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「ジーク様……、ご武運を」
ハウルは、そう言った。
「ジーク、無事に戻ってね」
リザは、そう言った。
「お前の行く道を、俺は信じてる。例えお前が何処へ向かおうが、俺を突き放そうが、俺はお前に付いていく。それだけだぜ」
ヴェイグは、そう言った。彼らは揃って、まだ震災の傷跡の残るネーデルラントから、自分を送り出してくれた。ドボロの姿が見えなかったのが気にかかった。暫く見ていないが、彼は無事だろうか。
戦いが始まって、丸一日が経っていた。辺りは再び、夕闇に包まれている。朦朧とする意識の中で、ジークはリリーシアの声を聞いた。幼い日、まだ余りにも真っ直ぐで無邪気だった、弟の声を。
『ドボロと一緒なら、何処へだって行けるのかも知れない』
彼が本当にそんなことを口にしたのかどうか、もうジークには思い出せなかった。四十数年間信じ続けてきた、リリーシアという人物の像が崩れていくのを、ジークは戦いの中で感じていた。純粋で美しかった少年時代など、自分の願望が作り出した偽りの記憶に過ぎないなのかも知れないとすら、ジークには思えた。何故なら――、
「これで終わりか? 愚兄よ」
今目の前で自分を見下す、この弟の姿こそ、たった一つの真実に他ならなかったからだ。
仰向けに倒されていたジークは、気力で意識を取り戻し、自身に剣先を向けるリリーシアの身体を、刻のフォルスを込めた杖剣による、強い横薙ぎで打ち払った。唸り声を上げながら、リリーシアは後方へと吹き飛んでいく。身体を起こすと、ジークは左手で自身の腹部に触れ、刻のフォルスを以て肉体の損傷を回復させた。
リュンヌの生成に際して、セレーネは吟味の上で、自身の持つ時間を操る能力の中から、四つの能力をリュンヌに与えた。リュンヌに与えられた四つの能力はそれぞれ、『自分の肉体の状態を、これまでに過ごしたことのある状態に巻き戻すこと』、『他人の肉体の状態を、その人物がそれを望んでいる場合に限り、これまでに過ごしたことのある状態に巻き戻すこと』、『無生物の状態を、これまでに過ごしたことのある状態に巻き戻すこと』、そして『自身の周りを流れる時間の速度を遅めることによって、相対的に超高速での行動を可能とすること』、だ。
単純な能力の高さのみで言えば、短期間で造らざるを得なかったリュンヌは、ソレイユに比べて少なからず劣る。が、その力の差を帳消しにするほどに、時間を操る能力は強力であると、それを行使するジークは勿論、相対するリリーシアさえも感じていた。自身の肉体の状態を戦闘開始前に巻き戻すことによって、ジークは外傷を回復することは愚か、睡眠欲さえも消し去ることが叶ったからだ。リリーシアがジークを倒す為には、一撃でその全てを無に帰すほどの、高威力の攻撃を命中させるか、彼が回復する気になれないほどの精神的なダメージを与える必要があった。そしてジークを一撃で倒せるような攻撃を放つ為には、必然的にリリーシアには、大きな溜めの動作が必要になってくる。結論から言えば、発動に時間のかかるその攻撃をジークに命中させることは、リリーシア並びにソレイユにとって、困難を極めた。
一方で、リリーシアとソレイユの持つ空間を操る能力は、ジークの知り得る限りでは二つあった。『或る一定の範囲内であれば、瞬間的に自身の肉体を移動させる、所謂瞬間移動』と、もう一つは『空間そのものを切り取って、文字通りの無を作り出すこと』だ。後者の持つ圧倒的な力は脅威ではあったが、これにはやはり、というべきか、発動に際して大きな溜めが必要であった為に、ジークにはこれを躱し続けることは難しくはなかった。厄介なのは前者のほうで、ジークはこの力によって、度々後ろを取られては、強烈な不意打ちを喰らった。が、ジークには勝機が見え始めてもいた。睡眠時間さえも回復することの出来る自分に対し、一日を戦い続けたリリーシアの肉体と精神は、徐々に疲弊を見せ始めている、ということだ。
「またその力か。いつまでもしぶとい」
うんざりとした様子で、リリーシアはそう言った。
「私とて引き下がれぬのだ。そのような道を、お前に歩ませるわけにはいかない」
ジークの言葉に、リリーシアは苛立ちを覚えたようだった。ギリ、と奥歯を鳴らすと、彼は唸るように、そして絞り出すように言った。
「貴様に……ッ、王位から背いた貴様に何が分かる!? これが国を治め、民を守るということなのだ! 責任から……、何よりも父から! 逃げ続けてきた貴様には、俺の苦悩は分かるまい!!」
