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麗しき、その島  作者: 甲姫
世界線47858
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インフォルトゥニオ

 ――お前は運がなかっただけ。

 脳が解けそうなまでに言われ続けた言葉だ。

 受け入れられるわけがない。そんな、安易なひとことで片付けられるわけがない。しかし拒絶は、いつだって憐みに弾かれた。

 何故、こんな目に遭わなければならなかったのか。誰ともなく、全身全霊で呪う。

 この苦しみはいつになれば終わる? どうすれば、終わらせられる――。


     * * * * *


 九柱の神霊が祝福した安穏とした美しい世界を今日この時まで生きてきたというのなら、それが暗転した世界を、男は今生きていた。

 永劫の孤独を課せられたような重苦しさが空気中を満たしていた。

 不規則に赤い閃光が走る、暗灰色の空。煤と灰が覆う地面。木々は倒れ、割れた大地に飲み込まれかけていて、木の葉の色彩はあらかた失われていた。何か大きな災害が通り過ぎた跡地に違いないが、そこには生命の残滓すらが感じられなかった。

 歩いても歩いても、取り囲む景色は動かない。体に疲労感があらわれることもなく、視界もずっと明瞭で、気味の悪い静寂だけが男の正気を揺らがせる。

 民家はない。瓦礫の山すら見つからない。

 屍でも構わない、人を、鳥を、花を、狂おしいまでにひと目見たかった。ここは、生まれ育ったマスカダイン島ではないのか。あの島であればいつでもどこでもくどいほどにあふれている精霊の気配と温度が、いっさい感じられないのは異様だ。

 ――これはなんだ。死霊の見せているイメージか。

 灰色の世界の端に、フラガリエ火山と思しき黒い輪郭が浮かんでいる。男は火山を見たことがないのだが、マスカダイン島に存在する火を噴く山はフラガリエだけなのだから、それでなくてはならない。

 噴火の跡か。地震のもたらした壊滅か。足の裏をくすぐる灰が気色悪い。たまらなくなって、近くに倒れている大木の枝を殴ってみた。

 関節の周りの皮膚が痛みに痺れ、えぐれた。血が滴り落ちる様子を、忌々しげに眺める。舐めたら、鉄の味がした。

 ――少なくとも夢ではない。

 男は長い息をついた。続いた呼吸に灰を吸い込んでしまい、せき込む。せきが止めばまた静寂がしつこくまとわりついてきて、男は肝が冷えるのを感じた。

「だれか! だれもいないのか!」

 こうした叫び声をあげたのは、これで何度目なのか。返事がない。反響すら、しない。

 苦しいのに、体は疲れない。頭の中に封じ込められた地獄にいるようだった。

 空気が静止している。

 あれからどれくらい経ったのか。男は時間の概念を見失いつつあった。

 灰の世界に落とされた瞬間をはっきりと思い浮かべることができないが、直接の原因であったはずの出来事は、思い出せる。

 男は数か月前に死霊に憑かれて以来、徐々に崩れつつある体調についに辟易して、唯一この問題を解決できるという神殿を訪れようと、連れて行ってくれる人物を探し出したのだった。道中で自らの容態が悪化したため、ほとんどの日は意識が朦朧としていた。どんな旅路だったかが記憶にない。長い間、馬車に揺らされていたように思う。そして案内役がどんな人間だったのか、もう一度会っても顔がわからないかもしれない。

 そんな状態でもロウレンティア神殿に着けたのだから不思議だ。

 そこで、神霊から「欠片」をもらった。神霊の力を分けてもらうだの神霊そのものの一部と融合するだの、現象の解釈はさまざまだが、男は信心深い方ではなかった。欠片を受けての試練を乗り越えれば生き延びられるらしいと、聞き知っていたはいたが。

