23
四日後、夕刻。アンモス大陸の南海岸へと、リリたちは辿り着いていた。
この日も雲に覆われていた空は、夕闇に赤黒く染まっている。一帯には、ごうごうと風の吹き荒れる音と共に、岸壁に荒波の打ち付ける音が響いていた。海岸は断崖になっており、波の打ち付けによって内側に大きく削れている。
コントゥリはその西側に、長大な砂浜を持つ海岸線を有していたので、リリたちは海を見るのは初めてではなかった。が、断崖の海岸を見るのは初めてだった。
「着いたぞ。そこだ」
シンは平気な顔をして崖の淵に立ち、崖下の洞窟を指差した。リリも恐る恐るシンの隣に並び、崖の下を覗き込む。そこには確かに、大きな海蝕洞があった。丁度干潮のタイミングで辿り着いた為、歪な形を取った洞窟の入り口は、崖の上からでもはっきりと見えた。トリュンマ大空洞だ。
「でも、ここからどうやって降りるの?」
リリの問いに、ルチカが続く。「崖を伝って降りるのは……、ちょっと怖いよね」
崖の高さは読めないが、少なくとも軽く十メートルはありそうだった。岸壁には掴まれるような凹凸は多数存在したが、大人しくその意見に賛成することは、リリにも出来なかった。
呆れ顔になって、シンは言う。「折角フォルスチェインなしで〝共鳴〟が出来ても、使い手の頭が回らなければ宝の持ち腐れだな……。ドボロ」
ドボロは太い指で自分を指すと、「オデだか?」と尋ね返した。リリとルチカはそこで漸く、シンの考えに気が付いた。
「崖に沿って大空洞の入り口まで、階段を作ってくれ」
「お安い御用だ」と言いながら、ドボロは足音を立てながら崖の間際まで進むと、地面に手を着いた。と、ごうん、ごうん、という太い音と共に、岸壁からは硬い土の板が段状に突き出し、あっという間にそれは、大空洞の入り口まで続く階段となった。崖際まで駆け寄りながら、ルチカは感心に声を上げた。
「すっごーい! さっすがドボロ!」
ドボロは嬉しそうにニンマリと笑うと、頭の後ろを掻きながら答える。
「大したことないだ。シンがいなかったら思い付かなかっただ」
ルチカはそれを認めたくはなかったが、確かに、シンは頭が良く切れた。ここまでの魔物との戦いに於いても、シンは魔物の動きを正確に読んで確実に攻撃を避け、そして効率的にダメージを与えていた。またその動きには無駄がなく、流れるようにしなやかで、風雅であった。
「さあ行くぞ。奴らは中にいる筈だ」
そう言いながら、シンはドボロが生成した土の階段を下っていった。リリとルチカもそれに続く。
階段が出来たから、といって、恐怖心が全くなくなるわけでは勿論なく、リリは足を踏み外さないように慎重に、シンの背中を追った。片や、シンは初めから自分が足を踏み外す可能性など考慮していないかのように、テンポよくその階段を下りていく。最初の一段を踏んだ時点で土の板を軋ませた最後尾のドボロは、「もうちょっと頑丈にするだ。揺れたらごめんだ」と言って岸壁に手を付き、土の板を倍以上の厚さに膨らませた。
リリはふと、水平線に目をやった。黒い雲の下で、海は踊るように荒れている。目下の海面も同じく、切り立った崖に激しく波を打ち付けており、階段を下っていくと、その飛沫はリリの身体にも跳ねた。先頭を歩いていたシンは、その最下段に辿り着くや否や、大空洞へと足を踏み入れた。リリたちもそれを追う。冷たい空気に、リリたちの身体は包み込まれた。
夏期には観光地ともなるトリュンマ大空洞は、大きく二つのブロックに分かれているのだと、昨晩シンは語っていた。
まず、入り口を入ったエントランス部分は、五十メートルほどの奥行きと、五メートルほどの天井を有した鍾乳洞になっており、天井からは発光性質を持つ鍾乳石が無数に垂れ下がっている。鍾乳石には天井からその先端に掛けて、青白い光のグラデーションが掛かっており、日の沈み切った夜でも、大空洞の中は明るく照らされていた。洞窟内は夏でも気温が低く、その美しい光景と涼しさから、多くの観光客で賑わうのだとか。
