第一話②
王の下克上
第二章 選手の育て方
かつて、俺、凄嵯乃王は中学テニス界において最強だった。
いや、最強は言い過ぎた。
一、二を争う実力者だった。
そして、全国優勝を果たした。
そのプレイスタイルは七つのストロークを自由自在に操り、ラリーの中で相手を崩しトドメのスマッシュを決めるというもの。
完全な技術依存型のプレイスタイルであり、あの時の決勝で戦った相手がするような、スマッシュやハイボレーゴリ押しの運動神経依存型とは大きく違う。
しかし、その決勝戦で右腕を壊した。
くやしい。
技術依存型の俺としては、ここで限界だと思った。
もうテニスが出来ない。
でも、くやしいのはそれだけじゃない。
自分より弱い奴らが、どんどん自分より上手くなっていく、この現実があまりにくやしい。
俺だって昔はスゴかった。
こんなダサい中年のような愚痴をこの歳で言っているのが、俺という人間だ。
クズだ。
そしてクズが現在進行形で悪化している。心が荒んでいく。
幼馴染の蛭女が俺に暴れる場所が必要だと諭してきた。
そして俺は高校へ進学して、テニス部に入った。
自信はない。
でも、全く出来ないとも思わない。
もちろん、かつての様に上手くいくとも思っていない。
いろいろな感情がせめぎ合いながらも、俺は半月間、必死な思いで練習した。
言うほど必死ではないが、俺にとっては十分必死だった。
半月。
入部から半月。
そんな時期にいる俺の前に、今、一人の人間が立ちはだかっている。
かつて、俺と一、二を争っていた程の男。
俺と同等の男。
その男が目の前にいる。
この男に勝つことこそが、俺の成長の証明。
この必死な練習の意味。
「この半月の成果を見せてやる」
絶望中だけど、それでも俺は気合を入れた。
かつてのライバルを倒し、かつての自分を超える。
どんな大会よりも重要な俺の闘いが始まった。
*
で、その半月前。
入学式の翌日。
「気合だ――――!!」
叫んで起きて、歯をみがく。
すぐに着替え朝食を採る。
意外と高血圧な俺であっても、本当はだらだらと寝巻のまま食べて準備をするのが好きだが、そうもいかない。
部屋に賞状と共に飾ってあった、もはやただの飾り物にまで落ちてしまっていたラケットを手に取りバッグに詰める。
いよいよ今日から練習が始まる。
いってきますの挨拶をして玄関から飛び出した。
「おっと……」
外には今まさにインターホンを鳴らそうという蛭女がいた。勢いが良かったからか、けっこうな顔で驚いている。
「ありゃ、幼馴染のわたしが直接起こさないと遅刻するっていうベタな展開かと思ってたのに……。
テンション高いね。やっぱり、うれしいの?」
「え? そうか? テンション高いか?」
「うん。ちょっと」
「やるべきこと、見つけたからな!」
「やるべきこと? やりたいことじゃなくて?」
「そ。やるべきこと」
しかし、そうか。俺は浮かれていたのか。そこを指摘されると恥ずかしいな。
俺は昨日の夜中に自分探しの妄想を始め、今の自分がどういう状況にあるのか、そして世界はどんな病気を抱え、自分はその中で何をすべきなのかについて考えていた。
気持ち悪い妄想である。
しかし、半ばこれは日課になっていて、入学式の朝、蛭女訴えかけていた持論もこの日課から生まれた産物である。
しかし、こんなことがばれること程恥ずかしいことはない。
ならばコチラも辱しめてやらねば。
「いや、別に! お前ん家に迎えに行って、洗濯物の下着でも見てやろうかなって思っただけだよ」
「ん? 干してあるのでいいの? 着けてるヤツじゃダメなの?」
そう言って、蛭女は制服の色んなところをめくる。
「あっ……、いやっ。えっ! いやっ、あひゃっ」
俺は目が合わせられなかった。完敗だ。敵わない。
「ごめん……。俺が悪かった。行こう」
これが毎朝起こるイベントなのか。ふむ。
日常は続く。
*
学校に着く。
流れる風は冷たい。
他の部活も朝からの練習はあるから、他にも人はいるんだけど冷たい静けさを感じる。
変な鳥の鳴き声が聞こえる。通る車のエンジン音が聞こえる。
青黒い景色が広がる。
懐かしい空気だ。
「よし、準備はいいな」
感慨にふけっていると、天さんが体を伸ばしながら近づいてきた。
「あ、おなっしゃーす」
俺はおはようございますとお願いしますを同時に言った。
このわけのワカラン滑舌の悪い挨拶も懐かしい。
「よし、アイツらには適当に打つよう言ってあるから、今から俺が球出しをしてやろう。
色々な打球を出してみる。お前は取りあえず、今できることで返してみてくれ」
「いきなり打たせてくれるんですか? ……いい、部活ですね」
天さんは少し驚いた顔をした後、
「ふふ……」
嬉しそうに向こう側のコートに歩いて行った。
俺は気持ちよく天さんをおだてた。人それぞれ、部活の運営に対するこだわりというものがある。
俺は天さんのこだわりをすぐに察知し、褒め殺したのだ。自分のこだわりを理解され認められることほど嬉しいものはあるまい。
俺は世渡り上手だ。
「世渡り上手ね……」
世渡り、そんなもんで偉くなれるとしたら、それは、
「クソだ」
無能な努力家と同レベルの。
「コラ! 王ちゃん!」
蛭女。
マネージャーの象徴とも云えるジャージ姿で俺を叱る。
しかし、ジャージというのはいつ見ても、体のラインがはっきりと、そしてふっくらと観察ができていい。
セクシャルなことがしたいと思わせる。水着より好きだ。
「なんか、性格悪い顔して……、アレ? エロいこと考えてる顔……? に、なってるぞ……? 意味わかんない。
わたし? 急に? な、なんで?」
ふん、女には理解のできない女の魅力よ。
てかそんなに表情に出てるのか。
スポーツ! スポーツをして雑念を払わねば!