ジークはその言葉に、或る違和感を覚えた。確かに、自分はアーツ研究の為に、王位を継ぐつもりはないと宣言をしていた。父から逃げていたこともまた、紛れもない事実でもある。実際にそこに座したリリーシアからは、責任逃れと思われても、或いは仕方のないことだったのかも知れないと、ジークには思えた。然し、であるからこそジークには、〝そうではない可能性〟のほうが、尚更に際立って感じられたのだ。そこにいたのが彼の王だったならば、我らが父はこの状況下で、一体どんな選択をしていただろうか、と、ジークは思い浮かべた。かつては見えなかったその答えは、ジークは今は自身の中で、はっきりと見つけることが出来るようになっていた。そこにあったのは、如何な逆境に置かれても、決して諦めずに戦い続ける、不屈で尊大なる父の姿だ。
「父ならば、諦めなかっただろうな」
呟くようにそう言ったジークに対し、リリーシアは「何?」と眉間を顰めた。ジークは続ける。
「例え今は他国の支配下に置かれようが、父なら必ず、機を待って一矢を報い、他国の意識を改革した上で、クアセルスの栄光を取り戻した筈だ! リリーシアよ、憎しみに憑りつかれ、父の姿をも忘れたか!?」
「俺は……、俺は……!」
アンモス海に浮かぶ、幾多の船の残骸を手で指し示して、ジークは続けた。「国を治め、民を守る、と言ったな。これが、民を導く先導者たる、王のやり方なのか!? 他国の前に立ち世界を導いてきた、大国のやり方なのか!? お前はッ……!」
一拍を置いて呼吸を整え、意志の籠った瞳でリリーシアを見つめると、ジークは静かに、然し厳しい口調で、続く言葉を紡いだ。
「――お前は諦めただけだ。世界を変えることを」
ジークがそう言い放つと共に、上空ではリュンヌが、ソレイユに対して強烈な蹴りの一撃を命中させた。轟音を上げながら、ソレイユは後方へと吹き飛んでいく。リリーシアはジークの言葉に、正気を失ったようだった。拳を震わせながら強く握り締めると、リリーシアは左手の剣を振り翳し、ジークへと駆け出しながら吠えた。
「お前に何が分かる! 逃げることしかしなかったお前にィッ!!」
「私はもう、逃げはしないッ!!」
リリーシアの一撃を皮切りに、二人の戦いは再開した。それから戦闘が終わるまでは、二人が言葉を交わすことは、殆どなかった。
瞬間移動と超高速移動を繰り返す二人の戦いは、最早常人の目に追えるようなものではなくなっていた。隕石が落ちたようなクレーターが、この平野には幾つも生まれた。三日三晩、争いは続いた。刻のフォルスを以て体力や眠気の回復はし続けたものの、本来ならば致死的なダメージを負ってまで戦いを続けたジークも、途中から正気ではなくなっていた。四度目の朝を迎えると共に、リリーシアとソレイユは、仰向けになって地に倒れたまま、ついに起き上がってはこなくなった。戦いは、ジークとリュンヌの勝利に終わった。
ぜえぜえと息を切らしながら、ジークは弟へと歩み寄った。血と泥に塗れた身体で、リリーシアは口を半開きにしたまま、白んでいく空を、ぼうっと見つめていた。そこに意識があるのかどうか、ジークには判別が付かなかった。数メートル向こうの地面には、ソレイユとリュンヌも倒れている。夜のうちには、彼らはお互いに力尽きていた。ジークは、何も言えなかった。何を言えばいいのか、言うべき言葉が存在するのかどうかも、ジークには分からなかった。勝利と引き換えに、何か大切なものを失ったような、そんな感覚に、ジークは見舞われていた。
ふと、リリーシアは擦れたか細い声で、「ねえ」と言った。足元に倒れるリリーシアのほうに、ジークはそっと目をやった。
「……おれ、どこで間違ったのかな。にいさん」
そう言って、リリーシアは少しだけ笑って見せた。ジークの記憶の中にいた、幼い日のリリーシアの姿に、それは漸く重なった。が、皮肉にもそれが、リリーシアの最後の言葉となった。
突如として、リリーシアの身体からは金色の光が立ち込めた。それはジークの頭上上空で、黄金に輝く鳥の姿となって羽ばたいた。宙の極精霊・アポロンだ。
(よもや、こんな終わりを迎えようとはな)
そう言い残すと、アポロンはジークには一瞥もくれることなく、天へと消えていった。通常、契約者の死と共に、精霊との契約は終わる。アポロンが去ったことから、ジークの頭は機械的にその情報を処理し、リリーシアの死を理解した。然し、それが自分の望んでいた勝利の形だったのかどうかなど、最早ジークには分からなかった。父が死んだ時とは比較にならないほどに、ジークは空っぽだった。それでもきっと、自分にはまだやるべきことがあるのだと信じて、自身とリュンヌの体力が回復するのを待ってから、ジークは王都への道を辿った。




