プルガ
*ちょっと残酷あります。苦手な方はご注意ください。
まとまって物を売り買いできる場所を作ろうと最初に考えたのは、果たして誰であったか。
それまでは個人同士で取引をしたり、自らの足で物品を販売して回るのが常識だった。島中の人口の高いところに市場というものが現れ、更に街道というものが設立されるようになってから、幾年と経っていない。そういった概念がまだ真新しく、近くの集落からわざわざ物見に訪れる者すらいる。
夏のひと月も半ばの正午、街道のにぎやかな人々の波から切り離されたようにして。ひとりの青年が塀に背を預け、通り過ぎる人々を観察していた。
すらりと背が高い。外套のフードをかぶっていて髪は隠れているが、優しげな目元や口元にたたえた薄い笑みには、他人の警戒を解く効果があるようだった。
歳のほどは一見では二十歳くらいに見える。しかし深い茶色の瞳に秘められた知的な輝きが、彼がより多くの年月と経験を経ていることを雄弁に物語った。
「おにいさん、保安のひとかい」
青年の傍らの老婆が問いかけた。
彼女はひっくり返した木箱を椅子に見立て、出来立ての香ばしい食べ物を売っている。客が来ていない隙を狙って話しかけてみたらしい。
「ううん、そんなんじゃないよ」
「でもずっと立ってるね」
佇んでいる位置から考えて、警備の役割を担っているのかと勘違いされても仕方がない。ここは見晴らしがよく、街道の端から端までを見通せる。彼は腕を組んで人込みを見つめていたのだから、なおさらに怪しい――保安でなければよからぬ企みを持っている人間を思わせる。ところが、大きな荷物を肩から斜めにさげているだけで武装をしていないため、そうとも言い切れない。
「さがしてるんだ」
「知り合いを、かい」
「そんなものかな。まだ知り合ってはいないけど」
「なんだいそれは……まあいい、肉団子でも買っていくかね」
問いの形を取りながらも既に決定事項であるかのように、老婆は肉団子が四つ並んで刺さった串を差し出した。甘酸っぱい汁を塗られた艶やかな表面から、もくもくと湯気が上がっている。
青年はすぐには答えなかった。まず串の上に視線を滑らせては落とし、老婆が使っている金網を一瞥してから、甘やかに微笑を返した。
「ありがとう。いただくよ」
* * * * *
『見つけた』
熱々の肉団子を舐めて味わったのと同時に、青年は歩き出した。探し人の気配が近付いたのを知ったからだ。知らせてくれたのは今しがた響いた声――まるで頭の中に響くようで、言語である必要すらないような、直接的な「意思」として受信される。
青年は肉団子に息を吹きかけつつ、慎重に口に詰める。そして発声せずに脳内で訊き返した。
『どっち方向?』
『真前を左にずれたところだ。あまりに相手の<欠片>が曇って小さくなっていたから、感知するのに苦労したぞ』
『それなら力も弱まってて、向こうだってこっちに気付きにくいかな』
『そうとも限らぬ。元々もって生まれた才能があれば、欠片の力が弱まっていても、霊的存在を嗅ぎ取ることは可能だ』
わあ不公平ー、と呟いて青年は足を速めた。霊的な事象を探索する力にあまり恵まれなかった彼としては、面白くない状況だ。
すっかり空となった串を捨てて、神経を研ぎ澄ましてみた。だが人がごった返しているこの場では、異変を感じ取るのは困難だった。
共に在る存在の助力を得た方が話が早い。青年は、「声」の主が再び話すのを待った。
『距離が急速に縮みつつある。ワノトギよ、感付かれたようだな』
『ひとり?』
『神霊の欠片を有する者の数ならば、目標ただひとりで間違いない。汝を襲いに来るであろう人数を問うているなら、まるで見当がつかぬな』
『えー、後者もひとりであることを願うよ。どうしようか、トギ。どこで迎え撃とうかな』
己の内の霊的存在に、青年は全面的な信頼をおいていた。
実体を持たない尊い魂――紆余曲折を経て精霊に昇華した死霊――トギ。青年にとっては何十年も共に過ごした相棒であり、疑似親子のような関係でもあった。
また、彼のトギは個人の呼び名を失って久しいが、それでお互いが困ることは特にない。
『そうさな……この辺りは雨が少し遠のいているな、水が少ない。かといって、民の貯水池を損なうわけにもいかないか』
『とりあえず、人気のないところへ誘導するよ』
言葉にしてから行動に移すまでが早かった。