「いっくぞーい!」
天さんが声を張り上げる。
天さんは帝王学とか君主論とかをマスターしてそうな、クソ渋い声の持ち主だから、なんか不気味だ。
「っうぃーっすっ!」
だから俺も似合わない返事をしなければならない。
さて、今できること、か。
つまりこの左手で出来る事か。
昨日は……、サーブは空ぶって、下からのサーブは無回転で打てて、当てるだけのロブが打てて、小突いて弾くタイプのアタックは出来てたな。
結構できてたな。
一球目が来た。
それを打ち返す。が、失敗だ。
あらぬ回転がかかり、あらぬ方向へ飛び、距離は伸び続けている。
天さんの顔を見る。
蛭女の顔を見る。
ん? 蛭女が何か手に持ってるな。
あ、カメラか。撮影するように言われたのか。よし、次だ次。
二球目を打つ。天さんの顔を窺う。蛭女の顔を窺う。
三球目を打つ。天さんが怒ってないか確認する。蛭女が絶望してないか確認する。
四球目。五球目。……。
やはり、俺も人間なのだろう。どうしても過去と比べてしまう。
過去に出来た事が出来ないと悔しいし、自分に厳しくなってしまう。
中学の頃と比べて、クソになっていた。悔しい。手を握り締める。
「うむ。なんというか、クソだったな。身のこなしはさすがだったが、左きき用の動きができているとも言い難い」
天さんから見てもクソだった。
「いや~、ロブは打てたんですけどね~。他が全然……」
「いや、ロブも打ててはいない」
天さんがハッキリと言った。俺は自分に甘かった。
「あれはロブとは言えない。
来た球を上斜め前に弾きつつ打ち流しただけだ。なんと言うべきか……。球に命を吹き込む事ができてない」
「おっしゃる通りです」
俺は俯く。
「ですが……、一ついいですか?」
「なんだ?」
俺は負けず嫌いだ。
「命、ではなく、魂です」
俺は負けず嫌いだ。どこかで逆らいたいという強い想いがある。
それでようやく捻り出したのがこれだった。それ以外は何も言えなかった。惨めだ。
「そ、そうか。でもまあ、それでいいんだ。
実は蛭女君に今の王君の映像を撮ってもらっておいた。この映像を俺が昼の間に分析して練習課題を考えようと思う」
要は資料集め為の練習だった。今できること、という言葉でだいたい予想はついていたが。
「君にも、後で映像ファイルをコピーしてあげようか?」
「あー、いらないです。自分の下手なプレイは見たくないですね。調子のよかった試合なんかはよく見返してたんですが」
「おいおい、向上心の欠片もないな。この学園の空気に飲まれるのは早いぞ? いや、自分が大好きなだけまだマシなのか」
自分の学校をバカにした天さんは、部員の為の練習に混ざっていった。
天さんは一つ勘違いをしている。この学園の空気に飲まれるのではない。そういう人間が集まるのだ。俺を含めて。
その後は、ボールを使った練習には参加させてもらえず、自分ではもう間に合っているつもりの基礎体力を鍛えさせられた。
アレやコレやとぶつくさと文句を言いながらの練習だったのは言うまでもない。
そんなこんなで記念すべき第一回目の朝練は終わった。
日常は続く。
*
「「あああー!」」
俺と蛭女が雑踏の中で声を上げる。
「今さらかよ」
次二郎が頬杖を突きながら、あきれるように言った。
朝練を終えて、教室にやってきてからのことだった。
「「一年生だったのかよ……。そして同じクラスだったのかよ……」」
俺と蛭女が言う。
「敬語使って損した」
これは俺だけ。次二郎ごときに敬語を使ったのが悔しかった。
この気持ちを誰かに分かって欲しかった。
「ん? なんで最初っからテニス部にいたの?」
蛭女が聞いた。そうだ。その所為で俺は勝手に次二郎を先輩だと思ったんだ。
「んー。まあ、なんとなく予想はしてるだろ? それであってるよ。
元々入る予定だったから見学も無しにアニキに言って参加してただけ。ん? てか、お前敬語使ってたか?」
「ん? え?」
使って……たよな? 舐めてはいたけど。あんまり覚えてない。
「ま、いいや。あ、そうそう敬語といやあ、この学校やべえな」
む。次二郎、お前までこの黒蹄学園をバカにするのか。
「あ、次二郎君、その話長い? 先に鞄置いてきていい?」
蛭女がハッキリと申し訳なさそうに聞いた。
教室に入って、すぐに次二郎が目に入り駆け寄ったから、確かにずっと鞄は持ちっぱなしではあった。
「ああ、すまん。いいぞ」
俺と蛭女が自分の席に荷物を置きに行く。
水筒のお茶を一口飲んで、背伸びをしてから次二郎の席へと向かった。
「で?」
「いや……、今の大鞭さんもそうだけどよ、なんか俺が全然ちやほやされないんだよ」
水筒入りの鞄を置いてきてよかった。そうでなかったら今頃……。
「イヤイヤイヤ! マジで! こんな権力者いるんだぜ?
もっと媚売ってくれてもよくないか? なんか普通の子と同じように接する子ばっかりなんだけど!」
「「次二郎だからだよ」」
俺と蛭女が我慢できずに言った。
「え? そういうこと? や、でも中学時代は違ったぞ? やっぱり向上心っつーか欲が無さ過ぎるぞ!」
「いいことじゃん」
黒蹄学園に中等部がまだない。だから外部の私立中学のことだろう。
決してそっちをベタ褒めしているわけではない事から、色々あったようだと考えられる。
うむ。やはり、いいことだ。いい環境だ。
どの学生も、運命というものの大きさを悟った顔をしている。
ここに流れ着くまでに色々あったのだろう。
そして運命に抗う事が無意味であり、為すがまま、為されるがままに流れる事が自分の役割であると思い至った、そんな顔をしている。
「よくねえよ。こんなんじゃ、新入部員なんてのは夢のまた夢だぜ」
ああなる程。そんな先を見ていたのか。
「利用し辛いってことか?」
「そういう露骨な表現はよくねえよ。まあ、そんなところだけどよ」
次二郎は全面的に俺に同意した。
そう、利用できない。
ここの死んだように生きる人間たちは、行動は波風立てないように平坦なものだ。
しかしその中にある思考は意外と個性的、特徴的であり一貫している。
だから利用し辛い。煽れない。
最近の若者には比較的増えてきた現象ではあるのだが、煽るべき大衆という存在が希薄化している。
煽る側である黒蹄の次二郎はそれを感じ取ったのだろう。
己の嗅覚を持ってして。
次二郎は決して無能ではない。
恐るべし! 黒蹄の血!
これがテニス部として価値のあるスキルなのかどうかは知らないけど。
「今時の高校生って朝からこんな会話するの?」
蛭女が眠そうな顔で割り込んできた。
「ふん。会話を時間帯によって変える価値観は持ち合わせてないからな。
俺の思考は常に一貫している。そして会話では、俺は思った事をただ話すだけだ」
俺は超カッコいいことを力強く言った。
「うん、ごめん。朝から、なんて言葉を使ったのは謝るよ。
でもさ、ホラ。そういう思考の垂れ流しみたいなのはネット上でつぶやきなよ。文化人気取りで」
「気取りとかやめろ!」
珍しくツっ込みに回る。
「ん?」
「ん? どうしたの王ちゃん?」
俺が蛭女を一瞥してから周囲を見渡していたので、不審に思った蛭女が反応した。
「いや、お前、普通こういう時って女子といるもんじゃねーの?」
「ムッカッ! わたしが友達いないって言いたいの!? いいもん。ゆっくり仲良くなるもん」
「そうじゃないけどさ。ホラ、女子同士ってさ、知らない人ばっかりの集団になると過剰にしゃべって、全員と仲良くしようとするじゃん。
互いに牽制しながら」
そういう場面は何度か見てきた。選抜の時とか酷いもんである。
しかし、この学校はこういう女子特有の文化もないのかもしれない。
可愛気のないことで……。
「はは。互いに牽制か。はは、女子ってコエーのな」
次二郎が笑いながら、ゆるく声を漏らした。
『コエー』、つまり『怖い』か。
無性に怒りが生まれてきた。俺は爆発させる。
「おい。女の事を怖いとか言うな!」
俺は怒気を込めた、強い口調で言った。
「そうだそうだ! 言ってやって! 王ちゃん」
蛭女が俺を煽る。
よし、蛭女の為にも次二郎には強く教え込んでやろう。
「女の事を『怖い』と言うな。表現するな。
女はな、怖いと言われると喜ぶんだ、つけ上がるんだ。
多分、『できる女』や『狡賢い女』と言われたと思うんだろう。
『狡賢い』そう、自分を頭が良い、『賢い』と思い込むんだ。
そうして、また『怖い』と言われようと頑張るんだ。
……でも実際はどうだ?
無知ゆえに短絡的に物事を捉え、わがまま故に感情に従った行動を起こし、視野の狭さから理不尽なことを要求する。
それが『怖い女』と評される女なのだ。
秩序を乱し、自らの首を絞める、ちっとも頭の良くない、ただのバカなのだ。
ただのバカをつけ上がらせるな。
ただのバカを『怖い女』と評してつけ上がらせるな!」
次二郎は息を飲んだ。しかし俺から目を逸らすことはしない。汗を滲ますのみ。
いやぁ、スッキリしますな。
やはり、持論を好き勝手に展開し、押し付けるのは最高に楽しい。どうしようもなく。
汗をかき、ノドが渇く。そう、なんだかスポーツに似ているのだ。
「あれ? 蛭女は?」
我に返った合図として俺は聞いた。
「ああ……、顔を真っ赤にして泣きながら教室を出てったぞ……。うん、俺も悪かったな」
耐えられなかったか。頑張れ! 蛭女!
