第一話③-2
「どうした? 蛭女さん……?」
おっといけない。
突然“キング”と叫びだしたわたしに、黒蹄先輩が戸惑っている。
思わず、だった。反射的に、だった。
「先輩、“キング”は今から何かする気ですよ! 解説、お願いしますよ!」
わたしは黒蹄先輩の立ち位置をしっかりと口にして、先輩に認識させる。
思い込ませる。そう、貴方は解説役なのだ。この場において。
「むむ」
わたしにそう言われた先輩も、まんまと観戦に力が入る。集中して“キング”の試合を観ようとしている。
ああ、これはまさに“キング”だ。“キング”が“キング”だった頃の“キング”してる。
何かするように見せかけて、本当に何かするのだ。
そして、必ずわたし達の様な愚民を導いてくれるのだ。
そして、この“キング”から湧き上がる可能性の息吹を感じ取ったのか、
「おはよう“キング”……。さあ試合をしよう」
と、仁君は再開の言葉をかける。
「オメーに“キング”って言われても嬉しかねえよ」
「“キングゥー!!”“キング”“キングゥ――!!”」
呼んであげる!
わたしは何度も叫んだ!
「え? いや~、タハハ。うーっす、うーっす、“キング”でーす」
“キング”が少し照れる。大丈夫だ。意外と冷静だ。
「よし、いいね! やろう! さあ、レシーブポジションについて!」
興奮を我慢できない様子の仁君が、急かす様に言う。
「ああ? 何言ってんだ?」
“キング”はラケットを構える。
「俺がお前のサーブを受けるのは、ここだあああ!」
と、言った“キング”の立ち位置は、コートを後ろから見た場合の、左右で言えば右側でまあ普通。
しかし前後で言うと自分のコートの真ん中辺り、つまり、サービスラインの上だ。
かなり前進している。普通のレシーブに比べて。
普通、威力の高いサーブを待ち構える時は、出来るだけ威力の落ちた時に打つために下がる。
ついでに言うと、バウンドの丁度いい高さで打ちたい。
でもってサーブはサービスコートに打つのがルールだから、やっぱり下がりに下がって、ベースライン、つまりコートの一番後ろまで下がる。
これが定石。常識。これに関しては、全国区の試合から地区大会まで共通のレシーブ作法であると言っていい。
だからこそ仁君も、“キング”がレシーブポジションに着いていないと思ったのだろう。
では何故、“キング”は真ん中という、前進にも程がある位置に出たのか。
超強力な仁君のサーブに対して、何故、威力も高く、しかも跳ね上がるバウンドの来る所で待ち構えているのか。
「さあ、先輩、解説してください」
「んなもん簡単だ。謎でも何でもない」
おお!
「凄嵯乃は身の程をわきまえたんだ。
恐らく、今までの、中学までの凄嵯乃ならば、例え愛仁のサーブを相手にしても、走って、体勢が崩れてでもギリギリで追いつき、腕の力だけで強力なレシーブを打っていたに違いない」
それはその通りだ。中学までの“キング”は走らされて、汚いフォームになっても何だかんだでキレイに打ち返していた。
それは結局、あの右腕だから出来たことなのだろう。
「凄嵯乃はそれを諦めたんだ。諦めるのは遅いくらいだがな。
今の凄嵯乃では走って追いついても、腕力や操作性の関係で『打ち返す』のではなく、精々『跳ね返す』がやっと。
その現状を認め『打ち返す』方法を模索した。
そして、走らされないように考えたんだ。その結果が、コレ、ということだ」
「どうして走らされたくないからって前に出るんですか?」
「おいおい、そこにも解説がいるのか。まあ、つい最近まで中学生だった女子には無理もないかね」
「むっか~」
と、怒りがこみ上げたが、黒蹄先輩の言葉を聞いてビクッとしている次二郎君と邪先輩の姿を見て落ち着いた。
この二人もわからなかったんだ。男子のクセに。
「レシーブの時走らなければならない範囲は、扇形の円弧の長さを求める式で計算出来る」
「 l = 2πr × θ/360 ……ですか?」
「そうだ。この『l』がレシーブ側の走らされる範囲だ。これを小さくする必要がある」
「はぁ」
「ここでの『θ』は愛仁が左右に打ち分けられる角度だ。片側のサービスコートに行けなければいけないというルールの関係上、かなり制限はできるが、それ以上はコチラから変えることの出来ない数字だ。
殆どサーブ側の、愛仁の自由自在。
今、凄嵯乃が変えることの出来る数字、それは、『r』だ。では、『r』つまり半径とは何だ?」
「二人の……、距離?」
「そうだ。『二人の距離』。
この距離を狭めることによって、円弧『l』の長さを短くした。つまり左右に走らされる範囲も狭くなる」
「左右……、横の範囲だけでいいんですか?」
「元々、サーブは縦に来るからな。横さえ追いつけば、後は勝手に自分の所に来てくれる。
待ち構えるだけでいい。ていうか、だから円弧でいいんだよ」
「じゃあ、もうどこにどんな鋭いサーブを打たれても“キング”は走らずに、体勢を崩さずに追いつけるわけですね!?」
「ああ!」
黒蹄先輩が誇らしげに言う。
「ただ……」
そう思いきや、その直後に汗をにじませ始めた。
「全国区の愛仁のサーブをこの距離で、それも跳ね際を叩くことなど可能なハズがない。ありえない。
それとも凄嵯乃の反射神経はそこまでのものなのか……? それこそ、中途半端に触るだけでは『打ち返す』ではなく『跳ね返す』が関の山だぞ」
結局そこに行き着くのか。
モヤモヤとした私達の気持ちを余所に、コートの中では時が流れる。
「いいねえ! ワタクシ、ここまで傷つけられたのは初めてだ」
と、仁君は嬉しそうに言う。
どうやら、前にでた“キング”の行為が安い挑発にも見えたらしい。
確かに、超強烈なサーブを相手に前に出ることは十分挑発的な行為だ。
でも、多分、仁君はそれが単なる安い挑発に留まらないことはわかっているのだろう。
「はぁぁあああ!」
だから、ムキになるわけでもなく、いつも通りのサーブを打つ。
“キング”の出方を見るように。
ただ、そのいつも通りのサーブですら200キロを超える超速球であるわけで……。
バカッというラケットとボールが衝突する音がした時、私の認識ではそのほぼ同時にコートへボールが突き刺さる。
その真ん前に“キング”はいて、またほぼ同時にボールがラケットに当たった時の音がした。
再び聞こえた、ボールとラケットの衝突音。
つまり、“キング”は、
「当てた!!」
と考えたことと同じ内容の声を誰かが上げる。さすがだ。“キング”はあの威力のサーブを、あの距離で反応したのだ。
さあ、肝心の打球はどこに行った?