「すごい……」
眼前に広がる幻想的な光景に、リリは目を見張り、感嘆の声を漏らした。ふと、左隣のドボロを見上げて、リリは問う。「ドボロはどう思う?」
「……、綺麗だ……」
言いながら、巨人は口を半開きにして、その風景に見蕩れていた。
洞窟は奥に進むに連れて、緩い登り坂になっており、また狭まっている。そしてその最も奥まった突き当りには、更に奥へと進む細い通路があった。リリたちは鍾乳石に照らされる洞窟内を頻りに見回しながら、その通路のほうへと進んでいった。洞窟内では常に何処からか、水の滴る音が響いていた。
通路の入り口は狭かったが、奥に進むにつれて徐々に広がっていった。四メートルほどの通路の向こう側には、もう一つのブロックがある、ということも、同じく昨夜、リリたちはシンから聞いていた。
天井は先の空間と比べて倍近く高くなっており、その広さは、最早比較のしようがないほどに広大だった。そして肌寒いほどだった先の空間と比べると、こちらの空間はやや蒸し暑い。これはこの空洞の凡そ中心に湧いている、大きな温泉の影響によるものだった。壁や地面からは、紫に光る鉱石が幾つも突き出しており、こちらの空間も先と同じく視界は明るく、はっきりとしている。
不意に立ち止まったシンは、じっくりと観察するように目を凝らし、空洞内を壁沿いに見回した。奥のほうになると、距離がありすぎてよく見えないのだが、シンはそこに、或る違和感を覚えた。
「ねえ、この温泉には入れないの?」
ルチカの問いに、シンはその違和感へと向かって歩き出しながら、ぶっきらぼうに答えた。
「摂氏一〇〇度だ。常に沸騰している。全身の火傷を厭わないというのなら、禁止はされていないし、俺も止めはしないぞ」
確かによくよく見てみれば、――鉱石の光を反射して、妖しく紫に輝く――その温泉は凄まじい量の蒸気を放ちながら、底のほうからは大きな気泡を、ボコボコと湧かせていた。
「聞いてみただけです~」と、ルチカは唇を尖らせて言った。
シンの背中を追いながら、リリたちは大空洞の奥へと進んでいった。シンは目を細めて、違和感の正体を探っていた。それが何であるのか、近付くに連れて明らかになった。
大空洞の一番奥には、岩窟のようなものが建てられていた。シンが数年前に、このトリュンマ大空洞に観光に訪れた際には、そんなものは存在しなかったので、恐らくそれは〝ビンゴ〟であった。
五メートル四方ほどある、その岩窟の間際まで近付くと、シンは三人に向けて、唇の前で人差し指を突き立てた。一つしかない入り口には、暖簾のようにボロ布が下げられており、耳を澄ますと、その中からは何やら話し声が聞こえてくる。シンを先頭に、リリたちは入り口の脇に立って聞き耳を立てた。若い男の声のようだが、何を言っているのかはよく聞き取れない。
「何を言ってるか分からないだ」
ドボロはつい、思ったことをそのまま口にしてしまった。それも、普段の会話の声量で。
シンは顔を顰めてドボロを振り返ったが、もう遅い。声に感付いたように、岩窟の中の会話は止んだ。岩窟の奥のほうから、入り口に向かって歩いてくる足音が響く。隠れようにも、その猶予も、場所も、今のリリたちにはなかった。
シンは腹を括るように唾を飲んだ。いずれにせよ、恐らくこの中にいるのであろうクーランを取り戻すのには、その中の人物の許しを得るか、戦って無理矢理にでも奪い返すしかないのだ。勿論、わざわざ真夜中に寝床に忍び込んでクーランを盗んだ人物が、易々と持ち帰ることを許してくれる可能性は、限りなくゼロに近い。
