表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王の下克上  作者: 生生
3/5

第一話③ー1

   第三章 正しい身体の使い方(実践編)



 さて、目の前にいる、俺の最大のライバル五宮愛仁について少し説明しよう。

 俺の知っている限りで。

 五宮愛仁は神職家系の分家に長男として生まれた。

 黒蹄家とは別のベクトルでイイトコの生まれだ。腹が立つ。

 まあ、“神”なんて大袈裟な二つ名が付いちゃってる原因の一つでもあるのだけど。


 そして、中学三年生の夏の大会で団体戦の決勝戦で対決して、(あ、予想どおり、今まで試合した相手で一番強いな~。俺より強いかも)と思いながら闘い、結果としては俺が勝った。

 こうして俺たちの学校は全国大会優勝を果たした。

 まあ、必ずしも強い方が勝つというワケではないが、この試合によって、一応、俺が最強ということになった。腕壊したけど。


 そんだけ。五宮愛仁についての知識としては、それだけしか知らない。

 なぜなら、直接の対決はこの時一回だけだったから。

 箱入り選手というか、選抜にも顔を出さなかったし、練習試合を組むこともなかった。


 だから本当に、それぐらいしか知らない。ぶっちゃけ、何で俺のことライバル視してたのか当時から理解できなかった。

 二年生の冬頃からだから、多分俺が新人戦で目立ちすぎたのかもしれない。

 もしくは、周りの人間が互いを最大のライバルとして持ち上げ、囃し立てまくってたことも原因としての可能性があるのだろう。

 テニス雑誌でも執拗にに特集が組まれていたし。

 ただし、この辺はもう予想の域を出ない。

 二人ぼっちで話し合ったこともない。まあ、神職の家系だから、そう易易と近づけるものでもないのだし。


 とはいえ、まあ、そんなワケで、俺に執着する愛仁が出来てしまったのである。


 とにかく、この局面で大事なことは、“神”五宮愛仁は、“キング”である俺、凄嵯乃王と最強を争った仲であるということ。

 そして、その直接対決で俺は勝利し、右腕を壊して堕落し、コイツは成長を続けているということ。

 二人の関係性として大事なのは、それだけだ。


 個人的には、最大の目標だ。

 結果としての復活は全国優勝だ。だが、実力としての完全復活は、コイツを倒すことにある。

 高校で引退するまでにはコイツと闘えるように、勝てるようになりたかった。


 だから、天さんに『壁』の練習を言い渡されたときは本当にショックだった。

 見捨てられ、わずかでも勝ち上がる為に、成長を止める様な、ごまかしの技を覚えさせられたのだ。

 そりゃ、いじけても仕方がないだろう。


 そう、俺が腐ってたのには、こういった大きな事情があったのだ。俺はすぐにいじけて腐るクズとは違う。俺はクズじゃない。


 そう、俺には三年までに愛仁を倒すという明確な目標があったのだ。

 闘いたいと願い続けていた。

 だけど……、


「やあ、こんにちは。ワタクシのことは当然覚えているよね? 王くん。この学校で、またテニスを始めたんだってね。

 さあ試合をやろうよ」


 ……それは、今じゃないだろ。

 尊大で、けれども慣れ慣れしい微笑みで、じりじりと近づいてくる。コワイ。


「……」

「……」


 他の連中も俺たち二人のやりとりに入ってこない。様子見といったところか。

 イヤ、俺自信もとまどっているしどうしようもないのだろうが。


「ひ……久しぶり……」


 と答えてみるけど、さて……。

 断るのは逃げるみたいで癪だが、本心で今は闘いたくない。

 じゃあ、取り敢えず……。


「いや、悪い。闘えないわ。俺腕壊しちゃってさ」

「知ってるよ。ワタクシとの試合ででしょう? それでも、そうなってしまった今の君であっても、君と勝負できることは魅力的だ」

 イツミとは真逆の対応だ。イツミに相手にされなかった時は寂しかったが、コッチはコッチでなかなかウザイ。

 では……。


「やい! 俺は、お前の所為でテニスができない身体になっちまったんだ! 俺は怒ってるんだぞ! 帰っちまえ!」


 ブチギレてみた。血管浮かべて、指を差す。神職家系の人間に。


「ああ、そうだよね。反省しているよ。反省して、黄猩からのオファーも断って、県外の学校に行くことにしたしね。

 やはりワタクシの所為だったのだよね。でも、だからこそ、王くんが復活したと聞いて居ても立ってもいられなくなったのさ。

 王くんの力になれるなら何だって協力したいしね」


 や、そんなに本気で反省されても困る。

 俺の右腕は蓄積された疲労とか無理が祟ったものだし。


「本当に君が復活してくれて嬉しいんだ。あの日……、団体戦決勝で負けた翌日の個人戦……」


 個人戦……。俺は腕が壊れたから欠場したヤツか。


「あの時の優勝ほど虚しいものはなかったよ。“虚しい”本当に、心に残らない勝利だった。

 言ってしまえば、ワタクシはワタクシの為に君の復活を願っているね。だからこそ、君と闘いたい。

 君との試合はそれほどに魅力的なんだ。刺激的なんだ。ワタクシは確信している。それは、例え怪我をしていても変わらないって」


 どこまで、俺に幻想を抱くんだ、コイツは。


「凄嵯乃王様、私からもお願いいたします。個人の時間が少ない愛仁様が、わざわざ県外から参られたのです。

 どうか、どうかご相手を……!」


 運転手をしていた執事的な紳士まで、俺に願いを乞うている。

 仕方がない。

 アプローチを変えよう。


「いやあ、俺は全然闘ってもいいのよ? むしろ愛仁君とは早く勝負することを願ってたからね? でもさあ、ここは平日の学校で、今は練習中で、部外者たる君と試合なんて出来ないんだよ。

 うん。俺はいいんだけど、天さん……、ああ、部長ね、部長が許してくれないんだよね~」


 という論調にした。己のプライドと威厳を守りつつ、試合を避けるという両方の目的を果たすには、最高の論調だった。


「いいよ」


 舌打ちしながら振り返る。視線の先には天さんがいた。


「してもいいよ、試合。まあ、確かに練習中で迷惑っちゃあ迷惑だけどな」

「ちょ、ちょっと何言ってんですか、天さん!! おかしいじゃないですか!? だって、おかしいじゃないですかあ!?」

「? そうか? こんな強者と練習試合が出来るなど、またとないチャンスだぞ?」


 天さんが気の抜けた表情で宣っている。


「さ~すが、黒蹄の息子さん」


 にゅるり、と握手を求める愛仁の腕が、天さんへと伸びていく。

 目が覚めるような、弾ける音がした。

 天さんが、愛仁の手を叩いたのだ。握手を拒絶したのだ。

 天さんが、自ら叩いた愛仁の手を一瞥し、視線を顔へとあげる。


「勘違いするなよ。貴様の実力は認めているが、貴様という存在を認めているわけではない。

 何を腑抜けたフリして仲良くしようとしてんだ?」


 天さんの厳しい言葉。


「オイオイオイオイオーイ、随分と調子こいたなあ。一般人のクセに、金を持つとこうなっちまうのか?

 お前らなんてのはなあ、所詮ただの人間が一生懸命に勉強して一杯お金稼いだだけでしかないんだよ。

 ワタクシたちとは根本が違う。存在の次元が違うんだよ。わきまえろ。黙ってウチの世話になってればいいんだ。ただの人間よ」


 うっわ、確執あんのかよ。

 と、思って少し次二郎の方を見たら、口を尖らせてるだけだった。あんまり次二郎には関係ないらしい。


「テメェ!」


 そんな呑気な次二郎に気を取られている間に、事態は急展開を迎えていたらしい。

 天さんは叫び声と共に、大きな一歩を踏み込み、拳を振り上げる。

 その時、永遠の眠りに誘うような、弾ける音がした。


 発砲音だ。

 天さんの足元が焼け焦げている。


「わかりますかな? コレは外れたのではなく、外したのでございますぞ」

「……くっ!」


 さっきの紳士が銃を構え、ゆっくりと告げた。勧告を。

 最近の執事はSPも兼ねているらしい。流行りっちゃあ、流行りか。

 まあ、でも実際、今の発砲で助けられた天さんだ。


 天さんの立場で愛仁を殴っていたらどうなっていたことやら。

 そんな事がわからない天さんではあるまい。相当頭に血が昇っていたようである。


「あ~もう、さっさと試合しましょう。天さんは下がって」


 結局、俺がこの場を収める。

 もう、俺に意思決定権なんてない。


「あ、ああ」


 俺に引き摺られながら、天さんが言った。


「す、すまんな。情けない。そ、そうだ。大変な相手と勝負することになってしまったが、負けてもいいんだぞ? 勉強するつもりで頑張ってくれ」


 俺に引き摺られながら、先輩らしいことを言った。


「本当に困ったもんですよ。今日も平和に過ごせると思ってたってのに。

 大体、なんでここがわかったんですかね。

 そもそも、今だにテニスを続けていることすら知らないハズだったから、探偵を使うこともないでしょうに……」

「それもそうか。しかし、……そうか。先週の会合で間を埋めようと、凄嵯乃のことを話したのが原因だろうか」


 天さんの所為だった。

 そういえば、会話の間を埋めたがる、気にしすぎ屋さんだった。

 その会合とやらから、情報が巡り巡って、愛仁に届いたのだろう。


「王ちゃん!」


 蛭女だ。


「緊張してる?」

「蛭女を見てほぐれたよ」

「あ、そう」


 本当は、何も背負ってないし、負けて当然の練習試合だから、元々一切の緊張もない。それより、どんな技と試してやろうかワクワクしている自分がいる。


「最初嫌がってたのに、闘うと決めたら意外と楽しみになっちゃう感じだね。うん、スポーツマンの鏡だよ」

「確かに。一歩を踏み出すのには勇気がいる。そりゃ、スポーツ物のタイトルにも採用されるわな」


 無駄な会話。

 高校からの練習はいつも蛭女と一緒だった。

 だから、蛭女とのこの無駄な会話のおかげで、練習の一つ一つを丁寧に思い出すことができた。

 今の自分に何ができるか、整理できたと思う。


「よし、さあ始めようか!」

「うむ」

「では、主審はこの私が努めましょうぞ」


 五宮家の執事が名乗り出た。

 銃持ちの人間に審判を任せることに、わずかな不安が残るが断る理由もない。

 ありがたくお願いすることにした。


「では、1セットマッチ、プレイ!」


「お! なんだ? なんだ?」

 ヒマなギャラリーがちらほらやってきた。

 ロールスロイスと発砲音はこの学園敷地内では目立つかもしれない。


 そんなわけで、いつもどおり試合が始まった。

 決してドラマチックな演出が見られるわけでもなく、普通だった。



        *



 『1セットマッチ』というのは、いわゆる団体戦における一人当たりの試合と同じ長さだ。

 つまり、本格的な試合の長さで闘うことになる。


 次二郎と入学初日で闘ったときは、『1ゲーム』という長さだった。


 4ポイント先に取ったら1ゲームがもらえるというものだ。1セットはさらに6ゲームを取った方の勝ち、という試合形式である。

 試合が長い、ということは、次二郎の時のような、その場の勢いと流れによるごまかしが効かないということである。

 いや、効く場合があっても、一瞬だけだ。勝利には繋がらない。


 さて……、どうしたものか。


「サーブは王くんでいいよ。急に来たのはワタクシ達だしね」

「あ、ありがとう」


 ぶっちゃけ、こんな左腕じゃあ、サーブ側の優位性なんてゼロなんだけどな。

 サーブは相変わらず下から打つ型だ。一応、アンダーサーブという名前がある。

 通常の……、オーバーヘッドサーブに見られるような、あのカッコイイ振りかぶりも打ち付けるスイングもない。

 威力もない。

 それ以前に入れる必要があるから、アンダーサーブにするしかない。


 そんなサーブを、俺は静かに打った。恥ずかしがるそぶりも見せずに。

 一方の愛仁は、俺のサーブがアンダーサーブという事実に一瞬驚いたように見せ、直後にポジション移動した。

 そう、打った後に移動しても追いつくぐらい遅いのだ。


 さて、そんなアンダーサーブであるが、これでも一応成長はしている。入学初日の物とは大きく違う。

 それは回転だ。


 これは『壁』の練習における副次的な作用と言ってもいい。

 『壁』の練習で、俺は左手の手首を固定することが出来るようになった。


 つまり、手首の『ブレ』が抑えられるようになったのだ。

 もちろん、逆ベクトルの技術であるスナップはまだまだ出来そうにもないし、強いスイングや高い球威を相手には固定も難しい。

 しかし、サーブの為に自分が放ったトス相手なら楽勝だ。


 そうして、固定された手首を用いて、『振り下ろす』ようにアンダーサーブを打つ。

 ポイントはラケットの面を上に向けること。そして、手首のスナップを効かせないこと。


 それにより、ボールは押し出されるように、そして切るように面に当たり、下回転がかかる。

 下回転、つまり『スライス』だ。


 スライスのかかったボールはゆっくりと伸びる球になる。

 ゆっくりと伸びた球は、ゆっくりと高度を落とし、地面と接触する。

 伸びたことにより接触する直前は地面と限りなく平行だ。

 さらに、アンダーサーブはオーバーヘッドサーブに比べ遥かに威力が劣る。


 つまり、このサーブは、ほとんど、弾まない!


 ……ほとんど。


「ほう……」


 僅かに湧いて出ていた自信を蹴散らすほど、愛仁はなんなく捉えた。


 まあ、そりゃそうだろ。

 ちなみに、実際の本格的なアンダーサーブは下回転に加え、横の回転もかかっている。

 軌道としては、『弾まない』というより『転がる』という表現が正しくなる。非常にやっかいな技だ。


 ただ、横回転となると手首の固定だけでは難しい。


 スナップが必要になってくる。

 というか、本来アンダーサーブとはスナップの得意なヤツが使う技だし。

 まあ、ここは妥協で打つしかあるまい。


 この純粋な下回転を。

 まあ、ここまでただ単に、純粋な下回転だと、意外と初めて見る軌道になるんじゃないのか?

 ああ、で、あっさり捉えられたのか。そういえば。

 じゃあ全然思惑どおりにいかないな。


 ……だ、だが、その後はどうする?

 打点は低く、ネットは近い! そんな状況で果たしてマトモな球が打てるかな?

 愛仁の側、つまりレシーブ側の定石としては、愛仁自身もスライスを打って返すことだ。それも短く。

 短い球は短く返しやすい。

 ならば、俺はそう来た時の為に前へ詰める!

 ネットへ走り出す。


「なるほど……」


 この走り始めたタイミングで、こう呟いたのは愛仁だ。


「慣れない左手で、にわかじこみにサーブを打とうとしたら、こうなるのだろうね。いいですよ。正解だ。でもね」


 なんだ? なにをするつもりだ?

 イヤな予感がする。


「こうしてやるよ! うおおおおおおおおおおおおおお!」


 愛仁は体勢を獣のように低くした。

 それだけじゃない。

 全体重を後方に置いている。

 さらに、あのモーションは、スライスとは真逆。すくい上げるフォームへの準備段階。


 バカな! それじゃあ、飛びすぎるか、ただ高く上がるだけだ!

 飛び過ぎたらアウト、高く上がったらチャンス球に。

 これは、いい対処とは言えない。


 その時、愛仁は弾けるように回転した。


 もちろん、全体重を後方下部にかけている状態で、上に向かってスイングしただけなのだが、俺にはそう見えた。ダイナミックな動きだった。


 放たれた球は、一メートル程上昇し、その直後……落ちた!