 都合の良い話、とにかく救われたかったのだ。神霊を宿す人間の「器」がどんな顔だったのかも当然ながら認識していない。

 欠片を受け取ってからほどなくして、男はこの場所で覚醒した。果たして、数日か数週間ぶりに意識が形を持った気分だった。

 これをどう受け取ればいいのか。

 救われていない、絶対に、これは救済された状態ではないはずだ。

「ここはー! どこだあー!」

 息が切れるまで叫んだ。

 何もかも、どこの誰とも知れない死霊のせいだ。何故憑かれたのが、自分でなければならなかったのか。何故憑いたのが、彼女ではなかったのか。

「ぐっ!?」

 突如、のどが詰まった。のどのみならず、肺、あるいは胸か。うずくまった途端に、頭の中に知らないイメージが割り込んできた。


 言い争う村人とその背後で泣き喚く幼児。

 朱に染まる空。灰の雨。

 終わらない振動。激しい倒壊。家屋の焼ける臭い。

 悲鳴、慟哭、悲鳴――。


 再び息ができるようになった時、記憶を継いでしまった男は理解していた。

 十数年ぶりのフラガリエ火山の噴火は、あらかじめ予知されていたことだった。だが先見の神霊ネママイアが出した避難警告を聞き入れなかったひと握りの人間は、故郷への過ぎた愛着と人間らしい愚かさゆえに絶滅した。彼らは自らの身に災いを降りかからせたも同然だ。そんな中で命を落としたのだとしても、同情しづらい話であろう。

 災害の余波を思わぬ形で受けてしまった男は、確かに不運であった。遠い地の過去の人間の無念など、知ったことではなかった。

 ――認められるか。こんな不運、認められるか!

 取り乱し、髪を掻きむしる。

 ――こんな試練、望んでいなかった。死霊め。おれが何をしたって言うんだ……!

 地面に両手両膝をつくと、別のイメージが浮かんだ。

 数か月前の話だったか、男は仲間といつもの略奪行為に及んでいたのだが、自警団に見つかって捕縛されそうになっていた。男は迷わず仲間を捨てて自分だけ逃げのびた。後ろめたい想いはなかった。仲間を失ったという事実だけが、僅かな虚しさと共に残った。

 ズズゥン、と何か巨大なものが崩れる音がした。顔を上げると、空はまた赤く染まっていた。

 このフラガリエ火山は幻像なのか、それとも抉れた皮膚と同様に体験できる種類の幻なのか。男は何を考えたわけでもなく、再び歩みを進めた。

 近づけない。いくら願っても、火山は近づかない。

 思えば、愛と平穏と幸福に満ちているはずの島で、男は抜け殻のように生きて来た。今更やっきになって助かろうとしているのが滑稽だ。

 足がもつれた。

 灰の中に顔を沈めると、息苦しさに、泣き笑いが漏れた。

 頭の中に阿鼻叫喚がうずまいていた。死霊の最期の記憶だ。家族を守らねばという強い願いも。だがどれほど切に願ったところで、地面は避けたし草原は焼けてしまった。石が飛び、溶液が流れ、大気が熱くのしかかり、灰がすべてを覆い隠した。

 天災は、無情だ。

 もうどこからどこまでが自分でどこからが死霊の魂なのか、境界があいまいになっていた。このままこの寂れた風景に身を委ねてしまおうか。はて、死霊は何を思って、取りついたのだろうか。


『神霊様の創りたもうたこの世界は、ほんとうに素敵ね。いつだって私たちがまた立ち上がれるようにできているから』


 声は、頭上から降ってきたのではない。男の心の内からこぼれたのだった。

 病に奪われた愛しい娘――

 彼女さえ失わなければ、人生が歪むことが、ひいては男が悪事に手を出すことが、なかっただろう。

 顔に触れている灰が濡れてくぼんだ。長いこと涙を流せずに生きてきたが、ここで突然、出し方を思い出せたらしい。

 そういえば、と昔聞いた話を思い出す。死霊は生きた人間に嫉妬して取りつくと、かつて誰かが言っていた。もしやその認識は誤りなのではないか。男は今直感的に思い付いた。

 同調したのでは、と。死霊は生者の人生に嫉妬したのではなく、生きたまま死んでいるような虚無を抱えた男に、こいつなら構わないだろうと判じたのではないか。

 地鳴りが近付いて来る。

 たちまち男を支えていた地面が内に崩れて、亀裂が走った。地震だ。奈落の底への落下が始まる。永遠のような時間をかけて、腹立たしくゆっくりとした速度で落ちる。

 灰の海に溺れている。暗闇の中、埃に窒息しかける。

 ――試練はまだ続いているのか……?