荷袋を片手で押さえつつ、足早に街道を外れる。トギによると、相手はしっかりつかず離れずの距離で追ってきているらしい。あちらから尾けてくれるとは手間が省ける、と青年は皮肉っぽく笑った。
狭い村だ。街道から離れて、開拓されていない区域に至るまでに、数十分とかからなかった。村の外には、野しかない。
この時点で青年は駆け足になっていた。
「まったく、神霊さまもワノトギ使いが荒いよ! 『お前が一番近いから』って理由だけで人を派遣するの、ほんっとやめてほしいなあ! 水気がないの超不利! そんで僕、肉体労働向いてないんだよね!」
『吾は十分に向いていると思うが』
「ぜんっぜん! そんなこと、ない! よ!」
最後のひと跳びで片足を軸にし、勢いよく前後回転する。風圧で、フードがひとりでにハラリと下りた。
青年は息を整えて身構えた。
目前の坂を苛立たしそうな足取りで下りる三十代後半ほどの歳に見える男を、無遠慮に眺めやる。靴の底を引きずっているのか、足音が随分とうるさい。
男は長い袖と裾の衣服を重ねて着ていた。中肉中背で、角ばった輪郭や力強い鼻梁からは精悍さを感じられなくもないが、無精ひげを放置しているのが気になった。肩まで無造作に伸びた黒髪は、右耳の前部分が小さく一本の三つ編みに結われている。それ以外に垂らした髪は、しばらく梳かれていないように見えた。
細く吊り上がった黄金の双眸といい、不潔とまでは言わなくとも、どこか不信感を煽る容貌である。逆に服に使われた布地がやたら豪奢そうなのも気になる。
「さて、名乗りを上げるのが礼儀ってもんだよね。初めまして、金属を司りし神霊ユシャワティンの欠片を宿したワノトギさん。僕はポフィカント」
青年は己の藍色の頭髪を軽く撫でながら自己紹介した。その髪を、相対する男が睥睨する。
マスカダイン島のどこを探しても何人と見つからない、「珍しい」の枠を超えた異質な色である。一般の者なら畏怖の眼差しを向けたであろうに、黄金の目の男は、唸りに近い声で応じた。
「貴様も、そうなのだな」
「お察しの通り。かのヒヤシンス地方を加護せし水の神霊フラサオに準じる、僕もワノトギだよ」
「フラサオだと? ヒヤシンスは南東、島のほとんど逆側であろうに。ここは北端、ロウレンティアとダフォディル地方の境目の地だ……何をしに来た」
男は名乗ることをせずに、冷ややかな敵意をむき出しにする。それを受けて、ポフィカントはただ肩を竦めた。
「あのね。何って、君と話し合いをしに来たに決まってるでしょ」
「島を縦断してまでか。私には話すことなどない」
拒絶の裏から滲み出る動揺を、ポフィカントは微かに感じ取っていた。何も思うところが無いなら、わざわざ村の外れまで追ってきたりはしない。この男は不安なのだ。自分が築き上げて来た人生が、崩れて去ってしまうのが。
ポフィカントは自身の前腕の肘の付け根の、青い燐光を帯びている箇所を意識した。神霊に授与された、神聖な欠片を内包している位置だ。それすなわち、精霊が憑いている部位でもある。
『その者が有する欠片、そして内に在るトギは――ひどく軋んでいる』
伝えた声はどこか悲しげだった。いわく、向こうの欠片は波動が弱まっていてトギの声も聴き取れないほどだという。抗いたくとも、トギは基本的に自らの宿主であるワノトギの意思に逆らえない性である。
哀れだ。使う者も、使われるモノも。声が聴こえなくても、魂の叫びが想像できる。
「しらばっくれないでよ、時間の無駄だ。心当たりがあるから、他のワノトギの来訪にびくびくしてるんでしょ」
「はて、私が何をしたと言うのか。私が行使したユシャワティンの力で、村民の生活が豊かになったじゃないか」
「農具を直したり、生活必需品をもっと丈夫に作り替えてたみたいだね」
ポフィカントの脳裏に、老婆が使っていた金網の煌きが蘇る。
「それだけならよかったけど。君は武器商人とつながっているんだってね。神霊の恵みで人を殺す道具を作り、その儲けで懐を潤わせている。我欲が神霊の欠片を曇らせ、小さくしているのは自分でもわかってるんじゃない?」
「…………」
袖の中に両腕を突っ込んで固い表情をしていた男は、細い目を更に細めてみせた。反省の色は、見られず――。
「君、このままだとトギ堕ちになるよ」
ひと息に断言した。