 正確にはコートへ抉るように潜っていった。

 常識を逸脱した強烈なドライブ回転によって。


 本来、遥か彼方へと飛んでいくハズだった衝撃を受けた球は、ドライブによって進行方向を無理やり下に変更され、遥か彼方へと飛んでいくハズだった相当の勢いで地面に衝突し、のこのこと前に詰めていた俺の頭をゆうに超える高さまで反発。

 そのまま本来のゴールだった遥か彼方まで飛んでいった。



「な……、なんだよ、それ……」



 圧倒的。

 こんな右手の所為で、定石まで持っていくのすら苦労しているのに、そんな定石が意味を成さないほどの圧倒的なパワーで俺を押さえつける愛仁。

 あざ笑うとは、この為にあった言葉のようだ。

 勝てるわけないと思った。思い知った。


 こんなのを打ち続けられたら、絶対に捕れないし、たとえ中途半端に触れたとしても、力の入れづらい左腕じゃあ、差し込まれてしまう。


「何を呆けた顔しているんだい? 君も、数ヶ月前までは、こんなテニスを普通にしていたんだよ?」


 愛仁の言葉で目が覚める。

 ……それもそうか。すごいな、俺。こんなプレイを毎日してたんだな。

 あ、でも、実力でいったら、やっぱり愛仁の方が強いのかな……?

 俺よりも恵まれた体格と身体能力を持っている。さっきのドライブなんてまさにそうだ。だって、現役時代の俺でも、あんなのは出来なかったし。

 よく勝てたな、中学時代の俺。

 ……ん?


「あ!」


 思わず声を上げた。


 クソ! 騙された!

 何が『普通に』だ!

 アイツ、全然こんな技使ったことなかったぞ!

 身長を超える程のバウンドをするストローク、なんて無敵レベルじゃん!

 バンバン使えばいいじゃん! 全国大会決勝で封印する意味、まるでないじゃん!


 かと言って、アイツが劇的に進化したようには見えない。

 天候も普通。風も弱い。実力がそのまま表れる環境だ。


 て、ことはなんだ?

 つまり、俺の球に原因があったってことだろ!


「だー! クッソ!」


 そう考えるとなんとなくわかるぞ。

 要するに、あのレシーブには強烈な上向きの縦回転がかかってるんだろ?

 で、それが、俺の所為だと。


「あー、王君? そろそろサーブを……」

「はーい。すみませーん」


 審判を務める愛仁の執事に怒られちゃった。

 公式試合では、ポイントが決まってからサーブを打つまでに時間制限がある。それを超えると相手にポイントだ。

 だからこその注意であって、この審判は当然のことをしたにすぎない。

 さて、これ以上の熟考は危険だ。

 ルール的にも危険だが、精神的にもおかしくなる。考えがパンクしていく。

 俺は意外と素直にトスを上げた。アンダーサーブだから、言うほど上がってはいないけど。

 ……。もし、俺の仮定が正しくて、俺に原因があるなら、スイングで切るのを抑え回転数を下げるだけだ。


 単純に考えてそうだろう。

 アイツに向かう俺の純粋な下回転がそこそこ強いから、アイツが、純粋な上回転をかけられたに違いない。


 確かに、サーブとしての質は落ちる。

 仮定も全然的外れで、さらに打ち込まれるかもしれない。


 なあに、それでもかまわないさ。

 まだ試合は始まったばかり。それに俺は挑戦者という立場。色々試してナンボってなものだろう。

 俺はスライスのスイングを抑えた、回転数の少ないサーブを打った!


 さあ、今度のサーブは若干下回転はかかってるけど、さっきよりしょぼいぞ!

 どうする?

 俺のゆっくりなサーブは俺に余計な緊張感を煽る。

 そして、そのサーブが愛仁の目の前に辿りついた。

 来る!

 来た!

 愛仁は打つ!

 普通に!

 普通に返してきた!

 ドライブをかけようともしてこなかった! 無駄だとわかったのだ!


 よし! よしよし! 攻略できた! この程度のまやかし、簡単に攻略できたぞ! この腕でも!

 そんな嬉しさ噛み締め、さて、と言って試合に集中する。

 愛仁は冷静に、俺の浅く遅いサーブを普通に打ち返してきた。

 次二郎のようにトドメの一撃ではないから、俺が次二郎にやったようにロブを上げて見たところで、普通に追いつかれてしまった。

 ロブに追いついた愛仁は、そこから、さらに普通に打つ。

 しかし、この、最後の『普通』は、愛仁にとっての『普通』だ。

 愛仁と俺では、今や別世界にいる。実力的に。

 別世界。


 今の俺にとって、愛仁クラスのプレイヤーは、全くの常識が通じない別世界の住人だ。半端な作戦という常識が通用しない世界で生きているのだ。

 そいつが放つ『普通』のショット。浅いサーブに対処するのとはワケが違う、『普通』のショット。


 それが、来る!

 別世界とは言え、衰えていない足腰でなんとか追いつき、衰えていない感覚神経でなんとかボールを捉える!

 そして未熟な左腕で打ち抜く!


「ダメだ!」


 差し込まれる!

 ……ボールというのは、どのスポーツでも共通なのだが、身体の少し前で打つことが理想とされている。


 愛仁の別世界の球威は、俺に理想のポイントでのインパクトをさせてはくれない。

 理想より、少し後ろ。身体の近く。

 力が入らない。

 ただでさえ非力で不安定な左腕でそのポイントでは……。


「んあっ」


 振り抜くことが出来ず、制御もままならない。

 球は、俺のラケットに弾かれた。打たれたのではない。

 そして、そのままどこかへ消えた。


 かなわない。わかっていたことだが。

 たとえ『普通』のショットであっても太刀打ちができないレベルの差がここにあった。

 俺にとって今のアイツのラケットは、暗い未開の森で邪魔な木を切り倒すオノの様であり、片や俺のラケットはゆったりとした空間に敷き詰められた絨毯の上を歩く為のスリッパの様だ。


 スリッパ卓球ならぬスリッパテニスをしている気分だ。相対的には。

 もちろん、ラケットの所為ではなく、腕に原因がある。

 でも差が大きすぎて兵器ラケットのレベルで差がある気分になってくるのだ。仕方がないことなのだ。


「っすっごーい! 王ちゃん! 追いついたよ! 触ったよ! あんな速い球に!」


 蛭女が元気に感想を述べている。


「いや……、蛭女、全然だめだったでしょ……」


 本人的に全然凄いと思っていないトコロを褒められると居たたまれない気持ちになるでしょ?

 なんか、世の中にはもっと凄い人がいるのに、この程度で調子こいてて、狭い人間関係と世界観だけでのうのうと生きてるって、他人から思われてそうって感じる、アレ。

 今の俺、そんな感じ。だから、一生懸命、自分を蔑む。


「追いつくのは前から出来てたし、ていうか、それは足の早さとか反応の早さは関係なくて、だいたいの身体とラケットの面の角度から予想してるだけ、要は慣れだし、追いついてもタイミングがズレてて、変な面で捉えてるし、それを押し込むことも出来なくて、しかもちょっとは体重かけてしっかりとスイングしてたのに手首がボールに押し負けてどっか飛んでっちゃったし……クソだったでしょ?」


 そして、俺は愛仁の方へ向き直り、


「こんな試合して楽しいのか!?」


 って叫んだ。


「楽しいね~。それに、こんな実力差があっても、なんとかしてしまうのが、ワタクシの知っている王君だよ。期待が高まる!」

「病気かテメェは!」


 審判台にいる執事が、銃の安全装置を外す。病気呼ばわりが不味かったらしい。

 しかし、本当にヤバイだろ、コイツ。なんでこの状況で俺に期待するんだ?

 ヤメてくれ。

 本当に怖いのは、これで見捨てられた時なんだ。


 なんか、集中が途切れているというか、重圧と不安が混ざった心境のまま、次のサーブを打つ。どうせダメなんだろうな。

 走る。追いつく。動きの鈍い左腕を何とか使って、当てる。なんて強烈なんだ、と思う。振り抜く。

 けど、やっぱりダメで、どこかへ飛んでいってしまう。


 焦るな焦るな焦るな。落ち着け俺。さっきと全く変わってないぞ。

 落ち着け落ち着け俺俺俺。そうだ、思い出せ。上半身を丁寧に使うんだ。

 そうだ。蛭女と一緒に練習したじゃないか。犬になったじゃないか。

 その丁寧な上半身の動きを立った状態でもやるだけじゃないか。そうだそうだ。


 サーブを打つ。……ダメだった。

 1ゲーム終了。

 コートチェンジ。


 何もできなかった。

 これが、後5ゲーム続くのか。地獄だ。

 今までの俺の相手も、こんな気分だったのか。

 しかも、俺はそれに加えて、相手に失礼な目線を送っていた気もする。

 気もする、というのは自覚がないけど、他人に指摘されたことがあるからだ。


 しかし、もし指摘通りに、この状況で蔑むような視線を送られたら、それは耐えられないだろう。

 そりゃあテニスを辞めたくなるってもんだ。


 みんなの、もう諦めてるけど、応援してるっていう目線が痛い。

 辛い。天さんに至っては、俺の成長すら諦めてるし、ああ、もうダメだ。泣きたい。


 キングだった頃の俺は、毎日、他人をこんな目に合わせていたのか? いや、蔑む目線の分、さらに質が悪いのか。

 とんだ暴君だったようだ。

 そんな自分は必要なのか?

 そんな自分は長く続くのか?


 いや、続かなかったじゃないか。

 そうか、俺は間違ってたのか……。

 だったら、いっそ……。


「試合に集中して! 余計な事、考えないで!」


 蛭女だった。蛭女が俺を心配してなのか、悲痛な叫びをあげ、俺を救い出した。思考の闇から。そんな蛭女は眩しかった。


「ありがとう」


 おかげで目が覚めた。それなりに眩しいだけはある。


 俺はまたひとりで無駄なことに考えを巡らせる、というクセを行っていたようだ。

 このクセが行き過ぎると、考えがネジ曲がり幼馴染にぶつけるという事態になるのだ。

 それもいい気になって調子こいて。危ない危ない。

 今はそんな事考えてる場合じゃないんだぞ! 凄嵯乃王!

 例え、それが正しくてもだ。


「ふふ、相変わらずいいコンビだね。さあ、サーブを打つよ? 全力で。手加減は一切しない」

「ふん。やめておけ。全力が打ち砕かれた時ほど打ちひしがれるような悲惨なことはないぞ。

 後から実は手加減してたんです、というのもなしだ」


 目が覚めたついでに挑発でもしておいた。



        *

************************************



「あー、蛭女ちゃん? 一応、外部のアドヴァイスはルール違反だからね?」

「な! 黒蹄先輩! なんですかそれは! ひどいです! 仲間はずれにしないで下さい!」

「あ、ごめん。外部ってのは、そういうことじゃないんだよ。ここでの外部は試合してる選手以外全員のことを言うんだよ」

「え? 監督とかコーチもダメなんですか」

「ああ。外部からだと結構見えてるものが違うからね。せいぜいコートチェンジの時少し話すぐらいだよ」

「え? じゃあ、なんで今のコートチェンジ中には何も言ってあげなかったんですか?」

「あまりの実力差に俺が引いてたからね。想定以上だったよ。だから何も言えなかったんだ」

「王ちゃん……」

「さて、次のゲームはレシーブだ。強烈なサーブがくるだろう。邪! 次二郎!」

「ん?」

「はい?」

「五宮のサーブから目をそらすな。

 ストロークやらなんやらの球威は、相手の実力によって左右される。だから、今日は特に参考になるのが見られないかもしれない」

「王ちゃん相手では、全力のパフォーマンスは出ないと?」

「ああ。でもサーブは違う。サーブは一人で打つものだからな。参考になるよ」

「へっ! 言われなくても見るさ。いつか、絶対そのレベルには到達してやる」

「ああ。邪はそれでいい。ついでに次二郎は別にここまで到達しなくてもいいレベルだ。

 ただ、相手がこのレベルの時、慌てない為にも見慣れておけ」

「兄貴の、俺への期待値低すぎね?」

「王ちゃんは、このサーブで、現実ってのを思い知ってくれればいいのですが……」

「お! イイ指摘だね? やっぱり幼馴染はわかっちゃうのかな?

 そう。俺は想定外の実力差に引いてたけど、彼は彼で夢見る夢子ちゃんなんだよ。いや、気づいてるのかな? ただ、不安があって、目の前の現実に則した行動をとりたくないのかもしれないよ」

「王ちゃんて、現実主義的で自虐的なクセに、変に信じたいことを信じ込みやすくて希望持っちゃって、だから常に自己矛盾してるんですよ。可愛いでしょ? ふふふ」

「参考にするよ」



        *



 さてと、第二ゲーム、レシーブゲームの始まりだ。


 本来なら、さっきまでの、大失態だったサービスゲームに比べてさらに不利なゲームと言える。

 まあ、相手が最初から攻めてくるわけだし。


 ただ、むしろ、さっきの俺の大失態はサービスゲームだったからじゃないのか? とも思える。

 こんな左手では、攻めこまれるサーブしか打てない。だから俺の場合、むしろレシーブゲームの方が有利とは言わないまでも遥かにマシなのではないのか?


 そう考えると希望が湧いてきた。来いや。


 ならばお望み通りに、と言わんばかりのタイミングで、愛仁はトスを上げる。

 トスを上げた体勢のまま、グっと全身の筋肉を縮める。


 一瞬、愛仁の身体が完全に止まった様に感じた。まるで彫刻。

 そして、次に、全身の筋肉は弾ける様に伸び上がる。その爆発にふさわしい威力のサーブが繰り出されサービスコートに叩きつけられた。


 速い!

 俺はベースラインのさらに後ろに立っていたのに、やっとの思いで反応し、やっとの思いでなんとか追いつく。

 ラケットで触る!


 強い! やっとの思いで追いついたから、体勢は崩れている。

 中学時代なら、この崩れた体勢から自分の攻めに転じることも出来た。

 だが生憎、今の俺にそんなパワーと技術はない。触るだけ。


 だから俺はこう願うだけ。


「入れー!!」


 願いは叶って、俺がラケットでつついた球はなんとかコートに入る。

 でも、そんな球は無防備で死んでいて、愛仁はただ処理するだけでよかった。


「一緒じゃん……」


 一緒……。


「いや、でもさすがの反応だよ」


 ゆったりとした丁寧な処理の構えをしながら、愛仁は俺を慰めた。

 サーブは、コースがある程度は限定的だから、反射と反応で返すことは出来る。

 でも、俺の実力じゃあ、攻めきることができない。

 だから、今度は、この広いコートをフルに利用したショットで処理される。

 それに反応して追いつくことは不可能だ。


 原因と理屈はわかっている。当たり前。

 当たり前の実力差が原因。

 運が悪いといった要素は一切なく、これが覆ることもない。

 さっきのサービスゲームから何も変わっていないポイントの取られ方。

 一緒。


 そしてこれからも、このパターンで点を取られていくんだろう。

 結局、俺は闘えないのか? この腕で。


 今後、このパターンが続くとどうなるだろう。

 始めは、本気っぽい声で悔しがっていた皆も、きっと最後には短調なリアクションになっていくんだろうか。

 あいつら意外と気は使えるから、一応悔しがってます、みたいな短調なリアクションをとるんだろう。

 ホントは早く練習したいな、とか思いながら。


「あああああああああああああ!!」


 俺は狂ったような声を上げる。地面を蹴っ飛ばす!

 不安が体の奥から込み上げてきたからだ。

 耐えられるか! そんな空気!

 それもこれも、俺が試合らしい試合やラリーが出来でいないからだ。俺に原因があるのだ。試合らしくしなければ。


 これは次二郎と同意見になってしまうが、俺だって、スポーツは見せ物の側面があると考えている。

 テニスは起源的には接待の側面も強いが、それでも、喜ばせたい人を喜ばせることには変わりない。


 打ち合って、まるで駆け引きがあれば試合っぽいか? でもどうやって!?


 探せ! 探せ! このポイントで、今この瞬間で、できることを探せ!

 さっきまでみたいに、『次の為の実験として活かそう』とか冷静ぶった思考は捨てろ!

 何にも出来てないのに、また実験。成果があったようにみえて、結局全然変わってなくて、また実験。アホか!

 探せ! この極限の、ギリギリの状態で探すんだ!


 この空気はマズイ! 試合らしく! 試合らしい感じにしなければ!