日常は続く。
*
始業ベルが鳴ると蛭女は教室に戻ってきた。
もう許してくれているらしい。偉いぞ! 蛭女!
その後の授業は一日中、最後までなんだか退屈だった。
もちろん、授業内容が復習中心というところに問題もあるかもしれない。が、あれだけの持論を一方的に展開したのだ。
もっと清々しい時間を過ごせてもいいはずである。
そう、俺には暴れる場所が必要なのだ。蛭女の言うとおりだった。
驚いたのは授業中、うっかりと俺はテニスの事を考えていた。
もう夢中になりつつある。
もしあの時、蛭女に引っ張られていなかったら、俺はどうなっていたのだろう。
俺は蛭女へ密かな感謝をした。
「映像を何度か見たが、やはり制御が苦手なようだな」
さて、待ちに待った部活の時間だ。
開始早々に俺は天さんから苦手なところを突かれた。テニスコートのベンチで。
どうやら、ここがミーティングに使いやすいらしい。
「そうですね。自分の腕なのに、棒みたいっていうか、とにかく不自由です。左手。全然回転がかからない」
「……で、アウトばかり、ということだな。ミスる時の殆んどがアウトだ」
アウトとは、コートの外に出てしまうミスのことを言う。つまり飛び過ぎという意味だ。
「あー、それはですね。どうせミスるならネットに引っ掛かるより飛ばしてアウトにするっていう俺なりのこだわりの所為ですね」
「うむ。そのこだわりには同意だ。ネットを越えないと始まらない」
天さんは腕を組み大袈裟に頷く。
「で、力入れすぎちゃうんですよ。でも、右腕なら全力を込めても回転掛けて飛距離は押さえれましたから……」
「そうだな。力の量を問題ではない。むしろ左腕は非力なぐらいだ。
そしてリキんでいるわけでもない。リキみすぎるとこんどは下にボールが飛んで行くからな。
その症状は今のところはない。課題は力の入れるタイミングとラケットコントロールってところだな」
「そっすね」
とは言うものの、なんとも形容しがたい違和感はつきまとうわけで、そんな簡単な話でないことは知っている。
「よし、今からは……」
「その対策ですか?」
「いや、朝の練習では判断できなかった部分があってな、それの確認がしたい」
「あ、ボクもまだまだ問題はある気がします」
なんかゴマ摺ってるみたいになったが本心だ。
「じゃあ、さっそく取り掛かるとするか。しかし……」
天さんがにやりと微笑みながら俺を見る。
「しっかり昼の間に自分の分析をしてきたじゃないか」
「もう、テニスに夢中でしょうがないんですよ」
俺は冗談っぽく笑いながら、実は本心を言った。
*
「よし、跪け」
さっそく確認の練習に取りかかるのかと思ったらこの命令である。
「ははあ」
天さんの有無を言わせぬ口調に、俺は従うしかなかった。
俺は今コートの一番後ろ、ベースラインにいる。
天さんは相手コート……ではなく、こちらのコートで俺の三メートル先の斜め前にいる。
「何をしている! 右足を立てろよ! 普通に考えればわかるだろ!」
「ひ、ひぃ!」
怒られた。足を素早く入れ替える。
俺は『跪く』なんてポーズは花束を渡す時ぐらいにしか行わない。
で、俺は右利きだ。花束は右手で持ち、左手を添える。だから左足を前に立てる格好になる。
言わば跪くときに左足を前に立てるのはクセであり常識的なものだった。
なのに怒られた。「普通に考えれば~」なんて屈辱的な修飾までされて。腹が立つ。
だいたい、俺がラケットを左手で持っているもんだから、俺が本来右利きであることをうっかり忘れていたんだろ? 本当は。
で、強く怒っちゃったに違いない。だとしたらトンだ怒られ損だ。天さんの説明不足だ。
「よし、その姿勢でこの球を打ってみろ」
天さんが小犬に向かって投げるように、ボールを下から優しく放った。
きゃいん。きゃいん。そうです。ボクは卑しい小犬です。
そんな事を考えながら、俺はラケットを振る。打つ。
「……な!」
ボールが飛ばない!
俺が打った球はネットの遥か下の部分に向かっていった。
朝はあれだけ飛びすぎていたのに、跪いたとたんこの失態だ。
これは予想外であった。
「うむ、やはりそうか」
天さんは顎に手をあて頷いた。俺が驚き焦る中、何かに納得しているようだ。
「映像を見て思ったのだがな、ラケットコントロールのクソさに隠れて、上半身の動きもかなりクソな気がしていたのだよ」
「上半身……。それで跪かせたんですね?」
「ああそうだ。だが、こんなのは左腕の使いにくさに比べて些細な問題だ。
要するに慣れが関係している。これまでと体の向きが違うから戸惑ってるのだろう」
天さんがネットの下で転がっているボールを拾う。
「むしろ私は朝練の時、下半身の力と体重移動だけでアレだけ飛ばした事に関心している」
天さんは構える。
「さあ、今度は中学までの上半身の動きを思い出し、左の向きに最適化させて打ってみよう」
そう言って放る。
俺は大まじめに打つが、しかし飛ばない。何回やっても飛ばない。
「いや、だから……。
今まで右向きでやってたことを左に置き換えるだけでいいんだよ? 体幹はしっかりしてる。出来るはずだろう?」
天さんが我慢できずに感情を曝け出した。
「そんなこと言われても……。わかんないですよ……」
俺は困ったような顔で言った。実際困っているのだ。
上半身がクソなのは身に沁みたし、出来ないのが悔しい。
そんな俺の困った顔を見て、天さんは何か思いつく事があったのだろう。こう切り出した。
「お前、普段……、当時、どういう風に打っていた?」
「どういう風? ですか」
質問の意図が見えない。
「うーむ。どう言えばいいか。
そうだ! 俺が初心者だとして、俺にどうやったらお前の様な強い打球が打てるのか教えてみてくれ」
ああ、フォームとかコツみたいな、技術的な話か。納得。
「えーと、こう、バッ! としてグッ! とやってからぐぁわんとしてボクのブデュンからのビロロロローをこうしてドォォォォォン! ですね。デェアア!」
俺は精一杯的確に伝えた。小粋なジェスチャーも混ぜて。これでいいですね? という意味をこめて天さんを見る。
天さんは俺を睨んでいた。そして、何かを悔やんでいた。
「……そうか、とんだ『天才型』だったか……。それも、ここまで極端な……」
俺は褒められた。でも、何も言えなかった。
「しかたない! 取りあえず続けるぞ!」
焦るようすで天さんが投げる。
俺はそれに全力で応えようとした。慣れない姿勢で力一杯スイングをする。しかし、無情にもボールは下へ行く。何度も何度も。
「めげるな! 続けるぞ!」
天さんは自分に言い聞かせるように叫んだ。
まるで、自分の選択を、俺にこの部の命運を賭けようとしている自分の選択を正当化したくてたまらないかのように。
ただただ続けた。俺も全身全霊で応じた。そして、それは間違いではなかった。
もう何球目なのか忘れたその時、俺の打った球がゆったりとコートに入った。
「よし!」
天さんはボールの行方を確認した後すぐに俺へと向き直り、
「よし入ったな! 違い、……違いはわかるか?」
「違い、ですか……? う~ん……」
天さんが普段の様子からは想像もつかないほどグイグイと捲し立ててくる。
俺も考えようとしているが、戸惑いからまともな答えが浮かばない。
「難しいかな? 『天才型』の凄嵯乃には」
また言われた。悪意を感じた。
やっぱり嫌味なのか。その『天才型』というワードは。
俺が何も言わないのを良い事に天さんは続ける。
「やはりお前は極端な『天才型』のようだ。『天才型』っていうのは、なんとな~くで出来ちゃう人の事を指して言うんだよ。
感覚でプレイしているんだ。だから、お前にどんなことを考えて打ってるのか聞いてみたんだよ。
で、説明できなかっただろ? 擬音だらけだった」
説明できてなかったのか、俺。
「それは、お前のような『天才型』はなんとなくの感覚で打ってるからなんだ。
そして、凄嵯乃はむしろ俺達のような凡人がどうして強烈に打てないのか理解が出来ないんだろう?」
「はい……」
俺は天さんの真剣な言葉に、正直に応えることしか出来なかった。
「何か思い当たる節があるのかい?」
「……後輩が、育ちませんでした」
「そうか、そうだろうね。それは辛いだろうね。お前のアドバイス通りにやったって、誰も出来ないよ」
天さんの声が少しだけ穏やかになった。
「しかし、そんな『天才型』も利き腕を失えば感覚頼みのプレイが出来なくなってしまう……。
こんな悲惨な状況になってしまう。俺はお前ならスグに左打ちに慣れてくれると思っていたのだが……。
ひょっとしたら、凄嵯乃に期待するのは間違っているのかもしれない」
残念そうでありながら、攻撃的で冷たい視線が向けられる。なんだ? これはクビか? 戦力外通告か?