「あっ!!」
見つけた。
打球は遥か上空を遊泳していた。ごくわずかだが前には進んでいるから、かろうじて仁君側のコートには入るだろう。
でも……、これは、完全に、失敗だ。
コートのネット際、つまり『浅い位置』にボールが落ちようとしている。ゆっくりと。
そして、ボールは高く上がった分だけ高く弾む。だから、きっと、この球のバウンドは相当なものになるだろう。
もう仁君は駆け寄っていて、最高の絶好球を、無慈悲に打ち返す準備をしている。
ネットより高いバウンドでネットに近いから、もうほとんど叩きつけるように打つだけで“キング”側のコートへは強烈に入る。
やっぱりダメだったのか。
全然、『打ち返した』とは言えない、『跳ね返した』だけ。
走らされてフォームが崩されるからと前に出たところで、反射能力的には無理があったのか。
もちろん、“キング”の反射能力はかなり高くて、あのサーブであっても奇跡的に返すことが出来た。
そう、返すだけでも奇跡レベルの事なのだ。しかしそれが限界。
この球もあっけなく処理されようとしている。
所詮は返せただけ。
これまでと何ら変わらない、『跳ね返せた』だけ。
いや、むしろ高くて浅い分、悪化している。
「フハハハ! 残念だったね! この点もワタクシが頂くよ!」
この結果に“キング”は何を思っているのだろう?
そんな疑問から、私は今までボールに向けていた目線を“キング”の方をへ向ける。
アレ!? いない!?
私は、今“キング”がいるであろうと思った、コートの後方を見た。
何故なら、仁君が超強烈な球を打とうとしているのが明白だからだ。
だから、普通は身構えるように後ろに行くだろう。そう思ったのだ。
……違う!
バカか、私は。
今、何を見ていたというのだろう。
強いサーブが来る時に、走りたくないからと前に出たのが“キング”なのだ。
強いストロークやショットが来る時のみ、わざわざ下がる道理などない。
まったく同じ円弧の理屈。
私は、すぐにコートの前方、ネット際へ視線を切り替える。
「来いやああああ!」
そこには、キラキラした笑顔の“キング”がいて、ネットへ貼り付くように立っていた。
ボレー勝負だ。
仁君の最強のストロークを直近で抑え伏せるつもりなのだ。
「同じ手! はっはっは! なるほど! ワタクシがバカだった!
こんな同じような手、すら想像が出来ていなかった! 素晴らしい! ならば全力で行くよ!」
気づいた仁君も目を見開いて、でも嬉しそうに力を込める。
「確かに通常のボレーならば、ストロークよりもスキルを要求されない。利き腕に対してのハンデは少ない!」
と、黒蹄先輩は歯を食いしばり唸る。
「って、こんなの可能なんですか!?」
「理屈の上ではさっきのレシーブと一緒だ」
私の素っ頓狂な声に黒蹄先輩は早口で答える。
「それに、レシーブの時よりネットに近いから、捉えた後は目の前に落とすだけでいい。
大きく返す必要がない。それに、相手は大振りのストローク。スイング後にはスキが出来る。
例え、生きた球、と言えなくても、そして目の前に落とされたとしても、拾うことは、難しい」
「あ、でも、上に打ち上げられたら……?」
「だから! 横じゃなくても同じ。高さでも理屈は一緒だ」
興奮している時に、自分ではもうわかりきってることを聞かれたら、イラッとするよね。
黒蹄先輩の気持ちはわかるよ。
でも私にはわからんことだからしょうがない。と、ちょっとイラついた。
「この場合は三角関数の方がわかりやすい。今求める高さは、打球が凄嵯乃の居るネット際に到達した時の高さだ。
これを今現在確定している数字から求める必要があるが、それは二人の距離だ。
そして二人の距離は僅か1.5メートル程しか離れていない。
この状態でロブを打つ為に打点を落とし、例えば地上50センチの高さで、45度の角度を付けて打ち上げたとしよう。
tan45°の比率は一だ。つまり、1.5メートル進むまでに1.5メートルしか上昇しない。
それに打点の高さ50センチを追加しても2メートルだ。
ラケット持って腕伸ばして軽く跳ねれば3メートルは届く。余裕だ」
まあ、要するに近いから“キング”の届かない高さまで昇りきらないってことだろう。
黒蹄先輩は続ける。
「かと言って、愛仁はこれ以上、打ち上げる角度を大きくすることは出来ない。大きくすればする程、球が前進する力が少なくなるから、ロブの着地点も浅いものになってしまう。凄嵯乃にあっさり追いつかれ、これ以上ない程の絶好球を与えることになってしまう」
“キング”のレシーブがついにコートと衝突した。跳ねる。ああ、やはり高い。
この高いバウンドは叩きつけて速球を繰り出すには最適だ。
「よって、愛仁が取るべき最良の一手は、凄嵯乃の反射神経を超える速球を全力で打ち抜くこと、ただそれのみ!」
「ッラアア!!」
行った!