 気づいた時には、俺は全力で走り出していた。

 愛仁が処理のショットを打つ前に。

 今、俺がいるのがコート右側最奥。

 ならば当然、処理は左のネット際。


 走る。

 走る走る。

 足を交互に繰り出すのだ。

 右左右左右左右左右左右左右左右左右左右。

 頭の中にあるのはこの文字だけ。ただ、全力に突き進む。


「うおおおおおおおああああああああああああ!」

「ひょ!?」


 俺の奇声にやられたのか、あるいは無意味にも見えるこの走りに虚をつかれたのか、奇っ怪な声を愛仁は上げた。

 こんな愛仁は本日初かもしれない。


 だが、すぐに顔を整え、冷静にコートを見渡る。

 身体を捻って肘を突き出して腰を上に上げて、強引に打つ方向を変える。

 それは元は俺がいた場所。つまり、コート右側最奥だ。


 慌てて俺は走る方向を切り替えたが、愛仁の一撃に追いつけるハズもなく、このポイントは取られた。


 15―0。

 まあ、そうだろうな。

 俺が走り出したタイミングはかなり早い。愛仁の打つ0.5秒ぐらい前だ。

 そこまで早いと、俺の動きを見てから打撃コースを切り替える、なんてのは、まあ、中級者ぐらいなら出来なくもない。

 だから、中級者以上と試合をするときには相手が打つより前に走り出す、なんてのは常識的にやってはいけない戦法だ。

 先生が見ていたら、めっちゃ怒るだろう。


 でも、実は一歩進んだ気がする。

 あの極限の場面で、がむしゃらに動いたからこそ見えてきたものがある。

 さて、そうやって、一歩進んで、今俺は冷静になった。精神的に余裕ができた。

 だから敢えて、さっき全力で否定した実験ってのをもう一度取り組んでみようと思う。再び。何度でも。


 別に、相手に悟られても問題はないから、何度も同じ手段や方法で実験してやろう。

 要するにこのレシーブゲームは捨てるのだが。


 さあ来い。

 俺はまったく同じパターンで、レシーブを触って返し、愛仁は処理をする。

 その処理を愛仁が打つちょっと前に走りだし、愛仁がコースを切り替えて、俺は追いつけずに失点する。

 このパターン。いずれも同じような流れで3失点した。


 白けた空気がコートを包む。自分の行動の所為で。

 だが、この自分の行動も、この空気を破る為の明確な目的のある実験であると自覚している以上、何とか耐えられる。


 この白けた空気ともオサラバ。

 さあ、試合らしくしてやるぞ。試合らしく。

 サービスチェンジだ。再びヘボサーブの時間がやってくるぞ。



        *



 二つ目のゲームが終わり、試合の中での切り替わりはあったが、俺の心情としての切り替わりは一切ない。

 やりたいことはさっきのゲームとなんら変わりない。


 俺は回転を抑え気味に下回転のカットサーブを打つ。

 フリスビーでもやってんのか? ってぐらいの心地よいユルさと推進力で飛んでいく。


 当然、愛仁はあの強烈なドライブはかけられないから、普通のレシーブを打つ。

 全く変わらない。愛仁は試合を有利に進めているから、普通のレシーブでも問題はないのだ。

 俺は困る。


「さてと……」


 だから俺はこれを使う。

 あの、その場凌ぎでしかなく、トドメの処理にしか使い様もない『壁』を!


 ンバッ! というまずまずの感触。

 愛仁の打球はかなり速いもんだから、俺は『壁』で打ち返しても、十分速い。

 で、しかも、そこそこの低空飛行。だから、コートのド真ん中にキチンとバウンドした。


 だから、


「う、打ち返した!?」


 と蛭女が叫ぶ。見る暇ないが、手を口に当てて、女の子らしく驚いているに違いない。

 そう。そうなのだ。

 俺は今、初めてマトモに愛仁の球を打ち返したのだ。


 今まで、俺は一丁前にスイングをしていた。こんな腕で。

 だから、せっかくラケットで捉えても、あらぬ方向に飛んでいったり、差し込まれて浮き球を捧げていた。

 スイングした所為で、結局ラケットの面で触るだけの場面もあったっけ。

 で、そんな捧げられた浮き球を愛仁は喜んで処理していた。今思うと、これはもうゲームとして成立してるのかも怪しい。


 まあ、なんでスイングしてんのか、って言われたら、攻撃は最大の防御なり、なんて言葉の通りで、愛仁相手には攻め続けないと、逆にこっちが攻め込まれてしまうからだ。


 事実そうだろう。

 愛仁の球は強烈過ぎて、『壁』ごときでは角度はまともに付けられなかったし、回転もかけられなかったから、程よい球速の『絶好球』が愛仁の元へ届けられている。


 愛仁はこの絶好球をさらに強烈な球で打ち返してくるだろう。

 俺はこれが怖くてフルスイングをしていたのだ。


 でも、今は違う。考えが変わった。俺は、あのガムシャラの中で唐突に思い至ったのだ。

 次もまた返せばいい、と。

 打たれて、走って、絶好球を返して、打ち返されて、また走って、また絶好球を返して……。

 その場凌ぎに次ぐ、その場凌ぎ。ゴミみたいな戦法だが、間違いではないはずだ。

 結局、俺がその戦法を取れなかったのは、自虐的なクセにプライドの高いこの性格の所為なんだ。性格て。


 短絡的な思考の人間と思われたくなかった、惨めに足掻く姿など見られたくなかった、とか色々だ。

 そんなプライドの高さが、俺の発想を邪魔していた。


 身の程を知れ。

 分を弁えろ。

 余計なプライドは捨てちまえ。

 実力を過信して、理想の形で勝利を迎えようとする、そんなプライド。

 そんなプライドは発想の邪魔だ。

 俺はもう、王じゃない。


 俺は走り出す! 例の通り愛仁が打つ少し前!

 さっきのレシーブゲームでは、コースを切り替えられていた。それに俺は追いつけなかった。

 だけど今は違う。今は追いつく!

 俺の放った絶好球を全力で打ち返した愛仁の球にも追いつく!


 理由は簡単!

 愛仁がコースの切り替えをできなかったからだ。

 さっきのレシーブゲームで追いつけなかったのは、このコースの切り替えの所為だから、それができなければ追いつけるに決まっている。


 じゃあ、なんで愛仁はコースの切り替えができなかったか?


 その理由も簡単!

 愛仁の球を打ち返した『壁』の球速は結構速くて、俺の動きをじっくり見る暇がなかったってのと、俺の走り出しのタイミングが少し遅くなったことになる。


 あ、遅くなった、と言っても、もちろん愛仁が打つよりは少し前だ。

 じゃないと構えて打てないし、構えて打てないと、いくら『壁』でも差し込まれる。


 だから俺は分析した。数ポイントは捨てることになってしまったが、それでも構わず分析した。

 愛仁のフォームにおける打つ前で、かつ、コースは選択した直後のタイミングを。


 そのタイミングを見つけ出し、その瞬間に走る!

 『壁』で打ち返す! 絶好球を再び愛仁に捧げる!

 その絶好球が愛仁によって強く打ち込まれる!

 でも、俺はその前に走り出してる!

 『壁』で打ち返す!

 この繰り返し。何度でも。何度でも。


「うおおおおおお!」

「はああああああああ!」


 空間ごと叩きぶつけるようなフルスイングをしている愛仁の声にも力が入る。

 何度でも。何度でも。

 さあ、力が入りすぎて、ミスっちまえ!


 俺は所詮『壁』を使っているから、攻めることは出来ない。

 愛仁による強烈なストロークの前では、まともに角度を付けることが出来ず、コースによる攻めも不可能だ。

 だから、ミスを願うしかないのだ。


「ぐぬ……! ならば……!」


 そう叫んだ愛仁は俺が走り出している方向を視認してから、無理矢理肘を曲げてコースを変更した!

 さっきまでと殆ど同じ状況だ。

 フライングの逆を突かれて、俺は惨めな失点を繰り返していた。


 だが、今度の俺は追いつく!

 

 理由は簡単!

 さっきまでより俺がしたスタートのタイミングが遅いし球は速いもんだから、切り返しが無理矢理で球威は落ちる。


 もう一つの理由は、タイミングを遅らしたことによって走る距離が短くなった。

 タイミングが早いころは、虚を突かれた場合に戻る距離が大きかった。

 でも、今のフライングは少し遅いから、戻りも早い。

 五十歩百歩ということわざは、どっちもどっちという意味で使われるが、ことテニスにおいては五十歩は反撃時に大きなアドバンテージになる。


 それだけの理由だ。

 ほんの些細な工夫で、いくつもの問題を解決する!

 それがアイディアだ。俺にはアイディアがある。

 さあ、俺は追いつくぞ。

 普通に打ったら、フライングした俺の目の前に飛んでくぞ。

 逆を突いても追いつかれるぞ。

 迷え、迷え!


「てやっ……! あぅ!」


 ミスった。俺が。

 ラケットのフレームに当たったボールが、てんっ、と足元を転がり跳ねる。


 0―15。

 そりゃそうだ。相手のミスを誘う、防御主体のプレイ。

 本来ならミスの起こらないこのプレイスタイルも、技術レベルが最底辺の俺にとっては高難易度に他ならない。


 でも、


「凄い! 凄い! テニスみたい!」


 蛭女が手を叩いて喜んでいる。

 ようやくラリーができたのだ。

 俺も同じように喜びたいぐらいだ。

 正直言って、手応えアリだ。いい形式だったと思う。よし、しばらくはこのプレイスタイルでいこう。特に新しい発想もないし。


 闘える、闘えるぞ。

 そんなことを考えながら、さっき転がっていったボールを拾っていると、


「なぜだ」


 愛仁だ。

 ポツポツとしてた汗を気にも止めず、額に手を当て思い悩んでいる。

 圧倒的優位に立つ愛仁が、思い悩んでいる。


「君は……、ワタクシの打つコースがわかるというのか!?」


 来た! 当然の疑問! コイツは俺との試合を一生懸命やってくれている!

 だからこその疑問! そして『壁』に関しては一切の疑問を抱いていないところも評価してあげたい。


 愛仁は、ここ何回ものラリーで打つ方向を切り返してきた。俺の走り込んでいる反対の方向に。

 これは、俺がフライング気味に走り出したからではあるのだが、わざわざ切り返す必要性が何故あったのか、で言えば、それは俺の走る方向が何を隠そう、愛仁が今まさに打とうとしている方向だったからに他ならないのである。


 愛仁はそれに驚いていたのである。

 そして、そんな疑問を愚直にも声に出して聞いてきた。本来であれば、相手には自分の悩みや戸惑いは悟られたくないものである。

 それでも愛仁は聞いてきた。

 だから俺も、声に出して、口で答え応えてやる。


「わかるぜ!」


 愛仁に向かって指をさし、ハッキリと一言。


「ありえない! フォームには最大限の気をつかって細かいフェイントなんかは沢山盛り込んだのだぞ!」

「ああ、そうだな。惑わされそうになったよ。でもフェイント入りのフォームでも十分絞り込めるぜ?

 ただ、もちろん俺はそれだけで判断しなかった」

「そ……そうだ! それだけでは説明がつかない。特に王君がフライングをしだした最初の時。

アレは完全にワタクシがスイングをする前だった!」


 ひと呼吸の間を置く。重要なこと話す時みたいに。


「当たり前のことなんだ。俺は当たり前のことをしているにすぎない。基礎戦略だ。

 ただ、その割に技術レベルが基礎に達していないから、お前は違和感を覚えたんだよ。

 ポイントは『構え』と『戦況』の二つ。これが俺のコース予想における二大要素だ。

 な? 当たり前の要素だろ?

『構え』の方は、今お前が話題にしたフォームのこと。ただし、フェイントもあるから注意が必要。

 そして、もう一つ俺が利用した情報が、この『戦況』だ。

 この場面、どのコースが一番打ちやすく、且つ効果的か、ってことに注目するんだよ。

 相手のフォームだけでコースを予想する、なんて二流のプレイは卒業してるんでね。俺はどっちも使う」


 つまり、戦略面での予想。

 そう、俺にはこの武器がある。

 俺はテニスに詳しい。経験と知識は沢山ある。これらは才能も技術もない人間がそこそこの努力で身につけられる要素だ。

 それ以外の運動神経も、まあ、並以上。

 ネックは利き腕を失ったことによる貧相な技術力だけ。

 だから、俺はこの知識を活かして闘う。それだけが俺に許された勝利の方法。

 知識での勝利。

 俺はこのスポーツを知識と発想で勝つ!


「……あとは、圧力を掛けるように予想したコースへと走る。

 しかし、俺自身が頭の中で意識しているのは切り返すであろう方向へ、だ。

 そうすれば、切り返されてもそれは予想の範囲内であり、なんとか追いつける。まあ、ちょっと余計に走らないといけないけどな

「……なるほど。そしてワタクシが王君を避けて切り替えしたコースは、自動的に、戦略的に糞みたいなコースになるというわけですね」


 と、眉間を釣り上げ、飄々として愛仁は答える。

 別に、それを脅威となんか思っちゃいない余裕の表情。汗の一つもかいていない。春の陽気と俺ごときでは、愛仁に汗一つかかせられない。


 実際、攻めているのは愛仁。点とってるのも愛仁。

 俺は防戦一方でミスるだけ。

 精神手にも肉体的にも余裕だろう。


 互いにサーブとレシーブの定位置に着く。

 俺は俺のタイミングでサーブを打つ。

 余裕な愛仁へ。

 だが、愛仁はここから、ある迷いに悩まされるハズだ。


 愛仁は構える。


「見える! 見えるぜ! お前の打つべきコースが!」


 と、わざとらしく挑発して叫ぶ。同時に俺はコースを予想し走り出す。

 一方、それを踏まえウザイなという顔をした愛仁が丁寧に打つ。

 そして愛仁は思うはずだ。

 どこへ打てばいい?

 と。


 愛仁が最も打ちやすく、且つ戦略的にも有利なコースへは、すでに俺が走りだしている。


 そんなとこへ、わざわざ打ってやるのか?

 では例の通り逆方向へ切り返すのか?

 だが、そのコースこそが、まさに俺が意識しているコースである。

 方向転換をして全力で走る気は満々なのだ。


 だったらいっそ、走っている方向へ、すでに読まれている戦略的にベストなコースへ打つことが、逆に裏をかく事に繋がるのでは? 意識の反対なのだから。


 愛仁がそう思うのに時間はいらないだろう。


 しかし、その選択は、一周回って、敵の目の前に打つことと何ら変わらないのである。


 この状況は、例えるならサッカーのペナルティキック的駆け引きを常に強いているようなものだ。

 スポーツをスポーツで例える。

 もちろん防戦一方の俺がゴールキーパー役なのだが、しかし本当のゴールキーパー程不利でもない。


 なぜなら飛びつかなければ追いつけない、という程シビアでもないので、裏を突かれても、割と追いつけるからだ。


 その点、キッカー役の愛仁は勝っても負けても取られるという、どうでもいい駆け引きに付き合う必要があり、面倒なことこの上ないだろう。


 悩め悩め。踊らされろ。

 そんな俺の願いを知ってか知らずか、愛仁は突き上げるようなフォームでコースを捻じ曲げた。

 球はねっとりと無理矢理飛んでいく。


 俺の走っている反対方向へ。俺がまさに意識していた方向へ。

 俺はすぐさま走る方向を変更。ギリギリで追いつき『壁』で返す。


 ねっとりと無理矢理飛ばした球だったから、『壁』では大した威力が出なかったが、決して死に球ではない。

 処理はされないだろう。だから俺はいつも通りコースを予測して走り出す。


 今度も愛仁は俺の走る方向と逆に打ってきた。ねっとり。

 今度も。ねっとり。

 その次も。ねっとり。

 なんだか、これでは完全にただの低レベルなテニスだ。


 どうやら、愛仁は駆け引きに悩むことをせずに、このスタンスで行くらしい。

 俺の頭にある意識の方であり、俺の体が向いて走っている反対の方。ここを突き続けるようだ。


 まあ、そうだろう。悪くない。

 意識の外とは言え、すでに走っている方向にまんまと打って、丁寧なフォームの『壁』で打ち返されれば、愛仁にとっても脅威だろう。リスクは高い。


 一方、意識の内とは言え、走っている逆の方向であるから、コッチとしては必要以上に走らされるワケだし、あ、もちろんタイミングをギリギリまで遅らせてるからだいぶ減らしているのだが、それでも1.3倍くらいの量だ。

 結構キツイ。

 さらに愛仁は俺がゆっくり走り出していることに気づいていないようだから、尚更キツイと思っているハズだ。


 そしてさらに、追いついてもこのグズグズなフォームで『壁』を使うしかない。


 愛仁のリスクは通常時と比べて殆どないのだ。第一、俺はあと6ゲーム取る必要がある。

 そんなにこの走りが続くわけない。これでは、まるで俺がアホではないか。


 愛仁はわかっているのだ。相手の裏を突くことが、必ずしも正しい戦略とは言えないという事を。

 目の前の事象で裏を突くのではなく、全体での裏を突く必要があるのだと。


「あっ……」


 0―30。

 俺の情けない声と同様に、当てそこねたボールが情けなく転がる。失点。決定力がなくて防戦一方だから、いつかはミスる。

 防戦一方だからミスり方もしょぼくて、なんだか、ボールはそれを強いた俺への当てつけのように情けなく転がる。


 いや、でもラリーが出来たんだ。


「頑張るねえ。でもそれだけでは勝てないよ?」


 愛仁がニヨニヨとした笑顔で近付いてくる。ラケットで肩を叩いて。偉そうだな。来るんじゃねえ。


「うるせえ。頑張ってねえ。ラリーが出来たんだ。俺にはそれで十分なんだ」

「ああ……。そうだね。すまない」

「気ぃ使ってんじゃねえ!」

「……でも、そんなプレイがいつまで続くのかな?」

「……」


 無視。

 そもそも、俺は試合中にベラベラしゃべるのが好きじゃない。しょうもない会話に時間を割くのも無駄な気がして仕方がない。

 でもコミュ障とも思われたくない。だからぎこちなく受け答えはした。でももう限界だ。

 だから無視。

 大丈夫だよな? コミュ障っぽくなってないよな?