そんな目で見られると……、俺の中のクズが疼いてくるではないか。
俺はやや早口でしゃべり出す。
「あのですね? ボクが今やっとゆっくりだけどマトモにボールが飛んでいったのは、天さんの球出しが丁度良かったからですよ? 打ち易かったんです。初めて」
これは遠回しに今までの球出しの悪口だ。
責任転嫁からの皮肉。うむ。今日も俺もクズっぷりが冴えわたっている。さあ、どんな反論がくるか?
そんなクズの視線の先にいる天さんは、とても神妙な顔つきで考え事をしていた。
アレ? なんかマジになって考えてます?
「……そうか! 間合い! 打点だな! 確かに細かくて気づきにくいのかもしれない! よし! 次はそこに注意してくれ!」
「は、はい!」
と快く返事はしたものの『マジですか!』という感は否めない。そんな前向きに俺の苦情を意見として取り入れてくれるとは。
しかし打点、打点か……。恥ずかしながら意識したことがない。
天さんの指摘通り、俺は今まで何も考えずに打ってきたようだ。
天さんが仕切り直して投げる。どうやらヤル気になったらしい。
クビになりたくない俺は、結構マジメに打つ! 打球は再びネットの下へ向かってしまう。ダメか……。
「イヤ、いい! それでいいんだ!」
俺の残念そうな表情を見るまでもなく天さんは励ます。
「跪くという姿勢の都合上、打点を合わせる事そのものがかなり難しい。
ポジションの移動が出来ないからな! あと俺の球出しとコートの凹凸が弊害になってるのも原因がある。
つまり何度かやってみてコツをつかんでみるしかない」
打点を合わせる為の練習の為の練習か。なんだか遠回りだ。
その為には今までの感覚に頼っていてはダメなのだろう。意識を集中して……。
打つ! また打つ! そして打つ!
結果として……、
「よし! だんだんと、ネットを越える比率は上がってきたな!」
「そっすね」
成功だった。
「分かったぞ。ズレていたのはタイミングだったのだ。恐らく、今まで何も意識しなくても、『打ちたい』という想いだけで打つタイミングは合っていたのだろう。
ところが左腕になって、スイングスピードにズレが起こった。体の感覚も不慣れなものになった……。
それが原因だな。スイングスピードの変化が原因でタイミングよく打つことが困難になった」
天さんが独り言のように分析結果をつぶやく。顎に手を当てて。
だけど、俺のことなのに俺が無視されているような気がしたから、何か言ってみることにした。
「ああ! ジジイを走らせるとすぐ転ぶのは若い頃のイメージで走ろうとする上半身に対して、まったく言う事を聞かない下半身が原因って言いますね!
上半身がギャップに耐えられなくってバランス崩すんです! 昔の自分に夢見て……、恥ずかしい奴らです!」
こんな事しか言えなかった。
「ああ、そんな感じだ。
そして、そのタイミングのズレを解消する為に、スイングを早めに始めるのでは間違いなのだ。
君はそれをしなかったのは偉い。それに対処する案として、『打点を意識する』という方法をとった。
それこそがアイディアなのだ。感覚と勢いを保ちながら、正確なタイミングで打つ。
そして、なんとか大前提である『ネットを越えてコートに入れる』ことを可能にした。まだ弱いがな。
でも素晴らしい視点の切り替えだった。視点の切り替えが上手いほど上達が早いと言っても過言ではないよ」
「あざっす」
でも褒められた時の対処がわからない。
「……で、どうだった?」
「はい?」
「これが本当の練習ってやつだ。上手くいった時と、上手くいかなかった時。その時は一体何が違うのか。
考え分析して試してみる。そうしてちょっとずつ自分に合った打ち方や技術を身につける。
体で覚えるとは間逆の行為だが、凡人で上手い人は皆これが出来ている。いただろ? 凡人でも脅威だった人が。
君とは全く違う方法で上手くなっていった人が」
そうかもしれない。いたかもしれない。
「育たなかった後輩を気に病む必要はないよ。
凡人には凡人の方法で上手くなることは出来たのに、それすら出来なかっただけなのだから」
「止めてくださいよ。そんな事を言われちゃ、彼らの事をアイツらが悪い、で片付けてしまいそうです」
俺にだって罪の意識はある。でもその貴重な一つが消えてしまいそうだった。
「かまわんさ。それより、どうだった? 本当の練習というのは」
天さんが俺の顔を覗き込む。
「ハイ、楽しかったです。今までのガムシャラに打ってた頃とは、また違った実感がありました。
まだまだ面白いことって一杯あったんですね」
「うむ。良い答えだ。……さて、タイミングという問題の発見と解決は成功したが、上半身の課題はまだまだあるように見える。
しばらくはその跪きスタイルで頑張ってもらうぞ!」
「はい! ……一ついいですか?」
さわやかな宣言の後で申し訳ないと思いつつも言わずにはいられないことがある。だから俺は水を差すように聞いた。
「この練習程度の球出しなら、蛭女にだって出来ると思います。蛭女と代わっていただけないでしょうか」
きょとん、という顔をした天さんは、多分俺の意図が読めないでいるのだろう。
だから俺は慌てるように付け加えた。
「あ、そのですね。天さん、ボクにつきっきりで、自分の練習できてないな~、なんて思ってですね。
練習のコツ、上手くなるためのコツは掴む事が出来たんで、また練習が次の段階にいくまではこの練習が続くようですし、蛭女でも大丈夫なのかな~、と思いまして……」
もちろん。
「あっはっはっは!」
急に笑い出す天さん。そうか、こんな声も出せたのか。
「ふふ、すまない。しかし、お前も一人前に俺の心配をするようになったか。実に頼もしい後輩だ。
だが、それもそうか。全国優勝が目標なのだから、俺にも勝って貰わなければならないということだな」
「えへへ、まあ、そんな感じですかね。天さんもしっかり練習して下さい」
「まあ、確かにこの程度なら蛭女君に任せても大丈夫だろう。では後輩に甘えて、私は私で精進でもしようかね」
そう言って、天さんは次二郎たちの方へと向かっていった。
「よし、じゃあ蛭女、今の会話の通りに頼むぞ」