仁君は身体を軽やかに回転させ、しかし全てを飲み込んでしまうかのような重厚なスイングをボールにぶつける!
周囲の喧騒を掻き消す程の発砲音と共に、私はボールを見失う!
本当に、放ったのか、あるいは飲み込んだのか、素人の私では区別がつかない程の威力と勢いだ!
そして、それは来た。
まだ仁君が発したインパクト音が耳の奥で暴れまわっている内に、それに応えるようにして発せられたもう一つの音。
“キング”は、この距離であの球を打ち返したのだ!
「おお!!」
音による驚きと、それを返したという事実が混ざり、思わずといった歓声が湧き上がる。
そして、私がすっかり見失っていたボール。
そのボールも、仁君の左足元を跳ねる形で突如として視界に現れた! そのまま仁君の横を駆け抜ける!
「おおおおおおおおおお!!」
そう! “キング”は遂に、当てるだけでなく、押し込み、落とし、鋭く、攻めの一手を放ったのだ!
さらなる歓声が湧き上がる。
「ははっ」
凄すぎて笑ってしまう。
何が凄いって、“キング”のボレー方法だ。私は球の動きを完全に見失っていたが、“キング”の動きは見えていた。
で、その“キング”のボレーの仕方が、もう上手い人が普段するような、ラケットを伸ばしてボールを捉えて弾くような綺麗なボレー、とは全然違って、ただラケットの面を自分の前に突き出して、ボールに当たりに行く、という磨かれた技術も繊細な反射神経も一切用いない豪快なものだったのだ。
迫りくるボールと自分の間にラケット挟んだだけ。
簡単にボールがよけられるなら当たりに行くのも簡単だ、とでも思ったのだろうか。
ボール怖くないのかよ。どんなガッツだよ。どんなけテニス好きなんだよ。
良かったね。復活して。
だが、次の瞬間、全ての人間が目を疑った。
仁君が背面側から倒れこむ。いや、潜り込む、という表現が正しいのかもしれない。
身体を思いっきり伸ばして潜り込み打球の後ろに回って体勢を立て直してから一瞬停まって、つまり力を溜めて、腕を振った。
打球は再び“キング”へと向かう。
「打ち返したのか!? あの状況で!?」
信じられないことだった。確かに“キング”のボレーは一回弾んで、仁君の左横を過ぎていったのだ。
それなのに、仁君は、『打球より早いスピード』で後ろへ飛び、追いつき、腕の力だけで返したのだ。
人間の動きなのか疑ってしまうほどだ。
ちょっとボレーで返しただけでは倒せない。
「次二郎、邪、しっかり見ておけ。これが、かつて全国を席巻した二人の男による、本当のテニスだ……!」
黒蹄先輩が部長としての言葉を漏らす。
まるで、それを皮切りにするかのように“キング”と“神”の至近距離ボレー対決が始まった。
まず“キング”が迫る来る球を、一瞬は油断したとはいえ難なく返す!
左腕であってもスイングを抑えたボレーは何とか形になっている。
一方、体勢を立て直しつつあった仁君は、しかしこの距離でも反応し、身体を伸ばして打ち返す!
後は、もうビュッ! とか バシッ! とかいう音が沢山して、そのリズムに合わせて二人が踊っているような殴り合っているような姿に見えるだけ。
ああそうだ。私はもう、何が起こっているのか認識が出来ないでいる。
球がどこにあるのか見えないし、二人がどんな駆け引きをしているのかなんて想像もつかない。
黒蹄先輩が外野からのアドバイスがルール上、出来ないといった。
外野の方が見えるものが多いからだと。
でも、私にはもう外野であってもわからない。でも“キング”はあそこで戦ってるんだ。
もうテニスなんて辞めようとしていた“キング”が。
「あ!!」
“キング”はボレーを取りこぼし、打球はネットを越えることが出来なかった。“キング”のミス。失点。
くやしそうだ。ボールとラケットを交互に睨んでいる。
今日、一番くやしそうだ。
多分、惜しい、という感覚と感情があったのだろう。
明確な理由があるわけではなく、いずれ終わるものが終わったに過ぎない。
だからこそ今のラリーは仁君の失点になる場合も十分にあった。正に、点と点の削り合い。
自分はそういう土俵に立っている。
きっと、そんな感覚が今の“キング”にはあるのだろう。だから、余計にくやしいに違いない。
本当はちょっと嬉しいんだろうけど。
「おらおら、はっはっは~! どうだ! 全国最強クラスの“神”ともあろう人がこの片腕スクラップポンコツプレイヤー相手にバタバタしてんじゃねえよ!」
と、“キング”。うむ、興奮で少しテンションが高い。
「ふん、こんなのは奇襲じゃないか。長くは続かないよ」
仁君は挑発に乗るようにして、しかし、もっともなことを言った。
その通りだ。
中学時代、“キング”はストロークの練習を特に頑張っていた。
何故かと言えば、ストロークを制する者が試合を制すると考えていたからだ。
いいボレーもいいスマッシュも、いいストロークによって構築されたラリーの中で生まれる。
圧倒的なストロークで相手を崩し、ボレーやスマッシュで点を決める。
これが“キング”のプレイスタイルであり、王道だった。
しかし、今“キング”がやろうとしているのは、いいストロークなしでのボレー対決。
でも、”キング”だってそんなことは知っているようで、だからこう答える。
「確かに、終始この戦法で試合が可能とは思っていない。
一試合に何度も出来ることじゃない。ましてやこれで勝ち上がってインターハイに行けるとも思っていない。
いずれ対策されたり、俺が持たなくて破られるのは目に見えている。
だから俺は始め、お前にストロークで勝とうとしたんだ。
お前とストロークでやり合えるなら、今後も安定した試合運びが望めるしな。
中堅クラスが相手なら勝てるようになるのかもしれない。
でも、そんな長期計画こそが、俺の驕りだったんだ。
今の俺はまだその域に達していない。
だから俺は奇襲をする。そもそも、ストロークで戦えないと試合に勝てないという発想の貧困さに原因があった。
でも、そんなことはないのかも知れない。一点一点を悩みに悩んで奇襲を仕掛けて、踏ん張って取る、そんなことが可能なのかもしれない。
4ポイント×6ゲーム。
最低24回必要な得点を俺は全て奇襲でとることが可能かもしれない」
全ての点で実力を覆す必要がある“キング”。ならば、当然、その必要があるかもしれない。しかし、なんたるメンドくさいことを宣言したのだろう。私なら試合がイヤになってしまいそうだ。
そう言う“キング”に皆が呆気にとられ、ただ見守る。
そしてラケットを左手に持ちながら、全てを受け入れるように両手を広げ、
「宣言しよう! 今後、俺はこの実力から抜け出せない限り、全ての点を奇襲で取ってやる!」
挑戦状を叩きつけた。
「大変だよ?