 だけど愛仁は、そんな俺の態度を受けて口を尖らせながら定位置に帰る。

 何つまんなそうにしてんだ? ついでにお節介まで焼いてくれちゃってんだ? そんなにこの試合がイマイチなんだろうか。

 でも、仕方がないだろ。俺にはこの方法しかないんだ。速球の使えない俺にはこれが限界なんだ。

 こういう方法意外では、現状で勝つ方法がみえてこないんだ。

 まあ、遠路はるばるやって来て、コレはつまんないかもな。


「関係ねえ!」


 ま~た変に考え過ぎようとしている俺に俺は喝を入れる。ラケットで自分の脚を叩いちゃったりする。

 アミアミのガットが脚気のトコロに丁度当たって、ビグッってなる。あ、俺らしい。ラケットは大事にしないと。


「「「「「「ラケットは大事にしなよ」」」」」」

「知っとるわうるせえ!」


 寄ってたかって言われたもんだから、ちょっと怒った。うっかりそのままの流れで怒りのサーブを打つ。

 それぐらい集中してなくても打ててしまうのが今の俺のサーブであり、そのままラリーが出来るのも、それぐらい低レベルなテニスを強いているという証明でもある。


 さ! でもこっからは集中が必要だぞ。

 俺は勝ちたい。

 確かに、唐突に巻き込まれた、望んでいない試合だ。勝っても負けても損得はない。

 でも勝ちたい。

 勝負を目の前にして、クールなそぶりで流すことができない。できないし、そういうヤツがそもそも嫌いだ。

 だから俺は、現状で自分が勝てると思う唯一の方法を行使する。

 それが、これ。

 速球のような得点力のある球が打てない俺は、こうすることで相手をツブす意外に方法はない。

 いや、あるのかもしれないけど、その発想がない。


 さ、だからこそ、ラリーには集中するぞ!


 愛仁の筋肉の動き。足の向きを見て、コースを大まかに絞って、戦略的状況を踏まえて、ベストなコースを予測して、走り出す!

 無重力のコートを漂うように優しく走る。ゆっくりすぎるかもしれないが、俺たちのような一流選手は集中が研ぎ澄まされ、目に映る動きが全てスローに見える、なんてことがある。ぶっちゃけ、しょっちゅうだ。

 だから、今のもそれだと思ってくれるだろう。まさかワザとゆっくり走っているなんて思うまい。


 例の通り愛仁は逆に打って、俺は普通より沢山走る。切り返す時はコートを殺すぐらい強く蹴って。これがコツ。

 で、追いついて打ち返す! 


 球が重い! わかる! 愛仁の本気が伝わる! 届いた掛け声と映った球速と押し付けられる負荷が、愛仁が本気だと叫んでいるようだ。

 つまんなそうな顔したって、球は正直じゃねえか。強い感情が込められてるぜ。

 そんなことを考えていたらまた俺はミスる。


 0―40。


「へっ……! まだまだぁ!」


 テニスコート全体へ聞かせるように叫ぶ。舞い上がりすぎか? でも愛仁の感情を感じたら、舞い上がらずにはいられない。

 ようやく、俺も楽しくなってきたぜ。


「お、おー……」


 反応があったのは蛭女だけ。


「……」

「……」


 ……アレ? アレアレ? 反応が悪い?


「ま、まだまだぁ……」


 俺はサーブを打つ。動揺しながら。

 最初はあんなに湧いてくれたラリーにも、だんだんと反応が薄くなっていたことに気づく。

 気にしながらも続けて、で、同じようにミスる。

 静まり返るコート。いや、ミスる前から限界まで静かだったか。

 ああ、グダグダしてんな……。

 と、その時初めて自分でも思った。

 グダグダしてる。これがこの空気の原因だ。

 まあ、それはこの試合始まってからずっとのことだ。グダグダ。

 グダグダ失点して、その対策をグダグダ考えて、結局グダグダ失点する。


 そして、この空気を決定づけたのが、このラリーなのだろう。

 やっとの想いでたどり着いたラリーが、逆に俺の限界を証明したかのようになって砕かれているのだ。

 同じ方法で三回も四回も失点すれば、それは確かに限界を感じさせるに違いない。

 漂う空気の名は『負けムード』。

“キング”で自意識過剰で自尊心が高く不安症でおセンチな俺は、こんな空気で手が震える。心が定まらなくなる。


 第二ゲーム目とは違う。あの時は、ラリーをする、という明確な目標があった。自分の中に。

 でも、今度の目標は勝つこと。遠すぎて、見えなくて、自分を信じることが出来ない。


 チラホラとなんとなくいたギャラリーも、なんとなく帰っていく。

 ギャラリーとしても、この空気が耐え難いものとなったのだろう。元々、なんとなく見ていただけなのだろうし。


「なんか申し訳ないです」


 気まずい。だから俺はつぶやいた。心の底から。そんな義理もないが。

 こんな屈辱は初めてだ。

 試合ってこんなにも恥ずかしくて気まずいものだったのか? グダグダしている姿を衆目に晒すことだったのか? 


「ハヒッ、ハヒッ」


 呼吸が落ち着かない。余計に恥ずかしい。もし中学時代の俺が、こんな選手を見たら指をさして笑っているだろう。

 そうだ。俺はこんなもんじゃないんだ。

 俺は軽くスイングをして、ミスした時を思いだしながら首を傾げる。


「あ!」


 その動きをして後悔した。


「これ完全にゲーセンにいる音ゲーマーじゃん! ミスる度に首傾げて、あれ~いつもならこんな簡単なトコでミスしないのにな~、アピールする音ゲーマーと一緒じゃん!」


 そして、


「ああ……、マズイ。独り言が増えてきた……」


 いよいよ俺は余裕がない。独り言が多くなったのがその証拠だ。

 グダグダ負けているのも、その姿を見られるのも慣れていない。

 仲間である部員たちも、もうどうしたらいいのかわからない顔をしている。

 きっと、一緒になって試合について考えながら見ているんだろう。

 だからこそ、負けを予感して、そんな空気になってしまうのだ。


 そして、それはそんな時だった。


「あきらめるんじゃねえ!」


 それは仲間でもなんでもない、見知らぬギャラリーの一人が発した声だった。


 白いズボンに紺のシャツ。野球部の練習をサボって来たのであろうギャラリーの一人。

 この学園の生徒にしては珍しく熱いものを持っているようで、太陽に熱せられた柵を強く握りながら叫び続けている。


「あきらめるんじゃねえ!

 俺にはなあ! 『ある』んだよ!

 俺には優れた身体能力がない!

 明晰な頭脳がない!

 才能がなくて実力がない!

 努力をする根性も時間もない!

 それでもなあ! 『ある』んだよ!

 『夢』が!

 甲子園に出るっていう『夢』が、あるんだよおおおお!

 だから、あきらめるんじゃねえ! 俺に夢を見させてくれ!

 俺に夢を見ることをあきらめさせないでくれえええ!」


「ゴミクズじゃねえか!」


 びっくりした……。俺はあまりのクズさを目の当たりにして、少し目が覚める。


 さすがの愛仁も今の声援にはたじろいでいる。軽く変態っぽい登場の仕方をした愛仁だが、実際のナチュラルなクズが、のうのうとのさばっているこの学園の実態に驚きを隠せないようだ。

 まあ、愛仁のように生まれも育ちもいい人間にとっては、こんな奴らは初めてなのだろう。

 どうだ! なんの自慢にもならないが。


 その時、


「サービスチェンジ」


 執事兼審判のおじちゃんが言った。

 そういえばそうだった。

 俺はこのサービスゲームも落としたのだった。結局、グダグダしていただけだった。



        *



 ゲームが切り替わり、ポイントがリセットされ、サーブ権を交換するチェンジサービスも行われた。

 今度は俺にとってのレシーブゲームだ。


 しかし、この『ゲーム』の切り替わり、という制度はいいなあ。気持ちが切り替わる。

 さっきまでのグダグダした空気が悪い夢だったように、もう忘れかけている。

 実力差は何も縮まっていないのに、なんとかなりそうと自分を盛り上げてくれる。最強だった頃は

「4×6=24で24ポイント連続でやらせろよ! 適当にサーブは交代して! メンドくせえなあ!」

と息巻いていたが、とんでもないことだった。劣勢の身としては有難いことこの上ない。


 現在、ゲームカウントは0―3。俺が0で、愛仁が3。

 このゲームカウントが6になった方が勝者になる。てことで愛仁はあと3ゲーム取れば勝ちで、俺は6ゲームとらないと勝てない


 うん。想定通りだ。

 グダグダした空気が怖いが、今まで通り『無駄に動く壁』でもってラリーに挑戦しよう。やる事は変わらない。やる事を見失ってはいけない。

 俺に「あきらめるな」と言ってくれた人もいるんだ。大丈夫。出来る。


「王ちゃん、王ちゃん」

「ん?」


 蛭女がこっそり話しかけてくる。なにやら、真剣だ。真剣な蛭女、可愛い。

 こっそりとした声にも強さを感じる。でも、あんまりアドバイス的なことはよしてくれよ。審判ブチ切れるからな。


「旧日本軍がなんで負けたのかはね、航空主兵の時代に移りつつあるのに、いつまでも大型巨砲に依存した艦隊決戦思想から抜け出せなかったからだよ。

 グダグダと。

 同じことずっと繰り返してたの。あ、もちろん一説にすぎないけど」


 いやなこと言うなあ~。暗示か? でも、


「へん、アレは日露戦争で予想以上の成果を出してしまったから抜け出せなかったんだ。

 俺の『無駄に動く壁』は一度も成功していない。だからその例には当てはまらない!」


 聞いた蛭女は、苦虫を噛み潰したような顔になり、喉の奥から声を捻り出して、


「うぐ~。……は? てか、あんなのに、そんな技名つけてたの? ダッサ」


 完・全・論・破! 蛭女はまともな反論が出来ない。どうしようもなくて、とうとう俺の人格を攻撃しだした。

 さあ、無視無視。俺が今やってんのは、テニス。


 今から俺はレシーブをしなければならないんだ。でも、ラリー中にやることは変わらない。

 出来ること、つまり『無駄に動く壁』をするだけ。ああ、固執してやるよ。

 レシーブゲームだからと戦術を変えるやつもいるが、俺の場合、そもそもあんなヘボサーブしか打てないから、サービスゲームでも優位性なんてのはなかった。

 つまり、さっきまでのサービスゲームは十分最低で、今の状況もそんなに変わることなく、ただ単に最低なだけなのだ。


 覚悟を決め愛仁を見据える。

 静かな構え。コート全体も、息を飲んで静かに見守る。

 このまま打たないで欲しいという感情と、さっさと打って殺して欲しいという感情が俺の中でせわしない。

 焦る。これだから受身はイヤなのだ。


「すぅ……」


 愛仁から聞こえる静かな空気を吸い込む音。

 目を見開き、トスを上げる。同時に全体重を、コートにめり込むんじゃないかってぐらいに後ろ脚に乗せ、


「があああああ!」


 蹴り上げるように斜め上方向へと伸び上がった。かけていた全体重の反動が凄まじい。

 今度はその勢いをボールに乗せて、俺のコートへ叩き込む。教科書通りの、教科書をそのまま再現した理想のサーブだ!


 フォームに見とれている場合じゃない。

 反応した時には、もう目の前まで来ている。

 体勢を崩して、なんとか追いつき捉えた。


 この、体勢が崩れるのはもう、右腕の不調とは関係のないレベルでの実力差だ。

 構えて、しっかり打つ、なんて出来ない。それぐらい強烈で、どうしようもないのだ。


 中学時代の俺は、それでも振り抜き、攻めに転じることも出来た。

 今日の第二ゲーム目の俺は、かつての様に振り抜くことをしようとして、失敗した。左腕でそれは不可能だったのだ。

 そして、今の俺。今の俺は安易に『壁』を使うことへの躊躇はない。

 俺は『壁』を使う! 低い難易度で、そこそこの返球ができるハズだ。

 ラリーは振り抜く時に比べて厳しいものになるかもしれない。そもそもラリーでまともに勝てるワケでもない。

 でも、ラリーができなければ始まらない。間違った判断ではないハズだ。

 俺は『壁』を使う! 俺はラケットを当てにいった!


「むお!?」


 ……改めて、真剣にサーブを攻略しようとして、真剣に愛仁のサーブと向き合ってみて気づいたことがある。

 愛仁のサーブ、普通に強い。いや、もちろん知ってたけど、俺がやろうとしていることをやらせてくれないぐらいに強い。

 具体的に言うと、この愛仁が打ったサーブのバウンド、『跳ねる』ってより、『昇る』って感じだ。

 グイグイと昇って、俺に迫り来る。一瞬で。

 肩の高さを超える。打点が身体に近いのもあって力はさらに入らない。

 それでも俺は精一杯『壁』を打つつもりで当てた。


 でも、俺の打球は山なりになって、愛仁側のコート真ん中にゆったりと落ちていった。

 これを一言で表すなら『絶好球』だ。これ以上ない程の絶好球を愛仁に与えてしまった。


 こうなってしまっては、愛仁はもう、どこでも好きな所へ打てる。自由に打てる。

 一方、俺は今いる位置からある程度離れた所に打たれた場合、追いつくことが出来ない。もちろんコート内であってもだ。


 でも、愛仁は好きな所に打てる。

 詰だ。少なくとも、このポイントは。

 俺の打球が、絶好球が、愛仁のコートでぽい~んと跳ね音を立てた。


「カッ!」


 容赦ない掛け声を上げ、俺を一瞬イラつかせ、普通に強い球を放った。コートの左最奥。当然俺から遠い位置に。

 ズッシャアっと滑るように。キレイな打球だった。


「ふん!」


 走るまでもない。わかる。コレは追いつけない。もしこの場に『先生』がいたら、走らないと怒られてしまうが、いないので走らない。失点。


 15―0。


 ああ、マズイな。グダグダしかけている。

 次。愛仁は同じようにサーブを打ってきた。『壁』をするつもりで精一杯当てた。体勢も崩れて。打球は山なりになった。俺は悟った。


 結論。

 この愛仁のサーブを相手には、『壁』すら使えない。

 迫り来る、伸び上がる打球に崩れた体勢で『壁』を使うことは不可能だったのだ。

 そして、この事実は、つまり現状の技術ではこのサーブに対応する術がないことを意味する。


 何が、サービスゲームでも十分最低な状況、だ。

 アホか。

 全然、今のレシーブゲームの方が最低だ。どうしようもないわ。簡単に諦めがつく。どうしようもない。


 さて、どうする?