「ミドですか? 帰ったのなら挨拶をするようにと、何度言ったら分かるのです。全く、近頃の若者には礼儀というものが――」
そう言いながら、暖簾を除けて現れた人物は、そこにいたシンと目を合わせるなり、キョトン、とした表情になって、「ミド……ではないですねえ」と続けた。
「誰です?」
言いながら、細い目を更に細めて、ニコリ、と笑ったその男の笑みに、シンは本能的な恐怖を感じ、咄嗟に距離を取った。リリたちもそれに続く。
男は二十代後半ほどであるように、リリたちには見えた。ミディアムストレートにした焦げ茶の髪と、細い目には小豆色の瞳を有している。表情自体は穏和で、優しそうな印象を抱かせるが、シンはその奥に、深淵のような闇を垣間見た。
上下共にダークグレーで、柔らかく動き易そうな素材の衣服を、男は着用していた。上衣の襟はタートルネックのように立ち上がっており、上衣、下衣共に、その袖と裾は手足を覆い隠すほどに長く、またツヤツヤとした光沢を持っている。それに重ねる形で、男は灰青の、首を通すだけのマントのようなものを羽織ってもいた。身体の前後を覆う形で、そのマントの裾は腿の辺りまで伸びており、また前後共に二股に分かれている。首からは金のアグレットが付いた、革紐のループタイを、男は下げていた。
柳葉刀に手を掛け、腰を屈めながら、シンは言い放つ。「一昨日の深夜、アルバティクスの修道院から、俺のアーツが持ち出された。返してもらおう」
修道院、という言葉に、リリとルチカは違和感を覚えた。寝ている間に盗まれた、とシンは言っていたので、二人はてっきり、ドルミールはシンの自宅から盗まれたものと思い込んでいたのだ。然し、その詳細を今シンに聞くことは、流石に躊躇われた。
「ああ、あの時の少年ですか。道理で何処かで見た顔だと思いました。あんまり可愛らしい寝顔でぐっすりと眠っていらしたので、起こすのは悪いと思って頂戴したのですが……」
男の喋りはゆっくりとしており、知的な印象を抱かせた。声はやや高めで、微かに掠れている。
言いながら、男はシンを始め、横並びになった一同の顔を、頭に刻み込むように凝視した。ルチカ、ドボロ、そして最後にリリの顔を認識すると共に、その表情は一変した。
「あなたは、まさか……!」
驚きに目を見張ったかと思えば、一転して「馬鹿らしい」とでも言うように、男は自嘲気味に鼻で笑った。
「いや、まさかもまさかですね……。そんなことがあるわけがない」
男の言葉への不信感に、リリは顰め面になって、小さく首を傾げた。鬱陶しそうに眉間に皺を寄せて、シンは言う。「俺たちはお前の話を聞きに来たわけじゃない。クーランを返せ」
またも嘲るように笑うと、「いいでしょう」と答えて男は続けた。「まだ実験段階なので、正常に動くかどうかは分かりませんが、丁度いい機会です」
「……何を言っている?」
要望があっさりと聞き受けられたことと、意味不明な男の言い分に、シンは眉間を更に強く顰めると共に、睨むように目を細めた。
「今に分かります」
そう言いながら、男は岩窟の中へと消えていった。白と緑が基調のクーランのドルミールをその左手に、再びリリたちの前へと現れると、男はニヤリと口角を上げてから、まるでクーランを目覚めさせでもするかのように、それに右手を翳すと言った。
「あなた方は運が良い。前人未踏の世紀の実験を、目の前で見ることが出来るのですからね」
男の右手には、先ほどまでは着けていなかった筈の、禍々しい黒と紫の模様が入ったロンググローブが嵌められている。使役者であるシン以外の手によって、まさかクーランが目覚める筈はなかった。嫌な予感に、シンは身震いした。