 諦めてもいいのではないか。死なばもろとも、神霊の欠片は消えてしまうが、死霊も共に滅される道理だ。が、諦めただけで果たして死ねるのかは依然、謎に包まれている。

 落下はいつの間にか浮遊に変わっていた。上下左右もわからないような灰の海。皮膚に迫る感触は柔らかいのに乾いていて、決して安息をもたらしてはくれない。

 ここは生者の国か、死者の国か、男には何ひとつ掴み取ることができない。思い出にすがるしか、ない。


『言っている意味がわからないな、どうすれば立ち上がれるって言うんだ』

『簡単なことよ。感じればいいの。朝露の味にも、鉄の冷たさにも、炎の温かさにも、精霊の脈動が含まれているのだわ』

『おまえは気分が悪い時、そうやって自分を元気付けているのか』

『ばかね、そうじゃないわ。島が励ましてくれるのよ。私たちは、生まれる以前から愛されている』


 風を感じて、と彼女は微笑んだ。

 ひどいこじつけだ、とあの時の彼は答えた。風を感じる程度で生きる気力が湧いてくるものか。そんなきれいごとで済むなら、困難を生きる人間には理不尽ではないか? 愛で腹が膨れるのか?

 だけどよく考えてみるとしよう。考える時間なら、腐るほどあるのだから。

 島のもっとも肥沃なサンセベリア地方に生まれて育ってから合計二十年以上、とびぬけて飢えを経験したことはない。故郷を去って盗みや詐欺に手を出したのはスリルを求めてのことで、必要に駆られたのではなかった。職がなくて放蕩していた時も、腹が減ればそこかしこに生えている木から果物をもぐことができた。マスカダイン島の野生の生物には所有権が振り分けられることはない。いつでも兔を狩ったり魚を釣ったりできる。

 気候も年中過ごしやすい。

 何が不満だったのか。彼女は最期の日まで幸せそうに笑っていたというのに、何故自分は、その思い出に反するような生き方しかできなかったのか。彼女の純粋さと優しさに、報いることができなかったのか。

「おれはなんて、愚かなのだ……」

「そうだね」

 灰の中から声がした。まだ声変わりをしていない少年の、柔らかい声だ。

「ぼくたちもそうだった。ネママイアさまや、近所の仲間たちが心配してくれたのに。逃げようって、言ってくれたのに。ぼくたちは変わることが怖かったんだ。唯一無二の集落を離れるのが怖かった。しばらく離れてまた安全になるのを待ってから戻ればいいのに、ぜんぶが不安で、意固地になってしまった。周りの気遣いを、愛を、受け入れなかった」

「……そうか」

「でもきみはまだ間に合う。体があるうちに気付くことができる」

 帰りなよ。

 実体を持たない死霊の魂が、真摯に呼びかけてきた。男は戸惑いながらも、心が揺らぐのを自覚した。

「帰れるのか。おれは、まだ」

 少年からの返答はない。気が遠くなるような静寂があるだけだ。

 けれども男は、希望を探さねばと、いつしか考えていた。あふれんばかりのやる気で、探す気でいた。

 心を落ち着ける。探す。微かな兆しを求めて、数十秒か、数分か、数刻かの間、灰の海を泳いだ。

 元の面になんとか戻ると、やはり火山は世界の端でそびえていた。歩き出す一歩ずつがまた灰に沈むようで、気が付けば腰まで沈んでいた。

 ――あそこに行く方法があるはずだ。

 目を閉じて耳を澄ます。風だ。風さえあれば、停滞した世界は浄化されるのではないか。風の神霊の名は何と言ったか、それだけが思い出せない。祈る神の名がわからないのが情けない。

 しゅるん。

 かろうじて音がする程度の静かな風が、右斜めの灰をそっとかき混ぜた。必死な想いで手の平で包む。神霊の脈動は感じられなかったが、それはつむじ風となって灰の海を穿った。

 男の胸には、感謝しかなかった。


 ――よう。感謝ならオメェの女にしな。救いだ、受け取りやがれ!