全ての点を奇襲によって得るなんて。
楽に勝ちたかったら強くなればいいのに。
君はそれを放棄したんだ。RPGでレベル上げをせずにボスに挑むようなものだ」
「強くなることは最初っから殆ど諦めてたけどな。ぎこちないテニスで勝つつもりだった。
そこはもう諦めついてた。俺が変わったのは、目の前のお前をしっかり見てやるってことだけだよ」
「ふん、だったら、まあなんにせよ、ワタクシを楽しませてくれよ!」
仁君はサーブを打つ!
「これから全部奇襲って言ったけど、取り敢えず今のは結構通用したっぽいから、もう一回これでいこ~」
と“キング”はぼやいて、コートの真ん中でレシーブする。
高く、上がる。
「実は、愛仁にとって面倒なこのボレー対決だが、回避する方法が一つある」
と、黒蹄先輩。
「それは、凄嵯乃がボレーポジションに就く前に、凄嵯乃の放ったレシーブを打ち返すことだ。要はネットに貼り付かれることがやっかいなのだから、その前に叩くというわけだ」
だが、
「どうだあああ!! 俺の球は遅えだろ!? 遅いし、浅いだろ!? だから、お前がボールに追いつく前に!」
“キング”は立ち止まり、
「ネットに着いちゃったぜえええ!!」
そのまま、ボレー対決だ。
再度、あのけたたましいラッシュが繰り広げられる。
その間、迫力あるな~とか、こうして見ると“キング”の動きは最低限で、仁君の動きは結構大きいのが多いな~とか、やっぱ動き大きい方がカッコイイな~とか思っていると、
「あ!!」
今回のボレー対決も決着した。“キング”のミスで。
“キング”の顔に悔しさはない。ただちょっと失望しているだけだ。
「あ、アレ? おかしいな。勝てる気がしない。い、今からでも腕立て伏せするか……?」
乱心の“キング”。
見かねて仁君がメンドくさそうに、迷いながら、
「あ~、もう! この際だから、ハッキリ言うよ! ……君は、ボレーでもワタクシには勝てない!」
「え……、あ、やっぱり?」
「うん、君は今、ワタクシの為に戦術を思考錯誤してくれているようだから教えるけど、君のボレーはジャンケンのグーだけで戦ってるようなものなんだ」
頭を掻きながら続ける。
「君の左腕には、ローボレーとハイボレーを打ち出す為のスキルがない。
どっちも手首と肘の繊細なコントロールが必要だからね。
……結局君は、テニス全体においてストロークとサーブという武器を失って、ボレーという武器だけが残った。
これはジャンケンのグーだけで戦うことを余儀なくされたのと同じだった。
だからボレーの世界へ来たのだろう。
でも、そのボレーの世界でも君にはローボレーとハイボレーという武器を持っていなくて、結局普通に弾いたり切ったりするボレーしか使えない。
ボレーの世界でもジャンケンのグーだけで戦っている状態なのさ」
なるほど。つまり、
「結局は同じなのだよ。君はどんな規模であっても、ボレー対決であってもワタクシに勝てない。
さあ、次はどんな奇襲とやらを見せてくれる?」
どうしようもない現実を突きつける。
でもそれは“キング”を焚きつける為なのだろう。
その“キング”は下を向いて前屈みの姿勢で微笑み、
「いいからこいよ」
サービスラインの位置で、そう言った。
現在、30―0。
大丈夫か? また同じことを繰り返すのか? 性懲りもなく。
と、私が悩もうと悩むまいと、仁君はサーブを打ってきた。
速い。
今までよりも強烈だ。
たぶん、ようやく身体が温まってきたのだろう。
「くっ!!」
とかそれっぽいこと言いながら“キング”はレシーブを上へ打ち出す。
そのままいつも通り……、かと思いきや、ここで事態は少し変わる。
「なんかピョコピョコ走ってる――――!!」
と私が思わず声を上げてしまった通り、“キング”は奇妙は動きを始めたのだ。
小刻みに素早く跳ねながら、しかし確実に前へと進む、この動き。この意味とは?