非常に残念なことに、ポフィカントがこういった勘違いした輩を相手にするのは初めてではなかった。みな同様に、あと少しだけ、もう少しだけ、とトギを使った悪事を働く手を止められないのだ。得られるものが甘美に過ぎるからか。
トギがワノトギの意に寄り添えても、神霊の敷いた摂理は絶対だ。神霊の魂の欠片を悪用すべからず、その摂理に沿ったトギと反発したがるワノトギ、そこに歪が生じる。身体が歪を無理に収束させようとして最終的に二つの魂を融合させるが、その反動で、肉体は死に至る。
では弾き出された魂はどうなるか。天災が如く凶悪で強烈な、さまよえる悪霊と化すのみである。
「今なら間に合う。神霊の御前で悔い改めて善行に励めば、ユシャワティンさまの欠片をきっと留めさせられる」
「なぜ、そんなことをせねばならん。欲を抱いて何が悪い。人に、武器は必要だ。金は、私に必要だ! 貴様にもわかるだろう、惰性のような人生への不満が。必要とされる、この満足感が!」
「わかるよ。僕だって人間だ、欲も羨望も色々ある。ワノトギになって数十年、周りの人よりずっと老いるのが遅いぶん、思考の渦に囚われる時間が長いしね」
束の間の物思いに、ポフィカントは僅かに目を伏せた。必要とされなければ存在理由を見失ってしまいそうな心情は、よくわかる。
だけどね、と目線を激しく持ち上げる。
「制約なんだよ。力を与えられ、命を永らえさせてもらった恩に、僕らワノトギは報いる使命なんだ」
「使命だと? 偉そうに、押しつけがましい話じゃないか」
男が嘲笑した。右腕をゆっくりと持ち上げると、長い袖の下から妙な金属片が伸びた。それはみるみる内にぐにゃりと形を変え、見事なカラクリを成した。
弩、人間の腕力で引く弓よりも恐ろしい威力と速度で矢を繰り出せる、まだ知名度の低い兵器である。
言葉を継ぐより早く、ポフィカントは続けざまに射られた矢を避ける。
「偉そうじゃなくて神霊さまは偉いんだよ! なら君は、死霊に蝕まれたまま無残に死んだ方がよかったって思ってる!?」
ザッ、ザッ、と矢が目標を外して地に刺さる。距離が広がれば、ますます不利だ。
後退を止める隙を見定め、地を蹴った。咄嗟に荷物の中から長い棒状の物を取り出し、男に迫る。
いつの間にか男は左腕に剣を握っている。
激しい衝突音――と同時に、薄っぺらいものが視界に散った。
「なっ! 紙!?」
男が驚愕した隙に、ポフィカントは荷物からまた別のものを取り出し、荷袋の方を放り捨てた。
『ポフィ! 巻物をダメにしてどうする! 元は貴重な紙を神殿に持ち帰る為の旅だったろうが!』
「ごめんってば、ちゃんと選んでる時間が無かったんだよ。本命はこっち、ね!」
――ガァン
鉄と鉄が鈍くぶつかり合う音が、人気のない野原を多方向に駆け抜けた。
眼前で、短剣に巻かれた布が音を立てて解けてゆく。
「自覚しなよ。死霊に憑かれたから僕らは神霊の欠片で浄化してもらって、その副作用で死霊はトギになって、僕らはトギと体を共有したワノトギになった。そりゃあ、死霊だけが昇天して普通の人生に戻れた方がよかったけど。こうなっちゃったものは仕方ないよ。そもそも命も身体も大地も、みな神霊から借りてるものだ。それが大いなる神霊の絶対的祝福、マスカダイン島が与える『愛』なんだよ」
「…………」
男は昏い瞳をしていた。力を使っていては破滅が早まるばかりなのだが、まるで意に留めている様子もない。
「愛を返せば賜るし、裏切れば奪われる。当然の理でしょ」
「もはや、どうでもいい」
ゆらり。男の周りの空気が歪んで、剣は二振りに増えていた。男には、それらを扱うだけの技量があるらしい。
二倍の手数になった攻撃を、ポフィカントは短剣でいなし続けた。とんでもない圧力が腰や膝にかかる。足がもつれる前に何とか体勢を立て直す必要があった。
飛び散る火花が鼻先を掠る。額に浮かぶ汗が眉骨を伝い落ちて、気持ち悪い。衝突音が耳障りだ。
――最悪だ。こういった労働は、本当に、向いてない――
「どうした、何故力を使わない! ここには操れる水が無いか!? トギを通せばいくらでも作り出せるだろう! 説教をしに来ただけか、若造!」
興奮した男が叫んだ。
力を使えと言うが、そう容易い話ではない。いかにトギが偉大だとして、欠片の効果は媒体であるポフィカントの潜在能力に大きく左右される。彼らでは戦闘に役立つほどの水量や水圧を易々と引き出せない。