通常、〝共鳴〟の状態ではなくても、フォルスチェインを介して使役者とアーツは繋がっている。そしてアーツがドルミールの状態であっても、使役者はテレパシーのようにアーツと会話をすることが出来た。然し、クーランはシンの呼び掛けに、全く反応を示さなかった。それどころか、普段ならフォルスチェインを介して感じ取れる、クーランの息遣いや脈動のような生命反応すら、シンは感知することが出来なくなっていた。
「貴様、――」
シンはそのまま言葉を繋ぐつもりだったのだが、クーランのドルミールが突如発した光への驚愕に、言葉を失った。
迸るような紫紺の光と共に、ドルミールはみるみる肥大化し、シンには見慣れた、鳥類を思わせる巨人の姿へと変わった。が、その身体にはクーランは、煙のような紫紺の光を纏っている。俄かには信じ難いその光景に、シンは自らの目を疑った。
「…………」
シンと向かい合って棒立ちのまま、クーランは地を見つめ、沈黙を守っていた。
「クーラン、俺が分かるな?」
シンは確かめるように、クーランへと手を伸ばした。クーランの背後で、その光景を楽しむように眺めていた男は、嬉しそうに口角を上げた。
その刹那、クーランは俯いていた顔を素早く持ち上げ、シンと目を合わせた。驚きに、シンは身体を震わせて反応した。普段はフードの影に隠れているクーランの瞳は、獲物を見付けた肉食動物のように鋭く、金に光っていた。間近にいるシンの耳には、微かに唸るような声も届いた。それが怒りによるものなのか、苦しみによるものなのかは分からなかったが、確かなことが、シンには一つだけあった。そこにいるのはクーランにして、クーランではないということだ。
一瞬の殺気を感じ取ったシンは、慌ててバックステップでその身を翻した。クーランの、風のフォルスを纏わせた鋭い爪による横薙ぎを、シンはすんでのところで避けることが出来た。
前傾姿勢になったままのクーランは、依然として唸り声を上げている。これがどういう状態なのかは分からないが、男の仕業であることは明らかだった。シンは黒の瞳を尖らせるようにして、男を睨み付けた。
「貴様……ッ! クーランに何をした!?」
その頬に笑みを浮かべたまま、男は答える。
「なに、フォルスの波長を少しばかりいじっただけですよ。このグローブでね。それにしても、アーツとは悲しい生き物ですね。例えどんな人物であろうが、自分を目覚めさせた者を使役者と認識してしまう。幾ら知的生命体とは言っても、人工物は人工物でしかないということです。そういう〝きまり〟の中で生きていく定めを持っている。そして使役者に仇成す者は、アーツにとっては等しく敵となる。例えそれが、本来の使役者であろうとも」
フォルスの波長をズラし、強制的に使役するなどという技術は、少なくともシンの知るところでは存在しなかった。一介の盗賊団、と高を括っていたのが間違いだった、とシンは今になって思っていた。
「さて、クーラン、と言いましたか」
悪いことでも考えるように、男は両の口角をニンマリと上げた。柳葉刀を引き抜きながら、シンはリリたちを振り返らずに言う。「へっぽこ、二人を連れて逃げろ。思った以上に厄介な上、大きなものを敵に回していたようだ」
然し、それを聞く前からリリの答えは決まっていた。
この男を、絶対に許せない。理由はどうあれ、アーツを無理矢理に使役した上、本来の使役者と戦わせるなんて真似を、みすみすと見逃すことは、リリには出来なかった。例えそれが、どんな危険を伴うことだったとしても――。
「クーラン、彼奴らを八つ裂きにして差し上げなさい!」
男の声を合図に、深緑のマントを翼のように広げたクーランは、宙へと飛翔した。
「言わなくっても分かるよね、ドボロ!」
「こんな奴、見過ごすわけにはいかないだ!」
クーランの狙いはシンだった。シンは柳葉刀を横に構えて、空中からの急降下に備えた。
リリとドボロは拳を打ち合わせる。そして初めて、シンに教えられたその言葉を、二人で口にした。