「このステップは……、フェイント!?」
そう驚くのは例のごとく黒蹄先輩。
「フェイント……、ですか」
「ああ、自分の立ち位置をどちらか側に偏るように見せかけ、相手にその逆へ打たせる。
つまりストロークに角度をつけさせて弾道を誘導するんだ。もちろん、実は偏っているわけではなく、ブレーキをかけていて、その誘導した球を狙い打ち落とす。
それがフェイント」
「意味は?」
「凄嵯乃は正面で向き合ってのボレーを諦めた。
だから、愛仁のストロークを斜めに打たせ、さらに上手いこと反射で返すことが出来れば、愛仁からかなり遠い位置にボレーを打つことが出来る」
「いや! それダメですよ。フェイントに関係なく仁君が真っ直ぐ真ん中に打ってきたら結局動き損です!」
「中央に打つなら打つで、それでいい! 凄嵯乃のズレた位置からなら、打球を横から小突くことが出来る。
コートを横切るようにボレーを打たれては、さすがの愛仁も届かない!」
一方、コートでは、
「ああ~いいね! 乗ってあげるよ! 右か左か! 君の居ない方に打てばワタクシの勝ちなんだよね!」
試合中の二人が睨み合っていた。
右か左か二者択一、という表現をされると、まるでギャンブル感覚でいるのかと思ってしまうが、
「君のフェイントを見破るよ!」
という、しっかりとした攻略への意思表示をした。
しかし相変わらず“キング”はよく動く。
とうとうボールのバウンドが低くなり始めたが、まだ動く。
さすがの仁君も焦り気味だ。
「4……、5……? うぐ、まだ動くのかい? 6……、限界だ! 打つよ!」
仁君は渾身の力と想いを込めて、至近距離のストロークを角度を加えて打ち放った!
「君のフェイントは7回! 8回目の左が本命の『軸ズラシ』だ!!」
仁君は右に、打ち流した! 打ち流した、と言っても威力になんら問題はなく、
「ああ! もうだめだ!」
私は諦める。
仁君が打った瞬間、“キング”は右足を右側へ伸ばし着地させていた。これは右側へ向かっているということ。
つまり仁君から見ての左。
そう、“キング”の動きは完全に仁君に読まれていたのだ。
しかし、軸をズラす、という作戦は悪くなかったハズだ。今回は読み合いに負けただけ。次こそ……、
「なにィ!?」
という仁君の反応に私は視線を“キング”に向ける。
キングは、着地させた右足でこれまでのフェイントとは桁外れの力で、地面を蹴り上げ、そして、飛んだ!!
それもラケットの面を自らの正面にただ突き出す……、これはあのボレーだ。
「うおおおおおおおおお!」
“キング”はボールに当たりに行く! ラケットを介して!
その瞬間、突き刺すような眩しい感覚に襲われ目を瞑る。
瞑り、これがモノとモノが衝突した時の衝撃によるものだと気付く。そして開けながら理解する。
“キング”は、やったんだ!
仁君が仁君から見て右に打った球は“キング”が“キング”から見て左へ打ち返し、仁君のコートの『超右側』で跳ねる!
仁君は走ろうともしない!
一度弾んだボールはコートを通過し、柵に軽く跳ねて、やがて止まった。
得点だ。
皆が、今度こそは得点したのかと空気に確認して、
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
本当の歓声が湧き起る! 焦らされた分だけ、それを発散させようとしているのか、この試合で二点目なのに一点目よりも大きいぐらいだ。
「ふう、やるね。まさか君がこんなにも動ける人間だとは思わなかったよ。君は決して素早い動きで戦う選手じゃなかった」
「おいおい、俺達は一年生になったんだぜ? 基礎練習の比重も上がるさ」
「逆戻りなんだね」
「おう、後輩だしな。敬語の使い方とか忘れちまったよ」
「君の実力は戻んないのにね」
「いい加減泣くぞ? いいんだよ。俺は奇襲宣言しただろ? その方向性で行くんだよ。
お前はお前でどんどん成長してけばいいんだ。我武者羅に練習して」
言われ、仁君は構える。
「全てを奇襲で、ねぇ……」
トスを上げ、
「そんなのが可能なのは、実力のある者だけなのだよ!!」
仁君はまたも強烈なサーブを繰り出す!
“キング”はなんとかレシーブを上げて、再び左右にステップを繰り返しながらネットへ向かう。
「奇襲の弱点は通用するかしないかが打つまで本人だけがわからない、ということ! だからどんどん点を無駄にする! ワタクシを何度も欺けると思うな! この読み合い、もう負けはしないぞ!」
そういう強い言葉を発しながら、落下地点より少し後ろ、バウンド後の上昇が頂点に達
する位置まで走り、
「見切った! 左!」
しっかり力を溜め、叩きつけるようにして、打った!
「でああああああああ!」
「なっ!」
私ももうダメだと思った。
でも、今回もまた、“キング”は仁君の弾を捉え難なくボレーで決めた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
「マジかよ! アイツ、もう完璧に押さえ込んでるじゃん!」
さらなる勢いへと誘うギャラリーの盛り上がり。その中心で、
「よしっ」
“キング”は小さく喜ぶ。
対称的に仁君からは冷静さが見られない。いや、動きは少ないのだけど、それは呆然って言葉が似合うような、落ち着いているっていうより、落ち込んでるっていう人の姿だった。ちょっと信じられない姿だ。
「な、なんだこれは……。一度ならず二度までも、ワタクシは王君の動きが掴めきれなかっとでも言うのか……?」
「と、言うのか……? じゃ、ねーよ! その通りなんだよ! お疲れ!」
また“キング”が勢いに流され、言わんでも良い事を言っている。
こういう時の“キング”は舌が回る。あまりよろしくないなあ。
仁君は転がっているボールを拾い、勢いづく“キング”へまじまじと視線をやる。あの夏を思い出しているのだろうか。ちょうどあの夏もこんな感じだったかもしれない。
30―30。
ラストゲームと思われたこの第六ゲームも、中盤を迎えとうとう互角となってしまった。
その中で、仁君は勢いづく相手に向けてそれを破る為に自分からサーブを打つ、という立場にいる。
そんな仁君の目は間違いなく挑戦者のものだった。
「すごいよ“キング”」
声に出してあげる。
横で黒蹄先輩が、「なんだ? このバカ女」という顔をしているが、その恥を忍んで声に出してあげる。
仁君のサーブはいつも通り強烈にコートへ突き刺さり、いつも通り何とかレシーブを“キング”は打ち上げた。されにステップを繰り返してネットへと走る。
「また同じ方法か! ……考えろ、ワタクシ。相手は慣れない左腕、身体能力もワタクシの方が上、技術は雲泥の差。これだけの要素があって、そう何度も何度も同じ方法で取られていいわけがない」
仁君は走りながら、意識を自分の奥深くに持っていくかのようにつぶやく。
「ん? 何度も?」
そして、それは成功したようで、
「あああああ―――!!」
ちょっとキモいと思ってしまうぐらいの声を上げた。だがすぐに、何をされるのか、という恐怖の方が私には襲いかかる。
「今までと同じ理屈じゃないか――!!」
というツッコミの勢いで高く弾んだ“キング”のレシーブを、仁君は叩きつけた。
それも、自分の真正面方向に真っ直ぐだ。
「どれも同じ理屈! レシーブも! その後のボレーも、このフェイントによる『軸ズラシ』も!