 ここまで、どうしようもないなら、いっそ足掻いてみようか。

 俺は走ってみた。

 例にならって、なんとなく愛仁の打つ方向を予測してだ。

 ただ、現状、俺は絶好球を与えているワケで、愛仁はどこにでも打てる。


 だから予測の精度もかなり落ちるだろう。


 しかし、こうして偏ったポジションにつくことによって、万が一、俺の動きを愛仁が見ていなかった場合、さらにそれが、この俺が走っている隅っこの方へ飛んできた場合、俺は『壁』を使って、再びラリーに持ち込むことが出来る。


 飛んでくるわけないけど。


 愛仁は、俺の山なりレシーブに対してゆったりと構える。

 俺が何やら、ヤケクソで走っているのも、しっかり見ることが出来るぐらいの余裕はあるに決まっている。

 だから、俺の走った方向と逆にしっかりと打ってきた。


 当然だ。

 俺もそれは予想済み。

 でも追いつけない。追いつけるワケがない。

 さっきまでとは状況が全く違う。


 サービスゲームの時に俺が打ったいた『壁』の弾道は、何だかんだで低いし、速度もそこそこだった。

 そこは、さすがに愛仁の打球をベースにしているからだが。

 だから、スイングしながら俺が走るのを見て、スイングの途中で執行する打球コースの切り替えにも限界があった。

 切り替える角度の限界があった。


 でも今回は違う。俺の走りを確認した後、愛仁はスイングそのものをやり直すことが出来る。

 こんな山なりの打球が相手では。だからどこにでも打てる。

 俺は追いつけない。


 愛仁の一撃が俺のコートをズッシャァっと流れていった。俺の目線のはるか先を。


 30―0。


 バカか俺は。『壁』すらマトモに打たせてもらえない状況なんて存在するに決まってんだろ。

 『壁』の練習は一杯したんだし。練習一杯したってことは、ある程度の技量が必要ってわけで、ってことは、その技量を超える球が来た場合は打てないってことだろ。

 そんぐらい予測しとけや。ボケが。自分が腹立つぜ。


 しかし、こうなるとどうしようか。走るのヤメようか。なんか、必死に走って惨めに失点するのって恥ずかしいし。

 蛭女が見てる前でそんな醜態は晒したくない。


 あ、そうだ。そうだよ。こっちには蛭女がいるんだよ。蛭女が見てる前で、必死な様子を出したくないから、必死になれないんだよ。

 どこかカッコつけちゃってるっていうか? 全力の実力を発揮できないっていうか? ああ、そうだよ。こんなけ一方的なのは蛭女の目線を気にしてるからなんだよ。

 蛭女が居なかったら、こんな戦況にはなってなかったんだよ。


 いいなあ、愛仁は。だれからも見られてなくて。ノビノビと試合できてんだろうな。カッコつけずに。

 そうすれば実力も発揮できるし。俺なんかよりずっと楽な状況で試合しやがって。


 俺は蛭女をひと睨みする。


「え? なんで?」


 と蛭女が反応する。

 よし、走るのヤメよう。そもそも無駄に走り続けてるから、もう疲れてるし。

 よし。


 ……あ、ダメだ。一瞬、走らない自分を想像してしまった。そしたら、スゲぇダサいわ。

 なんか「俺、やる気ないから負けてるだけだし。俺、やる気ないから走らんだけだし。俺、こんな野良試合じゃ、やる気でんし」って言ってるヤツみたいでダサいわ。

 ダサいし腹立つわ。

 危ねえ。ショックすぎて、まともに思考できてなかった。見失いかけてた。

 俺はコレで勝つと決めたんだ。コレに勝つには一球も無駄にできないんだ。体力の温存とか、見栄えの為に無駄にしていい点なんて俺にはないんだ。


「ってことで、まだまだ走るぜ!」


 結論だけ叫ぶ。

 相対する愛仁がニヤリと笑った。笑ってくれた。俺の無意味な思考ルーチン感じとったのだろうか。


 愛仁は、なんの遠慮もないサーブを打つ。


 俺の『壁』は失敗し、無様にコート中央へ軽い山なりの球が飛んでいく。

 こんなベストな、打ちごろな打球は、例えばコートの四隅はどこにでも打てるし、俺は四隅のどこに打たれても打った後に走っていては追いつけない。


 だから、打つ直前に走る。その届かない四隅を一つ潰す為に。超届かない三隅にする為に。


 愛仁は当然、俺が走るのを見届けてから、打球コースの選択を変える。俺のいない方向に。

『壁』よりもずっと緩い俺のレシーブだから、コースの変更も大胆で鋭く正確にこなせる。オマケに打球は超速い。

 もうサーブ並だ。


 俺は当たり前に追いつけない。失点。


 40―0。


 同じ。さっきと全く同じだ。もう、この第4ゲームはこれで行くしかない。

 ある意味での諦め。でも、俺は走ることをやめない。


 次も同じ様に失点し、第4ゲームは終わった。



   *



 0―4で迎える第5ゲーム。サーブ権は俺に戻ってきた。

 手元のボールを見据える。


 やる事は第3ゲームと同じ。『無駄に動く壁』。サービスゲームならこれが出来る。

 変化があるとすれば、俺の息が弾んでいるのと愛仁の腕が温まってるってとこか。十分最悪だ。


「まだやる?」


 愛仁が嫌味っぽく聞いてくる。無視無視。ここで「やらない」って答えたら、たぶんガッカリするクセに強がって生意気言ってんじゃねえよ。

 俺が緩いサーブを打つモーションに入る。


「同じ方法で?」


 と、愛仁。

 そうだよ。

 俺はサーブを打つ。

 レシーブに反応。『壁』で返し、モーションと互の立ち位置から、愛仁が打つべきベストなコースを割り出す。

 そして俺は、俺の走るべき方へ走り出す。


「やっぱり同じ方法じゃないか。王君、勝つ気はあるのかい!?」

「さあな!!」


 もちろん勝ちたい気はある。でも答えてやらない。会話も切ってやる。勝手に期待して勝手に失望して勝手にキレてろよ。


 俺は愛仁の打球を魂込めず『壁』で返す。


 しっかりと地に足つけて、手首を固定して打つ!


「よし、コッチはラリーできるな」


 改めてサービスゲームの優位性を認識。これは中学時代じゃ考えられなかったことだ。こんなにヘボいサーブでも有利なものは有利なのだとは知らなかった。



 そして、それは突然やってきた。


「ッ……!」


 来た。

 そう、本当に突然なのだ。

 俺にはわかる。経験者だから。

 愛仁は悲痛な表情を浮かべながらも、なんとか振りぬこうとしている。


 肘に、電撃でも受けたような、そんな痛みが走ったのだろう。そして、その痛み以上に痛みに対する驚きがあったに違いない。

 ちょっとビクッときたに違いない。

 一瞬だけ。

 だが、その一瞬の『痛みと驚き』は、スイング中のフォームを崩すのに十分だったのだ。


 俺も肘を壊した人間だからわかる。これは初期症状の一種だ。

 違和感はなかったハズなのに、痛みだけが唐突にやってくる。

 無理もないのだ。無理をしすぎたのだ。

 俺に逆らおうとして、無理なコースを無理なタイミングで切り替えて打ち続ければそうなるに決まっているのだ。


 途中から、俺は『予想したコース』に走るのではなく、『無理して逆らって余計に負担のかかりやすいコース』を走っていた。

 でも、俺の説明を受けていた愛仁はすっかり俺の走るコースが『ベストなコース』だと思い込んでいて、まんまと騙されて逆らってくれたのだ。


 肘に負担がかかるのも当然だ。

 痛みが走るのも当然だ。


 愛仁の崩れたフォームから、打ち損じた、死んだ球が放たれる。

 ゆったりと、抜け殻の様な打球が、俺のコートの浅いところへと落ちる。

 打ち損じ……、浮き球……、呼び方はいくらでもあるが、コレは俺にとって間違いなく

『絶好球』だ。右腕を壊しラケットを左手に持ち替えた俺にとって、そんな俺であっても、コレは間違いなく『絶好球』なのだ。


 俺は愛仁の肘に無理をさせ、この絶好球が放たれるのを待ち続けていた。


 ようやく、来てくれたのだ!


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 ガラにもなく俺は叫んで、欲望を吐き出すようにボールへと襲いかかる。当然だ。

 ようやく実ったのだ。俺は恥を忍んで愚直に打ち続けたのだ。この時を迎える為に。


 必ず決める!


 未熟な技術でもがき、ようやく掴んだ攻撃のチャンス。得点のチャンス。


 この絶好球を浅く鋭く打てば愛仁は追いつけない! たとえ『壁』であっても普通に考えたら追いつけない!

 俺は得点が出来る! さあ、どうする?


「うあああああああああ!」


 全神経を集中し、周りの空間を巻き込んだようなえげつないスイングをぶつけてやる! 大丈夫。

 ボールは俺側コートのネット際。一メートル先に投げつけるように打つだけ。スイングしてもミスはしない。


「ふふ……」


 愛仁だ。俺がボールへと向かうこの瞬間、愛仁は確かに微笑んだのだ。そして、


「なるほど……。これが、王君の狙いだったのだね。この一点の為に、何点も犠牲にしたというのだね」


 無視。俺は真剣だ。集中せねば。


「でもね」


 まだ何か言いたいのか?

 あるのだろうな。


「そのフライングダッシュはワタクシやるからこそ効果が表れるのだよ!」


 と言って、愛仁は、走り出した!


 俺のように、打球コースを予測して! この土壇場で!


 さっきまで俺がやっていたように!


 相手の俺が打つ前に、走り出す!


「王君がようやくたどり着いたこのチャンス!

 これは絶対に決めなければならない!

 しかし今の君の技量では、このチャンスを活かすコースはかなり限定されえる!

 予測は簡単!

 先に走って獲って君に一点も与えない!」


 興奮しつつも冷静だ。

 愛仁の走り出した先は、俺から見た右でしかもネット際。

 正解だ。俺はそこに打とうとしている。


 馬鹿め。

 俺が頭の中でそうつぶやいて、そのほんの少し後に愛仁は顔をしかめた。

 気づいたようだ。

 でももう遅い。

 勢い余った愛仁の身体は言うことを聞かない。

 必死でブレーキをかけるが止まらない。


 確かに俺は速球が使えない。

 速球が使えないから、こんなに追い詰められているのだ。

 愛仁もそれを理解しているから、俺がどう処理するかを考えたのだろう。

 その予測は浅く鋭くだ。

 浅く緩い球をこの左腕で処理するにはそれがベストだ。


 だから愛仁は自分のコートのネット際まで走ってきた。俺が打つ前の段階で。

 俺が処理する球を打ち返すために。


 今、俺と愛仁は互いにコートの中央へ走ってきていることになる。

 互いの距離はこれまでにない程接近している。

 この距離はネットを挟んで闘うスポーツとしては限界ギリギリだ。


 さて、俺は確かに速球が使えない。

 では、『速球が使えない』とはどういう意味か。

 もちろん、これはかつて全国で猛威を振るった右腕の故障に依拠しているのであるが、これではまだ具体的な説明にはなっていない。


 新たにラケットを持つことになった、左手。左腕のスイングでは何故速球が使えないのか。


 力が足りないから?

 ハズレ。そうではない。

 球の速さは腕力で決まるのではない。


 第一、俺の左腕がいくら右腕に比べ非力であっても、その辺の小学生よりかは強い。

 だから現在の俺が小学生レベルの速球すら打てないことの説明にはならない。


 では、速球を生み出すものは何か。

 それは、重さと速さだ。


 この『重さ』とは全身の筋肉を利用した体重移動のことだ。そして『速さ』とはラケットのスイングスピードのことである。


 スイングスピードというと腕力と思うかもしれないが、そうではない。スイングスピードはむしろ力を抜いた時の方がよく出る。スイングスピードを伸ばすには、これまた器用な体重移動が必要になってくる。


 このように、速球を速球たらしめているのは身体全身なのだ。


 では、どうして俺は左腕で速球が使えないのか。


 ここまでくれば、もうわかるだろう。

 打てないのではなく、使えない。

 さんざん腕力の不要論を披露したが、腕そのものはもちろん速球を生み出す為の重要なファクターだ。


 どのような点で必要なのか。

 それは回転だ。

 全身の力を使い、重さと速さをぶつけられたボールはどこまでも飛んでいってしまうだろう。

 そんな打球の制御、飛距離の制御に必要なのが回転だ。

 そしてその回転をかけるには器用なラケットコントロール、つまり、腕の感覚が必要になってくる。

 現状、俺の左腕はそれが出来ない。

 だからこそ俺は、いっそ手首を固定する『壁』であったり、体重を逃がしながら遅い腑抜けた球を打つのである。


 そう、つまり俺は速球が打てないのではなく、入れられないのだ。

 だが、俺は今、最高速度の速球を打つ!

 それも、コートに収まる見込みは一切ない、最高速度!

 それでも点を取る!

 打点へとやってくる打球に全神経を集中! 腰を落とし、左足の膝に割れんばかりの体重をかける!


「……うううぅ……!」


 恐怖にまみれた愛仁の顔がゆがむ!

 左膝にかけた体重を弾けるように解放!

 すべてを右足へ!

 コートを抉るように右足へ!

 その爆発的な解放の勢いに、左腕も乗っかる!

 最高のスイングスピード!

 とてもじゃないがこんな不器用な左腕では制御できない勢いが乗っかる!

 全中を荒らしに荒らしたあの剛速球。その剛速球を生み出す為の足腰は生きているのだ!


 だから、とてもじゃないがコートに収まらない!

 じゃあ、どうするか?

 何かに止めてもらえばいい!


「くらえ……」


 そう、この愛仁に、ノコノコと俺の目の前にやってきた愛仁に、


「うおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああ!」


 当てる!


 ドコォっ!


 という音が手元でして、それと同時に


 バキッっ!


 という音が目の前、つまり愛仁の方から聞こえた。


 集中力を極限まで高めたプレイヤーにありがちだが、やはり視界はスローモーションで展開している。

 そして、そのスローな世界で俺はしっかりと捉えた。


 しっかりと、愛仁の目の周りよりちょっと横の骨、眼窩部へと直撃していることを。

 打球の勢いは収まることを知らず、ぐいぐいと突き進もうとしていることを。


 コートにチマチマと留まるつもりはない、どこまででも飛んでゆけそうな、そんな球が愛仁のキレイな顔を押しつぶす。

 そして俺は興奮の余り、確かにこう叫んだ。


「つらぬけええええええええええええええええ!」


 ……と叫んだものの、球は本当の想定通りに上空へ跳ね上がる。愛仁の顔面から。

 しかし、やはり威力は凄まじく、愛仁は吹っ飛び倒れ込んだ。


 俺の叫びに反して、コートは静まり返る。


「起き上がるなよ……」


 俺は心の底から、苦い想いで念じる。

 静かなコートで俺の願いはイヤな程響いていた。

 気絶を願う。それしかないのだ。


 テニスというスポーツには一発逆転というものが基本的にはない。

 サーブが放たれラリーが始まった時、その時から、ラリーが終わればどちらかに一点が入ると確定している。

 そしてその一点一点を積み重ねて、どちらかが決められた点数に達した時、勝利が決まる。

 だからこそ一発逆転はない。常にどちらかに点が入るのだから。

 秘策による得点や一生に一度しか使えない超必殺技によって得た点と、普通のラリーで普通に打ち勝った点や相手がクシャミしてくれたおかげで取った点の『重み』は全く一緒なのだ。


 そう、テニスとは流れのスポーツ。

 悲劇の失点も幸運の得点も、流れの前では無意味。

 普通に勝とうと考えるならば、相手を追い越すしか方法がないのだ。


 だが、今の俺にそんなことは不可能だ。6ゲームも取れるハズがない。


 だから、気絶を狙う。漫画ではよくあること。

 試合続行不可能なら……、俺の勝ちだ。大丈夫だ。テニスボールが比較的柔らかいとは言え、俺の全力のストロークなら時速150キロは余裕で超える。それを一メートルの距離で顔面にマトモに喰らえば、意識はトぶに決まってる。


 やれることはやったぞ。

 俺が真剣な眼差しで愛仁の動向を見守っていると、


「んごうおおおお! 貴様ああああ!」

「うわあ! 忘れてたあ!」


 審判台から立ち上がり、高い位置から全体を見下ろしている執事が、俺へ銃を向ける。

 上から向けられる銃口の圧力は確かに重厚だった。なんつって。


「動くな!」


 俺に銃を向けている審判台の執事のすぐ後ろの壁際で、そこで試合を見ていた天さんが銃を構えている。執事に向けて。

 クソ! ここは本当に日本か?