「〝共鳴〟ッ!!」
二人の強い思いに応えるように、山吹色の光は爆風を伴って閃いた。
空中でその風を受けたクーランはバランスを崩し、地面に転げ落ちた。が、すぐに立ち上がって体勢を立て直す。シンとリリは背中合わせに、弓を抜いたルチカも、リリの隣に並んだ。三人の背後で、ドボロはずっしりと構えている。
「見合う報酬を支払えるかは、約束出来ないぞ」
「そんなことの為に着いてきたんじゃないよ」
「アタシだって、こんな奴絶対に許せない!」
リリとルチカの言葉に、シンは「フ」と静かな笑いを溢すと言った。
「お人好し共が。……クーランは強い。手加減は不要だ。殺すつもりで行け」
「言われなくても!」とリリは答えながら男のほうへ、ドボロはクーランのほうへと駆け出した。
クーランの纏っている紫紺の光――、あれが〝共鳴〟によるものではないにせよ、〝共鳴〟と同等か、それ以上の力を、恐らくクーランは発揮している。ならば現状、唯一のアーツ使いである自分たちが先頭を行くべきだ、とリリは考えたのである。
「ミドがどうのって、言ってたよねッ、ミドも、お前たちの仲間なのかッ!」
リリは尋ねながら、左右の拳で素早い打擲を連続で繰り出したが、その全ては紙一重で躱された。男の動きには無駄がなく、リリの攻撃は完全に読み切られているようであった。
「申し遅れましたが、私の名前は貴様でもお前でもありません。ハウルです。仲間、と言ってしまうとちょっと暑苦しいかも知れませんが、共通の目的に向けて同じ志を抱く、同志であることには間違いありませんね」
男――ハウルは、わざとらしくよろけてリリに隙を見せた。リリはそれを見逃さず、強くフォルスを込めた右アッパーを放った。ハウルは腹にそれを喰ってから、地中から突き上げた土塊によって、空中に吹き跳ばされる、筈であった。リリの細い腕は、ハウルの右手によってがっちりと掴まれて、それ以上の動きを許されなかった。
「見たところ、まだフォルスの扱いには慣れていないようですね」
憐れむように、細い目でリリを見つめると、ハウルは文字通り、赤子の手でも捻るかのように、リリの腕を掴んだ右手に回転を掛けた。リリは驚きに目を見張ったが、何が起こっているのかは分からなかった。
視界が急速に一回転する。と、リリの身体は強く地面に打ち付けられていた。痛みに呻きながらも、リリは身体を起こす。どうやら骨は折れていないらしい。
それにしても、とリリは思う。ハウルはクーランを使役してはいるが、〝共鳴〟をしているわけではなく、無論ハウルの身体に、クーランの風のフォルスは流れ込んでいない。リリの攻撃に対しての身の躱し方、そしてスマートな体型からは想像もつかない剛腕。このハウルという男、地の戦闘能力が、ミドと比べると幾らも高いようだった。
「リリ! 大丈夫だか!」
リリを案じて振り返ったドボロに、空中から、フォルスによって生成されたクーランのナイフが数本、襲いくる。寸前で、跳躍したシンの柳葉刀がそれを弾いた。着地したクーランは、今度はシンに向かって走り出す。その手には、同じくフォルスで作られた、紫紺に輝く長身の刀を握っていた。
刀による横薙ぎを、シンは柳葉刀で受け止めた。鈍い振動が、骨にまで伝わってくる。
「クーランッ! 俺が分からないのか!」
「ヴヴ……、ウ……ヴァァアッ!!」
クーランの唸り声からは、理性や自我といったものが一切感じ取れなかった。自身の声は殆ど届いていないように、シンには感じられた。
クーランの素早い剣筋を柳葉刀で受け流しながら、シンは何かを探るように、クーランの身体を見回していた。
(恐らく、クーランを操っているのはグローブだけではない。グローブが発信機だとすれば、それを受信する為の何かが、クーランには付けられている筈だ……!)
