何が恥ずかしいかと尋ねられたら
ああ、恥ずかしい。
何が恥ずかしいかと尋ねられたら、それは全てであると答えよう。何事においても、何をするにしても恥ずかしい。好きなスポーツをするのさえ恥ずかしい。絵を描くことさえ恥辱に当たる。気にしすぎだと、言われればそう、気にしすぎなのだが、この世に存在する全てが私を恥辱するものとしてしか視られない。
何が恥ずかしいかと尋ねたら、それは一つと答えよう。その一つは私自身、この世に生まれた「私」という、一番身近で一番理解し難い、この存在こそが恥ずかしい。何もかもが、感じる何もかもが周りの人様と違う。こんなにも落ちぶれている私という存在を、一番身近に置いている私は、一体どんなにも恥辱の的であるのだろうか。
何が恥ずかしいかと尋ねられたら、それはわからぬと答えよう。結局全てが言い訳で。現実という名の化物をいつかは自分の手でどうにかしなければいけないものを、触らず、うつむきながら横切っているのだ。悲しいかな、私は何も恥ずかしくない。何の欠点もない人間なのに、最もらしいことを言ってただ逃げていたのだ。
何が恥ずかしいかと尋ねられたら、あなたはなんと言うだろう。その自信に満ちた少し薄い色をした瞳は、向き合う私の馬鹿らしい質問に答えるのだろうか。はたまた「なんですか、いきなり」と、笑いながら言うのだろうか。汚れていないあなたは、「この世の全ては美しい」とおっしゃってあなたの周りを輝かせます。その光に私はまたその自信の無さから恥辱を受けると同時に、なんともいえぬ謝辞の気持ちが溢れました。
何が恥ずかしいかと尋ねられたら、あなたといることと答えよう。あなたは「なんでですか」と笑ってくれるだろう。そんなあなたを見て受ける恥辱なら、私は容易に受け入れられる。生きることは辛くない、あなたといればそれは快感にも似た喜びだ。あなたにこんな話をするのはとても恥ずかしい。
ああ、恥ずかしい。
「自信」という字は、自らを信じると書きますが、私のような自分の事しか考えれないような人間でも、自信なんて持ったことがありません。生まれて一度もありません。自分自身にコンプレックスがあったりするとなかなか自信なんてものは持ちにい大きな荷物なのです。それならば信用できる人を見つければいい。自信という、大きな荷物を一緒に持ってくれる人を見つければいいのです。「自らを信じる」というのは立派な自信ですが、「自らが信じる」ものや人を持てた人もまた、自身を持った人と、言えるのではないでしょうか。