全て、縦の距離が短いから、横の幅が狭くなる、ただそれだけ!
この『軸ズラシ』も縦の距離が短いからズラした軸と反対に打たれても、フェイントの裏をかいても、実は余裕で追いつけるのだ!
どこに打ったかを見た後で、簡単に届くのだ!
要するに王君のリスクはゼロだった! リスクゼロでワタクシの打球コースを誘導したのだ!
それもご丁寧にフェイントを混ぜ、まるで読み合いの勝者こそがこのラリーの勝者であるように錯覚させた!
このフェイントに意味はないのに! 君はワタクシが打つのを見てから動いているだけなのに!」
そしてネットからかなり近いところで打った仁君は、さらにネットに向かって、いや“キング”に向かって走り出す!
「そして! ここでワタクシがすべき事! それは! 打って、その打った方向に走るだけ!
悔しいが、左腕の王君と同じ理屈の同じ方法を施行することが、この場における唯一にして最大の攻略法!
さあ、横の移動を減らしてもらうぞ! そして再びボレーのラッシュにあいまみえようぞ!
……!? むむむ!? なんということだ! このワタクシ、一瞬の躊躇をしてしまったぞ!
だがすぐに理解した!
なるほど! 先のゲームで直接ワタクシの気絶を狙ったのは、この時の為であったのだな!
ワタクシ、少しだけボールに対して臆してしまった! 素晴らしい!
だが残念であったな! 冷静になったワタクシの前では逆効果だ!
何故ならワタクシにそれを耐えたという実績を与えてしまった!
あの強力なストロークの顔面直撃を耐えたという実績!
それがある今、たかがボレーを打とうとしている君に近づくことなど何も怖くない!」
仁君は“キング”の放つボレーに、腕を伸ばすだけで追いつき捉え振り抜いた。
「さあ、次はどうする?」
仁君のボールは“キング”に触れさせることすら許さずコートの彼方へ駆け抜けていった。
40―30。
さあ、後がないよ、“キング”。正真正銘のマッチポイントになってしまった。
「しかし、よく気づいたな」
と、“キング”は言った。
この状況で“キング”はさっきまでのポイントを振り返ろうとしているのだろうか。こんな話題を振るなんて。
そして仁君は答える。
「本格的に『怪しい』って感じたのはワタクシが君の動きについての話を振った時さ。
あの時、君は基礎練習の比重を理由にしていた。一年生だから、ということでね。
でも考えてみると、高校一年生にやらせる基礎練習は、どっちかって言うと足りていない基礎体力を鍛える、ってより足りてないコートを空けるために追いやるって目的の方が多い。
でも、この部員数じゃあコートはダダ余りで、基礎練習で追い出す必要は殆どなくて、むしろ一年生は先輩方の相手をしなくちゃなんないんじゃないか?
って思ったんだよ」
その通りだ。実際、“キング”はたまに私の自転車と走ったくらいで殆どコートの中で技術練習ばっかりだった。
あの程度の基礎練習では体力向上ってより体力維持ぐらいの効果しかないだろう。
「で、そこから紐解くに、アレは君が焦ってとっさいついた嘘なのかな?
って考えてね、つまりワタクシの打球に追いついた理由を体力の向上というイメージを植え付ける必要があったのかな? って思ってね。じゃあ、逆に体力は関係ないのだ、と仮定して分析したんだよ」
それが今のポイントということだ。
まあ、完全に正解だろう。ただ、“キング”は認めないだろうけど。
と、私が“キング”の性格の悪さを分析していると、
「……じゃあ、その情報が出揃ったのは、俺がフェイントを混ぜてから一点目の直後だから……、ふっ、もうちょっとお前が鋭けりゃ二点目の失点はまぬがれたってわけだな」
こっち方面の発言を飛び出していた。
「き・み・は~! この期に及んでまだ挑発するのかい? いいだろう!
全力で打ち崩してやるよ! 君こそ大丈夫なのかい? もうマッチポイントだ!
奇襲といかいう賭けに出る勇気なんて残っているのかい?」
「あったりまえだな。普通にやって勝てる気がしない。この差を覆す一発逆転の方法を模索してるところだ!」
「テニスにねえ、一発逆転はないんだよ。流れのスポーツなんだ。
奇襲だけで勝つなんてどだい無理な話なんだよ。もういい! ボレーやらなんやらで結構楽しんだ! 終わらせるよ!」
そして、この試合を終わらせる為のサーブを打つ。
そのサーブを受け“キング”は、再び高く返した。
「いや、失敗だ」
横の黒蹄先輩の声。
失敗?