後方では、立ち上がったリリがハウルに対して、再び激しい連撃を仕掛けていた。が、やはり無駄のない動きで、ハウルはそれを躱し続けた。リリの体力は、消耗の一途を辿っていた。
(このままじゃまずい……!)
一旦ハウルとの距離を大きく取り、リリは呼吸を整えた。身体を巡るフォルスの流れが安定していく。心を決めるように、リリは今一度、その目にハウルの姿を見据えた。必死のリリとは裏腹に、ハウルはその表情に、まだ余裕の笑みを浮かべている。脚の付け根から爪先に掛けて、リリは全身のフォルスを集中させた。素早い連撃は虚しく躱され、一点集中の攻撃は、見切られれば大きな隙が生まれる。ならば――、
(――……更に素早い連撃を仕掛けるだけ!)
ハウルに向かって、リリは勢いを付けて走り出す。そのスピードは、今までとは一線を画していた。然し――。
「その程度のスピードなら、幾らやっても同じことですよ!」
ハウルは言いながら、両腕の深い袖から三本ずつ、計六本のナイフを取り出した。人差し指と中指、中指と薬指、薬指と小指でそれぞれ挟むようにし、リリを迎え撃つつもりで構える。
「これならどうかなッ!」
ハウルの眼前で、リリはロンダートを繰り出した。地に手を着くと、手を模した土塊がハウルの足元から現れ、その足首をがっちりと掴んだ。「なっ」とハウルは驚きに声を漏らす。リリは勢いを付けたまま、フォルスを纏わせた高速の連撃を仕掛けた。狙い通り、自由に身動きが取れないハウルは、リリの六発の拳を、肩や腹に受けた。バック転で一旦距離を取ると、リリはフォルスを、右足へと強く集中させた。ハウルの足を掴んでいた土塊は消えたが、痛みによろけたハウルには、大きな隙が生まれていた。
リリは跳躍し、空中からハウルを目掛けて斜めに急降下すると、その腹に強烈な蹴りを入れた。「ガアッ」という唸り声と共に、ハウルは轟音を上げながら、後方へと大きく吹き飛んだ。
シンとの激しい打ち合いの最中、クーランは不意に、渦を巻くようにその身体を大きく捻った。紫の光を纏って、その腕が強く輝き出す。フォルスをその一点に集中させているようだ。
大きな一撃が来る、と判断し、シンはバックステップで距離を取った。弓を引き絞っていたルチカは、シンとクーランが離れたそのタイミングで、鋭い一閃を放った。クーランは寸前でその矢を見切り、バック転で躱した。深緑のマントが大きく翻り、シンはその裏側に、紫紺の光を放つ宝石のようなものが付けられているのを見つけた。
(――あれだ)
が、シンがそれに気付いた時には、クーランは既に次のアクションに移っていた。顔の前で交差させた両の腕にフォルスを溜めると、クーランは空を裂くように、腕を前方左右へと大きく放った。紫紺の光を纏ったクーランの風のフォルスは、鋭い爪を携えた自身の手を模すように形を取り、シンに襲い掛かった。寸前でそれに気付いたシンだったが、避けるまでには至らず、身体の正面からその攻撃を受けてしまった。唸り声を上げながら、シンは後方へと転がされ、数メートル下がった地点で、地に蹲った。
「シン!」
慌ててシンに駆け寄ると、リリはその場にしゃがみ込んでシンの肩を手で支え、その顔を覗き込んだ。苦痛に表情を歪ませながら、シンは擦れ声で言う。
「俺はいい……! クーランから、目を離すな……」
地に伏したハウルが、暫くは起き上がりそうにないことを確認すると、リリは立ち上がり、ベルトから短剣を引き抜いてクーランを見据えた。依然として、野生動物の威嚇のような低い唸り声を発し、クーランはこちらに強い敵意を向けている。
「マントの裏に付けられた、紫の宝石がクーランを操ってる。……あれが外れれば、元に戻る筈だ」
