返事を、片耳に聞きながら。