「上げすぎている。押しすぎている。要するにちょっと深く打っている。抑えきれなかったか。
無理もない。繊細な体重移動が要求されるレシーブだ。むしろ今まで軽々成功していた事が奇跡ってだけだ」
「え? そうですか? 素人の私には、なんかあんまりわかんないです。でもひょっとして“キング”のステップは届かないくらい深刻なんですか?」
「いや、フェイントの逆から逆まで届いていたから、この程度なら別にワンステップで届くハズだ。
だが、この深さは……、スマッシュが打てる」
スマッシュ!
今まで“キング”の上げたボレーに対し、仁君はワンバウンドさせてからの強烈な『グラウンドスマッシュ』っていうスマッシュもどきのストロークを打っていた。
しかし、今度はノーバウンドの浮き球をコートにたたきつける、正真正銘のスマッシュを打とうとしているらしい。
つまりバウンド前に追いつき、あのスマッシュの仰々しい構えをとる余裕もある、というのである。
この数十センチの差でこれであるのだから、スポーツの世界における数十センチのいかに大きいかが伺える。
「スマッシュの場合、距離を狭めて横幅を狭くして、ワンステップで仮に追いつけたとしても、上から下へ突き刺さる軌道と威力を相手にするのだ。『壁』に準じたボレーでは対処できない。
……終わりだ」
でもでも、
「ねえ、黒蹄先輩……。
この局面で、“キング”の立場で、例えば、スマッシュを打って欲しい、なんてことあったりしませんか……?」
「なんだ? その質問は。ないな。スマッシュを打って欲しい場面など存在しない」
じゃあ、勘違いかな。
「ただ、結果的にスマッシュでよかった、って時ならある」
「それは?」
「それはスマッシュを打ち崩せた時だ。スマッシュはスキが大きい。
返せばほぼ点につながる。そして、その得た点はさらに一点以上の重みがある」
「重み……」
「スマッシュはその選手の全身全霊を使って放つ最高威力の必殺技だ。
どれだけその他の技術が高くとも、スマッシュ以上の威力になることはない。
それが打ち崩されるとなれば、立てた作戦にも大きな支障が出る……。まさか!?」
「あ~、じゃあ、もう“キング”はコレ完全にワザとです。流れを、変える為に」
「バカな! テニスが流れのスポーツであるが故に、流れを意識して失敗した、そう認めたのは凄嵯乃なんだぞ!?
何故今さらまた流れを!? 第一、愛仁の全力で放ったスマッシュを止めることなど不可能だ!」
「違います。“キング”は流れを否定したワケではありません。流れを気にして足元を疎かにしたことを反省したんです。
今からやるのは奇襲です。その場限りの奇襲。それで“キング”は流れを変えるつもりなのです」
「しかし、凄嵯乃には一体どんな勝算が……。あっ!!」
黒蹄先輩は、ここでようやく“キング”の姿を確認したのだろう。だから今さら驚きの声をあげることになるのだ。
「あの野郎! あんな中途半端なところに! あんなんじゃ、愛仁は好きなとこに打ち放題だぞ!?」
と次二郎君も今になって驚く。
そう、“キング”は今、非常に中途半端な位置に立っている。
というより、前進レシーブの為にいたサービスラインに立ったままなのである。
反射とワンステップで捉えるのなら、横幅を狭める為に更なる前進が必要。
威力の落ちたとこを叩くなら、距離を開ける為に後退が必要。
“キング”の立つサービスラインは、そのどちらの恩恵もない真ん中だ。
下手したら足元でバウンドして、野球のショートバウンドみたいになりかねない。
ラケットを使い左腕でスマッシュのスピードのショートバウンドを捌くのは至難の技だ。
「好きなところに打ち放題……?」
次二郎君の言葉をそのまま反復したのは、黒蹄先輩だ。
「そうだ! それでいいんだ! いいか? 最強のスマッシュは極限の状況下でのみ生まれるんだ。
練習で最強のスマッシュは出せないようにな! これは、その、火事場のバカ力的な、無意識の作用が原因だ。
で、逆に言えば、今の好き放題な温い状況では、無意識の作用で全力のスマッシュは打てない」
「はあ」
「つまりだ、愛仁は全力のつもりでも実は威力の落ちているスマッシュを打つことになる。
そして凄嵯乃はこの威力の落ちたスマッシュを返せば、愛仁は自分の全力スマッシュが打ち崩された、と勝手に認識するだろう。
愛仁レベルともなれば、全力のスマッシュを打ち返された経験など殆どないはずだ。
この衝撃とショックは計り知れない。
そして、これが最大のメリット。凄嵯乃がボレー対決で押され気味になっていた原因がスマッシュとハイボレーという威力の高い技の差にあった。
つまり、これが成功してスマッシュを封殺出来れば、凄嵯乃はボレー対決での勝利も見えてくる」
「い、いや、でも……、威力が落ちると言っても、多少でしょう? “キング”はそれで捕れるんですかね……」
数々の不安が渦巻きながら、いよいよ仁君の打点へとレシーブロブが到達する。
いよいよ放たれる、仁君のトドメの一撃。
仁君はスマッシュを打った! その瞬間、“キング”が、
「跪いた!?」
のだ。
あの跪きっぷりはそう、ストローク練習の時のそれだ。
確か上半身のブレを正すことが目的だった気がする。このお腹の痛みが覚えている。
確かにこれならブレずにストロークが打てるだろう。
……だから何だ? それ以前に捕れるのかどうかが問題だ。跪いていては動けない。
「いや違う!
そうか、俺はとんでもない勘違いをしていた! これは走りながらのスマッシュだ! 球は前へ前へと行く!