リリを見上げながら、やはり擦れた声で、シンは言った。頷き返すと、リリはクーランを見つめたまま、呟くように言う。「ドボロ、クーランを中心に、四本の柱を立てて」
「ンだ!」
リリの指示で、ドボロは両の手を地に着いた。と、四本の土柱が天井に向かって、クーランを囲うような形で次から次へと突き出す。突然の土柱の出現に驚いたクーランは、反射的に飛び上がった。それが、リリの狙いだった。
土柱に向かって跳び上がると、リリは四本の土柱の間を三角跳びで上昇し、風を発生させて滞空する、クーランの元へと辿り着いた。
「悪く思わないでよッ!」
四本の土柱を縦横無尽に跳ね回り、リリはすれ違いざま、クーランに対して回転を掛けた蹴りを打ちまくった。高速の連撃に、クーランは混乱し、身動きが取れていない。その最中、リリはシンに教えられた宝石の位置を、その目に確認していた。ハウルは徐々に意識を取り戻しつつある。チャンスは一度きりだ。リリはタイミングを見計らった。地上からは、シンが祈るように目を細めて、その姿を見ていた。
「そこだッ!!」
短剣で削ぐようにして、リリはその宝石を、クーランのマントから地面へと叩き落とした。そのまま流れるように着地すると、振り返りながら立ち上がり、リリは宙に浮いたままのクーランを仰ぎ見た。
クーランを覆っていた紫紺の光が、洞窟内に拡散していく。魂が抜けたかのように構えを解いたクーランは、受け身も取らないまま、鈍い音を立てて地に落ちた。次いで、漸く自我を取り戻した様子で、クーランはゆっくりと立ち上がる。シンは念の為、ルチカを背中に庇うようにして立ち上がると、柳葉刀を構えた。頭痛に耐えるように、クーランはその右手で額を押さえながら尋ねた。
「シン……? ここは何処だ……、俺は、何をしていた……」
その声は、確かにいつものクーランのものだった。それを聞いたシンは、安心したように溜め息を吐くと、柳葉刀を握った右腕を下ろして、ハウルのほうを向き直った。
「説明は後だ。さあ、片を付けるぞ」
リリ、ルチカ、ドボロも同じようにしてハウルのほうを振り返る。ハウルは痛みに呻きながらも、その身を起こして体勢を立て直していた。リリが尋ねる。「クーランは目を覚ましたよ。まだやるつもり?」
「くくく」と小さく笑うと、ハウルはリリたちへと睨みを向けながら言った。
「少々、甘く見ていたようですね……。道楽で相手をするのは、失礼が過ぎたようだ」
擦れ声でそう言いながら、マントの内側に隠れていたベルトに手を掛けると、ニヤリ、とハウルは不敵に笑った。が、その笑みには流石に、先ほどまでのような余裕はない。
「こちらも、本命で相手をさせていただきましょう……!」
ハウルは腰のベルトから、自分自身のものと思しき、黒にも近い深緑をしたドルミールを取り外した。ハウルがそれに手を翳すと、ドルミールは黒と緑の光を放ちながら肥大化し、スマートな体型の巨人の姿へと変化を遂げた。初め、そのアーツはしゃがみ込んでいた為、リリはその姿をよく確認出来なかった。が、立ち上がったアーツの容姿を確認した時、リリは自身の目を、疑わずにはいられなかった。
同じくその姿を確認したシンも、驚きに目を丸くさせ、思わず声を上げる。「あ、あれは……」
そのアーツは、二メートル強ほどある身体の胴部に、『着物』と呼ばれる若竹色の衣服を纏っていた。それに被せるような形で、大きなプリーツのある、『袴』と呼ばれるゆったりとした黒いズボンを履いている。腰には地に着くほどの長身の刀が携えられており、足には『草履』と呼ばれる、イグサで編まれたサンダルのような靴を履いていた。そして頭部には竹を編んで作られる、三角柱のような形状の帽子――『笠』を被っている。それはシンが着用する武道着とは、また異なる地が発祥の衣服であった。然し、リリたちが驚いたのはそこではない。