もちろん、天さんに言ったことが本当の目的ではない。
「っよーし、王ちゃん! 行っくぞー!」
元気よく優しく蛭女がボールを放った。
きゃいん。
また放った。
きゃいんきゃいん。
きゃいんきゃいん。
こうして俺は再び犬になった。それも今度は蛭女が相手だ。最高だ。
これが青春だ。これが部活だ。
そう、全て計画通り。
さっき初めて天さんに下から優しく放られてから、常にこの状況、この構図を頭の隅に置いていた。
いや、最優先事項として取り組んできた。その為に手っ取り早い練習成果を出した。天さんを追いだす事に成功した。
俺はこの程度の事にここまでするクズなのだ。
あとこんな楽しみ方も出来る。
「ぐふっ!」
俺の打球が、暴発したかのように蛭女の腹に直撃した。
今は俺は左腕を使っており、さらにそれに慣れる為の練習をしている。暴発は仕方がない。
「ああ、スマンスマン」
結構強めに入った。回転は掛けていない。コートで打ったら間違いなくアウトのボールだ。つまり間違いなく痛い。
蛭女は折り畳まれたように腰を曲げ、腹を押さえている。
最高に俺のクズを刺激した。
「ううう~! ま、まったく~! 王ちゃんはヘタクソだな~。ちゃんとコートに飛ばさないとダメだよ?」
あくまで強気に出る蛭女。強気に俺を受け入れる蛭女。
俺と一緒に居たらダメになるな、と思った。勿体ないと思った。
「蛭女」
「? なに?」
「頑張ろう」
「うん!」
そして俺は、こんな事しか言えない。
日常は続く。
*
「ハァ、ハァ……。で、急にどうした?」
「ハッ、ハッ、フーッ! や、なんか、会いたくなって……」
「フン、気持ちが悪いな」
日曜日。
俺は柄にもなくランニングに励んでいる。
日曜日も本来は練習のはずだったが、今日は天さんがパーティということで中止だ。御曹司も大変である。
そして、目の前にいる、俺のことを気持ちが悪いと表現した、厳格で融通の効かないこの男。
名前を三井イツミという。
上から読んでも下から読んでも同じだ。
話し始めに吐き捨てるようにして『フン』と付けるのが口癖。
たぶん潜在的に他人を馬鹿にしているのだろうと分析する。あまりに公平。
イツミと俺。
関係性を言うならば、それはまさに盟友だ。
共に目標を目指し精進し合ったあの日々を俺は忘れない。
そう、イツミは同じテニス部だったのだ。
あの全国優勝は、あの最高のメンバーだからこそ果たせたものだと思っている。
そのメンバーの中でもイツミは一番近くに、横にいてくれた存在だ。
だから、報告せねばなるまい。
「しかし、アレだな。お前から誘われるとはな。意外だ。
お前の場合、高校行ってすぐに中学の友達と会うと、高校で上手くいってないのではと見透かされそうで怖い、とかいうワケわからん言い分で俺のような中学時代の人間とは遊ばないと考えていたのだがな。随分と腑抜けたな」
コイツの中の俺はどんな人間なんだ。まあ、概ね合ってるけど。
しかし、ランニング中によくしゃべるな。
「フン、それともなんだ? そんなプライドを捨ててまで俺に泣きつきたいほどヤバイ状況なのか?
もう便所飯か? 迷惑だからヤメロよ」
憐れむ表情。
さて、どこから話そうか。
「俺は孤独なんぞ苦とも恥とも思わん。
そんなのを気にするのはは既存の価値観に囚われた愚かな人間共だけだ。ただ弁当は食べずに親に突き返してる」
「メチャメチャ囚われてんじゃねえか」
違うんだなぁ。イツミ君。僕ほどになると蛭女が勝手に作ってくれるんだよ。
しかし、今これを言うと、『じゃあ、さっさと付き合えよ』とコイツは言うだろう。だから言わない。
そういうんじゃないからだ。なんか背中を押されたくない。
「お前はどうよ?」
聞き返してみる。自然な流れ。自然な会話の流れ。
さて、本題へと向かっていけるだろうか。
「ハァ……、フン、俺はネームバリューがやっぱりあるからな。デカイ面してるよ。心地は悪くない」
「ハッ、フッー! そうか……。この黄猩高校でもか。さすがの全国優勝ブランドだな」
黄猩高校。
昨年度インターハイの優勝校。
文武両道、あらゆる面に力を入れている。それも異常に。
たいていの分野の『日本代表』に出身高校を聞いてみると、だいたいココと答える。
日本の為に日本代表たりえる人材を育て、多くの日本代表を輩出している。在学中に日本代表になることもある。
この高校の活躍から、日本代表のレベルは確実にあがっている。
この春から、そんな学校にイツミは通っている。
中学での全国優勝を果たし、更なる高みを目指していたのと、単純に特待生のオファーが来ていたのが理由だ。自然な流れだった。
俺だって、あのままなら、本来なら……。
いや、止めよう。ここは素直に友の進む道を応援しなければならない。そう決めたのだ。
ちなみに、全国大会とは無縁な学校に行くと、中学時代に全国制覇したと言っても信じてもらえない。
名前と出身校だけでアッサリと信用される黄猩高校は、さすがは強豪校と言ったところか。
その強豪校、当然、練習も厳しく、日曜休みなんてのはない。
「おい……、誰だコイツ」
「イツミ君と仲いいのかな?」
「絶対ウチの生徒じゃないよな……」
「なんでこんな平気な顔してんだ……」
「てか、なんかオレらを舐めてね?」
「取り敢えず監督に連絡した方が……」
だから今日は、外廻りのランニング中にイツミと接触した。
「アレ? 凄嵯乃王じゃね? ホラ、“キング”だよ!」
“キング”というのは俺の二つ名だ。
中学時代にはそう呼ばれていた。
「ああ、“キング”か! こんな近くで初めて見た!」
「えっ? マジで!? あー、そういうこと? だからイツミ君と仲良くしてるわけ!?」
さっきからヒソヒソと俺のことを話している人間たちも、俺の顔とイツミとの様子から正体に気づいたらしい。
直接戦ったことのある奴がいるかは分からないが、まあ気づくもんなのだろう。
「なんでココにいるんだ? アイツもう辞めたんだろ!?」
「未練でもあんのかね」
「まあ、どんなけ才能あって、最初が強くったって、最後勝てなきゃ意味ないわなー!
小学校より中学校! 中学より高校! そしてプロ! 努力した正義が最後に必ず勝つ! ひゃひゃひゃ!」
――!!