 これほど眩いものがこの世にあるのかと号泣する。光る輪郭としか視認できないこの大いなる気配、神霊だ。神霊の欠片はずっと共にあったのだ。何故、忘れていた(、、、、、)のだろう。

 救済だ。

 男は、ようやく解放されるであろう少年の魂を想って、ますます涙した。


     * * * * *


「オカエリ、っつーんかね。オレ様が風と空気を司る神霊ヲン=フドワ様だ」

 豪奢な玉座を見上げるものかと思いきや、その不敵な声は、すぐ傍から響いてきた。地面にあお向けに倒れた男を覗き込むのは、肩よりも長い髪を緩くしばった青年だ。日に焼けた顔にはそばかすがまばらに散っている。垂れた両目には意外と覇気が満ちていて、見透かされている気分にさせる。青年が膝の上に頬杖をつくと、髪以上に緩く重ねられた衣服が、ここぞとばかりに右肩をずり落ちた。

「生きて戻ってこれた気分はどうよ」

 ――大変に痛くて、苦しい。けれどもそんなものがどうでもよくなるくらい、すべてが愛しい。

 背中を支え上げる大理石の冷たさも、瞼をこじ開けんとする陽の光も。久しぶりにすがすがしい気分なのは、死霊が去ったからだろうか、手足が持ち上がらなくても、倦怠感以上に幸福感があった。

 男の言葉にならない感想を、神霊は難なく汲み取ったらしい。青年の姿をしたヲン=フドワは、そうかそうかと嬉しそうに点頭した。

「まあ、五体満足じゃあねェけどな」

 青年の視線が流れた先を追うと、ひどい有り様だった。

「おれの左足が……」

 ない。もともと左の膝裏に死霊憑依を示すミミズばれが表れていたのだが、今見ると、もはや膝から先が完全になくなっていた。傷口もなく、脚が途切れる箇所には焼け爛れたような醜い皮膚があるのみだ。

 不思議と悲観しなかった。彼女が少しずつ痩せ細って弱っていった日々を思い出し、それでも毎日を朗らかに過ごしていた様も思い出す。足が一本なくなったところでどうしたと言うのだろう。

「なあ、オレ様たち神霊が、島の仕組みをわざわざ考えて創り上げたわけじゃねェ。ここに世界があって、オレ様たちが仕組みそのものだったから、世界を育てることに決めたのさ。で、オメェはどっちだ。すべての事象には意味がある派か、なし派か?」

「『あった方が素敵じゃない』、彼女がそう言っていたから、おれもあってほしいと願おう。困難を経て彼女は輝いた。その輝きをおれが受け継いで、前向きに生きられたなら……運が無かったのも、必要だったのだろう」

 男はこれからフラガリエ火山を訪れるつもりだった。あれが幾年前の出来事だったかは知れないが、それでも弔いたい者たちがいる。片足を引きずってでも行かねばならない。

 ヲン=フドワは声に出して笑った。

「いいんじゃねェの。そう思いたきゃ思いな、オメェの人生だ」

 青年が差し出した手を、男はためらわずに取った。光を握ろうとしているような、不明瞭な手ごたえがした。

 向き合う形に床に座す。神霊は、何か欲しいものはないかと問いかけた。

「オレ様とロウレンティア神殿からの快復祝いだ。あんま食いもんはねェけど、それ以外で」

「これ以上の御恩は受け取れません。おれにそんな資格など……」

「このオレ様がいーっつってんだからいーんだよ」

「で、では」

 気圧され、男はしばし目を伏せた。

 やがて願い出た。

 風をもう一度巻き起こしてください。二度と停滞した人生を送らないように喝を入れてほしい、と。

 神霊ヲン=フドワは大きく首をのけぞらせて笑った。笑い終わらないうちに、広く複雑な構造の神殿の端から端までに、力強い風を吹き抜かせた。



*ふらりと書いてみたくなったシリーズ。


やりたいことがいくつかあったのだが、果たせたかはちょっと謎。

救済者を風ヲン=フドワと炎イオヴェズのどちらにしようかかなり迷った。暑苦しいイオヴェズでの炎バージョンも面白かったかもしれない。


人生が微妙なポイントにあった時を死霊に憑かれて悪化した。

このあと、帰る場所はおそらくないが、まあ気にすまい。


今代のヲン=フドワ

なんだかんだで面倒見がいい兄ちゃん。

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