その分横への角度はあまりつけられない。
つまり最初から横の駆け引きはなかった。縦の駆け引きのみなんだ!」
なるほど。しかし、前後の駆け引きのみならば、なおさら下がるべきだった。
取り敢えず拾うことは出来るかもしれなかったのに。
『跪く』という低い構え。
これでは低い位置からストロークを打つことしか出来ない。あまりにも限定的過ぎるフォーム。
仁君がちょっと奥の方で深めにバウンドするスマッシュを打ってしまえば、それだけでもう無理だ。
まさか、これはフェイントで、また打った後から立ち上がって打つのか? いや、今度はスマッシュという最高速度を相手にしている上に、動きも横へのワンステップとは比較にならない程の量が要求される。不可能だ。
仁君は……。さすが、抜け目がない。しっかりと“キング”の姿を見ている。
見てすぐに身体を捻っている。恐らく“キング”の構えに対応した振り抜きをする為の予備動作なのだろう。
言わんこっちゃない。仁君はスイング後でも驚異的な身体能力でコースを変えられるんだ。
それを利用していたのは“キング”自信だろう。
凄まじい勢いでラケットを振り抜き、ついにスマッシュが飛び出す。
瞬く間も無く打球はコートへと突き刺さった。
「!? なんで!?」
仁君の打ったスマッシュは跪く“キング”の手前に突き刺さった。
浅いスマッシュ。
予想外だ。
てっきり低いストロークを打つ気満々でいる“キング”相手にはノーバウンドで直撃させるスマッシュを打つのが仁君だと思っていたからだ。
まさか、ここに来て正々堂々と速球勝負がしたくなったとか?
「うーん、大鞭 蛭女。君は勘違いをしているな。
大方、ストロークの構えしてる相手に何のこのこストローク打ち易い球打ってんだ? って感じかな?
違うんだよ。
凄嵯乃があの構えをしているのを見て、「ストロークの構えだ」という発想が最初に出てくるのは、あの練習を見ている人間だけなんだ」
「む!」
黒蹄先輩が頼んでもないのに得意気に話しかけてきた。
「じゃあ、愛仁にはどう見えているか?
今の凄嵯乃の姿を普通の目で見たら、それは単に腰を低くして身体を固定し力を安定させ掬い上げるように打とうとしている、と見るのが一般的だ。
つまりこれは、ノーバウンドで打つ『ローボレー』の準備に見える。
『ローボレー』というのはボレーの一種なんだけど、上から下へ向かっている球をネットより低いところからノーバウンドで打ち、威力を殺して山なりに返す技だ。
上手く威力を殺せば、相手の頭を越えつつ、コートに入る。
これは、スマッシュを返す時にもよく使われる定石」
「つまり、仁君は勘違いを!?」
「ああ。君が前に出過ぎなストロークの構えと勘違いし、愛仁は下がり過ぎなローボレーの構えと勘違いした。
あ、この下がり過ぎなローボレーも上手く怪しまれないようにしてるね。
ベースラインでサーブを打っていた愛仁が難なくスマッシュを打つタイミングに辿り着いていることからもわかるように、このレシーブロブは深い。
まあ、ミスったように見せかけワザとやったんだろうが。
で、つまりだ、このスマッシュは本来より深い位置から打つことになっている。
ネットに近い浅い位置からならコートの地面に垂直に叩きつけることが可能だが、ネットから遠いと、より平行な角度で打つことになる。
だから、凄嵯乃がローボレーの割に離れた位置にいることにも合点がいったんだ。
そして、愛仁は無理に裏を突こうとした。
身体を捻り上げ、前方斜め上に打点を伸ばし、そこから驚異的な身体能力をもってしてほぼ垂直に叩きつけた。見事、凄嵯乃の手前でバウンドさせることに成功した。
「上から下」へ落ちていく球を待っているであろう相手に、バウンドによって「下から上」へ突き上げる球を打ちつけた。
愛仁からしたら、愛仁の目に映った情報や知識、自らの可能性等を踏まえた上で達した結論だろう。
だが、それも完全に凄嵯乃は利用する。
今、凄嵯乃に向かう球は凄嵯乃の思惑通りに、威力は落ちてコースは狭く一度のバウンドによって下から上へ突き上げるため、ストロークの打ち易い球になった。
他に必要なのは、反射と反応だけ。そして今の凄嵯乃でもまだ残っている。だから今の凄嵯乃であっても愛仁のスマッシュは」
*
「打てる!!」
全てが上手くいった俺は、無我夢中でラケットを突き出す!
目で追うのではなく、感覚で捉える!
バシンッ!!
来た。
無我夢中でぼんやりとした白い世界の中でも、俺はラケットをつつく振動を感じる。
そして確信する。俺はやったのだと。
そして、ほんの少しして響く、ボールの音。
なつかしい音だ。
昔、蛭女と遊んだゴム鞠の弾む時のような、その伸びやかな音は、スマッシュがコートをぶち抜いたりフェンスを貫く時の破壊的な音とは違う。
ラケットの手応えと、ゆったりとコート上で弾むボールの音。
これらの要素を踏まえて、あえて問おう。
では、何故、そのボールの音は俺の「背後」で発生しているのだ?
慌てて俺は振り返る。
ボールは確かに俺の後ろの、俺のコートの、奥で、ただ淡白に弾むことだけをしていた。
呼吸を忘れ振り返る。
愛仁は言った。
「ふー。危な」
「!!」
なんだ? 俺はやられたのか?
「王ちゃん……」
蛭女が言う。王ちゃん?
「王ちゃん、運が悪い……。王ちゃんの返した球、仁君がスマッシュで振り抜いたラケットに当たった……」
「は?」
「いやいや、運だけじゃないよ。ちゃんと面は上に向けて威力も殺したんだからね。
まあ確かにマグレだけど。当てたのも、コートに入れたのも。
二十回に一回くらいかな。成功するのは」
と愛仁。
俺の打ち返した球が、愛仁のラケットに当たった?
で、それが俺のコートに返ってきた?
は?
「ゲームセット!」
っていう審判の合図。
え? あ、終わり?