なんてね。
今更、傷つきやしねえよ。一面的にしか物事を見れない奴に何を言われても、何も感じることはない。
「オイ! オマエラァッ!」
イツミの発した突然の怒号に、雑魚キャラの如く散り散りと逃げていく。
「いや、いいっての」
俺が怒らないことに痺れを切らしたのか、イツミがキレた。いい奴だ。
昨日の先輩を思い出す。
「……だがな、今のはいかんぞ。お前がどういう事情で辞めたのか知らないとは言わせない」
「そういう……、ハッ、フーッ! もんかね」
いかん、走りながら話すことに疲れてきた。
走りながら打つというスポーツをやっている身としては、結構得意な技術だったのだが、仕方がない。
少し鈍っているようだ。まさか、こんなところで課題が見つかるとは。
しかし、そこはイツミに悟られたくない。同情されたくない。
少し会話の密度を上げよう。
「まぁ~、でも久しぶりにキングとか聞いたわ。俺の高校じゃ絶対にないしね」
「お前の学校……。黒蹄学園か。確かテニス部がないんだったよな。
未練を完全に断つ……。フン、こんな思いをするよか大分マシってもんだな」
きた。
「いや、あるんだよ。出来たんだよ。テニス部。このタイミングで」
言った。
「……」
「で、入ったんだよ」
言ってやった。
「そうか」
そんなけ。まあ、何言えばいいか迷ってる感じか。
「俺と勝負してみるか?」
勝てるわけないけど、敢えて俺は言う。おどけて。
「ハァ……、フウ……、……断る。興味がない。というか、右腕は治ったのか?」
「左手で戦う。まあ、まだ糞ボールしか打てないんだけど、まあいつかは……。それに戦い方はいくらでもある」
「そうか。大変な決断をしたのだな。フン、だが貴様とは戦わんぞ。
面倒だからではない。貴様の全力を知っている俺にとって、全力でない貴様など興が冷めるというものだ。
中学時代の全力以上を感じさせてくれるという期待もできないしな」
そうだった。コイツはこういう奴だった。
知ってたけど、この反応を目の当たりにすると、やはり淋しいものだ。まあ、だから微妙に話すの悩んだんだけど。
「だが、友として、素直に喜んでおこう。今は戦わないが、俺の前に立ちはだかるならば全力で相手をしてやる」
そう言ったイツミの顔は凛々しくて本気だった。
「応援はする。だが、手助けはしない。かと言って、今の貴様を互いに高め合うライバルと認めて戦う、ということもしない。
俺が頂点を極めて欲しいのは希杖さんだ。これは中学時代に貴様へ抱いた感情以上だ」
「えーと、希杖さんて……?」
「我が部の主将だ。“正義”の希杖実……知らないのか?」
イツミは吐き捨てるように言った。
この“正義”というのは俺でいう“キング”ってやつだ。二つ名。
しかし“正義”とはまた大それた二つ名だ。
「……あんまり、高校テニス部の情勢には詳しくないからな。まあ、でも言われてみれば……って感じだな。知ってる気がする」
まあ、二年上にいた他校の強い先輩って感じで。
「そうか。すまん、配慮が足りなかったな。いや、中学でも有名だったろう。
他人の顔を覚えるのは苦手だったか? ……でも、希杖さんは覚えておいたほうがいい。
とにかくあの人は凄い。貴様以上に。あの人こそが頂点に立つべき人間なのだと俺は考える」
元から配慮などするつもりはないくせに。
そしてどうやら、その希杖とやらに、イツミはすっかり心酔しきっているようだった。
大切な友人であるし、悪い奴ではないから、あんまり思いたくないのだが、少し依存性質がある。
子分性質とか永遠の二番手根性とも呼べるものが染み付いているというか。
「俺が直接手助けをしたい。その為にも今月中にはレギュラーになるつもりだ」
黄猩の一年レギュラー。二番手根性なりの野心だ。
『人を見下している』と言っても、コイツの場合は相手を自分より下に見ているというわけではない。相手のことを『あの方よりも下』かどうかで見下すのだ。
まあ、クズなのだ。コイツも。敵にふさわしい。
「で、そんな凄い希杖実の率いる黄猩高校テニス部はどんな感じですかぁ? 今年も優勝ぐらいはできそうですか?」
なんか腹たったので敬語でイヤミっぽく話してみる。横目でしかイツミを見ない。
まあ、これはランニング中でめんどくさいから、っていうのもあるのだが。
そんな俺の態度を気にも止めず、――コレは普段から周囲の人間が敬語を使ってくるのが原因――ただ簡単な事実を述べるように話す。
「現状は一強ってとこだ」
おいおい。俺の時にもここまでハッキリ一強と思えたことはなかったぞ。
「というのも、肩を並べる実力の持ち主が……、霧島金雄さんが……、知ってるか?」
「ちょっとわからんな」
「ニュースを観ろよ」
なんか、目をつむって、わざとらしく俺に呆れている。
「ニュースなんか観ん! 情報そのものも『はぁ?』ってなるのバッカだし、情報の分析にも『はぁ?』ってなるのバッカだし、それ見たウチの親共が『なるほどねぇ~』って言ってるのを見て余計に『はぁ?』ってなるだけだしな!」
マスコミ不信!
イツミに呆れられたから、苦し紛れに言った言葉が、この堂々としたマスコミ不信の告白!
「だとしたら観るべきだ。
いいか? ニュースというのは世の中の認識を確認するためにの装置だ。
情報の獲得は他でいい。だが、多くの層が観るニュースはそれだけが情報源という人も多い。
そしてそれを間に受ける人も多い。情報の分析までそれに納得する人も多い。
言うなれば貴様がさっき言った貴様の親のような人たちだ。ニュースを観ることで、そいう人たちが世の中にどれだけいてどういう情報と価値観を持っているかを間接的に知ることが出来る。
そういうことが観察できて始めて大衆を利用できるのだよ。フン、何事も使い様ということだ」
「ハイハイ、わかったよ」
仕方ないじゃないか。
見たくない物からは目を背けたくなるのは自然な感情だろ。
それとも、それこそが『弱い心』だと言うのだろうか。
「で、その霧斬がどうしたって?」
話を戻す。
「プロになったんだよ」
「……プロ?」
プロか。
プロってどこ行ったらなれるんだ? なんていう、どうでもいい感想が最初に頭をつついた。
たぶん、それほどまでに遠い出来事である気がするからだ。
「ああ、“連続同時多発超能力殺人犯”霧島金雄はプロになった」
と、イツミの口から聞いて、俺は、この霧島という人は高校に行ってからうまくなったんだな、と思った。
というのも、この、誰が呼び出したかわからない二つ名は、具体性を帯びれば帯びるほど、あんまり強くなくなっていく。
逆に、“キング”だとか“神”だとか“正義”のような抽象的になればなるほど強い。
これは多分、強い順に考えているからだ。で、だんだんとネタが無くなってきて説明的で具体的な二つ名が付けられてくる。
この霧島という人も、中学の時にちょっとだけ目立って、でもちょっとだけだから結局後回しの具体的な二つ名を付けられたんだろう。
“連続同時多発超能力殺人犯”などという妙に具体的な二つ名。
そんな人が高校三年までの間に二強とされる、つまり“正義”と肩を並べるところまで登り詰めたのだ。
きっと並々ならぬ努力があったに違いない。
胸糞悪い。
「そんなこともあって、現状は一強というわけだ。それは希杖さんという一人の人間としてだけではない。
この黄猩という組織においても同じだ」
「随分と大きく出たな。別に昨年度優勝、っても楽勝だったわけじゃないだろ?