************************************



「いいかげんにしていただきたい。ここは我々の学校の敷地内なのですよ。

 そんな物騒な武器は片付けてください。それに、私から言わせれば、今のは当たった愛仁君が悪い」


 俺を守る為か、天さんは執事をなだめようとして、それが無理だとわかると今度は煽り出した。


「そうだぞ、和太成部。銃を下ろせ。試合中だ」


 へえ、この人、和太成部って名前なのか……、なんて俺が思っていると、その声の主が、俺の視界の隅で立ち上がる。


「愛仁様!」

「うむ」


 しかめっ面で首を一回鳴らし、愛仁は自分の無事を荒れ狂う執事に示した。


「そ、そうだぞ! お前が悪いんだ!」


 俺は被害者に便乗し、自分の正当性を示すことによって、復讐者の怒りを収める作戦に出た。

 が、銃を収めた後も厳しい表情に変化は見られない。


「しかし、やられたよ。腕に負荷を与えていた、ってだけでも十分驚いたけど、それすらもフェイントで、本当の狙いはワタクシをおびき寄せ、直撃させることだったんだね」

「ああ! 目には目を、歯にも目を! だ! 俺はハンムラビみたいに甘くねえぞ!

 やられたら、その人が一番困る所に報復するのが俺の主義だ!」


 愛仁が俺の行動について話をしてきたので、俺も少しテンション上げて応える。


「……その言い方、やっぱり肘の事を怒ってるのかな?」


 痛みにしかめていた眼差しが、どこか淋しいものに変わる。


「ああ、そうだぜ」


 便乗。


「これが、あの日、俺の受けた痛みと悲しみだ」


 と重々しく言ってみる。本当は全然恨んでないけど、まあ、こういう事にしておけば、今の一撃も割と同情的にみんなが見てくれるかもしれない。

 それを狙っての発言だ。そうだ、あくまで、肘のお返しだったんだよ。


「いや、逆恨みにも程があるでしょ……」


 最大の味方だと思っていた蛭女による裏切り発言。しかも正論。無視するしかない。


「いや、まあ、今の一瞬は楽しかったよ。ワタクシを見てくれているのだと感じられた気がする」


 おお、愛仁……。俺を擁護してくれているのか。何か気持ち悪いし意味不明だが。

 てなわけで、水に流してサーブの構えをとる。


「『15―0』」


「え? なんで? なんで王ちゃんちゃっかりとサーブ打とうとしてるの!? 何のお咎めも無しなの!? 野放しにしていいの!? あれ? しかも王ちゃんが得点したことになってる! アレが初得点? あんな危険球、普通なら失点とかじゃないの!?」


 と、どうやら俺の処遇に不満があるらしい蛭女が大声を上げ、周囲に問い詰めている。声の大きい蛭女の意見が正しいような気がしてきた野次馬もいるようで、困惑した空気が漂う。

 そんな空気で割って入ってきたのは天さんだ。


「さっきも言ったけど、ボールに当たる方が悪い。

 いいか? まず根本的に、テニスってのはラリーが始まったらボールに触っちゃダメなんだ。

 何でかは、わかるよな? それを良しとしてしまうと、例えばボールを投げ返したり蹴り返したり、あるいはボールを一旦持って、それから自由に打てたりも出来てしまうんだ。

 だからボールに触るのはダメ。で、当てられたってことの問題なんだけど、それも、テニスってのは例えば野球みたいな狭いバッターボックスってのはなくて、コートの中を自由に走り回れる。

 だから、そもそも当てようと思っても当てられない、当たらない。

 それに対して、ボールも比較的柔らかいし遅い時もあるから、簡単に『当たりに行く』ことは出来ちゃうんだ。

 故意にってことだよ? そして、それが故意かどうかを見破る方法はない。

 だから、まあ総合的に見て、当たる方が悪いってことで失点するようにしているんだ」

「へぇええ~! そうなんだ~! やっぱり王ちゃんは正しいんだ! 仁君は悪いヤツなんだ! いっけ~! 王ちゃん!」


 蛭女は平等だなぁ。

 例え敵でも味方でも、正しい方を応援するんだね。可愛い。


 さらに都合の良い事に、野次馬から向けられた俺への眼差しが温かいものになった。

 俺への不信感が消えた、というか。まあ、天さんの長々とした解説と蛭女のデカイ応援のおかげでもあるのだろう。


 気分は悪くない。俺は心置きなくサーブを打つ。


 ……アレ? で、どうすりゃいいんだ? 俺の計画としては、ここで愛仁は立ち上がることなく決着していたんだ。

 それがどうだ? 愛仁は普通に立ち上がってる。

 まあ、やっぱりちょっと人間の意識をトばすには威力が足りなかったんだろうけど、問題はそこじゃない。今後のプレイだ。


 愛仁を襲った肘の痛みももう引いたハズだ。引いてしまったハズだ。アレは一過性のもの。

 もちろん、コレは俺の慈悲ではなく、一過性の痛みを起こさせるのがこの試合中での限界だっただけ。

 何故なら故障というのは、この一過性の痛みを無視して何度も何ヶ月も無理をした場合に起こるのだから。

 俺がそうだったように。だから、この試合中では、この『一過性』が限界。


 もう一回直撃を狙ってみるか? いや、できるわがけない。あの一撃は確かに効いたハズだ。警戒するに決まっている。また肘に負担かけて、痛みが走って、驚いて、打ち損じて、ネット際までノコノコと走ってきて、俺の球に当たってくれる? まずないだろう。避けられるポイントが多すぎる。


 結局、一回コッキリで、見破られたり防がれたりしたら通用しなくなる、そんな作戦なのだ。そんな作戦でしか闘えないのだ。


 と、迷い浮き足立っている俺に、強烈なレシーブを愛仁は叩き込んできた。

 一旦、この思考はカットだ。俺は例の通り喰らいつき、『壁』で返す。

 打球の行く末を見届けて、『構え』と『戦況』からコースを予想し走り出す。変化があったのはここからだ。


 愛仁の打球が猛烈な勢いで迫ってくる。


「速ぇえ!」


 ギャラリーが驚いたのはそっちか。

 だが、真に驚くべきはそこじゃあない。

 そう、コースだ。愛仁は俺の走っているコースへ打ってきたのだ。全力で。

 変えてきた。肘に負担をかけないように、俺が向かっている最善のコースへ打ってきた。


 当然、俺は通常の、反応してから走る選手より早く打点にたどり着く。だから俺はゆったりとした丁寧な構えをとることができる。愛仁からしてみれば、もうそれは止むを得ない問題なのだろう。

 そして、この俺の丁寧な構えごと突き破るつもりなのだ。


 それでいい。それが正解だ。俺ならそうする。

 考えた結果が、思考停止した人間と全く同じ行動になることなんて世の中ザラにある。


 さあ、来い!


 って、うわ! もうだいぶ来てる!


 迷いを捨てた打球は、余裕を持ってポジションに着いている俺をも焦らせる。

 だが、反応できない俺ではない。全国を制覇した、反射と反応は残ってるんだ! ラケットの真ん中で捉える!


 ギュワッと、ガットが悲鳴を上げラケットが軋む。ボールが、まるで生きているようで、俺の大事な領域を抉りとっていく気分だ


 これはもう、サーブに準ずるスピードと威力だ。

 だが、姿勢を整えれば、鍛えた『壁』で、返せない、程、で、は、ない!

 バン! という、あそこまで抉りこまれていた割に、高く快い音がして、放たれた打球は愛仁の方へと飛んでいく。成功だ。


「返した!?」


 というのはギャラリーからの驚き。


 やはり左腕の動きを最小限に留めている『壁』なら、愛仁の本気のストロークも返せる。

 もちろん、ドンピシャでポジションに着き、余裕を持ったフォームで迎え撃たないといけないが。


 よし、これでいくか。


 ラリーを続けようぜ、愛仁。長い長いラリーを。

 『気絶狙い』なんて俺はもうしない。正真正銘のラリーをしよう。

 俺はコースを予測し、お前は本当に打ちたいところに打つんだ。愚直に。

 俺達の気が合ったのなら、俺も必要以上に走り回ることはない。そうすれば、俺もさっきまでのラリーよりミスも減るしな。

 でもって、お前も怪我はしない。長くなるぞ。長いラリーだ。屈辱だろ? こんな俺と長いラリーなんて。


 ホントーは、さっきの一撃喰らう前からも、お前は俺の走った方向に打つべきだと知っていたんだろ? なんとなく。

 でもプライドが許さなかったんだろ? わかるぜ。今の俺なんかと長々ラリーをするなんて。

 で、結局お前は俺とのラリーを早々に終わらせる為、逆を打つようにしたんだ。

 肘をひねって。負担をかけて。


 それはお前のミスだ。相手に合わせたプレイをしようとして、自分のすべきことを見失ったお前の罪だ。

 次二郎にも似たような説教したぞ。お前にしては情けないプレイだ。


 今なら断言できる。やっぱりお前は、弱いヤツと闘ったことがない!

 だから戸惑っていたんだ。弱いヤツとの闘い方を知らないから。

 お前は公式戦でも、県大会からしか顔を出していない。

 練習試合も強い学校しか相手にしていない。選抜にも出なかった。

 お前は、自分より、遥かに弱い相手と闘ったことがないのだ。

 そして、こんな固定観念を持ってしまったのだろう。いつの間にか。


『弱い相手に本気を出すようではいけない』、『五割程度の流すような試合が出来ないといけない』、『神経をすり減らさない、リラックスした試合が出来ないといけない』という固定観念を。


 でも、それらは十分、『相手にしてる』ってことなのだ。

 確かに、自分より、『ちょっと』弱い相手ならそれも構わない。


 だがな、愛仁よ、世の中には『想像を絶する』ザコってのが存在するんだ。『相手にする必要のない』ってレベルのザコが。

 この、俺のようにな。

 実力差が遥かにある相手に、そんな固定観念で固執していては、足をすくわれるぞ。

 例えば顔面狙われたり。


 思えば、お前は由緒正しい家系に生まれ、優秀な人間に囲まれここまで育ってきたのだ。

 一応、世の中には想像を絶するバカなんてのもいる、と頭の中では理解してもいたのだろう。

 でも、その実感はなかったに違いない。


 だから、そうしてそのまま大きくなってしまい、全ての人間を救いたがるような、偽善的でお花畑な発想をする大人が出来上がってしまうのだ。

 想像を絶するバカを知らないから。

 救う必要のないバカを実感していないから。

 でも、そんな人間は確かに存在する。


 この、俺のようにな!

 愛仁! 俺は、お前にはそんな大人になって欲しくないぜ。

 だから俺が修正してやる!

 もうちょっとだ!

 今の愛仁は、俺を相手にすることなく自分のテニスをし始めている。俺の一撃を喰らって。


 さあ、実感させてやろう! 救ってはいけないザコってのを!


 と、俺が息巻いている間に、俺の打った打球は、愛仁の真正面に飛んでいき、愛仁はそれを難なく打ち返す。

 すでに俺は、きっと打ち頃で快感だろうな、なんて考えながら、コースを予測して走りだしてる。


 俺に迫ってきた球の威力は凄まじい。1打ごとに興奮と驚きの歓声が湧き上がる。

 冷静になれば、ここまで威力が出せるのか。恐らく、テニスに関する全能力において愛仁の方が上。

 だから、余計なことを考えず、全力で打ち込めば、それだけで俺にとっては脅威なのだ。

 冷静になって、強い球を打つことに専念し、冷静になったからこそ、最高速度が叩き出せる。

 コチラとしては、一向に突破口が見えないので困ったものだ。


 ……なんてのは、呑気な悩みだった。


 愛仁のテニスは俺の想像より、もっと激しく徹底していた。

 俺は今更、それを実感することになる。


 俺は何とかやってきた最高速度の球を打ち返し、その打球は愛仁の方へと飛んでいく。

 で、打ち返される。それをまた打ち返す、繰り返し。


 そこで、あることに気づく。ある疑惑が生まれる。汗が吹き出す。

 走ってて暑いのが理由ではない。焦りからだ。


 でも、その走ってて暑いってのも、焦ることの理由だからまんざら間違いでもない。

 そして、さらなる繰り返しの中で、疑惑が確信に変わる。


「ハァ、ハァ……! なんで!? 畜生! ハァ……!」


 このラリー……、走っているのは、俺だけだ。


 自分のコートのどこに打たれるか、打つべきか、相手の気持ちになって予測してから走っている。

 そこに愛仁は打ち込んでくる。

 さっきまで逆に打ち込まれてたから、それに比べれば、一打ごとの走る量は減っている。


 俺自信、楽になっているハズなのだ。


 問題は相対的な話。


 愛仁は、このラリー、一歩も動いていない。

 走ってないだけでなく、歩いてもいない。

 理由は簡単。俺の球が愛仁の真正面にしか飛んでいかないからだ。


「なによコレェ!」

「ぐ……、どうなってやがる!」


 と、ヒステリックな声が聞こえる。外野の言葉が理解出来る時点で、あんまり集中できてない証拠だ。

 ダメだぞ、俺。こうしている間にもラリーは続き、俺の体力はどんどん削られている。


 あと、もう一つ地味に驚いたのが、次二郎まで声を上げたことだ。結構真剣に見てくれてたんだな、と嬉しく思う。


 ただ、「どうなってやがる」なんて疑問は、疑問にすらならないほど明らかな理由があって、それは、俺が愛仁の目の前に返しているからだ。

 こうしている間にも俺は愛仁の真正面へ返し続けている。


 問題は俺だ。なんで俺は愛仁の方に打ち込んでいるのだろう。

 この「なんで!?」という言葉を口にしてから、ちょっと意識して考えている。


 で、その答えを見つけるための鍵はすぐに見つかった。


 無意識だ。


 だって、長いこと愛仁の正面に返していることに気付かなかったのだから。

 それはつまり、俺が無意識に愛仁の方へと打ち返しているということ。

 ちょっと実験してみよう。意識的に、愛仁のいない方へと打ってみる。

 といっても『壁』を使わないわけではない。『壁』を使って、反射角を打球につけるだけだ。


 腰を落とし、より集中して、慎重に、打つ!


 ビリっとした感触が腕に来る。ラケットで捉えたのだ。後はやや引っ張り気味にラケットをそらす。

 振るのではなく、そらす。より慎重に『壁』を成功させるために。球は俺のラケットから離れた。


 その瞬間に理解した。制御できていない。


 予感した通り、球はコートの外で跳ねた。


 俺の『壁』で打った球はアウトした。


「アウトォォオオオオオオ!」


 と審判がやかましくアナウンスする。嬉しいのか?

 とにかく、やっぱり『壁』に反射角を加えることは失敗した。


 当然これは異常な事だ。反射角を加える『壁』なんてのは、愛仁に一撃喰らわせるまで、ずっとやってきたことだ。

 だからこそ、お互いが結構走っていたのである。

 それが今、出来なくなってしまった。

 失敗した。

 しかも体がそれを理解している。

 だからこそ、失敗を恐れて無意識に角度をつけないようになってしまった。


「おや? 今のはワザとじゃ、ないよね? 気づいた、ってことかな?」


 俺は悔しくて小さく頷く。

 気づいてしまった。

 これは技ではない。現象であるのだと。

 この現象の原因は実力差だ。


 例えば自分にとって、超強力な球が来たとき、それを、せめてミスることなくコート入れよう、ミスることなくコートに入れる事を優先しよう、と思ったなら、その最善の方法は面を合わせることである。

 面を合わせる、とは向かってくる打球の軌道に対して、垂直にラケットの面を置くことを言う。

 これが出来れば、球はラケットの真ん中に当たり、球はブレない。


 さらに打球の飛距離がコートに収まりそうにない、と感じたなら、前に押し込むようにスイングした方がいい。

 弾く、という感覚と真逆の方法、押さえ込む、という打法をとるのだ。

 これで飛距離は落ちる。もちろん速度も落ちるが。


 さて、俺は今のポイントで、この両方の要素を持ったスイングをしていた。


 するとどうなるか?

