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ぼんやりとした視界には、二十センチほどの高さを持つ、縦長の楕円体が浮かんで見えた。
視界は不明瞭ながらも、それが密室であることは何となく理解出来る。壁は土色だ。
「……リ……を……めざ…………」
辺りに薄らと響くその声は、目の前の楕円体から聞こえてくるようだった。依然として、視界は波打つようなうねりを持っており、壁や楕円体との距離感は掴めない。
「リ……い、き……ちか………くれ……」
彼は、その声に耳を澄ませてみた。目を凝らすと、楕円体からは二本の角のようなものが生えていることが分かる。
「……リリ……デ……ってる…………」
身体は思うようには動かなかった。それでもどうにか、彼はその声を聞き取ろうと、楕円体へと近付くことを試みた。が、もがけばもがくほどに、漠然とではあるが、楕円体は遠ざかっていくように感じ、また抵抗はどうにも無意味であるかのように、彼には感じられた。水の底を歩かされるような感覚に、息苦しさをも彼は覚えた。前へと腕を伸ばしながらも、苦痛に意識が遠のいていく。
「リリ……、リリ……!」
突如、視界が明るく開く。
ドン、と鈍い音を立てて、ベッドから落下したその衝撃に、彼は漸く目を覚ました。先ほどまでとは打って変わって、視界ははっきりとしており、彼にはその光景が、木造の我が家の二階にある、自室の床から見上げる天井だと、すぐに分かった。
「リリ! いつまで寝てるつもりだ。ルチカがもう来てるぞ」
まだ朦朧とする意識の中で、下の階から聞こえてくる父の声に、先の声と景色が夢の中のものであることを改めて理解すると、彼は慌てて身体を起こす。「――まっずい!」
大急ぎで寝巻きを脱ぎ捨てると、上下共に黒い、七分袖、七分丈の肌着に、彼は身体を通した。と、袖がなく、首を通すだけで着られる――表面には太陽を模した金の刺繍の施された――左右非対称の葡萄色のケープと、下半身には駱駝色のガウチョパンツを、彼はその肌着の上から重ねる。これが、彼の普段の服装であった。また、一五〇センチに満たないほどの身長と、細くしなやかな体型を、彼はしている。
二階から降りるなり、川から汲み上げた水道で顔を洗い、ついでに濡れたままの手で、寝癖と、元からの癖毛で荒れている髪を軽く寝かせる。が、後頭部の或る一房だけは、いつでもどうしても立ち上がったままだった。彼はこれを寝かせることを、常に諦めていた。
ミディアムロングでクリーム色の髪は、彼の若さを讃えるように艶めいている。同じくその瞳は、濃紺に輝きを放っていた。
彼の名前はリリ。古の巨大遺跡を北に臨む、『遺跡の村・コントゥリ』に暮らす、十三歳の少年である。
「父さん、行ってくる!」
「ああ、気を付けろよ」
肩掛けで革製の、茶色い鞄を背負ったリリは、食卓に用意してあった白パンを手に、玄関を飛び出た。
身体の弱かったリリの母は、リリを生んで間もなく亡くなっており、リリはこの家で、父であり、コントゥリの村長でもあるバーンズと、二人で暮らしていた。
「遅いっ!」
玄関を出るなり、その高く澄んだ声の主と共に、リリはすぐさま走り出した。学校の始業の時間が近いのだ。
「どうしてもっと早く起きられないの! どうしてこんなギリギリまで寝ていられるの!」
彼女はリリの幼馴染であり、向かいの家の娘のルチカだ。
ほどけば背中の中ほどまである、ルチカの紺瑠璃の髪は、後頭部でシニヨンにして纏められており、その前髪は眉の下で一文字に切り揃えられている。萌黄色の瞳を持っており、両の耳にはリングと板状に連なった、金色のピアスを付けている。金の装飾と袖のフリルが特徴的な、ゆったりとした濃紺のワンピースを、彼女はその身に纏っていた。リリと同じ十三歳で、身長はリリよりも少し低く、彼女もまた、細身の体型をしていた。
「ごめんって! それより聞いてよ、今日は変な夢を見てさあ!」
そう言って悪びれないリリを、ルチカはいつも怒鳴るように叱る。そしてそれは、この日も例外ではなかった。
「――ホントに悪いと思ってるの!」