二日目(3):感傷と独白
「この山って、幽霊の噂があるからあんまり人が来ないんだよね。だから、逆に格好の遊び場所だったんだ。公園より人が少ないし、頂上からの眺めは綺麗だし」
「だから、俺と梨恵はよくここに来て遊んでいた。そうしたらある日、ここに浩哉が一人でポツーン、って立っていたんだ」
梨恵の後を引き継いで京介が言った。
「でも、こいつビビッて逃げやがってさ。でも、すぐにこけたけどな……たしか、小学校に入る前だったな」
くはは、と京介は笑った。
――ったく、笑うな。恥ずかしくて顔が熱くなるじゃねぇか。
顔の熱い幽霊なんて気持悪いが。
「で、気づいたら仲良くなっていたわけ。それ以降、いつも三人一緒さ」
思い出したらきりが無い思い出。色褪せず、無くならない。そう、それは幽霊になっても変わらなかった。体は無くても、心はあるってことか。
「でも、浩哉っていつもドンくさくってさぁ――ねぇ怜音、聞いてよ。浩哉のやつ、高二にもなってまだ泳げないんだよ。一ヶ月前にみんなでキャンプに行ったときね、浩哉ったら川に溺れちゃったのよ」
梨恵が喜色満面の笑みを浮かべた。
傍から見ると非常に可愛いのだが、人の恥を本人がいる前(中身は白丸だが)で平気で晒す彼女が悪魔に見えてきた。
「夏休みの終わりに、みんなで河原の近くにキャンプに行ったんだよ――」
京介が梨恵の後を引き継ぐ。この会話のスタイルは小学校の時から変化していない。梨恵の説明不足の点を京介がいつも補っているのだ。
「浩哉が溺れた時はマジで焦ったよ。あっという間に流されちまって……浅瀬で見つけたときには、ホント胸を撫で下ろしたさ」
「まぁ、それが浩哉らしいけどね」
あはは、と笑って梨恵がそう締めくくった。
「そうなの……」
怜音は小さく頷いた。
まるでこの場所だけ、優しくて温かいものに包まれているようだった。それは微笑ましい思い出。みんなの笑顔。
眼下には暗闇に沈んだ夜の町。水底のようにも見えるそれは、月や星の明かりを反射して、ぼくたちのいる場所を照らしている。微笑みのような光。
ぼくらはしばらくの間、この風景を眺めていた。彼らと出会った時と変わらない、そしてこれからも変わることのないこの風景を。今も変わらぬ友情を誓った友人たちと共に――。
街灯の白い光が怜音と白丸を照らし、影がすぅと伸びる。怜音の髪を揺らす冷たい風が、季節がもうすっかり秋になったことを告げていた。
「ねぇ――」
怜音は不意にぼくの方を見た。ぼくはさっとあたりを見回した。京介と梨恵とはもう別れたので、これはぼくに話しかけているのだろう。
『なんだ?』
「仲、良いのね」
ぼくと京介と梨恵のことか。
『そうだな。小学校の時からずっと一緒だったから。……腐れ縁ってやつだ』
幼い頃を思い返す。止め処なく溢れ出る思い出を手のひらで掬う。それらは昔と変わらず、今も輝いていた。
『ぼくってさ、保育園のとき友達が一人もいなかったんだ。だから、あいつらと仲良くなれた時、すごく嬉しかった。ぼくの――初めてできた友達だからな』
半ば独白だった。
鮮明に残っている記憶。本当に大切なものは朽ちることはないと、納得できる瞬間。
だが、ぼくの思考は急速に現実に引き戻された。今までふわふわと宇宙空間を漂っていたのに、突如現れたブラックホールに吸い込まれたような気分。酔いが覚めた心地。
他ならぬ、怜音のその表情によって。
『怜音――』
普段は澄んだ琥珀色の目が、今は深海のように暗澹としている。美しい銀色の髪には、影が差しているようだった。
『どうしたんだよ、怜音』
返事は無い。沈黙を保ちながら、機械のように家に向けて歩を進めている。黒丸も白丸も、何も言わない。ぼくは沈黙に押し潰されそうだった。耐え切れない。
『れ――』
「すっかり遅くなっちゃったわ」
ふと、怜音はそう言った。何の感慨も無く。冷淡で平坦な怜音の口調。
「修行の遅れた分は、きっちり取り戻すわよ。浩哉、覚悟はいいかしら?」
ぼくが文句を言えるはずもなかった。
それにしても、怜音のあの表情は何だったのだろう。黒丸と白丸も、様子が変だった。いつからだろうか。ぼくは、彼女らの気分を害してしまったのだろうか。
考え事は尽きず、修行にもあまり身が入らなかった。怜音の罵詈雑言も、半ば夢見心地で聞き流した。
しばらくして、怜音が深いため息をついた。
「駄目ね」
副音声で「死ね」と聞こえたような気がした。
「五分間、休憩を取るわ。その間に頭を冷やしといて頂戴」
氷水を思わせるような言葉を放つと、怜音はすたすたと歩いて空き地から姿を消した。
静寂が舞い降りた。
白丸はとっくに寝ており(「この世の人間の体は不便ですね。きっちり睡眠を取らないと、疲れが取れません」)、黒丸はさっきから所在無さげにふらふらと、波に揺れる海草のように漂っていた。
修行が始まってから数時間。マンションの陰に隠れたこの空き地には、月明かりさえも満足に入ってこない。道にある小さな街灯の光が唯一、この闇を緩和しているように思えた。さながら小さな灯台のように。
『いま何時だ?』
時間がさっぱり分からなかったので、ぼくは黒丸に聞いた。
『……もうすぐ三時だな』気の無い返事。
『怜音のやつ、遅くないか?』
怜音が去ってから、既に五分以上経っていた。
黒丸はやはり気の無い感じで、『心配なら探しに行きゃいいじゃねぇか』と言った。
――たしかに、少し心配だった。
暗闇の中に沈んだような怜音の表情。それを思い出すたびに、ぼくの心のどこかで誰かが警鐘を打つのだ。『何をやっているんだ、急げ!』と。まるで、怜音がぼくの前からいなくなってしまうような気がした。根拠は、まるで無いけど。
『……そうだな』
心臓の鼓動は、知らぬ間に速くなっていた。