 答えは、現に起こっている現象のように、向かってきた方へとブレずに真っ直ぐ押し進んでいってしまう。


 もう一度言う。原因は実力差だ。

 愛仁の打球に臆し、愛仁の打球をラケットで捉えてから脳が無意識に、いや、この場合はそれ以前の、脊髄反射で面を合わせて押し返していたのである。


 感覚神経がボールの感触に危機感を抱いて、脊髄が運動神経に制限を働きかけた。

 左腕を、ただ球を入れる為だけの木偶の棒にするよう、制限をかけたのである。


 この現象を人は『ゾーン』と呼ぶ。


 相対する二人に一定以上の実力があり、それでもなお、二人の間には歴然とした実力差のある場合にのみ引き起こる現象。

 その現象が起これば、球は上の者が持つ領域に吸い込まれるようにして飛んでいく。


 認めよう。今の俺達には『ゾーン』が発生している。

 愛仁と俺の実力差がはっきりと存在し、かつ、中途半端に俺がうまい。

 右手を失い、すっかりザコと化した俺であっても、その球に対する嗅覚は衰えていなかった。


 身体が覚えていた。そして、その身体が怯えている。

 素人以下の左腕と全国クラスの無意識が生み出した悲劇。

 順当な方向へ愛仁が全力で打ち出したことにより『ゾーン』が生まれてしまった。


「ゾーンだぁ?」


 審判台のさらに向こう側から、多分天さん当たりの解説を聞いて、次二郎か邪先輩辺りが発したであろう、信じられないといった声が聞こえる。


 信じられない、と思うのなら、じゃあもう一度見せてやろう。しっかり確認しろよ。と、いう親心にも似た感情で、なんの対策も考えずにサーブを俺は打つ。

 しかし次二郎達が知らないのも、まあ、無理もあるまい。俺だって初めての体験だ。


 中学時代、俺は最強だった。今の俺と愛仁ぐらいの差があるザコとも無数に戦ってきた。

 俺のストロークに慌てふためくようなザコたちだ。でも、そういうザコは決まって制球すら出来なかった。

 つまり、一定以上の実力すらないのである。


 当然、『ゾーン』など起こり得なかった。『ゾーン』など、所詮は妄想の産物でしかないとさえ思っていた。


 それが今、こんな野良試合で起こってしまっている。

 これが、高校テニスか。

 全国には、今の愛仁よりも強いのがゴロゴロいるのだろう。

 高校テニス、面白そうじゃねえか。


 仕組みは理解したところで対処の仕方が全くわかっていない俺のコートに、愛仁の打球は容赦なく突っ切ろうとしている。

 俺は何とか追いつき、体重を後ろにかけて面を合わせ押し返す。

 完全に守りのフォームだ。

 だから打球は、やはり愛仁の方へと吸い込まれていく。

 鋭いコースを狙う、なんてのは夢のまた夢。この繰り返し。


 繰り返し、だからと言って気の緩みは許されない。全神経を集中していなければ、あるいは色気づいてコースでも狙おうものなら、あっという間にあらぬ方向への大ホームランだ。これで点が決まってしまう。俺のミスで。


 決まり方はもう一パターンある。気が僅かに緩み、大ホームランとまでは行かないまでも、甘い球を真正面に送り込んでしまった時、愛仁は叩き潰しにくるだろう。

 これで決まってしまう。


 愛仁にとって、俺との長いラリーは屈辱的かも知れないが、俺にとっては八方塞がりで困ったものだ。

 作戦もクソもない実力差によるゴリ押しに、俺はさすがに諦めようとしている。


「……」


 そんな中、追い打ちをかけるように愛仁は言った。


「結構、『ゾーン』に返すのすら精一杯、って感じだねぇ」


 甘ったるく、けれど高圧的な声だった。


「じゃあ、もうちょっとだけ弱くしても、王君は来た方向に真っ直ぐ面を合わせちゃうのかな?」


 何を言ってるんだ?

 コイツは何をしようとしているんだ?

 そう思ったが、すぐに理解することになる。

 それは、俺なんかとラリーを長々としたくない! という強い想いが生み出したアイディアだった。

 愛仁は強いストレスや苦境の中で真の力に目覚めるタイプの人間だったのかもしれない。


「いくよ……」


 何やら力を溜めている愛仁の下へ俺の打球が返っていく。

 決して俺の打球は緩んでいない。生きた球ではないが、しっかり速度も出ているし、高めのバウンドもしている。正真正銘の『壁』から出た球だ。


 愛仁は、その高めの球を、……叩き斬った!

 カットストロークだ。


 ラケットを斜めに握り、叩くように打つ打法。

 一見して斬っているようにも見える。カットの最大の特徴は回転だ。

 通常のドライブストロークのようにキレイな縦回転はかからず、回転の向きも変わり、さらに僅かな横の回転がかかる。

 当然威力も落ちるのだが……。


 ビシッっと、さすがは愛仁。カットでありながら、俺のコートへ矢のように突き刺さる。

 さぁ、ここからが問題だ。気を引き締めろよ、俺。


 カットがコートに着地するとその回転の性質から、当然、摩擦の方向も横向きに変わり、そして、バウンドが、乱れる!

 球は火花のように真左へ散った!


 真横!?


 なんつー回転だ!

 しかし、俺は全国区の超反応でなんとか喰らいつく!


「ぐっ……!」


 左手に響いた感触でわかる。

 この威力は、俺が『壁』で反射角を加えられる威力の限界値を超えている。


 つまり、俺は叩き下ろしのカットを相手にしても『ゾーン』へと押し返さなければならない。それが精一杯の限界だ。


 幸い崩れたこの体勢でも、何とか返せる!


 俺は全力で『ゾーン』へと返す!


 まだまだラリーは続くぞ、愛仁!


 打ってから気づく。

 俺のとんでもない勘違いを。

 足が震えて、気づいたら俺は叫んでいた。


「蛭女ぇ! よぉけぇろぉおおお!」


『ゾーン』の罠にかかり、返すというのは、つまり球の飛んできた方へ押し返すということである。面を合わせて。


 しかし、今、カットによって球のバウンドは乱れ、右から左へコートを横切るように飛

んでいる。


 バウンド以降に限って見れば、球は右横から飛んできたように見えなくもない。

 俺は当然、球の軌道に対して垂直に面を合わせた。バウンド以降の軌道に対して。

 俺の身体は当然それを押し返した。だから俺の打った球はコートの右横へと飛んでいく。

 蛭女のいる、コートの外。審判台の後ろのあの場所へ!


「――!!」


 俺は見ていられなくて目を瞑ってしまった。視界が暗い。いっそこのままでいたい。


 ……。


 サクン、という球が柵に当たった時の音がした。

 これは……、という期待半分で目をゆっくりとこじ開ける。


「はーっ!」


 安心から大きく息を吐いた。蛭女は華麗に避けていたらしい。誰にも当たっていない。


「うおー」


 と蛭女自身は若干驚いている。無事でよかった。


 危ない! って叫ばれると身体を硬直させるけど、避けろ! って叫ばれると思わず横に動くってのを、なんかワイドショーの防災スペシャルとかで見ていて、たぶんそれが思わず発揮されちゃったんだろうけど、おかげで助かった。

 馬鹿にしつつも見ていて良かった。


 だけど、安心したら収まるかと思っていた足の震えが止まらない。それどころか、喉の奥、いや、そこよりもっと下の方から何か熱くなってきて、


「ごらあああああああああ!」


 俺は爆発した。丁度握っていた何か長い物、なにこれ、ラケットなのか? を思いっきりコートへ投げつける。チタンで出来たラケットは、っぴょ~んと、おちゃらけて跳ねる。跳ねてる間に俺はコートを蹴り上げる。蹴り上げるっていってもここは土のコートじゃなくてオムニコートだからちょっと靴が擦れただけで、ほとんど空気を蹴っただけ。だからバランスを崩して後頭部からコートへ突撃する。そのままの勢いで左腕をコートに打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける! こんなとこ先生に見られたら殴られるだろう。まあ、もう先生はいないんだけど。


「おいやめろって!」


 もうほどんど他人の声は聞こえなくなってたと思った俺だけど、この声で止められた。声が突き刺さったのだ。チャラい邪先輩の声だった。


 試合をものすごい静かに見てるな、と思ったらこんなとこで出しゃばってきた。


「マジで。それダセエって。陰キャラみたいでキモイって」


 転がっているラケットをダルそうに拾ってから、ダルそうに渡しに来てくれる。


「なんだ? やっぱ、ずっと強かったヤツはそういうとこ未熟なのか? いや、事実じゃなくても、そう思っちゃうぞ? 思っていいのか?」


 邪先輩は俺のとこまで来て、俺の顔を跨いで立っている。屈辱だ。


「ホラ、立てよ。先輩がきてんだぞ」


 言われて、立って、こっそり呼吸を落ち着かせようとする。

 ちょっと落ち着いてきた。


 ああ、わかった。俺、この人のことが、まだ少しだけ苦手なんだ。

 で、この人が目の前にいると少し虚栄を張ろうとしてる。自分でわかる。泣く子も黙る~の高校生バージョンだ。


「ウィす。すいやせん」


 目を合わせられず、適当な返事をした。


「てか、なんでそんなにキレてんだ? 感情的になんなよ。よく言うだろ? バカっぽいヤツの特徴らしいじゃん。

 バカっぽく見えるぞ? それに、いくら蛭女ちゃんが危なかったからって、相手の愛仁を恨むのはお門違いだろ? あ。いや、でも自分の腕を叩いてたってことは」

「あ! それは自分で……」


 言いたいことがあって、思わず顔を上げた。そうしたら、どうやら真っ直ぐ俺を見ていた邪先輩と思いっきり目が合ってしまった。

「……自分で、言います。ボクが弱いから蛭女が危なかったんです」

「そうか。自分でわかってるか。じゃあ、ちょっと自暴自棄になっただけなんだな」


 安心して、少し俺を見直したように邪先輩は吐き出す。


 本当は自暴自棄になったのは最後だけで、ラケット投げてる段階では完全に愛仁へ殺意を向けていた。

 頭打って冷静になって自暴自棄へと進化しただけだ。それがなかったら逆恨みで愛仁に殴りかかっていたかもしれない。


 まあ、でも、邪先輩の認識はそのままにしておこう。最初っから自暴自棄だったという認識のままに。その方が俺への評価も保たれるに違いない。慌てて自分で言った甲斐があった。


「確かに? 自分の弱さの所為で大事な幼馴染が傷つくとあっちゃあ、暴れたくもなるのだろう。でもな、簡単な解決方法があるじゃねえか。強くなるっていう単純な方法がよ」


 うんうん、と頷きながら話す邪先輩は、まさに自分に酔っている人間のそれだ。

 自虐的な俺に邪先輩は大変な共感を得たらしい。というより少し見下した感じか。とにかく、ノリノリだ。挙句の果てには、


「まあ、まだ俺のが上手いから言うぜ? ……頑張りぃやぁ」


 そう言い残してコートの外野へ消えていった。



 我に還る。

 いや、恥ずいな。


 幾人もの野次馬が見守る神聖なコートの中、

 グダグダなプレイしか披露していない俺が、

 進行を止めてまで行う寒い掛け合い。


 聞いている人は、さぞや腹が立ったことだろう。俺に集まる視線も、それを攻めているような気がしてならない。


「大丈夫?」


 愛仁。


「今のは危なかったね。反省するよ。でもワザとじゃないんだ。信じてくれるかい?」


 俺を心配するような声で話す愛仁。でも、どこまで本気なのやら。


「いやいや、悪いのは俺だよ。優しいねえ。僻むぜ、まったく」


 嫌味ったらしく返す。俺なんかを心配すると愛仁の株が急上昇なので、せめて愛仁だけでも不快にさせたかった。


「うわっ、何あの態度」

「サイテ~」


 結局、株を下げたのは俺らしい。

 しかし、弱いというのはこうも辛いのか。

 さっきの、俺が暴れて邪先輩がなだめる、という一連の流れ。

 アレも俺が弱くてグダグダしてるから、より寒くて腹の立つ掛け合いになったに違いない。


 もし似たような掛け合いを、圧倒的強者でカリスマ性の高い人物が行ったら、多少は絵になるのだろう。

 クッソォ。やっぱり弱者なんてのはなるもんじゃねえな。勝てないうえに、感情を曝け出すことすら許されない。


 見ず知らずの人間から痛い奴と認定される。弱くて勝てないからこそ感情を曝け出したくなるものなのに。


 というか蛭女の声すら聞こえなかった。寒い俺に引いてるのだろうか。

 それとも寒い俺のことを見ていられなくなったのだろうか。居た堪れなくなったのだろうか。


「もうやりたくない」


 と、思わず本心を口にしてしまう。イヤ、でも違うのか。ここで俺が棄権なんてしたら、それこそ周囲から「はぁ?」という空気が発生してしまうのか。

 じゃあ続けざるを得ない。

 さて、どうするか?

 決まってる。勝つための方法を考えろ。

 現状、自分のテニスすらできていない。

 相手の術中に嵌っているからだ。

 対策を考えろ。

 対策を考えるには、まず理解しなければならない。


 と、俺は自分の中で会議をする。これにハマり過ぎると思考がパンクな方向へ飛んでいってしまうので本当は控えたい。

 しかし、外側からのアドバイスが許されないテニスというスポーツの性質上、どんどん自分内会議が開かねばならないし、癖にもなってしまった。


 で、さっきの打球、何が起こった?

 実は概ね理解している。だが、一旦整理しよう。

 これは自分がザコだから起こった現象だ。思っていたより数十倍ザコだったから起こった現象。


 この現象の名は『ファントム』だ。名は知っているが見るのは初めてだ。発動に必要な条件は実力差。

 でも、『ゾーン』の発生する関係性より、さらに大きな広がりが必要。


 一度曲がって、減速して威力も落ちた球に対して、それでも『壁』等で押し返すことしか出来ない実力差の時に起こる。

 しかし、当然、一度曲がった球であり、ベクトルの向きも変わっている。

 それを真っ直ぐ押し返したところで、ベクトルを逆に向けたところで、そこは相手のポジションであるはずもなく、そもそもコートですらない。

 相手へと返したつもりが、相手など居ない、突拍子もないとことへ飛んでいく。

 まるで相手の『幻影』を追うようにして。

 そう、だから『ファントム』だ。

 その結果、蛭女の方へ飛んでいってしまった。


「『ゾーン』に『ファントム』だぁ!?」


 コートの外で次二郎が怒気にも似た感情を込めて叫んでいる。

 大方、同じタイミングで天さんからの解説が入ったのだろう。


「ま、まるでマンガみたいな話じゃねえか~! そんなの現実でありえるのかよ! 信じらんねえよ~」


 今度は震える声で喚く。髪をボリボリとかき、涙目でうなだれる。怒気というより恐怖か。

 でも、戦ってるの俺なんだから、そんなに絶望しなくていいんだぞ?