どんな強豪でも高校テニスで二年連続ってのは殆どないし……」
「フン、俺から見た客観的事実を述べただけだ。それに俺は『現状』という言葉を使ってまで謙遜している」
「現状……」
俺は思わずつぶやく。
『現状』という言葉が俺には、『何のトラブルもなければ』という意味で考えていた。そう、自信の表れ以外の何物でもないと受け取ってしまった。
しかし違う。勘違いだった。
この勘違いは右腕を負傷して卑屈になっている俺特有の勘違い。
実際は……、
「高校生というのは急成長する……、まあ、才能が爆発する時期なのだ」
イツミが言った。そういうことだ。
「まあ、高校生の才能が爆発することは、どの分野にもあることだが、テニスは特に酷いぞ。
これは『競技性』というより『ゲーム性』の高いスポーツだからなのだがな、本当に、急に上手くなる奴が多いのだ。
先輩たちを見ても思う」
「……」
「俺たちが、かつて軽く足らってきた者たち、彼らも、どんどん強くなるだろう」
くやしいなあ。
そしてコイツは本当に配慮しないな。
「つまり何が起こるかわからない、そんな世界にいるわけだ。『現状一強』こんな心細い言葉はないぞ。
『昨年度優勝』と同じくらいにな」
「お前的に手強そうな学校とか選手っているの?」
「そうだな。これからそんな高校テニス界に突撃する貴様にも、有望で脅威的な選手の紹介ぐらいはしてやろうか。
海外から誘致された“ブラックラグーン”、驚異的な瞬足を持つ“光”、多彩な技を持つ“一式陸攻”……この県内だけでも挙げたらキリがないな。そして昨年度中学生の部団体戦準優勝・個人戦優勝者“神”五宮愛仁。
王道の“キング”と並んだ奴も黄猩入りはしていない、強大なライバルだ。
どうだ? 心躍らんか? もちろん二つ名つきでなくても強い選手は大勢いる」
「歯痒いだけだな」
「それでいいさ。何の感想を持たんよりマシだ」
「あとは、まあ、安心したよ。ウチの無名な先輩たちも、ひょっとしたら頼りになるかもしれない」
高校デビュー組の邪先輩だって、才能が爆発してるかもしれない。
元々運動神経は良さそうだし……。集中力とか成功のニオイは無縁っぽいけど。
「さて、と……。そろそろランニングも終わる頃だ。俺は練習に戻る」
「嫌味か!」
俺は叫んだ。
「え……?」
イツミが人間らしく怯む。どうやらそんなつもりはなかったらしい。
すんませんね。卑屈で。
「ま、まあアレだ。俺のリアクションが薄いから実感がまだ少ないかもしれないが、やはり貴様のその決断は立派なことだと思う。
単純に、かつての盟友が再び歩みだしたというのは嬉しいことだ。
この俺にとって喜ばしいということは、立派なことであるということだ」
イツミはリアクションが下手だからな……。てか、なんだ、その三段論法。
「おう、俺もお前に話せて良かったよ。高校テニスの状況も聞けたしな。さて、俺も、もっともっと頑張らねえと!」
頑張らなければいけない理由が増えた気がする。
「自然な会話の流れを以てしないと言いづらいのであれば、当時のメンバーには俺が言いふらしといてやろう。
先生も含めて。皆、立ちどころに喜ぶぞ」
先生か……。
「先生はアレから何か言ってたか?」
コイツの言う先生とは、もちろん中学時代の恩師のことだ。
俺たちを全国優勝まで導いてくれた優秀な指導者だった。
引退してからというものの、面と向かった対話はしていない。イツミとは今でも交流があるようだが。
「ゴール近い。歩くぞ」
ランニング後は歩いて体を整える。コレ、スポーツマンの鉄則。
すると春の暑さを実感した。風を切って走っていたのだ。
「まあ、こっそりと後悔はしてたよ。貴様に怪我をさせたことについてな。貴様の才能に頼りすぎてしまったと仰ってらした」
「やっぱりね」
照れ隠しに舌を出す。
そして先生の分析としては、俺が才能に頼りすぎたプレイをしていたらしい。
そういう自覚はなかったが、才能を正義と考えている俺ならばありえるのかもしれない。
「部の顧問も辞めるつもりでいたらしい。まあ、其の辺は適当に言いくるめて続けさせてるが」
衝撃の事実。そこまで先生は思い詰めていたのか。
そしてその事実を今まで知らなかった俺っていったい何なんだろう。
昔から面倒事には呼ばれないことが多いが、そこは声を掛けてくれ。
「先生も無駄に気にしすぎだな……。だって何にも悪くないじゃん!
才能に頼りすぎた戦い方をしたのは俺だし、体の不調を訴えずに無理して騙し騙し試合をしてたのも俺なんだぜ?」
「頭では知ってるだろう。でも、そういう事じゃあない。そんな正論が通じる次元ではないのさ」
イツミがやっぱり呼ばなくて良かったとでも言うように続ける。
「まあ、先生の後悔を参考に、才能に頼らないプレイでも身に付けようかね」
さっき、才能の爆発がどうとかいう会話をしていたので何だか変な感じではあるが。
「なんか、頑張る理由がどんどん増えてくな、俺」
「フン、動機なんてのは後付けでいいのだよ。何も考えずに感情の赴くままに動いて、後から納得の理由を付けるのも大事なことだ
「お前のイメージとは違うな。そんなことも言うんだな」
少なくとも中学までのイツミだったら、そんなことは言わない。
「いや、感情論は嫌いだよ。
でも感情そのものはその人の本質への近道だ。もう、スタートしてしまった俺たちには、近道が必要ってことさ」
そういうイツミに、俺はなんだか優しさを感じた。コイツも成長しているのだ。
「さて、せっかく来たんだ。練習でも見ていくか?」
黄猩の練習といえども、非公開というわけではないらしい。
「うーん、でもいいよ。お前らに勝つよりも、マズは上手くなりたいし」
「そうか。助かった。黄猩の練習は非公開だから無理だったのでな、どう断ろうか悩んでいたところだ。
しかし、貴様、やるべきことがわかってきたようだな。嬉しいぞ」
ホントに変わったなコイツは。
「じゃあ、帰る」
「おう、厳しい時代と状況だが、頑張れよ」
「お前も、黄猩レギュラー、頑張れよ」
「ウィ」
「ウィ」
俺とイツミは、拳をぶつけあういつものやり取りをして別れた。
その後、俺は女子テニス部の練習を眺めた。
眺めた、なんてもんじゃない。焼き付けた、と言ったほうが正しい程に凝視した。勉強になった。
「蛭女も、マネージャーじゃなくて女テニの方を作ってくれねえかな」
そんな一言を残して黄猩を去った。
日常は続く。
*
「さて、今日からもう一つ練習を追加する」
月曜日。天さんがこう切り出した。
心配の種の一つである上半身の動きも、だんだんと左向き用の型に慣れてきた頃だった。
「いいですね。もうこんなリハビリみたいな練習にも飽きてきたところです」
ここ最近の技術練習といえば、跪く例のアレと、下から打つ簡易サーブの練習のみ。
戦える球が打てるとは思えない。
基礎体力面では、自転車に乗った蛭女と楽しくおしゃべりしながらのランニングといったところだ。
「そうだろうな。早い球、打ちたいか?」
天さんが当然のことを聞く。
「そりゃあ、まあ。なんだかんだで球技の醍醐味って速球にあると思いますし。
でも、無理ですよ? 完全には慣れることのない左腕で速球なんて……」
天さんも配慮が足りない人間なのだろうか。
「確かにそうだ。速球とはただ筋肉を膨らましただけでは打つことは出来ない。細かいテクニックによる『衝撃と制御の両立』が必要になってくる」
「じゃ無理ですね。ありがとうございました」
「まちなさい。結論を焦るのは良くないぞ。凄嵯乃に欠けている要素は確かに多く大きい。
そして、そんなものが失われてしまった。……だったら相手から借りればいい、そう思わないかね?」
「……質問の意図が読めません。まさか『カウンター』を使え、と言うんですか? アレこそ技術の結晶の様な技ですよ?」
ここでのカウンターは一般に言われているカウンターと全く変わりない。
相手の攻撃の勢いを利用して攻撃をするという意味だ。
相手の球を完全に見切り、パワー、スイングスピード、面の角度、打球の方向、その他もろもろに気を使って、そうしてようやく打てる球、それがカウンターだ。
左腕がヨボヨボな俺に出来る技ではない。
「いや、そこまでは求めていない。壁打ち、という練習はしたことあるか?」