よほどの大技を出したいならば、身体の主導権をトギと交替すると言う手が一応ある。けれどもそれでは肉体の消耗が激しく、数十秒程度で決着を付けなければならない。
リスクが高い策を、基本的にポフィカントは取らない。
「ふん! ただの鉄ではユシャワティンの力で補強したこの剣にはかなうまい」
「ぐっ……!」
ひと際大きな衝突音が、二重に響いた。
吹き飛ばされ、ポフィカントは地面に腰をつける。衝撃に押し返された短剣の平な側面が、顔を映すまでに近い。
二つの剣を短剣だけで受けたのだ。折れるなりヒビが入るなり、損傷は免れない――
「――って、思うでしょ?」
青年の口角がニヤリと吊り上がった。
実際は、短剣は(正確に言えば持ち主の手が)激しく震えていながらも、形を保っていた。
「この短剣、君が加工した代物なんだよ。市場で取り扱ってる人を探して、あらかじめ入手しておいたんだ」
「なん……だと。悪あがきだ! 貴様の劣勢は動かん」
「どうかな。これ実はただの、時間稼ぎのおしゃべりなんだ」
二振りの剣を構え直して襲い掛かろうとする男に、ポフィカントは悠然と笑いかけた。
空いた手は地面に触れている。水の神霊フラサオの欠片と連なる方の手が、だ。
「!?」
それから男の足が泥に、水たまりに、深く吸い込まれるまで。数秒とかからなかった。
トギの力で男の真下の地下水脈を刺激して、地盤をごっそりと「沈ませた」のである。土が陥没して、底なし沼ができあがったわけだ。
「これで君たちは破壊と虚無の因果から外れた。悪霊にならずに済んだ――……さようなら。名を知らない哀れなワノトギと、出会うこともなかった彼のトギ」
男の断末魔は、すぐに重々しい泥によってかき消された。
終わってしまえば呆気ないものだ。
ポフィカントは沼の縁で膝をついて黙祷した。
――彼らの魂が、どうか神霊の元へ還らぬことを。
やがて、人ひとりの命を奪ってしまった事実が、胸の内に重く沈み込む。
命まで救えなかったのはこれで何人目だったか。まだ一桁なのが幸いだが、年々、こういった案件で呼びつけられる回数が増えている気がする。
「トギ。君の拠り所も、穢れ曇ってしまったかな」
『また磨けばいい。フラサオさまはきっと吾らをお赦しになる』
「どうかな……フ―さま、岩みたいにかたくて厳格だから」
『汝が知る以上に、主は汝を慈しんでおられるさ』
欠片の在処から答えるトギは、元気付けるように話した。気遣いが、素直にありがたいと思った。
『案ずるな。汝はうまくやっている』
「ありがとう、トギ」
『礼など今更いらぬよ。吾らは、兼ねてよりの運命共同体。フラサオさまに魂と欠片を還すその時まで、共に「生きる」さ。しかし汝は、ああいう風に考えていたのだな。当然の理……か』
「だって受け入れなきゃやってられないじゃん。君も、僕も」
『それが汝の強さだ。死してなお、吾がある意味でこうして生を続けていられるのも……こう言ってはなんだが、憑いたのが汝でよかった。誇りに思う』
「やめてよー。お互いさまでしょ」
何やら面映ゆいので、誤魔化すように草の上に寝そべった。
風や陽射しが気持ちいい。人ひとりを葬った直後で爽やかな気分になれるのもどうかと思うが、世界が美しいのは仕方がない。
できることはした。できることしか、できなかったとしても――
善かれ悪かれ、ポフィカントは現実主義であった。
物思いに耽っている間に陽は角度を変え、顔にはかわるがわる蝶が停まった。どれくらいの時間が経った頃か、ようやく起き上がって大きく伸びをする。
「さーて、善いコトしながら青の神殿に戻ろうっか。――叱られに」
『だから赦してくださると言っておろう』
「でもそれまではひととおり叱るでしょ? もっとうまく説得できなかったのかー、とか、巻物が少ないー、とかさ」
『むむ……』
「はは、そんなもんだよね。めんどくさいと思いながらも、結局は一番居心地がいいんだ。最近帰ってなかったし、眷属のみんなも変わらずやってるかな」
『戻るのが楽しみになってきたな。ゆくか、青の神殿に』
「うん。行こうか。デュモンド湖の底に広がる、我らが神霊フラサオさまの御座すヒヤシンス神殿に」
外套についた草を払い、所々にできた緑色の染みに顔をしかめ、ポフィカントはフードを深く被り直した。荷物を整える際、ついでに短剣も回収した。
なんとなく地図を開きたい気分ではなかった。
青年は傾いた太陽を背にして、緩やかに歩き出す。