 それにな、次二郎……、


「お前はバカか。奴は全国クラスの人間だ。全国クラスを相手にするってのは、つまりマンガみたいな技をポンポン出すやつを相手にするってことなんだぞ! それほどまでに険しい道で、しかも凄嵯乃はそれを知っていながら目指しているんだ。

そういう覚悟をお前は知らなかったということか?」


 天さんだ。その通り。と、俺はいつもよりデカイ天さんの声に相槌を打つ。

 そう、テニスで全国を相手取るということは、つまりマンガみたいな技にも立ち向かうってことだ。

 この『ゾーン』と『ファントム』もその内の、ほんの一部にすぎない。ましてこの二つは技というより現象。

 本当に点を取りに来た『技』よりずっと生優しい。

 しっかり見とけよ、次二郎。お前は、俺との闘いで「スポーツは見せ物だ」と言った。

「見せ物である以上、派手なパフォーマンスをすべきだ」とも言った。

 お前は正しい。俺が言うのもなんだが、結構納得だ。そういう人間は強くなって欲しいし、強くなるのだろう。

 だったらこの状況を目の当たりにして、お前はもっと喜ぶべきなのだ。

 勉強のチャンスなのだ。全国区を目の前にして怖気づいたのか? そんな情けないことは言わせないぞ。


 そう思っていても、天さんに言われても、まだ少し次二郎は心の整理ができていないようで、


「次二郎! 目を背けるな!」


 と俺は熱くぶつける。チームメイトに強くなって欲しい。俺のグダグダ試合を見ることによって、何かが変わるなら、是非変わって欲しい。

 例え俺のプライドが傷ついても。そう考えて、ああ、俺はやっぱり部活が好きなのか、と自己認識した。


 サーブを打つ。

 目の前の、圧倒的現象に挑む為に。

 案の定、強烈に返されて、俺はベクトルを全く逆にするだけの、真っ直ぐ押し返す『壁』しか出来ない。


 でもって、段々とバウンドの高いラリーに持ってかれていき、俺の打球のバウンドも随分高くなってきたところで、叩き下ろすようなカットを愛仁に打たれる。


 愛仁の打球はバウンドと同時に軌道が折れ曲がり、俺は真っ直ぐその折れ曲がった軌道に対して押し返してしまう。


「アウトオオオオ!」


 と執事。


「どうだ! これが全国や!」


 と、次二郎に向かって叫ぶしかない俺。

 悔しさはない。

 あるのは恥ずかしさと、蛭女の方へは飛んでいっていないらしくてよかった、という安心感だけだ。

 で、俺がどう感じたか、なんてどうでもいい。

 俺は小走りでボールを拾い、サーブの構えをとる。

 テンポを上げろ。

 ……認めよう。今の一球で確信した。

 俺は『ファントム』に対抗する名案はない。というより『ゾーン』から無理だ。


 俺と愛仁のステータスが、『ゾーン』と『ファントム』の発動条件に合致しすぎている。

 発動条件に合致しすぎているといことは、常に発動しているということであり、破ることも不可能ということだ。

 これは、ポンコツの左腕で闘うしかない俺にとって、避けられない問題だ。


 という風にいったん考えてしまうと、


「クソ……」


 と、小声でつぶやいてしまうぐらいには、内心では、悔しい。本当は。

 でも、悔しがるってことは、それについて一生懸命悩む、ってことと同じだし、それはとても辛いことだから、俺は悔しがらないように努める。


 だから、俺は諦める!

 元々無理なのだ。勝てるハズないのだ。闘えるハズもないのだ。

 しかも『ゾーン』と『ファントム』なんてのは、実力差が引き起こした現象だ。技術による攻略の糸口なんて存在しないのだ。


 それとも、今から筋トレでもするか? 強くなればなんとかなるし。はあ、アホらしい。

 今鍛えても、先に試合が終わることぐらい俺でもわかる。


 当然、俺に内在する秘められし力が覚醒することもないだろうし、死んだと思っていた仲間たちが颯爽と現れることもないだろう。

 何故なら、俺は別に選ばれた血族でもないし、テニスに助太刀はルール違反だからだ。

 だから諦めよ。

 とっとと終わらしてしまおう。足も疲れたし。

 そうだよ、俺、余計に走ってるからスゲー足疲れてんだよ。全然点取れてねえんだけど。

 さっさと終わらして、練習しよう。

 次に愛仁と会えるのは何時かは知らないけど、それまでには強くなるから。

 おお、いいじゃん。前向きじゃん。

 完全に腐ってたけど、言い訳出来る程度の真っ当な理由は見つかったじゃん。

 「早く愛仁に追いつきたくて、練習時間を確保する為に最後はアッサリ負けました。さあ! 練習しましょう! 練習! 全国目指して!」って言えば天さんも俺を褒めてくれるだろう。


 てことで、俺はとっとこサーブを打ち、とっとこ点を取られる。

 一応、次二郎には全国を見せてやるという、それっぽいことを宣ってしまったので『ゾーン』に対してラリーをする。

 勝つつもりはない。ポーズだけ。あくまで次二郎の為にも頑張ってます、というポーズをとるため。


「あー」


 とか、


「うーん」


 とか言う声もどこかから聞こえるが、勝つために必死になって砂まみれになっている時のそれに比べれば、いくらか楽な気分だ。


 俺はこのゲームも取られた。

 第5ゲームが終了し、コートチェンジだ。

 一分程のミーティングや水分補給が許される。

 が、俺は皆の方が見れない。どうやら腐って諦めたことに関する後ろめたさがあるらしい。蛭女は「必死なクセに負けた」と思われたくもないが、「腐って諦めやがった」と思われたくもない。だから蛭女の方を見ない。見られない。



 俺は目をつむって全力で水分補給をした。



        *



 第5ゲームを終え、現在5―0。もちろん愛仁が5。

 でもって1セットマッチのこの試合は6ゲーム取った方の勝ちだから、今からやる第6ゲームで愛仁がゲームを獲得すれば、試合終了だ。

 その1ゲームも最短で4ポイントで終わるから、この試合もあと4球の我慢だ。

 あと4球で俺が恥をかかされるのも終わる。ギャラリーも減ってるし、やる気もないから最初よりダメージは減ってるが、それでも蛭女に弱い姿を見せるのは少ない方がいい。


 さあ、とっとと終わらしてくれ。

 そう強く決心し、俺が厳しい顔でコートに就く。


 ……。


 どうした? 何故打ってこない?

 あの高貴な愛仁が、顔中に皺を作り思い悩んでいる。踏ん切りがつかないというか、そ

ういった顔に見える。

 だから、


「どうした? 何故打たない?」


 と、思った通りの事を言う。

 というか制限時間あるぞ?


「……」


 打たない。


 ……サーブを打つまでの制限時間はとっくに超えたが、審判が執事だし野良試合ってことで見逃されてるのだろう。

 だれも注意しない。で、打たない。


「おい、どうした?」


 周囲がざわざわする。頼むから、衆目に晒されてる今、グダグダするのはやめてくれ。


「……いやね」


 いい加減、俺が泣きそうになっていると、ようやく愛仁が口を開いた。

 相変わらず難しそうな顔をしている。声も絞り出しているようだ。


「君と試合してても、つまんないな……、と思ってね」

「い、い、い、い、い、今さら!?」


 何言ってんだ!? コイツ……!

 そりゃそうだろ! 試合の面白さってのは、勝つか負けるかのスリルに大きなポイントがあるんだ。

 俺なんかと試合してもそのスリルを味わうことはできねえだろ。わかりきってただろ! つまんねえことぐらい!

 さすがに俺も理解が追いつかず、途方に暮れる。そんな様子を見た愛仁が、慌てて付け足す。


「あ、いや、今急にそう思ったんだよ?」


 それはフォローのつもりなのか。そして、


「? 途中まで面白かったのか?」


 という疑問がまず浮かぶ。

 そうならば、実力以外の部分に面白くないという原因があるということだ。


「あ……、いや、最初からつまんなかったや」

「何なんだよ! お前! っつーか、別にお前を楽しませる為にやってねえし!

 そもそも、どっちかってーと俺のがずっと超つまんねーって思ってたし! さっさと終わらしたかったし!

 超クソゲーじゃん! コレ! ずっと我慢してやってんのによ! つまんねえなら帰れ! 帰れ! 帰れ!」


 お前の方から来といて、なんだその態度は! とは言わない。

 それを言ってしまうと、愛仁につまんないと言われたことがショックだとバレてしまいそうだからだ。


 ああ、俺はショックなのだ。つまんないと言われて。つまんないことなんて、わかりきっていたことなのに。

 心のどこかで、楽しんでくれることを期待していたのだ。


「おっと、勘違いしないでくれ。確かに、最初っからつまんなかった。

 でも、面白くなりそうな、そんな可能性は感じられたのだよ。

 だから、ワタクシは多少の我慢と期待を混じらせて、君との試合を継続させていたのだよ」


 と、愛仁は言ってから、慌てた口調を戻す為なのか一呼吸置き、続けてこう言った。


「でも、王君、やる気なくなっちゃったんでしょ?」

「そりゃ、こんだけ心折らせられて、身体もボロボロになればな」


 認める。ハッキリと、言葉にして。


「やっぱりか」


 愛仁は落ち込む。首の力が一瞬で抜け落ちたようなモーションは、白々しくて腹が立つ。


「ワタクシはね、頭を下げる人間は殴れないんだ。どんなにイヤなことをされても、その人が本当に反省して謝っている姿を見てしまうと、どうしても殴れないのだよ。

 拳が見つからない、って言うのかな」

「まあ、普通の精神状態ならそんなことも多いだろうな」

「今の君とワタクシの関係はそれだよ。

 やる気のない君を倒す為のテニスが見つからない。君が本気で向かってくるなら、軽くいなしてあげられるのだけれど」

「いや、わかるけどさ~。どうしようもねえじゃん」

「いや、まだ君はやれることをやっていない。全力を出せていない。ワタクシにはわかる」

「出してるって。疲れてるじゃん。俺。ハァハァ。ホラ」

「それはイタズラに体力を消耗しただけ。あ、でも、ワタクシを気絶させようとしていたのは少し良かったよ。

 あの瞬間は紛れもなく“キング”だった」


 その名前を聞いて少しイラつく。そんなのは遠い過去だ。もう二取り戻せない過去なのだ。

 でも、愛仁はまだ諦めきれていないのか、


「ああ、“キング”との決勝は最高に面白かったね」


 と、俺から目を逸らさずに言う。現実から目を逸らして。そこに遠い過去を思い出す素振りはない。


「ああ、そうそう。今いる学校はね……」

「あ、そうだぞ! 俺、お前の近況全然知らないぞ!」


 黄猩にも居なかった。コイツなら余裕で推薦が来るハズだ。


「え? ああ、うん。そのことなんだけど。君の様に面白いテニスをする人がいてね。ぜひ戦いたかったんだけど、その人は県外の学校でね、しかも昨年は予選ベスト16敗退で、インハイ本選に来るかもわからなかったから、そこに通うことにしちゃった」

「ま、まてよ! 通うことにしちゃったって……、推薦蹴ってか? どの程度の学校なんだよ、そこは!」

「うーん。普通の……。日本のいい田舎、って感じのとこにある学校だよ。

 テニス部としては、まあ顧問もコーチもいないところで、気楽にやってる」


 何やってんだ、コイツは。そんな事の為に、ただ興味ある選手一人の為に、確実に成功する道を捨てやがったのか? 腕も壊れてないクセに!

 腹が立つ! 何考えてんだよ!


「おいおい。いくらワタクシでも、能天気に決めたワケじゃないぞ? ただ、あの夏の全国団体戦。

 の、翌日に開かれた個人戦でワタクシは君にリベンジを果たそうとしていた。なのに、君は居なかった」


 腕痛くて出るの辞退したからな。


「その時、ポッカリと胸に穴が空いてしまってね。それを埋めることが必要だったのさ。その為にあの学校に入ったのさ」


 胸の前で、手をハート型に組んで言う。


「腐った女みたいな性格だったのな」


 引き過ぎてそれぐらいしか言えない。


「ふふ、その人とは相変わらず一戦も交えていないのだけどね。

 でも、同じ部活にいるだけでも十分、その人がスリリングな試合をする人間だというのがわかる」


 興味ねえな。


「でも、だからこそ、わかってしまったことがあるんだ」


 愛仁は再び、俺に熱い視線を向ける。


「凄嵯乃 王、君の、“キング”の代わりはいない」


 ……。


「そうだろ?」


 愛仁は唐突に蛭女へと声を投げる。

 コクリ、と飲み込むようにして蛭女が頷いた。


「そういうことだよ。王君。世界のどこを探したって、君の代わりはいないし、君も変わらない。“キング”は君の内にいる!」


 勝手なことばっか言いやがって。自分の事は自分でわかるっての。もう今の俺に頑張る価値はないんだよ。

 しかし、なんだろう。

 この一連の会話。この中で、愛仁は何か重大な事を口走ったような気がする。

 俺と愛仁の勝負に関わる重大な問題。

 恐らく愛仁自信も気づいていない。俺にも、それが何なのかわからない。

 ただ妙な違和感というかモヤモヤが頭の後ろから首に架けて熱く残っている。


 俺がそんなモヤモヤに悩まされる一方で愛仁は、自分の言った“キング”という言葉に自分で反応したのか、あるいは単にバツの悪そうな顔をしている俺から目を逸らしたかったのか、とにかく記憶を辿って考える時の様に斜め上を見上げてつぶやく。


「なんだろう」


 そして、次に言った言葉が俺を変えた。


「君はワタクシを見ていない?」


 電撃が走る。

 まさにその通りだ!

 俺は目の前にいる最強の愛仁に目もくれず、実はこの試合のその先を見ていた!

 なんたる自意識過剰! 過ぎたマネ!

 今の自分にそんな実力はないというのに!

 俺は全国を見てきた。

 目の前の保身に走る奴もバカだが、先だけを見据えて考えた気になっている奴も大抵はバカだというのを実感してきたハズだ。

 この大きな世界は小さな物の繰り返しなのだ。

 細胞が集い肉と骨と臓器が作られそれらが組み合わさり人が出来る。

 人が集まり共同体となって町となり国となる。

 テニスでもこの一球がポイントとなりポイントがゲームとなりセットとなり勝利となり優勝となり全国制覇へと繋がる。


 この世の全ては小さな事の集まり。その繰り返し。

 これこそが宇宙の定理。

 この定理の前では、ゴールまでのレール敷き、その障害となる物を、目の前に現れたその度に全力で排除しなければならない。

 時には先を見据えることを忘れて全力で排除しなければならない。


 ああ、今ならわかる。

 天さんが提案したあの練習はその為のものだったのだ。

 なのに、バカな俺は見捨てられたと勘違いして、勝手に腐っていたのだ。

 俺はバカだ。もっと集中して真面目にやるべきだった。

 もう一度、全国のトップに行くためには必要なことだったのだ。

 俺は全国に行く。

 予選に勝って、インターハイに優勝して、やるべきことがある。

 やるべきことをやる為に俺はもう一度テニスを始めたのだ。

 危うく、それすら忘れるところだった。

 俺にはやるべきことがある。

 もう一度胸に刻む。

 そして、その為にはこんなところで呑気に負けて言いワケじゃない。

 俺が高校テニスでやるべき事の為に、今、この試合でやるべき事がある。

 十分頑張った?

 いいや、生ぬるい。この試合だからこそ出来ることがある。

 全力で立ち向かわねば。

 先の為に今を全力で闘わねば。明日できることを今日やる必要はないのだ。


 今、俺はラリーで全く勝てていない。

 オマケに『ゾーン』と『ファントム』がある。

 そして疲労感もヤバイ。

 何より今からやるのは、レシーブゲーム。

 レシーブゲームでの追い詰められ方はサービスゲームの比じゃない。愛仁のサーブに全く対応出来ていない。


 そこから導き出される、今、取るべき行動は……。

 簡単だ。

 本当は初めからやればよかった。そのアイディアもあった。

 でも、それをやらなかったのは自分が先を見据えているという根拠の無い自信があって、愚かにもその通りに動いていたからだ。


 今の俺はそんなプライドを捨てる。


「はっはっはっはっは!」

「お、王ちゃん……?」


 自分でもキモイと思うほど唐突に笑い出した俺に、蛭女が心配そうにして声をかける。


「蛭女……、やっと見つけたぜ」


 でも、もう不安を抱く必要もないよ。


「俺が、暴れる場所をだ!」

「キ……」


 蛭女は胸いっぱいに気持ちを込めたようにして、身体のもっと奥から叫ぶ。懐かしいあの名を。


「“キングゥ―――――!!”」


 痺れるね。チビりそうだ。

 断言しよう。幼馴染に“キング”を呼ばれることは至高の喜びである。


③-2に続く

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