「はい、好きですよ」
壁に向かって打つ、帰ってきた球を打つ、という一人用の練習方法だ。
「では、君には、その壁を再現してもらう」
「つまり、壁の様に面を合わせて、跳ね返せってことですね!?」
「そうだ」
「なるほど! 確かに、中学の時は、県大会レベルのやつが打つ球より、壁から返ってくる俺の球の方がやっかいでした!」
「……そ、そうだな。多少減速して、魂が抜けた死んだ球にはなるが、……それでも相手の格下程度の球にはなるんだよ。
つまり、相手にとっての格下レベルの球が打てるんだ」
「それは、ボクにとっては飛躍的な進化ですね。あと、球を捉える能力と根気には自信があります。なるほど、コレは今のボクに必要で最適な技術ですね」
「でもさ~、そんなんで意味あるの? ですかぁ?」
と、質問するのは蛭女。
ふむ……。
どう簡潔に短く蛭女に教えられるだろうか。そう思って黙っていると、
「ふふ、でも、真っ当な疑問だと思うよ。『相手にとって格下レベルの球が打てる』なんて表現は弱そうに思えるね」
天さんは親切にも、蛭女に答えようとしてくれた。こういうところに人間性が出るのだと思った。
これがコミュニケーション能力というものなのだろう。
蛭女が細かく頷く。
「ただ、格下レベルって言っても、それでも大抵は人間の走る速度より速く飛ぶんだよ」
「あ」
「だから打つ方向によっては、相手は追いつけないんだ」
そう、一口に『壁』と言っても、その『壁』は相手の球に垂直である必要はない。
ちょっと角度をつけて、反射させれば、かなりキツイところに飛んでいく。
自分の力を一切使うことなく。
「ただし」
俺が付け加える。
一見、蛭女に教える様に言うが、同時に天さんへの確認の意味も込めている。
天さんの認識を確かめるために。
「これは、相手のスキを突く技だ。相手のスキを作る技じゃない」
「うん」
天さんが頷く。
蛭女は何か得心がいったのか、ぱっと明るい顔になってこう言った。
「つまり! 相手より威力のある打球で相手を打ち崩すことは出来ないけど、
万が一にも相手が打ち崩れていたら、その壁を使ってトドメを刺せるってこと?」
「り、理解が早い……! さすがだ、蛭女。ご褒美にオリゴ糖をやろう。はい、あ~ん」
「あ~ん。……ん~!」
蛭女がその甘さに目をぎゅっとつむる。可愛い。
「でもさ~、だったら何で、もっと早くこの練習をしなかったの?」
甘さに悶えながら蛭女は呑気に聞いた。
「あはは、そ、それはね……、ホラ、練習の段階があるというか……」
慌てて、天さんが、取り繕うように説明をしようとした。
取り繕うように。
取り繕う。
過失をごまかし、体裁だけを整える。
「それはね」
俺は、そんな天さんを遮って、蛭女に言った。
「天さんが、俺の成長を諦めたからだよ」
天さんに比べてずっとコミュニケーション能力に乏しい俺は、平気でこんなことが言えるのだ。
日常は続く。
*
簡単に言うと、『壁』の練習は驚く程順調に行った。
練習方法としては、天さんが向こうのコートからボールを打ってくる、それを打ち返すだけ。非常にシンプルだ。
注意点は、自分の力を使わないこと、つまりスイングを極力抑えること。
それだけだ。
もちろん、最初から上手くいったワケではない。失敗もあった。
体重の移動について、試行錯誤をした。
たまたま、上に逃がすというコツを掴み、どんどん上達していった。
弾く、という壁の本質を理解した。
次は弾く方法に悩んだりした。
ハエ叩きの要領ではダメだった。
何度か色々ためしてみて、肘と手首の角度を固定し、握る力だけを弱めて、ゆったりとスイングするという型にたどり着いた。
この方法が一番だった。
慣れない左手でも、肘や手首を『固定』することは簡単にできた。
打球コースにも角度がつけることが出来るようになった。
始めは、真正面に打つことしか出来なかったが、打ち方が安定してからは、体の向きなどを調整してトントン拍子で角度をつけることができた。
最終的には約直角まで、自然な反射ぐらいが再現可能になっている。
ここまで三日かかった。
生きた球とは程遠い、この『壁』を修得するのに三日かかった。
これで丁度、テニス選手としての復活から約半月たったことになる。
さて、ここまでは半月近い期間の、日常と練習の様子を描写してきた。しつこいぐらいに。
それなのに、何故ここにきて、急に、ダイジェスト風になったのか、それを説明せねばなるまい。
あのしつこさはどこに消えたのか。
端的に言うならば、それは俺が集中していなかったからだ。
天さんに見放された事実が意外にショックで、集中がキレてしまったのだ。
殴られた後というのは、痛さで頭が満たされて、目の前の物事に集中がしにくい。
逆に痛みで目が覚めるということもあるが、そんなことは稀だ。
少なくとも俺には怒らなかった。
俺の集中は削がれていた。
では、俺にとって何がそんなに不満だったのだろうか。
この練習をすることのどこが見捨てられたということなのか。
この『壁』は、いわば、アイドルの行う口パクのようなものなのだ。
自分の力ではない。しかし、その場その場では何とかなってしまうかもしれない。
確実に実力はつかない。
それに頼ってしまう。
成長が止まる。
こんな『壁』をマスターして、慣れてしまって、依存してしまっては、確実に成長は止まる。
もちろん、成長が止まる、なんてのは極端な例だ。
しかし、天さんは、この極端な例を俺にさせようとしている。
天さんは自分たちが勝ち上がるために、それを俺にさせようとしている。
さっき、蛭女が『壁』について、『打ち崩すことができない』と認識していたが、どうやら天さんは、角度やコース、タイミングを巧みに利用させることによって打ち崩すことまで『壁』でさせようとしている。
俺に『壁』を駆使させようとしている。
自分たちが、少しでも勝ち上がるために。
仕方がないのかもしれない。
このままでは夏まで、マトモな球は打てないと判断したのだろう。
だったらいっそ、成長が止まるという副作用を持つ『壁』を完璧にマスターさせ、少しでも早急な安い戦力として使い捨て用としているのだ。
天さんに見限られたのだ。その上、この仕打ちだ。
全体的にうわの空になっていても仕方がないだろう。
「よし、だいぶ綺麗に返せるな」
そんな天さんの声も耳から耳へと抜けていく。
だが、いつまでも腐ってはいられない。
日常は続く。
時間は進む。
明日は来る。
何も答が出ていなくとも、待ってはくれない。
そいつは、やってきた。
黒いおもちゃの様な車。
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、!」
その中から響く、笑い声。この迫力は……。
奴しかいない。
すぐに俺は理解した。
「くっ! この、ロールス・ロイスは……!」
少し遅れて天さんが、顔をしかめて、その車に反応した。
俺は自動車に詳しくないから、コレが何なのかわからないが、ロールス・ロイスという名前は聞いたことがある。
この天さんの様子は恐らく理解している。
「ウオ! いつの間に!?」
「バカな! 敷地内だぞ!?」
「くぅ~! こ、このぉ! ロオオオルス・ロイスはああぁ!」
さらに遅れて邪先輩、次二郎、蛭女の順でリアクションした。
コイツらは多分、全く理解できていない。
だが、こんな理解の早さなどまるで意味がない。
今から現れる男はそれほどまでに大きい存在だ。
かつて最強と評されていた俺と同等以上の実力を持っていた男。
高校テニス関係者がこぞって最も注目していた男。
「やあ、王くん」
という声の主とは別に、初老の紳士が運転席から慎ましく出る。
スムーズな動きで後部座席側の扉に近づき、無駄のない動きでレッドカーペットを敷いた。
そんなカーペットを踏みにじり、先ほどの声の主が、あの男が出てくる。
「会いに来たよ」
来てしまった。とうとうこの時が来てしまった。
高い身長と筋肉質でありながらの痩せた体型に、清く正しい印象を持たせる整った顔立ち。
恵まれた家柄に似合った、恵まれた身体と心がそこにある。
捻くれて復活した卑しい俺のラスボスにふさわしい男。
“神”五宮愛仁のおでましだ。
「さあ! 戦おう!」
その日は突然やってくる。