そのアーツの体型は、人間とかなり近しいものであったが、肌は闇のような漆黒をしていた。笠の下からは黄色い眼光が鋭く覗いているのみであり、鼻と口は確認出来ない。そしてそのアーツの漆黒の身体は、揺らめく炎のような、〝不規則な透明性〟を持っていた。物体としてしっかりと色と形を取るタイミングもあれば、その向こう側の風景が完全に透過して見えるタイミングもある。波打つように、実体化と透明化を繰り返すアーツの肉体に、リリたちの固定観念は崩された。
「主、御用で」
アーツの声は低く、透き通っていた。その言葉からは、ハウルに対する強い忠誠心が見て取れる。
「ヒエン、奴らを始末します。初めから本気で行きますよ」
ハウルはそう言いながら、首から下げられたループタイのアグレットを右手で掴んだ。話の流れから察するに、あれが彼のフォルスチェインなのだろう、とリリにも分かった。
「……承知」
ヒエン、と呼ばれたそのアーツは、腰の刀に手を掛け、リリたちに身体を向けた。一同は改めて身構えた。ループタイのアグレットを、ハウルは懐中時計のハンターケースのように開いた。遠目には確認出来ないが、その中には黒の地に、白い文字で何かが彫られているようであった。口角を上げて、ハウルは言う。
「――〝第二共鳴〟」
しまった、とシンは思った。『初めから本気で行く』というハウルの言葉を、シンは履き違えていたのだ。
(ミドとグルである奴らが、〝第二共鳴〟を使える可能性をどうして考慮していなかったんだ、俺は……!)
〝第二共鳴〟によって、ハウルとヒエンの身体から発せられる異様な輝きに、一同は目を眩ませられた。
ハウルとヒエンが〝共鳴〟を発動させたとしても、クーランが目を覚ました今、リリ、ドボロと力を合わせれば優に対処出来るだろう、とシンは踏んでいた。然し、〝第二共鳴〟が相手ともなれば話は変わってくる。先日のミドの一件を見ても、あれは通常の〝共鳴〟とは比べ物にならない。シンの頭には、撤退の二文字が浮かんでいた。が、結果としてその必要は、間もなくしてなくなった。
二人の身体の輝きが落ち着いてきた、その時であった。リリたちの後方、大空洞の入り口のほうから、落雷によるものと思しき轟音が響いた。一同は咄嗟に入り口を振り向いて反応する。次いで後方からは、大水が壁に打ち付ける音が聞こえてきた。凄まじい勢いで、それはこちらの空洞に向かって流れ込んでいるようであった。
「マズいッ」
その表情に焦燥を浮かべると、ハウルは岩窟を囲うようにして空気の膜を張り、その膜の内側へと入った。ハウルの意図を察したように、ヒエンもハウルの作り出した膜の中へ入ると、自身のフォルスを以て、更にその膜を厚くした。空洞の入り口を破壊しながら、大量の海水が流れ込んでくる。
「ドボロ!」
「クーラン!」
慌て切った表情で、リリとシンはそれぞれ、自分のアーツを呼んだ。ドボロとクーランははその意思を汲むように頷き返すと、ドボロは地を殴り、洞窟の天井、もとい地上の地面に大きく穴を開けた。クーランは風のフォルスで、白いサーフボードのような板を四枚作り出し、四人にそれに乗るように促した。全員がボードに乗ったのを確認すると、クーランは竜巻のような上昇気流を巻き起こし、ドボロが開けた天井の穴の外まで、皆を導いた。
猛烈な雷雨に、地上は晒されていた。日は完全に沈んでいる。
一同が地上に出て来られたギリギリのタイミングで、トリュンマ大空洞は、流れ込んだ海水によって、その殆どが埋め尽くされた。安堵と恐怖にその表情を染めながら、五人はその光景を、大雨の中、クーランの作り出した風のボードの上から、ただ茫然と眺めていた。




